ピリピ人への手紙philippians

From the pastor's office <牧師室から>


No.01『良い働きを始められた方』
◆ピリピ人への手紙1章6節
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。


 主は私たちのうちに良い働きを始められるお方です。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ人への手紙2章10節)とあるとおり、イエス・キリストを信じた者は新しく造られた者であり、神の栄光を表すために良い行いも備えられているのです。その良い行いをするのはあなたなのですが、それを始められるのも、それに必要な力や財、そして人との関わりを与えてくださるのも、主イエス・キリストなのです。万物の創始者であり完成者である主イエスが無尽蔵の富の中から、一切の必要を満たしてくださるのです。そして、主がその良い行いを完成させてくださるのです。だから、あきらめないで進んで行きましょう。自分の弱さや罪深さから目をそむけ、何か素晴らしい者にでもなったかのように勘違いし、自分の力により頼む者は、必ず失敗します。逆に、自分の弱さや罪深さだけを見つめていては何もできなくなります。その弱さや罪を認めながらも、それを補って余りある恵みを注がれる「良い働きを始められた方」主イエス・キリストに目を留めるべきです。「わたしは世の終わりまであたながたとともにいる」とおっしゃった主イエスのお約束に信頼して進んでいきましょう。主は、絶えず赦し、豊かに満たし、力を注いでくださるお方です。



No.02『キリストのための苦しみ』
◆ピリピ人への手紙1章29節
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。


 キリストを信じるという体験は本当に素晴らしいものです。神の無条件の愛と出会い、罪の赦しを体験します。そして、神の子として生き、永遠の命にあずかります。それも信じるだけで与えられるのです。しかし、パウロはそれに加えて、「キリストのための苦しみ」を語ります。キリストのための苦しみとは何でしょうか。それは、一生懸命に生きているのに、神を信頼して歩んできたのに、物事がうまく行かないという経験です。それどころか、迫害やいじめを経験するというものです。これこそ、まさに「キリストのための苦しみ」であり、パウロはそれを「賜わった」と言います。つまり神が与えたということです。「そんな理不尽な!」と言いたくなりますが、パウロはその苦しみを肯定的にとらえました。それは耐え忍ぶべきものであり、乗り越えるべきものであり、神が与えた訓練だと受け止めたのです。それは、決して、悪や不正に屈したというわけではありません。泣き寝入りを推奨したのでもありません。パウロの生き方や他の弟子たちの生き方を見れば、それは一目瞭然です。彼らは、ユダヤ人の指導者たちの不正と理不尽な対応に屈するどころか、どれだけ弾圧され、迫害されても、福音をのべ伝え続けました。屈服どころか抵抗しつづけたのが初代教会の姿でした。また、少し意味は違いますが、伝道者の書にも、労苦を肯定的にとらえているところがあります。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」(伝道者の書5章18〜20節)。「神の賜物である」という受け止め方が大切です。屈することなく、信じて立ち向かっていきましょう。



No.03『神の決着に任せる』
◆ピリピ人への手紙2章6〜9節
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。


 この文章は、キリスト讃歌として知られ、当時歌われていた讃美歌の一節ではないかと言われています。そして、この箇所は、謙遜についてパウロが語っているところであり、へりくだりの模範としてイエス・キリストに注目しています。私たち人間は、ちょっとでもプライドを傷つけられると怒ります。大事にされないとすねるし、必要とされていないと感じると落ち込みます。人がほめられると妬みますし、他の人が注目されると羨ましく思います。言うなれば、自分のことで頭がいっぱいなのです。自分、自分、自分、自分。書きながら耳が痛い(笑)。ところが、なんと神は、自らの尊厳を誇示していいお方なのに、そうされず、神のあり方を捨てて、仕える者の姿をとられたというのです。それが人となられた神の子キリストです。そして、彼は十字架の死にまで従われました。神としての尊厳を捨て、人となり、ついには人としての尊厳まで奪われ、踏みにじられ、ぐちゃぐちゃにされたお方、それがキリストなのです。これこそ、神のへりくだり、神の謙遜です。その謙遜があったからこそ、父なる神は、イエスをよみがえらせたのです。イエスにまさる名はありません。それは人類の歴史が証明しています。それゆえ、ちっぽけなプライドにしがみつくのをやめて、神のへりくだりを模範とせよ!それがパウロの教えているところです。パウロは他の箇所でもこのように勧めています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ人への手紙12章19〜21節)。この思想は、泣き寝入りを奨励しているわけではありません。決して屈服せよと言っているのでもない。むしろ、立ち向かえと奨励しているのです。しかし、その立ち向かい方は復讐ではなく、善をもって戦うのであり、決着をつけられる神にゆだねて立ち向かうのです。任せてみましょう。神の怒りと、神の報いと、神の決着に。



No.04『救いの達成』
◆ピリピ人への手紙2章12節
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。


 パウロはここで「救いを達成してください」と言っています。救いは一過性のものではありません。確かに信じた時に救われるのですし、その時点で完全に赦され、神の子としての特権に与るのです。そういう意味では一過性に思えるのかもしれませんが、かといってそれで全てが解決するのかというとそうでないのが現実です。信仰を持った後にも疑いはやってくるし、罪悪感にさいなまされたり、神の祝福に与っているとは感じられなかったり、不平不満とつぶやきの毎日を送ってしまうこともあります。ともすると、そういう不信仰な生活スタイルが身についてしまい、自分は本当に救われているのかどうかわからなくなってしまうことだってあるはずです。そういう経験を「神から離れた状態」と表現される方もいます。それゆえ、私たちは、完全に神から離れてしまわないためにも、立ち返る必要があるし、救われ続けなければならないし、救いを達成しなければなりません。このような絶えまない努力によって、神との交わりを継続し、生涯、信仰を全うしてはじめて、救われたと確信を持って言えるのではないでしょうか。一回、信仰を告白して、洗礼を受けて、クリスチャンになった気になって、それだけで問題が解決するかというと、そんなに生易しいものではない!それほど、人間のできはよくないのです。あなたも私も、できが悪いのです。勉強の話ではないですよ。あるいは、社会的成功のことを言っているのでもない。神に背き、神の御心から離れて、自分勝手に歩む罪の性質のことを言っているのです。信じて洗礼を受けた程度で、罪の力を制御できたなどと考えるのは愚かです。神さまの側は、私たちを赦し続け、聖霊の力を注いでくださるのですが、私たちの側にはその神から遠ざかろうとする性質・傾向があるのです。その罪の力をあなどっている人は、そのあなどりの故に滅びを経験することになるのです。自惚れてはならないし、恐れをいだかなければなりません。パウロが「恐れおののいて自分の救いを達成してください」と言っているとおりです。ではどうしたらいいのでしょうか。次回、学びます(笑)。



No.05『神の御心を求め、神の御旨にゆだねて』
◆ピリピ人への手紙2章13〜14節
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。


 前の節で、パウロは「恐れおののいて自分の救いを達成してください」と勧めます。救いを達成するために、どうすればいいのか、その答えが今日の御言葉です。結論から言いますと、自分は神に生かされているんだという慎み深さを持ち、全てをゆだねて、神の御心を行え!ということになります。説明しましょう。新共同訳聖書では、13節をこう訳しています。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。つまり、私たち人間は、自分の力だけで生きているかのような錯覚に陥り、何でも自分の力で切り拓けると思い込んでいるけれども、本当はそうではなくて、志も、行動も、全て神が私たちのうちに働いた結果だというわけです。何かを強く願うことができたのも、必死になって働くことができたのも、全部、神さまが働いて下さったからであって、少しでも歯車が狂えば、滅びまっしぐらなのが人間です。そのことに気付けとパウロは言うのです。それこそ、自分の力で自分の罪深さを制御できるなんて思ってる自惚れ屋さんに警告しているのです。そして、自分が神に生かされているにすぎない存在だということを認め、神に全てをゆだねて生きる時、私たちにできることはただ一つです。それは、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行なう」ことです。つぶやきや疑いは、いま私たちに与えられている責任や使命を放棄させます。そして、より安易で傷つかない道を選ばせようと誘います。まるで、エジプトを出たイスラエルの民が、せっかく奴隷の苦役から解放されたのに、荒野の危険を前に、「エジプトに帰りたい」とつぶやいたのと同じです。彼らの世代は不信仰のゆえに滅びました。同様に私たちも、不信仰とつぶやきによって滅びる可能性を秘めている存在です。安易な道に引っ張られて行き、身に滅びを招いてしまう愚か者です。その自覚をしっかりと持ちましょう。そして、神の御心を求めながら、自分に与えられた責任と使命を、天命と信じて進んで行きましょう。そのような生き方の先にこそ、救いの達成があるのです。



No.06『心の安全のために』
◆ピリピ人への手紙3章1節
最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。


 「身の安全のために、喜びましょう!」と言ったら言い過ぎになるかもしれません。しかし、パウロによると、喜ぶことは、心の安全にはなるようです。迫害という試練を経験していたピリピの教会の人々に対する勧めとしては、あまりにも酷なように思えますが、「喜びなさい」と言っているパウロ自身が迫害されて牢屋に入れられていたのです。以前、パウロはピリピの町を訪れたことがあり、占いの霊に憑かれた女性から悪霊を追い出したことがきっかけで地域住民の反感を買い、牢屋に入れられてしまいました。その時も、パウロは神を賛美し、喜んでいたのですが(使徒の働き16章25節)、結果的に彼は釈放されました。それだけではなく、牢屋の看守とその家族がイエス・キリストを信じて救われたのです。マイナスと思える出来事がプラスになりました。沈み込んでしまうような経験が、奇跡へと変えられたのです。もし、彼が、意気消沈してふさぎ込んでしまっていたならば、そのような将来は開けなかったでしょう。だからこそ、「喜ぶこと」は「あなたがたの安全のためにもなる」のです。旧約聖書にもこのような言葉があります。「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ記8章10節・口語訳)。絶えず、感謝と賛美を主にささげ、喜びの声を上げていきましょう。心の安全のために。見えないものを信じて。



No.07『うしろのものを忘れ、前のものに向かって進み、ゴールを追求せよ』
◆ピリピ人への手紙3章13〜14節
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。


 パウロは「一事に励んでいます」ということにより、これから語ることが非常に重要なこととして強調しています。座右の銘とでも言うべきでしょうか、パウロが心がけたのは次の2点です。つまり、@うしろのものを忘れることと、A前のものに向かって進むことです。原語では、どちらも現在分詞で書かれているので、今の状態をあらわしており、彼のライフスタイルだったということができるでしょう。そして、その状態を維持しながら、彼は「目標を目ざして一心に走っている」というのです。この「走る」と訳されている言葉は、12節では「追求している」と訳されていて、追い求めるとか、推し進めるという意味があります。パウロは、いつもうしろのものを忘れ、前に向かって進むというライフスタイルを維持していました。そうしながら、彼は神の栄冠が用意されているゴールを追求していたのです。そのゴールは究極的には、彼の死を意味していましたが、その死はいつやってくるかわからないので、彼が励んでいたことは追及でした。そして、15節では、このような考え方こそが、成人の考え方・大人な考え方だと言っています。実際の成人、大人とは少しかけ離れた姿ですね。大人は過去のことを引っ張り出して、教訓を語ったり、時には自慢話をします。歳を取れば取るほど、前に向かって進むことよりは、過去を思い出してなつかしむことに喜びを感じます。それが悪いとは言いませんが、大人というのはそういうものでしょう。しかし、パウロはそれとは違う姿を大人であると指し示しました。真の成熟は追及している姿にあるということかもしれません。成し遂げた実績に固執する姿はあまり美しいものではありません。ましてや、過去を振り返って若者に自慢している大人はあわれです。どんな年齢であっても、うしろのものを忘れて、前に向かい、何かを追求している姿はカッコイイ。パウロはそういう人だったし、それを真の成熟と語りました。人との比較ではなく、今自分にできる追求に励みたいと思います。そして、死期が近づいた時は、主なる神にお会いすることを慕い求めて、更に追求していたいものです。そして、人生はすべて追求であった!と言える者でありたい。



No.08『主にあって喜ぶ』
◆ピリピ人への手紙4章4節
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


 「主にあって」とは、実に不可解な日本語です。新共同訳聖書では「主において」となっています。ギリシャ語のエンという言葉をどう訳すかで違いがあるのですが、いずれにせよ具体性に欠いた、抽象的な表現です。だから、どうしても説明が必要になります。ただ、はっきり言えることは、「主にあって」という言葉をわざわざ付けるということは、一般的な人の喜びとは違うということだけはわかります。つまり、おいしいものが食べれるから喜ぶ、試験に合格したから喜ぶ、試合に勝ったから喜ぶ、彼女・彼氏ができたから喜ぶ、子どもが出来たから喜ぶ、事業に成功したから喜ぶ、歌が上手になったから喜ぶ、勉強ができるようになったから喜ぶ、他いろいろありますが、こういった一般的な人の喜びとは違うということです。また、そういう喜びは、「喜びなさい」と命じなくても、ほっといたって勝手に喜ぶものです。だから、通常うれしいことがあったときの喜びは、当然のことであって、命じられる類のものではありません。とすると、「主にあって喜ぶ」とはどういうことなのでしょうか。それは、主を信じて喜ぶ、主を愛して喜ぶ、主に望みを置いて喜ぶ、という意味になり、意志的に喜ぶことを指すのです。つまり、嬉しいことがあろうがなかろうが、主を信じているゆえに喜ぶということです。むしろ、初代教会の人々は迫害を受けていたので、彼らは苦しみの中を生きていました。人を信じ得ない状況にあり、人を愛し得ない悲しみを経験し、人に望みを置けない絶望の中を生きていたのです。しかし、彼らは望みを捨てませんでした。なぜなら、主が共におられたからです。そして、「主にあって喜び」続けたのです。プラス続きで喜ぶことは容易なこと。マイナスをもプラスに変える主に信頼し・愛し・望みを置いて喜ぶ者にこそ、真に主の栄光があらわされるのです。



No.09『思い煩いから解放されて』
◆ピリピ人への手紙4章6〜7節
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。


 過去の失敗を思い出して後悔し、くよくよすること、願いどおりに事が運ばなくて不満を抱くこと、将来を心配して思い煩うこと、これらの過去・現在・未来のことを思いめぐらしながら悩むというのは人間特有の性質です。この性質がエスカレートしていくと、人は思い煩いだけで時間を過ごしてしまい、何もできなくなってしまいます。そういう意味で、私たちの歩みを破綻させる原因は外にあるのではなく、私たちの心の中にあると言っても過言ではありません。その内側の敵を制する方法は、「感謝をもってささげる祈りと願いによって、自分の願い事を神に知っていただく」ということです。「神に知っていただく」これほど心強いことはありません。神はすでに知っておられるのですが、私たちが告白することによって、私たちの魂は「神が知っていてくださる」という霊的事実を確信するのです。この確信が平安をもたらし、私たちの心と思いを内側の敵から守ってくれるのです。ですから、感謝や賛美をする習慣は非常に大切です。教会に来て礼拝をする時も、祈祷会の時も、家庭集会の時も、ゴスペルの練習の時も、また家でのデボーションの時も、絶えず感謝と賛美をささげる習慣を持ちましょう。そして、どんな小さな願い事でも、また「こんなことを願っては神様に失礼だろう」と思うようなことでも、神に知っていただきましょう。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。神の平安の効力は絶大です。どのような苦境に立たされても、尚前向きに、希望を抱かせる力があるからです。心と思いが守られれば大丈夫。勝利を得たも同然です。しかし、心と思いがぶれる時、私たちの歩みもぐらつくのです。さあ、神に知っていただきましょう。
 


No.10『あらゆる境遇に対処する秘訣』
◆ピリピ人への手紙4章11〜12節
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。


「貧乏人とは少ししか持たない者のことではなく、たくさんほしがる者のことである」スウェーデンのことわざ
「足るを知る者は富む」中国のことわざ

 本当の豊かさとは何なのか。それは多くを持っていることでも、またそれを追い求めて貪欲になることでもなく、今与えられているものの中でどれだけ満ち足りる心をを持てるかにかかっていると思います。うまく行こうがそうでなかろうが、たえず満ち足りる心を持ってその境遇に対処していけるなら、その人の生き方は実に頼もしくタフなものとなるでしょう。まるでパウロのように「途方にくれていますが、行きづまることはありません」と言える生き方ができるのだと思います。どうしたらそのような生き方が可能なのでしょうか。その答はただ一つ!信仰です。パウロは結論としてこう言っています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(13節)。私を強くしてくださる方が、私の内に生きておられる。私とともに生きておられる。そのお方によって私は倒されない!このような信仰こそが、あらゆる境遇に対処する秘訣です。他者との比較でもなく、数の多さや影響力の大きさにおける優劣でもなく、あるいは世間体が提示する善悪でもなく、自らを生かし、力を与え、生きる使命を与えていてくださる神への信頼こそが、人生における勝利の秘訣なのです。だから、どんなことがあっても自分を見捨ててはなりません。なぜなら、最後まであなたを見捨てないお方が、あなたを取り囲み、あなたを守っていてくださるからです。信じて告白しましょう。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と。



No.11『満たして下さる方』
◆ピリピ人への手紙4章19節
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


 ピリピ人への手紙は獄中書簡と呼ばれるもので、パウロが牢屋に入れられていた時に書いた手紙です。恐らく、紀元60年代にローマで書かれたものでしょう。教会が、大きな迫害を経験していた時であり、パウロへの締め付けも厳しくなっていた時です。しかし、そのような背景にも関わらず、この手紙を読むと、希望に溢れたパウロの心を読み取ることができます。彼はあきらめていませんでした。それどころか、死をも恐れず、自分が生かされている理由は神の計画にあると確信していたのです。その時から、約10年前に、パウロはピリピの町を訪れて、キリストの福音を伝えました。占いの霊に憑かれた女から悪霊を追い出したがために、占い師の主人たちに妬まれ、その時も牢屋に入れられたのです。しかし、パウロはあきらめませんでした。使徒の働きはその時のエピソードを、次のように記しています。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」(使徒の働き16章25〜26節)

 この後、看守とその家族が救われ、ピリピの教会が誕生します。あきらめなかったパウロの信仰は、祈りと賛美という形であらわれ、ピリピ教会誕生という大きな結果をもたらしました。信仰は行動を生み出し、その行動は結果を生み出します。そして、その基は、「神が必ず満たして下さる」という、あきらめない心にあるのです。どんな逆境の中にあろうとも、神は必ずあなたの必要をすべて満たして下さいます。その栄光の富をもって・・・。だから、あきらめないで。

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