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マルコの福音書gospel of mark

From the pastor's office <牧師室から>

No.01『イエスを信じよう』
◇マルコの福音書1章15節
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 
福音とは何か?それはイエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストが来られたということそのものがGood Newsであり、このお方の到来と共に神の国(神の支配)は1世紀に訪れたのです。イエスのうちに本当のいのちがあり、イエスによって罪が赦され義と認められ、イエスを通して神の子供とされるのです。神に立ち返って方向転換をし(悔い改め)イエスを信じるなら、無条件で神の祝福にあずかれるのです。償いも、犠牲も、功績も必要ありません。天のお父様の愛とあわれみの故にただで与えられるのです。これこそまさに良い知らせです。そんなわけで、今日もイエス様を信じているから大丈夫!そして、明日も大丈夫!明後日も大丈夫!そして永遠に大丈夫!イエス様を信じているなら、天の父なる神様の愛から切り離されることはないのですから。神の国はもうすでにあなたの近くにあります。あなたは天にある全ての祝福を受け取った方です。あなたの存在も、あなたの働きも、あなたの将来も、全て神の祝福で彩られているのです。イエス様を信じるなら!



No.02『恐れないで信じる』
◇マルコの福音書5章36節
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 
 死に掛けている娘を癒してもらうためにイエス様のもとにやってきた会堂管理者。けれども、娘が死んだという知らせを会堂管理者の家の者が伝えにやってきました。その時、イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われたのです。後に、イエス様はその娘を生き返らせます。確信に満ちたイエス様の言葉は頼もしく、そして実際に娘を回復させたイエス様の力には感動させられます。窮地に陥った時、人は恐れるものです。しかし、そんな時こそ慌てずに、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われる主の言葉に励まされて進んでいきたいと思います。私たちを愛したもう天のお父様が最善をなしてくださると信じて。必要な助けはそこからやってきます。人の手を通しても、環境を通しても、そしてあなたの力を通しても、あらゆる事柄を用いて、神はあなたを助けられるのです。



No.03『信じる力』
◇マルコの福音書9章23節
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 
 悪霊にとりつかれた息子を解放してもらうために、イエス様のところに父親がやってきました。このみ言葉は、その父親に向かって言われた言葉です。どこに連れて行っても治してもらえないという経験から、希望と信じる心を失っていたこの父親に向かってイエス様は信仰を要求します。あきらめたり、自暴自棄になったり、傷つくことを恐れて無難なところで逃げてしまうことは、問題を先延ばしにするだけのことです。しかし、天のお父様の愛に信頼し、信じる心を持つ人には問題を乗り越える力があるのです。スーパーマンや超能力者にはなりませんが(笑)、「どんなことでもできるのです」。信じるなら、必ず乗り越えられます!神のみ言葉、イエス様の言葉に信頼して、駆け抜けて行きましょう。いや、走ることができなければ、ゆっくり歩けばいい。歩くこともままならないなら、休めばいい。焦る必要はどこにもない。いつか必ず歩ける時が来る。走れる時が来る。だから、信じて前にだけ向いておけばいい。聖霊様の後押しをいただいて、気付いたら駆け抜けているはずです。しかし、大切なのは信じること。駆け抜けようが、立ち止ろうが、大切なことは信じることです。



No.04『すでに受けたと信じて』
◇マルコの福音書11章24節
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 
 祈りは言葉数が多ければ聞かれるというものではなく、また、清く正しい人の祈りならなんでも叶えられるというものでもありません。祈りは天のお父様に対する信頼から生まれるものです。「祈ったことがらは、すでに天のお父様の耳元に入っている。だから、もう受け取ったも同然だ!」という信頼の心を抱きながら、祈りましょう。私たちの信心深さとか、行いの立派さとか、自分の清さに頼って祈るのではなく、天のお父様の愛と憐れみに100パーセント信頼して祈るのです。そうすれば、「すでに受けた」と信じることができるでしょう。その祈りは信じたとおりになります。なぜなら、天の父なる神は、私たちにとって必要なものを全て御存じだからです。ただし、必要ないと天の父が思われたものは絶対に与えられませんけどね(^_^;)。なぜなら、それが益にならないからです。益になるものは、「すでに受けた」と信じて祈るなら必ず与えられます(*^_^*)



No.05『三つの愛に生きる』
◇マルコの福音書12章28〜31節
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」


 イエス様は律法を要約し、三つの愛の重要性を語られました。@神を愛すること。すなわち、神をおそれ、神を信頼して生きること。A自分自身を愛すること。すなわち、自分を受け入れること。B隣人を愛すること。すなわち、他者をあるがまま受け入れ、好みであろうがそうでなかろうが、公平に大切にしていくということ。この三つです。さて、現代人にとって問題となっているのは、Aなのではないかと思います。Aができていないがために、他者の存在(神や社会や隣人)を大切に思えないのではないでしょうか。アルフレッド・アドラーという心理学者がこう言いました。「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」と。実は自己受容とは大変難しいことです。理想どおりになれない、または思い通りにならない、そんなあるがままの自分としっかりと向き合って、それを受け入れて生きる。ある意味あきらめて生きる。そして、あるがままの自分で済ますと言いますか、それしかないんだから、それと仲良く生きるというのは、腹をくくらなければできないことです。それができたなら、意外と自分というものが可愛くなってくるし、おもしろくもなるし、人生捨てたもんじゃないって思えてくるのです。そうしますと、そんな自分を創ってくださった神の存在も受け入れられるようになるし、信頼も出てくるし、ついには、隣人を受容するゆとりも出てくるんじゃないかと思うのです。三つの愛に生きる!イエス様の命令です。



No.06『福音を信じて伝える』
◇マルコの福音書16章20節
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。


 弟子たちは、イエス様の復活を目撃し、イエス様が天に昇られて後、「至る所で福音を宣べ伝えた」ようです。福音を伝えるということは、イエス様からの命令です。と同時に、イエス様の遺言と言ってもいいかもしれません。明日、自分がこの地上を去るという時、もし愛する人々に言葉を託すとしたら、あなたならどのようなメッセージをのこされますか?人それぞれだとは思いますが、恐らくどうでもいいことよりは、大切な言葉をのこしていかれるのではないでしょうか。福音は大切な言葉でした。その内容はシンプルです。「神は、実に、そのひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに、あなたを愛された。それはあなたがキリストを信じて、永遠のいのちを持つためである。」!実にシンプルです。神は私たちを愛してイエス様の十字架を与えられた。そして、私たちはイエス様を信じて救われる。この神の愛と、私たちの信仰による応答が出会って初めて救いが実現するのです。私たちはこれを信じて救われました。福音には人を救う力があり、神もその福音に伴うしるしを起こしてくださるのです。語って行きましょう!神の愛を。そして、信仰による救いを。

洛西キリスト教会

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