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ヨハネの福音書gospel of john

From the pastor's office <牧師室から>


No.01『キリストは創造主であり知恵の源です』
◇ヨハネの福音書1章1〜3節
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(※ロゴス讃歌と呼ばれる箇所です。)


「ことば」は原語のギリシャ語ではロゴスです。古代ギリシア哲学・スコラ哲学において、ロゴスとは世界を支配する宇宙理性と理解されていました。それゆえロゴスは1世紀を生きる人々には意味深な言葉だったのです。おそらく、ヨハネ福音書の著者が言いたかったことは、キリストこそ万物が造られる以前から存在する宇宙の創造者であり、世界を支配する知恵の源であるということでしょう。 キリストを信じることは神の創造の働きに参与することです。信じる人は生み出すようになるのです。また、キリストを信じることは神の知恵に預かることであり、神の計画に沿って生きることです。信じる人は神の知恵により導かれていくのです。私たちの努力や熱心さも大切なのですが、そこには常に限界があります。努力してきたことが、必ずしも報われるとは限らないし、決意したことが果たせなかったこともあるはずです。しかし、そこに神の知恵、神の計画があり、自分がそれに導かれているとすれば、こんなに安心なことはありません。強さも弱さも、成功も失敗も、全てが神の知恵と計画の中にあるなら、先行きが分からない人生においても勇気を持って進んで行くことができます。ですから、あなたの「信じます!」は重要な告白なんですよ(^_-)-☆



No.02『神の子としての特権』
◇ヨハネの福音書1章12〜13節
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。


 人間は本来、神の子として創造されました。しかし、堕落してその特権を失いました。この神の子とされる特権はイエス・キリストを通して完全に回復され、人々に分け与えられました。それは、イスラエル民族という血筋によってでも、熱心な奉仕や律法を遵守することによってでもなく、ただ神の一方的なあわれみによって与えられたのです。つまり、イエス・キリストを信じるだけで、無償で与えられるのです。「ただより怖いものはない」と言いますが、それは人間の売り買いの世界だけ。神様は私たち人間のような狭量なお方ではありません。神様の恵みは大きく、その愛は広いのです。その恵みの大きさと、愛の広さは、イエス様の十字架を通して現わされました。命を捨ててまで、人類を救おうとした神の恵みと愛です。だから、信じるだけで大丈夫。言い換えれば、信じる以外のどんな行為も、罪の故に役に立たないということです。まずは、自分が罪に侵されているという自己認識が必要です。そうした時に、神の恵み以外に人は救われ得ないということが分かるだろうし、信じるだけで救われるということが本当に感謝なことであることに気付くはずです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」とイエス様に語られた天の父の声は、信じたあなたに向けて語られるようになりました。こんなにありがたいことはありません。この素晴らしい救いを与えてくださった神をあがめ、そのメッセージを人々にお伝えしていこうではありませんか。



No.03『御子を信じる者はさばかれない!』
◇ヨハネの福音書3章16〜18節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。


 「世」という言葉はヨハネ福音書においてあまり良いイメージで使われていません。どちらかというと神に反逆する「世」です。競争主義と律法主義に陥り神の愛から離れた「世」です。神はその「世」を愛してくださいました。その愛は御子を遣わすという行動に出たのです。神が人となられ罪深い人間の「世」に来てくださいまいた。そして、虐げられた者たち、苦しめられている者たちの友となり、最後は自らが虐げられ苦しめられて十字架で殺されました。そこまでして、私たちを理解しようとし、そこまでして神は私たちを救おうとされたのです。ですから、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」です。ここに一方的な神の愛が表されています。御子・すなわちイエス・キリストは全ての人を救うためにこられました。全ての人とは、善人も悪人も、勝ち組も負け組みも、立派な人もそうでない人も、強い者も弱い者も、全てです。全ての人が、この御子をを信じることによって救われるのです。ここに神の気前のよさがあらわされています。しかし、その気前のよさが気に食わない。悪人や負け組みや弱者が信じるだけで救われるというのは気に食わない。やっぱり、私の立派さが無意味になるような神の愛は気に食わない。そういう人は御子を信じることができません。そして、御子を信じない人はすでにさばかれているのです。これは将来のさばきではありません。現在のさばきです。神の愛を、神の気前よさを、神の恵みを拒絶している時点で、どんなに人の目に立派であっても、神の目にはさばかれ捨てられたも同然の存在なのです。人間の傲慢さは神の恵みを退けます。しかし、へりくだる者の上には神の祝福が注がれるのです。



No.04『神の愛は御子を通してあらわされた』
◇ヨハネの福音書3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 
 「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネ3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう」。これは15〜16世紀の宗教改革者マルティン・ルターの言葉です。福音のメッセージがこの一節に集約されているという意味で、彼はこの節を「小福音書」と呼びました。全宇宙を創造し、それを支配しておられる栄光の神が、人となって地上に降りて来られ、私たち人間の貧しさと苦しみを経験し、ついには最も悲惨な十字架の死にまで従われた。これほどまでして、罪と愚かさに満ちたこの世、すなわち私たちを神は愛してくださったのです。その証拠がまさにキリストの復活という出来事です。この愛の対象から漏れる人など一人もいません。さあ、ここからが適応です。このキリストを信じる人は、「滅びることなく、永遠のいのちを持つ」のです。これは、病気にならないとか死なないということではありません。神に滅ぼされることも見放されることもなく、神との親しい関係が壊されることはないということです。信じたあなたの傍らにはいつも神が共にいてくださるのです。それも、あなたの弱さや罪深さを知った上で、あなたを責めたり、怒ったり、罰したりすることなく、わかっていてくださるのです。「こんな自分じゃ駄目だ!」と思う時には、いつも十字架の傷跡を指示し「わたしはあなたのために命を捨てた。わたしはあなたを愛している」と言って励ましてくださり、御自分のもとに招かれる、これこそまことの神なのです。私たちは愛されて愛する者へと変えられていく。赦されて赦す者へと変えられていく。神の愛と赦しは偉大です。



No.05『真の礼拝を待っておられる』
◇ヨハネの福音書4章23〜24節
真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。


 これはイエス様がサマリアの女に語られたメッセージです。新約の時代を生きる私たちにとって、もはやエルサレムで礼拝するかゲジリム山で礼拝するかは関係がありません。天のお父様は真の礼拝者を求めておられるのです。真の礼拝者とはどんな人か?それは霊とまことによって礼拝する人です。じゃあ、霊とまことによって礼拝するって、具体的にどういうことなんでしょうか。わかったようなわからんような。本来、イスラエルの民にとって礼拝とは動物犠牲によるいけにえをささげることです。それは罪の贖いを表すと同時に、自らを神にささげるという献身をもあらわしていました。しかし、旧約聖書の祭儀に関する律法は、結局人を救うことができませんでした。かえって、動物がささげられるたびに、自らの罪が思い出されて、人間に完全な赦しをもたらすことはできず、イスラエルの民は益々罪深くなり、ついにはキリストを殺すこととなります。しかし、キリストの死は、その不完全であった旧約の祭儀では成しえなかったことを成し遂げました。罪のないイエス・キリストの身代わりの死の故に、罪赦されて神の祝福にあずかるという道が開かれたのです。それゆえ、信じた人は安心して自らを神にお任せすることができるのです。もはや、責められることも、罰せられることもなく、ただ恵みによって赦された私たちは、強制されてではなく自発的に、喜んで、自らの人生を神にお任せするようになったのです。この赦されて献身するという営みこそが霊とまことによる礼拝です。つまり、イエス様を信じたあなたの全生涯が真の礼拝なのですよ。



No.06『死からいのちへと』
◇ヨハネの福音書5章24節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 
 現代人の中に、神の裁きを恐れている人がどれだけいるでしょうか。日本人であれば、祟りとか罰(ばち)を恐れている人のことですが、科学技術が発展した現代社会においてそんなものを恐れている人はバカ扱いされます。けれども、いざ巷の声に耳を傾けると、意外とそういったものが恐れられていることに気付きます。占いやおまじないが流行るのも、祟りや罰といった目に見えない何かの力を恐れるからではないでしょうか。ちなみに、私はイエス・キリストを信じるようになってから、占いや超能力を完全に信じなくなりました。それが胡散臭いということもあるのですが、むしろ必要がなくなったからです。それこそ、イエス様があらゆる裁き、祟り、罰、悪魔や悪霊の攻撃(笑)?何でもかまいません、目に見えない恐ろしい何かを、それこそ呪いと思えるような人生の不条理をも含めて、全て身に負って死んでくださったからです。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです」(ガラテヤ人への手紙3章13節)。十字架に架けられたお方が私たちの全ての呪いを負ってくださいました。だから、イエスを信じる者に祟りなどあり得ません!どんなに不幸だと思えること、嫌な出来事が起ころうと、大丈夫!悪魔や悪霊にやられることもありません。幽霊も恐れる必要はない!おるかどうかは知りませんが(笑)。そして、神のさばきに会うこともない。信じた私たちは神の御手の中にあるのです。



No.07『神からの栄誉を求める』
◇ヨハネの福音書5章44節
互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。

 
 神様を信じる上で、どうしても注意しなければならないことをイエス様は教えてくださいました。人の歓心、評価、賞賛ばかりが気になって、神のみこころ・神のまなざしというものがわからなくなってしまうことです。そうなると、信仰はおとろえ、平安が失われてしまいます。多忙で複雑な生活を強いられる現代、神のみこころ・神のまなざしを見失わないよう、一人静まって祈る時を持つことはとても大切です。また、人の評価のただ中にある時にも、神の評価に目を留めるゆとりが必要です。人を恐れ、将来を心配し、自分を守ることに必死になりすぎる時、やはり神こそが恐れられるべきお方であることを思い出しましょう。私たちが恐れる人も、心配する将来も、全て神の手の中にあるのですから。箴言にもこんな言葉があります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言29章25節)。人を恐れて選んだ行動にはわなが待ち受けているのです。しかし、主に信頼しながら、自分らしい生き方をすることが、結果的に守られるのです。結局、私たちの人生を人は生きてはくれません。人に好かれようが嫌われようが、結局は自己責任を問われるのです。だったら、私たちを創造し、私たちの行くべき道を御存じの神様に信頼して、自分らしく生きるほうがいいじゃないですか。自分に対する神のみこころは何かを求めて行きましょう。



No.08『御子に信頼する』
◇ヨハネの福音書6章29節
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 

 イエス様は前の27節でこうおっしゃっています。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」。それを受けて、群衆は次のように質問しています。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」。永遠のいのちは、当時のユダヤ人にとって重要な意味をもつ言葉でした。それは神の祝福であり、神に赦され義とされたしるしであり、神の子とされた証拠です。それゆえ、それを得るために「何をすべきでしょうか」という問いが人々の中から生まれました。つまり、群衆は「何かをすること」(Doing)に注目したのです。ところが、イエス様は「何かをすること」(Doing)よりも「どうあるべきか」(Being)に目を留めるよう注意を促しました。つまり、「神が遣わした者」であるイエス・キリストを「信じる」ことです。もしも、神という存在が、何をしたかによって我々を査定し、その存在意義を決めるお方だとしたら、それは本当に恐ろしいことで、私なんかは正直自信がありません。けれども、イエス様は、そういった自信のない人たち、つまり自分の罪や弱さや限界がわかっていて人生に迷いのある「平凡な人たち」に良き知らせをくださったのです。「信じるだけで、神の祝福にあずかれる」という良い知らせです。このメッセージは、私たちの生をあるがままに肯定し、生きる希望を与えてくれます。だから、あなたが神を信じ、御子イエス・キリストを信じることは、すごいことなんですよ。イエス様のお墨付きです。



No.09『魂の飢え渇きをいやすお方』
◇ヨハネの福音書6章35節
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 
 ある程度の成果をあげ、人々から褒められ、いろんなことに起用されている間は心が満たされます。所属する場所があって、人のお役にたてたり、感謝されたりしていると、毎日が楽しくなります。しかし、それもつかの間の喜びであるということを、人はみな気付いているのではないでしょうか。それゆえ、パスカルの言うように、人間の心には、最終的に神にしか埋めることのできない穴があるのだと思います。今日のみ言葉で言うと、神にしか潤すことのできない渇きが人の心にはあるということです。「本当に私を愛してくれる人はいるのだろうか。あるがままの私を知った上で受け入れてくれる人などいるのだろうか。私の存在意義はどこにあるのか。私の人生に意味があるのだろうか」。こういった根源的な魂の叫びに応え、その飢え渇きをいやしてくださるお方。それこそイエス様なのです。いのちをかけてまで、罪人を愛し通されたイエス様の真実さこそ、私たちの魂の飢え渇きをいやします。しかし、それだけではありません。受け身なだけでは、人の心はすぐに渇いてしまいます。イエス様はいつも私たちと共にいて、神様の計画の一端を担う者として私たちを用いてくださるのです。あなたがする全ての行動に祈りを添えましょう。そうする時、何の変哲もない日々と、平凡な日常が神の導きに彩られるのです。「神の国は、あなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)。神はあなたを用いられます。



No.10『生ける水の川』
◇ヨハネの福音書7章38節
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

 
 イエス様は何について話しておられたのでしょうか。その意味は何でしょうか。次の節でこう説明しています。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」(39節)。「信じる者には神の御霊が注がれる」、それがイエス様のおっしゃったことでした。この約束はイエス・キリストが復活し、天に昇られて後に実現します。使徒の働き2章に出てくるペンテコステの出来事です。さあ、今はどうなんでしょうか。御霊が注がれるというのはどのような体験なのでしょうか。20世紀には、その体験についての議論が多くなされました。その議論によってキリスト教界は分裂し、推進する者と反対する者、あるいは推進する者たちの間でも細かいことで対立が生まれ、あまりいいことがありませんでした。だから、体験をああだこうだと議論することは不毛なのでやめますが、ただイエス様が約束してくださったことにだけ目を留めると、これは大きな慰めと励ましのメッセージです。信じる者には神の霊が注がれ、その人の心から「生ける水の川が流れ出るようになる」というのです。簡単に言うと、あなたが祝福の源、いのちの泉の源泉となるということです。別にあなたがスゴイと言っているわけではありません、神の恵みによってあなたが通りよき管として神に用いられるということです。意気込む必要もなければ、必死になる必要もないのです。ただ、信じるだけでいい!そうすれば、あなたを通して神の業があらわされるのです。



No.11『主のみ手』
◇ヨハネの福音書10章28節
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。


 力強いイエス様のメッセージです。直接的には弟子たちに語られた言葉ですが、現代に生きる私たちにも語られている約束のメッセージです。イエス・キリストを信じるなら、その人は永遠のいのちを受け取るのです。永遠のいのちとは単に「死なない」という意味ではありません。現に、「死なない」人など一人もいないからです。つまり、肉体の死から免れるなどと言っているのではないのです。永遠のいのちとは神との関係を表す言葉です。罪のゆえに裁きを免れない私たちが、キリストの十字架の死と復活を信じることにより赦されるのです。そして、神との親しい間柄になり、神に愛され、神を愛する人生がはじまるのです。それを聖書は永遠のいのちと呼ぶのです。それゆえ、神との親しい関係は永遠に失われることはありません。病気にもなるでしょう。災いにも遭うでしょう。失敗もするし、弱くもなる。そして、必ず死にます。しかし、それらは通過点にしかすぎません。信じる者にとっては、それは呪いでも裁きでも罰でもない!ましてや祟りなんか存在しない。天の父なる神様との親しい関係があるかぎり、全てが主の手の中にあり、主が一切を益に変えてくださるからです。恐れるものは何もありません。ただ、イエス様のお言葉を信頼していればいいのです。「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」という主の約束を・・・。


No.12『イエスはよみがえり・いのち』
◇ヨハネの福音書11章25〜26節
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 
 そのまま読むとイエスは気が狂ったのかと思ってしまう言葉です。「死ぬことがない」なんて・・・。字義どおりに読むと、おかしな内容です。死なない人なんていないわけですから。しかし、このヨハネの福音書を読み進めると、永遠のいのちとは神との交わりに生きることであることがわかってきます。そうすると、イエスが言った「死ぬことがない」ということの意味は、クリスチャンは肉体的に死なないということを言っているのではなく、たとえ肉体の死を経験したとしても、神との交わりが絶たれることはないということなのです。私たちはイエス・キリストを信じて、すでに霊的なよみがえりといのちを経験しているのです。肉体の死はその通過点にしかすぎません。私たちは永遠に天のお父様の愛の中を生きるのです。ですから、イエス・キリストのいのちに与るとは、神との親しき交わりの中を生きるということなのです。イエス様はあなたの中に生きておられます。そして、天の父はあなたのことを「愛する子」と呼び、今日もあなたを喜んで下さっています。だから、主を己の喜びとし、主に信頼して進んで行きましょう。イエス様のいのちに生かされて・・・。



No.13『天のお父様の心』
◇ヨハネの福音書12章44〜45節
また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」

 
 イエス様を信じるということは、天地万物の創造者である神を信じるということであり、イエス様を見るとは、神を見たことになる。このことをイエス様は大声で言われました。大声で言ったということは、重要なことなのです。時々、「神様は何を考えてるんだ」という声を聞くことがあります。悲しい出来事や辛い経験をする時、思い通りにことが運ばない時、人の口からこぼれてくる言葉です。そう言いたくなる気持ちもわかるのですが、同時に、私たちの願望を叶えなければならない義務が神にあるわけでもないし、嫌なことがあっても神に文句を言う権利など私たちにはないはずです。かと言って、神は私たちが苦しんでいても何とも思わない冷血漢かというと、そうとも言えません。聖書によると、「神は愛」なのですから。じゃあ、神の心はいったいどこに向かっているのでしょう。それを知る術はただ一つ。聖書に描かれたイエス様を知り、イエス様を信じることです。そうすれば神の心がわかります。神がどこに向かい、どこを見ておられるかがわかるのです。さあ、神はどこに向かい、どこを見ておられると思いますか?ヒント。あなたが見ている方向ではないことは確かです(笑)。



No.14『イエス様の視点』
◇ヨハネの福音書13章34〜35節あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。


 イエス様の愛は基本的に「小さい者たち」に向けられた愛であり、徴税人・売春婦・女・子供・異邦人などの罪人のレッテルを貼られた人たち、見下され虐げられた人たち、そして「罪人の私をあわれんでください」と自らの罪深さ・弱さを認めた者たちに向けられた愛です。そういった愛で、弟子たちも愛し合うようにというのがイエス様の命令でした。そうすれば、「世」がイエス様の弟子だと「認める」というのです。この「認める」という意味は肯定的な意味と否定的な意味の両方に解釈されます。「流石はイエス様の弟子たち」と認めるのか、「やはりイエスの弟子だ。能無しで律法を守らない愚か者ばかりを受け入れてる」と認めるかのどちらかです。ヨハネの福音書においてイエス様は世を否定的に捉えているので、後者の意味だと思います。競争原理や能力主義で人を判断するのではなく、イエス様の視点で人を見、お互いを大切にしていくこと、それが私たちに問われていることではないでしょうか。教会は信仰の共同体であって、能力共同体ではありません。誇る者は主を誇れ!です。そして、もし能力があるなら、それを神に与えられたものとして神に感謝し、体なる教会に仕えるために用いて行くべきではないでしょうか。その時、キリストの愛が実現していくのだと思います。



No.15『心を騒がしてはなりません』
◇ヨハネの福音書14章1〜2節
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」

 
 最後の晩餐において、イエス様が弟子たちに語られた言葉です。これから十字架の死に向かわれるイエス様・・・。そして、迫害を経験していく弟子たち・・・。恐れや不安、様々な心配にさいなまされても仕方のない状況にあった彼らに、イエス様の言葉が響きます。「心を騒がしてはなりません」。心を騒がさずにいられようか!と反論したくなる状況で、イエス様はその秘訣を語られます。「神を信じ、またわたしを信じなさい」。ここでは継続性を表す現在命令法が使われています。すなわち、「信じ続けなさい」ということです。師であるイエス様の死は、弟子たちにとって絶望でしかありませんでした。だからこそ、彼らは散り散りばらばらに散って行き、復活の約束も忘れてしまったのです。しかし、イエス様は死の前にはっきりと約束されました。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」と。イエス様の死は犬死ではない!人類の罪の身代わりであり、罪人を救うためだったのだ!その証拠にイエス様は三日目によみがえられた!これが後に弟子たちが命がけで証言するようになった福音のメッセージです。大きな試練を通過して後、復活の主に出会い、聖霊の力を体験した弟子たちにとって、イエス様の死の意味が180度変わったのです。絶望から希望へと。だから、イエス様は、絶望が訪れる前に励ましておられたのです。「信じ続けなさい」と。先行きの不安を抱えるあなた。物事がうまくいかなくてがっかりしているあなた。思い通りに事が運ばなくてイライラしているあなた。あきらめましょう。あるがままの状況を受け入れるしかないのです。しかし、「信じ続けなさい」!これがイエス様のメッセージです。信じ続けることさえやめなければ大丈夫!いつか、必ず浮上する時がやってきます。場所を備えてくださるイエス様があなたと共におられるのですから。捨てる神ありゃ、拾う神あり!違うか(^_^;)



No.16『イエス様の行なうわざ』
◇ヨハネの福音書14章12節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
 

 イエス様を信じる人は、イエス様のわざを行い、それよりもさらに大きなわざを行なう!という約束の言葉です。昔、僕はこの言葉に憧れました。イエス様のように奇跡を行い、人々から信頼されるなんてスゴイ!いやそれ以上のわざを行うなんて、これはスゴイ約束だ!聖霊の力が欲しい!素直にそう思いました。そのころから約20年が経ち、幼稚だったなと思うと同時に、そういう上昇志向に陥る気持ちもわかるなぁって今では思います。バブル期の申し子である私たちの世代にとって、経済は上昇どころか飽和状態だったので、上昇するための渇きがなく頑張るためのモティベーションが喪失していました。それどころか、競争原理や上昇志向は大前提だったので、どんなにがんばってもあまり上昇している感じがえられなくてあがいていたように思います。そんな私にとって、イエス様の約束は神秘的であると同時に、その願望と期待をくすぐるものだったのです。でも、それは読み間違いでした。イエス様とその弟子の歩みは、上昇どころか下降の道です。人々に仕え、自らを無にし、ついには十字架の死に至られたイエス様。それによって救いの道を開かれました。弟子たちも迫害の中で、聖霊の導きを体験していきました。下降すればするほど、神の恵みと奇跡を体験していったのです。それゆえ、今日のみ言葉に記された、「行なうわざ」「さらに大きなわざ」というのは神の恵みと主権的行為でしかないのです。それは神が引き起こすことで、我々ではありません。私たちはただ神の前にへりくだり、人々に仕えて行くのみです。その時、神の主権的な「わざ」が行われる、それがイエス様の約束の意味です。何の変哲もない日々の生活ですが、そこに神の恵みと選びがあると信じ、「神の国はここにある」と信じて仕えていきましょう。



No.17『神の平安』
◇ヨハネの福音書14章27節
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。


 心を騒がしていませんか?恐れていませんか?思いわずらいや心配、不満や怒りに心が支配されることがありませんか?あって当たり前です。だって、人生は辛く、不条理で、あるがままでは生きていけないし、あるがままではよくないからです。私たちは変わらなければなりません。能力がなければ誰も相手にしてくれないし、空気が読めないやつは干されます。高飛車だと上から押さえつけられるし、あまりにも消極的すぎると誰にも起用してもらえません。努力も必要だし、自分を押し殺さなければならない時だってある。正にこの世はサバイバルです。恐くて仕方がありません。心を騒がさずにいられましょうか!
 というわけで、この世に期待するのはやめましょう(笑)。この世の与える安心などは嘘で塗り固められていて、実際には競争に生き残れない者は消されるのです(抹殺されるというのでなく、存在を無視されます)。今こそイエス様にフォーカスしてください!このお方の与える平安はこの世の嘘っぱちな平安とは違います。本当に私たちのためを思い、私たちの罪の身代わりに死んでくださったお方で、頼んでもいないのに救いの道をひらいてくださり、無理強いして信じさせようともせず、絶えずその十字架の打ち傷を見せながら、「わたしのところに来なさい」と待っていてくださるお方です。恩着せがましく、「これだけしてやったのに信じないのですか」なんて言われないのですよ。本当に!本当に!あるがままの私たちを愛し、喜んでくださるお方です。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(イザヤ書53章5節)」とあるとおりです。やっぱりこのお方は素晴らしい!



No.18『実を結ぶために』
◇ヨハネの福音書15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 私たちはみなイエス様に選んでいただき任命されたものです。神に選ばれ、この時代に、この国に、この家族に、学校や職場・その関わりのただ中に、私たちは置かれた存在なのです。それには使命が伴っています。3点。@実を結ぶ。Aその実が残る。Bその実を結ぶという働きのために必要なものは全て父からもらう。この3つは使命であり、同時に約束でもあります。「必ず実は結ばれます、その実は残ります、そして父はその結実のために必要な全てを与えてくださいます」そうイエス様が約束していてくださるのです。大切なのは「行く!」ことです。行くだけでいい!いるだけでいい!そこにあなたがいるなら、必ず使命は成し遂げられます。裏返して言うと、行きつづける必要がある、そこにいつづける必要があるということでもあります。ともすると、自分の置かれた環境に不平不満を言い、人をうらやんでしまう。そして、現状に感謝することができない。そこにある恵みを見出せない。それが一般的な悩みです。私もそうなることがある。けれども、その置かれた場所が神の計画であるとするならば、必ずそこに使命があるということに気付けるのです。イエス様はそういう気付きを与えてくださいました。どんな小さな働きにでも、そこに神の計画があるとするなら、そこにあなたの使命があるのです。信じて行動しましょう。



No.19『助け主』
◇ヨハネの福音書16章13〜14節
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 

 イエス様は、御自分が去った後で聖霊が注がれるということを弟子たちに約束されました。その聖霊のことを「もうひとりの助け主」とも言っておられます(14章16節)。つまり、イエス様のような助け主がやって来るという約束です。そして、その御霊はどのような働きをされるかということが今日の箇所に記されています。とても神秘的な内容ですが、こういった不思議なことが弟子たちの生涯に起きていきました。そして、今でも、イエス・キリストを信じる者には、このような御霊の導きというものを期待することができます。不思議な神さまの導きというものを、信じる者は体験できるのです。しかし、そのような神秘体験は私たちの欲望を満たすためのものではありません。そのような期待に応えるために、御霊が注がれたのではないのです。御霊の導きには一つの明確な方向性があります。イエス様がそれを明言されました。「御霊はわたしの栄光を現わします」と。御霊は人の栄光のためには働かれません。御霊は神の栄光のために働かれ、我々を導くのです。私たちは神の協力者にすぎません。自らの人生の御利益のために神を利用しようとするあさましさが人間にはあります。しかし、その欲望と願望を捨てて、神の御心を欲する時、神ご自身が私たちの祝福を欲されるのです。あるがままの現状を受け入れて、日常の小さなことに忠実になる時、神が大きなことを任せたいと願われるのです。しかし、私たちは絶えず神の御心だけを求め、小さなことに忠実になるよう努めなければなりません。そういう人を御霊は必ず導かれるのです。



No.20『世に勝つとは』
◇ヨハネの福音書16章33節
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。


 これから十字架に向かおうとするイエス様が、最後の晩餐の席で、弟子たちに語らえた言葉の中の一節です。世とは何でしょうか?それは競争原理に満ちた律法主義のユダヤの社会です。人間の価値をその業績や成果によって測る世です。イエス様はその世の世界観と競争原理に立ち向かいました。多くの金持ちが大金を献金する中、レプタ銅貨(新約聖書に出てくる貨幣のうちで最小の銅貨)を2枚しか捧げられなかった貧しいやもめを見て、彼女の信仰を高く評価しました。律法を守っていた富める青年がやってきた時、永遠のいのちにあずかるためには、その財産を貧しい人々のために施すよう命令しました。異邦人であるスロ・フェニキアの女や百人隊長の信仰を高く評価し、神の民であると自負していたユダヤ人の信仰については何もほめられませんでした。たとえ話においては義人だと自負するパリサイ人ではなく、自分の罪を認める取税人を義と認めました。どれもこれも、勝ち組を引き下げ、負け組みを高く上げたのです。だからこそ、イエス様は陥れられ、人々からのけものにされ、弟子にさえ見捨てられたのです。イエス様が「わたしはすでに世に勝った」ということの意味は、社会で成功することを指していません。むしろ、後にユダの裏切りによってとらえられることを指し、ついには十字架によって死ぬことを指していたのです。そして、弟子たちも「世にあっては患難があります」と予告されました。つまり、弟子たちも競争原理に満ちた律法主義のユダヤ教に立ち向かっていったからです。そして、弟子たちの誇りとするものは、世で成功すること、律法を行うことによってユダヤの社会に認められることではなくなっていました。彼らの誇りは、イエス・キリストの十字架だけになっていたのです。さあ、あなたはどちらの勝利を目指していますか?



No.21『人格的な出会い』
◇ヨハネの福音書17章3節
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。


 永遠のいのちとは何か?と問われたら、人は来世を想像します。まさか、この現代に不死身の体を信じる人などいないでしょう。だから、死後の永遠を考えるわけですし、聖書も死後の生命を語っているので間違いではありません。でも、イエス様の言葉には更に深い意味が込められています。それは、「永遠のいのちとは神を知ることだ」ということです。この知るというのは単なる情報としての知識ではありません。人格的な出会いと交わりから生まれる体験的な知識なのです。この体験的な知識はイエス・キリストの福音を信じて、告白するところからスタートします。その時、人間は神と出会うのです。「イエス様。あなたは私の罪の身代わりに十字架で死んでくださいました。そして三日目によみがえられました。それにより、私の罪を赦し永遠のいのちを与えようとしてくださったのです。それゆえ、あなたを救い主として信じます。私を救いに導いてください」。このように、祈った時から、全てがはじまりました。そして、今日も私たちは神を体験的に知ることができるのです。あらゆる営みの中で、神の言葉に耳を傾け、祈り、神に感謝をささげる時、神の導きを経験するのです。大切なことはそれを続けることです。困難な時はもちろんのこと、神さまなど不要だと思えるぐらいに物事がうまく行っている時にも、この神との交わりを続ける時、私たちは神と一つになるのです。そして、順境の時も逆境の時も変わらず神の導きを経験することができます。だから、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」なのです(ヘブル人への手紙10章36節)。永遠に続く神との交わり、それこそ永遠のいのちです。だから、信仰の火を絶やさぬように・・・。



No.22『あるがままを生きる』
◇ヨハネの福音書18章11節
そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」


 イエス様を裏切ったユダと兵士たちがやって来た時、一番弟子のペテロが剣を持って応戦しました。ところが、そのペテロをいさめながらイエス様が言われた言葉が今日の御言葉です。捕えられ、侮辱を受け、拷問に合い、ついには十字架にはりつけにされて殺されるという一連の出来事が、この後に続くのです。その一連の出来事をイエス様は「父がわたしに下さった杯」とおっしゃいました。これは驚きです。当然、人類の救いのためであったという結末を知っている私たちからしたら、「救い主の使命」という一言で片づけられてしまうのでしょうが、イエス様が人間であったということを考えると驚くべきことなのです。イエス様にとって、十字架は避けることのできない定めのようなものでした。これまでの言動を考えると、妬みを買って殺されるのは必至でした。しかし、そのあるがままをイエス様は回避なさらなかったのです。むしろ、そのあるがままを「父がわたしに下さった杯」と言って受け入れられました。これはすごいことです。父なる神への信頼なしには生まれて来ない態度です。私たちにとっても、どうにもならない性、あるいは定めと思われるような出来事があって、できれば回避したいいくつかのことがあると思います。しかし、どう考えても回避できないこと。それを、「父がわたしに下さった杯」と言って肯定できたら、生き方が大きく変わるのではないでしょうか。それはとても難しいことかもしれません。けれども過去を振り返って後悔し、つぶやいて生きるよりははるかに良いと思うのです。イエス様は父なる神を信頼して死にました。しかし、その先に復活の勝利があったのです。同様に、父なる神は、信頼する私たちを決して見放しません。



No.23『与えられた生として生きる』
◇ヨハネの福音書19章30節
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。


 イエス様にとって最大の使命は十字架の死でした。私たちの罪の身代わりに死ぬという贖いのみわざを完成させることだったのです。それゆえ、イエス様は息を引き取られる前に「完了した。」とおっしゃいました。イエス様は生きている間も明確な使命感を持って働かれましたが、死ぬ時にも使命を全うされたのです。また使徒パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1章21節)と言いました。救い主であられるイエス様のみならず、使徒パウロにも見出すことのできる姿がここにあります。それは、生きるにしても死ぬにしても、なにものにもとらわれない生き方です。言い換えれば、生涯を神に与えられた生として生きるということです。健康で頭が良く、容姿も良く、何もかもに成功するという人生は、正直うらやましいものかもしれません。しかし、そうではない人生に意味がないのかと言えば決してそんなことはありません。むしろ、思い通りにならない人生ではあったけれど、それによって生きるということの意味を学んだという人は輝いています。イエス様は十字架を「父がわたしに下さった杯」と言って、肯定的に受け止められました。一度はこの杯が取りのけられるように祈られたのですが、それが叶わないことを悟った時、その苦い杯を前向きに受け止めたのです。そのような態度こそが、人類の救済を成し遂げたと考えると、私たちが取るべき態度にも示唆が与えられます。「求めよ」とおっしゃったイエス様は、同時に「みこころのままに」と祈られたお方です。求め且つ委ねる、そのような姿勢で歩んで行きたいと思います。



洛西キリスト教会

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