本文へスキップ

ペテロの手紙第一・二1,2 peter

From Pastor's Office<牧師室から>

ペテロの手紙第一

No.01『信頼と望みは神にかかっている』

◆ペテロの手紙第一1章18〜21節
ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。


 ユダヤ人は父祖伝来のむなしい生き方をしていました。それは律法を行うことによって神に認められようとし、自分の努力と責任感と功績に頼る生き方でした。一見、神に対し、宗教に対して熱心なようでありながら、本質的には神を信じているというよりも、宗教に熱心な自分の行いを信じていたのです。これは実にむなしい生き方です。何故なら、人間はみな罪人であり、またいずれは死に行くはかない存在であるのに、その自分に頼って生きるほど愚かで傲慢でむなしい生き方はないからです。人はただ神の計画によって生まれ、神のはからいによって生かされ、神の恵みによってのみ救われる存在です。その神が救い主を2000年前に送ってくださいました。私たちはただ、このキリストの尊い血によって贖われ、罪の赦しと神の義をいただき、神の子供にしていただいたのです。全ては神の恵みによるのです。まさに私たちの「信仰と希望は神にかかっている」のです。
 
 「恵みは罪のゆるしを与え、平安は静かな、喜ばしい良心を与える。…律法は罪のゆえに良心を告発し、恐れさせる。…だから、われわれがより労し、罪を取り除こうと努力すればするほど、われわれの状態はよりひどくなる。罪は恵みのみによって取り除かれるのであって、ほかによるのでもない。このことは大いに学ばれるべきである」マルティン・ルター



No.02『謙虚にお伝えするという姿勢で』
◆ペテロの手紙第一2章7〜9節
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。


 ここには、神の主権と選びの思想が展開されています。「より頼んでいるあなたがた」とは福音を信じた人々、すなわち1世紀のクリスチャンたちのことで、そこにはユダヤ人も異邦人もいました。そして、彼らは長きにわたってユダヤ人の指導者たちから迫害されていましたし、ついにはローマ帝国からも目をつけられるようになっていたのです。それゆえ、「より頼んでいない人々」とは、福音を拒んだユダヤ人たち、そして教会を迫害する勢力のことを指しています。そこで、次のような問いが生まれたのです。「どうして、彼らは福音につまづき、教会を迫害する者となったのか。どうして神の恵みを受け入れないのか」と。その答えをペテロの手紙はこう語ります。「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです」。つまり、神の主権により、迫害者たちの不信仰と不従順は定められていたというのです。こればかりはどうしようもありません。これは決定論を展開しているというよりは、人間の力ではどうしようもない領域があることを教えてくれています。しかし、積極的な側面もあります。それは、キリストを信じ救いに与ったのは、自分の正しさや信心深さによるのではなく、それも神の主権であるということです。そして、神の恵みにより私たちは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」となったのであって、そのような特権はあり得ないこと、それこそ賜物なのです。その賜物には目的があります。それは神の「すばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」。信者の皆さん。あまりしょいすぎないように。人が人を救えるのは、神が状況を整えて下さった時であって、迫害者や反対者の心まで無理やりに変えることなどできないのです。自分が人間に過ぎないということを謙虚に受け止めて、自らに与えられた救いをお伝えするにとどめるべきです。説得力を増すために、話を盛ってはいけません(笑)。



No.03『関係の回復』
◆ペテロの手紙第一2章22〜25節
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。


 私たちはさまよえる羊のような存在です。そのさまよえる状態の根本原因は、神から離れてしまったことにあります。この神との交わりが断たれることを、聖書は罪とよんでいます。たとえ、大きな犯罪を犯していなくても、あるいは人様に対して後ろめたいことが一つもなかったとしても、この神を無視し、神のみこころを求めようともせず、神との交わりが断たれてしまっているなら、それこそ罪に陥った状態であると聖書は教えるのです。その神との交わりの断絶からはじまって、人間は様々な過ちを犯すようになりました。旧約聖書を読むと、その歴史は関係破壊の歴史です。はじめの人アダムとエバの子供たちに起こった最初の事件は兄弟殺しでした。兄のカインが妬みから弟であった義人アベルを殺すのです。神との関係が壊れたところからはじまって、家族の関係は破壊され、神に選ばれた民であったアブラハムの子孫にも、殺し合いと神への不信・不従順が続きます。神に愛されようが、神に選ばれようが、神の律法を受け取ろうが、神と人・人と人との関係破壊はとどまるところを知りませんでした。しかし、この神との交わりの断絶を修復してくださったのがイエス・キリストです。「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」とある通り、私たち人間の罪の負債を完済してくださったのです。そして、赦すことにより、関係の回復をもたらされたのです。それが、「私たちが罪を離れ、義のために生きる」ということの意味です。赦し、和解、平和、慰め、励ましというものが、十字架を通してもたらされ、神の一方的で無条件の愛が十字架を通して現わされたのです。それゆえ、神はこの十字架のキリストを信じるように促しておられます。それは、赦すため、和解するため、平和をもたらし、慰めと励ましを与え、私たちが神との関係回復を経験するためです。人間関係のもつれで苦しむお互いですが、もつれた時は神に立ち返りましょう、そこから真の回復がもたらされるのです。



No.04『弱さの内に働く神の力を信じて』
◆ペテロの手紙第一3章7〜9節
同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。


 1世紀の時代に、夫に向かって、妻を労り「尊敬しなさい」という命令は驚くべきことであり、女性が所有物としてしか扱われなかった時代には考えられないことでした。そこにある平等観は類まれであり、夫婦がお互いに対等な立場であることを教えてくれます。そこからはじまって、「心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」と続く命令は、常に下降の道を目指すよう、弱者に配慮するよう促しているように思います。そして、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」という命令は、上昇志向がもたらす悪を回避させてくれます。上昇志向は、ひどい仕打ちを受けた時、暴力や実害をもたらす形で復讐します。侮辱には侮辱で対抗します。相手を蹴落としてでも、自らの地位を確保しようとします。このようなことが教会の中であってはならないと聖書は教えるのです。ペテロの手紙は、迫害下にある教会に送られました。文面からも分かる通り、信者たちはひどい仕打ちを受け、苦しめられていたのです。その理不尽さに復讐を願った人たちもいたでしょう。自分たちの権利を守るために、暴力や侮辱に訴えようとした人たちもいたはずです。けれども、その選択は同じ悪者になる道だったのです。だから、祝福をもって対抗せよと教えています。これは決して泣き寝入りせよとか、無抵抗であれというのではありません。祝福しながら、NOはNOと言う! 以上、私たちが持つべき美徳は二点です。「弱い器だということをわきまえ」るべき周りの人たちに配慮することが一つ。祝福をもって悪に抵抗することが一つ。これらは表裏一体であり、キリストに従う者の道です。ただし、このメッセージは人を測る量りに使ってはいけません。自分が心がけることであって、相手に要求する類のものではないのです。「あなたが立派なクリスチャンなら、私は弱いから私をいたわりなさいよ」なんて言ったら、その人は弱さを武器にしている強い人です。それは、今日の御言葉に背を向けた態度です。弱さに甘んじたり、弱さを利得の手段とするのではなく、弱さの内に働く神の力を信じて前進するお互いでありたいと思います。



No.05『キリストを証しするということ』
◆ペテロの手紙第一3章15〜16節
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。


 キリストを証しするということは全てのクリスチャンに与えられた使命です。これに異論を唱える人はいないだろうし、少しでもキリスト教の素晴らしさを伝えたいと思う人は多いのではないでしょうか。同時に、実際の問題として、伝道することの難しさを感じている人も多いと思います。焦って、清水の舞台から飛び降りるように「私、クリスチャンでね・・・イエス・キリストはね・・・私の罪のために十字架で死なれて、よみがえられて・・・それで、それで・・・」と話し出したら、友達から「まぁまぁ、落ち着け、わかったから」と言われるのが関の山です。友達でなかったら、「宗教、怖!」って思われて終わりです。宣教師が英語教室にからめて無理やり伝道してるのも、ゴスペルクワイアーの練習後に無理やり聖書の話を聞かせてるのも、似たようなところがあって、伝えている側の自己満足に終わっているケースが多いように思います。実際、1世紀の伝道はとても自然な成り行きでした。エルサレムでイエスが殺された事件は、地中海世界に散っていたユダヤ人たちにも知れ渡っていたし、ペテロにしてもパウロにしても会堂やユダヤ人のネットワークを用いて福音を伝えました。その出来事は、ユダヤ人たちの関心事であったし、賛否両論あったにせよ話題になっていました。現に、初期キリスト教はユダヤ教の一派であり、異邦人からはナザレ派というユダヤ教とみなされていました。そういう意味では、ユダヤ人の枠組みの中で起こったホットな出来事だったのです。そこから、ユダヤ教に改宗した異邦人を介し、異邦人世界に福音が広がっていきました。それはとても自然な流れであったし、今日の聖書の箇所のように「説明を求める人」が大勢いたのです。そのことを踏まえて、現代の状況に当てはめると、まず私たちがキリスト教の教えをしっかりと学ばなければなりません。聖書とその教えを理解せずに弁明したら変なものを伝えてしまいます。それゆえ、福音と聖書とキリスト教を愛することが先決です。次にその教えを生きるのです。つまり、私たちの生き方に福音が繁栄されなければならないのです。そうでなければ、説得力がないし、福音の魅力も伝わりません。ただただ焦っている布教癖の強い神経症的な信者が量産されても、1世紀のような状況にはならないでしょう。そんなわけで、今日の御言葉を肝に銘じ、「キリストにあるあなたがたの正しい生き方を」を通して、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意」をしておきましょう。



No.06『終わりを見据えて今日を生きる』
◆ペテロの手紙第一4章7〜8節
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。


 初代教会の聖徒たちは世の終わりを待ち望んでいました。マタイの福音書24章、マルコの福音書13章、ルカの福音書21章に記されたイエス・キリストの語る終末預言も、エルサレム神殿崩壊が弟子たちの時代におとずれることを示唆していて、それを聞いた弟子たちは世の終わりが自分たちの世代におとずれると考えていました。そういう意味で終わりを見据えていたのです。また、世の終わりということでなくても、迫害の下で自分の人生の終わりがやってくることも見据えていました。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(ピリピ人への手紙1章21節)という言葉の中にも、パウロが自らの死を深く意識しながら生きていたことが表現されています。修道士たちが「死を忘れるな・メメントモリ」と挨拶していたと言われる通り、終わりを見据えることは、私たちを冷静にさせ、何を優先すべきかを悟らせる効果があります。それは「心を整え身を慎み」祈りに向かわせる効果があり、結果として、神の偉大な力と計画にあずからせるのです。しかし、これは世捨て人になることではありません。自分だけが霊的な人になって、この世にまみれた人と社会を尻目に、自分だけ神の祝福にあずかろうとする、そんなメンタリティーを奨励しているのでもありません。むしろ、真逆で、人間にとって最も大切な「愛に生きる」ということを奨励するのです。愛というと色恋も入って、ややこしい印象を与えるから、お決まりの「大切にする」で考えたいと思います。終わりを見据えて、祈りの座につくとき、人は神の愛と力に出会います。そしてその感動は、結局他者への愛、すなわち周りの人を大切にするという行動へ向かわせるのです。それゆえ、物事に終わりがあり、限界があり、絶望があるということを知ることは、限界を超えた存在である神に出会う経験をもたらし、結果として、この世を力強く積極的に生きるよう促すのです。さあ、終わりを見据えて、心を整え身を慎み、祈りの時を持ちましょう。そうすれば、次に何をすべきか、神が導いてくださいます。終わりまでしっかりと走り通せるようにするために・・・。



No.07『謙遜を身につけて、立ち向かえ』
◆ペテロの手紙第一5章5b〜7節
みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです


 『実るほど頭を垂れる稲穂かな』。その意味は「稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということ」だそうです。僕なんかは、この小人物であって、生涯、大器にはなれそうにありません。けれども、今日の聖書の箇所は、そういった日本のことわざや教訓とは一味違うところがあります。それは、そこに神が存在するということです。聖書が謙遜を勧めるのは、そこに神に対する恐れと、「神が、ちょうど良い時に高くしてくださるに違いない」という信頼があるからです。また、聖書がへりくだることを命じるのは、単に泣き寝入りすることを勧めているのでもなければ、事なかれ主義の人間を製造するためでもありません。むしろそれは、強烈な抵抗なのです。「神が必ず介入してくださる」ということを信じて、悪に対して悪で反撃せず、暴力に対して暴力で復讐せず、権力に対して権力で立ち向かわない。そして謙遜という武器で立ち向かう強烈な抵抗運動なのです。そこには先陣を切って走って行かれる神がおられる!そこに対する強い信頼が前提となっているのです。だから、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」と勧めているのです。その全能者なる神が私を心配し、心にかけてくださっている!だから大丈夫!苦難に出くわすかもしれない。人の冷たさを経験するかもしれない。社会の理不尽さを思い知らされるかもしれない。裏切られてがっかりする経験もするかもしれない。でも、全能の神が必ず引き上げてくださる、そのことを信じて、謙遜と愛を身につけて立ち向かっていく、ここにキリスト者の強さ、しぶとさがあると思います。単に謙遜さを美徳とし、大器であることを人前に証明して自己満足に陥るためではなく、本当に神の御手の介入を信頼して、失敗を恐れず、不器用でもいいから前に進むお互いでありたいと思います。あなたの人生のただ中に、神への信頼があれば大丈夫!



ペテロの手紙第二

No.01『召されていること、選ばれていること』
◆ペテロの手紙第二1章10〜11節
ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。


 神の召しと選びの話をすると、必ず返って来る批判があります。「選ばれてる者が救われるなんて不公平じゃないか。それこそ選民思想で、信者だけしか救わない狭量な神なんか信じたくもない。そんな特権階級意識を持つから宗教戦争が起こるんじゃないか」というものです。この批判には一理あります。選民思想・特権階級意識、そういったえらそぶった雰囲気がキリスト教会や信者の間にあるのも事実で、それは、聖書の召しと選びが誤解されている証拠だと思います。聖書の中で、神に召され選ばれた人たちはどんな人たちだったでしょうか。まず、イエスは大工の息子で、田舎町ナザレの出身でした。「ナザレから何の良いものが出るか」と批判されたように、蔑視された地域であり、彼はラビとしての専門的神学教育を受けたわけではありません。弟子はユダ以外はみなガリラヤ出身。ガリラヤ地方と言えば、ローマ帝国とエルサレムのユダヤ教指導者たちの両方から圧力をかけられ、最も抵抗運動の強かった地域だと言われています。エリートからすればキリストの弟子たちは、ならず者の集まりでした。他にも、取税人・売春婦・罪人。どれをとっても、抑圧される側であって、権力の側に立つ人たちではありませんでした。バッシングされ、虐げられ、神に召されるはずがない!選ばれるはずがない!そうみなされた人たちばかりだったのです。しかし、ここに大逆転が起こったのです。キリストは罪人を救うために来られた!神は虐げられた者、見捨てられた者の友であられる!神の憐れみと恵みはへりくだる者に注がれる!

 自分のことが恥ずかしいと思っている人。劣等意識にさいなまされ、鬱々としている人。見返してやりたいと復讐心に燃えている人。辛酸をなめさせられ、絶望の淵にある人。本来、神に召され、選ばれるはずのない人。また、そう思っている人。キリストはその人のために来られたのです。境遇が良くって、負けを知らない人生の優等生に神は興味を持たれない!実際には上記のような悩みを全く持たない人はいないと思います。そのような負の思いは無意味に思えるかもしれません。しかし、その負の思いを通過する時こそ、神の召しと選びの御手がのばされる時なのです。だから、あるがままの自分で、胸を張って行きましょう!



No.02『神の忍耐と真実』
◆ペテロの手紙第二3章8〜9節
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


 この手紙は迫害化にあるクリスチャンたちを励ますために書かれた書物です。様々な試練と誘惑の中で自暴自棄になり、信仰を棄てて罪を犯してしまった多くの信者たちに、もう一度奮起させ、信仰と従順に至るよう促すために書かれました。「ある人たちがおそいと思っているように」という文章から推測するに、神の約束(旧約聖書の約束、イエス・キリストの約束)が実現するのがおそい!あるいはもう実現しないのではないか!と失望していた信者が多数いたようです。ここに人間の弱さと罪深さが現わされています。人は待てないのです。早急に答えが出ないと我慢ならないのです。モーセが神の約束を受け取りにシナイ山に昇った時、イスラエルの民はモーセの帰りを待つことができず、とんでもないことをしでかしました。モーセの兄アロンは、民が持っていた金の指輪をかき集めて金の子牛を作らせ、民はその偶像を自らの神として拝みはじめました。このことと同じです。ちょっとでも、自分の意に適わない出来事が起こると、耐えきれなくなり、自分の都合のいい神を仕立てあげて拝むのです。それは、お金であったり、権力であったり、自分の能力であったり、様々です。へりくだって、神に信頼し、忍耐して従おうという気が更々ない。これが人間の弱さと罪の姿です。しかし、本当は、神は「その約束のことを遅らせておられるのではありません」。むしろ、私たちが不信仰と不従順に陥り、滅びに向かうことのないようにと、忍耐しておられる、待っておられるのです。「主よ、私が間違っていました。あなたに頼ることもせず、あなたの約束が実現するのを待つこともできず、自分の力よ、権威や富、そして人の力にばかり頼っていました。望みを叶えることだけに必死だったのです。しかし、そんなものは、あなたの力の前では何の役にも立たないのです。主よ、今、あなたに立ち返ります。罪人の私を憐れんで下さい。そして、あなたの約束の真実によって、信じる私に応えて下さい」。神は、このように告白する時を、すなわち「悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。さあ、もう一度、御言葉の約束に、初めの愛に、立ち返りましょう。今日も、神は放蕩息子の父のように、あなたの帰りを待っておられるのですから。



洛西キリスト教会

〒615-8013
京都府京都市西京区桂清水町103

TEL 075-391-0044
Mail sfddrcc@yahoo.co.jp