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ルカの福音書gospel of mark

From the pastor's office <牧師室から>

No.01 『奇跡の子・使命の子』
◇ルカの福音書1章5〜7節
ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。


 救い主の到来を告げる預言者として選ばれたバプテスマのヨハネ。かれの出生は不思議なものでした。父ザカリヤと母エリサベツの間には子がなく、二人はもう年をとっていたのです。どのぐらいの年齢だったかというと、民数記4章3節に祭司の定年について、「それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である」と書かれていますから、まだ祭司職についていたザカリヤは50歳以下が確定します。それで、ふたりとも年をとっていたという記述から考えて、45〜50歳ぐらいの年齢であったと推測できるでしょう。もし子供ができたとしたら高齢出産になりますし、それまでに一人も子供ができなかったことから考えれば、出産は望み薄だと考えても仕方がなかったはずです。「主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」にもかかわらず、子が与えられなかったという経験は、彼らにとって屈辱的なことだったでしょう。自らの誇りはことごとく砕かれていたに違いありません。そんな彼らに天使が現れ、子供が与えられることを予告します。しかし、その子は、この二人の立派な行いのゆえに与えられるのではなく、神の選びによってもたらされるのです。このような試練と救いの経験が、生まれてくるヨハネを奇跡の子として輝かせ、彼の使命というものを明確化させました。苦難の中にありながら生かされていることは奇跡の子であることを表し、神からの使命を帯びていることを証明するのです。クリスマスストーリーは苦難の連続であり、幼子のイエス様のまわりに起こった出来事も危険な出来事の連続でした。同様に、苦難を経験する人よ!生かされていることの奇跡を感謝し、何らかの使命が与えられていることを信じていきましょう。



No.02 『神にとって不可能なことは一つもありません』
◇ルカの福音書1章34〜38節
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

 神にとって不可能なことは一つもありません!その通りです。ただし、履き違えて考える人たちがいます。それは、イエス様を信じた私たちには不可能なことは一つもありません!と言いのける人と、口に出さなくてもそう思っている人です。はっきり断言します。人間には不可能なことがいっぱいです。クリスチャンであろうがそうでなかろうが、できないことがいっぱいあります。そして、不可能なことがあるということが人間である証拠です。全能という言葉はあくまで神につけるべきものであって、どれだけ信仰の厚い人でも全能には成り得ません。この聖書箇所から教えられることは、神の計画は必ず実現するということであり、そこに不可能なことはないということです。マリヤはその計画の役割を担うものとして選ばれたがために、神の意志を伝えられました。彼女は類まれな信仰の持ち主であったがために、神の意志を受容しますが、通常は無理です。実際、ヨハネの父ザカリヤが無理でした。しかし、エリサベツやマリヤは信じたのです。このような神の計画を信じる者たちを通して、神のみ業は遂行されていきます。「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言ったマリヤの信仰にならう者となりましょう。



No.03『幸いな人』
◇ルカの福音書1章45節
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。


 この言葉は、親類のエリサベツが、イエス様の母マリヤの信仰を評して語った言葉です。神様の約束は真実です。どんなに物事がうまくいかなくなったとしても、また自分の罪の故に、もしくは様々な試練と苦難の故に、ぐちゃぐちゃになって醜態をさらしてしまったとしても、大丈夫!神様の約束は、私たちの側の性格のよさや立派さ、あるいはその逆の姿であったとしても、それらに関係なく、神ご自身の真実さの故に実現されるものだからです。ですから、大切なことは、自分自身によりたのむのではなく、幼子のように神様の真実な約束に信頼することなのです。人生経験に乏しく、まだ男を知らないマリヤ。世間知らずで、婚約中にみごもるなら姦淫の女と言われかねないのに、彼女はそのリスクを気にしませんでした。その非常識さ、恐れを知らないその態度、全て神の約束に対する信頼から来ているのです。そして信仰に生きる人は幸いです。なぜなら、神の約束の実現を見るからです。



No.04『マリヤの祈り』
◇ルカの福音書1章51〜55節
主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」


 これはイエス様の母マリヤの祈りです。彼女は神とはどのようなお方かを証ししています。神は高ぶる者を退け、御自身により頼むへりくだった者を救い出すというのがその要点です。その神により頼むへりくだった者のことを、マリヤは「イスラエル」あるいは「アブラハムとその子孫」と言っています。ところが、イエス様を殺したのは誰ですか?そう民族的には「イスラエル」であり「アブラハムの子孫」であるユダヤの民がイエス様を十字架にかけて殺したのです。そうしますと、この言葉は、民族的な意味や国家ではないことがわかります。あるいは、キリスト教という宗教団体やその宗教を標榜する国家であるとも考えにくくなります。そう考えた過ちがローマ・カトリックの十字軍であり、今日で言えばアメリカ軍のアラブ諸国に対する軍事介入を支持しているアメリカの原理主義キリスト教です。双方共に、自らが神の国だと主張していました。しかし、ここで言うイスラエルあるいはアブラハムとその子孫とは、その信仰を継承した者たちのことです。それはもはや宗教団体の加盟人数では計れない、目には見えない教会・普遍的教会のことです。歴史上、そのような教会は絶えず迫害され抑圧される側にいました。国家や政治権力に対して力を行使したり媚びたりする側ではなく、その為政者たちのために祈る者たちであり、絶えず預言者的なスタンスで警告を発してきた群れです。そのような者たちを神はあわれみ引き上げて下さる!これがマリヤの祈りの内容でした。マリヤと同じ立ち位置で祈る者でありたいと思います。



No.05『救い主はあなたのために生まれた』
◇ルカの福音書2章8〜12節
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」


 誕生したイエスのもとに最初に招かれたのは、おそらくこの羊飼いたちだったでしょう。人類の救い主、イスラエルの王、預言されていたメシアの到来が家畜小屋での出来事であり、かつ羊飼いが招待されるというのは、何ともみすぼらしく粗末な誕生パーティーです。その後に現れるであろう東方の占星術師たちも異邦人ですし、全てにおいて不釣り合いなキャスティングです。しかし、このことは救いの範囲の大きさを表しています。つまり、神が与えたもう救いは、国籍や民族性を問わず、男子も女子も、あるいは地位の高さも低さも関係なく、頭がいいか悪いかも関係ない!ただ信じる者たちに与えられる恵みの賜物であるということを表しているのです。クリスチャンのイメージと言えば「清く正しく美しく」で、肩肘張って立派にふるまわなければならないと勘違いされがちです。よく言えば立派な人々、悪く言えば偽善的なインテリのイメージです。でも、それって、聖書の律法学者パリサイ人の姿ではありませんでしたか。本当は、クリスチャンとは恵みによって神に愛された者たちであり、自分の罪と弱さを自覚する者たちなのです。だから、救いは一般ピープルに与えられるものであり、神の愛は普通の人たちに向けられているのです。そこにえこひいきなどあるはずがありません。神は全ての者の神であり、救いは全人類に向けて送られる神からのプレゼントです。ただ信じるだけで与えられる神からのギフトなのです。「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」。救い主を信じて心にお迎えしましょう。



No.06『喜びの知らせ』
◇ルカの福音書2章10〜12節
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」


 天使が伝えるはじめてのクリスマスメッセージは「喜びの知らせ」でした。その知らせを聞けば喜びがあるふれるのです。現にこの知らせを聞き、キリストの誕生を目撃した羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら帰っていきました(20節)。この知らせが、まず羊飼いたちに伝えられたということが重要です。当時の宗教家たちからは職業差別を受け、地の民(アム・ハー・アーレツ)と言われていた、社会の底辺にいる人たちの代表とも言うべき存在、それが羊飼いです。天使は、その羊飼いたちに対して「あなたがたのために」と言ったのです。ここに喜びの知らせがあります。「キリストは何のとりえもない、尊敬されるところもない、いや醜い罪を抱えた私、この私のために来てくださったんだ!」そう信じることができた人は幸いです。その人の心に喜びが沸き起こるのです。何かと誇りとするところがあり、頼るものがあり、自分はまんざらでもないと思っている、中流意識を持つ日本人にはなかなかこの喜びは沸き起こりません。けれども、自分の心の惨状を、その弱さを、様々な試練・病や挫折を通して知ることができた人は何と幸いでしょう。その人は、キリストが自分のために来てくださったこの喜びを知ることができるからです。そう、キリストは「あなたがたのために」来てくださったのです。



No.07『両親に仕え、神と人とに愛されるイエス』
◇ルカの福音書2章51〜52節
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。


 30歳を超え、公に活動を始められたイエス様のお姿は実に凛々しく、頼もしいものでした。時には、祭司長やパリサイ人・律法学者への痛烈な批判を浴びせかけ、真理を曲げずにまっすぐに語る姿を見せました。それは、まさに預言者としての姿でした。そして、病める者や、社会からつまはじきにされている者たちの友となり、神の国の福音を彼らに説き明かされたのです。そんなイエス様ですから、小さい頃からさぞかし勇猛果敢でやんちゃな男の子だったのではないかと想像するところですが、実際には全く違いました。イエス様は両親にへりくだって仕え、神と人とに愛される人だったのです。そこには普通の日常生活があり、地道な努力と精一杯働いた日々があったのです。メシアとしての特殊訓練や預言者としての専門教育などはありませんでした。父ヨセフが大工であったため、恐らくイエス様は大工仕事を手伝いそれを学んだのだと思います。そして長男として兄弟の世話をし、父亡き後には母の面倒も見ていたのでしょう。そんな平凡な日常を送っていた彼に、突然、非日常が現れ、3年という短いメシアとしての活動が始まるのです。そんなイエス様を私たちは最大のモデルとしているわけですから、平凡な日常をクリスチャンは否定してはなりません。やたらめったら霊的になることばかり追い求めて、平凡な日常に満足できないクリスチャンがいますが、そういう人はイエス様の心がわかっていません。非日常は突然、神の主権的な選びによって現れるものであって、私たちの願望と努力で成り立つようなものではないのです。少年イエスにならい、何の変哲もない日常を喜び、そこにある神の恵みを感謝していきましょう。しかし、神が特別な働きに招かれる時がやってきたら、神からの使命と信じて、ドーンと行きましょう! 



No.08『神の霊が下るとは』
◇ルカの福音書3章22節
聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」


 聖霊は神の霊であり、「聖霊が下る」という言葉を聞くとクリスチャンの世界ではパワーを連想させます。そういう意味で、「聖霊を下したまえ」と絶叫して祈る人がいるし、私も絶叫したことがあります(笑)。しかし、ここでは聖霊は「鳩のような形をして」下ってこられました。イエス様の肩にでも乗ったのでしょうか。そして、その後に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という天の声が聞こえてくるのです。使徒の働きの2章において聖霊が弟子たちの上に下るという出来事があります。その時は、私たちが連想するパワーが表されました。イエス様も「あなたがたは力を受けます」と約束されていたわけですからそれでいいのですけど、同時にもう一つの意味を読み取ることができます。すなわち、弟子たちもイエス様同様、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と神に宣言されたということです。そして、私たちもそのように宣言されているということです。神の霊が下るという経験を通して、私たちは生きる力を受けると同時に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という神の声を聞くのです。私たちの存在価値と人生の意味はどこにあるのか?そう。父なる神が今日も承認して下さるのです。



No.09 『でもおことばどおり』
◇ルカの福音書5章4〜6節
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。


 ペテロ(シモン)は漁師でした。すなわちプロフェッショナルです。イエス様は大工でした。すなわちプロフェッショナルです。でも、専門が違います。そこで、漁に関してはアマチュアのイエス様がプロのペテロに指図します。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と。プロが夜通しやっても何一つ取れなかったのに、アマチュアが偉そうに指図するなんて、腹の立つ話です。「誰よりも漁を理解しているプロの私が駄目だと言ったら駄目に決まってます。ぽっと出のあなたに何がわかる!」と言いたくなるところでしたが、ペテロはそうしませんでした。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言って、イエス様の指示に従ってみせたのです。結果として、網が破れるほどの大漁でした。ここにペテロのイエス様に対する尊敬と信頼が明らかにされています。イエス様の言葉を聞いていたペテロの心には、すでにイエス様に対する信仰とイエス様に従う準備が整っていたのです。さあ、みなさんはいかがでしょうか?主の指示に従う準備はできているでしょうか。「今までどんなにがんばって、どんなに祈っても何も変わらなかったのだから、これからも変わるはずがない」と、どこかあきらめていないでしょうか。確かに、人間のすることは、どうがんばっても、そう変わり映えするものではありません。変わったと思っているのは本人だけで、自分をよく知る人からしたら相変わらずなんだと思います。しかし、神が語られた時はどうでしょうか。神の口から発せられた言葉は明確に変化をもたらし、時代を動かすのです。なぜなら、その言葉を実現するのは神だからです。さあ、変わったような気になって調子こいてる自分のことは神に委ねて、本当の意味で時代を変化させ、私たちの人生を最善へと導いて下さる神の言葉に、もう一度尊敬と信頼を持って耳を傾けようではありませんか。神は今日も語っておられます。「深みへ漕ぎ出せ!」と。



No.10『こわがらなくてもよい』
◇ルカの福音書5章8〜10節
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」


 大漁の奇跡の後に、ペテロやヤコブとヨハネはイエス様に対して恐れを抱きました。奇跡を行うこのお方の前に、自らの罪深さを自覚して、自分などこのようなお方に近づく資格はないと思ったことでしょう。彼らはイエス様の背後に神の力と聖さを見たのです。このような、人間を超えた何かを恐れる思いのことを畏怖の念と言いますが、こういう思いを持つことは大切です。全てのことが、自分や周りの人間の意図によってのみ動いていると考えることは、とてつもない傲慢さを生み、同時に人にへつらう生き方をしてしまうことになります。目に見えない何かを感じながら生きることは、私たちを閉塞感から解放させます。しかし、その畏怖の念が、ペテロたちのように神から遠ざかるものになってはなりません。イエス様はむしろこうおっしゃいました。「こわがらなくてもよい」と。畏怖の念を感じた時、自分の過去を振り返ってその罪深さと愚かさの故に退いてしまうのが人間です。しかし、そういった畏怖の念を持った者をこそ主は招かれるのです。「こわがらなくてもよい」と。そして、招かれて後、イエス様がおっしゃった言葉に注目してください。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」。将来ペテロは初代教会の指導者となり、伝道者としてその生涯を全うします。神の恵みと憐れみは、単にその人の罪を赦して祝福に浸すだけではなく、その祝福を流す者となるように使命をも与えるのです。私たちがイエス・キリストを信じて救いを経験したのもそのためです。この世に生を受け、神の子とされたあなたの使命は何ですか?その主の招きに応答していきましょう。
 


No.11『退くことの大切さ』
◇ルカの福音書5章16節
しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた


 病人を癒し、悪霊を追い出し、人々に神の国を伝えるのに忙しくしておられたイエス様。人々の期待を背に、疲れてしまうもあったことでしょう。イエス様を妬み、陥れようとする者たちもいただけに、気を抜くこともできなかったと思います。大勢の人々に囲まれながら、誰にも理解されない孤独感というものをイエス様はお持ちであったはずです。みなさんはいかがでしょうか。様々な責任を負いながら、いろんな人と関わりながら、それでも寂しさを覚えたことはないでしょうか。その孤独感はイエス様も味わわれたものです。このような孤独感を覚える時、私たち凡人は何かで発散して紛らわそうとします。趣味やスポーツ、ゲームや映画など、それもいいかもしれません。しかし、イエス様はどうなさったか。「よく荒野に退いて祈っておられた」のです。ここで単に祈っておられたのではなく、荒野に退いて祈られたところがミソです。つまり、イエス様は常に非日常を感じる瞬間を持っておられたのです。それも「よく」退いておられたのです。これは決して逃避ばかりしていたわけではありません。もし退いてばかりおられたとしたら、それはもはや非日常ではなく日常になってしまいます。むしろ、イエス様は人々と関わることのほうが圧倒的に多かったのです。そのただ中で頻繁に退いておられたのです。つまり、日常と非日常を交互に繰り返しながら生きておられたということです。とても忙しくしているのに、何かからまわりしているような気がしたら、一度退いてみてはいかがでしょうか。一人になる時を持ちましょう。それは神と出会う時であるとともに、自分と出会う時です。その出会いが、他者との出会いを変化させていくはずです。



No.12『大切な決定をする前に』
◇ルカの福音書6章12節
このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。


 イエス様は12弟子を選び、彼らを使徒として任命する前に、山へ行かれました。つまり一人になられたのです。大切な決定をする前に、一人になることは大切です。人は大切な決定をする前に、不安になって、人からの意見を仰ぎ、自分を安心させようとするものです。しかし、大概が、人の意見に振り回されて、決定に迷ってしまいます。人の意見を聞くのも大切ですが、やはり自分の人生のことは自分で決定し、自分で応答して、自分で責任を取らなければなりません。それゆえ、最後は、自分らしい決断というものをしたほうがいいのだと思います。しかし、自分らしさを司るのは神です。何故なら、私たちを創造されたのは神であり、神こそが私たちの最善を御存じだからです。イエス様もそのことをよく御存じでした。だからこそ、イエス様は山に行き、一人になられたのです。そして、神に祈りながら夜を明かされたのです。一人、神に祈りながら、弟子の選定を考えたのでしょう。大切な決定をする前に、一人になって、祈りながら考え、決定するよう心がけましょう。気分に流されてはなりません。自分の考えを過信してもいけません。ニュートラルになって、自分の考えさえも相対化させて、しかし、最後には自分らしい決定を見つけ出し、腹をくくって踏み出す。これこそが、神を信じる者の歩みだと思います。神は、御心のままに思いを起こし、且つ実現に至らせるお方なのですから。



No.13『幸いな者』
◇ルカの福音書6章20〜21節
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。


 貧しさ、飢え、涙、どれもこれも肯定しがたい言葉であり、できれば経験したくない出来事です。それ自体が幸いなどとは到底考えられません。ですから、この言葉を、全ての貧しさと飢えを経験している人に当てはめるのは危険な解釈であり、イエス様の言葉の真意を捕え損ねるように思います。貧しさや飢えを経験している人たちにとってみれば、「何が幸いなんだ」と言いたくなるでしょう。実は、この貧しく、飢え、涙を流す人たちとは、当時の「取税人、罪人たち」と呼ばれる人たちをさしています。イエス様の周りに来て、イエス様から神の国のことを聞き、イエス様を信じて人生を変えられた人たちです。彼らは、当時のパリサイ人律法学者からすれば、神から見放された人たちでした。神の祝福から遠い人たちとみなされていたのです。ところが、イエス様はその逆を言われたのです。社会から、神に見放されているとレッテルを貼られた彼らこそ、実は幸いな人たちであり、神の国は彼らのものだ!と、イエス様はおっしゃったのです。さあ、私たちも、失意の内にある時、まるで神に見放された者のようになる時があるでしょう。飢餓状態になることはなくても、心が虚しさにおそわれ、自分などいてもいなくてもいいのではないかと思ったり、あるいは、人に傷つけられることを恐れて引っ込み思案になったり。けれども、そういう時こそ、私たちは神様を必要とし、神を求めるのだと思います。そうであるなら、私たちは幸いです。神の国は私たちのものであり、いまに笑うようになるのです。格闘しているあなた!大丈夫。あなたは幸いな者です。
 


No.14『愛敵というミッション』
◇ルカの福音書6章35節
ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。


 敵をも愛せよという、イエス様の命令は、とても有名ですね。これは明らかに、好き嫌いの愛ではなく、意志の愛です。嫌いだけど、腹がたつけど、赦せないけど、復讐せずに善を行うという、意志決定の愛、それをイエス様は弟子たちに教えられました。ですから、イエス様がおっしゃる愛は、感情というよりは、意志による行動です。実を言うと、パウロが愛の讃歌(コリント人への手紙第一 13章)で語っている愛も、意志による行動であることは明らかです。つまり、好きになれとは言っていない。しかし、敵に対しても寛容さ、親切さを現わすようにと、パウロは勧めているのです。同様に、イエス様も、感情ではなく意志による行動を勧めています。そこには根拠があります。それは、私たちの信じる天の父なる神様が、「恩知らずの悪人にも、あわれみ深いから」です。すなわち、私たちが天の父なる神の子供なので、天の父に見習いなさいということです。神の子としてふさわしく歩みなさいということです。これらはとても厳しい命令でありながら、私たちの目を覚まさせてくれます。私たちは、「いと高き方」、天の父なる神の子供なのです。そのような自覚と自尊心があるでしょうか。イエス・キリストの十字架によって、それを信じる私たちが罪赦され神の子供となったということは、私たちが実に重要な存在となったということです。神に愛され、神に喜ばれ、神に期待されている存在です。そのような自覚と自尊心を持って生きるなら、この愛敵の命令が、一つのミッションであることが理解できるでしょう。そして、悪人にさえあわれみ深いとするなら、私たち神の子たちに対する恵みとあわれみは、もっと深いに違いありません。信じて、このミッションを遂行していきましょう。



No.15『へりくだりと信仰』
◇ルカの福音書7章9節
これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」


 「このようなりっぱな信仰」と言って、イエス様が褒めておられます。いったい褒められているのはだれでしょうか?それは、ローマの兵隊たちのリーダーである百人隊長です。ローマ兵であるということは異邦人です。だから、イエス様は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」とおっしゃったのです。神に選ばれたイスラエルの民の中にも見出すことのできないという、優れた信仰とは、いったいどのようなものだったのでしょう。その信仰の特徴はへりくだりです。百人隊長は、イエス様のことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、病気のしもべを助けに来てくださるようお願いしました。その時に、長老たちがイエス様に向かって言った言葉はこうです。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」この「資格のある人です」という言葉に注目してください。神にしもべをいやしていただく資格があるという理由は何かと言うと、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人のために会堂を建ててくれたということです。これがユダヤ人の長老たちの理解でした。ところが、百人隊長はどのように自分を理解していたでしょうか。百人隊長の家から遠くないところまでイエス様が来られた時、百人隊長は友人を遣わして、こう伝えます。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」。異邦人である自分のところまで来ることも、また自分自身がユダヤ人であるイエス様にお会いするのも、全て、失礼なことと彼は理解し、「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と告白しています。受ける資格のない者に与えられる神の愛と恵みを彼はよく理解していたのでしょう。彼はお言葉だけいただければいいと、イエス様に伝えます。受ける資格がないという自覚、すなわちへりくだりと、神の憐れみや御言葉に対する信頼、これこそが、イエス様のおっしゃった「りっぱな信仰」です。私たちの内にもそのような信仰が与えられますように。



No.16『自らを罪とし神を義とする』
◇ルカの福音書7章29〜30節
ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。


 これはイエス様が群衆にバプテスマのヨハネについてコメントしている箇所です。バプテスマのヨハネはユダヤの民に悔い改めを説き、そのしるしとしての洗礼を人々に授けました。悔い改めとは、原語のギリシャ語のメタノイアの原意では、「後から考えを変える、思い直す」という意味になります。悪行を重ねてきた取税人たちでさえ、ヨハネの教えを聞いて考えを変えたのです。どのように変えたのでしょう?それは、「神の正しいことを認めた」のです。別訳では「神を正しいとした」とあります。すなわち、自分を罪ある者と認め、神が正しいと認めて、彼らは洗礼を受けたのです。パリサイ人や律法学者はどうだったのでしょう。イエス様は「これに反して」とおっしゃいます。つまり、パリサイ人律法学者は、自分には罪はない、自分は正しいと言い張って、自らの非を認めず、ヨハネやイエス様を通して語られる神の国のメッセージに耳を傾けなかったのです。これは明らかに神を正しいと認めなかったということです。イエス様が認める信仰とは、自分を正しいとする信仰ではありません。むしろ逆で、自分の罪を認め、神を正しいとする信仰です。神の恵みはそのような信仰を持つ人に注がれるのです。自らを罪とし神を義とする、そのようなへりくだった者に神は恵みを注ぎ、御自身の義を与えてくださるのです。自分を正当化するための信仰なら、やめたほうがいいです。何故なら、それはパリサイ派の信仰であり、神を礼拝しているのではなく、実は、自分をあがめているだけだからです。そのような人は必ず神に裁かれます。もう一度、自分自身の信仰を点検して、神の恵みにのみより頼んで行きましょう。 



No.17『多くの罪を赦された者として』
◇ルカの福音書7章47〜50節
だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」


 ここに出てくる女性を、聖書は罪深い女、あるいは不道徳な女性と表現しています(37節)。パリサイ派は彼女を蔑視していました。神に見放された者、神の国から除外された者、神に忌み嫌われた者として、彼女はレッテルを貼られていたのです。しかし、イエス様の前で涙を流しながら、イエス様の足に口づけし香油を塗った彼女の姿からは、自らの罪を認めて憂う心の態度が見てとれます。彼女も、自らを罪とし神を義とする者でした。そして、神の恵みと憐れみとをのみ乞うたのです。イエス様は彼女の信仰を受け入れ、彼女の神に対する愛を高く評価されます。そして、最後には、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言って励まされます。自らの罪を自覚している人、自分の弱さを実感している人、そして神の恵みと憐れみをのみ頼らざるを得ない人、その人こそ最も幸いな人です。神の恵みはそういう人に注がれるからです。そういうわけですから、みなさん。あるがままの自分で行きましょう。神は、あるがままのあなたをすっぽり包んで、あなたの人生を引き受けてくださいます。たとえ、現状は何も変わらなくても、神に全てを委ねて生きるなら、見える景色が変わってきます。その景色は、みな神の手の中にある景色であり、その景色の中で、神はあなたを愛し、あなたを喜び、あなたに使命を与えて用いられるのです。自信を失っていませんか?大丈夫。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」。



No.18『よく耐えて、実を結ばせる人』
◇ルカの福音書8章15節
◆しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。


 イエス様が話された、種まきのたとえ話のルカ版です。その中の良い地に関するところですが、この良い地とは具体的に誰をさしているかというと、イエス様を信じて従った人たちのことです。その中には、取税人、罪人たち、遊女がいました。当然、弟子たちもいました。イスカリオテのユダを除いて、彼らは百倍の実を結ぶ人たちです。さて、彼らの特徴は何でしょうか。それは、良い心でみことばを聞き、それをしっかりと守り、よく耐えるところです。そのようにして、実を結ばせたのです。実(み)は種が発芽して成長し、大きくなってから実らせるもので、種そのものの力によるのです。ですから、種が発芽して成長し実を結ぶというメカニズムをいじることは誰にもできません。できることは、ただ、忍耐することです。同様に、私たちが実を結ぶために必要なのは、み言葉を聞く姿勢と、み言葉をしっかりと守って耐えることです。「神を信じて何になるのか?」という問いは、人類の歴史上、教会の内外に生まれては消えました。その問いが生まれる最大の原因は、人間の見通しが近視眼であるからです。しかし、長いスパンでみことばを守り耐えた人にしか見えない世界があるのです。神の約束をしっかりと握って、とりあえず進んで行きましょう。一歩ずつ。そこに実が生るのです。



No.19『神の子としての尊厳を信じて生きる』
◇ルカの福音書8章19〜21節
◆イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。それでイエスに、「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています。」という知らせがあった。ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」


 並行記事のマルコ3章31節前後を見ると、律法学者たちは、イエス様が悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると批判しています。その最大の理由は、イエス様が取税人、罪人たち、遊女、という人たちを受け入れ、彼らと食事をし、彼らの罪は赦されたと宣言していたからです。「神は、罪人が抹殺されるのを喜ばれる」と考えていた律法学者たちからすれば、イエス様は罪人の頭であり、イエス様の奇跡は悪魔の力によるものだったのです。「罪人を受け入れる者は神に遣わされたはずがない」、これが律法学者の論法でした。そのような世論に囲まれて、母マリヤやイエス様の兄弟たちは肩身の狭い思いをしていたに違いありません。ですから、ここでの面会は、イエス様をなだめるためだったのでしょう。ところが、イエス様ははっきりと宣言されます。「神のことばを聞いて行なう人」こそが私の家族だと。これは、決して宗教団体に加盟して親を捨てろと言っているのではありません。ここで言う「神のことばを聞いて行なう」とは、独善的な牧師に盲従すること、あるいは反社会的になって家族をないがしろにすることでもありません。そういうことはカルト宗教が聖書を引用して信徒を従わせる手法です。イエス様はもとからそんなことは言っていない!イエス様が言う「神のことばを聞いて行なう人」とは、文脈から言って、イエス様の教えを聞いて、神に立ち返った取税人、罪人たちのことです。罪人のレッテルを貼られ、人間としての尊厳を奪われ、神に見捨てられた者とみなされた彼らは、イエス様と出会って神の愛に触れられます。自分には神に愛される資格はないと認め、ただ、神の恵みと憐れみにのみ頼る人を神は愛される!というメッセージこそ、イエス様の教えだったのです。このメッセージに出会い、罪人たちはキリストを信じました。イエス様に出会った人々は人間としての尊厳を回復したのです。しかし、律法学者はその尊厳をもう一度引きずり降ろそうとしました。実は、マリヤやイエス様の兄弟たちも、この時点では律法学者寄りだったのです。だからこそ、イエス様はここで強い口調でおっしゃっているのです。「神のことばを聞いて行なう人たち」こそ私の家族だ!と。人間の尊厳を奪い取ろうとする者と、それに組みする者に立ち向かわれたイエス様!この方こそキリスト!彼について行って間違いはない!



No.20『神への信頼と期待』
◇ルカの福音書8章48節
◆そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」


 長血を患う女がイエス様の衣に触れて癒された時に、イエス様がおっしゃった言葉です。長血は女性の病気で、現代では治療可能な病だと言われますが、当時はそうではありませんでした。その病が、一瞬にして癒されたのです。この女はイエス様の着物のふさを触っただけでした。当然、普通の人なら気付かないところを、イエス様は御自分から力が出ていくのを感じられて、この女性の存在に気付きます。震えながら進み出たこの女性に対して、イエス様は実に慰めに満ちた言葉をかけられます。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」。それまで、汚れた女、罪人としてレッテルを貼られ、病の故に疎外されていたこの女性が、その信仰を認められ、人間としての尊厳を回復した瞬間です。この癒しの奇跡は、単なる治療にとどまらず、この女性が神に受け入れられ救われたことを現わすものでした。神様は、御自身に対する信頼と期待を喜ばれます。そして、その信頼と期待を裏切りません。当然、私たちの願いどおりにはならないこともあります。しかし、この女性のように、「御衣にでもさわることができれば」と信頼と期待をよせる者の心を喜び、その信仰を認めてくださるのです。みなさんは、何かを神に期待しておられますか? 神様の恵みと憐れみに信頼していますか? 物事が思い通りに進まなくて、がっかりしてはいませんか? 理想通りに生きれなくて、神に対する信頼と期待が色あせてしまってはいませんか? この長血を患う女性は12年間もの間、この病に苦しめられたのです。にもかかわらず、彼女の心はなえていませんでした。社会に罪人のレッテルを貼られても、「神などどこにいるのだ!私の人生を返せ」とは言いませんでした。彼女は信頼し続け、期待し続けたのです。同様のことが私たちにも言えます。自分を憐れんで生きるのも一つの選択肢です。しかし、どんな向かい風がやってこようとも、信頼と期待を失わずに行動し続けることができたら、その信仰は素晴らしい! 「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と主イエス様に言っていただけるのでしょう。
 


No.21『わたしについて来たいと思うなら』
◇ルカの福音書9章23〜26節
◆イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。


 とても根源的な問いですが、イエス様について行きたいと思いますか?神様に従って行きたいと思いますか?「そう思うなら・・・」というイエス様の問いです。他にやりたいことがあるならば、無理をなさらないように。でも、主に従いたいと思うなら、自分のいのちを主に任せましょう。結果的には、そのいのちを救うことになるんですけどね。逆に、自らのいのちに固執し、それを守ろうと必死になる者が滅びに至るそうです。これは、私たちが実は神に生かされているということを現わしているのです。自分で生きていると錯覚して傲慢になるよりは、神に生かされていると信じてへりくだるほうが、すがすがしい生き方ができるのではないでしょうか。今日も私たちは主に生かされています。だから、主についていきましょう。自分のいのちをお任せして・・・
 


No.22『神に知られていることの喜び』
◇ルカの福音書10章18〜20節
◆イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」


 イエス様が弟子たちに与えた霊的な権威にはすごい力がありました。悪霊に憑依された人たちを解放するパワーが彼らに与えられたのです。それゆえ、イエス様の弟子たちにとって、悪霊追い出しは大切な奉仕であり、神から与えられた使命でした。それゆえ、悪霊が言うことを聞き、人々から出て行ったのを見て、弟子たちは喜んだことでしょう。当然のことです。誰でも、成果が上がれば喜ぶのは当然ですし、誇らしいものです。ところが、その奉仕の成果や働きを喜ぶあまり、成果や働き自体が目的化してしまうと、とんでもない過ちに陥ってしまいます。成果が上がればそれが心の拠り所となり、成果が出なければ自己価値が失われ、神の約束に対する信頼も失せてしまうからです。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」。これがイエス様の命令です。成果主義に陥って、自己価値が失われていく現代、イエス様の言葉は私たちの魂に力を与えます。「私は神に知られている」という確信が、何の変哲もない日々を豊かなものにしてくれるのです。使徒パウロもこんなことを言っています。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです(Tコリント8:2〜3)。成果を愛するがゆえの奉仕ではなく、神を愛するがゆえの奉仕は神に知られているのです。信仰は、意味のない人生の中に意味を想像する力があるのです。



No.23『最も大切な一つのこと』
◇ルカの福音書10章38〜42節
◆さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


 もてなしはとても大切なことだと思うのですが(^_^;)。いや、イエス様は、マルタのもてなしを否定されたのではないでしょう。彼女が、気が落ち着かなかったことと、マリヤの行動に文句をつけたことが問題だったのです。物事には優先順位というのがあります。私たちにとって、どうしても必要な一つのこととは、イエス様の言葉に耳を傾けることなのです。マルタは、苛立ってまでもてなしをする必要はなかったのかもしれません。主の御言葉に耳を傾けることは、何かの奉仕をやり遂げたり、事業を成功させたりすることよりも大切なことだと、イエス様はおっしゃるのです。あらゆる営みの中で、最も優先すべきこと、それが主のみ言葉に耳を傾けることだということです。他を否定しているわけではありません。むしろ、他の全ての営みが円滑に進むためにも、主のみ言葉を優先させることは大切なのです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ6:33)」とイエス様がおっしゃった通り、第一とすべきものを第一とするならば、必要は満たされ、働きは祝され、奉仕は全うされるのです。何かが空回りしているように感じたら、優先順位をもう一度チェックしてみましょう。その中で最も大切な一つこととは、み言葉に聞くことです。



No.24『聖霊の導き』
◇ルカの福音書11章13節
◆してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。


 天の父なる神様は、良いものを下さいます。その良いものの中で、最良のものとは聖霊です。しかし、聖霊はただの物ではなく、生きた神の霊であり人格をお持ちのお方です(神格と言ったほうが本当はいいのかもしれません)。そして、聖霊は、生きて働き、私たちを導いてくださいます。そのようなお方がすでにあなたの心の中に住み、またあなたを取り囲んでおられるということにお気づきですか?あなたが、神を信じ、イエス様の十字架と復活を信じて救われるように導いてくださったのも聖霊でした。そして、信仰生活を支えてくれているのも聖霊です。もし聖霊の導きと支えがなかったら、今ごろあなたは背教していたでしょう。このお方の支えがなければ、これまでやってこれなかったはずです。そんなわけで、まずは「聖霊が私の内におられる」ということに気付くことが、聖霊に導かれるための第一歩です。そして、聖霊に導かれて歩むことが大切です。具体的には、教会を愛し、私たちがお互いを大切にすることです。パウロもこんなことを言っています。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」(ガラテヤ5:25〜26)。聖霊に導かれる人生とは、単なる神秘主義でもなければ、感情を高揚させるムーブメントでもありません。聖霊に導かれるとは、お互いを大切にするという関係性の中に現れてくるものなのです。聖霊は、互いに愛し合う共同体を目指して働かれます。遠くの誰かに憧れるよりは、近くのその人を大切にしたほうが、はるかに聖霊に導かれていると言えます。聖霊は私たちの日常に働かれます。内なる聖霊の導きに信頼して進んで行きましょう。



No.25『何を恐れて生きるか』
◇ルカの福音書12章4〜5節
◆そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。


 恐れには大きく分けて二つの種類があるかなと思います。一つは恐怖。怖くて近づけないというやつですね。ただ怖いだけで、そこには相手に対する信頼などは皆無です。二つ目は畏怖の念というやつです。これは、相手に対する尊敬と信頼が含まれているように思います。今日の聖書箇所で、イエス様がおっしゃる恐れとは後者の方でしょう。イエス様が弟子たちを「わたしの友であるあなたがた」と呼んだことには、深い意味があり、弟子たちが神の国に属していることを現わしています。また、イエス様は弟子たちに向かって、神のことを「あなたがたの父」と表現されたことを考えると、イエス様が「天の父なる神に対して恐怖を抱きなさい」と教えたとは考えられません。15章では放蕩息子のたとえ話も出てくるわけですし、やはり、天の父は気前の良い、愛のお方です。ですので、ここでイエス様がおっしゃる恐れとは、尊敬と信頼の心から来る畏怖の念です。イエス様はここで、人よりも神を恐れよと勧めています。あてにならない世間様よりも、真に尊敬と信頼に値する方は神だと言うのです。私には、尊敬する人たちがいますし、信頼している人がいます。あるいは、本を読んでいてその著者と著者が記す言葉に共感し信頼することもあります。また、テレビを見ていて、好感が持てるコメントをした芸能人に対して尊敬することもあるでしょう。しかし、どれを取ってみても、全面的に信頼していい存在ではないことを私は知っています。何故なら、人間は罪人であり、「悪い者」だからです。だからといって、刹那的になれと言いたいのではありません。むしろ、人間の限界をしっかりと見据えて、全能なる神に尊敬と信頼を寄せて生きることこそが、世間様に振り回されず自分らしく生きる術であり、そのような自律が、他者をも生かすようになるのではないかと思うのです。さあ、全ての恐れ、心配ごとを脇に置いて、それらを支配する神に信頼して進んで行きましょう。



No.26 『神の前に富む』
◇ルカの福音書12章13〜21節
◆群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」


 あなたの命はあなたの財産にあるのではない! イエス様は、自分のためにたくわえること自体を否定したのではありません。ただし、人生、たくわえて、それで安心というわけではない。神の前に富む必要がある。では、神の前に富む生き方とはどんな生き方なのか。この話の前後の文脈から推察するに、それは神をおそれ、神に信頼してい生きることだと思います。世間様でもない。あるいは経済でもない。神をおそれ、神に信頼して生きる、それこそ神の前に富むことであり、そういう人を神は守られるのです。



No.27『祈るべきです』
◇ルカの福音書18章1節
◆いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。


 イエス様が話されたたとえとは、やもめと裁判官のたとえです。やもめの執拗な訴えに、不正な裁判官でさえ、その訴えを取り上げてくれるはずだ。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」とイエス様は言われました。不正な裁判官でさえやもめの訴えを聞くのです。ましてや、私たちを愛し私たちを喜んで下さっている天の父が、私たちの祈りを放っておくはずがありません。祈るべきです!失望してはなりません!そのことをイエス様は教えてくださいました。夜昼訴えようではありませんか。本音で、飾らず、本心を訴えるのです。神は必ず何らかの形で祈りに応えてくださいます。夜昼訴えるあなたを放置することはありません。今、もしあなたがつらい経験をしているなら、神はその経験を通して祈るように呼びかけておられます。もし、あなたが苦しみを経験し、それを耐え忍んでいるなら、その苦しみと忍耐を通してあなたが神に祈るようになることを、神は待っておられます。神が欲しておられるのは、あなた自身であり、あなたとの交わりなのです。同様に、私たちも、神ご自身を欲し、その交わりを楽しむようになることが求められているのです。願いが叶えられることは二次的なこと、副次的なことであって、最も大切なのは神との交わりです。さあ、全ての祈りと願いを用いて神との交わりを楽しみましょう(エペソ6:18)。



No.28『何をしてほしいのか?』
◇ルカの福音書18章41〜43節
◆彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。


 これは物乞いをする盲人が癒される記事です。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と、わめきたてる盲人にイエス様が話しかけるシーンです。ここで、不思議に思うのはイエス様の質問です。「わたしに何をしてほしいのか」!? 見たらわかるやろ〜!!と突っ込みを入れたくなるところです。盲人があわれんで下さいと言ってるんだから、たずねるまでもないはずです。ところが、ここであえて質問をするイエス様の言葉に、何か意図があるように思えてなりません。自らの告白として、信仰を現わす必要がこの男性には必要だったのです。そして、この信仰の告白が、彼を直すことになるのです。これは型です。私たちの魂の救いも、信仰の告白を通して与えられました。人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。この癒しの記事は、究極的な救いのモデルなのです。私たちの信仰生活においても同様のことが言えます。「わたしに何をしてほしいのか」と主はあえて問われるのです。その答えに理屈をつけて、躊躇している間は、まだ全幅の信頼を寄せていることにはなりません。この盲人のように、わき目も振らず、恥も外聞も捨てて、主の前に祈る時、主は宣言してくださるのです。「あなたの信仰があなたを直したのです」と。何をしてほしいのか?この問いに応答していきましょう。



No.29『失われた人を捜して救うために』
◇ルカの福音書19章9〜10節
◆イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 この言葉は、取税人のかしらであるザアカイが喜んでイエス様をお迎えした時に、イエス様が言われた言葉です。罪人のレッテルを貼られたザアカイと食事をするイエス様に対して、人々は批判的な目を向けました。でも、イエス様はそんなザアカイをあるがまま受け入れて、彼とともに時を過ごすことを喜ばれたのです。神様は失われた者を捜して救うために、今も働いておられます。私たちの周りにいる失われた人を捜して救うために主は働いておられます。そして、そのために私たちを用いようとされている。しかし、何よりも、失われた者である私たちを主が捜しておられることも忘れてはなりません。あなたの嘆きも、不安や恐れも、そしてその願いも、主は知っておられて、あなたがいつでも主のもとに行くことを、主は待っておられるのです。ザアカイは主を見ようと木に登りました。そして、イエス様はザアカイを見つけ出してくださったのです。同様に、あなたが主の導きを捜し求めるとき、主もあなたを見つけ出してくださり、神との出会いがそこに生まれるのです。主の導きを求めるとは、祈ることであり、試してみることであり、信仰の一歩を踏み出すことです。ザアカイのようなアクションを主に対して起こしてみませんか?主は必ず、あなたを見つけ出してくださいます。



No.30『生きている者の神』
◇ルカの福音書20章38節
◆神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」


 イエス様はレビラート婚の議論の後に、死者の復活のことを語られ、その流れで今日のみ言葉を話されました。「神は死んだ者の神ではありません」。これだけを読むと、死んだら神との関係もおしまいなのかと勘違いしてしまいそうですが、実はその逆です。聖書が語る死と生の概念が、物質主義にとらわれた現代人とは違うのです。聖書が言う死とは、神との関係が断たれた状態を指しています。神を恐れず、神を無視し、自分の力だけを信じるような状態、すなわち自己中心な生き方を聖書は死と呼ぶのです。ですから、生きているようで死んでいる!というのが人間の本来の姿なのです。さあ、生きているようで死んでいるような状態です。思い当たる節がありませんか。私にはあります。クリスチャンになる前は当然ですが、クリスチャンになったあとでも、そんな気分になることが多々あります。それは、恐らく、人間というものの性質が、絶えず神から離れて、自分の力で何とかやろう、神なしで済まそうとする傾向を持つからだと思います。この性質を聖書は罪と言います。聖書の言う罪は、犯罪である以前に、神に対する不信仰と不従順をさしているのです。この性質に翻弄されているうちは、まさに生きているようで死んだような状態なのです。だから、神の存在を意識しましょう。今共におられると心の中で想像しましょう。主は責めておられないと魂に言い聞かせましょう。そして、主の導きを求めて本心を吐露していきましょう。主は今日も私たちに問いかけておられるのです。「あなたは何をして欲しいのか」と。意外と自分が何を求めているのか自覚していないのが人間です。さあ、主の臨在の中に飛び込んで、主との生きた関係を構築し、本音で神にぶつかろうではありませんか。神はそれを待っておられるのです。



No.31『誰が一番かっこいいのか』
◇ルカの福音書22章24〜27節
◆また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。


 誰が一番偉いのか?この問いは男性特有のもののように思えます。女性の中でも、そういう争いは当然あるのでしょうけど、生存欲求が強くリアリストであると言われる女性の間では、地位や名誉の争いはあまり起こらないと聞きます。ところが、男性が集まるところではよく起こります。それも、実につまらないことで争います。その争いを女性たちが聞いたら、鼻で笑われそうな内容であっても、男はそのことで真剣に争います。そういう点では男は子供っぽいのかもしれません。男の私が言うのもなんですがね(^_^;)。しかし、その子供っぽさは、毎度のこととなると見苦しい!いい加減にせえ!と言いたくなる。黙っとけばいいのに、と思うことが多々ある。そして、私もそういう状態に陥ってしまうことがあります。しかし、自分がイエス・キリストの弟子だと思っている諸君!われわれはそうであってはならないとイエス様はおっしゃいます。偉い人ほど一番年の若い者のように、支配している人ほど仕える人のようになりなさいと。ふんずりかえっていてはいけません。そういう人はキリストのしもべとは言えないし、実はめっちゃかっこ悪い男です。可愛らしいではすまされません。人からの尊敬を受けたなら、自らを制して最も低い人に同調できるようにしましょう。治める権限が与えられたなら、自らを制して仕える人になりましょう。そうなさったイエス様が一番かっこいい!



No.32『恥ずかしくても大丈夫!』
◇ルカの福音書22章61〜62節
◆主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。


 一番弟子であったはずのペテロが3度イエス様を知らないと言って、主を否むシーン。細部に違いはあれど、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの全ての福音書が記録している場面です。福音書記者たちがみな記録しただけに、この出来事は初代教会において重要な意味を持っていたのだと思います。一番弟子が主を見捨てた!これほど情けない話はありません。そして、その失態に涙するペテロ。ペテロは、イエス様に向かって「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)とほざきました。ほざいた手前、がんばらねばと思ったのか、ペテロは捕えられたイエス様の近くまでついて行くわけです。しかし、結果として、主であるイエス様をはっきりと否むかたちになってしまいます。この場面は、どうしようもない人間の弱さと罪深さを現わしています。理想に生きようとするけど、我が身可愛さにくじけてしまう。頑張ればいのちさえも捨てられると考えたけど、現実の厳しさに心が折れてしまう。自らの決心と意志の強さを過信していたということが明らかになってしまう。本当に恥ずかしい場面です。そして、誰もがこの記事を読むたびに、ペテロと自分を重ね合わせてしまうのではないでしょうか。相当なうぬぼれ屋さんは別ですけどね。ちゃんと自分と向き合えている人は気付いているはずです。自分は本当に恥ずかしい人間だって。今日のこの記事はそういう人にとってグッド・ニュースです。主はその恥ずかしいペテロを、後に初代教会のリーダーとし、大きく用いられるのです。ここに神の恵みと憐れみがある!人が見捨てても、神は見捨てない!どんなに恥ずかしい経験をしたとしても、それを主は益と変えられる。だから、勇気を出して、恥ずかしい自分を隠さず明らかにしていきましょう。しかし、それは恥ずかしい自分を見て開き直ることとは別です。恥ずかしいことは恥ずかしいことです。その現実と向き合いながら、人が見捨ててしまうような恥ずかしい自分を、主が見捨てない!という主の証しを証言して行こうではありませんか。「大丈夫」!



No.33『十字架の赦し』
◇ルカの福音書23章34節 
◆そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 
これは十字架上での赦しの宣言です。人々から見捨てられた弱い者たちに救いをもたらし希望を与えたイエス様は、当時のユダヤの指導者たちに妬まれて殺されました。ところが、イエス様は御自分を辱め、殺そうとする者たちのために赦しの祈りをされたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と。私たち人間は、自分で何をしているのか、本当はちゃんとわかっていないのです。良かれと思ってしたことが人を傷つけ、正しいと思って卑劣な行動をとってしまい、うまくいったと勝手に思いながら実は大失敗をしていたりする。そんな自分と向き合うのがこわくて、人は現実から目をそむけます。「あるがままの私」という奴は、どうしようもない罪を抱えているのです。けれども、イエス様はそんな醜い私たちの現実と向き合ってくださり、私たちのために赦しを宣言してくださるのです。決して責めない。さばかない。見捨てない。とことんまで付き合ってくださり、泥沼から私たちを救い出そうとするお方なのです。どこまででもついてきて、罪人を救い出す!そういった実績がキリストにはあるのです。それが十字架であり、イエス様の赦しの祈りです。それゆえ、自らの罪を認め、そのための身代わりであった十字架の死を信じ、よみがえられたイエス・キリストを救い主として受け入れる人は救われます。お布施もいらない。宗教団体への加盟も必要ありません。ただ信じるだけでいいのです。え?信じるだけでいいの?何もしなくていいの?と問う人もいるでしょう。いいんです!そのための十字架です。しかし、その信仰が私たちの人生にとって大きな力となり、私たちを導いていくのです。



No.34『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます』
◇ルカの福音書23章39〜43節
◆十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


 イエス様の両側に十字架につけられた犯罪人とのやり取りです。自らの罪を認め、イエス様を救い主と信じた犯罪人に向かって、イエス様がおっしゃった言葉に注目!「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」驚くべき宣言です。その罪の償いにと死刑に処せられているわけですが、もはや彼には神の国に受け入れてもらう手立てはなかったはずです。謝罪して、善行を積み、実績や成果をあげることはできません。彼にはもう手遅れでした。なぜなら、彼はすでに十字架にはりつけにされていたからです。ところが、その彼が自らの罪を認めイエス様を信じただけで、彼は神の国に受け入れられたのです。これこそ、恵みの世界です。受ける資格のない者に与えられる神の愛です。この神の愛がある限り、どんな失敗があったとしても大丈夫!死の淵に立たされても、絶望することのない神の愛が私たちには注がれているのです。神の恵みにより頼む者は決して失望させられることはありません。主が必ず約束を果たされるからです。主の言葉に信頼しましょう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」という恵みの言葉を信じてイエス様により頼んで行きましょう。



No.35『イエス様のみことばを思い出す』
◇ルカの福音書24章7〜8節
◆人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。


 イエス様の体は墓にはありませんでした。そして、女たちは神の使いに出会い、イエス様の復活を告げられます。その時、彼女たちはイエス様のみ言葉を思い出したのです。何度も語られていた十字架の死と復活。何気なく聞いていて、弟子たちも額面通り受け取らなかったその言葉が真実であったことに彼女らは気付くのです。その後、この女たちは、弟子たちに一部始終を伝えるのですが、「使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」と11節にしるされています。たわごととは何だ!お前らの師匠が何度も言っていたことだろう!と言いたくなりますが、男というのはこんなものです。聞く耳がないというか、聞く余裕がないというか、勝手に都合のいいように人の言葉をすり替えて、都合の悪いことは切り捨てるのです。それが使徒たちの姿でした。しかし、彼らも復活の主と出会い、みことばを思い起こすことになります。この「みことばを思い出す」という経験は大切です。バラバラにあったいくつもの出来事が、一つにつながる瞬間であり、神のご計画・神の摂理というものを感じ取る瞬間です。ですから、すでに語られているみ言葉をもう一度思い出し、見返してみましょう。そこにすでにヒントがあるかもしれない。あるいは、思い出すためには、常に聞いていなければなりません。マリヤや女たちのようにイエス様の言葉に耳を傾けることが必要です。そして、そのみことばと私たちの経験が符号する瞬間を聖霊体験というのだと思います。



No.36『心はうちに燃えている』
◇ルカの福音書24章30〜32節
◆彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」


 クレオパともう一人の弟子が、エマオという村に向かっていました。その途中、二人は復活されたイエス様に出会います。その時、二人はその人がイエス様であるということに気付きませんでした。エマオに着くまで、イエス様はその二人の弟子に、メシアについて預言された旧約聖書のみ言葉を説き明かされます。そして、夕刻、共に食事をした時の出来事が今日の聖書箇所です。おもしろいことに、その人がイエス様だと気付いた瞬間、二人にはイエス様の姿が見えなりました。何故だかわかりませんが、はっきりと言えることは、信仰の世界というものは、目に見えないものを意識して生きることであることを教えてくれます。私たちは、イエス様をこの肉眼で見ていませんが信じています。この耳で神の声を聞いたわけではありませんが、神の愛を信じています。そして、手にしたことはないのですが、神の国とその祝福が注がれていることを信じています。そして、そこから与えられる恩恵ははかり知ることができません。喜びと感謝、そして、前に向かって進もうとする力が与えられるのです。二人の弟子がそうでした。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」。同様に、あなたの心もうちに燃えていたのではないですか?み言葉に触れ、賛美に触れ、祈りに触れ、礼拝に触れ、様々な出来事の中で、神の愛を見出した時、あなたの心はうちに燃えていたのではないでしょうか。安心してください。その炎は今も燃え続けています。人によってその燃え方は様々です。また、時期によっても燃え方が違います。熱心に信仰生活を送れる時もあれば、神様から心が遠ざかる時もあるでしょう。しかし、大丈夫です。その炎は消えることがありません。「私たちの心はうちに燃えていたではないか」というあの経験がある限り!


洛西キリスト教会

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