
菅野だりあのプロフィール
| 生まれてから小学校まで |
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私が生まれたのは、新緑の5月のことでした。病院は、産婦人科と言うよりも、精神科が有名な病院で、今も総合病院というよりは、精神病院として有名です。 なぜ私がそんな病院で生まれたのかというと、母がお産に耐えきれないほど小柄な人だったからです。ただ、この病院では、母を受け入れてくれました。 けれど、このエピソードは、その後の私の運命を大きく暗示しているように思えます。実際に、その病院には2回入院したし、長く通いました。また、発病自体も、精神病院で生まれたからかしら、と、ふと考えてみるのです。 はじめての異常は、乳幼児の検診の時に発見されたようです。発達がおかしいから、大学病院の心理学教室に連れて行けと言われたらしいのです。 結局、一度行ったきり、二度と行くことがなかったようです。 子供の頃の私は、変わった子だったようです。幼稚園に通っていても、「この子は自閉症か知的障害があるから普通学級には行けない」と言われたそうです。結局、地元の公立小学校に入学しますが、その頃からいじめがはじまりました。 …ここで、家庭の問題を書かなければなりません。 私にはおばあちゃんがいました。しかし、普通のおばあちゃんではありませんでした。嫁姑問題…そんな言葉ではくくれないほどの苛烈な問題でした。おばあちゃんは嫁憎さのために、わざわざ私の家庭を壊そうと考えたらしいのです。死後、そのメモが出てきて、みな言葉を失いました。 おばあちゃんは妹を虐待し、母を虐待し、私や父を猫かわいがりすることで、一家離散を考えたらしいのです。私は勘違いをし、おばあちゃんは私を可愛がってくれているのだと思っていました。しかし、おばあちゃんの思惑に見事にはめられ、おばあちゃんになつく私は、一家の「裏切り者」として孤立していくようになりました。 しつけを行き過ぎた体罰が日常的に起こるようになり、心を閉ざしていきました。 |
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小学校時代 |
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小学校で、私は、いい成績をとっていました。それも一つの「理由」だったのかもしれません。とろい、どんくさい子でもありました。今で言う、マイペースというところでしょうか。それも「理由」だったでしょう。 私は、小学校3年生くらいからいじめられるようになっていきました。それで転校、転校先はもっと苛烈でした。 私の配った給食をみんなが捨てる、授業中に指先をいじっていただけで「終わりの会」でつるし上げられ、謝るまで帰してもらえませんでした。体操服に絵の具をかけられたこともありました。 教師でさえもそうでした。頭ジラミ検査の時、「菅野さんの頭は汚いから触りたくない」と明言し、私一人だけ検査をしてもらえませんでした。 ある時、私がテストで75点の点数をとりました。「あ〜あ、75点か」、そう口の中でつぶやいただけで、その日は恐ろしい「終わりの会」が待っていました。 平均点が低いテストだったのです。しかし、私は嫌みで言ったわけではありません。何時間もつるし上げられ、紙に「ごめんなさい」と書いて、ようやく「終わりの会」を終結させました。そんな日常でした。 親子縁の薄い私の親でも、黙っているはずがありません。校長にまで抗議をしたら、 「娘さんの将来は少年院行きか精神病院行きだ」 と言うのです。 もう限界でした。私は喘息と過食症を発病しました。 いきなり、干し椎茸やカレールウ、お茶漬け海苔の素、生米までも食べはじめました。生米は歯ごたえがあり、甘くて美味しいのです。 当時は当然嘔吐するすべを持っていなかったので、食べたっきりでした。が、それで満足するはずがありません。 私は小学生ながら、万引きをするまでにエスカレートしていきました。習い事に行っていた交通費も、使い込みで食べました。カバンの中に入れるとバレるから、下着の中に隠しました。男性店員の目も欺けて、一石二鳥でした。 罪悪感がなかったわけではありません。「明日やめよう」「明日やめよう」と、毎日思っていました。こども心に苦しんでいたのです。 食べ物の隠し場所は押入の客用布団の間。あまりにも不衛生な場所だったため、食中毒にもなりました。家族の誰も、学校の誰もなっていない食中毒に。 原因は痛いほどわかっていました。 ただ、希望は持ち続けていました。中学生になれば治るんだと…。 |
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中学校時代 |
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不思議なことに、中学生になれば、過食症はほとんどよくなっていきました。抱いていた希望は、現実になったのです。 いろんなことはありましたが、おおむね中学校時代は平和でした。おばあちゃんは相変わらずだし、時に軽いいじめもありましたが、やりすごせないほどのことではありませんでした。友だちもたくさんでき、はじめて、「学校って楽しいかも」と思っていました。 かげりが見えはじめたのは、3年の時のことでした。修学旅行の最中で、急に何も食べられなくなったのです。前日まで普通に食べていたのに、全く口に入らなくなりました。 毎日栄養剤の点滴。やせ細っていく身体。不思議な快感でした。拒食だったのです。 今まで妹にべったりくっついていた母が、「何か食べたいものない?」と優しくしてくれるのも快感でした。 そのうち身体はフラフラになり、入院の話も出た頃、少しずつ食べられるようになってきました。 次にやってきたのは、片脚が動かなくなることでした。整形外科に通い、整形外科に検査入院しても、原因はわかりませんでした。おそらく心理的なものだろうということになり、退院して、また歩けるようになりました。
最後にやってきたのが、統合失調症の発病でした。 学校に行くのが、急に怖くなりました。人の気配、声、視線が普通ではないのです。目の前にはマンダラがぐるぐる回り、聞いたこともない怪しげな音楽が聞こえます。受験勉強どころではありません。 親に訴えると、「それを他人に言ったらダメよ。おかしいって思われるから」としか言ってくれませんでした。 恐怖のあまり、玄関先でうずくまり、座り込んだ私を、友だちが強く手を引っ張って連れて行きます。私は学校で泣き叫んでいました。 はじめてリストカットしたのもこの頃です。ドラマを見て、リスカをしたら死ねると思ったからです。当然、ムリでした。 親は、市販の精神安定剤を飲ませて、受験に臨ませようとしました。効くと信じたからなのか、不思議に効きました。 受験は合格。クスリは取り上げられました。また地獄の日々がはじまりました。 |
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高校時代 |
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高校時代はもう我慢の限界でした。もはや生きていることも苦しいほどに症状は私を追いつめました。 誰かに追いかけられているような気がする。みんなに私の考えが筒抜けになっているような気がする。テレビから私の名前が放送されている。人の視線で殺されそうな気がする。逆に、私の視線が人を攻撃している気がする。笑い声が高らかに響く、等々。 相変わらず親に相談してもらちがあかないので、親友に、保健所に連れて行ってくれと頼みました。 私には、病識があったというか、病気の自覚があったからです。学校の図書館で読んだ家庭医学書から見れば、間違いなく統合失調症ですから。 保健所に行くタクシーの中で(もうバスには乗れませんでした)、私は目と耳を押さえ、床にうずくまって耐えていました。 着いてすぐ、「今すぐ病院に行きましょう」と言われ、クリニックに連れて行かれました。そのことを親に告げると、その親友との縁を切ったのです。 「うちの娘はおかしくない」と。 当然黙って付き合い続けましたが…。
親は精神科にかけてくれませんでした。高校の教師も、軽はずみだと言いました。 しかし、翌年、教師のほうから、「病院に連れて行って欲しい」と言い出してきたのです。 私には奇行があったようです。それと、特進クラスに入ったため、勉強どころでもなく苦しんでいる私はクラスについていけなかったのです。摂食障害も再発してきていました。 はじめて、本格的に精神科を回りました。みな、統合失調症の診断だったようです。親は、病気じゃないという診断が欲しかったようです。何件も何件も回って、はじめて違うという診断をくれたところでドクターショッピングは終わりました。 私は絶望の中で、自殺を何度も試みました。すべて失敗でした。はまり込んでいったのは、過食というワナでした。 |
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大学時代 |
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辛くも大学に合格はしたものの、教室にすら入れないという有様でした。 摂食障害は悪化の一方でした。教室に入れないのをいいことに、校舎裏に座って、気分が悪くなるまで食べました。 はじめて吐いたのは、1年の時でした。ピザの食べ放題で、さすがに食べ過ぎて、駅の汚らしいトイレに顔を突っ込んで吐きました。もう戻れないところまで来てしまったんだな、ふとそう思いました。 そんな時に、二つの出会いがありました。一つは、大学のカウンセリング室。もう一つは、斉藤学先生の本でした。「あかるく拒食 元気に過食」という本は、それまでの摂食障害のネガティブなイメージを変えてくれました。それで、NABAにつながろうと思うようになったのです。 大学の単位はひどいものでした。それをカウンセリング室に賭けました。NABAにも通い続けました。 しかし、まだ、医療にはつながっていないままでした。 NABAでは、自分一人が苦しんでいるんじゃないということがわかって、通いがいがありました。ようやく見つけた、自分の居場所という感じがありました。 カウンセリング室では、ようやく教室に入れるようになり、大量に単位が取れるようになってきました。過食症はあるものの、統合失調症は自然寛解したものと思いこんでいました。 大学のクラブのスタッフもこなすことができて、就職も夢じゃないと、勝手に思いこんでいました。 |
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社会人時代 |
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福祉に関わる仕事をしたい! …私は、医療ソーシャルワーカーとして、社会人の一歩を踏み出しました。最初は快調でした。法学部出身の私は、資格も取りたくて、学校にも通い続けます。何事にもはじめてだった私は、面白く、楽しむ余裕すらありました。 ところが、たった半年で、ひどい喘息を再発してしまい、仕事を1ヶ月近く休むことになります。そこからが、転落の一途でした。 仕事が思うようにできなくなります。そうなると、やけ食いに走ります。もはや忙しくてNABAには行ってなかった私は、そのワナにズブズブとのめりこんでいきました。 苦痛を食べ物でごまかしている私。けれども、それすらできなくなってくる…。 破綻、でした。上司が何を言ってもわからない、誰かに、とりわけ上司に見張られているような気がする、電波が送られてくる…。 いっそう食べる量が増えてきます。 もうダメだ。自分で病院に行こう。 妄想のことは話さなかったため、うつ(ボーダーラインパーソナリティー)と診断されました。 そうして、9ヶ月休職した後、私は社会人としての地位を失ったのです。 |
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大学院 そして |
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普通の仕事は勤まらない…大学の研究室に入ろう。短絡的な私はそう考えて、大学院に入学します。勉学のもともと好きな私は、昼にアルバイト、夜に大学院、そして一晩中眠らないでの論文書き…当然ムリですよね。 結局、12月に私の生まれた精神科に入院しました。保護室にも3回入るほど、状態は悪かったのですが、比較的短い間で退院できました。 その後、大学院に戻ったのですが、ふぬけのようになっていて、何もできないのです。びっくりして1年間休学したのですが、結局ダメでした。私は泣く泣く退学しなければなりませんでした。 私はもう、そんな調子ではなかったのですが、親が仕事を勧めるので、アルバイトをちょこちょこしました。 スーパーのレジ。 病院のワーカー。 生協のチラシ作り、等々。 親があきらめてくれたのは、喘息がひどくなったのと、摂食障害がひどくなったのと、統合失調症がひどくなったからでした。 自殺未遂はたくさんしました。電車を止めたことも、それで警察に連れて行かれたりしたこともあります。 2回目の入院の時にもめて、私は、生まれた病院ではなく別の病院に通いはじめました。 この頃の幻聴はひどかったです。「神様が鴨居で首を吊れと言った」とか、「神様が髪を切れと言った」とか、お告げ系が多かったような気がします。親にお祓いに連れて行かれたことも…。あと、お笑い芸人MHに恋愛妄想も抱いていました。 食べられるものはすべて食べました。ゴミ箱まで漁りました。OAにも行きましたが止まりませんでした。 万引きもまたしていました。苦しいのに止まらない、そしてとうとう、万引きがもとで、施設に行くことになってしまったのでした。 |
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依存症の施設 |
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私は、摂食障害は依存症の一つで、依存症の施設に行けば治るとだまされて、施設行きを承諾させられてしまいました。治れば必ず帰れる、家族とも連絡できる、そう考えていました。 甘かったのです。 私は、行ったその日に、大事な喘息と統合失調症のクスリをみんな取り上げられ、「薬物依存症」と言われました。 地獄の日々がはじまりました。 その施設は実は、依存症の施設ではありません。ホームレスなどを集めてきて、アル中や薬中と偽らせて、生活保護を受けさせ、入所者には3000円ポッキリしか与えず、残りのお金は施設が盗ってしまうのです。 部屋も、一軒に15人以上が寝泊まりします。そして、お互いが酒を飲まないよう監視する、という名目で、24時間の監視体制。気が休まるわけがありません。中での苛めもひどかったです。 生活は刑務所とそっくりに作られたそうです。私物も持てるのですが、段ボール2箱までと決まっていました。よれて、穴のあいた服しか持てませんでした。お化粧もスカートも、「男性を誘惑する」という理由で持てませんでした。 食費は一日100円(米以外)。満足なものなど、到底食べられるものではありませんでした。何より、医療にまったくかけてもらえず、歯医者、目医者、もちろん精神科など、行かせてはもらえませんでした。 不眠、食欲不振、幻聴、妄想、そして自殺念慮…。 施設のことは、あまり多くのことを語りたくありません。ただ、助けてくれと駆け込んだ、施設の御用病院に、「私は何もできませんから」と見捨てられ、あまりの絶望に首を吊ったことだけは忘れられません。そのことは時々、フラッシュバックのように甦ってきます。 人間の絶望の闇は、どこまでも深いのです。 入所したら最後、絶対に普通に退所させてくれないその施設を私が出たのは、まだ寒い3月のことでした。荷物一つで貯めていたお金でタクシーに乗り、逃げ出しました。私は金庫番のように、事務所のお金の管理をしていたので、捕まったら殺されると思い、逃げるようにして郷里に戻ってきました。 |
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そして 今 |
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施設を飛び出し、育った街を目指した私は、友だちに30万円を借りて自活をはじめました。 2年で30万円を返し終えた私。 親に反対されてた年金も、障害者手帳も、みんな取りました。 はじめて、はっきりと、「統合失調症だ」という診断も受けました。生まれてやっと、自分が立っている場所を確かめられた気がします。 問題はいろいろあります。自活しはじめてから、入院を5回しました。不安定です。 特に、施設での想い出は、出て何年も経っているのに私を苦しめます。夢に出てくるなんてことはそんなたいそうなことではありません。「ホームレスビジネス」の話題がニュースに出てくる、自分が実際、ホームレスを探し歩いた場所を見る…そうしたら、何かわからない発作に苦しめられることがあります。涙がボロボロ出て止まらず、一晩中動けずにいたことや、首を吊った時のフラッシュバックと思われるもので動悸が止まらなくなってしまうのです。 特に、逃げ出した季節にさしかかった今(現在3月)、命からがら脱走したあの恐怖が心から離れません。頭の中をグルグル回っていて、辛くなってしまいます。 |
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前後しますが地域生活支援センターの話 |
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依存症の施設を出てから、私はすぐさま家を見つけ、一人暮らしを始めました。しかし、最初から生活を軌道に乗せるのは、かなりキツイことでした。 そこで、中学時代からの友人のご家族に紹介されて、隣の市の、地域生活支援センターという、精神障害者の通所施設を紹介していただきました。私は喜んで通いはじめました。 家から施設は決して近くはなく、通うのはいささか面倒くさいということもあったのですが、私の生きていく道はここにしかないと思い、しばらくの間は、毎日通い続けました。居場所として、また様々なサービスを受給できる場所として、特に、週2回の夕食サービスは心強く、楽しみにしていたものでした。 その中で、ゴスペルのクワイア(バックコーラス)のサークルがお気に入りです。年に1回、大きなイベントにも出場します。それには、私がセンターに通いはじめてから、1度も欠かさず参加しています。 しかし、そのうち、入院を繰り返したり、ヘルパーさんに来てもらうようになってきて、センターには頻繁に行かなくなってしまいました。そうして家でうじうじしている時に、「そうだ、ゴスペル以外にも活動を増やせば、センターに通えるのではないか?」と思いつき、すぐさま、自分の病気の体験を発表したり(語り)、長期入院者の退院促進のお手伝い(ピアサポーター)をするクラブに申し込みました。私の申し出を受け入れてもらうのには時間が少しかかりましたが、受け入れていただいたことで、活動の幅が広がりました。決して密なスケジュールではありませんが、充実感を持って働けていられるのは幸せなことだと感じています。 |