
*2009年1月に、対象地域・時代の時代区分、地域区分に関する記載を修正したので、こちrは前の版となります。自分の考えがどのように変わって行くのかを記録する為の保存。
はじめに - 2000年8月
こんにちは。 2000年の5月か6月頃に 「星の王子様」 の作者として有名な サンテク ジュペリに因んだ番組がNHKで放映されました。彼の生地の仏リヨンからモロッコの南部の町まで 彼がプロペラ機で飛んだ航路を、 同じようにプロペラ機 で飛びながら、 途中通過する町々を 空中から眺める、というものです。中世の街並みが残る アヴィニヨン、 古代ローマ水道遺跡 ポンデュガール、 スペインの古城、 モロッコの町々・・・・ そこに展開していた眺望は、 「唯のよい眺め」ではなく 普段我々が地上から眺めている世界とは まったく別の世界が展開していました。
「なんと整然とした、この美しい世界」
サンテグジュペリはそう形容していたそうです。 この映像を見たとき、直ちに 私は 古 代ローマの地中海を、漢代の中国を、 ビザンツ時代の黒海沿岸を この様に飛べたら、 飛べ無くても映像でもいいから この視点で眺めることが出来たら どんなにか素晴らしいことだろう・・・・ と思いました。
過去でなくてもよいから、現代の遺跡をこの様に訪れることが出来たなら・・・・・
最近のコンピュータグラフィクスの進歩は やがて何十年か後には、こうした映像を もたらして くれるかもしれない、と期待しています。今はまだ、それは夢の段階に過ぎませんが、 そうした夢を描きつつ 取りあえず地上か ら 当時の世界 ローマとイランと中国が 古代の一つのピークと安定にあった 時代、 おだやかな夏の日の午後の様な時代、 それともう一つ 強い風がふ ぶく闇夜のようなビザンツ世界 この二つの世界の風景に 少しでも近づく為の材料を収集・提供したい、 ということがこのページ作成の目的の一つで す。
このページには遺跡訪問記録が幾つかあります。 遺跡訪問の何処に魅力を感じるかは人 それぞれだと想いますが、 私個人としては遺跡そのものにあるのではなく、 多くの場合 遺跡のある場所そのものにあります。
もっと言うと 遺跡で出会う風なのです。 遺跡で風を感じながら、 当時の人々もこの風 を味わっていたのだろとうか、 と思い、 旅から戻り、 ある日の夕方 ふと街頭で首筋をなでた風に 遺跡で嗅いだ風の香りを想い出したり、 夜、 部屋に窓から吹き入ってきた しっとりとした風に 1000年前の夜に 南ロシアを越えて黒海からコンスタンティノープルの宮殿のバルコニーに吹きつけていた風の肌触りを感じたりする、
そうして風とともに様々な記憶やイメージが呼び起こされるのです。 風には様々な種類があると思 うのです。 エスキモーには「雪」という言葉が28種あるとかいう話を どこかで聞いたことがあります。 風も同じだと思うのです。 でも残念ながら私はボキャブラリが乏しい為にうまい形容ができなく、 「あ、これはカルタゴの風だ」とか「アランヤにエーゲ海から吹きつけてた風だ」 ということになってしまうのですが、 古代世界やビザンツ世界の風 を、その時代の風景を、 その時代の人々が何を見、考えていたかに 少しでも近づきたいと 考えています。
はじめに - 2008年7月
私の両親が子供の頃は、戦争中でした。両親の青春時代は、日本は高度経済成長時代にあって熱気・活気に溢れていた時代でした。しかし、日本人は海外に自由に渡航することはできませんでした。小学生の時に、「第2次世界大戦が終了し世界は国連のもと平和になった」と教えられ、局地的に残っていた”最後の戦争”ベトナム戦争も終結し、これで本当に平和になったと思ったものですが、それゆえ79年に起こったイラン革命には衝撃を受けました。一方、両親の若い頃から、私が高校生の時までは、世界は冷戦の只中にあり、1983年、樺太沖で突然消息を絶った民間の大韓航空機がソ連に撃墜されたのではないか、との報道がなされた日から、真相が判明するまでの重い空気に包まれた数日間の不安は今でも忘れられません。結局国連とは第3世界の出先機関のようなもので、世界は遠く、鉄のカーテンの向こうは、別の惑星の世界のように感じられていました。当時日本は既に先進国であり、自由でモノに溢れていましたが、私にとっては閉塞感のある息の詰まるような印象のある時代です。だから、1985年のゴルバチョフの登場は、私にとっては希望を与える出来事だったし、同じ認識を持った人も多かったものと思います。
人生で一番印象に残っていることとは実は、自分の事ではなく、ベルリンの壁の崩壊とドイツ統合の日です。今の若い方たちには想像することは難しいかも知れませんが、私が学生の頃は、自分が生きているうちに、東西ドイツが統合する日が来るなどとは、思いもよらないことでした。冷戦が終結した1990年代前半は、世界は瑞々しさに溢れ、明るい希望が満ちているように思えました。確か、1996年のエコノミスト誌の年頭レポートだったかと思うのですが、「1996年は、局地的紛争はあるものの、世界は概ね平和で成長の1年となるだろう」との予想を読み、冷戦後の混乱もだいたい落ち着き、今後の世界は平和と共存の時代に入ったと考えてもよいのだ、と思ったものです。このサイトを最初に作成したのは2000年頃のことだったのですが、当初は、米国一極集中が進む中での、今後の世界構築の枠組みを模索することがテーマであったように思えます。この背景には、私の中で1994-98年の間に眼にした多くのローマ遺跡に対する衝撃と、ブルガリアで目にした、急速なロシアの影響の後退と米国の浸透というものがあったように思えます。結局世界はローマと、その継承者である米国に敵わないのか、中国は対抗勢力でありうるのか。冷戦後に表面に出てきた各文明圏と米国支配という2つの方向の先に、どのような世界が考えうるのか。古代世界の枠組みは、現代の基層なのか。現在までも持続力を持ち将来にも影響を及ぼすのか、古代世界とはどのような世界だったのか。今後世界はどのようになるのか。このような動機と関心のもとに、このサイトを通じて古代世界の情報を集めてきました。
今年正月に、これも記憶があやふやなのですが、「資源や金融という問題はあるものの、世界は概ね平和と成長の年となるだろう」と、1996年と同じようなコメントを何かで読み、9.11により大きく霍乱された世界の方向性も、再び主流となる軌道に戻ったのかも知れない、との印象を持ちました。ローマ、イラン、インド、中国という古代世界の枠組みは、欧米、中東イスラーム世界、インド、中国という枠組みに収斂しつつあるように思えます。ロシアは、やがてウラルの西に後退する時がくるかもしれません。既に「ロシア人」はウラルの西に後退していて、ウラルの東の領土の本質は、資源確保のための勢力圏という、16、17世紀の進出当初の状況に戻りつつあると考えた方が良いように思えます。ロシアが統制力を弱めたら、たちどころに中国人が進出し、ウラルの東はアジアに戻ってゆくのではないかと思うのです。イスラム圏の中のトルコのように、ロシアの存在感もいづれは欧米圏の中のローカルな大国に回帰してゆくようにも思えます。既にそのような状況となる枠組みとなってきているという話を聞きました。サハリン2の開発は、ロシア人は組織のトップだけ。あとは全員欧日の技術者とフィリピン人労働者という、植民地開発のような状況とのことです。そもそも、ロシアが本当に東部を発展させたいのであれば、日本海を挟んで日本、中国、韓国の間にあるウラジオストックは、地理的な好条件から、とっくに地域のハブとして、巨大都市へと発展していてもおかしくないのではないかと思うのです。まぁ、この地域の真ん中に北朝鮮というネガティブ要素があることも理由のひとつかも知れません。ちなみに、サハリン2の法人登記はバミューダとのこと。最近は、EU内では、ルクセンブルクやスイス、リヒテンシュタインなど、タックスヘイブンへの規制が厳しくなってきている一方で、規制の及ばない地域への流動が増加しているようです。国内問題は、自由世界においてはメディアがチェックできますが、これからの時代は、国内改革をしても、結局国内法規が届かない、国外を利用したルール逃れに移行が従来以上に増加するのでしょう。いづれは国際法規が世界法として整備される日が来るのかも知れませんが、何事も*先行者利益*は、世の中が変化してゆき、法律が追いつかない時に得られる仕組みです。これもグローバリゼーションのひとつの側面なのでしょう。
中東イスラーム圏は、分裂させておいた方が米国の利益になることから、中小地域領主が個別にローマと結びついた後期パルティア時代よろしく、石油が主流資源である限り、サウジアラビアは温存され、親米国と反米国に分断され、トルコ、アラブ、イランの3勢力は統合されないまま、続くのではないかと思います。サーサーン朝による大統一のようなことは、私が生きているうちは妄想でしかありえないのでしょう。
古代世界の旅でわかったことは、地域の文化や社会体質は、コーラとジーンズとハリウッド映画が行き渡っても容易には変わらないのだ、ということです。民主主義が、制度と意識の面で、全地域に行き渡っても、ロシアや中国の強権体質は変わらないだろうし、インドからカーストを除去するのも難しいことです。アフリカ圏については、殆ど知識が無いのですが、野蛮で遅れているのではなく、ビッグマン体質は社会の体質であり、一握りの連中が、多くの民衆を犠牲にする体質は変わらないと思うのです。このような地域的枠組みを残しながら、インターネットのもたらすグローバリゼーションは、各地域にある程度の共通階層を作り上げ、今後は、グローバルに取り込まれた社会層と、ローカルな社会層に別れ、いづれの社会も多かれ少なかれ多元的になってゆくように思えます。
こんな中、日本はどのような方向に向かっているのでしょうか。20世紀の日本は、14-16世紀同様、東南アジアに進出した、外に目を向けた時代だったと思います。17-19世紀の江戸時代、鎖国という人為的な抑圧が無ければ、持続的に続いた現象となっていたかも知れません。最近の日本で気になるのは、このような数世紀間続いたエネルギーが底をついてしまったのか、内向き志向になりつつあるように思えます。先週日経か読売に掲載されていた世論調査では、「日本に観光に来る外国人は増えない方が良い」と考える人が実に53%もいる、との記事がありました。私の身近な周囲を見ても、最近では、海外に関心の薄い人の方が圧倒的です。なんとなく20世紀中頃の英国を見るような、「穏やかな引退」という印象があります。お年寄りの比率が増え、高度な社会インフラが整い、贅沢しなければ、便利で快適な生活ができるというのでは、無理もないかも、という気もしますが、出ようとしてもなかなか出られなかった冷戦時代以前を知る者としては、残念な気がします。他国に活路を求める活力ある社会とは、裏を返せば、人口過剰で職が無く、退路なく海外に活路を求めるということでもあるので、今の日本は長い午後に入ったということなのかも知れません。
1.このサイトの概要
2. 対象地域・時代の地域区分・時代区分について
3. このページの歴史に対する方法論について
4. 情報の編集と掲載の方針
5. お願い
6. このサイトの作者*このページの大半は、NetScape7.1Communicatorを利用、2008年3月以降の記事は、Yahoo Geocitiesのhtml作成ソフトを利用しており、動作確認はFirefox v2を利用しています。解像度1280*1024に合わせています。
1.このサイトの概要
古代オリエント博物館発行情報誌「ORIENTE」第9号の「ローマン遺跡発掘かけ足体験 記」(足立恵子氏記)は、イギリスで行われた ローマ遺跡発掘の短期サマーセミナー参加体験記ですが、その第1日目の他の参加者紹介のところで、ルーマニアから来た考古学者が
「 「私はルーマニアから列車に乗って、ロンドンまでローマ人が北上した足跡を辿ってきた んだ」とうれしそうに話していた。」
という記述が出てきます。 一言で言ってしまうと、このページは この感覚に共感を抱く人 を対象とするページだと言えます。
当時の人々が見た景観と視線を少しでも掘り起こしたい、追体験したい、そうしたアプローチをとって いる人にはこのページはお役に立てるかもしれません。詳しくは3.のこ のページの歴史に対する方法論について を参照して欲しいのですが、古代地中海世界、パルティア・ササン朝イラン、漢王朝、ビザンツ世界など 当 時の人々の視線や世界意識、彼らを取り巻いていた景観を少しでも味わう為の情報を収集したり、または他の情報リソースへのアクセスの為のポータルとなるこ とを目的としております。 このページの目的は以下の3点に集約されます。
1. 対象とする時代の人々の視線・世界意識、また周囲の 景観に興味がある方のための 情報のポータル(入り口)サイトとしての機能
2. ポータルサイトとして機能する為の情報収集と交換 - 情 報をおもちの方からの情報提供の勧誘が目的です。
具体的には映画や小説、遺跡情報、遺跡旅行情報の収集を目 的としています。
3. 実際に遺跡などを訪れてみたい方のための遺跡旅行情報の提 供
旅行や遺跡に関する情報や写真が色々と載せてあるのは、当時の著作物や歴史書、小説などを 読む場合のイメージを膨らませる助けとする為であり、かつ 遺跡とアクセス方法の情報交換をしたいからです。 遺跡への行き方、また価値観は人によってさ まざまですが、 大量の遺跡があり全部に行く必要はないので、訪問先を選択するには遺跡の情報が必要です。 また、日本社会で生活しつつ休暇の旅行で効率良くまわるには、 遺跡へのアクセスの仕方の情報は重要です。
映画・テレビ番組・小説・音楽についても、当時の世界を復刻したい、当時の人々の目には世 界はどんな風に映っていたのだろうか、 当時の人々はどんな風に実際暮していたのだろうか、何を考えていたのだろうか、 ということを例え擬似的であれ味合わせてくれるものだと思います。 それらの紹介をすると同時に 情報収集をしたいのです。
私がこうしたことを考える切っ掛けとなったのはマルグリット=ユルスナールの 「ハドリアヌス帝の回想」 を読んでからなのですが、 その時思ったことは、 例えばの話、 「アルシャック王ミトラダート(パルティア王ミトラダーテス2世)の夢」 とか 「班超自伝」 とか 当時の人間に一人称で語らせる様なも のが、ないだろうか、 ということでした。実際はこれらの小説は存在しませんが、 調べてみると、 「小プリニウス書簡集」 「プ リニウス博物誌」 「ストラボン世界地志」 「ルキアノス著作集」、 後漢 王充 「論衡」など当時の人々の世界観を垣間見せてくれる著作物があることがわかってきました。
古代の著作については、新しい写本が発見されたり、 発掘されない限り難しいと思いますが、 小説や映画ならば 各国のものが集められるのではないか、 と考えています。実際、 加藤九作氏「中央アジア歴史群像」(岩波書店)にはウズベキスタンで書かれた、 アレクサンダーの侵攻に歯向かったソグドの英雄を扱った、 「スピタメネス」という小説の話が出てきますし、同国にはイブンシーナの青年時代を扱った「若き日の偉人」という映画もあります。
情報さえ手に入れば入手する機会もあるかもしれません。 入手しさえすれば、大抵の国の言葉の英語への翻訳ソフトはある筈ですので、英語に翻訳し、 更に日本語に翻訳して読むことは可能かもしれません。例えば、これは私の空想ですが、 理想は、 スペインで作られたローマ時代の市井の人々の映画を見て、 ギリシャで作られたヴァシレイオス2世の伝記映画を見て、 チュニジアで書かれた若き日のセプティミウス=セウェルスの小説を読む。。。。
対象としている時代は紀元前2世紀から紀元7世紀の地中海・イラン・中華世界とビザンツ 世界です。
私は研究者ではないので、このサイトは古代ローマや中国等の一般的な研究目的ではなく、 かなり絞り込んだ内容についての情報収集と交換に役立てればいいと考えています。
研究については 他に優れたページが沢山りますし、URL一覧や書籍一覧は他のサイトで充実して いますので、 それらのリンク集を持つサイトを紹介するにとどめます。
我々は今、稀有の時代に生きていると思います。
私が高校生の頃までは、米ソ冷戦時代であり、共産主義陣営内の閉鎖性、レバノン内戦、中東戦争、 イラン・イラク戦争、カンボジア内戦などの為、 ユーラシア大陸の遺跡で行けない場所が殆どでした。 私が中学生の頃までは海外旅行も自由化されてはいなかった様に記憶しています。
私の親の世代の若い頃は戦争後の復興期で、海外旅行などは夢の夢でした。
今米ソ冷戦が終わり、変わって地域紛争が増えつつありますが、それでも 自由に旅行が出来、行き たいところへゆける様になってきています。
また良し悪しは別として日本の経済力のおかげで先進国以外を旅行する場合のコストは非常に安く済み ます。 日本人に無いのは時間だけです。
サラリーマンはなかなか難しいものがあります。私は会社を辞める必要がありました。これらの世界 を見るために。
しかし学生は違うでしょうし、若いうちなら転職してもキャリアにそう傷はつかない(今後ますます そうなると思います)ことが多いと思います。
せめて半年時間がとれれば、ユーラシア世界を巡ることが可能だと思います。また、行くことが困難な地域であっても、インターネットで情報が収集できるようになりました。翻訳ソフトもネット上で無料で利用できるようになってきており、少し語学力があれば、得られる情報は飛躍的に増大します。
いつまで続くか分からない、 この稀有の時代に生きてい る幸運を生かしましょう。
2.対象地域・時代の地域区分・時代区分について
対象としている時代はTOPページにもあります様に以下の2つの地域・社会です。。
・紀元前8世紀から紀元7世紀くらいの地中海世界・イラン世界・中華世界
・紀元7世紀から12世紀のビザンツ世界
時代区分のきり方には皆様それぞれ異論があるかと思いますが、長期的におおむね安 定した社会、及び共有する社会観・世界観、時空間的な社会的同質性を軸に、 ここでは以下の観点から対象地域・時代を区切っています。
( 1 ) 古代地中海世界
古代地中海世界は遡れば紀元前7,8世紀からギリシャ人フェニキア人の進出で成立したも のと考えますが、明確に地中海世界に「一つの世界」との 認識を与えたのはローマであると考えています。ローマがカルタゴを破り、東方に進出を始めた紀元 前2世紀前半が 地中海世界が社会的に、 また、その世界の住民の空間意識的な統合に入ってゆく時代だと考えます。
では古代地中海世界の終了をいつに置くかですが、 7世紀に置いた理由は やはり「社会 の変質」です。 古代地中海世界社会の一つの特質は 山や丘の麓にあり、山や丘から水が供給される都市生活にあると思います。 軍隊は都市とは離れた別の 場所に常駐し、 基本的に都市は要塞の役目を持たず、 そこでは浴場・劇場等の公共施設が普及し 古代ギリシャの学芸を「古典」として 議論や話題の種に していた時代です。
このスタイルが完全に消滅するにあたっては ゲルマンの進出やキリスト教の普及は 一要因では あっても 決定的ではない様に考えます。 ゴート人治下のイタリアやスペインでは ローマの官僚システムにゴート人がついただけだったり、 ローマ人と ゴート人の結婚は ゴート人定住後 百年以上の長期にわたり禁じられていたりし、原住民はローマの法律と言語を用いてそのまま生活していたし、政治的支配 がそのまま社会や 「ローマ世界に住んでいる」という住民の意識や生活スタイルを変えてしまったわけでは無い様に思います。 ゲルマン人支配初期は「二重 支配」の時代であり それまでの地中海社会(もはや古代ローマ社会と言い換えてもよいと思いますが)は存続していたものと考えます。これらの観点から、地中海世界西方では ゲルマン人侵入後 除々に「地中海社会」は消滅 していったのであり、その明確な時期を指摘することは困難ですが、少なくとも5世紀ではなく、早くて6世紀以降に段階を経て 「古代地中海社会」 は消滅 に向かっていったものと考えます。 問題は 住んでいる住民の意識の変質や景観にある、とここでは考えるのです。
では東部についてですが、バルカン半島の「古代地中海社会」の消滅はスラブ人の移住によ りもたらされた様です。 都市は放棄され、 進入したスラブ人はローマ人が放棄した都市には住まず、 近くに集落を作って住んでしまう。 最早住んでいる 住民の意識にも景観にも 「古代地中海社会」は存在していません。 バルカン半島については6世紀中には「古代地中海世界」は消滅したものと思います。
最後に中近東とアフリカですが、これはイスラムの進出で終わります。 イスラムの進出は7 世紀なので、 これらを総合して古代地中海世界の終わりを7世紀に置いています。
( 2 ) イラン世 界
イラン世界の成立をアケメネス朝ペルシャに求めない理由は、アケメネス朝の時代が後世 の古典となった時代ではないと考えるからです。 近代以前のイラン人の主観的歴史観では、アケメネス朝は神話の時代に属し、アレクサンダー以降歴史時代に 入っています。 イラン人にとっての古典世界はササン朝だと思うのですが、実はササン朝に成立したとされる多くのものは、前代のパルティア時代に負ってい る、 あるいはパルティア時代に発生の起源を持っているものが多い様なのです。 ササン朝正当化の為にパルティアを否定することに努めたササン朝の政策 の為に イランの古典世界はササン朝時代に成立したとされる様になってしまいましたが、 実際にはパルティア時代からの社会的発展をササン朝は引き継ぎ、 (ササン朝はアケメネス朝の復興を口にしていた様ですが、実態は) 更に踏み固め、発展させたものだと考えられるのです。
パルティアはイラン系であるにも関わらず、 最初ヘレニズム文化の担い手としてセレウコ ス朝と同じようにイラン人にはみなされましたが、 やがてイランに同化してゆくのです。 古代のイラン圏と呼べる地域・時代は非常に広範囲で、南ロシア から東トルキスタンの中国国境近くまで、紀元前千年紀前半には広がっていたものと考えられるので、 当ページでは 領域的には大イラン圏 が対象です。
時代的には イラン世界の中心であるイランに関しては、パルティアがイランの覇権を握った 紀元前2世紀中からイスラムによりササン朝が滅亡する時代までの、 パルティアとササン朝により おおむね統一され安定している時代・社会を一つの完結し た世界だと考えています。
イラン以外のイラン圏(南ロシア、東西トルキスタン)は6世紀の突厥の進出以降トルコ人の時 代・地域となる為、終わりは 6世紀〜7世紀に置いています。 上限はパルティア-漢の交流が始まった時代以降でないと資料があまりない、ということもあ りますが、他の地域に準じて紀元前2世紀においています。
( 3 ) 中華世 界上限は漢民族の文物が大成された漢時代です。 「中華世界」が漢民族だけの世界を越えて ユニヴァーサルなものになる武帝以降の時代以降が本当の意味での 中華世界の成立だと思うのですが、一応秦の統一以降を対象とします。 下限をどこに置く のかは明確ではありません。 社会的変質を重視するなら、後漢末期から魏晋にかけての変質があったと思うし、政治的というのであれば、 西晋の滅亡が区切 りがよいと思えます。 また民族的には 五胡の進入による漢民族の変化も重要な要因だと思います。 あまり知識も無いのでそれほど強い根拠ではありませ んが、 取りあえず589年の陳の滅亡を下限と考えることにします。 理由は、政治的には禅譲・或いはクーデターによる王朝・政権交替は国家や社会の連続 性とはあまり関係が無いので、漢の成立から南朝陳までは一つの国家の連続と考えます。 当然地中海世界とイラン世界の時代区分も意識しています。
また漢民族は4−5世紀の五胡進入後民族的に北方の影響を受けて言語・習俗的に変質して いると考えられ、その意味で南朝がどこまで 漢代社会の漢民族との同質性を保っているかはわかりませんので、ひょっとしたら5世紀くらいを境目においても いいのかも知れませんが、取りあえず陳滅亡までを古代中華世界の存続と考えます。 南朝でおおくの後漢書が書かれたことも「意識」として古代中華世界にコ ミットしていることをうかがわせてくれます。
中国史の場合、建築遺構が残っていないのと、漢字の性質上あまり音韻の変化が追えない部分 がある様で、古代中華世界を特徴づける要素が地中海世界に比べて少ないのが残念です。 都市のプランニングなどと見ていると北魏洛陽城などは明らかに従来 の設計プランとは異なり、 北朝は既に「別の社会」である一つの検討要素として扱って良いのではないかと思うのですが、これらも含め南朝に関しては今後調 べて行こうと考えています(一番興味があるのは後漢時代なのですが。。。)。 (そもそも漢->魏への単なる政権交替と、前漢->後漢や元- >明の国家の滅亡とが同系列で「後漢の滅亡」、 「元滅亡」 などと扱われていることに納得できない)。
色々ごちゃごちゃと書いて来ましたが、もう少し広い目で見れば、古代地中海、イラン、中 華世界はゲルマン、スラブ、イスラムとトルコ、北方民族系による復興した中国の時代の訪れで幕を下ろしたことになり、 それはおおむね6世紀から7世紀に かけてのことであった、 というだけのことかも知れません。
( 4 ) イ ンド世界
インド世界は扱う予定は今のところありません。 あまり興味もないし。 政治的に分裂し ていることも多分興味を引かない理由かもしれませんが、 住んでいる住民が「インド」という統一した世界を意識している、そうした社会だったことがわかれ ば興味を持つかもしれませんが。。。。
*遅くとも前3世紀には、インドをひとつの世界として認識するようになり、「バーラタ・ヴァルシャ、またはジャンブドヴィーバ(閻浮提)と呼び、ヒマラヤから大洋までを「転輪聖王の国土」とと呼ぶようになったとか。インド世界も加えることにしました(2009/09、出典「悠久のインド<ビジュアル版世界の歴史4>講談社 p28)
( 5 ) ビザ ンツ世界
社会的に考えると古代地中海世界とビザンツ世界は明らかに断絶がある様に思えます。 政 治的にはローマ帝国の続きであり、 住んでいる住民も「ローマ人」と考えていたとしても、 生活習慣、都市の形態、言語、建築等様様の面で断絶があると考 えるからです。 イスラムの進出により、アナトリアの都市は古代地中海都市であることの停止を強要され、 都市は要塞化し、 或いは平地から背後の山や 丘へ退避し (古代のポリスから中世のカストロンへの移行)、 キリスト教時代になっても続いていた浴場や劇場も見られなくなり、 ギリシャ語が公用語と なり、 皇帝は「バシリウス」というギリシャ語の呼称を持つ様になります。
バルカン半島はペロポネソス半島にまでスラブ人が進出し、イスラム勢力はアナトリア深く進入 し、 7世紀後半帝国は極度の政治的分裂に直面し、経済的政治的に大きく変換したこの時期を 井上浩一氏は「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝 国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。 そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する」 (新潮社世 界の歴史11「ビザンツとスラブ」 P60)
と言ってます。ビザンツ世界の終了を15世紀でなく14世紀とTOPページに書いたのはあまり意 味が無く、帝国の滅亡は15世紀だけど、 最早15世紀は「オスマン世界」の時代だと思ったから。 本当はセツジュークと十字軍の到来(12世紀)以降は 「ビザンツ世界」 と呼べるものは薄れ、或いは後退し、ハンガリーや西方のベネチアなどの勢力、トルコの台頭によるあたらしい時代-世界に移行している 様にも思えるのだが、 明確な根拠が見出せないので取りあえず14世紀末までと考えています。
なぜ 漢とローマ(ついでにパルティアも)は同じ時期に出現したのか、 という 偶然 にしては出来すぎのような現象への問いがあります。 同時期に勃興し、「世界」を統一した唐とイスラムにも 同じことが言えるかもしれませんが、 エーゲ文明と商・周までに遡る地中海世界と中華世界の同時的発展の極限の帰結である漢とローマに対する問いの前には、唐とイスラムは 前作を凌駕しえな かった続編に過ぎないとさえ思えるのです。