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詩篇Psalm

From Pastor's Office<牧師室から>

No.01『御言葉によって生きる』
◆詩篇1篇1〜2節
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 何があっても筋を通すというものが、一つでもある人は幸いです。詩篇記者は、本当の幸福とは何かを教えています。真の幸福を生きる人とは、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」人です。つまり、神の言葉を読み、またそれについて考えるという生活を送る人です。当然、読んで考えるだけではだめで、それを実行しなければならないと聖書は教えているわけですが、それでも、神の御心を行う第一歩は聖書に親しみそれについて考えることです。このような習慣を持つ人は幸いな人です。なぜなら、その人は「何をしても栄える」からです。これは失敗や困難から免れることを指しているのでもなければ、健康・富・繁栄を保証しているのでもありません。実際、み言葉の人であった聖書の偉人たちは、多くの苦難を経験し、この世の成功から見放された時があったからです。だからといって、彼らは「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」というライフスタイルを変えませんでした。それが彼らの偉大なる生涯を生み出したのです。「何をしても栄える」とは、神の栄光を現わす生涯をおくることです。たとえるならば、「水路のそばに植わった木」のようで、時が満ちると「実」がなるのです。そして、「その葉は枯れない」のです。つまり、その人を通して神のわざがあらわされ、その人の活動は途絶えないのです。どんな向かい風が吹こうとも、この習慣を失わない限り、神のタイミングがやってくると実を結び、その働きは継続されていくのです。だから、希望を失わず、忍耐をもって、御言葉に生きようではありませんか。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル人への手紙10章36節)



No.02『神の子意識』
◆詩篇2篇7〜8節
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。


 ダビデは神に頼り、神の約束を信じていました。自分が罪深く弱い存在であることも認識していましたし、神の祝福を受ける資格のない者であることもよく理解していました。それゆえ、もし自分が神の祝福にあずかれるとすれば、それは神の恵みとあわれみによる以外にはないと彼は確信していたのです。そして、彼は信仰により神の祝福を獲得したのです。そのことをパウロはこう語っています。「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」(ローマ人への手紙4章4〜8節)。私たちは赦されてはじめて神の祝福にあずかれるのです。自分の行いの正しさや潔白さによって神の祝福にあずかれるような人など一人もいませんし、そう思っている人がいるならば相当な自惚れ屋です。ダビデは、神様から「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われたそうです。見方によっては、ダビデは何という自惚れ屋なのでしょう。神の子意識を持つなんて。しかし、そのような批判は前提が間違っています。ダビデは自分が特別に選ばれた人だと自らの素質を誇ったのではなく、神の恵みに信頼して神の子意識を持ったのです。同様に、私たちも神の恵みに信頼し、神の約束を信じているならば、持つべきです。神の子意識!父なる神は子であるあなたに注目しておられます。そして、あなたを通して栄光を現わそうとしておられるのです。



No.03『信じて、任せて、眠りにつく』
◆詩篇3篇5節
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。


 不安で眠れないという夜を過ごされたことがあるでしょうか。いろんなことを考えて心配で寝れないという経験は誰にでもあると思います。ダビデ王もそんな心配を抱えていました。ダビデ家のお家騒動は相当なものだったようです。三男のアブシャロムに王位をねらわれます。事の発端はアブシャロムの妹のタマルが異母兄弟のアムノンに犯されるという事件にありました。怒ったアブシャロムはアムノンを殺し、父ダビデの怒りを恐れて亡命します。3年の後、彼はエルサレムに呼び戻されるのですが、父との関係がぎくしゃくしたままです。アブシャロムは王位を狙い、4年間仲間を集めてから、機が熟したのを見て謀反を起こします。ダビデ王は、「イスラエル人の心はアブシャロムになびいています」という家来の言葉を聞いて逃亡します。結末はアブシャロムがダビデの家来たちに殺されて、ダビデの王としての地位は確固たるものとなるのですが、逃亡中は不安で仕方がなかったに違いありません。ダビデはこう告白しています。「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない。』と」(1〜2節)。ダビデも人の子です。恐れて当たり前です。しかし、ここからがひと味もふた味も違うのです。「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です」(3節)。彼は不安と恐れのただ中で、神に信頼し、神に委ね、神に任せ、神の御心を第一とし、神にのみ期待を寄せました。アブシャロムのように根回しもせず、自らの命を神にお渡ししたのです。それゆえ、ダビデは眠ったのです。スゴイ!信じて眠りましょう(笑)。主がささえてくださるから。



No.04『特別扱い』
◆詩篇4篇3〜5節
知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。


 特別扱いされるというのは、なかなか気持ちのいいもんです(笑)。VIP待遇を受けるとなんだか偉くなったような気になって気分がいい。でも、同時に、特別扱いされると調子に乗ってしまい、有頂天になって、自分がダメになるということもわかっています。だから自分を戒めて、気を緩めず、努力を重ねることが大切だと思います。何事もバランスですよね。さあ、詩篇記者は言います。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」と。これだけを聞くと、なんか気分がいいですね。「そうなんや。ラッキー!」って思います。そう、ラッキーなんですよ。神を信じるということは、確かに幸運に恵まれるのです。それは否定しません。けれども、主の「特別扱い」は私達の考える特別扱いとはちょっと違います。そのことが聖書の人物を見ればわかります。ダビデの人生は苦難の連続でした。モーセだってそう。アブラハムもヤコブもヨセフもそう。そして最も祝福されたお方イエス様と最も優れた預言者バプテスマのヨハネに至っては、十字架とギロチンです。使徒たちも苦難の連続でした。けれども、苦難のただ中に主の栄光があるのです。「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」と書いてあるとおりです。そういう意味で、聖書が言うところの神の特別扱いとは、神に祈り、神に応えていただくという、神と人間との呼応にあるのではないでしょうか。ですから、苦難を経験するみなさん!祝福された方!この詩篇の命令に耳を傾けましょう!今晩も「床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」(^_-)-☆



No.05『本音の祈り』
◆詩篇6篇7〜9節
私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしど(寝床)を押し流します。私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

 これは、神を信頼し、神に従うダビデの祈りです。「どこが?」と突っ込みたくなるぐらい、嘆いていますね。訴えています。弱音を吐いています。思いの丈を洗いざらいのべています。なんか、キリスト教信仰って、どっかやせ我慢みたいにうつるときがあって、クリスチャンらしく頑張っていなければ神にも教会にも受け入れてもらえないような気になります。まぁ、人前でピーピー泣いてばかりで「主よ〜、主よ〜」って宗教くさくアピってるのもキモイですけどね。実際、社会で生きていくためには、自らを律して大人としてふるまうべきですし、考え方において幼稚であってはなりません。パウロもそのように勧めています(Tコリント14:20)。しかし、神の前には、素直であっていいのではないでしょうか。神の前で、祈りの中で発せられる弱音や嘆き、時には不平不満やつぶやきも、神の前に出している以上は信頼に変わっているのだと思います。信頼がなかったら、神の前に行こうともしないし、祈ろうともしないでしょう。神の前に出た時点で、そこに信頼があるのだと思います。そして、神様も、私たちの本音の告白を待っているんじゃないでしょうか。そして、ダビデの確信はスゴイです!「主は私の泣く声を聞かれたのだ」と。信頼以外のなにものでもありません。本音の祈りは、本当の信仰であり、本当の交わりです。



No.06『神を追い求めよ』
◆詩篇8篇3〜5節
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。


 これは人間賛歌ではありません。神の恵みと憐れみをほめたたえているのです。月や星、森羅万象の雄大さとその恐ろしさを見る時、人間などはチリやカスにしか思えません。自然の力の前には、人権など全く通用しないのです。自然の恐怖は無差別に人をおそいます。同時に、自然の恩恵は無差別に人を生かし、喜ばせるのです。それゆえ、自然の前に受身でしかない人間は本当にちっぽけです。しかし、そのちっぽけな人間に、神が心を留めておられるというのです。そして、「人を、神よりいくらか劣るもの」としたというのです。つまり、神に次ぐ存在として人は創造されました。これは驚くべきことではないでしょうか。それゆえ、人間は創造者であられ、私達をデザインされた神から離れては、存在意義を失ってしまいます。パスカルが言うように、人間には神にしか埋めることのできない心の空洞があるのです。創造者である神に立ち返れ!神を追い求めよ!これこそ、聖書のメッセージです。聖書に触れ、その神に祈り、神に導かれて生きていきましょう。神こそが私達一人一人の行くべき道を知っておられるのですから。



No.07『絶えず神を尋ね求めて』
◆詩篇9篇9〜10節
主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。


 人間は、物事がうまく行っている時は主を尋ね求めません。何か、失敗したり、病気になったり、身に災難が降りかかると人は主を求めるのです。あるいは、試験に合格したいとか、いい仕事につきたいとか、いい人と結婚したい、なんて時に神様を求めます。つまり、何かを獲得したい時です。でも、物事がうまく行って用済みになると、神さまのことを求めなくなります。神様を信じていると言いながら、こういう歩みをしている人は大勢いるのではないでしょうか。牧師や宣教師でさえ、そうなってしまうことがあります。私もそう(^_^;)。こういったあり方は、言い換えると、神をしもべにしているのです。それもただ働き(笑)。もはや神は主ではありません。全く神様を求めないよりはましかもしれませんが、そこにとどまり続けることを神は求めておられないように思います。初めは「苦しい時の神頼み」でもいいのでが、そこからはじまって、次の一歩を踏み出して行くところに信仰生活があります。つまり、物事がうまく行こうが行くまいが、絶えず神を求めるライフスタイルを身につけることです。そのことをパウロはこう言っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16〜18)。そういう歩みの中を生きる者を、神は絶対にお見捨てになりません。



No.08『主よ。なぜですか・・・』
◆詩篇10篇1節
主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。


 詩篇の面白いところは、人間味あふれる表現がちりばめられているところにあります。キリスト教を信じる人というと、何か強い信念を持ち、清く正しく美しく、辛いことがあっても我慢して不満を言わないというイメージが一般にあります。裏返せば、やせ我慢の宗教であり、能面みたいな顔をして立派なふりをする偽善者という印象です。そういう印象を与えてしまっているキリスト教信者はどうかと思います。しかし、詩篇を読みますと実に赤裸々な告白がいっぱいあるのです。怒りや、不満、疑いや恐れ、それらのものを詩篇記者たちは正直に告白し、神に祈るのです。今日の聖書の箇所も見事に人間の魂の叫びを描き出しています。辛い経験をする時、神様が「遠く離れてお立ち」になっているように思えてきます。たとえ、神を信じていても、感情は素直です。苦しみの時には、神様が「身を隠」しておられるように思えるのです。見捨てられているような、見放されているような、まるで自分が無意味に苦しみを受けているような感覚におそわれます。そんな経験、あなたにはありませんか?なければ、この話は終わり(笑)。でも、そういう経験をしておられるあなた!安心してください。そのままでいいのです。自分を変えようなどとする必要はありません。どうせ、無理してやせ我慢しても長続きしませんから。そのままで、祈ってください。ありのままで、神に叫んでください。どんなに醜い感情であろうと、これは神に対する冒涜ではないかと思われる告白であっても、正直にぶつけてください。絶対神様はその祈りのゆえにあなたを裁くことはありません。いや、むしろ天のお父様は待っておられる。両手を広げて待っておられる。あたなの痛みを、あなたの叫びを、あなたの苦しみを受け止めようと待っておられる。十字架がまさしくその証拠です。御子の死は神の愛がどれほど深かったかを表しているのです。十字架の赦しがあるのだから、安心して主の御前に行きましょう。そして、あらゆる感情を主に告白しましょう。主があなたの心に平安を与え、あなたの心を新しくしてくださいますから。



No.09『主は立ち上がってくださる』
◆詩篇12篇5〜6節
主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。


「今、わたしは立ち上がる」と主は言われます。実に頼もしい言葉です。神様が立ち上がってくださる!正義のヒーロー到来!という感じです。けれども、「それまで座ってたのか?」と突っ込みたくもなります。まるで、神様が座っていて一向に腰を上げてくれないように感じる時があります。つまり、しんどいことが立て続けにあり、自分自身も心配と思い煩いで頭がいっぱいになるような時です。主の不在を感じるようなその経験、実はその経験こそ、主の救いを経験するために必要不可欠なのです。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから」と主は言われます。つまり、悩みは避けられませんし、屈辱と貧しさは避けられないのです。しかし、主はその訴えを決して聞き逃してはおられません。私たちの嘆きを無視して座っておられるのでもありません。主は立ち上がるべき時を待っておられるのです。すなわち、私たちが自分の悟りに頼らず、主にのみ依り頼み信頼するようになることを。主は必ず私たちを「その求める救いに」入れてくださいます。しかし、その約束が実現するには「土の炉で七回もためされて、純化された銀」のように試されなければなりません。神様はインスタントラーメンのような即席の解決をなさらず、コンビニのように便利に応えるお方ではありません。私たちも、そして主の約束も試されなければならないのです。それはヨセフの夢が苦難を経験して後に実現したようにです。だから、あきらめずに主に訴えていきましょう。私たちの思いを、そしてその願いを。主が立ち上がられることを信じて。



No.10『ぶつくさの恵み』 
◆詩篇13篇1〜2節
主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。


 ほら、やっぱりぶつくさ言ってます(笑)。「ぶつくさ言ってる信仰の人ダビデ」(^^♪。このテーマでレポート書けそうです(爆)。ちなみに、こういった赤裸々な告白や、不信仰に思える叫びは、人の心を暗くさせネガティブな行動を生み出すと教えられたことがあります。それは自己啓発セミナーにおいても、またはキリスト教の修養会においてもです。しかし、これまでの経験と聖書のみことばの学びからわかったことは、それが嘘だということです(*^_^*)v。むしろ、そのぶつくさが人を豊かにしていくのです。その叫びが人を成長させるのです。ただし、それが主に向けられた時だけです。他の人に向けたり、自分に向けると、傷を負わせるだけです。主に向かうなら、その弱さが逆に強さへと変えられるのです。つまり、主の恵みによりたのむ強さへと。5節にこう書かれている通りです。「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。(5節)」。さあ、主にぶつくさ言いましょう!そして、思いの丈の全てを告白したならば、神への賛美をささげましょう。「私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。(6節)」と。



No.11『私は腐ってます』 
◆詩篇14篇1〜3節    
愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

 愚か者は心の中で「神はいない」と言うそうです。これで話が終われば、無神論者への極めて幼稚な批判であって、失礼な話です。宗教を信じる者がこういうことを言うと、独善的でひとりよがりに聞こえてきます。しかし、よく考えると、イスラエルの民の多くは神の存在を信じていましたし、古代において神の存在は大前提でした。そうしますと、ここでいう「神はいない」ということの意味は単なる無神論を指していないことは明らかです。それは、「どうせ神は見てもいないし、見ていたところで、何も災いは身にふりかかってこない。」と言って悪を行う者のことを指しているのです。言うなれば神をも恐れず人をも恐れぬ不遜な態度というところでしょう。その心の中心は自分の欲望であり、自分の思いや願いだけが占領していて、神の御心を尋ねようともしません。それでいて、人前では神について語るのです。こういった相矛盾する心を持つのが人間なのだ!と聖書は教えているし、パウロはこの詩篇の言葉を引用して原罪というテーマに触れています(ローマ3:10)。つまり、神の前には人間はみた罪人だというテーマです。だから、「あいつは腐ってる」と言いながら自分が腐っていることに気付けない者は、今日の詩篇が言うところの本当の愚か者です。「だれもかれも腐り果てている」という今日の言葉を自らのこととして受け止め、神のあわれみを求める人は幸いです。その人は神に愛されています。



No.12『目の前に主を置く』 
◆詩篇16篇8節
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。


「自分の目の前にある事実そのものは、それをどんな風に受け止め、考えるかということに比べれば、それは、それほど重要ではない。事実に対する考え方によっては、まだ何も手を打たないうちに、人を敗北させるかも知れない。事実に打ち負かされるのは、自分が事実に打ち負かされていると考えるからだ。」ノーマン・ヴィンセント・ピール

目の前にある様々な事実は、時には、嫌なことばかりでうんざりしてしまうことがあります。がっかりさせられるような人の批判や、思い通りにならないこと、そして災難が私たちの心を悩ませます。しかし、最終的に、悩みによって打ち負かされるかどうかは私たち自身の受け止め方にかかっているのだと、ノーマン・ヴィンセント・ピールは言っています。では、打ち負かされないために、私たちはどのように受け止めたらいいのでしょうか。詩篇記者は言います。「私はいつも、私の前に主を置いた」と。つまり、目の前にある様々な事実のただ中に、主がいてくださる。それが私たちを悩ます事実であったとしても、そこに主の存在を認める。そうすれば、主が私の右におられる(主が私の力となってくださる)から私はゆるぐことがない。そう詩篇記者は告白しているのです。秘訣は「目の前に主を置く」ことです。私たちを愛し、私たちを最善に導いてくださる主が共にいてくださるから大丈夫!そう告白して進んで行きましょう。



No.13『苦しい時は本気で神に頼れ!』 
◆詩篇18篇1〜3節
指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った。彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。


 苦しい時の神頼み!と言って手を合わせる日本人。どこかそういう姿勢を軽蔑しながら、信仰なんてその程度のものだと言わんばかりの物言いをする。そういう人が実に多い。でも、苦しい時に、本当に神頼みしている人はそういませんよ。ほとんどが、人や自分の力に頼ってます。そして、念のために神社や寺にお参りをしておく。聖書に記された神への信仰と比較すると、そんなのは信仰でも何でもなく、ただの気休めです。一緒にしてもらったら困る!実際、どれだけの日本人が神社に祭られている神や仏教の教えを正しく学んで、それからそれを信じようとしているでしょうか。稀に、勉強している人がいますが、ほとんどはわけもわからず参拝しているのです。それでよく「自分は仏教徒だ」と言えたものだと思います。要は、拝む対象なんてどうでもいいのです。自分が良い目を見られればそれでいい。さあ、私たちクリスチャンはどうでしょうか。神は、私たちが良い目を見るためのしもべでしょうか。その逆です。私たちが神のしもべであり、私たちが神に造られたのです。だから、聖書から神とはどのようなお方であるかをしっかりと学び、自分が何者なのかをしっかりとわきまえるべきです。そして、本物の苦しい時の神頼みをしましょう。気休めではなく、本気で頼るのです。そうする時、その人は神の栄光を見ます。二心の人は神の栄光を見ることはできません。



No.14『主のみおしえ』 
◆詩篇19篇7〜8節
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。


 「主のみおしえ・主の戒め・主の仰せ」とは、聖書のみ言葉であり、究極的にはイエス・キリストの福音を通して成就するのですが、同時に、私たちが日々経験する神様の導きをも指しています。私たち人間の教えがあり、人間の証言があり、また私たちの愚かさも存在する中で、「主のみおしえ」は比べ物になりません。完全なのです。そして、「主の戒め」は本当の意味で人を喜ばせます。そして、「主の仰せ」は人に知恵を与えるのです。正直なところ、神様がなさることは、私の願いに反することがいっぱいあります。私にとっていやなこと、私にとって嫌いなこと、私にとって不本意なことをあえて神様は許されるのです。そういう意味で神さまはいけずだなと思うことがあります(笑)。しかし、同時に、神さまのなさることは、私にとって最善であるという信頼もあります。実際、過去を振り返ってみても、私にとって不本意なことが、かえって私にとって有益だったということがたくさんあるのです。ですから、私の好き嫌いは善でも悪でもない、ニュートラルなものだと思っています。好きだからといって正しいわけでもなく、嫌いだからといって悪でもない。自分を正しいとする必要もなければ、あえて自己卑下して否定する必要もない。主の御前で私たちは好き嫌いを繰り返すのですが、神様の導きはそれを超越しており、常に私たちにとって最善を用意されているのです。ですから、信頼していきましょう。主と主のみおしえに。



No.15『主の御名を誇れ』 
◆詩篇20篇6〜8節
今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。


 「油をそそがれた者」とは何者かというと、旧約聖書のイスラエル民族においては、王・祭司・預言者などの神に選ばれた人たちを指します。けれども、単なる王侯貴族やお役人を指すのではありません。もしそうだとすれば、世襲によって腐敗した王たちも神の御心に沿っていたことになってしまいます。そうすると、神は不義の神にになるでしょう。神に選ばれるとは、運命論的な言葉ではなく、神の恵みを現わす言葉なのです。すなわち神の恵みによって召されることであり、その者の特徴とは、神への信頼と従順です。神の恵みによって召し出され、神に信頼して従う者、それこそ「油をそそがれた者」です。この油注がれた者の完成形こそイエス・キリストでした。キリスト=メシアとは、「油注がれた者」という意味であり、イエスこそ預言されていた救い主なのです。しかし、それだけで話は終わりません。このイエス・キリストを信じる者も、油を注がれた者となるのです。すなわち、神の霊が与えられ、神の霊に満たされ、神の霊に導かれて行く者です。それゆえ、ある者たちが「いくさ車」や「馬」を誇るように、自らの力や持ち物を誇りとせず、「主の御名」を誇りとして進んで行きましょう。主に信頼する者は、必ず「立ち上がり、まっすぐに立」つのですから。



No.16『沈黙する神、叫ぶ神』 
◆詩篇22篇1〜3節
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。


 神様は沈黙しておられます。私たちがうめいて、祈り呼び求めている時にも。それでも、「私は黙っていられません」とダビデは言います。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」というこの叫びは、一見、不信仰の叫びのように思われますが、これは信頼を失った嘆きではありません。信頼を失ったならは、もはや祈ることも主に訴えることもなくなるでしょう。この言葉は信頼の喪失ではなく、むしろ自分の弱さの告白です。見捨てられたようにしか思えない自分の弱さ。沈黙しておられるようにしか感じられない自らのはかなさを告白しているのです。しかし、その弱さとはかなさは、ますます人を祈りへと掻き立てます。そして、その嘆きは遂に賛美へと結実していくのです。「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(3節)と。だから、試練の中にある方、問題を抱えている方、弱さを覚えている方、是非祈りましょう。訴えましょう。うめいて叫びましょう。隠れたところで、隠れたところにおられる主に向かって。十字架上のイエス様もそのように叫ばれたのですから。CSルイスは言いました。「痛みは神の拡声器である」と。実は主は沈黙しているのではないのです。むしろ叫んでおられるのです。「帰れ!わたしのところに。来なさい!わたしのもとに。わたしは日夜あなたが訴えるのを待っている」と。



No.17『委ねられた私たちの人生』 
◆詩篇22篇9〜10節
しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。


 私の人生は生まれる前から神様の手の中にありました。お母さんの胎内にいる時から、いや、世界の基のすえられる以前から、神様は私が生まれることを計画しておられたのです。だから、私の人生は偶然はじまったのではありません。神様がこの時代に、この国に、私を選んで生まれさせたのです。神の意志なしに人間は存在しません。だから、私の存在は神の意志です。そして、私は親の助けがなければ育ちませんでした。そういう意味で、私の出生は親にゆだねられたのです。親だけでなく、それを取り巻く人々、友人や学校の先生、地域社会、更には職場の人々、全てに委ねられたのです。だからと言って、私はありきたりな「感謝の心を持つ人になりましょう」みたいな人生訓を述べるつもりはありません。そのテーマは神の恵みと信仰がしっかりわかった後のテーマだからです。先に「感謝しましょう」が来る宗教は、行為義認の宗教であって、キリスト教ではありません。感謝は恵みによる救いの実なのです。大切なことは、「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」という信仰です。つまり、本当のところは、私たちの人生は神にゆだねられていたということなのです。イエス様はこう言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と。恐れるべきお方に畏敬の念を抱きながら、神に信頼して進んで行きましょう。



No.18 ■詩篇23篇 第一回目
◆詩篇23篇1節
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。


 今日から7回にわけて詩篇23篇について学びます。
 この詩篇は一つのイメージを私たちにしめしています。それは、「神と私たちとの関係は、羊飼いと羊の関係のようなものである」というイメージです。天の父なる神様は、私たちにとってよい羊飼いのような存在であり、私たちを養い・訓練し・成長させ、私たちを導いてくださるお方です。イエス様もこうおっしゃいました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネの福音書10章11節)」。イエス様は天のお父様の愛を体現されました。十字架の身代わりの死がその証拠です。だから、私たちは愛されています。そして導かれています。たとえそう感じれなかったとしても、天のお父様の愛といつくしみを否定することはできません。天のお父様は良い羊飼のように、私たちを愛して導いてくださるのです。だから、詩篇記者とともにこう告白しましょう。「私は、乏しいことがありません」と。「彼に信頼する者は、失望させられることがない(ローマ人への手紙10章11節)」のですから。



No.19 ■詩篇23篇 第二回目
◆詩篇23篇2節
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。


 羊にとって青草の原と水のほとりは必要不可欠な場所です。羊が牧草を食べ、水を飲み、安らぎを得るために、羊飼いは羊をそこに連れて行くのです。イスラエルのような乾燥した地域では、水が不足することは生死に関わります。それゆえ、いこいの水のほとりに行くまでの間は希望と忍耐が必要です。同様に、私たちの人生にも希望と忍耐が必要です。私たちを愛してくださる天の父は、私たちの魂を養うための場所に、傷ついた心を癒すための場所に、私たちを導いてくださいます。究極的には天の御国を指すのでしょうが、それだけではなく、この地上の生涯においても、いこいの水のほとりを用意してくださるでしょう。そのいこいの水のほとりは、単なる場所ではなく、一つのタイミングでもあります。羊飼いと羊が、荒野を歩いた先に、忍耐の末に出くわすいこいの水のほとりのように、それは渇きを潤す一つのタイミングなのです。ギリシャ語で言うところのカイロス、すなわち「神の時」です。ですから、今、希望を抱きながら忍耐している私たちは、荒野を行く羊たちのようであり、羊飼いである主は、絶妙のタイミングで私たちを緑の牧場・いこいの水のほとりに伴われるのです。それゆえ主の手に委ねて、主にお仕えしていきましょう。



No.20 ■詩篇23篇 第三回目
◆詩篇23篇3節
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。


 ときに、私たちのたましいは死のふちをさまようことがあります。生きているけど死んだような状態、ぬけがらのような状態、そこから天のお父様は私たちを生き返らせてくださるのです。どのようにしてか?それは、天の父の愛に気付くことにより、自分が何者であるかを再確認することによってです。自分とは何者か?それは天の父に愛され喜ばれている神の子です。罪と弱さと醜さを抱えている私なのに、天の父は、イエス様の身代わりの死によって赦してくださり、未来永劫失うことのない神の子としての特権を与えてくださいました。それゆえ、神は自らの名にかけて、つまり、御名のために、私たちを義の道に導いてくださいます。義の道とは決して清く正しく美しいを標榜する聖人君子になる道ではありません。そんなことを求めると人は必ず偽善的になってしまうからです。義の道とは神のご計画の道であり、弱い私たちを用いて神のご計画を実現していくという、何ともありがたくもったいない道なのです。こんな私が神様に用いていただける(*^_^*) 感謝しかありません(ToT)/~~~



No.21 ■詩篇23篇 第四回目
◆詩篇23篇4節a
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。


 クリスチャンになったからといって災いにあわないわけではありません。信仰が深いからといって苦しみがなくなるわけではありません。クリスチャンであるにもかかわらず、信仰が深いにも関わらず、試練や災いを経験することがあるのです。でも大丈夫!恐れる必要はありません!「災いがあるのに何が大丈夫なのか!」と言われそうですが、それでも大丈夫なのです。理由はただ一つ。私たちを愛し喜んでいてくださる天のお父様が私たちとともにおられるからです。全てを支配し、災いさえも私たちの益に変えてくださる天の父なる神がおられる以上、大丈夫なのです。あなたを愛し、あなたを喜ばれる天の父は、災いだけでなく死の力さえもあなたに仕えさせて、あなたの益のために用いられるのです。結果として、あなたは神の栄光を見るでしょう。何と偉大なお方があなたと共におられるのでしょうか。信頼して、死の陰の谷さえも、一歩を踏み出して行きましょう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る(イザヤ書41章10節)」。



No.22 ■詩篇23篇 第五回目
◆詩篇23篇4節b
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。


 羊は非常に臆病な生き物でおっちょこちょい!何か不安になると、あわてて走り出し、向かう方向もわからず逃げ出してしまいます。詩篇23篇では、人というものはまるでその羊のようだと教えています。羊飼いは、羊たちを間違った方向に向かわせないために、むちと杖とを使って導きます。同様に、天の父なる神様も、私たちを導くために、時にはむちや杖と思えるような辛い経験を私たちにさせられることがあります。しかし、天の父の愛を信じる者にとっては、そのむちと杖が慰めとなるのです。そう!天の父の導きがあるという平安がそこにあるのです。キリスト教信仰とは、当然、その福音のメッセージを信じて救われることなのですが、単なる教理の受容ではありません。それは、神との出会いという生きた体験であり、信仰生活とは神の導きを経験していくことなのです。様々な出来事を私たちは経験するのですが、神はそれらすべてを力ある御手でコントロールし、信じる者にとって益となるようにしてくださるのです。私たちの側からすれば、災いや試練に会うと、その力と恐れに屈服させられているように感じるのですが、実際にはその逆であります。むしろ、災いや試練のほうが屈服させられて、私たちに仕えるという形になるのです。そうしてくださるのは、全能の神です。ごちゃごちゃ考えるのが私たちですが、最後は、全能の主の御手に信頼して一歩を踏み出しましょうね(*^^)v



No.23 ■詩篇23篇 第六回目
◆詩篇23篇5節
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。


 自分に敵対する者が現れたならば、どんな人でも自己防衛的になります。敵対とまではいかなくても、自分の意見に対して反対したり批判的な人が現れると、普通はうろたえるものです。あるいは、自分を守ろうとして攻撃的になるかもしれません。それはそれで自然な反応ではないでしょうか。けれども、そこから恐れにとらわれ、身動きが取れなくなったり、怒りに支配されてしまったなら、心の自由を失います。しかし、この詩篇を読んでください。詩篇記者のダビデは、敵の前で余裕です!なぜなら、神が祝宴をもうけ、繁栄と喜びをもたらしてくださるからです。人間同士の比較の中では、勝ち負けがあり、勝利や敗北があるのでしょうが、その判断も相対的で、人生の勝負は最後までわかりません。しかし、いざ心の目を神に向ける時、神が私たちの味方であることを知るのです。そして、私たちが信仰によってすでに受け取っている祝福が何かに気付かされるのです。そうです。キリストを信じる信仰により、神の恵みによって、私たちは天にある全ての霊的祝福を獲得しました。罪赦され、神の子としての特権を獲得し、永遠のいのちにあずかっているのです。そして、御言葉の力と祈りの力を行使する時、神の国の大使として最大の奉仕を成し遂げるのです。本当は私たちの杯は溢れているのですよ。



No.24 ■詩篇23篇 第七回目(最終回)
◆詩篇23篇6節
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


 天の父なる神の祝福は、私たちが行いによって勝ち取るものではありません。私たちの犠牲とか奉仕によって自分の正しさを証明する必要もありません。天の父はそんなものを望んでおられないのです。天の父が喜ばれるのは、ただ信頼することです。幼子が父を母を信頼するように、私たちが天の父なる神様の愛と恵みとを信頼するとき、天の父は喜んでいてくださいます。そして、神の祝福は、必死で勝ち取ろうとしなくても大丈夫です。天の父を信頼する私たちの後を、いつくしみと恵みとが追いかけてくるからです。だから、私たちも詩篇記者とともに決意しましょう!「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と。隠れたところにおられる天の父との交わり(マタイの福音書6章6節)を生涯の最優先事項にしていきましょう。



No.25 『主の小道を行け』
◆詩篇25篇8〜10節
主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。


 神とは基本的に慈悲深い方であられ、同時に正義のお方です。それゆえ、神は罪人に行くべき道を示されます。ここで言うところの「罪人」とは犯罪者のことではなく、自らの罪を自覚する者をさしています。そして、「貧しい者」とは、ただ貧困であるということではなく、へりくだる者をさしています。自らの罪を自覚し、へりくだっている人は、神を恐れます。また、高慢になって自分の力や才能に頼るのではなく、神のあわれみにすがるのです。ここまでの内容を読むと、神を信じる者とは実に弱々しく聞こえるかもしれません。実際に弱いところもあるだろうし、あるいは他者から弱いと見做されることさえ気にもかけていないようです。聖書記者にとって、人間ごときの評価はどうでもいいようです。むしろ、ここに記されている喜びと希望は、神との関係にあるのです。神を信じ、神との出会いを経験し、神と交わって生きる。これこそ、信仰生活の醍醐味です。悩みや心配、怒りや恨み、不安や恐れがあっても、その度に聖書を読みお祈りをする。そうすると、主にある信仰・希望・愛がわき起こって来て、結局は積極的に前進するのです。これこそ、主の小道であり、神との契約に生きる者に与えられた特権です。



No.26 『一つのことを願う』
◆詩篇27篇4〜6節
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

 主を恐れることを選び、主に信頼したダビデ。その彼が守り続けた習慣・それは神礼拝でした。つまり、み言葉に触れ、祈り、神の民と共に賛美し、神に仕えることを生涯にわたって守り続けたのです。神を礼拝し続けること、これが彼のただ「一つの願い」だったのです。彼はイスラエルの王でした。夫であり、父親であり、様々な責任と役割を持ち、数多くの仕事を抱えていたに違いありません。大勢の人々と関わり、多くの信頼と期待を受けながらも、彼が第一としたのは神礼拝、すなわち神との交わりでした。何故でしょう?それは、彼に一つの確信があったからです。「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるから」です。多くの悩みの日を経験したダビデでありましたが、主を礼拝し続けてきた結果、いつも主がかくまってくださり、引き上げてくださる、そういう実体験があったからなのです。だから、彼は神礼拝を大切にしました。「主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける」。聖書に触れ、祈り、神と人とに仕えることこそ真の礼拝です。これを大切にしていきましょう。



No.27 『つかの間の苦しみと絶えず訪れる恵み』
◆詩篇30篇5節
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。


 この個所は、口語訳聖書で次のように訳されています。「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」。要は、御怒りと思えるような苦しみはある期間だけであって、神の恵みと思えるような良いことが生涯続くということです。これは、私たちの実体験と一致しません!学校でいじめられて帰って来た夕方には涙が宿り、朝明けには憂鬱の叫びがあるだけです。仕事で失敗して恥をかいた夕暮れは涙が宿り、朝明けにはブルーになっているのではないでしょうか。だから、詩篇記者の体験と一般の人の体験の間には大きな違いがあるのです。この差は何でしょうか。答えはただ一つ、信仰と祈りがあるかないかです。神を信じた詩篇記者は涙に打ちのめされませんでした。6節で彼はこう告白しています。「私は決してゆるがされない。」と。そして、彼の信仰が途切れなかった秘訣は祈りにあります。詩篇5篇3節で、ダビデはこう告白しています。「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」と。信仰は祈りを生み出します。そして、祈りは憂いを喜びに変え、嘆きを感謝の叫びに変えるのです。状況が変わらなくとも、信仰による霊的な勝利を魂の内側に獲得するからです。そしていつか状況は変わるのです。さあ、信じて祈りましょう。



No.28 『罪をおおわれた者の幸い』
◆詩篇32篇1〜5節
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32篇1〜5節)

 
 「心に欺きのないその人」は幸いだと詩篇記者は言います。ダビデ王は神を信じる人であり、神に愛された人でありましたが、その生涯において大きな失敗を犯しました。それは姦淫と殺人です。赦されざる罪であり、それは身に裁きを招くような悪事でした。現に、彼は自らの罪に対する報いを受けています。同時に、彼の優れたところは、「心に欺きのないその人」であったことです。自分が何をしたのか、どんな問題が自分にあったのか、そして自分が何を欲していたのかということから目を背けることなく、真正面から自分というものと向き合ったのです。その醜さと弱さから目を背けることも、言いわけをすることも、変に美化することもありませんでした。あるいは他人や環境のせいにもしませんでした。彼は真正面から自分と向きあい、その上で自らの咎を神に告白したのです。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした」とある通りです。人は自分のした行いの報いを必ず受けなければなりません。過ちに対する償いは避けられないのです。たとえうまく切り抜けたとしても、神は絶対に見過ごしたりしません。必ず裁きはやってくるのです。しかし、その罪を認め、開き直るのではなく、神の裁きの前に自らを差し出したダビデは偉大でした。神はそのような者を裁いて終わりにはされません。むしろ、赦して新しい歩みをさせられたのです。ですから、今日も私たちは自らの罪を認め、神に告白し、自分を神の前に差し出しましょう。そのような人には必ず赦しと新しい歩みが待っているのですから。



No.29 『恵みがあなたを取り囲む』
◆詩篇32篇10節
悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。


 私たち人間は心の痛みが多いものです。様々な心配と思い煩いで心を痛めます。人をうらやんだりねたんだりして心を痛めます。競争に負けることや挫折により心を痛めます。思い通りに事が運ばず、心を痛めます。人から言われた言葉や態度によって心を痛めます。本当に心の痛みが多い。このように表現すると自分が可哀そうな人で、周りが悪いかのような被害者意識に陥りますが、必ずしもそうとは言えません。聖書は「悪者には心の痛みが多い」と断言します。つまり、心の痛みの多さの原因が私たちの側にもあるということです。それが何かは、人によって違いがあると思います。しかし、共通していることは、主に信頼せず自分の力や人の力を頼みとしているということです。どこまでも主に頼らない。主に任せない。自らの力を頼みとしている。そういった自己過信と不信仰の傾向が私たち全ての人間に潜んでいるのです。心の痛みはそこからやってくるのです。牧師や宣教師も例外ではありません。しかし、いざ「主に信頼する」時、神の「恵みが、その人を取り囲む」のです。心の痛みが多くなると行動が鈍るし積極性も失われます。しかし、神の恵みに取り囲まれる時、「なんとかなる」と前に進みだすことができます。何かをすれば、必ず失敗もするし罪を犯すこともあるでしょう。挫折することだってあるかもしれない。でも、神の恵みはそれら全てを益とするのです。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です(ヘブル人への手紙10章39節)」。御言葉の約束に信頼し、祈りながら進みましょう。




No.30 『主を恐れよ!』
◆詩篇34篇7〜10節
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。


 「しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」とは、何と素晴らしい約束、何と素晴らしい確信でしょうか。詩篇記者は勧めます。「主を恐れよ」と。現代に生きる私たちの多くは、この主以外のものを恐れてがんじがらめになっています。不景気に伴う雇用の問題、格差の問題、更には震災や原発の問題、そういったものから来る社会不安に巻き込まれています。そのような中での結婚、子育てなどには余計に不安がつのり希望が持てません。じゃあ、現代には不安があるけど、過去にはなかったかというと、そんなことはありません。詩篇が書かれた古代の生活には、もっと身近に恐れるべきものがあったはずです。餓死する危険や殺される危険が常に横たわっていたのです。しかし、まことの神を信じる者たちは、その恐れに振り回されませんでした。彼らは、主を恐れたのです。そして、主の力の前では、他の恐怖は取るに足りない!そう信じたのです。イエス様も、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃいました。私たちが主を恐れ、主に信頼して進む時、主の使いが私たちの回りに陣を張ります。そうして助け出されるのです。また、主を尋ね求める時、よいものに何一つ欠けることはありません。必要は必ず満たされます。それゆえ、「主を恐れよ」! 



No.31 『ライフスタイルをくずさずに』
◆詩篇37篇1〜4節
悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。


 人からひどい仕打ちをされたり、悪口を言われるとショックです(T-T)。そして、腹が立ちます。妬みと憎しみがわいてきます。不幸になればいいのにって思ってしまいます。そして、いつの日か、憎しみのライフスタイルが自分の内にできあがってしまいます。つまり、年がら年中その憎い相手のことを思うのです。まるで、好きな人を思うように、熱心に、熱心に(笑)。そして、気付いたら多くの無駄な時間を過ごしてしまっているのです。本当は、どんな人間でも「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」存在だということを忘れて。だから、ライフスタイルをくずさずに!主に信頼して、すべておゆだねし、自らは信じた道を歩む。そして、地に足をしっかりとつけて、誠実さを養うのです。この養うという言葉がミソ!植物を養うように、動物を養うように、いや、愛する子を養うように、誠実さを養う。つまり、継続すべき事柄だということです。そして、とどめです!「主をおのれの喜びとせよ」。主の持っておられるものを喜びとするのではありません。主ご自身を喜びとするのです。彼を知っていることを、いや、彼に知られていて注目されていることを喜びとするのです。何か願い事が叶うことが目的となって行動するのではなく、神と共に歩む恵みを喜びとし、与えられた使命を全うしていくのです。そうすれば、気付かぬうちに、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」のです。執着すればするほど、人はそれを失います。逆に、理想や願望を全て主に告白してお任せしてしまえば、それを得ることになるのです。危険なのはライフスタイルをくずされること!保っていきましょう。主を信頼し、主を喜ぶライフスタイル。



No.32 『しぶとく生きる』
◆詩篇37篇5〜9節
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行う者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。


 人生いろいろあります。いやな思いをして腹が立つこともあります。不安になって自己防衛的になることもある。保身的になり、人のせいにしたり、環境のせいにしたりすることもあるでしょう。そうでもしないと生きていけない弱さが人間にはあるのです。けれども、そういった怒りや猜疑心でいっぱいになり、心がねじけてしまうと、本人が辛くなっていきます。じゃあ、抑えられない怒りや不安や恐れ、どうしたらいいんでしょう。心から消し去ることなんてできません。解決の方法は一つしかない。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待つ」ことです。心にもたげる悩みはどうせ解決のしようがないのだから、とりあえず主にゆだねて、主が介入してくださることを待つことです。そして、他のできることからはじめて、やり過ごすことです。そうすれば、必ず、主がそのゆだねた問題を解決へと導いてくださいます。「主が成し遂げてくださる」という御言葉にかけてみようではありませんか。「主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう」という聖書の約束に期待して。しぶとく生きていきましょう。



No.33 『信じる道は確かな道』
◆詩篇37篇23〜24節
人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

 
「人の歩みは主によって確かにされる」と聞くと、「どんな人でも神様が平等にその人の歩みを祝福してくださるのよ」なんて解釈してしまう人がいますが、詩篇記者はそんなことを言っていません。残念でした!前後の文脈を読むと、ここで言う「人」とは、主に信頼し主に祝福された人のことです。そういう人の歩み、すなわち、その生き方は主によって導かれ、整えられ、確固たるものとなるということを自分の経験から語っているのです。ですから、心の中で信じてさえいればそれでいいとも言ってないのです。信じて一歩を踏み出し、信じて行動し、信じて生きる必要があるのです。その信仰の第一歩が告白です。キリスト教は信仰告白を大事にします。それは告白こそが信仰が生みだす行動のはじまりだからです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ローマ人への手紙10章10節)」とある通りです。告白は証しでもあり、信仰の力が生み出すものです。それゆえ、信じた者は洗礼を受け、神を礼拝し、その生き方によってキリストを証しします。ただし、そのような行いがなければ救われないと言っているのではありません。それは律法主義であり行為義認の世界であって、それこそ自らを神とする傲慢な考えです。けれども、信仰には力があって、必ず何らかの行動をを生みださせるのです。だから、もう一度自らの信仰をチェックしてみましょう。キリストの身代わりの死と復活を信じていますか?そして、キリストが共におられることを信じていますか?もしそうなら大丈夫。主はあなたの歩みを確かなものとしてくださるに違いありません。主があなたの手をささえてくださるのですから。



No.34 『旅人であり寄留者』
◆詩篇39篇12節
私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。


 詩篇には多くの嘆きの言葉が記されていますが、今日の箇所もその一つです。嘆きと涙がここにあります。神を信じているというのに、嘆きと涙があるというのは矛盾しているように感じられるかもしれません。心に平安と喜びを与えるのが宗教だろうと、信仰しているのに、なお嘆きがあるとすれば信仰には意味がないのではないかと、そんな疑問が生まれます。しかし、実体験はその逆であるということを証明します。信じているからこそ、叫べるのです。信頼しているからこそ、涙を流せるのです。そこにある正直な告白は信仰の現われであり、神との親しさを現わしているのです。また、ここに「旅人・寄留者」という言葉が出てきますが、詩篇記者は孤独を経験していたのでしょう。そして、旧約の聖徒たちが、この地上では絶えず神に頼り神のみもとに身を寄せたように、自分もそのような者だと告白しているのです。負け惜しみのようにも聞こえますが、彼は寂しいからこう言っているのではありません。むしろ、自分も含めて人間というものがどれだけはかないものであるかを知っていたからです(4〜5節)。散りゆく花のような人間が、永遠に変わらぬ神に身を寄せる時、地上では旅人や寄留者のようであっても、天国人としての誇りと確信を持って生きることができるのです。死は永遠への通過点にしかすぎません。それまで、私たちは神の国の大使として、この地上での使命を全うするのです。天の故郷をあこがれつつ・・・(ヘブル人への手紙11章16節)



No.35 『いさぎよさ』
◆詩篇40篇12節
数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。


 ダビデは神に選ばれ、神に用いられた人でしたが、同時に数多くの失敗を経験し、さまざまなわざわいに遭いました。サウル王に命を狙われ、放浪生活を余儀なくされました。イスラエルの王となって、バテシェバとの姦淫の罪を犯し、彼女の夫ウリヤを殺しました。預言者ナタンに罪を指摘されて悔い改めましたが、その過ちの報いを受けました。そういったことを考えると、今日の詩篇の言葉はダビデの経験に合致します。「私の心も私を見捨てました」とあるように、自らの罪を直視した時、自分をやめたくなったのだと思います。ここで話が終わっていれば、自殺者の心理状態です。しかし、彼は神に信頼しました。「私の心も私を見捨てました」と言いながら、彼は「私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください(11節)」と祈っています。ここに信仰者のいさぎよさがあります。自らの罪を直視し、自分が嫌になっていることさえ認めながら、同時に神への信頼を告白して行動するのです。誰かのせいにして自己憐憫に陥りません。自分を責めてふさぎこんだりもしません。心の目を神の恵みに向けるのです。

「悩みごとは次の三段階の解決策によって克服することだ。@まず最悪の事態を考えてみる。Aどうしても避けられないとわかったら、あっさり覚悟を決める。B次いで、気を落ち着けて、事態の改善に取りかかる。」デール・カーネギー



No.36 『神を待ち望め』
◆詩篇42篇1〜2節
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。


 この詩篇には、「指揮者のために。コラの子たちのマスキール」という表題が付けられています。「コラの子たち」とは主の宮において門衛や歌うたいなどとして奉仕した一族のことです。そして、マスキールとは、教訓的な歌という意味だと言われていますが、セラと同じで、不明確な言葉の一つです。ダビデ同様、その人物を示唆して書かれているわけですから、この場合は宮仕えをした人の心理に立って考えるべきでしょう。3節にこうあります。「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか。』と私に言う間」。つまり、敵にばかにされたわけです。「お前の信じている神の助けがどこにあるのか」と。そんなわけで、神に全てをささげて生きて来た詩篇記者は嘆いているわけです。これはちょっとした鬱状態ですね。ところが、彼の行動は信仰的で探究心に満ち溢れていました。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを(5,11節)」と。心の状態は鬱っぽく悩みの中にあろうとも、行動は神への信頼と賛美に導かれていく。実にアンバランスな状態ですが、このアンバランスさが何かを生み出すのです。人はそういう不安定さを避けたがるのですが、その不安定さを忍耐し、主を待ち望む時にこそ神の栄光が現れるのです。

「われわれは、安逸と贅沢が得られなければ人生の幸福はあり得ない、と考えているが、実際に人を真に幸福にするものは、何か我を忘れて取り組める事柄を持つことである。」チャールズ・キングスリー



No.37 『信じるなら神の栄光を見る』
◆詩篇44篇3節
彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。


 イスラエルの民は、モーセを指導者にエジプトから脱出しました。そして、荒野を旅して後、約束の地カナンを占領しました。これはイスラエル民族にとって、自らの存在意義に関わる出来事であり、民族の存亡に関わった歴史です。そのことを詩篇記者はどうとらえたのか。それは、神がイスラエルの民を「愛されたから」だと言います。つまり、神の恵みによるのだということです。「自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません」とあるように、イスラエル人の優秀さや力によったのではないのです。このような信仰は、現代人には理解し難いかもしれません。最近読んだ本の中で、こんな一節がありました。「聖書を斜め読みしましたが、自分の力で生きてきたと信じ込んでいる人間が、絶対神などおいそれと信じられるわけがありません」。これは科学の時代に生きる現代人の本音でしょうし、多くの人がこう考えているのだと思います。いや、現代だけでなく、昔から人類は自分の力だけで生きてきたと信じ込んできたのかもしれません。しかし、神との出会いを経験していたイスラエルの民にとってみれば、自分たちが生きていることそのものが奇跡でした。神の恵みが、その一方的な愛が、私たちを救ったという確信がそこにありました。さあ、どう信じるかはあなた次第です。イエス様はマルタにこう言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか(ヨハネの福音書11章40節)」。私は信じます。



No.38 『悟り』
◆詩篇49篇16〜20節
恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。・・・人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。


 本当に人間はちっぽけな存在です。自然の力の前では一瞬で吹き飛んでしまうノミのような存在です。そして、自分で寿命を延ばすこともできません。詩篇記者はこう言います。どんなに栄えていても、富や名声を得ても、死んだら何の役にも立たないのだと。当たり前のことを当たり前に言っています。しかし、結論が当たり前のことを言っていません。「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい」。つまり、どんな功績があっても、死の前には何の意味もないどころか、悟りがなかったその人は人間以下だということです。これまた厳しい!それでは、「悟り」とは何か?ということになります。聖書全巻に通ずる「悟り」は、常に神との交わりと関係があります。アダムとエバが堕落したのも神との交わりが断たれたことにありますし、罪とは的外れであり、死とは神との断絶です。それゆえ、神との関係回復こそが悟りへの道であり、義であり、赦しであり、永遠のいのちなのです。若干負け惜しみにも聞こえる詩篇ですが、負け惜しみで何が悪い(笑)。負けて勝つ!福音こそが永遠に続く悟りです(ペテロの手紙第一1章25節)。



No.39 『苦しい時の神頼み』
◆詩篇50篇14〜15節
「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」


 今日の詩篇はアサフの賛歌という題がつけられています。アサフはダビデ時代、神の箱がオベデ・エドムの家からダビデの町に運び込まれた時、歌うたいとして抜擢されました(T歴15:19)。先見者とも呼ばれています(U歴29:30)。そのアサフが、神の言葉として記録したのが今日の箇所です。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と主は言われます。「苦しい時の神頼み」と言いますが、実際には苦しい時に神に頼っている人をあまり見たことがありません。苦しい時は、医者に行くか、カードローン会社に行くか、親のすねをかじるかのどれかでしょう。気晴らしにパチンコか、飲みに行くか。どれもこれも、神になんか頼ってません。気晴らしが悪いと言っているのではありません。ただ、普通、人間は苦しい時に神には頼らないのです。というわけで、苦しい時には即祈る!御言葉に耳を傾ける!それから、解決に走る!すると、神が助け出して下さるのです。「あなたはわたしをあがめよう」と主は言われます。神の約束に信頼して、そのような良い生活習慣を築き上げていきましょう。



No.40 『恩寵により』
◆詩篇51篇17〜18節
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。


 恩寵という言葉は少し古めかしく、日常生活で使うことはありません。この恩寵と訳されているヘブライ語の言葉は「御好意」とも訳せるもので、英語ではfavorにあたります。これはダビデが記した詩篇とされていますが、全体を通して神の好意にすがりつくような内容になっています。ダビデは大きな失敗をやらかしました。有名なエピソードですが、家臣であるウリヤの妻バテ・シェバを寝取り、ついには策略をめぐらしてウリヤを戦死させます。もう、最悪な男であり、最悪な王です。こんな奴は王の座から引きずり降ろして、抹殺すべきです。実は、ダビデもそのように思ったのです。預言者ナタンが、貧しい者から子羊を奪い取って旅人にふるまった富める者の話をした時、それを聴いたダビデ王はその話しの中の富める者に怒りを覚えてこう言いました。「そんなことをした男は死刑だ」。その時、預言者ナタンは王に向かって、「それはあなたです」と言い、その話よりも更にむごいことをしたダビデ王の罪を指摘するのです。ダビデの義憤は己に降りかかりました。そこで記したのが今日の詩篇なのです。もう、神の好意にすがるしかありませんね。まさにダビデの心は「砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」でした。結果として、ダビデはそれなりの報いを後に受けるのですが、同時に神の恩寵により、それこそ御厚意によって、イスラエルの王としての確固たる地位を獲得し、そのバテ・シェバとの間に生まれたソロモンが王となって、イスラエルは繁栄するのです。何とも複雑な内容ですが、おバカなダビデに対する神の恵みに驚かされます。ある意味、おバカな私たち。全く堕落してしまった私たち人間には、やはり神の御好意が必要です。十字架こそが神の好意の頂点です。福音の恵みに信頼して、おバカはおバカなりに悔い改めて進んで行きましょう!



No.41 『あなたの重荷を主にゆだねよ』
◆詩篇55章22節
(新改訳聖書)あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
(新共同訳聖書)あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。


 新改訳では、「心配してくださる」と訳されているところが、新共同訳は「支えてくださる」と訳出しています。そのほうが、後の文章につながりやすいと思うのですが、「ゆるがされない・動揺しない」ためには、やはり神の支えがぴったりではないでしょうか。そう、神はささえてくださるのです。そしてゆるがされたり、動揺することがないように計らってくださるのです。これが、神の側から私たちに与えられた約束です。つまり契約ですね。では、この契約へのサインは何でしょうか。私たちの側ですべきことは何でしょうか。それは、「あなたの重荷を主にゆだねよ」です。つまり、主に信頼し、私たちが背負う重荷を主にゆだねることです。決して投げやりになったり放棄することではありません。むしろ、抱えている重荷を、腹をくくって受け止め、先行きの不安や心配を主にゆだねて、前に進んで行くことです。祈りによって重荷を神の前に降ろし、賛美によって喜びにあふれましょう。

「悲しむ理由よりもっと多く、喜ぶ理由が私たちはある。なぜなら神に望みをおいているのだから。 」マルティン・ルター



No.42 『みことばに信頼をよせて』
◆詩篇56章4節
神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。


 この詩篇は、ダビデがサウルの手を逃れて、ペリシテ人の町ガテの王アキシュのもとに逃れた時に書かれたものとされています。この時、アキシュの家来たちは、この男がイスラエルの勇者ダビデであることに気付き、アキシュに警戒を促します。すると、ダビデはアキシュを恐れて奇行にはしり、気が狂ったふりをするのです。結果として、ダビデは捉えられることなく、逃れることができました。イスラエルの勇者ダビデにしては、何とも恥ずかしい話です。その後、ダビデはアドラムの洞穴に非難し、彼の近親者が大勢おしかけます。また、「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった(サムエル記第一22章2節)」のです。サウルから逃げてペリシテ人の地に行き、そこでも捉えられそうになったので気が狂ったふりをし、逃れた後には洞穴で近親者や問題を抱えた人たちと合流する。実にみじめで、死に物狂いで、恥も外聞もない生き方です。世間体を気にしたり、自分を取り巻く反対勢力を気にしていたら、ダビデはとっくに駄目になっていたでしょう。しかし、彼はゆるがなかった。その秘訣が今日の御言葉です。ダビデは今日の言葉を反復しています(10〜11節)。神の言葉に目を止め、神に信頼し、他者を相対化する。これこそ彼の強さの秘訣です。神の約束に心を向け、主の救いを信じて進んで行きましょう。



No.43 『逆境の中の賛美』
◆詩篇57篇7〜11節
神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。


 「何ぞええことおましたか?」と問いたくなるような、ダビデさんの賛美です。「さぞかしええことおましたんやろうな。うらやましい・・・」と言いたくなるところですが、実はその間逆!ダビデさんがサウル王から命を狙われて、洞窟に逃げ込んでいた時の詩篇です。「神よ。私をあわれんでください」という言葉ではじまるこの詩篇。大きな試練の中で書いたこの詩を、ダビデは賛美でしめくくります。彼はどんなに苦しい時でも神をほめたたえました。それは彼のやせがまんではなく、神への信頼から自発的に生まれた行動です。神にのみ助けを求め、人間的なものを頼りとしなかった彼の信仰がここに現れています。というよりも、彼の状況を考えると、他の人の助けを期待できなかったわけですけど。孤独を感じる時、「あ〜しんど!」と思う時、何もかも投げ捨てて逃げ出したくなる時、逃げ出して下さい(笑)!でも、心の中で。神への賛美と祈りの部屋へと。そこに神がおられ、逆境を乗り越える力があるのです。



No.44 『主の前に静まる』
◆詩篇62篇1〜2節
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。


 黙ること、主の前に静まること、そして心の内に語りかけられる主のみ声に耳を傾けることはとても大切です。自分自身の毎日を省みても実に言葉数が多い。自分がどう思っているか、どのように感じているか、そして何が好きで何を欲しているか、そういうことを語ることに必死です。私の主張が一番になってしまっています。黙って聴くということがなかなかできません。というよりも、聴く気がないのです。ところが詩篇記者は言うのです。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」と。静まりの時を大切にする時、「私の救いは神から来る」のです。静まりの中で、神は私たちを思い煩いと不安から解放してくださいます。そして、自分が神に愛され、神に喜ばれていることをもう一度思い起こさせてくださるのです。その神との交わりの中では、もはや必死で自分の主張をする必要はありません。生き残りをかけて必死に語る必要もないのです。なぜなら、「私の救いは神から来る」からです。それゆえ、こう言うことができるのです。「私は決して、ゆるがされない」と。私たちの歩みが確かなものとなるためには、黙って主の前に静まることが大切なのです。



No.45 『心の揺らぎ』
◆詩篇68篇5〜6節
みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

 「みなしご」と「やもめ」は頼るものを失った人たちです。「孤独な者」も「捕らわれ人」も同様によりすがるものを失った人たちです。そういう人の心の状態は、寂しさ、憂い、恐れ、不安、苛立ち、失望、落胆、抑うつ、といったところでしょうか。実に揺れ動いた心の状態です。できれば、誰もそんな状態にはなりたくないはずです。なりたくないんだけれど、なってしまう時がある。クリスチャンになったからって、そういう状態を免れるわけではない。あるいは、伝道者・牧師・宣教師になったからって、霊的巨人になり心の揺らぎがなくなるわけではない。いや、むしろ、神にお仕えし、神に従う道のりには、絶えずそういった心の揺らぎがおこるのであり、その揺らぎこそが悔い改めや祈りや従順を生み出すのではないでしょうか。だから、完璧になることや楽になることを善や優、発展途上で揺らぎがあることを悪や劣と考えることは間違っているし、そういうものの見方しか出来ない人は、人としての深みや魅力に欠けているように思います。そして、そういう人には神が見えないし、自分を通して神を見せることもできません。今、憂いの中にあり、心の揺らぎを経験されている方。それでいて、明るくふるまわなければならない責任と立場をお持ちの方。イエス様も憂いと心の揺らぎを経験されたことを覚えてください。その生涯と十字架の死において、私たちの主は憂いと揺らぎを経験されたのです。そして、その憂いと揺らぎとが、間断なき父なる神との交わりを生み出し、比類なき偉業を成し遂げたのです。「悲しみの人で病を知っていた(イザヤ書53章3節)」イエス様を見上げながら、主が栄えさせてくださることを信じて進んで行きましょう。



No.46 『創造主なる神と造られた私』
◆詩篇71篇5〜8節
神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。


 キリスト教信仰とは何かと問われた時、それは「倫理や道徳としての宗教ではなく、神との関係」だという答え方があります。すなわち、神との交わりであり、そこから生まれるところの自己認識です。神を知り自らを知るということでしょうか。この詩篇は明確にそのことを語っています。神が母の胎に彼を宿させ、そして、その母の胎から彼を取り上げ、彼をいだき続けてきたのは神だ言っているのです。神こそが創造者であり支配者だということです。そして、自分は何者かというと、その神に望みを置いて、神に信頼し、神を賛美する者、すなわち神を王とする民であり、神のしもべだということです。自由を約束された現代人には窮屈に思えるこの考え方ですが、しかし、それは強いられたり脅されたりした結果ではありません。神の恵みを経験し、神の愛と導きを知った彼の内発的な告白、素直な信頼と服従だったのです。このような神との関係こそが、私たちの生き方を確かのものとし、力強いものとするのです。「自分は何者なのだろうか。自分は何のために生まれ、行きいているのか。私に存在意義があるのか」この答えは、ただ一つ、神との関係にあるのです。

「神を知る知識と、われわれ自身を知る知識とは、結び合ったことがらである」(ジャン・カルヴァン)。



No.47 『神を知っているという富』
◆詩篇73篇25〜26節
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。


 この詩篇には「アサフの讃歌」という題がつけられています。アサフとはレビ族の人で、宮仕えをする音楽家でした。レビ族と言えば、所有地を持たない部族として聖書に記されています(ヨシュア記13章14節)。それは土地だけではなく、財産を持たない部族です。それゆえ、彼らは他の部族のささげ物によって支えられました。レビ族はこうして、カナンに定住した後も、確かな生活の基盤を持たず、子孫に伝えるだけの財産を何一つ所有することなしに、言わば「その日暮らし」の生活に甘んじて生活したのでした。ある意味で、このレビ族の犠牲が、荒れ野のイスラエルの霊的生命を支えていたとも言えます。そんなレビ族の歌うたいであるアサフの葛藤を記したのがこの詩篇です。自らの力を誇り、繁栄する人を前にして、何も持たないレビ系のアサフは妬みと敗北感で苦しみます。しかし、一たび神の聖所で礼拝をささげると、彼の心の目は開かれ、妬みと敗北感から解放されるのです。そして、告白したのがこの言葉です。「しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」。この言葉は、パウロの言葉をも思い出させます。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています・・・(ピリピ人への手紙3章8節)」。成功や失敗、順境や逆境、幸いや災い、何があろうと神を知っているという富を持つ限り、私たちの存在意義が奪われたり、私たちの価値が左右されたりすることは絶対にありません。キリストを知っていることこそ、最大の富です。



No.48 『いつくしみ、赦し、恵み』
◆詩篇86篇5節
主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。

 
 いつくしみ(ヘブライ語のトーブ)は、神がその民のことを思う配慮のことです。イスラエルの民は、自分たちの歩みを振り返って、そこに神の配慮があったことを思い起こすのです。そして、自分たちが絶えず神に赦されながら歩んできたこと、そして、神の約束に基づく恵みがそこにあったことを思い起こしています。同様に、神の私たちに対する態度は、いつくしみ、赦し、恵み、です。神は私の愚かさや弱さをよく御存じであり、その上で様々な配慮をしてくださるお方です。時には、私にとって嫌なこと、不本意なことを、神は起こされます。しかし、その経験が神を「呼び求める」という信仰や祈りに向かう時、神は全てのことを働かして益とされるのです(ローマ人への手紙8章28節)。また、罪を犯してしまった時も、そのことを認めて、神を「呼び求める」時、赦しときよめが与えられます(ヨハネの手紙第一1章9節)。神は御自身を「呼び求めるすべての者」に恵み豊かな方なのです。それゆえ、神を「呼び求める」ことをやめてはなりません。どんなに失望しがっかりしても、どんな過ちを犯してしまっても、神を「呼び求める」ことだけはやめてはならないのです。全てがうまく行っている人は、往々にして神を「呼び求める」ことをやめてしまいます。自分の力で歩んできたと自負し、自らの行いの立派さや正しさを頼りとする者は、神を呼び求めないのです。しかし、それこそが聖書の言う最大の不幸、最大の裁き、最大の呪いです。神を知り、神に知られ、神との交わりに生きることこそ最大の幸福、最大の祝福なのですから。

「祈りがなかったら、私はとっくの昔に気が狂っていただろう。」マハトマ・ガンディー



No.49 『感謝と賛美』
◆詩篇100篇
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。


 この詩篇は、神の民に対する礼拝の勧め、神礼拝への招きとでも言うべきでしょうか。そこで、神を礼拝し祈る前に、この詩篇は「知れ」と命じています。知っておいて欲しいこと、それは、聖書によって啓示された主こそが真の神であるということ。そして、その神が私たちを創造されたということ。更には、私たちは神のものであり、神と私たちの関係は羊飼いと羊のようなものだということです。この関係性を理解するということが大前提です。その上で、礼拝の態度、祈りの態度が教えられています。それは、「感謝と賛美」です。これまで見てきた詩篇の中に、多くの嘆きと叫びの祈りがありました。それは赤裸々で正直な祈りであり、神はそのような祈りを退けてはおられません。けれども、詩篇記者は必ず、その嘆きや叫びとともに、神への「感謝と賛美」を忘れないのです。一見矛盾しているようですが、これこそ信仰の醍醐味です。神を信じるとは神との交わりが生まれることであって、完璧な人になることではありません。マルティン・ルターはクリスチャンのことを「全く罪人にして、同時に全く義人である」と言いましたが、まさにその通りです。外的な現われとしては、肉の弱さのゆえに、様々な悲しみと嘆きを持ちながら生きるのですが、同時に魂の深い所では神への信頼を持っているので、そこに感謝と賛美が生まれるのです。これは強がりでもやせ我慢でもなく、そうせずにはおれない神の愛が心に注がれているからです。今日も創造者なる主のもとに帰り、感謝と賛美をささげましょう。主のいつくしみと恵みがそこに用意されているのですから。



No.50 『一生を良いもので満たされる!!』
◆詩篇103篇3〜5節
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

 
 ここには、神が、信じる者たちに対してどのような助けを与えてくださるか、ということが約束されています。一見すると、現世御利益を語る新興宗教と何ら変わらない教えに思えます。信仰してさえいれば何でもうまく行くというような、非現実的で妄信に近い解釈をされてしまいそうですが、詩篇記者にそんな意図はありません。むしろ、極めて現実的です。人の歩みには、咎があり、病があり、穴に落ち込むような挫折があり、神を信じている者にもそのような経験が訪れるということを大前提にして、この詩篇は書かれています。渡辺善太という牧師が教会の中に巣食う現世御利益信仰について次のように記しています。「事業に失敗したために信仰をなくした人の例とか、愛児を失ったために出席しなくなった婦人の例とかが、常に絶えない。これは現世御利益がその人々の信仰生活の本質であったとまではいわないにしても、少なくとも『神を信ずる者には幸福が与えられるものである』という考え方が、その人々の心のどこかに付着していたために、そんなつまずきが起こったのだといわざるを得ない」。実に的を射た指摘です。ここに留まっていては、福音を理解したことにはならないし、キリスト教を信じたことにはなりません。福音信仰は、このような厳しい現実にもかかわらず、神が乗り越える力を与えてくれると約束しているのです。結果として、赦しと癒し、贖いと恵みとが後にやって来て、振り返ってみれば「良いもので満たされた!」と言えるのがキリスト教信仰なのです。自分の罪と現実の厳しさにうろたえず、神の恵みに信頼して歩んで行きたいと思います。主が私の歩みを新しくしてくださることを信頼して。



No.51 『Dreamer』
◆詩篇105篇19節
彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
◆創世記37章18〜20節
彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」


 ヤコブには12人の息子がいました。その中で、ヤコブが最も溺愛したのがヨセフでした。そのため、ヨセフは他の兄弟たちに妬まれ、憎まれることになったのです。更に、ヨセフは夢見る人でした。その夢の内容は、兄弟や両親が自分のことを拝み、おじぎをするというものでした。そのため、それを聞かされたヨセフの兄弟たちはヨセフを更に憎むようになってしまったのです。妬みと憎しみと殺意に満ちた兄弟たちはヨセフをエジプトに奴隷として売ります。そして、エジプトの地でもヨセフはいくつもの試練に遭遇します。しかし、ヨセフが夢見る者としての能力を発揮したことがきっかけで、ヨセフはエジプトの大臣となり、ついには飢饉からヤコブの家族全員を救うことになるのです。そして、若き日に見た夢が実現します。ここに来てはじめて、ヨセフが見た夢が神からの啓示であったことがわかるのです。詩篇105篇19節にあるとおり、ヨセフが語った夢のことばは何度もためされました。私たちの人生においても同様のことが言えます。神が私たちに語られた約束、そして私たちの夢は絶えず試されなければなりません。いや、むしろそれを試すのは神です。そして、神の約束や私たちの夢は試されながら実現していくのです。ですから、大切なのは信頼し続けること、耐え忍ぶことです。同時に、神の約束は宣言されなければなりません。そして、夢は語られなければなりません。語って行きましょう。



No.52 『何を恐れて生きるか』
◆詩篇111篇10節
主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。


「汝は百エーカーの農場を持つよりも、一冊の聖書を持つ者となれ。」アブラハム・リンカーンの母

百エーカーってどのぐらいの大きさなのでしょう。ちなみに、百エーカーという言葉には聞き覚えがあります。そう、くまのプーさんが住んでるのは100エーカーの森です。1エーカーは約4000u。だから100エーカーは約400000uです。東京ドームが46755uなので、ドームが8個は入ります。スゲェ〜! 「頑張って仕事したら、百エーカーの農場をあげるよ」って言われたら、必死でがんばりますよね。テンションあがります。特に、今は不景気ですから、そんないい話があればガンガン行くでしょう。でも、一冊の聖書を持って、神に信頼して生きよ!なんて言われたら、テンション下がります。人は様々な恐れを持ちながら生きています。お金がなくなるおそれ。愛されなくなる恐れ。注目されなくなる恐れ。失敗する恐れ。いろいろです。それゆえ、100エーカー農場なんかが与えられた日にゃ、この全てのおそれが吹き飛んでしまうでしょう。あるいは、すごい能力が与えられたら人々の注目も失われることはありません。頭の良さ、容姿の美しさ、様々な得と思われる要素が備われば、あらゆる恐れが吹き飛ばされます。だからこそ、欲しい!百エーカーの農場、美貌、才能、欲しい。さて、リンカーンはどっちを選んだのでしょう。若い頃は百エーカーのほうを選んだようです。すなわち、成功を求めて恐れを払拭する道を選択したのです。しかし、黒人奴隷解放を唱えはじめて以降は、それが神からの使命と感じ、一冊の聖書を持つ者となりました。つまり、神を恐れる道を選んで行ったのです。彼は、若き日に反発していた母の信仰を継承することとなるのです。本当の知恵は、主を恐れることからはじまります。これを行う人は、すぐれた思慮を得る(新共同訳)。主を恐れ、主を信じていきましょう。



No.53 『この日は主が造られた』
◆詩篇118篇24節
これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。


 今日という日は偶然に与えられた一日ではありません。たまたま生き延びて存在する一日でもなければ、当たり前にやってくる一日でもないのです。この詩篇記者によるなら、一日は主が設けられた日、神様が私たちに与えてくださった日なのです。だとすれば、その一日には意味があり、何か私たちに成すべき使命が与えられているのです。今日しかできない何かがあって、それを大切にしていく時、それはまた明日につながって行くのです。過去のことに対する後悔も、将来に対する心配も、思い煩いと取り越し苦労を生み出すだけで、時間の無駄です。主が設けられたのは今日という日だけです。イエス様もおっしゃいました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」今日なすべきことに心を集中し、そしてこの日を満喫し喜びましょう。今日という日が、主が私のために設けてくださった日であるということを信じて。

「人生とは、今日一日一日のことである。・・・確信を持って人生だと言える唯一のものである。今日一日をできるだけ利用するのだ」デール・カーネギー



No.54 『山に向かって目を上げよう』
◆詩篇121篇
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。


 この詩篇は「都のぼりの歌」と表題が付けられている通り、エルサレムへの巡礼の詩篇です。「私は山に向かって目を上げる」という言葉も単なる山を指しているのではなく、シオンの丘・エルサレムのことを指しています。つまりこの詩篇は、「主の助けはどこから来るのか。それは神を礼拝する地・聖なる都エルサレムから来る。何故ならそこに主がおられるからだ!」というような内容のことを歌っているのです。新約の時代を生きる私たちにとって、もはやエルサレムという土地や神殿には意味がなくなりました。神の国は私たちのただ中にあり、私たちこそ神の神殿だからです。しかし、ダビデの時代のように神さまを礼拝することは続けられています。私たちの助けはどこから来るのか?それは神さまを礼拝するところから来るのです。神礼拝に優先順位を置く時、そこに主の助けと守りがあるのです。日曜礼拝を大切にしましょう。いや、それだけでなく、日々の祈りと聖書の朗読を欠かさないようにしましょう。そうすることで、絶えず神の約束に留まり続けましょう。「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」のですから。



No.55 『主の備えに信頼して』
◆詩篇127篇1〜2節
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。


 何事にも準備は必要です。料理をするにも、仕事をするにも、どのような働きにも備えが必要です。危機管理も備えの一つです。用意が周到でなければ不安にもなりますし、うまく行かなかった時のことを考えると、物事に取り掛かれません。まさに、「備えあれば憂いなし」です。ところが、人生には想定外のことが起こるのです。今日の詩篇で言えば、家を建てることも、町を守ることも、朝早く起きて準備をし、夜遅くまで仕事をして苦労し、労働時間を長くして多く稼ぎ糧を得ようとも、突然訪れる「想定外」には太刀打ちできないわけです。それこそ、「備えあっても憂いあり」という現実があることを詩篇記者はわかっていました。しかし!そのような現実を知り、経験してもなお、それを乗り越える希望が彼にはあったのです。それが「主の備え」です。私たちの備えを越えて、想定外を越えて、どん詰まりの行き詰まりをも越えて、なお備えることのできる主に彼は期待を寄せたのです。人生の原則は、「備えあれば憂いなし」です。努力を怠る者は、良い結果を期待できません。学ぶことを適当にしてしまうと、愚かさが身についてしまいます。しかし、たとえ備えが万全でも虚しくなるのが人生であり、その備えが全て虚しくなるような出来事が起こりうるのです。それゆえ、最後には、その出来事を超越したお方を頼りにしなければなりません。それこそが、唯一のまことの神と、神の遣わされたイエス・キリストなのです。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」のです。主の備えに信頼して進みだしましょう。



No.56 『偶像崇拝の罪』
◆詩篇135篇15〜18節
異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。口があっても語れず、目があっても見えません。耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません。これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。


 ウィキペディアにこんな記事がありました。「1932年5月5日に上智大学の学生の一部が靖国神社の参拝を拒否したため、『カトリック、否、全キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師などはそれぞれの母国から派遣されたスパイである。』とのバッシングを受けるという上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こった。そのためカトリック教会は『祖国に対する信者のつとめ』を出し、神社参拝を行うようになった」。これでいいのか!と言いたくなる内容ですが、日本の多くのキリスト教会が、戦時中に偶像崇拝を容認してしまいました。これは他宗教の葬儀に参列するとか、武道を習って礼をするとか、そういうレベルを超えた話しです(日本文化を理解できない欧米の宣教師たちは、過去にこれさえも禁止しましたが、それは行き過ぎです)。私は、19歳の頃から聖書が教える創造主を信じてきました。そして、救い主イエス・キリストを信じることによって救いを経験しました。そのことは私の人生において最も重要な出来事であり、20年以上経った今でも、この福音信仰を大切にしています。それゆえ、イエス・キリストを通して父なる神に祈り礼拝する以外には、他の神々を礼拝する気は全くありません。他宗教が存在することに敬意を払いますが、だからと言って、自らの信仰とその教義を曲げるつもりは毛頭ありません。何故なら、私は、私のために神の子がいのちを投げ出してくださったと信じているからです。偶像を拝むこと、占いをすること、お祓いをしてもらうこと、これは誠の神を信じる者にふさわしくありません。



No.57 『主の恵みにすがれ』
◆詩篇138篇6節
まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。


 誰とは申しませんが、ビジネス書を読みますと「レベルの低い人間と関わると自分もレベルが下がる。レベルの高い人間と関わるようにしろ。そうすれば、自分のレベルも上がって成功する」というようなことがよく書かれています。「なるほど。その通りだ。よりレベルの高い人から学ぼう」なんて思ったことがありますが、今はそういう考えに虫唾が走ります。確かに、こいつはレベルの低いやつだなと思うことは今でもあるのだけれど、だからといってそれが当たっているとは限りません。私が見ているのは一部の弱点であって、その弱点の裏にある良さもまたあるはずなのです。例えば、いい加減な人は他人に対して大らかであったりします。逆に几帳面でしっかりしている人が融通がきかなかったりせっかちだったりします。人の長所・短所などというのは実に相対的で、見る側面が変わると良くも悪くもなるのです。ましてや絶対者なる神から見れば、私たちの誇りとするところも、醜悪にしか見えないのかもしれません。「これだけできたから、自分はある程度のレベルに達した」と思い込んでしまった心の状態のほうが、大問題なのです。神の前には、偽善も、自己満足な修養も、自分に箔をつける慈善行為も、全く通用しません。ちゃんとわかっておられます。だから、しっかり神の前に降参して、正直な自分で祈りましょう。そうする時、神の前では、私たちの罪も弱さもあらゆる醜さや恥もあまり大した問題ではありません。私たちがそのことの故に落ち込んでも、神にとっては深刻な問題ではないのです。それを解決する道があるからです。それは、神の恵みに信頼するという道です。神の恵みには、私たちの罪と弱さを覆い尽くし、その欠けにもかからわず帳尻を合わせる力があるのです。この恵みにすがる者を神は絶対にほっておかれません。神からしたら、相当に可愛い子のはずですから。それこそ「低い者を顧みてくださいます」。けれども、全部自分の力で帳尻を合わせようとする大人びた子どものどこに可愛さを感じるでしょうか。ましてや「神などいらない」と言わんがばかりの立派そうなふるまいは、鼻について仕方がない。それこそ、「高ぶる者を遠くから見抜かれます」。今日も、主の恵みに信頼して行きましょう。



No.58 ■詩篇139篇 第一回目
◆詩篇139篇1〜6節
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。


 この詩篇において、記者は神が自分を知っておられるということを強調します。何度も「知る」という言葉が使われていて、自分と神との親しい間柄について記しています。彼は神の愛を信じていました。そして、彼も神を愛していました。それゆえ、神に知られているということは、彼にとって大きな慰めであり力であったのです。恐らく、生涯の中で神に守られ、神に導かれるという経験を何度もしてきたのでしょう。そして、その神に自分の生涯をささげて生きてきたのだと思います。そういった経験値から、彼は神に知られていることの素晴らしさを告白しているのです。19〜22節を読むと、この人は苦しみに合っていたようです。それも、神を信じているにも関わらず受ける苦しみ、不条理を体験していたのです。それは恐らく彼の心を傷つけ(24節)、がっかりさせたのだと思います。しかし、彼は思い起こしました。神が自分を知っていて下さるということを。そして今も自分を見守り、必ず解決の道を用意して下さると信じて祈っています(24節)。同様に、私たちももう一度思い起こしましょう。神に愛されているということを。そして、神が私たちの心を知り、抱えている問題を知り、その人生を知っていて下さるということを。その上で、信頼の一歩を踏み出し、信仰の祈りをささげ、神に期待して生きていこうではありませんか。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」と(ローマ10:11)。



No.59 ■詩篇139篇 第二回目
◆詩篇139篇7〜12節
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。


 この詩篇記者の告白は、神というお方の偉大さを表しています。神の普遍性と超越性を、私たちはこのちっぽけな頭で理解することができません。神の御霊は常に私たちの周りに働いていて、そこから逃れることなどできません。たとえ私たちが罪を犯し、神への不従順のために神から離れてしまったと思っても、それは私たちの側の思いこみでしかありません。神はいつも私たちと共におられ、私たちが神の前に罪を告白したり悩みを吐露して祈ること、そして御声に耳を傾けることを待っておられるのです。神は偉大であると同時に、神に信頼する者に対して恵み深いお方なのです。それゆえ、私たち人間がする善悪や優劣の判断、あるいは勝ち負けや成功と失敗の評価も、神の前では通用しないことがあるのです。それこそ神の前では「やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです」。さあ、ものごとがうまく行っているなら、神への感謝をささげましょう。そこに神の恵みがあるからです。しかし、たとえ逆境の中にあっても、慌てて性急な判断をしてしまったり諦めてしまったりしてはいけません。思い通りにことが運ばなくても絶望してはなりません。そこには必ず神の御手があり、神の御霊が働いているからです。病気になったり、困難な出来事が立て続けに起こると、周りの人は祟りだの、罰だの、クリスチャンであれば罪のせいだとか悪霊にやられてるとかほざくかもしれませんが、ほうっておきなさい。どうせほざいた奴があとで痛い目に合うのです。大切なのはあなたと神との関係です。そこに神への愛と信頼と希望があれば大丈夫。必ず全ては益に変えられ、ヨブのような結末を経験することでしょう。



No.60 ■詩篇139篇 第三回目
◆詩篇139篇13〜16節
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

 この「書物」という表象は、聖書の中に何回か出てきます。特に「いのちの書」という名で出てきます(詩篇69:28、イザヤ4:3、ピリピ4:3、黙示録3:5、13:8、17:8、20:12、21:27)。このいのちの書に名の記された者とは、神に選ばれた人のことをさしています。神の選びという教えに関しては様々な批判があります。選民思想であるとか、優越意識があるとか、神の選びの教理に対しては傲慢のレッテルがはられます。そこに優越意識があるなら、それは確かに傲慢です。しかし、聖書の言う選びとはそのような特別に優れているという意味はありません。むしろ、救いようのない愚かな罪人が、神の恵みによって救われるという選びであって、人間の側には何の功績もないのです。ただ、神からの一方的な愛によって救われるのです。それゆえ、自らの罪を認め神の恵みを信じている者は選ばれた者であるということができます。信じているから選ばれるのではなく、選ばれたから信じるのです(使徒の働き13章48節)。ですから、神に対する信仰や期待、あるいはすがる思いが起こされることの背後には神の選びがあるのだということです。そして、その選びには必ず使命が伴います。神はあなたを用い、あなたの生涯に、御自身の栄光を表そうとしてあなたを選ばれました。それも、お母さんのお腹の中にいた時からです。さあ、恵みによって選ばれたという自覚と使命感を帯びて、これからの冒険に満ちた人生を勇気をもって踏み出して行きましょう。大丈夫、神が共におられます。



No.61 ■詩篇139篇 第四回目
◆詩篇139篇23〜24節
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。


 1節で、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」と確信に満ちて記しているにもかかわらず、この詩篇のしめくくりで「私を探り、私の心を知ってください」と願っているのは矛盾しているように思えます。しかし、ここに生きた神との交わりがあるのではないでしょうか。神が私を知っておられ、「ことばが私の舌にのぼる前」(4節)から、私の思いを知っていてくださる、そして主はいつも私と共にいてくださる、そのように知的には理解しているし、そのように信じてはいるのです。詩篇記者もそう理解し、信じていました。ところが、そこで話しが終わっていたら神を信じるとは知識の集積でしかないということになります。しかし、そうではありません。そこから祈りに進んでこそ、はじめてその信仰は結実するのです。聖書に触れ、御言葉の真理によって心の目が開かれ、そこから祈り出す時、その祈りは独りよがりな祈りではなくなり、神の御心に適う祈りとなっていくのです。そして、神の御心に適う祈りは実現します。ここに御言葉と祈りのバランスがあるのです。私たちの祈りが単なる現世御利益信仰の祈りのレベルから脱するには、このバランスが必要なのです。御言葉の約束をしっかりと心に握りしめながら、それを拠り所にして祈る時、私たちの祈りは神の国とその支配を地上にもたらす祈りとなるのです。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」ヨハネの手紙第一 5章14節



No.62 『主を恐れ、主の恵みを待ち望め』
◆詩篇147篇10〜11節
神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。
 

「馬の力」「歩兵の数」これらは人間の権威や権力を表しています。人はみな、人の持つ権威と権力を頼みとするものです。そして力を持つ人を恐れるのです。私も含めそうでない人などいないのではないでしょうか。そして、権威や権力を頼みとして人を恐れること自体は善でも悪でもありません。状況によっては恐れるべき人を恐れることは礼儀であり、何でもかんでも権威に歯向かうことが正義とは限らないのです。しかし、権威や権力におもねり人を恐れるあまり、その後ろ盾がなければ何もできないなどと考えるのは大きな間違いです。また、失敗し挫折したからといって、自分は負け組だなどと考えるのも早合点です。それこそ、世界は人の力によって支配されているという考えの現われであり、とてつもなく傲慢な思い込みです。人間の力を凌駕する自然の力があるのです。そして、それを支配しておられる全知全能の神がおられるのです。そしてそのお方の手にかかれば、挫折も失敗も、それこそ病や死さえも、全てが益と変えられるのです。それこそ恩恵の力です。そして、その神の恩恵を信じて立ち上がる人を神は喜んでくださいます。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」とあるとおりです。そして、「主を待ち望む者は新しく力を得」るのです(イザヤ書40章31節)。信頼して進んで行きましょう。

「私を傷つけるものは私自身である。私が受ける傷は、本来私自信が持っている傷である。私自信のもたらした悩みを除いては、そうした悩みはすべて幻にすぎない」聖ベルナール



No.63 『神の義が与えられる』
◆詩篇31篇1節
主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。


 マルティン・ルターの信仰義認の発見は、この節の講義が発端だと言われています。はじめにルターは、神の「義」を裁きや怒りや罰の脈絡でとらえていました。ところが、「あなたの義によって、私を助け出してください」というこの一節に差しかかったとき、その裁きや怒りや罰であるはずの「義」が、どうして人を救うのかと、矛盾を感じて行き詰ります。その後の研究から、ついに彼は「神の義」の意味を発見します。聖書が教える「神の義」とは、人間の行いや努力が神に受け入れられるかどうかによって判定されるものではなく、恵みによって与えられるものだということです。つまり、賜物であり贈り物なのです。その贈り物として、イエス・キリストが罪深い人間の救いのために遣わされました。このお方の身代わりの死により、ただ信じるだけで与えられるのが「神の義」であり、恵みの賜物であるという真理にルターは行き着くのです。それはまるで、キリストが何の罪もない神の子であられたように、私たちもそのように父なる神からみなされるという、あり得ない特権を得ることなのです。これこそ、まさに驚くばかりの恵み(Amazing grace)であり、良き知らせ・福音(Gospel)です。それもただ信じるだけで救われる。裏返せば、信じることによってしか救いようがないほどに、人間は罪におかされ、その意志は罪の奴隷であるということを表しています。神の義は、そのような絶望的な罪人である人間を救いだす力があるのです。この義にすがって行きましょう。



洛西キリスト教会

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