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マタイの福音書Gospel of Matthew

From the pastor's office <牧師室から>

●マタイの福音書1章22〜23節
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)


 処女マリアからイエス・キリストは生まれ、婚約者のヨセフは正しい人であったので、このことを受け入れたという、処女降誕のエピソードです。多くの人が否定し、嘲笑うこのストーリーですが、その議論は不毛なので取り上げません。 しかし、その意味は明らかです。処女から男の子が生まれたということは、旧約の預言の成就であり、その男の子が救い主であるということです。そして、その意味は、神が私たちと共にいるということでもあるのです。 祈っても、がんばって生きても、神に応えられないと感じられる時があります。本当は神は私に何の関心も示していないのではないかと。それと同質の問いとして、誰も私になど関心がないのでは?と思うこともあります。どちらも、虚無感に支配されています。しかし、信仰の目を一たびイエスに向けるならば全てが変わります。神がともにおられるという真理が、全てを変えるのです。神はイエスの十字架の贖いを通して、あなたの罪を赦し、あなたに天にある全ての霊的祝福をそそいで、あなたの傍らに居続けるのです。 過去に何があろうが、今、自分が情けない姿だろうが、そして将来の自分に不安があろうが、その負の要素を無視してイエスに目を向けてください。神が共におられるのです。ぐちゃぐちゃに思えるあなたの人生、納得の行かないあなた自身、神が共にいることが分かれば、景色が変わるはずです。考えが変わり、感情も変わるのです。「神が共にいるなら、これでいいんだ!」と。イエス・キリストの福音の力は絶大です。



●マタイの福音書2章23節
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。


ナザレはヘブル語で「ナツラート」と言います。これはオリーブの木から出た枝である「ネツェル」に由来する言葉だそうです。ユダヤ人たちにとって「ネツェル」はメシアを意味しました。イザヤ書11章1節「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」の若枝が「ネツェル」であり、ここがメシアの到来を象徴的に預言している箇所です。ですから、マタイの福音書が伝えたかったのは、「ナザレで育ったイエスこそメシアだ」ということなのであり、それが旧約の預言の成就だということなのです。ですから、「この方はナザレ人と呼ばれる。」という文章を旧約聖書の中に探しても見つかりません。ナザレという言葉の語源に意味があるのです。そして、この文章を記録したのはマタイだけであり、他の福音書には記されていません。こじつけちゃうか?とつっこみたくなるような預言の成就ですが、マタイは至って真剣だったと思います。それは、旧約聖書で預言されていたメシアがもう来たのだ!ということをマタイは伝えたかったからです。マタイはその目撃者でした。イエス様は、取税人であった彼を弟子として招かれました。その主イエス様と共に過ごした日々が今も鮮明によみがえって来る!そして、主は復活された。マタイはその目撃証言をしているのです。そこには、生きた体験があり、そこから生まれた信仰の確信があり、迫害をも恐れずに証言する勇気がありました。イエス・キリストと出会った、そして、今も出会っている!これこそが、初代教会の目撃者たちの原動力であったのです。あなたは人類の罪の身代わりに死なれよみがえられたイエス・キリストを信じましたか?信じたなら、あなたはイエスに出会ったのです。そして、今も信じ、祈り、神の言葉の約束に支えられて生きていますか?もしそうなら、あなたは日々主と出会い続けています。神は決して遠くにはいない。あなたの側にいてあなたの後ろ盾となっていてくださる。これこそ、イエスキリストの福音がもたらす希望です。



●マタイの福音書3章1〜2節
そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」


「天の御国が近づいた!」というメッセージは、バプテスマのヨハネのみならず、イエス・キリストが語ったメッセージでもあり、この点で二人は一致しています。そして、福音書における「天の御国」あるいは「神の国」の説明を読むと、そこには常に救いと裁きが描かれていることがわかります。イエス様が語られた様々なたとえ話においても、常に救いと裁きが対比されており、聴衆はそのどちらかを選択することを迫られました。信じて救われるか、あるいは福音を拒絶して裁きに合うかです。福音を拒絶したのは、パリサイ人やサドカイ人で、ヨハネは彼らのことを「まむしのすえたち」と呼んでいます。つまり、悪魔の子ですね。また、イエス様も彼らのことを「まむしのすえども」と呼びました(マタイ23:33)。彼らの特徴は、「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言ってその民族性を誇り、見た目には戒律を守って立派には見えたけれども、心の中は神の憐れみを軽んじる傲慢さが支配していたのです。だから、信じるだけで救われるという福音も、神の一方的な憐れみや気前の良さも、パリサイ人たちには受け入れられなかったのです。彼らの特徴は「高慢」の一言に尽きます。栄誉を求め、精神的にあまりにも高いものをあこがれ、他人をねたみ、富や権力によって生意気になり、全てのことを見られるためにする。こういった人たちに、聖書は悔い改めを説いたのです。しかし、こういった要素は誰にでもあるのではないでしょうか。そのことを正直に認め、神の憐れみにすがるものを、神が認めてくださり、祝福してくださるのです。これは決して、人に媚びろと言っているのでもなければ、批判精神を失った事無かれ主義を推奨しているのでもありません。それは、却ってパリサイ人律法学者の姿でした。彼らは群れて、高慢さを助長する宗教システムを構築したのです。大切なことは、神の前に!ということです。高慢さからへりくだりへ。自惚れから神の憐れみへ。これこそが真の悔い改めです。



●マタイの福音書3章16〜17節
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」


 イエス様の後ろ盾は何だったのでしょうか。それは、天の父なる神の愛と承認です。イエス様の生き様は実に勇敢で、且つ、人の褒め言葉や非難に左右されないものでした。ちやほやされても、その背後にうごめく人間の身勝手な動機に気付き、自らを人々に委ねることはなさいませんでした(ヨハネ2:24〜25)。共依存(自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存する、その人間関係に囚われている状態)という心理学用語がありますが、これは人間関係をうまく持てない人の特徴でもあります。過剰な期待と、依存心から、良い距離感を持つことができないで、関係を自ら破壊してしまう傾向がそこにあります。イエス様は、自らを人に委ねませんでしたが、同時に、他者の非難に押しつぶされて自暴自棄になることもありませんでした。迫害者たちの前で、堂々と自らの主張を訴え、弟子たちに見捨てられても、最後までその使命(十字架の死)を全うされたのです。このような生き方をすることはなかなか難しいのですが、このような人格には憧れます。何故なら、イエス様が人に接する時のその接し方は、富や権力のある者にもへつらうことなく、また力のない者を見下すことのない、公平かつ自由な接し方だったからです。このような人格に出会うなら、人は愛と感動を覚えるでしょう。同時に、このような人格を忌み嫌う者がいるとすれば、富と権力に溺れた者でしょう。私たちクリスチャンは、聖霊により、このお方の人格へと変化させられていくのです。栄光から栄光へと鏡のように主の栄光を反映させながら。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」この言葉は、神の子とされた私たちにも、日々投げかけられている言葉です。天の父なる神の愛と承認を後ろ盾に、キリストに倣うもの(Imitatio Christi)になりたいと思います。



●マタイの福音書4章8〜11節
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。


 イエス様は、宣教活動開始の前に、荒野で悪魔の誘惑を受けられました。ちょうど、四十日四十夜の断食の後で空腹を覚えられた時の出来事です。悪魔の誘惑の共通点、すなわちその目的は何かというと、「自らを神とする」人間の本性を明らかにすることでした。聖書はその本性を「罪(的外れ)」と言います。アダムとエバの失楽園の記事を見ればわかる通り、本来、神に仕える存在であった人間が選んだ道は、「自らを神とする」道だったのです。神なしに善悪を判断する道を歩みだした人間は、当然の帰結として自らが神になろうとしました。その本性を引き出すことが悪魔の最大の目的です。石をパンに変え、神殿から飛び降りて天使に守らせ、悪魔を礼拝して全世界を手に入れる、どれもこれも「自らを神とする」欲望を満たす誘惑です。最終的な悪魔の要求は自分を礼拝することでしたが、イエス様の答えは『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』という御言葉でした。悪魔を拝む、あるいはご利益を求めて偶像礼拝や占いをする、これは全て栄華を獲得しようとする欲望を満たすためです。その欲望のためなら、拝む対象は何でもいいのです。ここに偶像礼拝の本質があります。自分の欲望を満たし、自らを神とする、その本性を引き出せたら、悪魔の勝ちでした。しかし、イエス様はそれを全てみ言葉で反論し、「自らを人とする」ことに徹します。言い換えれば、「唯一まことの神だけを主とする」ということです。『主にだけ仕えよ』とあるとおり、仕える者の姿を貫かれたのです。これこそが福音に生きる者の道です。「唯一まことの神だけを主とし、自らは人の地平に立ち続ける」、これこそが救われた者の道なのです。神に仕え、人に仕える道とも言えます。神を使い、人を使う!ではありません。「主よ、あなたのご用のために用いてください」と祈り、主の導きを求めて行きましょう。



●マタイの福音書4章17節
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」


「この時」とはどのような時だったのでしょう。それは、イエス様が荒野での誘惑に勝利した後であり、預言者であったバプテスマのヨハネが、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスに捕えられた後のことです(12節)。イエス様は故郷のナザレを去り、カペナウムに住まわれるようになりました。その時から宣教を開始されたのです。カペナウムはガリラヤ伝道の本拠地となり、イエス様はここを中心に様々な奇跡を行なわれました。5000人の給食の奇跡もこの近くで行なわれています。病人の癒しや悪霊追い出しの多くがカペナウム周辺で行なわれています。また、カペナウムにはローマ軍が駐屯していて、取税所が置かれていました。そこで働いていたマタイは十二弟子の一人になります。イエス様の説教の多くはこの町において語られ、カペナウムはイエス様にとって「自分の町」であったとマタイは記録しています(マタイ9:1)。にも関わらず、カペナウムの民は悔い改めず、イエス様はこの町の滅びを預言し、その預言は成就して現在では廃墟となっています。地理的には、ガリラヤ湖の北西岸に位置します。さて、そのカペナウムからはじめられた宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」という、バプテスマのヨハネと同じ宣言でした(マタイ3:2)。ギリシャ語の「御国」とは支配のことであり、力の及ぶところを指します。ローマ帝国の支配の及ぶところを連想させる言葉であり、単に領土を指すのではなく、その影響力と活動を意味するのです。それゆえ、「天の御国が近づいた」とは、神の支配が及んでいる、神の活動がはじまっている、神の力があらわされようとしている、という意味になります。「だから、暗闇の中を生きているガリラヤ地方の人々よ。今までの歩みを棄て、方向転換し、悔い改めて、この神の支配、神の活動、神の力の中に飛び込んで来なさい。神は憐れみ深いお方ですよ!」これがイエス様のメッセージだったのです。ある人々は喜んで信じました。ある人々はバカにして拒絶し、滅びを身に招きました。現代に生きる私たちも「恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」でありたいと思います(ヘブル10:39)。



●マタイの福音書4章18〜20節
イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。

 今日のテーマは弟子の召命です。イエス様の公生涯の初期から共にいた弟子たちが登場します。兄シモン・ペテロ(ペテロはギリシャ語のニックネームで『岩』の意)と弟のアンデレです。ヨハネの福音書1章40節によると、アンデレがもともとバプテスマのヨハネの弟子であったことがわかります。そして、アンデレが兄のシモン・ペテロにイエス様を紹介したのです。次に、今日の聖書箇所に続く内容として、ゼベダイの子のヤコブとヨハネが出てきます。おそらくヤコブが兄でヨハネが弟だったのでしょう。以上の4人が、イエス様の活動の初期からお供をした者たちです。みなガリラヤの漁師たちでした。学者でもなく、専門教育を受けた教師でもありません。そもそも、師であるイエス様自身が大工のせがれです。一説には、父ヨセフとその家族は小作農をしていて、当時のひどい重税に生計が成り立たず、兼業としての大工(石工や木工)をしていたのではないかと言われています。そんな師と、無学な漁師たちとが、初期教会共同体を構成したのです。そして、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は12使徒の中核をなす人たちとなり、特にシモン・ペテロとヤコブとヨハネは、イエス様のそば近くで様々な出来事を目撃します。そして、初代教会の活動の中心人物として、ペテロとヨハネは常に名を連ねます。誰が想像したでしょうか。貧しさを経験したナザレ出身の大工の息子が救い主であって、異邦人のガリラヤと呼ばれ、蔑視された地域からやってきた4人の元漁師たちが世界を変える福音の初期伝達者となるなどとは。神が召したとしか言いようがない!そして、その目撃証言であるイエスの十字架の贖いと復活とが歴史的事実であったとしか言いようがない!「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」この招きの言葉は今も生きて働いています。これまでのあなたがどのようなものであったかはどうでもよい。招きを信じ応答するのみです。聖書を学び、祈り、礼拝と宣教を実践していきましょう。



●マタイの福音書5章1〜3節
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。


 「心の貧しい者」とは、「霊において貧しい人」というのが原意です。これは、死海文書にも見いだせる言葉で、ギリシャ語の「霊において貧しい人」に当てはまるヘブライ語の意味は、「精神において貧しい人」「神の前に乞う者として立っている人」「心のへりくだった人」「謙虚な人」というものだそうです。日本語の「心の貧しさ」とは、どちらかというと狭量さや思いやりのなさを表現し、その人の品性を量る言葉です。しかし、聖書における貧しさは、神に向かう姿勢(心も体も)のことなのです。決して貧困を肯定しているのでもないし、困っている人に「あなたは幸いな人ですよ」と気休めを言っているのでもない。本当に困っている人にそんなことを言ったら「金をくれ!」と怒られるのが落ちです。そして、単に困っているだけの人は、聖書が言うところの「心の貧しい人」に該当しません。なぜなら、その人が何も神に向かおうとしていないからです。恐らくそういう人は、問題が解決したら平気で神をも教会をも捨てることのできる人です。何故なら、もとから、心は神に向かっておらず、富や暮らし向きの安定にしか向かっていないからです。それはまるで、イエス様に重い皮膚病を癒してもらった10人のうち、1人だけしか戻って来て感謝をしなかったのと同様です(ルカ17:12〜)。癒されれば、もう後はイエス様なんかいらない!これが本音だったのでしょう。そういう意味で、この10人の内、聖書が言う意味の「心の貧しい人」は1人しかいなかったことになります。さあ、私たちは、困難な状況に出くわした時、どこに向かうのでしょうか。とりあえず急場をしのぐことだけが目的になるのか、あるいはその問題を通して働かれる神の御心と導きを求めるのか。前者はご利益だけを求めているのであり、後者は自らの使命を求めているのです。同じ困難に出くわしながら、全く違う生き方がそこに生まれるのです。そして、『天の御国』すなわち神の力と支配は、神に向かっている人に与えられるのです。それこそが、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」の意味です。



●マタイの福音書5章43〜45節
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。


 愛敵の精神として知られるイエス様の教えです。ただし、この教えは、すぐ博愛の精神に飛躍してしまう傾向があります。本来このテキストが言う、「敵、迫害する者」と呼ぶ相手は具体的に誰であり、教えられている人たちは誰なのかを特定しなければなりません。語られているのは弟子たちとその共同体です。彼らは、ローマ帝国やエルサレム当局の貴族祭司たちによって搾取されていた民衆であり、「貧しい者たち」でした。ヘロデ大王以来、ローマにくみする領主や祭司たちに対する民衆の不満は膨れ上がっていました。更にはローマの総督や兵士たちに蹂躙され、苦役を強いられた民衆には、怒りと恨みが蓄積していたのです。今日の言葉は、そのような民衆によって構成されていたイエスの弟子たちに語られた言葉なのです。ですから、敵とはローマやそれにおもねる貴族祭司たちです。更には、民衆を苦しめるローマ兵たちです。クーデターを起こしても、武力で鎮圧され、殺されるのが落ちの相手です。イエス様は、そのような敵に対して、非暴力による抵抗運動を勧めています(38〜42節)。現代では、マハトマ・ガンディーやキング牧師などが、この教えを実践しました。ですから、この愛敵の精神と呼ばれる教えは、単なる博愛主義でもなければ、不正や暴力に屈して泣き寝入りすることを勧めているのでもないのです。むしろ「抵抗せよ!」とイエス様はおっしゃるのです。それは、非暴力による抵抗であり、今日の言葉で言えば、愛と祈りによって立ち向かうことなのです。何故なら、私たちは「神の子」であり、私たちの父は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」恵みの神だからです。この恵みによって私たちは赦され、神の子となることができました。その神の子にとって相応しい振る舞いは、不正を行なってくる敵に対して、無抵抗と愛と祈りによって立ち向かうことなのです。そして、その目指す先は天の父に認められることです。



●マタイの福音書6章19〜21節
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 「クリスチャンは贅沢な生活をしてはいけません。地上の宝は奪い去られます。天に宝を積みなさい。教会に献金しなさい。そうすれば、あなたは神に用いられるでしょう!」。これは、カルト宗教と化したキリスト教会によく見られる説教です。教会に献金することイコール天に宝を積むことなのでしょうか!?誤解のないように。信者さんの献金のおかげで牧師家庭は支えられています。当然、献金は神にささげられるのですが、そのような信者さんたちの献金がなければ教会の活動は成り立ちません。そういう意味では、教会を愛し、牧師を愛してささげてくださる方々の存在は有難いのです。私たち家族は本当に感謝しています。ところが、教会の活動を派手にして名声を獲得するために献金をあおったり、あるいは教会会計がひっ迫しているからと言って、脅迫めいた献金のアピールをするのはイエス様の心ではないはずです。「自分の宝は、天にたくわえなさい」という言葉がそういう意味で用いられたら、結局他の御利益宗教と何ら変わりがありません。文脈を見れば、その意味は一目瞭然です。6章1節以降で、人に見せるための善行を禁じ、人にほめられるための人前での長い祈りを批判されたイエス様の心を考えればわかります。イエス様は、この世で富や名声を得るための偽善を否定されたのです。その文脈に今日の言葉があるのです。ですから、地上の宝とは直接お金を指しているのではありません。宝とは、人々の称賛です。人々の称賛は富や名声をもたらします。それを意識した人間の醜さを主は指摘されたのです。称賛を得るために、患者を実験台とし、利用価値のある人間以外を切り捨てる医者がいたとすればどうでしょう。教師も、弁護士も、それこそ牧師も、称賛が目標となって生徒やクライエント、信徒を利用しはじめたら終わりです。使徒の働きでは、初代教会の中での称賛を得るために、自分の土地を売り払い、その全額をささげますと言いながら一部を残して偽ったアナニヤとサッピラいう人が出てきます。結局、神の裁きを受けて夫婦ともに死んでしまいます。最初から正直に言えばよかったのです。ところが、彼らは初代教会での地位が欲しかったのでしょう。まさに、地上に宝を積む姿です。では、天に宝を積むとはどういうことなのでしょうか。それは、人の称賛を度外視して、最良のものを提供することです。愛や信仰、喜びや感謝といった、天の御国に存在する霊的な何かのために自らを投資するのです。そこには、当然、教会への献金も含まれるでしょうが、アナニヤとサッピラのようであってはなりません。ご利益のために何かをするのではなく、愛して身を投じる。これが神の子の生き方です。そういう人は神からの多大な称賛を受けることになるでしょう。「善且つ忠なる僕よ」と。それが、天に宝を積むことです。



●マタイの福音書6章26節、28節
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)。この言葉は神がお選びになったイスラエルの民に贈られた言葉です。それも、背信を繰り返してきた罪と失敗だらけの民にです。罪深いにも関わらず愛された。弱く役に立たないにも関わらず愛された。愚かであるにも関わらず愛された。この「にもかかわらず」の愛の理由は何でしょうか。それは、「わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(43章1節)だからだそうです。つまり、神のもの、神の子となったからです。同様に、イエス様は、父なる神を信じ、救い主であられるイエス・キリストに従ってきた弟子たちに向けて今日の言葉を語られます。「あなたがたは神を父とし、わたしに従ってきたのだから、心配するには及ばない。あなたはあなたのなすべきことを行いなさい。そして、あなたらしく生きなさい」。これがイエス様の言わんとしていることだと思います。人の暮らし向きの自慢を聞き、それに比べてみすぼらしく見える自分の生活を見ながら不安になる弟子に向けて、「空の鳥を」見よ!とイエス様はおっしゃる。鳥は農業をしません(笑)。鳥の本業は狩りです。人間が食物を蓄えている姿を見ながら、もし鳥がうらやんでいたとしたら、笑えます。あり得ないことです。あるいは、着飾っている裕福な家庭を見て、野のゆりがうらやんでいたとしたら、それも笑える。鳥は自らのなすべきことをすればいい。野のゆりは神が十二分に飾ってくださる。同様に、「あなたはあなたのなすべきことを行いなさい。そして、あなたらしく生きなさい」、これが、イエス様から弟子たちに送られたエールなのです。ちなみに、並行記事のルカの福音書12章24節によると、空の鳥とは「カラス」のことです。また、「野のゆり」と訳されている花は、現在ではアザミやアネモネだと言われています。一説にはマリアアザミとも言われています(マリアはマグダラのマリアから来ているかもしれません)。古代パレスチナで汚れた鳥の一つとして数えられたカラスと、野生のマリアアザミ、どちらも人から見下され、見放された者の象徴です。「罪人(弱い者)を救うために来た」とおっしゃったイエス様ならではの表現です。「あなたはあなたのなすべきことを行いなさい。そして、あなたらしく生きなさい。あなたはわたしのもの、わたしの愛する子なのだから」。主の励ましに支えられて進んでいきたいと思います。



●マタイの福音書6章33〜34節
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 私の人生は私の決断によって決まります。誰か他の人が私の人生を生きることはできません。すべての責任は私にあります。私が犯した罪や失敗を、誰かのせいにすることなどできません。親の育て方だの、環境が悪かっただの、心理学かぶれが言うような言い訳は、結局何の役にも立ちません。すべては私のせいなのです。そして、死後、神に問われるのは私のしたことです。私がしたことについて、他の人が問われることはありません。私が神の前に申し開きをしなければならないのです。このような考え方は聖書の思想の大前提と言えるでしょう。私たちの信じる父なる神は「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方」(Tペテロ1:17)なのです。この畏怖の念を持ち、神を慕う人たちのもとに伝えられたのがイエス・キリストの福音でした。キリストを通して、信仰により救われるという恵みの道が開かれたのです。その道に入った弟子たちに向けて、キリストが語られた教えは実に慰めと励ましに満ちたものでした。「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」。全ての責任は自分にあると考え、不安と恐れにとらえられていた弟子たちに向かって、「大丈夫だ」と語られたのです。なぜなら、「労苦はその日その日に、十分」あるからです。そして、その日の労苦を果たすことに集中すればいい、今日は今日なすべきことをすればいいと言うのです。なぜなら、神の国とその義、すなわち神がそれぞれに分け与えた仕事をしっかりとやれば、それに加えて必要なものは備えられるからです。それゆえ、神の子である私たちに求められていることは、「神の御心は何か」を探求する姿勢です。身の周りを見渡して、今、私に求められていることは何かを問う態度。お金持ちで着飾っている人と自分を比較したり、学歴や能力で自らをはかりながら落ち込んだりしている暇があったら、今自分にできることは何かを問えとイエス様はおっしゃる。そこにこそ神の国(神の支配)と神の臨在があるのです。はじめに申し上げたように、責任は自分にあります。しかし、神に信頼して、それぞれに分け与えられた分を果たす時、心配には及びません。責任を問われるどころか、身に余る守りと祝福を経験するでしょう。しかし、わきまえを知らず、自らを過信して神を無視する者には、それ相応の追求があるでしょう。それこそ、小さなことも見逃されないのではないでしょうか。やはり、祝福のカギは信仰なのだと思います。



●マタイの福音書7章3〜5節
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。


 渡辺善太という牧師は、「教会には必ず偽善者が起こる」と言いました。今日のみ言葉で、イエス様は、「偽善者たち!」と呼びかけます。呼びかけられている相手は誰なのかと言いますと、この山上の説教のはじまりにこう書いてあります。「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」(マタイ5:1〜2)。つまり、マタイの福音書の記者によると、イエス様が語っている相手は弟子たちです。更に付け加えるとすれば、周りにいる群衆です。そこには、農民や漁師、大工などもいたでしょうし、パリサイ人律法学者がまざっていたかもしれません。しかし、第一義的には弟子に向かって語られた内容という設定です。そうしますと、弟子を含めて、イエスの周りにいた人たちはみんな偽善者なのです。私もあなたも偽善者です。では、偽善者とは何でしょうか。それは、善を口から発しながら、善を行っていない人のことです。人には偉そうに言いながら、日常生活に戻ると偉そうなことを言えない自分がいる。わかったような物言いをしながら、実は何もわかっちゃいない。これが偽善者です。じゃあ、偽善者から脱するにはどうしたらいいのか。まず、自分が偽善者であることを自覚することです。そして、自分の眼の中に、「梁」(建築用の丸太)のような罪と愚かさがあることに気付くことです。そうすれば、相手を見下して裁くということはなくなるでしょう。つまり、「さばいてはいけません」(マタイ7:1)という命令を守ることになります。イエス様の意図は、私たちが罪と愚かさのない完全無欠の聖人になることではありません。それは人間である以上、不可能だからです。しかし、「梁」に気付くことはできます。気付きは変化をもたらします。罪に支配されないよう自制し、愚かさを克服するために考え学ぼうとします。罪や愚かさがなくなることはなくても、その罪や愚かさとうまく付き合うことができるようになるのです。しかし、最も恐ろしいことは、自覚がなく、無意識であることです。その人は偽善に支配されてしまいます。それがパリサイ人律法学者、祭司長や民の長老たちの姿でした。しかし、弟子たちは気付くことができました。師であるイエスを見捨てて逃げてしまうという挫折を経験して、目の中にある「梁」に気付けたのです。今、自らの罪と愚かさに憂えている人は、主の十字架に目を向けましょう。キリストの苦しみと死はあなたのためでした。復活の主は、「梁」ごとあなたを抱えて、確かな道へと導いてくださいます。気付けたあなたは幸いです。



●マタイの福音書7章9〜11節
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。


 「あなたがたは、悪い者ではあっても…」。これは、イエス様が、弟子たちを筆頭に、その周りにいる群衆にも向けて語られた言葉です。なかなか手厳しい言葉ですね。これを言われて有識者たちはカチンと来ただろうし、ユダヤ当局の者たちが聞けば「ナザレから何の善いものが出ようか!」と言い返されるのが落ちです。ところが、この言葉を弟子たちが言い伝え、福音書として記録したことを考えると、初代教会は「あなたがたは、悪い者である」という視点を受け入れたことになります。「私たちは悪いものである」。すなわち、罪と愚かさを内包する存在なのです。このような自己理解がなく、自らをキリスト教徒だと名乗る人がいるとしたら、それは似せクリスチャンです。キリスト教徒とは、自らの罪と愚かさを自覚して、神の恵みとあわれみにすがる者だからです。そこにこそ神との邂逅があるのです。そして、それは理念や思想を超越した神秘体験です。ここに至らずしてキリスト教は語れません。さて、今日の箇所で面白いのは、その悪い者である私たちでも「良い物を与える」と言われる「良い物」とは何かです。それは、パンと魚です。そうすると悪い物は、石と蛇ということになります。そんなものを与える親はいないとイエス様はおっしゃるのですが、言い換えるならば、パンと魚を与えているだけで、「良い物」を与えていることになるということです。子供たちに手料理を用意されているお母様方!コンビニではなく、またレトルトではなく、新鮮な野菜と安全な食材でご飯を作るお母様方。「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を」与えているのです。自信を持ってください。そして、そのようなあなたならわかるでしょう。「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と言われるイエス様の真意が。天の父は、私たちに最良のものを用意してくださるのです。だから、あきらめず、自暴自棄にならず、追求し続けるお互いでありたいと思います。父は必ず最良のものと出会わせてくださる。また、良い物をシェアする共同体を形成していきたいと思います。出し惜しみせず、分かち合いましょう。それが律法であり預言者です。



●マタイの福音書7章15〜17節
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。


 初代教会の時代に、エビヨン派と呼ばれる異端と、ケリントスという偽預言者が現れました。エビヨン派は、イエス・キリストのことを「徳を積んで義とされた貧しい普通の人」だと教え、キリストへの信仰やそれに基づく生活だけでは救われないと教えたそうです(エウセビオスによる)。そして、ユダヤ人の律法と儀式を守るように教えた、ユダヤ人クリスチャンの運動だったようです。パウロの福音を否定した割礼派を連想させますね。また、ケリントスもエビヨン派同様にキリストの神性を否定し、律法主義を主張しました。そして、キリストの再臨によって千年王国が始まると教えたのです。恐らく、教会史上、千年王国説を初めて語ったのはケリントスでしょう。エイレナイオスによると、ヨハネはケリントスへの反駁のためにヨハネによる福音書を書いたそうです。新約聖書には、今日の「にせ預言者」という言葉が11回出てきます。それによると、にせ預言者は基本的にユダヤ人であり、イエス・キリストから始まり弟子たちによって伝承された恵みの福音を捻じ曲げる、あるいは破壊する教えを伝えたようです。そして、その教えの共通点は律法主義です。すなわち、信仰だけでは救われない、熱心な行いがないと救われないという教えですね。パウロが論駁した割礼派や、ヨハネが否定したグノーシス的ユダヤ主義、ヘブル書の著者が警告したユダヤ教帰り、そしてエビヨン派やケリントス、現代ではエホバの商人(ものみの塔)や統一教会など、多くの律法主義思想が「にせ預言者」の教えにあたります。時に熱心さは人々の目を引きます。奇跡も、人の数が多いことも、更には社会的影響力も人を先導します。そして、その熱心さは容易に律法主義を生みだし、最終的には神の恵みよりも人間の行いを礼賛し、人間や組織をあがめるようになるのです。人の目には「良い実」に見えますが、初代教会の福音的視点からすれば「悪い実」です。「良い実」は神の恵みによってもたらされる愛であり、律法主義者のように高慢になって人を裁いたり、外圧をかけて強制的に行いを引き出すものではありません。ましてや分裂を引き起こす熱心さではないはずです。さあ、絶えず立ち返りましょう。イエス・キリストの恵みの福音に、人を救い成長させる神の憐れみに、そしてはじめの愛に。



●マタイの福音書8章8、10節
…百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。…イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」

 百人隊長のしもべが癒される記事です。登場人物はイエス様と百人隊長。けれども、百人隊長の部下たちと病気のしもべが背後に存在します。ここで重要なことは、病気のしもべは全くの受け身であったということです。病者には何も要求されておりません。問われているのは、そのまわりです。まずは、責任者である百人隊長が、とりなしのためにイエス様のもとに駆けつけます。そして、その部下たちは主君のもとで待機します。懇願されたイエス様は、最終的に言葉だけで癒しを行われます。しかし、ここで高く評価されているのは百人隊長の信仰です。すなわち、とりなす者の信仰です。彼の信仰の凄さは2点です。それは、へりくだりと主の言葉に対する信頼です。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」とは、ローマの下僕として異邦人に雇われ、罪を重ねる自分を省みての発言でしょう。身の程を知っているのです。痛いぐらいわかっているのです。自分が神の恩恵にあずかる資格がないということを。しかし、彼の心にあったのはしもべに対する憐れみであり、その憐みが神の憐みを懇願するに至らせたのです。それゆえ、資格のないものではあるけれど、主が一たびあわれんでくださって、万が一にでもお言葉をくださったら、しもべは癒されるに違いない!そう思ったのでしょう。受け入れられなかったらどうしよう?とか、癒されなかったらどうしよう?とかいう自意識はそこになく、ほんの少しでもおこぼれがあればそれだけで感謝!という捨て身さと、信頼があるのです。人の目を意識しない、自意識にもとらわれない、実にすがすがしい、そして潔い百人隊長の姿が描かれています。いろいろと将来設計をして不安になり、「神様、この部分と、この部分が不足しています。後はうまく私の計画通りに事が運んでおります。どうぞ、欠けた部分だけよろしくお願いします」みたいな、まるで神を小間使いのように扱う要求ではなく、身の程を知って、ただ神の憐みにすがる信頼が「ただ、おことばをいただかせてください」という百人隊長の従順な姿勢に現れているのです。私たちも、本来神に愛される資格のない罪人でした。しかし、恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それゆえ、ただ、神の憐みにすがりながら、自らと周りの者たちのために懇願するものでありたいです。「主よ憐れんで下さい。お言葉をください。」と。



●マタイの福音書8章25〜26節
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。


 イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っていた時、大暴風が起こり舟は大波をかぶってしまいました。今日の箇所は、その時のやり取りです。イエス様は「なぜこわがるのか」とおっしゃいましたが、普通は怖がりますよね。「なぜもクソも、命の危険性を感じたからに決まってるやろが!」と言いたくなります。イエス様の真意は如何に!?それを読み解くカギは弟子の言葉にあります。「主よ。助けてください。」これは普通ですね。助けを求める弟子をイエス様が見放すはずはありませんから、この言葉に問題はありません。ところがその後です。「私たちはおぼれそうです。」弟子たちは、最悪のストーリーを決めてかかっているのです。今にもおぼれそう!おぼれつつある!おぼれるに違いない!そう思い込んでいたのでしょう。「なぜこわがるのか」という問いは、その部分に投げかけられたのです。何か問題が起こった時、「やばい!」と思って不安を抱くところまでは普通の反応です。そして、その先に危機意識が高まって危機管理をするのであれば、それは良いことです。ところが、もし「おぼれてしまう!」と決めてかかってしまったのなら、苛立ちか絶望しか出てこないでしょう。現に、並行記事であるマルコの福音書4章38節で、弟子たちは苛立ちと絶望をイエス様にぶちまけてこう言います。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」もはや神の憐みを乞う謙虚さなどどこにもありません。まるで、賠償請求です。当然の権利を要求しているみたいです。苛立ちと絶望を生みだす恐怖!それに支配された弟子たちに向けてイエスさまおっしゃったのです。「信仰の薄い者たちだ」と。問題が起こったら、あせらず危機管理しましょう。そして、最悪のシナリオが頭に浮かんでも、それを信じないことです。むしろ、憐みの神が最善をなしてくださると期待して、結論は神にゆだねるべきではないでしょうか。「何もできなくなる冬が来る前に、今できることをやっておこう」と今を生きるのです。そして、そんな冬は来ないかもしれません。もし来たとしても、それまでにやるべきことをやっていますから準備ができています。キリエ・エレイソンと祈りながら、結果は主にゆだねて、今できる次の一手を繰り出していきましょう。



●マタイの福音書9章12〜13節
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 このイエス様の話には二つのカテゴリーに属する人が出てきます。その二つとは、神に招かれる人とそうでない人です。神に招かれる人は罪人で、病人にたとえられています。招かれない人は正しい人で、健康な人にたとえられています。病気はあくまでたとえでありまして、罪を表現するための象徴です。すると、罪に陥った悪人と、罪に打ち勝った正しい人ということになり、なぜか神は前者を招かれるのです。はっきり言って異常な話ですね。罪に打ち勝つ正しい人のほうがいいに決まっているからです。しかし、この話には痛烈な批判が込められていて、その背景がわかると異常な話どころか、良い話であることがわかってきます。イエス様の周りに集まってきた人たちは、いわゆる庶民でした。現代の日本のように一億総中流意識を持つ時代ではありませんで、一部の貴族や政治家、そして祭司たちを除いては、ほとんどが貧しい人々だったと言われています。そして、イエス様自身も決して豊かな家庭の出ではありませんでした。そして、イエス様が「正しい人」と言って痛烈に批判した相手は、その庶民ではなく、豊かさによって立派な生き方をしていたかのように見えたパリサイ人です。彼ら宗教家たちは、その豊かな生活のゆえに、何の問題もない善人のようにふるまえましたが、心の内側は高ぶりと傲慢に満ちており、人前に出てくる立派さは偽善でしかなかったのです。彼らの得意技は、自らの正しさに満足しながら人を見下し裁くことでした。ところが、イエス様の周りに集まった人々は、みな身の程を知り、神の憐みにすがった人たちなのです。病気のたとえで表現するなら、病識のある人であったと言えるでしょう。神の前に謙遜な人たちです。しかし、パリサイ人たちには病識がありませんでした。自分の心の醜さに気付かない傲慢な人たちです。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18章12節)。「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言3章34節)。今日も、神はイエス・キリストを通して、身の程を知る者たちを招かれます。



●マタイの福音書9章20〜22節
すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

 長血を患う女がイエス様の衣に触れて癒された時に、イエス様がおっしゃった言葉です。長血は女性の病気で、現代では治療可能な病だと言われますが、当時はそうではありませんでした。その病が、一瞬にして癒されたのです。この女はイエス様の着物のふさを触っただけでした。当然、普通の人なら気付かないところを、イエス様は御自分から力が出ていくのを感じられて、この女性の存在に気付きます。震えながら進み出たこの女性に対して、イエス様は実に慰めに満ちた言葉をかけられます。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」。それまで、汚れた女、罪人としてレッテルを貼られ、病の故に疎外されていたこの女性が、その信仰を認められ、人間としての尊厳を回復した瞬間です。この癒しの奇跡は、単なる治療にとどまらず、この女性が神に受け入れられ救われたことを現わすものでした。神様は、御自身に対する信頼と期待を喜ばれます。そして、その信頼と期待を裏切りません。当然、私たちの願いどおりにはならないこともあります。しかし、この女性のように、「御衣にでもさわることができれば」と信頼と期待をよせる者の心を喜び、その信仰を認めてくださるのです。みなさんは、何かを神に期待しておられますか? 神様の恵みと憐れみに信頼していますか? 物事が思い通りに進まなくて、がっかりしてはいませんか? 理想通りに生きれなくて、神に対する信頼と期待が色あせてしまってはいませんか? この長血を患う女性は12年間もの間、この病に苦しめられたのです。にもかかわらず、彼女の心はなえていませんでした。社会に罪人のレッテルを貼られても、「神などどこにいるのだ!私の人生を返せ」とは言いませんでした。彼女は信頼し続け、期待し続けたのです。同様のことが私たちにも言えます。自分を憐れんで生きるのも一つの選択肢です。しかし、どんな向かい風がやってこようとも、信頼と期待を失わずに行動し続けることができたら、その信仰は素晴らしい! 「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と主イエス様に言っていただけるのでしょう。
 

●マタイの福音書9章27〜29節
イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。


 「ダビデの子よ」という呼びかけが、マタイの福音書において三箇所登場します(9:27、15:22、20:30)。救い主はダビデの子孫から生まれると預言されていたので、「ダビデの子よ」という呼びかけは、救い主を指示しています。また、ユダヤ人の王を指す言葉です。それゆえ、危険な言葉でもあります。なぜなら、現政権を転覆させてユダや人の王を名乗り、ローマに反旗を翻すクーデターと受け取られる可能性があったからです。そういう意味では、この発言はイエス様を窮地に立たさせるものです。だから、一般的なユダや人は思っていても口に出しませんでした。公に、口に出したのは盲人か異邦人の女ぐらいです。ある意味、空気読めない発言です。そんなことを声高に叫んだら、捕えられる可能性だってあったのですから。しかし、彼らに常識は通用しませんでした。盲人も異邦人の女も、もともと人間扱いされず、神の祝福にあずかれない者とレッテルを貼られていたわけですし、ユダや人たちから冷遇されていた人たちです。そういう意味で、常識は彼らに対して冷たかったのです。常識は頼りになりませんでした。それゆえ、常識をぶち破って叫び声を上げたのです。「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と。そんな盲人に対して、イエス様は実に憐み深いのです。彼らの目にさわることは、当時としては非常識な行動でした。病気は罪の結果だと考えられていた時代に、その病人に触れることは、罪を共有していると見なされたのです。しかし、イエス様はあるがままの盲人を受け入れられたのです。そして、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」とおっしゃって、この盲人の信仰を認められるのです。盲人も非常識でしたが、イエス様も非常識でお応えになりました。クリスチャンたるもの、「世の光」なのですから、常識を知らねばなりません。常識を逸脱して、人に迷惑をかけるなど言語道断です。しかし、神の愛と憐みのゆえに常識に縛られず、自由に行動することはもっと大切です。過去が原因で今があるのかもしれません。それゆえに、自責の念に陥ることもあるでしょう。しかし、神のあわれみは、私たちをその奴隷状態から解放するのです。主に求めましょう。主よ、憐れめよ!キリエ・エレイソン



●マタイの福音書9章37〜38節
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」


 ここで言う収穫とは何かというと、大勢の人々がイエス様のもとにやってきて救いを求めたことを指しています。ある者は癒され、ある者は悪霊を追い出してもらい、全ての人が神の国のメッセージを聞いたのです(35節)。そして、その大勢の人を憐れんで(36節)イエス様がおっしゃったのが今日の言葉です。それゆえ、「収穫のための働き手」とは誰を指すかというと、神を求めてやってくる人たちを導く人のことです。これをキリスト教会では、伝道者(ギリシャ語:ε?αγγελιστ??=良い知らせを伝える人)と呼びます。使徒に関しては、初めからの目撃者であり復活のキリストの証言者である人に限って与えられた立場でしたので、初代教会にしか存在せず、正しい教えを見張る役目がありました。しかし、今は、その使徒の目撃証言をまとめ、編纂された新約聖書が存在するため、使徒の立場は必要ありませんし作ってはいけません。現代、使徒を名乗る教会は危険です。なぜなら、言い伝えられた正しい教えが改竄される危険性をキリストの体なる教会に招き入れる可能性があるからです。しかし、伝道者は違います。伝道者はその正しい教えに基づいて人を導く役割であり、聖書正典に則って導くのです。それゆえ、伝道者の役割は信徒にでもできることです。何か専門教育とライセンスがなくても、言い伝えられた正しい教えに基づいて人を導くことができれば、その人は伝道者です。そのような伝道者が起こされるよう祈れとイエス様はおっしゃるのです。さあ、キリストの弟子である私たちは、熱心に「収穫のために働き手を送ってくださるよう」祈ろうではありませんか。場合によっては、そう祈ってるあなたが伝道者として用いられるかもしれません。家族や友人、知人との関わりのもとで、神を求める人たちの導き手として召されるかもしれません。ですから、とにかく祈ることです。これを毎日の祈りの課題としましょう。そして、自分がその導き手として招かれた時に、ちゃんと正しい教えを伝えることができるように、聖書を学び、福音を正しく理解することが大切です。この学びも深めてまいりましょう。神があなたを用いられるタイミングは、神のみぞ知る!です。それに備えて祈り、学ぶお互いでありたいと思います。



●マタイの福音書10章41〜42節
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

預言者は、腐敗したイスラエルの王の罪を指摘し、神の律法に立ち返るように大胆に宣言しました。旧約聖書の預言者たち、そして、イエス様の時代であれば、洗礼者ヨハネがそうでした。旧約最後の預言者であった洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが異母兄弟の妻と結婚したのを知って、それが姦淫の罪であることを指摘しました。その結果、ヨハネは牢に閉じ込められ、宴の余興に首をはねられて殺されます。この不正に民は怒り、多くの人がヨハネを神が遣わされた預言者だと認めました。また、義人とは誰をさすのでしょうか。イエス様は「義人アベル」とおっしゃいましたし、ヘブル書の著者もアベルを義人と言います。そこから始まる旧約の信仰の偉人たち、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデなど、彼らのことを義人だと言っています。そして、究極的にはイエス・キリストを指しています。民衆はヨハネを支持したのと同様に、いやそれ以上に、イエス様を支持しました。また、イエス様の弟子たちも、支持を受けました。そのことをイエス様は、「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら」という言葉で表現しています。イエス様を支持した人たちは、その弟子たちをも支持したのです。十二弟子やマグダラのマリヤのようにイエス様と寝食を共にした弟子たちは出家信者でした。そんな彼らを支えた人に、ベタニヤのマルタとマリヤがいました。恐らくラザロもそうです。彼らは出家することはなかったが、エルサレムに向かうイエス様ご一行を支える在家信者でした。それこそ、「水一杯でも飲ませ」た人たちです。こういった、支える人たちは、支えられた預言者や旧約の偉人たち、そしてイエス様の弟子たちと同じ報いを受けるのです。同様に、牧師や宣教師の献身を支える教会の人々、伝道者の働きを支持する信者たち、彼らは矢面に立って何かをすることがなくても、その祈りと支援は大きな報いをもたらすのです。それゆえ、教会につながるあなたも「決して報いに漏れることはありません」。


●マタイの福音書11章4〜6節
イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 イエス様の親戚にあたる洗礼者ヨハネは、旧約最後の預言者であり、最も優れた預言者であるとイエス様から紹介されています(7節以降)。しかし、そんな洗礼者ヨハネもイエス様のことを疑いました。何故疑ったのかというと、思っていた救い主の姿とイエス様が違ったからです。ヨハネはヘロデ・アンティパスの姦淫の罪を指摘したがために、牢に閉じ込められていました。正しいことを行ったのに、罰せられ、不条理を経験していたのです。救い主は、そういった虐げられている者を救い出し、報復してくれるに違いないとヨハネは考えたのでしょう。それゆえ、そうしない救い主イエスを疑ったのです。そこで、洗礼者ヨハネは自分の弟子をイエス様のもとに送って、こう尋ねさせました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(3節)。それに対するイエス様の答えが、今日の御言葉です。イエス様は、ヨハネの質問に対して、まっすぐ答えていません。YesかNoで答えられる質問を投げかけられたのに、YesともNoともおっしゃらなかったのです。その代わりに、イエス様はご自分の活動をヨハネの弟子たちに紹介します。つまり、弁明や自己弁護をなさっていない。むしろ、あるがままを伝えて、自分で判断するように促しています。病める者たちの癒し。貧しい者に伝えられた福音。皆、ユダヤ当局からすれば見捨てられた人たちであって、癒されたからといって、福音が伝えられたからといって、現状は何も変わらなかったでしょう。いやむしろ、イエス様を信じたことのゆえに迫害を受けたに違いありません。でも、イエス様と出会い、イエス様を信じた人たちは、神を見たのです。自分が神に愛されていることと、自分にも使命が与えられていることを発見したのです。自分が神の子であることを強く自覚したのです。この世の物差しにとらわれることなく、力強く生きるようになったのです。まさに「だれでも、わたしにつまずかない者は幸い」なのです。信じる者にしか見えない世界があるのですから。



●マタイの福音書11章28〜30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 1世紀のユダヤ人たちにとって「重荷」とは、律法やそれに付随する言い伝えを守らなければならないという重圧を意味しました(マタイ23:4)。神の命令と社会的責任に押しつぶされそうになっていた全ての人に向けてイエス様は呼びかけます。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。この「休み」は、全てを終えることではありません。原語のアナパウソーというギリシャ語は一時的な休憩を指す言葉で、リフレッシュを意味します。それは、新たな一歩を踏み出すための魂の休憩です。また、「くびき」とは、二頭の家畜の頭を固定させて、車やすきを引かせるための道具でした。これは隠喩であって、苦難や服従を意味します。人は、生きている以上、苦しみを避けることはできません。時には、屈辱を味わい、辛酸をなめることもあります。しかし、イエス様はおっしゃいます。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。イエス様の「くびき」があるのです。それは「くびき」である以上、苦難や服従であることに変わりはありません。しかし、それは負いやすく、軽いのです。何故なら、十字架を負い、ついには身代わりの死を遂げてくださったイエス様が、そのくびきを共に負ってくださるからです。ただの苦しみでも、無意味な服従でもないのです。その全てが、イエス様と共に生きる道程であり、神の愛と慰めを経験する大切なプロセスなのです。愛する人と過ごした時間は、愛する人にもらった物よりも貴重なものです。その思い出が美しく、優しく、温かいものであればあるほど、他に何も必要としないのです。同様に、苦難と服従も、愛するイエス様が共にいてくださるならば、全く違う景色に変わるのです。それは、共に闘う最愛の友との歩みであり、最も頼りになる師に導かれる人生なのです。またそれは、たった一人で孤軍奮闘し、律法を守ろうとする旧契約のくびきとは違います。「失敗したら落ちてしまう」という恐怖に縛られたくびきでもありません。絶えず十字架の赦しによって慰められ、復活の力によって押し出される、あわれみを伴ったくびきなのです。ですから、「わたしから学びなさい」とおっしゃったイエス様の招きに従って行きましょう。「そうすればたましいに安らぎが来ます」。重荷も苦難も服従もある人生かもしれません。でも、主の平安で必ず乗り切ることができます。



●マタイの福音書12章7〜8節
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」

 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」この言葉は、ホセア書6章6節の言葉で、旧約聖書にはこう記されています。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」。「神を知る」とは、神との愛と信頼の関係性を現わしていて、それを失った儀式だけの形骸化した宗教に意味はないと言っているのです。ホセアは紀元前700年代に活動した預言者ですが、1世紀のイエス様の時代には、ユダヤ人の宗教はますます形骸化していました。たとえば、安息日律法であれば、その禁止事項をかたく守ることに必死で、その本来の意味を見失っていたのです。なぜ、神が安息日を設け、民を休ませたのかというと、それは肉体の休息とともに、神との交わりを持つためであり、魂の安息に至るためです。すなわち、そこには民に対する神の深いあわれみがあるのです。だとすると、民は神のあわれみを学んで、お互いを大切にしなければならなかったはずです。ひもじくて穂を摘んでいる弟子たちを見ながら、パリサイ人たちは「安息日の禁止事項を破っている!」と言って非難しました。パリサイ人たちは字義主義者であり、字面通りのことを四角四面に守っていましたが、その律法を宣言された神の御心からは遠く離れていたのです。パリサイ人のすべきだったことは、弟子たちを非難することではなく、食物を提供することだったのでしょう。それこそが、神のあわれみです。しかし、それをする気がないのなら、安息日の規定を持ち出して弟子たちを非難すべきではありませんでした。それは、「罪のない者たちを罪に定め」ることであり、最も罪深い行為だからです。更に、イエス様の教えは実に驚愕すべきものでした。「人の子は安息日の主です」。すなわち、救い主こそが安息日を定め、その真意を知る方であり、礼拝されるべき御方であるということです。つまり、イエス様こそが神であられ、礼拝されるべきお方であり、そのイエス様を信じて従った弟子たちはイエス様を中心に置いて生活しているがために、常に安息日の真意を全うしていることになるのです。現代に生きる私たちも、細かい規定を守ること、らしく生きること、そういう形にばかりとらわれず、神のあわれみを信じて、互いに助け合いながら生きていくように召されているのです。



●マタイの福音書12章49〜50節
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

旧約聖書を読むとき、その背後に男尊女卑の思想があることに気付かされます。モーセの十戒における姦淫とむさぼりの禁止事項を見ても、女性は所有物としてみなされており、あくまで男性優位の目線から戒めが語られていることがわかります。そして、イエス様の時代にもその傾向は強く、男が妻に離婚状を渡せば簡単に離縁できるという風習がまかり通っていたのです(マタイ19:7)。しかし、イエス様は違いました。イエス様は、この離婚状の習慣を、民のかたくなさ故のモーセの譲歩と理解し、妻の立場を夫の立場と同等に戻しています。また、使徒の働き9章36節には、タビタ(ドルカス)という女の弟子が出てきますし、ローマ人への手紙の巻末でパウロは女性執事のフィベを推薦し、プリスキラとアクラの夫婦を同労者と呼んでいます。つまり、奥さんのプリスキラのこともキリストの弟子であると理解していたのです。このことは、イエス様から始まった習慣でした。今日の聖書の箇所で、イエス様は手を弟子たちのほうに差し伸べて言われます。その弟子たちの中には、女性も含まれ、イエス様にとって母親の世代、同年代、そして下の世代も含めで弟子と呼んでいるのです。恐らく、ガリラヤ地方から同行していたマグダラのマリヤも、弟子という位置づけだったのでしょう。それゆえ、現代において、キリスト教会が女性を教師として登用するのは当然と言えるでしょう。男女関係なく、神からそのような賜物が与えられている人は、教会の徳を建て上げるために起用すべきなのです。いや、教師としてだけでなく、全ての信者が、老若男女問わず、キリストの弟子として生きるべきなのです。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3:28)。さあ、イエス・キリストを救い主と信じ、神のみこころを行おうと願う皆さん。是非、教会の活動に胸を張って参与してください。また、世界宣教という神のご計画に参与していきましょう。主イエスはあなたを弟子として招いておられます。そして、信じ踏み出すあなたに聖霊の力を注いでくださいます。あなたの力や能力に関わらず、神はあなたの信仰と献身を喜び、あなたを用いてくださいます。



●マタイの福音書13章52〜53節
そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。

 13章1節から53節までのところは、浜辺でイエス様がたとえを群衆に話される記事です。そのまとめとも言うべき言葉が今日の箇所です。たとえ話には、種まきのたとえ、毒麦のたとえ、からし種のたとえ、パン種のたとえ、畑に隠された宝のたとえ、真珠のたとえ、そして地引網のたとえなどがあり、種まきのたとえと毒麦のたとえにはイエス様の解説がありました。解説は弟子たちだけに語られます。群衆はたとえで話され、その意味がわかりません。なぜ、そのようにされたのか、イエス様の答えはこうです。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」(11節)。一見、決定論のように読めますが、このたとえ話をよくよく読んでみると、全て、救いと裁きなのです。そして、救われる者は、からし種やパン種のようにどんどん成長していくのです。それはまるで12弟子を筆頭とする初代教会のようです。そして、彼らは100倍、60倍、30倍の実を結びます。更に、彼らの特徴は、まるで畑に宝を発見した人のように、素晴らしい値打ちの真珠を見つけた人のように、他のものを捨ててでも、福音を信じようとします。その真剣さと、探求心と、情熱は、まるでそのたとえ話に出てくる人たちのようでした。福音の本質がわかった人は、神に捕えられるのです。そして、その結論としてイエス様は、弟子たちのことを「天の御国の弟子となった学者」という風に評価されるのです。つまり、イエス・キリストを信じ従った弟子たちは、福音を信じ続ける限りにおいて、豊かに実を結ぶ者であり、神の奥義を知ることを許された人たちだということです。同様に、あなたも、恵みの福音を信じ、神に従うことを願っているならば、そのような者です。心配する必要はありません。種まきのたとえに出てくる、実を結ばない土地でもなければ、毒麦でもないのです。イエス様は、福音を信じる者に、不安を抱かせて、がんじがらめにするためにたとえを話されたのではありません。クリスチャンらしく歩めてないから、私はだめだなんて思わないでください。キリストの十字架と復活を通して現わされた神の愛を信じ、主に従うことを願うあなたは「天の御国の弟子」です。あなたは宝を発見し、値打ちのある真珠を発見しました。福音こそ神からの最高のギフトです。しっかりと福音の恵みに立ち続けましょう。あなたは必ず実を結びます。



●マタイの福音書13章55〜56節
「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」

 この言葉は、イエス様の奇跡のわざと力あるメッセージを聞いた郷里の人々の反応です。この言葉を通して、イエス様の素姓がわかってきます。良く知られていることとして、イエス様は大工の息子です。父ヨセフは、成人した時のイエス様の周辺に登場しません。もしかしたら亡くなっていたのかもしれませんね。そしてイエス様は長男です。弟に、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」という四人の兄弟がいて、更に妹も複数いたようです。兄弟たちの中には、郷里を離れた者がいたかもしれませんが、妹たちは嫁いだりして、ナザレにとどまったようです。その、長男で、小さい頃からナザレで育ったイエス様を知る人たちは、過去を知っているということの故に、イエス様につまづきました。人間というのは、自分の色眼鏡で人を判断するものです。過去の出来事を掘り返しては、その人にレッテルを貼り、その人の人生に込められた神の計画を見ようとしません。イエス様に対する郷里の人たちの反応がそうでした。この発言は、上から目線です。「俺たちは、イエスのことは子供のころから知ってるぞ。そんな奇跡とか神の国のことを言うやつじゃなかった。どっかで誰かに習ってきたんだろう。でも、俺たちはあいつのことを知っている。神が遣わされたメシアなんかじゃないよ」というのが彼らの真意です。さあ、ここに生来の色眼鏡が存在します。確かに、それは当たっているのでしょう。イエス様も肉体を持っておられましたから、個性と人としての弱さ、そして限界があったに違いがありません。しかし、私たちと同じ肉体を持つイエス様が、聖霊の力と神の計画に導かれてメシアとしての使命を果たし始めた時、過去と限界を超越したのです。もはや生来の色眼鏡では測れない姿がそこにはあったのです。しかし、郷里の人はそれに気づけませんでした。傲慢さと、生来の規範に縛られていたからです。しかし、イエス様をメシアとして信じた人は生まれ変わります。信じる者は、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。信じて歩み出す未来は、過去と連動していません。過去の出来事が益にはされますが、それに縛られることはないのです。神の計画の中では、過去は、あくまで今から先の出来事を形作る一要因にしかすぎないのです。あなたも、あなた自身を、過去の色眼鏡で規定してはならない。確かに人としての個性と弱さと限界はあるでしょう。そして、それは当たっているのかもしれません。しかし、聖霊の力と神の計画は、それを凌駕するのです。信じて、踏み出しましょう。あたなに与えられた神の計画と使命の道を。



●マタイの福音書14章13節
イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。

 この言葉は、バプテスマのヨハネの訃報と、五千人の給食の奇跡、ちょうどその間に挟まれた一節です。イエス様の親戚でもあり、神の国運動の先駆者であり、預言者の中の預言者とイエス様が評価した人物、ユダヤ人と人類の救いという同じ使命を帯びた同労者のヨハネが、いとも簡単に首を切られて殺された。それも領主ヘロデの勝手な都合で。いら立ちと不安にさいなまされても仕方がない状況です。悪に対する怒りと、自分にも降りかかって来るであろう迫害への不安。人間であれば、情緒不安になって当たり前のところです。神の子で救い主なんだから、そんな不安はなかっただろう!というのも一つの見方ですが、同時に人であったということを考えると、弱さがあったのではないでしょうか。「舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」という言葉の中に、一人になって心を癒そうとする人の子の姿を見るのです。そこには涙があったでしょうか。あるいは叫びがあったでしょうか。どちらにせよ、イエス様は父なる神のふところで、ご自身の痛みを吐露されたのだと思います。しかし、すぐに群衆は押し寄せてきて、舟から上がって来るイエス様を待ち構えています。あわれみを乞う群衆にイエス様は応えて行かれます。痛みも消えぬまま、その使命にまい進していかれるのです。ユングやヘンリ・ナウエンが言ったように、傷ついた癒し人として、傷ついたまま、父の使命に生きるその姿こそ、真の救い主の姿なのです。私たち人類を救うために、とことんまで降りてきて下さった神の子の姿の中に、神の無尽蔵の愛が現わされているのです。いら立ちや不安に悩まされ、自己憐憫に陥っている人は、このイエス様の生きざまの中に救いを見出すべきではないでしょうか。イエスを救い主として信じ、イエスのたどった道を歩んで行く。そこに、救いがあり神の栄光があるのです。神を信じるあなたにも使命がある。「自分だけで寂しい所に行」って父に祈り、そして自分に与えられた使命に生きる。これがイエスのたどった道です。そして、その使命はどこか遠くにあるのではなく、すでにあなたの日々の中に存在するのです。ありもしない妄想の世界にではなく、自分に与えられた何の変哲もない日々と、変わり映えのない自分の環境の中に、神の臨在を見る信仰の目を養いましょう。神の国はあなたがたの只中にあるのですから。



●マタイの福音書14章27節
 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

 これは、イエス様が水上歩行をなされた時の話です。水の上を歩かれるイエス様を見て、弟子たちが「あれは幽霊だ」と言っておびえてしまった時に、イエス様が言われたお言葉です。「幽霊」というのは原語のギリシャ語でファンタスマという言葉が使われています。もともとの意味は「あらわれる」でして、見えなかったものが見えるように「あらわれる」ことを指しています。要は、「出た〜!」ってやつですね。何が出たのかはわかりませんが、とにかく出たわけです。この後、ペテロがイエス様と同じように水の上を歩いてみますが、途中でおぼれてしまいます。そのペテロに向けてイエス様がおっしゃった言葉は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」でした。現代人には理解不能な、迷信にしか思えない内容ですが、これは弟子たちの目撃証言でして、その真偽を確かめる術は今はありません。それは氷の上であったのではないかとか、錯覚であったのではないかとか、いろいろと推測する人がいますが、結局どれも確かめようがないのです。ただし、目撃者たちからすれば、それは実際にあった出来事なのです。そして、その証言が指し示すメッセージは、イエスこそ救い主であるということです。そして、マタイの福音書の著者は、イエス様の言葉に着目しているのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」という言葉です。思いがけない出来事に対して、イエス様は「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃって、全ての出来事が神の主権の中に、神の掌中にあることを宣言しています。溺れていってしまいそうな試練の中で、イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」ということにより、信じることの優先性とその力を教えています。神の主権に身をゆだねながら進み続け、信仰によって乗り越えて行くことを福音書の著者は当時の教会に、そして、私たちに語っているのではないでしょうか。そして、27節の「わたしだ」はギリシャ語のエゴーエイミーで、神がご自分を表わす時の表現です(出エジプト記3章14節)。イエスこそ神の子、救い主である!この信仰の告白が込められた証言でもあるのです。イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人は奮起して下さい。神があなたと共にいて、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃるのですから。そして、信仰は試練を乗り越える力となるのです。



●マタイの福音書15章17〜19節
 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。


 宗教的清めの儀式にばかりこだわって、自らの心の中にある醜さや罪深さに目を止めようとしないパリサイ人や律法学者。そんな彼らにイエス様が語られた言葉が、今日の聖書箇所です。当時、このような宗教的清めの儀式は、社会的信用とつながりがあり、人間の立派さはその儀式で図られました。現代ではどうでしょうか。現代も、社会的信用を得る職業や地位というものがありますね。それがあれば、その人はまるで罪のない人かのように、周りの人は信用します。実に人間はタイトルやバッジに弱い。そして、そこにあぐらをかいている人もまた多いのです。パリサイ派や律法学者もそうでありました。確かに彼らは立派にやっていたのですが、自らの罪を認めようとしませんでした。清めの儀式をしているのだから、自分たちに罪はない、過ちはない、というのが彼らの態度です。しかし、イエス様ははっきりと、そのような清めの儀式をしなくても、食物が人を汚すことはないと教えられました。そして、人を汚すものは人の心から出てくるというのです。全ての人の心の中に、人を汚すものが存在するのです。それが聖書の言うところの罪であり、キリスト教神学では原罪と言います。つまり、罪の根源です。この原罪のない人など一人もいません。どんなに立派な人でも。優しい人でも。それこそ、仏僧も神主も神父も牧師も、医者も教師も弁護士も、それこそ警察や検事だって、更には首相や大統領も、天皇も女王も、どんなタイトルがつこうが関係ない。たとえ、慈善活動に行き、素晴らしい救助支援をしている人であっても(それ自体は素晴らしいことですが、それで帳消しになるわけではない)、全ての人の中に、人を汚すもの、原罪が存在するのです。そして、そのようなタイトルにあぐらをかいてしまっている人ほど、偽善に陥りやすく、汚れていくのです。本当は、タイトルやバッジは使命を表わすものであって、反省と努力を促すものであり、より人を謙遜にさせるもののはずなのですが、モーセのように「これだけ一生懸命やってるのに、あなたがたは!」という心理になり傲慢になるケースが多いようです。全ての頂点に立たれる唯一まことの神の前にへりくだりましょう。自らの原罪としっかり向き合いながら、それを赦しきよめるキリストの十字架の贖いにすがりましょう。そうする時、神のあわれみが復活の力となって注がれ、原罪にコントロールされない歩み、神に導かれる歩みがはじまるのです。主があなたを贖われました。あなたは主のものです。ひざまずいて主のあわれみを請いましょう。キリエエレイソン。



●マタイの福音書15章28節
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 イエス様がここで最高の賛辞を送った相手は、カナン人の女でした。カナン人と言えば、昔、イスラエルがエジプトを出てパレスチナの地にやってきた時、すでにそこにいた先住民たちのことです。イスラエル人は彼らを忌み嫌い、カナン人の側もイスラエルに対して憎悪していました。そして、異邦人の地であるツロとシドン(フェニキヤ地方のことで現在のレバノン)にイエス様がやってきた時、この女性と出会うのです。エルサレムやユダヤ地方に住む1世紀のユダヤ人たちにとってみれば、実に忌むべき地域であり、軽蔑する人たちの住むところです。そのカナン人の女に対して、イエス様は結構きつい態度を取られます。悪霊につかれた娘をいやしてほしいというこの女性の願いに対して、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われたのです(15章26節)。子供たちとはイスラエル人です。犬とはカナン人を含む異邦人です。現代で言えば明らかな人種差別発言です。しかし、それが当たり前の時代にあったことと、イエス様の使命が、まずユダヤ人に福音を伝えることにあったことを考えると仕方のないことだったのかもしれません。ところが、この女性の凄さは、厳しいイエス様の言葉に対して食い下がるところにあります。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(15章27節)。彼女は、自らを小犬のごとき存在と認めたのです。しかし、そこで卑屈になって終わるのではなく、その小犬でさえも恩恵を受けることはあると切り返しながら、神の憐みに期待するのです。あるがままの自分を認められなくてコンプレックスに陥ると、人間はすねたり、自己憐憫に陥ったり、あるいは人のせいにするものです。この場面でも、イエス様のせいにすることだってできたはずです。愛がない!だの、配慮に欠けている!だの、神に遣わされた人だとは思えない!だの、いろいろ文句を言って卑屈になることもできたはずです。ところが、この女性は自己憐憫に陥らず、また人のせいにすることもなかったのです。自分が小犬同然の、権利を主張することもできない異邦人の女であることを認めたのです。それは自暴自棄になったのではなく、現実の自分を引き受ける勇気でした。そして、神の憐みを信じたのです。ここに、神を愛し、娘を愛するという神の律法の完成がありました。あるがままの自分を受け止めつつ、神のあわれみにすがる。そんな潔さとたくましさを持つ者を、イエス様はりっぱな信仰!と称されました。私もそうでありたいです。



●マタイの福音書15章32節
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」

 今日の聖書箇所は、四千人の給食の話しです。14章15〜21節には五千人の給食の記事があります。この二つの記事には、様々な解釈があり、議論の絶えないところであります。特に、食物の増加という現代科学では解明できない奇跡に着目して、リベラルな陣営からは教会の信仰の視座から付加された神話と解釈され、原理主義からは「字義通り受け取らないのは罪と悪魔に惑わされている」と批判され、奇跡の有無で議論は平行線です。また、保守陣営でも、この奇跡が、弟子の信仰の訓練ととらえられ、信仰があれば同じ奇跡を行うことができるという話にまで膨らんでいきます。つまり、信仰的教訓の記事と解されるわけです。しかし、五千人の給食も、四千人の給食も、弟子の信仰がこの奇跡を左右したとは、福音書記者は記していません。あるいは、弟子のがんばりをイエス様がためしたわけでもないのです。16章で触れますが、イエス様のおっしゃる信仰と、私たちが理解するがんばりとしての信仰とには違いがあります。イエス様の語る信仰とは、神の一方的な愛と憐みに頼る信頼のことです。実際、この二つの奇跡は神の憐みによるものでした。五千人の給食の前の節では、こう記されています。「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」(14章14節)。イエス様の奇跡の動機はそのあわれみにあるのです。また、今日の四千人の給食においても、「かわいそうに」とあるとおり、神の憐みが原因であることを現わしています。神は私たちを憐れむお方です。「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ書30章18節)とあるとおりです。もし、信仰的教訓があるとすれば、それは、奇跡行為者になれるほどの信仰を持ちなさい!ということではなく、奇跡を行われる神の憐みにすがる信仰を持ちなさい!ということだと思います。私たちはあくまで人間です。神になることはできないし、なってはなりません。奇跡行為者になろうとする動機は、神になろうとすることと同じです。私たちはただ神のあわれみを乞うのです。すると、神がその主権により、ある場合は奇跡を行い、ある場合には奇跡を行わないで、別の方法であわれみを注いてくださいます。あわれみを乞う者に、神は「かわいそうに」と手を差し伸べて下さるお方です。信じて祈りましょう。キリエ・エレイソン



●マタイの福音書16章12節
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 イエス様は弟子たちに、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われました(6節)。すると弟子たちは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めます。そこで、イエス様はおっしゃいます。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか」。つまり、イエス様が指摘しているのは、「自分たちがパンを用意していないからだ。自分たちの努力が足らないからだ」と自分の行いに原因を求めた弟子たちの愚かさです。自分たちの行いの正しさや、信仰の熱心さが、神の祝福を引き出すという考え、裏返すと、できの悪い者には罰を与えて、失敗をいちいちつっつく神!そういう理解が、弟子たちの心には蔓延していたのです。それはパリサイ人サドカイ人に通じる行為義認の世界です。そのような憐れみの足らない神というイメージはタラントの譬え話にもあり(マタイ25章24〜25節)、律法主義が生み出す神のイメージです。そもそも、五千人の給食や四千人の給食は弟子の信心深さや、用意周到さによってもたらされたのではなく、ただただ神の憐みによったはずです。イエス様はそのことを思い出せと、弟子たちに訴えています。「神の憐みを思い出せ。自分の信心深さや、行いの正しさが神を動かしたなどと思うな。それは傲慢だ。もし、できの悪い人間には祝福を出し惜しみする神などと考えるなら、お前たちの神はパリサイ人やサドカイ人の神と何ら変わりがない。そして、その神はわたしの父とは無関係だ!」こういう思いが、イエス様の言葉には込められているのです。パリサイ人と言えば復活を信じ、霊的な世界を信じていましたが、サドカイ人は復活を信じない現実主義者でした。ある意味、正反対の思想の持主です。しかし、共通点があったのです。それは、行為義認の神を生み出し、自分たちの行いの正しさを主張し、傲慢になり、できが悪いと見放されるかもしれないと怖れに満たされる。こういった人間の傲慢と、狭量な神という考え方は一致していたのです。この教えに気をつけろ!とイエス様はおっしゃるのです。神は憐みのお方です。十字架がその証拠です。キリエ・エレイソン



●マタイの福音書16章16〜17節
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。


 私は、19歳の時にイエス・キリストを信じ、20歳で洗礼を受けました。1989年の出来事です。日本同盟基督教団・世田谷中央教会において、安藤能成先生から洗礼を授けていただきました。まだまだ、キリスト教信仰とは何たるかということを理解できていない時ではありましたが、伝道師の先生に入門の学びをしていただいて、クリスマスの礼拝の時に、高校生の女の子と一緒に洗礼を受けました。当時、大学生だった私にしてみれば、教会という新しい世界に入り、その一員となることが嬉しいことでしたし、何よりも自分の努力と意思決定によって、この信仰をつかみ取った!と思っていました。ところが、ある伝道集会で、講師の先生がこんなことをおっしゃったのです。「信仰とは、私たちが神様にしがみつくのではなく、神様が私たちをつかんでいて下さるのだ!ということを信じることです」。その言葉に、私は反発しました。「私が信仰を捨てたら、救いから落ちてしまうじゃないか」と。どこまでも、私の信念とがんばりが大事だと思っていたのです。今から思うと、その先生がおっしゃっていたことは、神の恩寵のことだったのです。それから7年後に、信仰者として、献身者としての挫折を経験して、私は初めてその先生がおっしゃったことの意味を理解しました。神の恵みが私を支えていたのであって、私が自負していた自分の努力や意思決定なんて、ちょっとした試練で吹き飛んでしまうものだったのです。しかし、イエス・キリストを救い主と信じる信仰は消えませんでした。何故なら、その信仰は、神が与えてくださったものだったからです。自分で獲得したという考えは間違っていたのです。ペテロも同じ過ちに陥り、結果として、イエス様のことなど知らないと3度も言うはめになります。「あなたのためなら命も捨てます」という彼の意思決定は、簡単に吹き飛んでしまいました。でも、彼の信仰は失われることなく、彼はもう一度立ちあがり、教会の指導者となります。挫折を経験した指導者です。そして、その挫折は約2000年間、聖書を通して語り継がれています。その証しは神の恵みの大きさを現わします。ペテロが、イエス様を「生ける神の御子キリスト」と信じたのは、人間ではなく、天におられる父なる神が示して下さったからです。今日も、神が私たちを支えておられるのです。あなたの心にあるその信仰、あなたにとってはちっぽけに思える時があるかもしれません。何の役に立つのかと感じる時もあるかもしれない。でも、その信仰は消えませんよ。だって、天の父が示してくださった心の刻印だからです。その幸いにもう一度気付いて下さい。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」とある通り、これを読んで下さったあなたにも同じ幸いがあるのです。



●マタイの福音書16章23節
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 イエス様はキリストと呼ばれました。それは一つの称号であり、油注がれた者、転じて一人の救い主という意味を持つようになりました。キリストはユダヤ人の王として預言され、祭司と預言者の両方の権能を持つ、まるでモーセの再来のような人物を指します。イスラエルをエジプトでの苦役から救い出したモーセのように、ローマ帝国の支配と腐敗したユダヤ当局の圧制から救い出してくれる救い主です。そのような救い主を人々は待望し、弟子たちもイエス様をそのようなお方だと信じていました。ところが、今日の箇所の少し前の節で、イエス様はご自分の死と復活を予告されます(16章21節)。それに対して、弟子の代表とも言うべきペテロが、イエス様をいさめながらこう言います。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(16章22節)。この時のペテロの気持ちはよくわかります。「私が見込んだイエス様が負けるはずがない」「神に選ばれたこのお方が捕えられるはずがない」「救い主が、あの腐敗したローマとユダヤ当局に殺されるはずがない」こんな思いだったのではないでしょうか。皮肉にも、イエス様が十字架にかけられたとき、祭司長たちはこう言いました。「彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」(マタイ27章42〜43節参照)。そう、ペテロにとってイエス様は「神のお気に入り」だったのです。いや、ペテロは弟子の代表であり、弟子たちのほとんどがそう思っていたはずです。それゆえ、この祭司長の言葉は、弟子たちにとって胸をえぐられるような悲しみとなったでしょう。「神のお気に入りが、無残な死に方をするはずがない。神に愛され、神に祝福された者は、悪に打ち勝ち、称賛の的となるはずだ」というのが弟子たちの思いであり、そういう期待を持ってしまう彼らの気持ちがよくわかります。しかし、イエス様は、このようなペテロを代表する私たち信仰者の期待を退けられます。「下がれ。サタン」と言いながら。このような期待を持つ我々を悪魔扱いされるのです。ショックです(涙)。その理由は、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」からだそうです。人とはだれでしょう。弟子たちのことであり、私たちのことです。つまり、自分たちの幸せが主眼となっているからです。そのための神様になっていて、神の御心のために、自分が犠牲を払い、苦しむことを想定していないのです。神は所詮、私たちの幸せの道具なのでしょうか。それとも、私たちが従うべき主なのでしょうか。私たちの思い通りに事が運ばない時、予定通り行かない時、理想が成らない時、その信仰の真価が問われるのです。



●マタイの福音書16章24〜25節
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

 イエス様の逆説的なメッセージです。そして、非常に厳しい内容です。この箇所について、スコットランドの新約聖書学者であったウィリアム・バークレーが次のように解説しています。「もし人が絶えず、安全、保証、安楽、慰安だけを追い求め、また、世間的に賢く、利巧であろうとしてすべての決断をするならば、人生で価値あるものをすべて失ってしまう、という事実は、今も昔も変わりない」。つまり、自分が幸福になることに必死で、多くを獲得することに躍起になっている間に、気付いたら執着の鬼と化し、却って幸福を遠ざけてしまうことを指しているのでしょう。「幸福とは蝶のようなものだ。追い求めている時には、掴もうとしても逃してしまう。しかし静かに座っている時には、自ずから近寄ってくる。」というう、ナサニエル・ホーソーン(アメリカの小説家)の言葉にも通づるところがあります。つまり、幸福には、それに相応しい心の状態があるということかもしれません。同様に、「まことのいのち」にも、それに相応しい心の状態とライフスタイルがあるのです。自分に向かうのではなく、神に向かう。安楽に向かうのではなく、使命に向かう。保身に向かうのではなく、十字架と勇気ある決断に向かう。そのような人に、「まことのいのち」は宿るのです。手放すことのできる人ほど、結果として多くのものを得るのです。自分のことは神に委ねながら、手放しながら、信仰の従順に生きることこそ、結果として、幸福と「まことのいのち」を得る道なのです。それゆえ、まずは、自分の心の中に、イエス様に従いたいという思いがあるかどうかを点検する必要があります。その上で、自分に与えられた使命は何か、自分にとって神に従うとは具体的に何を指すのか、確認する必要があります。単なる理念で終わらず、具体的に自分は何をするべきなのかを検討する必要があります。現に、16章のピリポ・カイザリアにおけるイエス様とペテロのやり取りは、イエス様の公生涯におけるターニングポイントだと言われています。それゆえ、このやり取りは、エルサレムでの死に向かうための点検の時でもあったのです。内容が厳し目になっているのもそのためです。さあ、自らに与えられている使命を果たすために、厳し目の点検を受けて、再スタートしましょう。



●マタイの福音書17章4〜5節
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

 ユダヤ人にとって、モーセと言えば律法であり、エジプトから民を導きだした救世主的な存在です。民を救ってくれた救い主であり、神の言葉を語った預言者です。また、エリヤと言えば、北イスラエル王国において、国の腐敗と偶像礼拝に立ち向かい、勇敢に神の言葉を宣言した預言者です。また、将来、救世主到来の際には、エリヤが現れると預言されていましたので(マラキ4章5節)、1世紀のユダヤ人にとってエリヤは終末論的な象徴です。それゆえエリヤは、記述預言者を含めた預言者の代表と言ってもいいでしょう。今日の聖書個所は変貌山と言われる記事で、山でモーセとエリヤが現れ、イエス様の御姿が太陽のように輝き、御衣が光のように白くなったという話です。それを見たペテロが動揺して、「三つの幕屋を造ります」と言ったのですが、ペテロは普段と違う反応を見せました。それは、モーセとエリヤの出現のせいです。ユダヤ人ペテロとしては当然の反応です。嫌な言い方をすれば、イエス様がこれほどの存在だとは思っていなかったか、イエス様を見くびっていたかです。ここに来て、過度の尊敬を現わすペテロに対し、天からの声が聞こえます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」すなわち、イエス様は、モーセやエリヤにまさる存在であり、これまでの神の啓示を超えた存在だということです。その最大の理由は「愛する子」であり、父が「喜ぶ」存在だからです。そういう意味でイエス様は神の啓示の歴史の中で比類なきお方であり、全ての啓示の完成形であると言えるでしょう。そのお方が十字架と復活を予告なさったのです。この世の中では敗北と見做される死、それも冤罪による死を、勝利とおっしゃるのです。そして、その死が人類の贖いの死であり、無駄死にではなく神の計画であったと福音書記者は語るのです。「彼の言うことを聞きなさい」とは、そういった視点や考えを受け入れ、神の啓示と信じることです。一つのパラダイムシフトです。ペテロは、何度もパラダイムの変更を余儀なくされました。私たちもそうです。あなたが見くびっているところに、主イエスが働いておられるかもしれません。自らが偏り見る存在であることを謙虚に受け止め、神の見せて下さる景色に生かされていきましょう。



●マタイの福音書17章19〜21節
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」

 今日は悪霊追い出しの記事です。弟子たちがどんなにがんばっても悪霊を追い出せなかったのが、イエス様にはそれがお出来になりました。どうして弟子たちには追い出せなかったのか?その問いに、イエス様は、信仰の薄さを指摘されます。また、祈りと断食の必要性を語られます。さて、この記事を、現代に生きる我々が読むとき、どのように受け止めるべきなのでしょうか。周りに悪霊につかれた人がいたとします。というか、そもそも悪霊につかれた状態ってどんなものなのか判別がむずかしいですね。精神的な病の人に向かって、必死で悪霊追い出しをし、その人の人格を傷つけてしまったという、ありがちな失敗をたくさん聞いたことがあります。幻聴が聞こえたりする人や奇行に走る人を見ると、すぐに悪霊呼ばわりする、実に差別的で迷信に囚われた牧師やクリスチャンがおいでになる。特に原理主義的な人たちに多いようです。そして、散々相手を傷つけて、治らなかったら放置!実に無責任なトンデモ系キリスト教徒です。そういう人に今日の御言葉を宣言してあげるべきです。「あんたの信仰が薄いからだよ」「祈りと断食をしなさい」って。そういう観点からすると、イエス様は病者に信仰や祈りを要求せず、その周りの社会や共同体に要求されています。悪霊につかれた人や病める人に対して憐み深く、その周りに対して厳しいといったところでしょうか。あるいは、その共同体に使命を与えてくださっているとも言えます。部下の癒しを求める百人隊長や、娘の癒しを求めるスロ・フェニキアの女など、病める者に寄り添う人の信仰と使命感を、イエス様は高く評価しています。屋根からつり下ろされた中風の男も、その周りの人たちの信仰が評価されました。私たちには悪霊につかれた状態がどのようなものか、2000年前の現象を検証することができないために、厳密には判別できません。しかし、悪魔や悪霊が、聖徒を告発する者、責め立てる者であることは明らかです。そのような責め立てと呪縛のなかで苦しむ兄弟姉妹がいるならば、私たちはその人への愛を確認するとともに、神が必ずその人を解放してくださると信じて祈るものでありたいと思います。私たちクリスチャンは、自らの信仰が薄いという自覚と、祈りの使命を確信し、謙虚に仕える姿勢を持ち続けたいものです。結果は神にお任せして、そのプロセスを大切にしていきましょう。



●マタイの福音書18章10〜11節
あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕


 「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」(18章4節)。この言葉のとおり、子供を受け入れられたイエス様が、「この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」と今日のところで警告しています。その理由は、この子供たちを守る天使たちが、天の父の御顔を仰いでいるからだそうです。すなわち、子供たちは父なる神とつながっているということです。その後に、意味深な言葉が付加されています。〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです〕。滅んだ者は救えないはずです。何故なら、死んでいるのですから。しかし、ここでは肉体の死について語っているのではないのです。生きながらにして、滅んでいる状態があるということです。それが、当時の子供たちの状態を現わしています。生きているのだけれど、人間として認められていない。所有物としか見做されない。一人の人間としての価値を認めてもらえない。そういった子供たちの状況を踏まえて、福音書記者は「滅んでいる者」と記したのです。しかし、イエス様が彼らを受け入れられたことにより、彼らはよみがえりました。父なる神が彼らを受け入れられたからです。同様に、罪人のレッテルを貼られた多くの人たちが、イエス・キリストと出会って、神に愛され受け入れられるという体験をしました。マグダラのマリヤも、サマリヤの女も、ザアカイも、皆、キリストと出会って、神の愛に触れられ、自分の価値を発見した人たちです。そして、その価値判断は世の中のものさしではなく、神の愛のものさしで量るようになりました。まさに、人間としての尊厳を回復した時です。まだ、織田信長が天下を取ろうと京都に来る前、三好長慶が関西を支配していたころ、その家臣である松永久秀に仕えていた結城忠正が、キリシタンの町人ディエゴに向かって、キリシタンが追放される旨を伝えたのに対し、ディエゴは「デウスの許しなくして、いかなることも起こることはない」と抗弁し、滔々と唯一まことの神を説き、結城忠正の難問に答えたそうです。武士や公家の出の者たちにたいして、礼節を保ちつつも、大胆に弁明をしたこの町人の振る舞いは、神の民に加えられた者独特の価値観を証しするものです。さあ、今日も、私たちは、価値ある存在であり、神の計画の中で意義深い人生を生かされています。それは、キリストの十字架の贖いのゆえに、信じる私たちが神の民として受け入れられたからです。胸を張って、勇気を持って、神の子としての歩みを前進させていきましょう。



●マタイの福音書18章20節
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 「教会は所詮、罪ある人間の集まりです。だから人を見てはいけません。神様を見上げて信仰生活を送りなさい。そうでないとつまづきますよ」こんなアドバイスを耳にすることがあります。なるほど、その通りだなと思います。しかし、このアドバイスは、一つの側面を言い当ててはいるものの、不十分なアドバイスだと言わざるを得ません。「所詮〜」と言い捨ててしまいますと、まるで教会が無益な存在のように聞こえてきますし、そのように受け止めて様々な教会を徘徊し、牧師や教会の批判ばかりをして、実に無責任な信仰生活を送っている人もいるのです。これは、罪と弱さだけに目を向け、教会に注がれる神の憐みと恵みが見えなくなっている人の生き方です。教会のもう一つの側面とは、その集まりの中心にイエス・キリストがおられるということです。そして、イエス・キリストの名において集まる人々が、どのように諸問題を解決していったらいいのかが19節までのところに記されているのです。ですから、教会は罪と弱さを持つ人間の集まりですが、だからといってそれと距離を置くのは正しくありません。むしろ、その諸問題と向き合いながら、自分も赦された罪人であることを自覚して、心を砕いていく。ここに愛の実践と成長があるのだと思います。わずらわしさもあるでしょう。嫌いな人もいるかもしれません。あるいは、傷つけられた経験をお持ちかもしれない。それゆえ、教会から遠ざかるという人も大勢います。でも、それであきらめてしまったら、信仰生活は片手落ちになってしまいます。教会には復活の主がおられる。その集まりはキリストの体であり神の宮である。そして、その構成員である自分たちは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」なのだ。そのように信じて、教会に仕えて行く時、私たちはキリストに仕え、神に仕えて行くことになるのです。ルターはクリスチャンのことを「義人にして同時に罪人」と言いました。信仰のゆえに義とされており、神の御心にかなう生き方をしたいと願いながら、同時にそれを行えない罪深さを内にやどしている。正しいことを行いたいのに、そうできない自分がいる。それは罪がそうさせているんだ!そう言ったパウロの言葉をルターは受け取って、信徒の現実を言い現わしたのです。その信徒が集まる共同体ですから、当然、欠けや弱さがあるのです。しかし、同時に、神の憐みによってキリストを宿す神の宮ともなっているのです。そこに注がれる神の恵みと憐みを信じなければ、教会生活なんてやってられません。信じましょう。そこに集うことの祝福と、そこに仕えることの恵みを。



●マタイの福音書18章21〜22、35節
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。〜あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。

 赦しは新約聖書に貫かれている教えです。人を赦さないなら、自分自身も神に赦されることはないというものです。ただし、この教えは罪を助長するものではありません。何度でも赦されるなら、やりまくれ!と罪を犯す者を容認しているわけではありません。そのような反社会的かつ冒涜的な人間は、必ず神の裁きに遭います。つまり、罪に対する神の裁きが大前提で、この赦しの教えが語られているということなのです。「〜人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている〜」(ヘブル人への手紙9章27節)。この原則は変わりません。ユダヤ人はみな、神の裁きを恐れていましたし、バビロン捕囚という手痛い経験からも、律法を破る者は神の罰を受けるという理解が広まっていました。ですから、罪を助長したり容認したりするという考えはユダヤ・キリスト教にはあり得ません。罪を犯す者は、必ず神の裁きを受けるのです。とはいえ、罪を犯さない人間などいません。神の憐みと赦しがないと、みな滅ぼされてしまいます。それゆえ、旧約聖書にもある程度、神の憐みと赦しが記されていて、動物犠牲による贖罪などは、まさにそのためでした。また、今日の聖書の言葉の背景に、ラビたちの教えがありました。ラビのヨセ・ベン・イェフダはこう言っています。「もし人が一度罪を犯した場合にはゆるされる。二度罪を犯した場合はゆるされる。三度罪を犯した場合もゆるされる。しかし、四度目に罪を犯した場合には赦されない」。つまり、限度があるということです。ところが、イエス様は「七度を七十倍するまで」赦すように言うのです。これは当時の教師たちの教えを超越するものでした。では、その赦しの根拠は何でしょうか。それは、神が私たちを赦してくださっているからです。それも、返済不可能な負債を免除してもらった者のように、無限大の赦しをいただいているのです。そのような者が、どうして、数回の失敗を繰り返した人を断罪し、排斥することができようか、とイエス様はおっしゃるのです。この赦しと憐みは、キリストの十字架の贖いを通して現わされました。身代わりの死を通して無限大の赦しが宣言されたのです。それゆえ、教会は赦しの共同体でなければなりません。ただし、赦しは見過ごしたり見逃したりすることではありません。罪の指摘があって、謝罪があって、初めて赦しが成立するのです。問題を直視しながらも、愛と赦しによって乗り越えて行く、そんな教会形成を目指したいと思います。


●マタイの福音書19章13〜14節
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」


 子どもたちを受け入れられたイエス様の姿がここに描かれています。ここでは、「子どもたちが連れて来られた」とあるので、親や近所の人が祝福を祈ってもらうために連れて来たのでしょう。子どもたちがイエス様のことをどれだけ理解しリスペクトしていたかはわかりませんが、少なくとも、周りの大人たちはイエス様のことを認めていて、子どもたちにイエス様のことを説明していたに違いありません。そこに尊敬の心と期待があって、素直に祝福を求めることは良いことです。ところが、弟子たちがそれを阻みました。当時の社会においては、弟子たちの行動は一般的です。ラビの教えを請い、祝福を受けられるのは、ある程度の律法の教育を受け、それを実践し、ラビの言うことを理解できる大人に限られていました。律法の教育が不十分な子どもや、律法を理解できないだろうと見做された女性は論外だったからです。それゆえ、ラビ(律法の教師)とも呼ばれたイエス様の周りの弟子たちは、常識として、子どもたちが近づくのを阻んだのです。しかし、ここでイエス様は驚くべきことをおっしゃいます。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。」。イエス様は、子どもたちを通すようにおっしゃいます。それは普通ではないことです。普通ではないことを許可する理由をイエス様は次のようにおっしゃるのです。「天の御国はこのような者たちの国なのです」。子どもは律法の教育において不十分でした。律法の理解が不十分な者は、罪と弱さの中にあり、神の教えと祝福にあずかるにはまだ早いと考えられました。ところが、イエス様はその逆だとおっしゃったのです。理解不十分で、罪と弱さの中にある、それこそ律法を教育された大人として立派に自律して生きていけない子ども、そんな者たちを神が受け入れるとおっしゃったのです。子どもたちには、何の行いも実績も、功績もありませんでした。あったのは、イエスに対する信頼だけです。実際、ペテロをはじめとする弟子の集団もそうでした。あったのは、イエスに対する信頼だけです。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ人への手紙4章5節)。信じるだけで救われるのです。神の恵みのゆえに。それゆえ、人間の側の誇りは何もありませんし、何も通用しません。



●マタイの福音書19章25〜26節
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」・・・イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」


 富める青年とイエス様のやり取りが今日の記事です。並行記事のルカの福音書を見ると、「ある役人」(ルカ18章18節)と書かれています。新共同訳では「ある議員」と訳されていて、71人の長老たちから構成されるユダヤ最高法院サンヘドリンの一人であったのではないかという説もあります。つまり、エリート中のエリートです。律法を行う者が、神の祝福にあずかると考えられていた当時の社会では、祝福の権化とも言うべき青年です。若くして神にも人にも認められて議員となった憧れの存在でもあったでしょう。ところが、イエス様はこの青年に対して、けんもほろろな答えをなさいました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」(マタイ19章21節)。そんなこと、できるわけがありません。お金があったから、若くして議員まで上り詰めることができたのです。お金があったから、律法の規定を守り行うことができたのです。もし、お金がなかったら、ローマの犬として、異邦人文化にまみれ、汚れ仕事もしなければならなかったのが当時の御時世です。それゆえ、「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」とマタイは記しています(22節)。この後イエス様は、金持ちが神の国に入るよりはらくだが針の穴を入るほうが容易だとおっしゃって、金持ちが自分の行いのゆえに神の国に入る可能性をシャットアウトされました。これを聞いていた弟子たちは驚いてこう言います。「それでは、だれが救われることができるのでしょう」(25節)。あの有望な若手議員でさえ無理なら、ガリラヤ出身で律法の規定を守り切れない自分たちには望みがないと思ったのでしょう。そこで間髪いれずにイエス様がおっしゃったのが今日の御言葉です。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」。そもそも、青年が「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」という問いで始めたことが間違いだったのです。律法の行いによっては誰も救われないのです。もし、自分の行いによって救われようというギアを入れたならば、その人は最後まで完璧にやらなければなりません。そうでないと呪われます(ガラテヤ3章10節)。祝福は獲得するものではなく、神から与えられるギフトです。それを得る術は、信仰のみです。それ以外にありません。



●マタイの福音書20章15〜16節
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 今日の御言葉は天の御国のたとえ話の一節です。イエス様はこのたとえ話を次のように紹介されました。「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです」と。天の御国、すなわち天の支配はこの話の中の主人にたとえることができるということです。そして、その主人はどのような振る舞いをするのかというと、今日の御言葉の中で本人が言うように「気前がいい」振る舞いでした。朝の九時、正午、午後三時、午後五時とそれぞれ違った時間から働き始めた全ての労働者たちに、この主人は同じ賃金を支払うのです。実に不公平な給料計算でして、朝から働いた者たちが苦情を申し立てるのも当然です。彼らはこう言いました。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」。それに対する主人の答えはこうです。「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」。確かに、主人は約束通りのことをしたのです。当時、一デナリは十分な賃金です。朝から働いたものが不平を申し立てるような金額ではありません。しかし、それを、ろくに働いてもいない労働者たちにも与えているというのが許せなかったのです。私も許せません!(笑)。神の国がそんな不公平なものなら、私も午後五時から働きます!と言いたくなります。神様、あなたは間違っている!と言いたい!・・・。しかし、ここに神の世界の真理が隠されているのです。そもそも、神の祝福というものは、父なる神の気前の良さからはじまっているのであって、神の御意向によるものです。神が私たちに報いる義務など元からないのです。そもそも、神が報いなければならないほどの正しさが私たち人間にあるでしょうか。そんなものはない!あるのは罪だけだ!と聖書は教えるのですから、やはり、神の祝福は神の御意向によるもの、すなわち神からの賜物なのです。だから、今日のたとえ話を通してイエス様は、「勘違いしてもらっちゃ困る!」と言っているのです。労働時間の長さや働きの成果が計算されて、祝福が与えられるのではないのです。神様は信じる全ての人に祝福を与えたいのです。そうすると、先も後もなくなるわけです。「これだけ年数が経ったのだからものが言える!」とか、「これだけの実績があるから認められる」なんてのは、神の国にはありませんので、あしからず。むしろ、信じるだけで天にある全ての霊的祝福にあずかれるのですから、古参も新参者も勇気をもって神様にお仕えしていきましょう。



●マタイの福音書21章43節
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。


 これは、エルサレム入場後に祭司長や律法学者パリサイ人に向けて語られたイエス様のお言葉です。この21章において、エルサレムとその指導者たちは、救いの時が来たにもかかわらず機を逸した実りのないイチジクの木として描かれています。イエス様は気まぐれにイチジクの木を枯らしたのではなく、実を結ばないイチジクの木にエルサレムをたとえて奇跡を行われたのです。しかし、機が熟していた人たちがいました。それは、幼子を代表とする見放された人たちです。幼子は「ダビデの子にホサナ」と叫んで、イエス様を救い主として迎え入れました。そのような信じた人たちとして、取税人や売春婦、罪人もその中に入り、弟子たちもそのうちに入れられています。そのことを指してイエス様はこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです」(マタイの福音書21章31〜31節)。この言葉によって明暗がはっきりしました。本来、神の恵みを受け入れ、それを民に分け与えるべき祭司長と律法学者たちが、神の恵みである救い主イエス・キリストを拒絶したのです。その理由はシンプルです。彼らにとって救い主などいらなかったからです。できあがった宗教システムを継続することに満足していた彼らにとって、メシアを自称し民衆の支持を得る指導者などいらなかったし、抹殺したかったのです。しかし、幼子を代表とする小さな者たち、取税人や遊女たち、宗教儀礼を行う余裕のなかった人たち、すなわち罪人のレッテルを貼られた人たちは、救い主が必要だったのです。そして、彼らこそ「神の国の実を結ぶ国民」であり、神の国を継承する人たちとなったのです。双方をグループ化して、祭司組と罪人組に分けるとするなら、その違いは神への渇きにあり、求めにあります。天地万物を創造し、私たちを造られた神は、善人にも悪人にも雨を降らす神であり、へりくだって求める者に恵みを注ぐ憐みの神なのです。朝から働いた者にも、昼から働いた者にも、夕方から働いた者にも、等しく1デナリの給料を与えたいと考えたぶどう園の主人のような、実に気前のよい神様なのです。ただし、私たちに必要なのは応答です。求めです。渇きです。イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイの福音書7章7〜8節)。求めや渇きのないところに本当の信仰は育ちません。真剣に神に祈って求めたことのない人には信じるということの意味がわからないのです。あきらめたり、自暴自棄になったり、不安に駆られて思い煩ったりしている人には何もはじまりません。何も生まれません。さあ、神に求めて行きましょう。神の国はあなたのものです。



●マタイの福音書22章14節
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。

 これは、イエス様が語られたたとえ話の結論です。そのたとえを要約するとこうです。王様が王子のために披露宴を設けたが、客人は忙しいと言って招きに応じませんでした。更には王が遣いに送ったしもべたちをはずかしめ殺してしまいます。そこで、王は彼らを滅ぼし(AD70のエルサレム陥落を暗示)、通りにいる善人も悪人も関係なく、手当たり次第に招待するのです。しかし、その招待した人たちの中に礼服を着ていない失礼な人がいて、王はその男を暗闇にほうり出します。以上がたとえ話の要約ですが、その後に言われたのが今日のみ言葉なのです。実際、イエス様の伝道活動において、多くの人々が神の国に招かれました。イエス様は数々の癒しと悪霊追い出しなどの奇跡を行い、神の国の到来を告げられたのです。癒された者、奇跡を見た者、更には良き知らせを聞いた者たちの中には様々な反応が生まれました。7つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリヤやサマリヤの女、癒された生まれつきの盲人や取税人のザアカイなど、たくさんの人たちがその応答をしたのです。彼らはイエス様を救い主として信じ、ある者は礼拝し、そして従いました。ザアカイなどはそれまでの悪行を改め、償いをしています。彼らの間で、イエス様を信じるとともに何らかの生活の変化が起きたのです。何よりも、イエス様について行くようになりました。このような信仰の従順こそが、このたとえ話の礼服にあたるのだと思います。パウロもこの信仰の従順をもたらすために、ローマの信者に向けて手紙を送っています。手紙といっても、神学的に整理された書物であって、優れた論理展開のもとで福音の何たるかが語られているのですが、その手紙の最初と最後にこの信仰の従順が強調されているのです。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです」(ローマ人への手紙1章5節)。「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方」(ローマ人への手紙16章25節)。聖書は全ての人を招く書物であり、キリスト教はあらゆる種類の人々に手を差し伸べます。それこそ、善人にも悪人にもです。しかし、招かれた全ての人が救われるのではありません。応答が必要なのです。信じるという応答が。そして、信仰は必ず従順という実を結ばせます。それゆえ、パウロは信仰の従順と言ったのです。この信仰の従順に至る者こそが「選ばれる者」なのです。それゆえ、応答すること、信じること、従うことを大切にしていきましょう。手をこまねいていてはいけません。神の招きと促しに対して応答するお互いでありたいと思います。
 


●マタイの福音書22章20〜21節
そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」


 パリサイ人たちはイエス様を陥れようとして、ローマ帝国に納める税金の話をもちかけます。パリサイ人は「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」とイエス様に問うのですが、その返事が今日の聖書の箇所です。カイザルとは英語でCeasarといいます。ジュリアス・シーザーと言えばわかるでしょう。でも、これは名前や名字ではなく、ローマ皇帝を指す称号です。エジプトのファラオ(パロ:意味は王)と同じです。ですから、数々のカイザルがいたことになります。イエス様がお生れになられた頃のローマ皇帝はアウグストゥス(アウグスト)でした。そして、この聖書箇所の時代の皇帝はティベリウスでした。イエス様はパリサイ人たちに納め金の硬貨を持って来させます。そこで差し出されたのがローマ帝国が発行するデナリ銀貨1枚でした。そこには皇帝ティベリウスの顔が描かれており、銘はティベリウス・カイザル(カエサル)でした。考古学資料によると「神にして高貴なる者の子ティベリウス・カエサル」あるいは「高貴なる神の子、ティベリウス・カエサル」という銘が刻まれていたものがあるそうです。これは唯一まことの神のみを礼拝するユダヤ人を憤慨させる内容でした。だからこそ、ローマへの納税は律法にかなっているのか?という問いが生まれたのです。そのような問いに対して武装蜂起で応えたユダヤ人がいました。ちょうど、イエス様がお生れになられる頃、シリアの総督クレニオがユダヤの住民登録を実行するために民衆から税金をまきあげました。これに対し武力による独立運動を展開したのがガリラヤのユダという人です。しかし、彼の運動はローマ軍によって鎮圧され、無残な殺され方をしています。ですから、この出来事を踏まえて、パリサイ人は質問したのです。一つ間違えるとローマに抵抗する危険分子と見なされますし、納税を積極的に肯定すれば偶像礼拝者のレッテルを貼られたに違いありません。この質問はまさに罠です。イエス様の返答は予想に反するものでしたが、字面だけを読むと意味がわかりません。しかし、上記のような背景を加味するとわかってくることがあります。イエス様は決して、皇帝崇拝に妥協したのではありません。「神のものは神に返しなさい」と言っているのですから、皇帝にまさるお方として神を礼拝し、神にささげることをすすめています。ですから、基本的に皇帝崇拝を拒絶しているのです。しかし、ガリラヤのユダのように武力で拒絶するのではなく、納税に服して善をもって悪に立ち向かう道を勧められたのです。これはユダヤ人にとってとても苦しいことでした。納税と宮への献金。家計を圧迫したことでしょう。しかし、その不条理に対する解決は武装蜂起にあるのではなく、神礼拝にあるというのがイエス様の言おうとしたことです。実に本筋をとらえた応答です。「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」(ヨハネの福音書4章23節)。真の礼拝者となる!これこそ私たちに求められていることです。



●マタイの福音書22章43〜45節
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」

 救い主(キリスト)がダビデの末裔として、ダビデの町ベツレヘムで生まれるということは旧約聖書において預言されていました(イザヤ書9章6〜7節、ミカ書5章2節など)。ですから、キリストが「ダビデの子」であるというのは1世紀のユダヤ人の間では常識だったのです。そして、それは間違っていませんでした。現に、このマタイの福音書の巻頭ではキリストの系図が出てきて、イエス様がダビデの家系の出であり、それゆえに預言されていた救い主であるということが主張されています。つまり、キリストであることの証明に、ダビデの子孫であるという事柄が使われていると言ってもいいでしょう。ところが、今日の箇所での議論は、イエス様が期待通りの救い主なのか!という問いから発したものです。すなわち、ダビデのように力の支配でイスラエルをローマから独立させてくれる救い主なのかという問いであり、そういうメシア待望の機運が高まっていたのです。その機運をひしひしと感じながら、イエス様は「救い主がどうしてダビデの子なのか?」と問われたのです。「子」の意味は、子孫という血筋の意味もあれば、「その権化」という意味もあります。つまり、「ダビデの権化、ダビデのような支配者、ダビデの再来」です。この期待はどこまで行っても、軍事的リーダーとしてのメシア像であり、紀元前2世紀のユダ・マカバイ(マカベヤ)による力による独立をも念頭に置いた期待でした。「ダビデの子」という言葉は、救い主ならこの期待に応えなければならないというプレッシャーを生み出したのです。つまり、自分たちユダヤ人をローマ帝国の圧政から解放し、神聖イスラエル王国を復興させてくれる、そういうリーダーを期待したのです。その期待は間違っている!というのが今日のみ言葉です。「ダビデがキリストのことを主と呼んでいるのであれば、キリストがダビデのような軍事的支配者にならなければならないという理解は間違っている。むしろ、ダビデのほうがキリストを崇め、キリストの性質にあずかったのである」とイエス様は言いたかったのです。すなわち、キリストの支配こそが完成であり本物であって、ダビデの支配は模型にすぎなかったということです。これはヘブル人への手紙の予型論に通じるものです。神の支配は、人を力でねじ伏せて従わせる支配ではなく、み言葉の真理と愛によって魂の救いをもたらす支配です。そういう意味でイエス・キリストは旧約の偉人を超えており、新契約は旧契約を超越しているのです。そして、私たちキリストの教会も、魂の救いによってもたらす支配を求めていくべきなのです。



●マタイの福音書23章10〜11節
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。

 23章は、イエス様が弟子たちに与えられた教訓です。特に律法学者、パリサイ人の偽善を批判しながら、キリストの弟子がどうあるべきかを語られた内容です。教会のリーダーはもちろんのこと、キリストを信じる者たちがどのようにふるまうべきかを教えています。それを一言で言うなら「仕える」ということです。人を「使う」ではありません。富や権力を持つ者は、人を「使う」ことには慣れていても、「仕える」ことにはなれていません。人より成功すると、人間は横柄になってしまうという実験結果もあり、富と力は霊の目をくらませます。律法学者、パリサイ人が人々に褒められるために行った数々の宗教自慢も、富や権力と直結していたのです。そして、彼らが追い求めたことは、どれだけ人を使うことができるかです。それをまねてはならないとイエス様はおっしゃいます。また、「仕える人でなければなりません」という言葉の意味は、「人に使われる人になりなさい」と言っているのでもありません。いやいや人に使われて、卑屈になりながら、屈辱に甘んじなさいと言っているのでも、泣き寝入りしなさいと言っているのでもないのです。間違ったことがらに対してははっきりとNOを突き付け、善をもって悪に立ち向かえというのが聖書の教えです。ですから、イエス様が泣き寝入りを推奨するはずががありません。「仕える」とは自発的な愛と犠牲の心から生まれるものであって、強要されることに屈服することではないのです。相手の要求に応えるという受け身なものではなく、相手の必要を見つけてそれに応える選択をすることが「仕える」ということなのです。それが結果的に人に使われることになったとしても、自ら選んでしたことであるならば、多少の不満は出ても、恨み節にはならないでしょう。なぜなら、そこに自らの選択があり、神への応答をしたという体験があるからです。こういう自発的な愛によって仕える人は、相手のことを下には見ません。というか、上も下もない価値観に生きることができ、その人の心は本当に自由なのです。そういう人は、「あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです」(8節)というイエス様の言葉がぴったりです。この平等感を、パウロは次のように表現しています。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ人への手紙3章28節)。マルティン・ルターの全信徒祭司(万人祭司)の思想もここから来ています。教会では、誰が上、誰が下はありません。「自分は上」と思ったらアウト、逆に「自分は下」と思ってもアウトです。みな対等な神の家族です。そして、その集団における模範は権威を振りかざさずに仕えることなのです。ああ耳が痛い(^_^;)。



●マタイの福音書24章12〜13節
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 24章は、世の終わりについて、イエス様が預言された箇所です。旧約聖書において用いられている黙示表現が多く使われているので、全体を理解するためには緻密な作業が必要です。ただし、語られている内容は、エルサレムが異邦人によって踏みにじられ、神殿が崩壊するというものです。これを大患難(great tribulation)と言い、世の終わりに起こるとイエス様が預言された内容です。これは、紀元70年のエルサレム陥落を指し、クリスチャンの歴史家であるエウセビオス(3〜4世紀)が「教会史」という本の中で触れています。エウセビオスは、1世紀の歴史家であるヨセフスの記録を参考にしながら、イエス様の預言がどのように実現したかを解説しています。同時に、キリストの再臨の希望は将来に残されているということも語っています。ですから、初代教会は多くの苦しみを通過することになったのであり、イエス様はそのことを事前に語っておられたのです。さあ現代に生きる私たちは、初代教会のクリスチャンほどの苦しみを経験していませんが、多かれ少なかれ悩みを抱えて生きています。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」とあるとおり、1世紀に起こった悲劇は現代にいたるまで繰り返されてきました。不法がはびこると、人は疑心暗鬼になり、不安と恐れにさいなまされ、愛したり、信頼したり、期待することをやめてしまいます。そして、自己保身的になるのです。しかし、その結果は滅びです。何故なら、自分の「いのちを救おうと思う者はそれを失い」、主のために「いのちを失う者は、それを見いだす」からです(マタイの福音書16章25節)。愛と信仰と希望に生きることを止めてしまう時、クリスチャンの成長は停滞するのではなく後退するのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とイエス様がおっしゃる通り、愛と信仰と希望に生きることを諦めてはなりません。もし、諦めてしまいたくなるぐらいしんどくなったら休んでください。それは諦めないためです。堂々巡りな文章に思えるかもしれませんが、言いたいことは、ポキンと折れてしまうぐらいなら、少し怠けたり、不良になったりして、休んだほうが良いということです。イエス様も「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(11章28節)とおっしゃってるのですから、休まない忍耐を要求しているのではないことは明らかです。そして、その休みは、また立ちあがるための休みです。「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37篇24節)とあるとおり、倒れることは想定済みです。しかし、まっさかさまに倒れて回復不能になることがないよう、主が支えて下さるのです。それはもう一度立ち上がるためです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」。



●マタイの福音書24章35節
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 紀元70年、ユダヤ人の希望であり不動の礎と考えられていたエルサレム神殿が、ローマ帝国によって滅ぼされました。「神が共におられるのだから絶対に滅ぼされるはずはない、むしろ神が我々を守ってくださるに違いない、我々こそ律法の子であり選びの民なのだから。主はその都であるエルサレムを守りたもう」、そう信じていた彼らが、よりによって異邦人に滅ぼされてしまうのです。このことは、初代教会のクリスチャンたちにとっても衝撃的なことだったでしょう。何故なら、彼らの多くがユダヤ人だったからです。12使徒は皆ユダヤ人でした。そして、彼らもエルサレム神殿を聖なる場所と信じていたのです。イエス様の弟子のひとりがこう言っています。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)。また、イエス様も弟子たちを見てこう言っています。「このすべての物に目をみはっているのでしょう」。その多くがガリラヤの片田舎から出てきた弟子たちにとって、エルサレム神殿は憧れの的であり、神の臨在の場所だったのだと思います。ところが、イエス様はその第二神殿(ヘロデ神殿)の崩壊を予告するのです。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マルコ13:2)。形ある物で永遠に続くものはありません。目に見える物を神聖であるとか、神の箱だとか言う時代は旧契約の時代で終わりました。イエス様も、エルサレムでも他のどの神聖な場所でもなく、霊とまことを持って礼拝を捧げるキリストの体なる教会の出現を予告されています(ヨハネ4:21〜24)。エルサレム神殿でさえ、御子イエス・キリストを殺した時点で聖所としての意味を失い、その象徴として神殿の幕は真っ二つに裂けています(マタイ27:51)。つまり、旧契約が語る目に見える土地や神殿、契約の箱、安息日や割礼などと言った形あるものは、あくまで本体を指す影にすぎず、本体はキリストにあるのです(コロサイ2:17)。形あるものは、いつか必ず崩れ去ります。しかし「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Uコリント4:18)。その目に見えないものこそ、三位一体の神であり、完成された福音であり、キリストの御言葉なのです。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と約束されたキリストの言葉を頼りに、見える状況に振り回されず、神が計画しておられる確かな未来に一歩を踏み出して行きましょう。失敗を恐れず、万事を益とされる神の約束を信じて。



●マタイの福音書25章13節
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 マタイの福音書25章は24章に引き続き終末預言です。イエス様はここで、世の終わりの出来事をたとえで話しておられます。灯を用意した5人の賢い娘と用意しなかった5人の愚かな娘のたとえ、タラントのたとえ、そして、羊と山羊を選りわけるたとえです。全て、世の終わりの裁きについて語っています。これらは、神殿崩壊の預言と関連付けて語られているので、1世紀の弟子たちに対する警告でした。そして、その心構えに共通しているのは、どんなことがあってもイエス・キリストを信じる信仰を失わず、キリストの体なる教会に留まっていなさいというものです。賢い5人の娘たちにあたるキリストの教会に留まり、キリスト信仰の灯を絶やさないこと。それが、今日の御言葉「目をさましていなさい」の意味です。次に、与えられたタラント、すなわち自分の賜物を、教会共同体の中で用いることを教えています。これはキリスト信仰の表明をも含んでいます。そして、羊と山羊に選り分けられる決め手となったのがキリストの教会に対するふるまいでした。裁きの時に主はこう言われます。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』(45節)。ここに出てくる「小さい者たち」という表現は赤ちゃんや子供を指すのではなく、キリストの弟子たちにあてて使われた言葉でした。確かに、イエス様が子供を受け入れるシーンはありましたが、それは象徴的にでなく直接的に子供を招かれたのであり、子供の特徴から素直に信じて主の憐みにすがることの大切さを語っているのです。しかし「小さい者たち」という表現は、迫害下にあったキリストを信じる者たちを指す象徴表現でした。以上をまとめますと、25章にある3つのたとえが勧めていることは、キリスト信仰を保ち、教会共同体に留まり続け、自分の賜物を教会のために用い、キリスト信仰を公けに告白しながらお互いを大切にすることです。もはや紀元70年エルサレム陥落のような出来事はなく、その予兆はもうすでに実現したことであって、得体のしれない預言の解釈で恐怖心をあおり、信者を奉仕や献金に駆り立てるのは間違いです。それはオウムのようなカルトの手法と変わりがありません。けれども、この三つのたとえが勧める教えは現代でも有効です。突然訪れる死や世界の終焉という終末はまだ残っているのですから、キリスト信仰に留まり続け、公けに信仰を告白し、教会共同体に貢献して行くことは、私たちにとって錨の役目をし、初代教会の信者たちのようなぶれない歩みを私たちにもたらすことでしょう。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」・・・祈りとみ言葉を大切に。礼拝を大切に。兄弟姉妹との交わりを大切に。そして与えられたキリスト信仰を大切に。



●マタイの福音書26章12〜13節
この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」


 最後の晩餐の前に、イエス様はベタニヤへ行かれました。そこで、「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(マタイ26:7)とあります。この女性が誰であったか、またベタニヤの家がどこであったか、マタイ福音書には記されていません。しかし、ヨハネの福音書12章1〜3節を見ると、それがラザロ・マルタ・マリヤの家であることがわかります。そして、イエス様に香油を注いだ女が、マルタの妹のマリヤ(ベタニヤのマリヤ)であったと記しています。香油を注いだのはマグダラのマリヤであると誤解されることがよくあります。しかし、マグダラのマリヤはガリラヤ湖周辺の町マグダラ出身で、イエス様に七つの悪霊を追い出していただき、そこからイエス様に同行してきた出家信者でしたから、そんな高価な香油を用意することはできなかったはずです。やはり都エルサレム周辺の町ベタニヤに住む在家信者のマリヤだからできたことでしょう。ところで、マリヤが注いだ香油の額が300デナリであったとヨハネの福音書12:5に記されています。1デナリが当時の1日の労働賃金だと言われていますので、300デナリは年収にも匹敵します。当時の女性はみな香油の入ったつぼを首にかけていたそうですが、マリヤが持っていた香油は相当高価なものであったようです。これを見て弟子たちは憤慨するわけですが(マタイ26:8)、要は「無駄なことをした」という批判です。しかし、イエス様はこの女性の行為を「りっぱなことをしてくれたのです」(マタイ26:10)と評価し、「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」と誉めておられます。時に、私たちの礼拝、献金、奉仕、犠牲などは、傍から見ると無駄なことと見做されるかもしれません。ノンクリスチャンの人たちからそう見られるのはわかるのですが、場合によっては同じキリストを信じている人からそう見られることもあります。現に、キリストの弟子たちが、このベタニヤのマリヤの信仰の捧げものを「無駄だ!」と判断しているのですから、信仰を持っているからといって愛の奉仕や犠牲の意味をわかってもらえないことは十分あり得ることです。しかし、それはそれ。神様はわかっていてくださるのです。主イエス様は「りっぱなことをしてくれたのです」と言って下さり、「福音が宣べ伝えられる所なら・・・記念となる」と誉めてくださるのです。そして、その見返りのない犠牲は、必ず報いとなって却ってくるのです。この地上における信仰生活において・・・、あるいは来世において。それゆえ、神の愛に応える自発的な愛の犠牲の炎を絶やさないように、信仰の一歩を踏み出して行きましょう。復活されたイエスの十字架の贖いを、その愛を心に刻みながら。



●マタイの福音書26章31節
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。


 イエス様は捕えられる前に、弟子のつまずきを予告されます。そのつまずきの理由は何かというと「わたしのゆえに」です。当然、つまずいたのは弟子たちなのですが、その原因はイエス様の側にあるというのです。それはいったいどういうことなのでしょうか。一つは弟子たちの理想と願望がイエス様の向かう方向と違っていたことです。弟子の願いは、イエス様を担ぎあげてイスラエル王国を復興し、腐敗した祭司階級とローマに対して報復することでした。まさに地上王国の建設であって、選民である自分たちこそが世を支配すべきだという特権意識のあらわれです。イエス様はその王に相応しい、そう考えたのでしょう。ですから、彼らにはイエス様の十字架の死を受け入れられませんでしたし、十字架を真に受けていなかったのです。もう一つの理由はそれが、預言の成就だからです。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』とはゼカリヤ書13章7節の引用です。弟子たちがつまずくのは預言の成就、すなわち神の御計画であったということです。弟子のつまずきは、結果としてイエス様の十字架刑をスムーズに運ばせ、その処刑が祭司たちの妬みによる冤罪であるということを際立たせました。もし、弟子たちの反乱があったなら、イエス様はただのクーデター首謀者にしかならなかったでしょう。罪なき人が人類の罪の身代わりに死なれるという旧約の預言が成就するために、弟子のつまずきは必要不可欠だったのです。私たちは俯瞰(ふかん)して見ているので、後に復活があり、弟子たちが慰められ励まされることを知っています。しかし、当事者である弟子たちからしたら、まさに絶望の瞬間でした。さて、適応です。クリスチャンと言えど、絶望を経験することがあります。自分の理想と願望が打ち砕かれて途方にくれることがあるのです。イエス様の弟子たちにさえあったのですから、約2000年の歳月を経た私たちが信仰を揺るがされるのは当然です。しかし、弟子たちのつまずきが神の手の中にあったのと同じように、私たちのつまずきも神の手中にあるのだということを忘れてはなりません。望みを絶たれた弟子たちは、後に復活の主と出会って、自分たちの理想と願望とは全く違う神の使命に生かされるようになります。つまずきによって打ち砕かれた理想は、復活の主との出会いで与えられた神の使命と取って替えられるのです。同様に、私たちが自分の理想と願望に支配されている間は神の御計画が見えてきません。しかし、それがつまずきによって閉ざされる時、自分に対する神の御計画と使命が見えてくるのです。逆に、それが見えてこないということは、絶望が足らないか、まだまだ商魂たくましく自らの力で何とかしようとしているからです。つまずいたと思ったら、主のもとに行きましょう。み言葉の前に、祈りの御座に、そして神礼拝の場所に。そこで語られるみ言葉のうちにこそ、進むべき新たな一歩が示されているのです。



●マタイの福音書26章38〜39節
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 これはゲッセマネの祈りです。ゲッセマネの園は、エルサレムの東側にあるオリーブ山のふもとに広がっており、その意味はアラム語で「油絞り・oill press」だそうです。イエス様は、このゲッセマネの園で十字架を前にもだえ苦しみながら祈られます。十字架の苦しみは、人類の罪を背負う苦しみであると同時に、イスラエルの民に見捨てられ、ついには父なる神に見捨てられる苦しみでもありました。当然、それが人類の罪を贖う神の計画ではあったのですが、それはたやすく実現したのではなく、イエス様の苦しみと悲しみを通して実現したのです。イスラエルの王としてイスラエルを救うために来たのにイスラエルに拒絶され、その罪の身代わりに死んで贖いを成し遂げるために父なる神に見捨てられなければならなかったイエス様の心は本当にズタズタに引き裂かれたと思います。そのような苦しみと悲しみを予知していたイエス様は、弟子たちの祈りを必要としました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」。これは祈りの要請です。そして、イエス様の訴えが続きます。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。この杯(十字架)を飲むために来られたはずのイエス様が、この杯を前にたじろぎ、苦しみの回避を訴えています。人間イエスの姿がここにあります。罪は犯されませんでしたが、私たちと同じような弱さを持っておられました(へブル人への手紙4章15節)。しかし、ここから先が私たちとは違うのです。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」。ここに、父のわざを行ってこられたイエス様の使命感が現れています。これは、イエス様を通して神の民に加えられた私たちの模範でもあります。弱さゆえに神に訴える私たちですが、そこで終わっていたら、クリスチャンでない人たちと何ら変わりがありません。神を信じていないのと同じですし、信仰がないのと同じです。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」、こう祈ってはじめて、私たちは真に神を礼拝し、神に仕え、神に従う者となれるのです。人は自分の願いが純粋だと思いたがる傾向にあります。しかし、クリスチャンは自分の願いが原罪に汚されていることを自覚し、自分に絶望しているものでなければなりません。そうでなければ、真の悔い改めと信仰には至らないからです。罪を自覚するとき、私たちは神の計画のほうが最善であることを悟るのです。その最善に生かされる時、私たちの人生は神の栄光を現すものとなるのです。



●マタイの福音書26章52〜54節
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

イエス様が捕縛される前のやりとりです。イエス様を捕らえようとするユダヤ人の群衆を前に、弟子の一人が大祭司のしもべを剣で斬りつけます。ヨハネの福音書はそれがペテロであると記録していますが、共観福音書には弟子のひとりとしか記されていません。その弟子をいさめる形で、今日のみ言葉が語られました。イエス様のお言葉によると、十字架を回避しようとすればできたということです。それも、「十二軍団よりも多くの御使い」を送ってもらうことができるというのです。原語では十二のレギオンとなっていますが、レギオンとはローマの軍隊を指します。1レギオンには少なくとも6000人の屈強な男たちがいて、十二軍団を集めると72000人にも及ぶ軍隊です。そして、ソドムとゴモラの記事を見るとわかるのですが、天使一人で町を一つ滅ぼすことができるわけですから、十二軍団はとてつもない強さです。ローマ帝国をも滅ぼし尽くす力が想定されていたと思います。しかし、敢えてそのような力を送らないのは、聖書の預言が実現するためであり、救いが完成するためだとイエス様はおっしゃるのです。この考え方についていけず、ローマの力を恐れた弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいます(6節)。ローマ帝国に賄賂を送りながら、ローマの力で祭司階級に居座り続けていた当時の大祭司たちは、ローマ総督ピラトを動かしてイエス様を処刑しようとします。ローマを恐れながら、ローマにおもねり、ローマに与するユダヤ当局とは違い、イエス様はローマを一つも恐れず、毅然とした態度でユダヤ人たちの前に立ち、預言の成就のために十字架の死へと向かって行かれます。ですから、十二軍団の話は負け惜しみでも、頭がおかしくなったのでもなく、大真面目なこととして回避の可能性があるということを語っておられるのです。十字架が使命であるため回避しなかっただけなのです。同様に、私たちの人生にも、父なる神は十二軍団の天使を送ることがおできになります。危険回避は可能で、問題解決はあり得るのです。ですから、父のあわれみを求めて祈るべきです。しかし、祈ったにも関わらず、それが叶えられないとするなら、回避しない先に使命があるのだということを知らなければなりません。「行って実を結ぶ」という使命がそこにあるのです。さあ、万事を益に変えることのできる主に信頼して進んで行きましょう。主イエス様も共にいて、その苦しみと悲しみを担って下さいますから。賛美と感謝をささげながら前進しましょう。そこに必ず実が結ばれるのですから。



●マタイの福音書26章73〜75節
しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

 一番弟子であったはずのペテロが三度イエス様を知らないと言って、主を否むシーン。細部に違いはあれど、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの全ての福音書が記録している場面です。福音書記者たちがみな記録しただけに、この出来事は初代教会において重要な意味を持っていたのだと思います。一番弟子が主を見捨てた!これほど情けない話はありません。そして、その失態に涙するペテロ。ペテロは、イエス様に向かって「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカの福音書22章33節)とほざきました。ほざいた手前、がんばらねばと思ったのか、ペテロは捕えられたイエス様の近くまでついて行くわけです。しかし、結果として、主であるイエス様をはっきりと否むかたちになってしまいます。それも呪いをかけて!この場面は、どうしようもない人間の弱さと罪深さを現わしています。理想に生きようとするけど、我が身可愛さにくじけてしまう。頑張ればいのちさえも捨てられると考えたけど、現実の厳しさに心が折れてしまう。自らの決心と意志の強さを過信していたということが明らかになってしまう。本当に恥ずかしい場面です。そして、誰もがこの記事を読むたびに、ペテロと自分を重ね合わせてしまうのではないでしょうか。相当なうぬぼれ屋さんは別ですけどね。ちゃんと自分と向き合えている人は気付いているはずです。自分は本当に恥ずかしい人間だって。今日のこの記事はそういう人にとってグッド・ニュースです。主はその恥ずかしいペテロを、後に初代教会のリーダーとし、大きく用いられるのです。ここに神の恵みと憐れみがある!人が見捨てても、神は見捨てない!どんなに恥ずかしい経験をしたとしても、ペテロのように自らの罪を悔い改め、神の憐れみにすがるとき、主はその挫折を益に変えてくださるのです。イエス様がペテロに約束された言葉はこうでした。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカの福音書22章32節)。ペテロの信仰がなくならなかったのは、イエス様がとりなして祈ってくださったからです。当然、ペテロが悔い改めたからなのですが、それもひっくるめてイエス様のとりなしがあったからなのです。まさに神の憐れみがペテロを支えたのでした。私たちも傲慢にならず、神の憐れみに支えられているだけなのだという自覚を持つべきです。悔い改めと神の憐れみにすがるへりくだった信仰、これこそが、失敗を祝福に転じる唯一の道です。



●マタイの福音書27章3〜5節
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

 えぐいシーンですが、三度、イエス様のことを知らないと言って見捨てたペテロと比較しながら、ユダの死について考察します。自殺が罪かどうか、ユダは地獄に行ったのか、などの議論は私にとってあまり触れたくないテーマですので、他の方にゆだねたいと思います。ここでは聖書の記述からわかることと、少しばかりのコメントをさせていただきます。最後の晩餐の席で、イエス様がユダに言われたことはこうです。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マタイの福音書26章23〜24節)。結果として、ユダは裏切りの罪責により首を吊って死にます。ペテロの場合はどうかというと、イエス様は最後の晩餐の席でこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカの福音書22章31〜32節)。結果として、ペテロは三度イエス様を知らないと言い、カヤパの官邸を出て泣きはしますが、命を絶つことはありませんでした。ちなみに、ユダが首を吊ったという記事はマタイの福音書にしかなく、ルカ文書である使徒の働きでは、「まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった」(使徒1章18節)とあり、自殺とは明記されていません。後代に、ユダに対して同情的な文書が記されたり、ユダを擁護する神学者も生まれたりしていますが、福音書の記録を見る限り、裏切りはユダの自由意志によるもので、その結果としての死や裁きという描かれ方です。ユダとペテロを比較すると、裏切りと否認とでは、その積極性において罪深さに差があるように思いますが、どっちもどっちという気もします。この二人に差があるとすれば、ユダにはのろいがかけられ、ペテロには回復が約束されたということです。そして、ユダは自分の力で罪の清算をしようとしましたが、ペテロは主の憐れみによって罪を赦していただきました。ですから、私はこう思います。罪を悔い改め、回復の約束であるイエス・キリストの福音を信じる時、私たちは赦されるということです。ペテロはある意味で「恵みのみ、信仰のみ」のモデルでした。しかし、ユダは自らの罪を認めていますが、神の憐れみにすがることなく、自分の力で罪を清算しようとします。ユダはまさに行為義認の失敗モデルです。というわけで、ご安心ください。自分の罪を認め、イエス・キリストの福音を信じ、罪赦されたあなたもペテロと同じ回復のモデルなのです。これからもずっと主の憐れみにすがり続けて行きましょう。たくましく、したたかに。



●マタイの福音書27章45〜46節
さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 今日は、十字架上のイエス様の言葉です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは詩篇22篇の言葉です。さて、新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、旧約聖書はヘブライ語です。そこで、この詩篇22篇のヘブライ語を発音すると「エーリー、エーリー、ラーマー、アザブターニー」となります。また、当時の公用語であったアラム語で発音すると「エリ、エリ、メトゥル、マ、サバクタニ」となるそうです。両方とも、新約聖書のギリシャ語とは微妙に発音が違いますね。イエス様はどうも、ヘブライ語とアラム語を混ぜ合わせた言葉で叫ばれたようです。要するに、福音書記者がヘブライ語の旧約聖書を音写して記したというのではなく、現場に居合わせた目撃者が聞いたイエス様の生の声だったということです。おそらく、日常生活の中で暗唱されていた言葉であり、なじみのある言い方をされたのだと思います。ある聖書学者は、これはイエスが十字架の苦しみを受けながらも、詩篇22篇の言葉を引用して感謝と勝利を叫んでいるんだと解釈します。それとは反対に、幾つかの新興宗教は、死に際に嘆いているととらえて、このイエス様の言葉を失敗や敗北の叫びとみなしています。つまり、イエスはメシアになれなかった!あるいはメシアではなかったと判断します。しかし、福音書記者は「本当に神の子・キリストが罰せられた」という観点で記しています。イエス様は正真正銘、旧約聖書が預言していたメシアであると同時に、本当に罰せられ、父なる神に見捨てられたのだという描き方をしているのです。イエス様の十字架の苦しみはいろいろありました。いばらの冠をかぶせられ、葦の棒でなぐられて、そのとげが頭に食い込み血が流れました。石と鉄くずのちりばめられたムチで打たれ、肉が引き裂け飛び散ったことでしょう。ゴルゴタの丘までの道中、十字架を担がされて歩く時には、大量の血が吹き出たことでしょう。人々からののしられ、ばかにされ、辱めを受けました。誰にも理解されず、愛し育ててきた12人の弟子たちも逃げてしまい、そのうちの一人は裏切り者でした。どれもこれも、想像を絶する苦しみです。それは、まさに呪われた姿でした。祟りです。ばちあたりです。しかし、イエス様にとって父なる神に見捨てられるという苦しみは、どの苦しみよりも大きかったのです。それゆえ、これまで、一言も嘆かれたことのなかったイエス様が叫ばれたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と。これはジェスチャーでもなければ、不信仰なさけびでもありません。神の子が人として全人類の罪の罰を受けて、見捨てられた証拠なのです。そこで今日みなさんに受け取って欲しいメッセージはただ一つです。イエス様がみなさんの身代わりに呪われ、父なる神に見捨てられてくださいました。本来、これらはすべて私たちが自分の罪の故に受けなければならないものです。それをすべて受けてくださった。それゆえ、イエス様を信じているあなたに呪いはありません。裁きはありません。罰もありません。あるのは、神の赦しと、その愛にお応えしていく神の子としての歩みです。その確かな証拠がキリストの復活なのです。復活の主は今も生きて私たちと共におられ、私たちを弁護してくださるのです。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ローマ人への手紙8章34節。



●マタイの福音書27章50〜53節
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。

 イエス様の最期の瞬間です。しかし、その後に起こる出来事が異常現象です。エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この幕は高さ20メートルほどあり、刺しゅうを施された分厚いものであったそうです。だから、簡単に裂けるようなものではありません。また、地震とともに「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った」とありますが、イエス様が処刑されたゴルゴタも、聖徒たちの墓も、当時は城壁の外・エルサレム神殿の西側にありましたので、そこからよみがえった聖徒たちがエルサレム神殿の城壁内に入ったというわけです。まるでゾンビですが、実に不可解な記録です。科学の時代に生きる私たちの頭を悩ませる箇所ですが、不可解な部分は置いておくとして、その出来事が教えようとしていることを考えたいと思います。つまり、イエスの死がどれほど多きな意味を持っているかということです。神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は避け、旧約の聖徒たちがよみがえったということは、エルサレム神殿が完全に意味を失ったということです。聖書学者のNTライトは、「イエスの死は、イエスに反抗し、イエスの呼びかけに注意を払わず、世界の光となるというその召命を拒んだ体制(1世紀のユダヤ当局)の崩壊の始まりである」と、この箇所を説明しています。殉教者ステパノは「…神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません」(使徒の働き7章47〜48節)と言っています。そして、マタイ24章などでイエス様が預言されたように、紀元70年にローマ軍によってエルサレム神殿は完全に崩壊します。それゆえ、イエス様の死は、古い体制の終焉と新しい体制の始まりを意味します。すなわち、旧契約の終わりと新契約のはじまりです。旧契約において、至聖所、すなわち神が臨在される所には、年に一度大祭司しか入ることができず、また律法に従って罪のためのいけにえが必要でした。ところが、イエス様が身代わりのいけにえとなってくださったことにより贖いは完成し、不完全な贖いしかできなかった毎年のいけにえは必要なくなったのです。こんにち、イエス様を信じる者は大胆に神に近づくことができ、律法に従った祭儀もいけにえも必要としません。イエス様の死は、父なる神に見捨てられるという呪いであり裁きであると前回お伝えしましたが、同時に新しい時代の幕開けでもあったのです。それゆえ、一連の出来事を目撃したローマの百人隊長の告白、「この方はまことに神の子であった」(54節)という言葉は真実でした。血筋や民族を超え、地位の高さや老若男女を問わず、ただイエス様を神の子・救い主と信じるだけで、恵みにより神の民に加えられるのです。そして、信じた私たちが神の宮・神殿となりました(コリント人への手紙第一3章16節)。神は私たちの内におられるのです。話は長くなりましたが、要はイエス様だけで十分!ということです。



●マタイの福音書27章55〜61節
そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。

 幾人かの女性たちが登場し、イエス様の死を悲しんでいます。アリマタヤのヨセフという、あまり聞いたことのない人も登場します。並行記事であるヨハネの福音書19章では、議員さんであったニコデモも登場します。みんな、イエス様に望みを置いていた人たちですが、あまり表舞台に登場する人たちではありませんでした。イエス様復活の後には、もう登場しません。イエス様を見捨てて散り散りバラバラになった弟子たちがもう一度元気になって活躍するようになり、次に、熱心なパリサイ派であったパウロが回心し、地中海世界の宣教活動で大活躍します。そういう意味では、更なる激動の時代を迎える前の静、嵐の前の静けさということができます。そして、その静けさの中でのみ現れる女性たちとアリマタヤのヨセフの存在は、キリストの体なる教会というものが無名の信者たちに支えられてきたことを物語っています。文章も残さず、目立った意見を言って注目されることもなく、何か秀でた能力があるわけでもなく、ただ忠実に教会に仕え、イエス様が死んだ時にはその遺体の世話をし、墓の見張りをして葬りの時を過ごす。そんな、寄り添ってくれる人たちの存在が教会を支えてきたことを教えられるし、また、そういう人たちがキリストの復活を最初に目撃し、良き知らせの第一報を告げる者となるのです。私は以前、まだ信仰生活が浅かった時、とても熱心で、ノンクリスチャンに伝道することばかりを考えていました。自分の親や友人たちにどれだけイエス様のことを伝えられるか、知ってもらえるか、そして教会に導くことができるか、そういうことに熱心でした。そして、あまり伝道に熱心に見えない、ただ教会の礼拝に忠実に足を運ぶだけのクリスチャンを形骸化したキリスト教だと言って批判していました。ペテロのように、パウロのように、初代教会のように、聖霊の力を受けて影響力のあるクリスチャンにならなければ意味がない!これが私の考え方でした。今は、その考えが完全に間違っていたこと、自分のイメージを聖書に焼き付けているだけで、聖書そのものはそんなイメージをもとから推奨していないことに気付かされました。今は、クリスチャンライフにおいて教会の礼拝と交わりがどれほど大切かということを痛感しています。また、伝道、伝道と言っていた時のほうが、空回りして、誰も私からキリスト教のことを聞こうとしませんでしたが、一つの挫折を経験して肩の力が抜けてからは、地道な礼拝生活をおくるようになり、不思議に救われる人たちが周りに増え始めたのです。私の関心ごとは人を導くことでも、影響力のあるクリスチャンになることでもなく、ただ神様を知ることになったのです。今もその関心は変わりません。そして、挫折はいい経験だったなと思っています。今日の聖書個所の静けさも挫折の空気が漂っています。しかし、その挫折が人間的なものを頼みとする人の傲慢さを打ち砕き、神の憐れみによって支えられていく初代教会を生み出していくのです。主の恵みと憐れみは偉大です。



●マタイの福音書28章9〜10節
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 ガリラヤ地方はイエス様が活発に宣教活動をされた場所です。特にカペナウムなどはガリラヤ宣教の本拠地であり、様々な癒しと奇跡が起こりました。ガリラヤ湖周辺は、イエス様が神の子・救い主であるということが明らかにされた場所であると言えます。また、福音のメッセージが豊かにまかれたのもこの場所でした。マタイの福音書においては18章までがガリラヤ地方での宣教となっております。さて、今日の箇所では、師であるイエス様が捕らえられたことにより散り散りバラバラに逃げた弟子たちは、イエス様の死の知らせを聞いて失意の中にあったことでしょう。イエス様の遺体を葬ることができたのは、祭司長や律法学者たちから目をつけられていない女たちと金持ちのアリマタヤのヨセフ、そして議員のニコデモでした。他は捕らえられる可能性があったので隠れていたのだと思います。そこには挫折の空気が漂い、弟子たちは不安と恐れに縛られていたことでしょう。そんな彼らに届けよ!と、復活のイエス様が語られたメッセージが「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」でした。イエス様との思い出の場所ガリラヤ。イエス様の癒しや奇跡を目の当たりにして、「あなたこそ生ける神の子・キリストです」と信じるようになった場所。まさに、弟子たちにとって原点とも言えるその場所に、イエス様は招集をかけられたのです。それも、旧約聖書において神がイスラエルの民に語られたのと同じ言葉「恐れるな!」を添えて。これは神の招集命令です。「イエス様はよみがえられた!そして、思い出の場所ガリラヤで会うことができる」。この良き知らせに、挫折の空気は退けられ、不安と恐れの雲ははらわれたことでしょう。まだ、心配要素はあるかもしれないけれども、希望の光が差し込んできたのです。原点であるガリラヤに原点であるイエス様がおられる。弟子たちにとっての大きな励ましの言葉であったはずです。さて、現代に生きる私たちには弟子たちのような、地理的な意味でのガリラヤは存在しません。しかし、心のガリラヤはあるはずです。私にとっては、大学1年生の時に聖書を読んでイエス様を信じた時、そして、30歳を前に経験した挫折と恵みの再発見の時でした。不安や恐れに心が揺らぐとき、私は必ず心のガリラヤに帰ります。そこで、語られた聖書の約束が、もう一度私を元気づけ、立ち上がらせるのです。そして、自分に与えられた使命を再確認させてくれるのです。あなたにとっての心のガリラヤは何でしょうか。原点に、はじめの愛に立ち返り、復活の主が共におられることを再認識して、励ましを受けながら進んで行きましょう。



●マタイの福音書28章16〜17節
しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。


 復活のイエス様の指示に従い、十一人の弟子たちはガリラヤ湖周辺にやってきました。そしてイエス様に支持されていた山に登ります。この山がどこなのか聖書には記されていませんが、クリスチャンの間ではアルベル山がその山だと信じられています。十一人の弟子と書いてありますが、おそらくイエス様の埋葬のお世話をしたアリマタヤのヨセフやニコデモ、さらには多くの女性たちもついてきたことでしょう。そして、恐らくガリラヤ地方に多く存在したであろうイエス様を信じる人たち、すなわち使徒以外の弟子たちも集まったはずです。それをほのめかす言葉がパウロ書簡にあります。「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます」(コリント人への手紙第一15章6節)。五百人以上の弟子たちが同時に復活の主と出会うタイミングは、聖書の中でここしか考えられません。ユダヤ地方やエルサレムでこのことがあったなら、あまりの人数の多さに祭司長たちに目をつけられて、クーデターとみなされたことでしょう。そういう事情からも、五百人以上の弟子たちが一堂に会してイエス様に会う場所として、ガリラヤ湖周辺のアルベル山はピッタリのロケーションなのだと思います。さて、今日の箇所で興味深いことは、復活のイエス様と出会っていながら、「彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った」とあることです。「見たら信じる!」と言う人がいますが、実際には見ても信じないのが人間なのです。そういう意味で、信じるということは人間の決断によるものでありながら、実は人間わざではないということが言えます。私が若き日に姉に勧められて聖書を読んだことも、教会の門をたたき求道したことも、そしてイエス様を信じて洗礼を受け、今日まで神を礼拝し続けてきたことも、神のわざなのです。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(ヨハネの福音書6章29節)とある通りです。パウロも信仰が神のギフトだと言っています(エペソ人への手紙2章18節)。あなたの信仰もそうなのです。神の恵みに支えられているという安心を胸に、共にいて下さる主イエスに信頼して歩んでいきましょう。
※アルベル山 / Mount Arbel (https://goo.gl/maps/B3ZkcEvyoED2)



●マタイの福音書28章18〜20節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


 マタイの福音書のエンディングです。大宣教命令などと言われ、キリスト教宣教の動機づけとなる言葉です。日本語で表現しきれていない部分は、命令形が「弟子としなさい」という言葉だけだということです。他にも「行って」「バプテスマを授け」「教えなさい」という動詞が出てきていますが、すべて分詞です。分詞とは、動詞が形容詞としての用法をあわせ持つもので、形容詞的に訳すことができます。あえてそのことを強調して訳すならこうなります。「出て行き、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしが命じておいたすべてのことを守るように教えることによって、あらゆえる国の人々を弟子としなさい」。つまり、弟子とするということが目的であり、その方法として、行って、洗礼を授け、教えるということが命じられているというわけです。ただし、分詞を並べることにより、先行する命令形の動詞と同じように訳すこともできるそうなので、そこまで強調しなくてもいいようです。それゆえ、新改訳も新共同訳も口語訳も、すべて命令形で訳しています。さて、キリスト教会は今日まで、父と子と聖霊の御名によって信じる者に洗礼を授けてきました。そして、それを守るようにと聖書を教えてきました。私たちの教会も例にもれずそうしています。しかし、私個人としては「弟子とする」という言葉に抵抗があります。「弟子化」が叫ばれ、信者がカリスマ性のある牧師や伝道者の犬となるようなカルト教会が存在する今日、「弟子とする」という言葉を聞くと金太郎飴のように同じことしか言わない気持ち悪い集団を想像してしまうからです。ああいう集団の同調圧力を感じる時、「宗教怖い!」って思ってしまうんですよね。聖書が語るのはイエス様の弟子です。でも、弟子という日本語のニュアンスも良くないのかもしれません。英語ではlearnerでもあるのです。学び続ける人、教わっている人です。イエスの門下生といったところでしょうか。怖い教祖や牧師の門下生ではありません。どっかの牧師が「弟子になっていないクリスチャンが多い」みたいなことを言って、信者にプレッシャーをかけていましたが、その意味するところは「礼拝守れ、伝道しろ、献金しろ、奉仕しろ」でした。そして、信者が辛くなって他教会に行こうとすると脅迫による囲い込みをするのです。やっぱ「宗教怖い!」ですね。今日の聖書個所はもっとあったかい内容です。自分と同じように、イエス様の門下生、イエス様の教え子となる仲間を増やそう!ぐらいで考えられないでしょうか。そして、そういう仲間が生まれるように、いっさいの権威をお持ちのイエス様が共にいてくださるから大丈夫!ぐらいの、あったかい、励ましに満ちたメッセージだと考えられないでしょうか。信者獲得・教勢拡大、みたいなノルマを課せられた営業マンのように信者をみなす宗教団体にはなりたくないし、なってほしくない。そして、そういうのとはお関わりになりたくないです。


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