本文へスキップ

ローマ人への手紙romans

From the pastor's office <牧師室から>

No.01『イエス・キリストの十字架を誇りとして』
◆ローマ人への手紙1章16節
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。


 福音はイエス・キリストの十字架のメッセージです。救い主が殺される!ということは、信じない者にとっては恥以外の何物でもありません。当然、復活を通して、十字架が人類の贖いであることは証明されました。しかし、それは信じない者にとっては何の根拠もないおとぎ話なので、依然として福音は恥を内包しているのです。それゆえ、それを伝えたパウロは福音の恥を負いました。馬鹿にされ辱められたのです。けれども、彼はそのことを恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、彼は十字架を誇りとしたのです。その理由はただ一つ、彼が信仰によって救いを体験したからです。体験して彼の目は開かれました。まさに目からうろこの体験です(使徒の働き9章18節)。彼は何を悟ったのでしょうか。それは福音に内包されている神の力です。福音は全ての権威を相対化して、神の前に服従させます。ユダヤ人であるか、ギリシャ人であるか、すなわち民族的に優等か劣等かという差別に代表される人間の物差しを、一度フラットにし、人間の価値を神の前に並列にして、神だけを礼拝させるのです。福音は一切の人間の傲慢を許しません。血筋の故に、善行のゆえに、功績の故に、神に認められようとする人間の奢りを粉砕します。しかし、福音は、自らの力を頼みとせず、ただ神の恵みとあわれみにのみ信頼する者を義と認め祝福するのです。この世の中で、他にすがるものを見出せない者の祈りと信仰を、福音は認めるのです。もう一度、自らの心を点検し、心の偶像を横に置いて、イエス様を心の王座に迎えましょう。



No.02『神の慈愛と忍耐と寛容に望みを置いて』
◆ローマ人への手紙2章4節
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。


 パウロは2章で、「律法を持っているから自分たちには罪がない」と思いあがっているユダヤ人にも、「偽善」という罪が潜んでいることを指摘しています。ユダヤ人は、人を断罪しながら自分自身も同じことをしていたからです。宗教には偽善がつきものです。自分たちは正しくて他者は間違っている!という排他的な態度に陥りやすいのが宗教です。また、その逆の宗教も存在します。つまり、排他性を完全になくし、全ての宗教や思想を受け入れる宗教です。彼らは性善説に立ち、全てのものを受け入れる自らの寛容さに陶酔していて、物分かりがよいふりをした偽善者と言っても良いでしょう。ニューエイジ思想がその代表です。しかし、福音は違います。福音はこう言うのです。「信じている私も、信じていない人も、結局神の前ではみな罪人である」と。すなわち、自分も含め、全ての人間が神に罰せられても仕方のない罪を抱えていると認めさせるのが福音なのです。ですから、福音の前では、自分で自分を救う術はありません。他人も含め、罪人である自分には、自らを救いうる望みがないのです。キリスト教という宗教に加盟して、慈善活動に専念したからと言って、それで自分を救えるのかというと、それも違うのです。本当の意味で人を救い得るのは、「神の豊かな慈愛と忍耐と寛容」です。ここに望みを置く者を神は決してお見捨てになりません。キリストの十字架と復活を通して現わされた神の愛という無償の賜物こそが人を救うのであり、そこに望みを置く者を神は救われるのです。これこそ福音です。信じない者にとっては災音かもしれませんけど(そんな言葉はありませんが・・・)。



No.03『信仰義認』
◆ローマ人への手紙3章21〜24節
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 
 人が神に認められる道、それは行いにによるのではありません。人間の行いは神の目にはみな罪に汚れているからです。神を振り向かせ、神に正しさを認めさせるほどの行いができる人など一人もいません。パウロが「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と言った通りです。だからこそ、贖いが必要です。赦しが必要です。キリストの十字架の死はまさにそのためでした。ですから、イエス・キリストを信じる者は罪が赦され、そして、その信仰が正しいと認められるのです。自分の行いの正しさを証明しようとする者は退けられ、自分の罪を認めてキリストによりすがる者は受け入れられます。それこそ「義と認められる」ということです。ただし、信仰による義は、行いが無意味だと言っているのではありません。行いは大切です。行いの伴わない信仰は死んだも同然だと使徒ヤコブは言いました。しかし、それは信仰の副産物としての行いです。信仰が義と認められた結果として、感謝の現われとしての行いが生まれてくるのです。イエス・キリストを信じる私たちにとって愛の行いは、人に見せるためのものでも、あるいは神に認められるためのものでもありません。それは神への感謝の現われであり、愛の表現なのです。そこには報酬を求めようとする動機はありません。あるのは感謝だけです。



No.04『恵みの福音』  
◆ローマ人への手紙4章3〜5節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 
 パウロは旧約聖書の「アブラハムの信仰」を引き合いに出して、恵みの福音を説明します。人の行いや働きによって得られたものは報酬であり、当然支払うべきものです。しかし、神には当然支払うべき義務などありません。どんな立派な人間が神の前に現れて、「私はこんなに一生懸命やってきたのに、どうして報いてくれないのですか」と訴え、当然支払われるべきかのように何かを要求することは許されないのです。何故なら、全ての人には罪があるからです。これは人と人との比較の問題ではありません。神の目の前にどうかという問題です。しかし、感謝なことに神は愛のお方であり、恵みのお方です。何の働きもない私たち(そう気付けた人は幸いです)、不敬虔な私たち(そう気付けた人は幸いです)が、イエス・キリストの贖いの死と勝利の復活を信じるなら、その信仰が正しいと認められ(信仰義認)、神に受け入れられるのです。これこそ、キリスト教の真髄・恵みの福音です。この恵みに信頼する者たちを、神は絶対にお見捨てになりません。




No.05『この希望は失望に終わることがありません』  
◆ローマ人への手紙5章3〜5節
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 
 希望とは「あることの実現をのぞみ願うこと」(国語辞典から)です。あなたが期待していることは何でしょうか。あなたの望みはなんでしょうか。それらは実現可能なことでしょうか。実現可能なら、実現した時点で希望は消えます。あるいは、実現不可能なら、望みは薄れて行きます。だとすると、今日の箇所でパウロが言う「失望に終わることのない希望」は、特別な希望であることがわかります。この特別な希望が失望に終わらない理由は、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」だとパウロは説明します。また、1節では「神との平和を持っています」という言葉ではじまっています。以上のことから、この特別な希望は神との交わりに関することであることがわかります。この地上の生涯で、たとえ苦しいことを経験したとしても、神との親しい交わりが途絶えることはない。いや、むしろその経験を通して、ますます神に近づく望みが強くなっていく。それは聖霊によって注がれる神の愛を日々体験しているからだ。そうパウロは告白しているのです。病気になること、貧しくなること、何かに失敗すること、人から非難されること、これらは人の目には恥ずかしく弱いことのように思えます。けれども、イエス・キリストを信じ、神を信じる者にとっては、それらが全て益に変えられ、祈りの内に神に近づくのです。過去にどんなことがあろうと、今どんな経験をしていようと、また将来に何が待ち構えていようと、信仰を持っているあなたは「神様のお気に入り」です。祭司長たちは、十字架上のイエス様に向かって、「神のお気に入りなら救っていただくがいい」とあざけって言いました。現代的に言えば、「神のお気に入りなら成功してみろ。神のお気に入りなら問題を解決してみろ」ということになるのでしょう。こういう発言は神を知らない証拠です。神を知っている者にとっては、困難な出来事は神との親しさに繋がるルートなのです。そして、困難な出来事を通して、益々神との交わりが深まっていること自体が、「神のお気に入り」である証拠なのです。



No.06『キリストと一体となる』  
◆ローマ人への手紙6章3〜4節
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。


 クリスチャンになるということは、浮世離れした人間になるというイメージがあります。または、どちらかというと堅くてまじめな人にしかなれないという印象もあります。そして、洗礼などというのは、ある程度立派な人間になってからできることで、そう易々と受けるものではない、そんなイメージもあるのではないでしょうか。クリスチャンが少しでも素行が悪かったり、失敗をしでかしたら、周りから「クリスチャンのくせに」なんて言われたりします。そうしますと、クリスチャンになるというのは、何か肩身の狭い生き方を要求されて、戒律を守る窮屈な人間になるというネガティブな印象を受けます。そのような、様々な印象はさておき、パウロはクリスチャンになること、洗礼を受けることについて何と言っているのでしょうか。それは一言で言うと、「キリストと一体となる」ということです。信仰によって、古い自分はキリストともに死にました。そして、キリストの復活のいのちにあずかり、キリストと一緒に生きるという新しい人生がスタートしたのです。今は、キリストが私の内に住んでおられます。そのような信仰と告白によって生きることこそ、クリスチャンになることであり、そのスタートラインが洗礼です。完璧な人間になることではありません。そこから、私たちはキリストと共に生きながら、神によって成長させていただくのです。「私の内にはキリストがおられる。今、キリストが私の人生を共に生きてくださっているんだ」。この信仰と告白をしながら、勇気をいただいて進んで行きましょう。私たちの生きる意味と価値はそこにあるのですから。
 


No.07『わかっちゃいるけどやめられない』  
◆ローマ人への手紙7章18〜20節
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


 ローマ人への手紙7章において、パウロは自分の罪の性質について冷静かつ客観的に説明しています。何が良いことで、何が悪いことなのかを律法によって教えられてきたけれども、それがわかっていながら悪い方を選んでしまうという自らの傾向を記しています。要は「わかっちゃいるけどやめられない」というやつですね。やっかいなことにこの傾向は、律法によって余計に駆り立てられるという性質を持っています。パウロの経験で言うと、「むさぼってはならない(欲しがってはならない)」という律法の教えを聞いたとたん、かえってむさぼりを意識し、あらゆるむさぼりを引き起こしたということです。「わかっちゃいるけどやめられない」どころか、「わかってしまったからやめられない」と言うべきでしょうか。そのような経験から、パウロは自分の肉のうちには善が住んでいないと言っています。そこに住むのは罪です。私たちは、この肉とそこに住む罪とおさらばしたくてもできません。おさらばしたければ死ぬしかない。でも、死んだところで行き着く先は罪の処罰と地獄です。生きている限りは、自らの罪から離れられず、死んだところで、罪から来る報酬が待っているだけです。四方八方塞がってしまった状態なのです。キリストはそんな私たちを救うために来られました。まず、罪から来る報酬の方ですが、これについてはキリストが身代わりに十字架の上で処罰を受けてくださいましたので、この問題は解決済みです。ご安心ください。キリストを信じる者は裁かれません。もう一つの問題は、私たちが生きている間の罪の性質についてです。こいつとは付き合わなければなりません。でも、こいつを制御することは律法にはできませんでした。それで、神は制御方法を与えてくださったのです。それが聖霊です。キリストを信じる者の内には聖霊が宿ります。感じようが感じまいがです。言い換えるとキリストが内に住んでいてくださるということです。そのことを認め、そのお方に明け渡していく時、神の霊が罪の問題を制御してくれるのです。私たちは、自らの意識を自分の罪に向けて反省の日々をおくるのではなく、赦しを確信して内に住まわれるキリストに意識を向けるように召されているのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ書2章20節)。



No.08『いのちの霊の法則』  
◆ローマ人への手紙8章1〜2節
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。


 イエス・キリストを信じることによって与えられる救いには二つの側面があります。一つは、神との関係における罪の赦しです。本来人間は神の祝福を受ける資格を失っています。罪の故に神との関係が破綻(はたん)したからです。この罪の状態を、ルターは奴隷意志と言い、カルヴァンは全的堕落と表現しました。これが人間の実情である以上、人は自分で自分を救うことができません。自分で自分を正しいとすることもできなければ、自分で自分の過ちを償うこともできません。特に神の前には不可能です。この惨状に対する、神の救済策が罪の赦しでした。パウロはそれを「義とする」とも表現しています。つまり、キリストを信じることにより、罪赦され義とされるという救いを神は与えてくださったのです。二つ目は、『いのちの霊の法則』です。罪赦され、義とされることにより、確かに神との関係は回復しました。ところが、それだけでいいのでしょうか。神との関係は回復しましたが、相変わらず罪深い行動が目立ち、生活の中に何の変化もないとしたら、神は罪を助長しているかのように思われます。もしそうだとしたら、クリスチャンの熱心な祈りや奉仕、愛の犠牲などが生まれてくる理由が見つかりません。かといって、人間の努力や決意によって罪の力に打ち勝てるかというと、それは無理だとパウロは7章で言っています。そこで、神が手を打たれたのが、いのちの霊の法則でした。私たちが本当にキリストを信じる時、神の霊が宿るのです。これは究極の神秘主義であり、理屈を超えた体験の世界です。こればかりは、私も言葉で説明できません。ただ、はっきり言えることは、キリストを信じたならば、確かにあなたの内にも神の霊が宿っているということです。この神の霊の働きに信頼して、委ねて生きて行く時、神の霊が私たちの罪の問題を引き受けてくださいます。以上、救いには罪赦され義とされるという外的変化と、いのちの霊の法則による内的変化の二つの側面があるのです。罪赦されたことを信じ、そして神の霊が宿っていることを信じながら、自らの罪も弱さも神にゆだね、前に進んで行きましょう。



No.09『まだ見ていないものを望む』  
◆ローマ人への手紙8章24〜25節
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。


「いくら知恵があっても、これを使う勇気がなければ何の役にも立たないように、いくら信仰が厚くても、希望がなければ何の価値もない。希望はいつまでも人とともにあって、悪と不幸を克服するからである」マルティン・ルター

人は望みを抱いて生きる生き物です。例えば、私は今、クリスマスの時期にやってくるであろう各種イベントの準備をしていますが、それを楽しみにしながら忙しくしています。また、近いところでは、今日、ゴスペルクワイアーのリハがあり、それを待ち望んでいますし、日曜日の礼拝を待ち望んで準備をしています。子供は将来に希望を持ちながら成長し、できるだけ楽しいことを探しながら、それを待ち望んでいます。勉強もスポーツも芸術も、先に望みがあるからこそ努力することができます。しかし、その望みが実現する保証などどこにもありません。極端なことを言うと、望みを抱きながら、私は明日天に召されてしまう可能性だってあるのです。にもかかわらず、私は望みを抱いて進むのです。それは、望みが実現することも大切でありながら、その望みを抱いて進むこと自体が重要であることをを知っているからです。内村鑑三もこう記しています。「人は希望的動物なり。彼にありては前を望むは自然にして、後ろを顧みるは不自然なり。希望は健全にして、回顧は不健全なり。」。本来、望みというのは目に見えないで当たり前です。見えなくていいし、見えてしまったらすでに望みではないとパウロは言います。成果主義に陥り、功績や結果ばかりに目を向けると、人の心は欲望によって曇らされ、最終的には望みを失ってしまいます。そして、目に見えない望みを抱くという人間本来の性質を駄目にしてしまい、不健全な心理状態に陥ります。結果に目が眩んだ人間は霊的に死ぬのです。しかし、神を信じる者は生きるのです。目に見えない、信仰・希望・愛に生きようとする者は霊的に生きるのです。そして、まだ目で見ていないものを望みながら生きることこそ健全な姿なのです。



No.10『全てを益とする』  
◆ローマ人への手紙8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


今日の聖書の言葉は多くの人に愛されている御言葉であると同時に、とても誤解されている箇所でもあります。読んで字のごとく、キリストを信じる者のために、神が全てを益とするという聖書の約束であり、パウロが自分の経験から発した言葉です。その全てとは、嬉しいことも悲しいことも、成功も失敗も、良いこと悪いことの全てです。その全てを用いて、神さまは私たちの益になるようにしてくださる。ここまではいいんです。問題はこの「益とする」ということの定義です。平たく言えば「うまく行く」ということなんでしょうが、その「うまく行く」というのは人によって捉え方がまちまちです。ビジネスに成功することや大儲けすること、そこまで露骨じゃなくても、自分の働きが成功して人から高く評価されることこそが「益とする」事だと考える人がいます。ところが、現実はそうは行かない場合があるのです。面白いことに自己啓発セミナーやキリスト教で言えば教会成長論を語る人たちなどは、成功した話はしても、失敗談を話しません。失敗談のような話でも最後は成功で締めくくります(笑)。もしも、「益とする」イコール成功なのだとすれば、失敗で終わる経験をした時、そこには絶望しかありません。こういった繁栄の神学は両刃の剣で、うまく行っている時は調子に乗るのですが、失敗したら意気消沈してしまうのです。しかし!パウロはそんなことは言ってません。彼は誰よりも失敗を経験しました。誰よりも自分の弱さを思い知りました。恥と苦しみの連続であったパウロの生涯を見る時、そこにキリストの十字架を見るのです。しかし、そういう経験をしたからといってパウロが意気消沈したでしょうか。むしろ彼の信仰は更に強くなったのです。何故でしょう。「益とする」ということの定義が違ったからです。その後の文脈を見ればわかります。「益とする」とは神とより親しくなることであり、神の祝福に与り、神の子として成長することです。そしてその神の愛に気付くことなのです。

 「人を幸福にするものは、どれだけたくさんのものを持っているかということではなく、手持ちのものをどんな風に楽しむかということである。」チャールズ・H・スポルジョン



No.11『キリスト・イエスにある神の愛』  
◆ローマ人への手紙8章39節
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


 「主キリスト・イエスにある神の愛」という言葉が意味深です。漠然とあったかい・やさしい神の愛ではありません。「主キリスト・イエス」を通してあらわされた神の愛です。すなわち、私たち罪ある人間の身代わりに死ぬほどの神の愛です。愛される資格のない者のためにいのちを投げ出すほどの愛です。これはすごい愛です。けれども、同時に裏メッセージが込められています。つまり、私たちが罪の故に愛される資格のない者であるというメッセージです。このメッセージをすんなり受け入れられるほどに、挫折を経験したり、自分の醜さに向き合えている人は幸いですが、そうではないプライド高き人、自分はいい人間だと思い込んでいる者にとってはバッドメッセージです。そういう人にとっては、十字架は何のありがたみもありませんし、かえってつまずきです。しかし、自分の罪深さ・弱さと向き合い、自分の無力さに気付けたみなさんは幸いです。一般に成功者とは、機会に恵まれ順風満帆な人生を送った人のことと思われがちですが、聖書はそうは考えません。聖書における真の成功者とは、失敗や挫折を通して自らの弱さに気付き、それでもなお、神の恵みとあわれみに信頼して立ち上がった人たちのことなのです。アブラハムもそうでした。ヤコブもそうでした。ヨセフもモーセもダビデもそう。そして、ペテロやパウロもそうだったのです。彼らを「主キリスト・イエスにある神の愛」から引き離すことは、誰にも出来なかったのです。同様に、神さまは私たちを愛し、私たちの手を離さず、最善へと導いてくださるのです。信頼して進んで行きましょう。

「成功者とは、失敗から多くのことを学び取って、新たに工夫した方法で、再び問題に取り組む人間のことである。」デール・カーネギー



No.12『信仰によって追い求めよ』  
◆ローマ人への手紙9章30〜32節
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。


 ローマ人への手紙を読むと、行いによって救われることは無理で、人は信仰によってのみ救われるということが書いてあります。そうしますと、第一印象としましては、人の努力や行いが否定されているように思えるし、信じさえすれば何でも赦されて何もしなくていいかのような印象を受けます。あまり、いい教えじゃないですね。しかし、これは誤解です。パウロは努力や行いを否定しているのではありません。むしろ、努力と善行は良いものであると認めています。問題はそこではないのです。1世紀の時代、神の祝福を受けるとか、永遠のいのちが与えられるとか、神に認められるなどといった命題は、人間の価値と直結していました。神に認められないということは生まれて来なかったほうが良かったということになります。現代社会で言えば、競争に生き残れなかった負け組は価値なき人間だとみなされるようなものです。そこでイスラエルの民は、自らの価値を「信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めた」のです。これが問題なのです。つまり、律法を行える者が価値ある者であり、神の祝福はそういう人に与えられると教えたのです。そして、それを行えない社会の底辺にいる人や異邦人を価値なき人間とみなしたのです。これは競争原理によって価値づけする現代とそっくりです。人の価値はそんなもので決まるものではありません。もし行いによって人の価値が決まるのであれば、失敗は許されません。失敗した途端に価値は失われるのです。神なき現代の悲惨はそこにありますし、1世紀のユダヤの社会も人間の価値が喪失していました。しかし、大丈夫!本来人の価値は神秘的であり、天的なものです。それはすでに神によって与えられているのです。その価値は信仰によってのみ回復するのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43章4節



No.13『キリストの信頼しキリストに従う』  
◆ローマ人への手紙10章9〜12節
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。


 聖書は、罪の赦しと永遠のいのちを約束しています。その約束は誰に与えられのるかというと、イエス・キリストを信じ従う人にです。ただ理由もなく赦されるのではありません。神はあるがままの私たちを愛して受け入れてくださるのですが、だからと言って、高慢と自惚れと自信過剰のままでも自動的に永遠のいのちが与えられるのではないのです。神の愛は無条件ですが、罪の赦しと永遠のいのちが与えられるためには明確な条件があるのです。それは、イエス・キリストを神の子・救い主と告白し、彼の十字架の贖いと死者の中からの復活を信じることです。そして、キリストを信頼して生き、彼の言葉に従おうとすることです。これなしの救いはありません。もっと言えば、赦しも永遠のいのちも副産物であって、大事なのは、私たちのために命を投げ出して下さった神の御子を信じて生きることなのです。そのような人は「失望させられることがない」のです。そこには人種も社会的地位も血筋も関係なく、みなキリストを信じるだけで神の約束に与ることができるのです。キリスト教という宗教団体の加盟が人を救うのでもなければ、キリスト教という宗教を熱心にすることが大事なのでもありません。大切なのは、今も生きておられるイエス・キリストを信頼して生きることなのです。もう一度点検しましょう。自分の心がどこに向いているかを。キリストに向かっているなら大丈夫。なぜなら、キリストに「信頼する者は、失望させられることがない」からです。



No.14『律法を終わらせられた』  
◆ローマ人への手紙10章4節
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。


キリストは律法を終わらせました。それは決して律法が無意味になったということではありません。律法が要求してくる義の基準をキリストがクリアーしてくださったということです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」神の義の基準に達することはできませんでした。そのことをはっきりさせたのが、他でもない律法そのものだったのです。律法は罪を指摘し裁くことはできても、人を救うことができません。律法にはあくまで人をキリストに導く養育係の役目しかないのです。キリストは律法の要求を全て果たしてくださいました。その身代わりの死によって。全人類に課せられた律法の要求を全て受けて死んでくださったのです。それゆえ、このキリストを信じる者は、自分の力では義の基準をクリアーできていなくても、義の基準をクリアーしてくださったキリストのおかげで、クリアーした者とみなされるのです。すなわち義と認められるのです。キリストの十字架の贖いを信じることによって、私たちは神に受け入れられます。けれども、それは罪を助長しているのではないし、罪を犯すことを許可しているのでもありません。むしろ、義とされたのだから、それにふさわしく歩むようにと聖書はすすめるのです。結果として、罪が赦され義とされるという寛大なる神の処置は、私たちを正しい歩みへと向かわせるのです。それも、神に認められるための正しい行いや、自分を正当化するための正しい行いではなく、神への感謝と献身としての正しい行いへです。

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(ルカの福音書7章47節)



No.15『福音を伝えよう』  
◆ローマ人への手紙10章13〜15節
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」


私たちはみな、福音を伝える者としてこの世に遣われています。イエス・キリストを信じ、彼に従う者はみな、神から派遣されているのです。あなたにしか届くことのできない人たちがあなたの周りにはいて、そこにあなたは遣わされている。その自覚を持って生きる時、あなたの行動は必ず変わってきます。その時、あなたの足は「なんとりっぱでしょう」。だから福音を伝えましょう。イエス・キリストについて語りましょう。神の愛を伝えましょう。教会に行っていることを人に伝え、聖書の御言葉を紹介しましょう。あなたが感動した内容や、心の支えになっている御言葉や恵みのメッセージを紹介するのです。決して、キリスト教を弁護したり、強要する必要はありません。自分の信仰や宗教が正しいなどと証明する必要もありません。あるいは、自分の生き方が変わったので、あなたも変わる!みたいな上から目線の言い方をしてはいけません。ただただ、自分の感動として、自分の喜びとして謙虚な姿勢でお伝えするのです。相手の助けになれれば、あるいは何かの機会に励ましとなってくれれば、という思いで、神の言葉をそこに置いてくるのです。相手が選ぶ自由を奪ってはならないし、無理やり受け取らせるようなやり方は逆効果です。神の言葉をギフトとしえて携えて行き、「不要です」と言われたら持ち帰る潔さが必要です。忘れてはならないのは、私たちが人を救うのではなく、神とその御言葉が人を救うということです。私たちはただ、伝えるだけの存在でしかなく、また刈り取るだけの存在でしかありません。実を結ばせるのは神です。神のわざを自分が行えるなどという高慢さを捨てなければなりません。それは自らを神とすることです。しかし、人間の地平に立ち続けるならば、私たちの務めはお伝えすることです。それだけで、神さまが「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」と言ってくださるのです。そこで満足できるなら、私たちは確かに神のしもべです。



No.16『聖書に親しもう、福音に触れよう』 
◆ローマ人への手紙10章17節
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。


「私の信仰を強くしてください!」そんな祈りを聞いたことがありますし、私もそんな祈りをしたことがあります。しかし、信仰は何によって強くされるのかというと、実はみことばによるのです。聖書の言葉にふれ、それを思い巡らす時、信仰が生まれ、信仰が育つのです。特にイエス・キリストについての記録である福音書を読むことは大切です。ペテロはイエス様のみ言葉にふれて信じる心を持つようになりました(ルカの福音書5章3〜11節)。福音書に記されたイエスの言葉に触れ、その人格に触れる時、信仰が生まれ、育まれるのです。また、イエス・キリストの生涯を通して現わされた福音のメッセージに触れることが大切です。パウロ書簡では、その福音のメッセージが徹底して語られています。そして、その新約の目を持って、旧約聖書を読むとき、そこにもキリストとその福音のメッセージを発見することができます。心が萎えそうになったとき、聖書の約束を思い出しましょう。不安でたまらなくなったら、恵みの御言葉に耳を傾けましょう。寂しくなったら、共におられる主の約束に思いをはせるのです。そうする時、信仰と愛と希望とが、私たちの心を支えてくれるのです。全ては神の言葉を聞くことから始まります。

「私が毎日、もっとも愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に”悲惨”という文字はありません。聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。」ヘレン・ケラー



No.17『神の賜物と召命』 
◆ローマ人への手紙11章29〜30節
神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。


 神が異邦人を救いに導かれたのは、決して神がイスラエルを見捨てたわけではないとパウロは語ります。そして、真のイスラエルはみな救われるというのが彼が確信していたことでした。その証拠にパウロはユダヤ人でしたし、12使徒はみなユダヤ人です。そして、多くのユダヤ人がイエスを救い主と信じて救われました。しかし、同時にユダヤ人は教会を迫害するものともなったのです。パウロも以前はそうでした。そのような迫害者の姿を見ると、イスラエルは神に捨てられたように見えたのでしょう。しかし、パウロは「違う」というのです。神が恵みによって選んだ人々は、いずれ必ず神に立ち返るとパウロは信じていたのです。さあ、私たちの周りにも、神の愛と福音のメッセージに対して様々な反応を示す人たちがいます。強く批判し反対する人もいれば、無関心な人もいる。そして信じる人もいれば、簡単に信仰を捨てる人もいる。そのような様々な反応をパウロも経験していたに違いありません。だからといってパウロは失望しませんでした。彼は堅く信じていたのです。恵みによって選ばれた人々は必ず神に導かれて行くということを。それゆえ、彼はめげずに福音を伝え、神を礼拝しながら生きて行きました。社会がどのような反応をし、人々が馬鹿にしようとも、彼は福音を伝え、礼拝者として生きたのです。ここに天国人パウロの姿があります。彼の国籍は天にありました。それゆえ、世間に左右されず、絶えず神の御言葉と御霊の導きに従って行動したのです。同様に、私たちに与えられた「神の賜物と召命」も変わることはありません。その約束をしっかりと握りながら、パウロのように勇敢に進んで行こうではありませんか。



No.18『希望と祈りを』 
◆ローマ人への手紙12章12節
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 人間が生きていくにあたって、何らかの目標が必要です。何かの取り組みも、漠然とするのではなく、ゴールを定めると集中力も出るし、喜びもわいてきます。また、新しい事にチャレンジしようとする創造性も生まれてくるのです。それゆえ「望みを抱いて喜び」は、スタートの起爆剤として有効です。しかし、継続が必要です。その望みを打ち砕こうとする患難がやってくるのです。敵や悪魔がその患難をもたらすとお思いでしょうか?違います。神様です。敵や悪魔さえ神のみ手の中にあるわけですから、そのようなわずらわしい存在を置かれるのは神様なのです。それは継続するための忍耐力を養うためです。「患難に耐え」ることは継続に必須です。そして、何かをはじめることも、そしてそれを継続することも、祈りなしにはできません。祈りは神様との交わりです。これが大切なのです。なぜなら、私たちクリスチャンがしようとしているのは、神様の御心だからです。全ては神様のご計画であり、神様の喜ばれることを行なうことこそ私たちの念願とすることです。祈りの中で望みが生まれ、祈りの中で耐える力が与えられるのです。祈りなしに、霊的成長を期待することも、祈りなしに主の働きをしようとすることも、全て愚かなことです。なぜなら、私たちがしようとしていることは主の働きだからです。さあ「絶えず祈りに励み」ましょう。

喜びのなかに神への畏れを忘れないように、苦痛のなかに希望を決して捨てないように、私たちは致しましょう。--ナジアンゾスのグレゴリオス



No.19『最後に愛は勝つ!』
◆ローマ人への手紙13章8〜10節
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。


 律法は良いものです(ローマ人への手紙7章16節)。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」とは、一つの言葉で表現すなら、人のものを奪うことです。その意味は、「人の妻を奪うな」「人の命を奪うな」「人のものを盗むな」、そしてその根底にある精神、すなわち「人のものを欲しがるな」、というものです。この命令は正しいですね。異論はないと思います。ところが、パウロはこの「人のものを欲しがるな」という戒めを守れなかったと7章で告白しています。律法は良いものですが、その律法が逆に罪をかきたて、その命令は無力となってしまったというのです。これは、罪の力を現わしています。人間は、妬み、恨み、争い、貪欲などから脱出する力がなく、律法の命令もそれを抑えられなかったのです。聖なる人になろうという努力は罪のゆえに無駄に終わります。それはある意味、自分に向かい過ぎているのかもしれません。自分がどうなるか、自分がどれだけできているか、自分がどう評されているか、自分、自分、自分。しかし、自分はあきらめて、神の愛に目をとめる時、私たちは恵みによる解放を経験することができます。十字架を見上げる時、神の愛の大きさに包まれて、自意識過剰の呪縛から解き放たれるのです。そして、「互いに愛し合う」という使命を全うする時、私たちの目は他者に向かい、その背後にいる神に向かうのです。皮肉なことに、結果として、律法を全うすることになるのです。理屈抜きに、クリスチャンは礼拝を守り、教会を大切にしましょう。聖書を読み、福音を伝え、他者のために祈りましょう。結局言われていることは一緒です。問題はそれを継続することではないでしょうか。



No.20『生かされている喜び』
◆ローマ人への手紙14章7〜9節
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。


 クリスチャンとはどういう者かというと、それは、主のために生きる者です。何故なら、主であられるイエス・キリストが私たちの罪のために身代わりの死を遂げ、よみがえられたからだと、パウロは言っています。つまり、信じた私たちが罪赦されて、新しい命に生かされているからです。聖書を通して、私たちが確信できることは明白です。それは、罪が赦され、神の子となり、永遠のいのちに与っているということです。ただキリストを信じるだけで、天地万物の創造者の子とされたということです。そして、その子としてふさわしく生きるために、神の御霊をいただいているということももう一つの確信です。「イエス・キリスト。あなたの身代わりの死と復活を信じます。あなたこそ神の子、救い主です。私の主として人生を導いてください」と祈った瞬間から、罪赦された神の子となり、神の霊をいただいたのです。私たちは、今、神に生かされています。そういうと反論が返ってくるでしょう。「いや、自分が努力したり、チャレンジしなかったら生きてもいけないはずだ」と。確かにそうです。神に生かされているという真理を自分の怠惰の口実にしている人に対しては、私もそう言いたい。しかし、同時に、努力し、懸命に生きている者が、自分の行いを誇り出したとしたら、それは間違いだとも言いたい。何故なら、神は、努力し、懸命に生きれるように、私たちを導いておられるからです。一つ歯車が狂えば、私たち人間は滅び失せる獣に等しいのです。しかし、生かされているという真理を受け入れ、与えられた機会を喜んで果たす時、栄光は神にあり、私たちはただ精一杯努力できたことを喜び、神に感謝するのみです。それこそが、主のために生き、主のために死ぬということです。日々が、そして一瞬一瞬が、神の手に握られているということを信じて、主のために生き、主のために死のうではありませんか。



No.21『神に仕えることを誇る』
◆ローマ人への手紙15章17〜19節
それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。


 高慢さを聖書は禁じています。高ぶりは神のしもべにふさわしくありません。けれども、誇るべきものを持つことは別です。スポーツマンが自分がやっていることに誇りを持たなくて、どうして続けることができるでしょう。料理人も、音楽家も、あらゆる特殊技能を持つ人たちは、みな自らの活動に誇りを持っています。だからこそ継続できるのです。その中には、有名になる人もいれば、あまり知られていない人もいるでしょう。だからといって、彼らはその活動をやめません。何故なら、彼らはその成果よりも、活動そのものを愛しているからです。当然結果が出れば嬉しいです。しかし成果がないからといって、やめるかというとそうではないのです。パウロは、自らがイエス・キリストを信じていることと、その福音を異邦人に伝える務めを愛していました。その活動が神から与えられた使命であると確信し、誇りとしていたのです。その活動は順風満帆ではありませんでした。迫害や災いがあり、思い通りに行かないこと、悲しいこともいっぱいありました。時には、自分だけが孤軍奮闘しているような寂しい思いになったこともあるようです。しかし、だからと言って、自らの働きを無意味とはみなさなかったし、成果が現れなくても、その活動に誇りを持ち続けたのです。その結果、あわれみの神は、「しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって」その活動を推進させてくださったのです。さあ、みなさん、自らの働きの中に、あわれみの神をお招きしましょう。そして、自分の日常に誇りを持ち、神の使命を全うしようではありませんか。



No.22『サタンを踏み砕く?』
◆ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
 

 いきなりパウロは「サタンを踏み砕いてくださいます」などと言いますが、これはいったい何をさしているのでしょうか。だいたい、足でサタンを踏み砕くと言った時点で破綻しています。なぜなら、サタンとは霊的な存在であり、物理的な足で踏めるわけがないのです。これは明らかに聖書のメタファーです。サタンを踏み砕くという表現は創世記3章15節に出てきます。その意味は、将来現れるメシアが悪魔の力を破壊するという予告です。じゃあ、その悪魔の力とはなんでしょうか。今日の箇所の前の所にそのヒントがあります。17節でパウロはこう言います。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい」。パウロは誰を指してこう言っているかというと、それは割礼派のクリスチャンです。それは使徒の働きやガラテヤ書にも出てくるのですが、信仰のみ、恵みのみによる救いを否定し、律法を行うことによって救われると説いたユダヤ主義のクリスチャンたちでした。恐らく彼らはエルサレムからやってきた人たちです。しかし、パウロはその教えに真っ向から対立しました。その論証こそがパウロの語る福音であり、ローマ人への手紙全体に貫かれているのです。それゆえ、パウロがサタンと言っている対象が何であったかがわかってきます。それは、割礼派の教えであり、パウロの語る福音に混ぜ物をし、教会を分裂させようとする割礼派の勢力なのです。サタンの働きというのは、別に天中殺や祟りではありません。病気になったり、災いに見舞われたり、試練が立て続けに起こることでもありません。そういった得体の知れないものではなく、もっと具体的なものだったのです。それは、恵みにより信仰を通して救われるという十字架の愛のメッセージを否定することなのです。現に、パウロは誰よりも病気と災いを経験した人でした。しかし、彼はそのことを悪魔の攻撃だとは思っていません。むしろ、福音を伝えることを妨げる勢力を悪魔と言ったのです(テサロニケ第一2章18節)。信仰など意味がないとか、福音の力など何の役にも立たないとか、神の約束などあてにならない、などと言って告発してくる人や、心の声、あるいは社会の勢力を、聖書は悪魔と言うのです。その告発に屈することなく、信仰のゆえに義とされる!ということを宣言する時、すみやかにその勢力は打ち砕かれるでしょう。



洛西キリスト教会

〒615-8013
京都府京都市西京区桂清水町103

TEL 075-391-0044
Mail sfddrcc@yahoo.co.jp