本文へスキップ

ヘブル人への手紙hebrews

From Pastor's Office<牧師室から>

No.01『メシアによる完成』
◆ヘブル人への手紙1章1〜2節
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。


 ヘブル人、すなわちユダヤ人のクリスチャンに宛てられたこの手紙。その冒頭には、御子イエス・キリストの到来における完成が宣言されています。神は旧約聖書において、アブラヤム・イサク・ヤコブなどの父祖たち、そして預言者たちを通して、ご自分の御心を多くの部分に分けて語られました。語る方法も様々で、旧約聖書を読む限り、神の御心の全体を知ることは容易ではありません。また、神の祝福に預かる方法も、旧約聖書を読むだけでは実に不明瞭で、人間はどこまで頑張ればその祝福にあずかれるのか、その努力の上限がわかりません。また、神の選びや聖戦も含めて、ヒューマニスティックにはどうしても受け入れられない箇所がたくさんあります。神を知る、あるいは神の御心を知るということは、実に難しい。しかし、全ては御子イエス・キリストによって明らかにされたのです。イエス様の生き様とその人格を学べば神の御心がわかります。イエス様を救い主と信じ、このお方を通して神に祈るなら、神の祝福にあずかることができます。実にシンプルですね。それはまるで、バラバラになったピースが集まって完成したパズルのようです。旧約聖書においては不明瞭で見当がつかなかったことが、イエス様において完成しわかるようになる、イエス様において腑に落ちるのです。「ああ!そうだったのか!」と思えるようになるのです。理屈抜きにイエス様について学んでみましょう!そうすれば、自分に対する神さまの御心が何かわかります。イエス様を救い主として信じ、イエス様の御名を通して祈りましょう!そうすれば、神の祝福にあずかることができます。イエス・キリストこそ私たちの救いです!



No.02『わかってくれている方がいる』
◆ヘブル人への手紙2章18節
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。


 福音書におけるイエス様の生き様を見ると、本当にこのお方は不思議な方だなって思わされます。イエス様の関心はこの世の栄華にはなく、ただ天の父なる神様のみこころと、目に見えない神の国に寄せられていました。そして、この世の力のある者に目を向けておられたのではなく、力のない者にばかり目を向けておられました。そして、自らも力のある方向に進んでいくのではなく、虐げられ、力を奪われていく方向に進むことに甘んじておられたように思います。このお方の生き方は、その語る言葉にまさって魅力的です。イエス様の言葉はその行動に裏付けられており、イエス様の行動は絶えず下降の道をたどっていたのです。その集大成こそが身代わりの死です。しかし、神はイエス様を三日目によみがえらせられました。天の父なる神がそうなさったのです。イエス様はとことんまで下降し、天の父なる神が引き上げられた。これこそ、模範とすべき生き様です。天の父が引き上げてくださることを信頼して、自らは甘んじて下降の道をたどるのです。そうすると、主は必ず引き上げてくださるのです。もしも試みを受けている方がいるならば、必ず折にかなった助けが与えられます。なぜなら、「試みられている者たちを助けることがおできになる」主イエス様があなたとともにおられるからです。祈り、ゆだね、信頼しながら進んで行きましょう。「ご自身が試みを受けて苦しまれた」主が、あなたのことをわかっていてくださるのだから。



No.03『しっかりと持ち続けるならば』
◆ヘブル人への手紙3章6節
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。


 キリストを信じる者たちの集まりを教会と言います。教会は建物でもなければ、厳密には宗教団体のことでもありません。教会とはキリストを信じる者たちの交わりであり、その集いです。そして、今日の聖書の箇所では、その信者の集まりを「神の家」と言っています。これは実に光栄なことであり、心強いことです。例えば、洛西キリスト教会も「神の家」だとするならば、主が洛西キリスト教会を忠実に治めてくださるということです。そのことの意味は、単に教会という組織が存続するというだけではなく、そこに集う一人一人の日常生活をも、キリストが忠実に治めてくださるということです。実に頼もしい約束ではありませんか。しかし、間違えてはならないのは、洛西キリスト教会のメンバーになれば自動的に祝福される、あるいは洛西キリスト教会という団体が自動的にキリストに守られる、というわけではないということです。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば」という括弧つきの約束であるということです。神の愛を信じ、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しを信じ、復活のキリストが共におられることを信じて、その「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」ことが大切なのです。そのように生きる時、私たちの群れも、私たち一人一人の生活も、キリストが忠実に治めてくださるのです。そして、私たちこそが神の家であると胸を張って言えるのです。人間は策に溺れて失敗する生きものです。あのような方策を取らなかったからダメなんだとか、このような策を講じたから自分は成功し、これからも安泰だとか、プラスの意味でもマイナスの意味でも策に溺れるのです。しかし、実際には、偶然が重なってうまく行ったり行かなかったり、シンクロニシティと言えるようなものが働いて導かれた部分があるのではないでしょうか。だから、どんな策を講じるかの前に!まず、自分がどのような状態にあるかを確認する必要があります。もしも、あなたが、その「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば」、あなたも神の家の一部であり、キリストがあなたのこれからを忠実に治めて下さいます。



No.04『大胆に近づけ』
◆ヘブル人への手紙4章14〜16節
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


 「偉大な大祭司である神の子イエス」とあるとおり、信じる者にとってイエス様は偉大な方です。通常、偉大な方と表現すると、尊敬すべき人であるという意味と、近寄りがたい人であるという両方の意味が込められます。がんばって、努力して、成功した偉大な人には、人の弱さに共感する力が欠けている場合があります。更に、大した努力もせずに成功した人にいたっては、弱さを理解すること自体ができない場合があります。ところが、イエス様は偉大なお方であるにもかかわらず、当時の指導者に負け、ほされ、群衆からも見放され、ついには弟子にも裏切られ、見捨てられて、殺されました。努力の末に上昇し、富と力を獲得して偉大になったのではなく、偉大なお方であったのに殺されるという下降の道をたどられたのです。そして、その従順と謙遜のゆえに、神はイエス様をよみがえらせられました。これは死に対する勝利であり、この世の富や権力、あらゆる欲望への勝利でもありました。そういう意味ではただの偉大さではありません。誘惑や試練を経験された偉大さであり、痛みや苦しみを知る偉大さです。それゆえ、イエス様は、私たちのあらゆる弱さに同情し共感してくださるお方なのです。出来が悪いからと言って見捨てたり、能力のあるなしで私たちの価値を測るようなお方ではない。むしろ、あわれみと恵みに富み、助けてくださる方なのです。だから、ヘブル書の記者はすすめます。「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。十字架の赦しを信じて、大胆に神に近づき、思いの丈を全て言い表そうではありませんか。神は悪いようにはなさいません。必ず、助けて下さいます。信頼を失わず、祈っていきましょう。



No.05『成長するとは』
◆ヘブル人への手紙5章12〜14節
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。


 ヘブル書の著者が言う「神のことばの初歩」とは福音のことです。宛先の教会の信者たちは、福音からずれてしまっていたのです。彼らは、恵みよりも行いを強調し、福音よりも律法に偏り、ユダヤ人としての民族性や伝統に回帰し、ユダヤ性をどれだけ保持しているかが神の祝福にあずかる条件だと思うようになっていました。本来そのような選民思想や律法主義から脱却したのが福音であったはずなのに、同胞であるユダヤ人からの多くの迫害と様々な試練のために、ヘブル人クリスチャンたちは初めの愛から離れてしまったのです。人々からの中傷と様々な試練は、人間を神の恵みから遠ざけます。すなわち、神の愛とあわれみに対する不信感を抱かせ、自らの力に依存し、世を恐れて生きるようにさせるのです。そこで、ヘブル書の著者は厳しく宛先の信者たちを戒めます。「ユダヤ性や律法に回帰し、自らの行いにより頼むようになったあなたがたは、大人になったような錯覚に陥っていますが、実は逆戻りしただけなのですよ。あなたがたは初歩をもう一度やり直さなければならない未熟な者になり下がってしまいました。本当は、年数からすれば教師になっていなければならないのに!」。ですから、私たちが成長という時に、神の恵みが大前提なのです。この前提が崩れてしまっては、成長もくそもありません。福音によって明らかにされた神の恵みを大前提とし、聖徒に仕え、神を愛し隣人を愛すること(ヘブル書6章10節)こそが成長するということなのです。また、神の恵みは人を、奉仕と、愛の行動に駆り立てます。この順序と言いますか、恵みの原則を忘れてはなりません。この原則に則って生きるところにこそ、真の成長があるのです。



No.06『恵みの福音に立ち返れ!』
◆ヘブル人への手紙6章4〜6節
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。


 この聖書箇所は、クリスチャンにとって悩みの種です(^_^;)。解釈の仕方一つで人を裁きもし滅ぼしもする御言葉ですね。まじめな人ならば、この御言葉を読んで一度は落ち込んだことがあるのではないでしょうか。「イエス様を信じて、罪を赦していただき、神の子供にしていただいたのに、また同じ罪を犯してしまった。私はイエス様を何度も十字架にかけてしまうような者で、もう悔い改めに立ち返らせることができないような人間なのかもしれない!」と私は何度も思ったことがあります。また、そういうメッセージをして信徒を脅す牧師もいたりするから、たちが悪い。でも、もしそうだとすれば、救われる人なんて一人もいないのではないでしょうか。人間には罪の性質が宿っている故、この地上にいる間は必ず罪を犯してしまうのです。犯罪とまではいかなくても、他者を愛せない現実が私たちの心には存在するのではないでしょうか。だから、この聖書箇所は、クリスチャンになったら罪を犯さなくなる!あるいはそうならなければならない!と言っているのではありません。じゃあ、何を忠告しているのか。答は一つ!福音から離れるな!です。律法の行いによって救われるということを説いたユダヤ人の誘惑に負けて、イエス・キリストを信じるだけで救われるという福音のメッセージを捨ててしまったクリスチャンたちが大勢いたのです。そういう人はもう悔い改めに立ち返らせることはできない!とヘブル書の記者は言っているのです。さあ、初めの愛に立ち返りましょう。神はあなたを愛し、御子を遣わされました。そして、御子イエス・キリストはあなたの罪の罰を身代わりに受けて死なれ、神に対する負債の全てを支払ってくださったのです。だから、イエス・キリストを信じるだけで、神はあなたの罪を赦し、あなたに永遠の命を与え、あなたを神の子として扱ってくださるのです。ただ、信じるだけでです。この恵みの福音に立ち返りましょう!



No.07『神に近づく人々』
◆ヘブル人への手紙7章24〜25節
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。


「変わることのない祭司の務めを持っておられます」とはどういう意味でしょうか。それは、キリストが、絶えず父なる神と私たちとの仲介者となってくださり、私たちが神に近づくために最善の導きを与えてくれるということです。ここで重要なことは、「神に近づく人々」であるかどうかです。神に近づこうとしない、すなわち神を求めようとしていない人には、今日の話は何の関係もありません。それゆえ、神を信じ、神の御心が何かをさぐり、神の導きを求めることが大事だということがわかります。このことは大前提ですので、それをすっとばしながら、神の約束を期待しようとする人は、もう一度顔を洗って出直しましょう(笑)。
 次に、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられる」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様がいつも私たちの相談相手となってくださるということです。それも、単に話を聞くというだけではなく、相談に乗ってくれたり、あるいはブレーキをかけてくれたりと、援助者であるとともに助言者にもなってくれるのです。それゆえ、神に近づく人々は、常に、キリストの援助を経験し、キリストからの様々な助言を受けることになります。これは理屈を超えた神秘的な経験であって、教理や教義が実体験となる世界です。「神に近づく人々」は、その弱さにもかかわらず、罪深い者であるにもかかわらず、神の恵みにより、とりなしを経験するからです。それゆえ、肝に銘じて、おきましょう。どんな辛いことがあっても、大きな失敗をしたとしても、それで自暴自棄にならず断念しなければ、必ず、キリストの導きを経験するということを。絶えず、悔い改めて神に立ち返るなら、その人は神の導きを経験し続けるのです。祈りのうちに、神に近づきましょう。



No.08『新契約の時代』
◆ヘブル人への手紙8章10節
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。


 この言葉は旧約聖書の引用で、紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半の、バビロン捕囚の時期に活躍した預言者エレミヤの預言です。エレミヤはキリストが到来した時にどのようなことが起こるかを預言しました。まず、キリストが到来する時は、新契約の時代であるということを預言しています。アダム契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約と、人間と神との間に結ばれた契約は徐々に進展してきたのですが、それらは全て新しい契約を指し示す型にしかすぎませんでした。そういう意味で旧約聖書の契約は、まだ未完成な契約だったのです。しかし、キリストが来られた時の神との契約は、それら全ての契約の完成形です。その新契約の時代の特徴は何か?それは、「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことであり、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。まず、前者は、人に強いられてでもなく、命じられてでもなく、自発的・内発的に人が神のみ心を行うようになるということです。言い換えれば偽善的でなくなるということです。偽善的な宗教となり下がっていた1世紀のユダヤ教に対し、イエス・キリストを通してもたらされた福音のメッセージは、取税人・罪人・売春婦などの綺麗ごとでは納得しない人々の心を突き動かしたのです。そのような人々が神の御心を求めはじめた最大の理由は、キリストの人格と生涯、特に十字架を通して現わされた神の愛・無条件の愛に触れたことにあります。そのようにして生まれた神との愛の関係こそが、彼らに希望を与えたのです。そして、後者の「民となる」ということについて言えば、その神との愛の関係が切れることはないということを現わしています。まさにパウロが言ったように、なにものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ人への手紙8章39節)。私たちの人生はその神の愛のみ手に取り囲まれており、その神の愛は私たちを突き動かして、私たちを神に従う者とさせるのです。それぞれに与えられた神の愛の促しに従っていきましょう。恐れることなく、全幅の信頼をもって、失敗を恐れずに。ごちゃごちゃ言うやつには言わせておけばいい。創造性は神経症的な恐れからは生まれません。神に守られ、導かれているという平安から生まれるのですから。



No.09『永遠から振り返る』
◆ヘブル人への手紙9章26〜28節
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。


 ヘブル書の記者は1世紀に、自分たちの時代を指して「今の世の終わりに」と言っています。世の終わりと聞くと、異邦人である我々は、つい人類の滅亡、地球や宇宙の崩壊をイメージしがちなのですが、ヘブライ人の間では契約の刷新を意味する言葉です。つまり、古い契約が終わりを告げ(本当は終わりというより完遂なのですが)、新しい契約がもたらされることです。ですから、キリストが来られたということは世の終わりが到来したということなのです。世の終わりはすでに1世紀から始まりました。そして、キリストが最初に来られたことが人類の罪の贖いだとすれば、再びキリストが来られるときは私たちが天に迎え入れられる時だとヘブル書の記者は言っています。そのキリストが再び来られる時がいつなのか、それは私たちにはわかりません。ただし、はっきりしていることは、それが私たちにとって救いの時であるということです。だとすれば、私たちがこの地上の生涯を終える時も、救いの時であると言うことができます。私たちクリスチャンにとって、死は終わりではなく永遠への通過点なのです。その永遠から振り返って見るならば、私たちが地上で生きる時間は非常に短く、そして貴重な時間であることがわかります。地上での生涯は実に限りあるものであり、その限りがあるということ自体が希少価値をあらわしています。だから、私たちクリスチャンにとって生きることそのものが神から与えられた使命なのです。いつか必ず、何もできない冬がやってきます。終わりがやってくるのです。イエス・キリストを信じていない人は、まずこのお方を信じましょう。そして、永遠のいのちをいただいて、その永遠から振り返って今を見るのです。そうすると見えてくる。生きることそのものが、神からの使命です。



No.10『イエスの血の力』
◆ヘブル人への手紙10章19節
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。


 ヘブル人への手紙には旧約聖書の祭儀律法に使われている専門用語がふんだんに盛り込まれています。今日の聖書箇所でも、血や聖所という言葉が使われていて、説明なしに理解することはとても難しいです。イスラエルでは神を礼拝するにあたって、幕屋や神殿を造り、その中に聖所というところが設けられました。そこは神がおられる場所であり、祭司たちだけしか入ることのできない場所です。すなわち、きよめられた人しか入れないのです。そして、その中に至聖所というものが設けられ、そこには年に一度大祭司しか入ることができませんでした。そして、祭司たちは民の犯した罪の贖いの儀式を行い、その儀式には動物犠牲が行われたのです。つまり、動物の血が人間の身代わりに流されたというわけです。これによって、民は神の裁きを受けることなく、神の民として生きていくことができたのです。しかし、この祭儀律法は不完全だというのがヘブル書の記者の意見です。このような律法の規定は本当の意味で人間を救うことができず、むしろ罪の意識が増し加わり記憶されるばかりで、神を求める思いはそがれていくと言うのです。しかし、律法は後に来るものの影であり、本体は別にあるとヘブル書の記者は言います。その本体とはイエス・キリストの十字架であり、流されたイエスの血です。イエスの血は、信じる者の罪を完全に赦しきよめることができ、神に近づく資格を私たちに与えてくれるのです。それゆえ、新契約の時代である今は、神殿礼拝の必要性はありませんし、それをしてはいけません。動物犠牲は必要ありませんし、それをしてはいけないのです。もし、旧約の祭儀を復活させるならば、それはイエスの血を不完全とみなすことになります。趣味程度にするなら構いませんが、そこに何らかの赦しやきよめの意味を込めて祭儀律法を復活させるならば、それはイエス・キリストの十字架の完全性を疑うことになるのです。キリストの死を通して、私たちは大胆に神に近づくことができ、ユダヤ人も異邦人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、何の差別もなく神の子となれるのです。イエスの血は、一切の差別を取り除き、神の子としての自尊心をよみがえらせることのできる力があるのです。



No.11『信仰によって称賛される』
◆ヘブル人への手紙11章1〜2節
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。


 人は何によって称賛されるのでしょうか。いろいろと考えられます。その人柄、優しさとか朗らかさ、快活さや前向きな姿勢など。あるいは指導力や判断力、洞察力や決断力。そういったものを兼ね備えたリーダーを人は求めますし、そういった人になろうと考えたり憧れたりします。しかし、今あげたような評価というものは実に相対的なものであって、ある人には称賛に値しても、他の人からしたらつまらないことに映るかもしれないのです。人の好みによって左右されるものであって、絶対とは言えません。ところが、このヘブル人への手紙には、神が評価する基準が明確に記されています。それは信仰です。信仰には次のような機能があります。それは、「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」という、ものです。これは決して信仰の定義ではなく、その機能です。すなわち、信仰が働くとこうなる!というものです。基本的に信仰は目に見えない領域のものです。望んでいる事がらというのも目に見えないものです。この目に見えない望みを保証し、まだ見ていないものを確信させるという働きを信仰はするのです。そして、この信仰によって人は神からの称賛を受けました。目に見えない神を信じ、その約束を信じることが、神の目には望ましいことなのです。そして、究極的に神が望まれるのは、イエス・キリストの福音を信じることなのです。キリストの身代わりの死を通して現わされた無条件の愛・神の愛を信じて生きることを神は究極的に望んでおられるのです。全部目には見えない領域のことです。しかし、それを信じることができる人は幸いです。目に見えることだけにとらわれて生きることは、実に不幸です。目に見える世界は不安定だからです。しかし、目に見えない世界は永遠にして不動です。そして、目に見える世界は目に見えない世界におられる神によって導かれているのです。そのことを信じる人は、称賛に値します。



No.12『創造主である神への信仰』
◆ヘブル人への手紙11章3節
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。


 世界の創造。あるいは宇宙のはじめ。実に興味をそそられるテーマです。みんなが知っているビッグバン理論(宇宙の初期には全ての物質とエネルギーが一カ所に集まる高温度・高密度状態にあったとする理論。この初期状態、またはこの状態からの爆発的膨張をビッグバンという)などは、宇宙の始まりを示す興味深いセオリーです。その始まりはいったいどのように起こったのか?何もないところから偶然に発するはずがない!そこに神の存在があるのではないか!などと言って、有神論を唱える科学者もいるし、神を言うと科学的じゃないということで、サムシンググレートなどと言い換える人もいます。近代は神の存在を抹殺したがりましたが、どうも抹殺しきれてないようですね(笑)。実際には人間は過去に戻って、宇宙の始まりを見ることはできないし、また宇宙の始まりを実験することもできません。要はわからないのです。しかし、聖書ははっきりと宣言します。世界は神が造ったと。それも、その神の言葉、すなわち神が言い放った命令によって造られたのだと。「光よあれ」と神が言われたら、光ができたと創世記に書かれています。宇宙の創造は神のみ言葉によるというのが聖書の考えです。神の意志が宇宙を創造したのであり、同時に世界を保っているのです。今日の聖書の言葉で言うならば、「見えるものが目に見えるものからできたのではない」ということです。当然、これも科学的に証明することはできません。私たちにできることは、信じるか信じないかの選択をすることだけです。信じないのも一つの道でしょう。しかし、信じるならば、その人は神の力を経験します。私は神の意志によってこの時代に、この国に産み落とされ、そして生かされてきたのです。更に私には神に与えられた様々な使命があります。その使命を果たすために、神はあらゆる必要を満たし、私を用いて下さいます。神の計画の全貌は私にはわからないのですが、主に信頼して進む時、神は私という器を用いてわざをなされます。それゆえ、私の人生には意味があり、私には存在意義があります。誰が何と言おうとです!このような確信は何を基としているのでしょうか。それは、創造主である神への信仰です。



No.13『信仰を喜ぶ神』
◆ヘブル人への手紙11章6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 多くの宗教団体は言います。たくさんのお布施をし、宗教行事を重んじ、奉仕活動に参加する人を神は喜んでくださると。そして、そういう人を特別に祝福してくださると。聖書の中にもそれらしき教えがないわけではないのですが、それはあくまで、神を愛することと隣人を愛することを目的として勧められているところです。決して、神の特別扱いや特別な祝福という現世御利益をえさに、宗教熱心にならせようという勧めではありません。では、聖書は何と言っているのでしょうか。神は何を喜ばれるのでしょうか。今日の聖書箇所によると、それは「信仰」です。神を信じるということですね。じゃあ、何を信じるのかというと、3点あります。@まず、「神に近づく」ということです。信じている、信じていると口で言いながら、神に近づこうと思っていないなら、その信仰は気休めにしかすぎません。まずは、神を知ろうと近付いて行く、神を求めていく必要があります。A次に、「神がおられること」を信じなければなりません。つまり、今、私たちが生きている時間と空間のただ中に、目に見えない神が共におられると信じることです。詩篇記者に言わせれば、「私の前に主を置く」すなわち神の存在を認めるということです(詩篇16篇8節)。Bそして最後に、「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じなければなりません。これは興味深い表現です。「神に求める者」ではなく「神を求める者」です。つまり、神が持っておられる力や祝福、あるいは現世御利益を求めるのではなく、神ご自身を求めるということです。ヘブル人への手紙11章には旧約聖書の偉人たちが出てくるわけですが、みな生き方が違います。これがモデルだ!という生き方はなく、それぞれに違った結末を迎えます。しかし、全員に共通するのは、神ご自身を求めていたということです。そういう人の人生は、神の祝福で彩られ、天では大きな報いがあるのです。神を追い求めて行きましょう。そして、その道には神の報いがあると信じていきましょう。



No.14『天国への旅路』
◆ヘブル人への手紙11章13〜14節
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。


 旅には必ず目的地があります。行き先を決めずにする旅もあるようですが、ほとんどの旅は目的地を定めることでしょう。そして、その目的地までの間、様々な町にとどまる時、その人はその町の寄留者です。ずっとそこにとどまるわけではありません。あくまでも目的地を目指しながら、そのために計画を立て、節制をしながらゴールに向かうのです。神を信じる者の人生はまさにそのようなものだとヘブル書の記者は言っています。人生は天国への旅路なのです。その旅路には、楽しいことや嬉しいこと、苦しいことや悲しいことがあり、成功や失敗など、いろんな場面があるわけです。しかし、どの場面にも共通していることは、それが目的地に向かう旅路であり、その全てが大切な道程だということです。そして、その旅にはいつも変わらず、私たちを愛し守り導いてくださる同伴者がいる。「世の終わりまであなたがたとともにいる」と言ってくださるイエス様がともにいてくださるのです。こんなに心強いことはありません。そして、主は、私たちに天の故郷を慕い求めるようにと勧められました。天の故郷は、私たちに対する神の約束が完成する場所であり、全ての出来事が益と変えられる瞬間です。それに対してこの世は未完成であり、全てが益に変えられていると思えない出来事に満ちいています。それこそこの地上では、完成された「約束のものを手に入れることはありません」。しかし、裏返して言えば、未完成なものを手に入れることにはなるのです。主と共に歩む時、完成された御国の前味とも言うべき、神の導きと祝福を経験することができるのです。人生という旅路には、この導きと祝福が不可欠です。祈り求めていきましょう。人生における神の導きを。そして、それに必要なすべてのことを。たとえ、未完成と言えど、それは大きな助けとなるはずですから。



No.15『神の前に生きる』
◆ヘブル人への手紙11章38〜40節
――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
(ヘブル人への手紙11章38〜40節)


 目に見えない神を信じる者にとってこの世はふさわしい所ではありませんでした。1世紀のクリスチャンにとってみれば、世とは、大祭司カヤパやパリサイ人律法学者などが宗教的にも政治的にも支配するユダヤのことでした。または、そのユダヤを力によって捻じ伏せ、総督を置いて支配していたローマ帝国でもありました。どちらも対立構図にありながら、共通している点はこの世の支配を欲していたということです。その支配欲から来る競争原理がユダヤ人の間で蔓延し、ローマからの独立運動は盛んでした。そのような運動は全てローマ軍によって鎮圧されましたが、ユダヤ人の間での律法主義と国粋主義はヒートアップするばかりだったのです。そのような「支配したい!」という欲望が行動原理になっているこの世は、旧約の聖徒たちだけでなく、1世紀のクリスチャンたちにとってもふさわしい所ではなかったのです。彼らが求めたのは神御自身とその御心でした。そして、そのお方のおられる天の故郷です。この地上の生涯は、天の故郷に到達するまでの旅路であったのです。この世を旅路と理解する者と、この世を支配したいと欲する者とでは話が合うはずもなく、生きる世界が全く違いました。このように書くと、一見、クリスチャンは世捨て人のように思われるかもしれませんが、実際にはそうではありません。この世を旅路と理解する者たちは、地上でどんなに成功しても、それで約束のものを得たとはとらえなかったでしょう。また、どんな挫折があっても、それで約束のものを失ったとは判断せず、失望もしませんでした。有頂天にもならず、逆にすねて自暴自棄にもならず、ただただ神の前に生きることを心がけたのです。このような神への信頼と愛が、不動の歩みをさせ、信仰者の忍耐を生み出したのです。それはまさに、「この世界に囚われないで、この世界にいる」という生きざまでした。私たちもこの世での生を精一杯生きるのですが、同時にそれが旅路であるという理解を忘れないようにしたいものです。妬みや怒りに囚われて、支配欲を動機として発言したり行動する時、そこに真の自由はなく、平安もありません。神のまなざしを忘れずに進んで行きましょう。



No.16『声援を受けて』
◆ヘブル人への手紙12章1節
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。


 ヘブル書の記者は11章で、旧約の聖徒たち、そして、すでに死んだ信者たちについて語り、彼らが天の故郷を追い求めていたことを伝えています。そして、今日のところでは、その聖徒たちのことを「多くの証人たち」と表現しています。ここで注目すべきことは、その「多くの証人たち」が、私たちを取り巻いているという記述です。そう、彼らは肉体において死にましたが、霊においては生きているのです。そして、私たちを取り巻いているのです。取り巻いて何をしていらっしゃるのでしょう?ヒントは次の言葉にあります。「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」。ヘブル書の記者は、私たちの人生を競技にたとえています。競技する者を取り巻く人たちは何をするのか?もうおわかりですね。そう、応援です。「がんばれ〜!」とか、「負けるな〜!」とか、「俺がついてるぞ〜!」とか、競技者を取り巻く人は応援するわけです。つまり、すでに天に召された聖徒たちは、あなたを取り囲み、あなたを応援しているというのです。あのアブラハムが、ヤコブが、モーセが、ダビデが、そして、使徒たちが、ついにはアウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレーなど、あの偉大な聖徒たちが、何と!あなたの人生に注目し応援しているというのです。忘れてはなりません。どんなに辛いことがあっても、また、自分がちっぽけな存在に思えて、自分の人生に意味が見出せない想いに駆られても、あなたが声援を受けているということを。すでに、地上での生涯を終え、その競技を全うした彼らが、あなたにエールを送っているのです。だから!いっさいの重荷を主にゆだねて!罪の誘惑を振り払って!主を信じ、主に従って行こうではありませんか。あの聖徒たちのように。神は必ず約束を果たして下さるのだから。



No.17『この人を見よ(Ecce homo・ラテン語)』
◆ヘブル人への手紙12章2〜3節
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。


 人生の目的であり模範であるお方、イエス様から目を離すなとヘブル書の記者は勧めています。イエス様は「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。この「ご自分の前に置かれた喜び」とは何かというと、信仰による救いを完成させることでした。イエス様を信じるだけで、神との関係が回復し、神に愛されている者として生きていくことができる。そのような神の子としての尊厳が回復される道、その救いの道をを完成させることこそイエス様の喜びでした。そのためにイエス様は十字架をも忍ばれたのです。また「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた」とありますが、ここで言う罪人たちとは、それこそ育ちや血筋、肩書き、あるいは性別や人種を誇りとし、不利な条件下にある人間は神に愛される資格がないと説いた人たちです。イエス様はこのような者たちの反抗に耐え、神の子としての尊厳を失うことなく、胸をはって勇敢に立ち向かわれたのです。ガリラヤ地方のナザレという田舎町出身の大工の息子であるイエス様、名もなき者たちの友となられ、ついには惨めな十字架刑に処せられたイエス様。このお方こそ、神の子であり、万物の支配者であり、メシアであるということが復活によって証明された。これは実に逆説的で皮肉な論法です。それゆえ、打ちひしがれている人は、主イエスを見上げましょう。まさに「この人を見よ(Ecce homo)」です。なぜなら、彼に信頼する者は、その復活の力によって立ち上がるのだから。そうすれば、「心が元気を失い、疲れ果てて」しまうことはありません。

「敗北は骨を固く鍛える。敗北は軟骨を筋肉に変える。敗北は人間を不敗にする。」ヘンリー・ウォード・ビーチャー
「どんな不幸な人生からでも、利口者は何らかの利益を得る。一方、どんな幸福な人生からでも、愚か者は心を傷つけられる。」ラ・ロシュフコー



No.18『平安な義の実』
◆ヘブル人への手紙12章11節
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。


 私たちが神を信じているにも関わらず、試練に合うのは、私たちが父なる神の子である証拠だとヘブル書の著者は言います。肉の父親が子の成長のために懲らしめをするのと同様に、試練を通して、私たちは神に鍛え上げられているというのです。そして、訓練された人々には「平安な義の実」を結ばせるのです。言い換えると、「平安な義の実」は、試練を通過して訓練された人にしか与えられない賜物であるということができるでしょう。喜ばしいものではない、かえって悲しく思われる試練は、私たちを信仰の訓練へと導き、そこを通過した者にしかわからない平安の境地があるのです。それゆえ、今悲しみの中にある人々は、このことばに励まされて耐え忍ぶ必要があります。神に与えられた約束の言葉を信じ、神に祈りをささげながら、耐え忍ぶのです。逆境の中にあっても、主を礼拝し、主を賛美することを忘れてはなりません。その先にある栄光は大きいからです。それは負け犬の遠吠えだ、負け惜しみだ、あるいは怨念だの、ルサンチマンだのと見做されたとしても気にする必要はありません。負け組の見苦しい神頼みだとみなされても、そんな意見は放っておきましょう。そんな人の評価は、実際、神の前ではどうでもいいことだからです。大切なことは、全ての出来事を神との関係において捉えなおすことなのです。そこに、祈りがあり神との交わりがあり、無から有を創造する神の奇跡が生まれるからです。そのような神との関係における視点を持てない人には、神の足跡やその働きが見えないのです。「私の人生には神の足跡があり、今もなお私は神に導かれている」と言いきって、進んで行ける人は幸いです。何故なら、その人は、状況や感情のブレや恐れに支配されず、神の約束に支えられて生きるからです。

「偉大な心はしっかりとした拠りどころを持っている。卑小な心は願望しか持っていない。小さい心は不幸に馴れておとなしくなっている。偉大な心は不幸の上にそびえ立つ」ワシントン・アーヴィング(19世紀前半のアメリカ合衆国の伝記作家・歴史家)




No.19『あなたを離れず、あなたを捨てない』
◆ヘブル人への手紙13章5節
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」



 ロンドンにジョージ・ミューラーという牧師がいました。彼は孤児の父と言われた人であり、祈り一つで何千人という孤児を養ったそうです。彼が絶えず口ずさんだ聖書の言葉が、今日の聖書の箇所にある「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」だったそうです。彼はよく病気をしたそうですが、その度に祈りました。しかし、神はぎりぎりのところに行くまで、必要なものを与えてはくれませんでした。しかし、最後には遅すぎたり、多すぎたりすることは決してなかったそうです。いつも必要が満たされました。祈る人は必ずこのような経験をするものです。私はこのようなギリギリのところで祈りが叶えられるという経験をする度に、次の聖書の言葉を思い起こします。「…貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」(箴言30章8〜9節)。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」(テモテの手紙第一6章6〜8節)。神は祈りに応え、必ず必要を満たして下さり、決して私たちをお捨てになることはありません。人は悪意を持ち、捨てるかもしれません。しかし神は捨てない!私たちは、知らず知らずに人を恐れ、それゆえにさまざまな思い煩いに陥ってしまいます。けれども、この「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」という神の約束に信頼して、祈りながらアクションを起こして行くならば、主は必ず必要を満たして下さいます。しかし、ぎりぎりまで待つ忍耐が要求されることを忘れてはなりません。神はその信仰を試されるのです。アブラハムが約束の子を得るまで試されたように、あるいは生まれた後もイサクの奉献にて試されたようにです。私たちは二枚舌の生き物であり、都合のいい時だけ「信じます」と言い、都合が悪くなると簡単に神の約束を棄てて人間的な解決法を選択します。アブラハムがハガルを通してイシュマエルをもうけたように。しかし、最後まで神様はアブラハムを諦めませんでした。アブラハムが信仰の人として生き抜くまで、何度も彼にチャンスを与えたのです。ここに神の忍耐があり、そこからアブラハムの信仰の忍耐が生まれたのです。そういう意味では、忍耐も神の恵みによるものであることがわかります。しかし、二枚舌であり続けるようには神はなさいません。信仰一本、一筋で生きられるようになるまで、試しつづけられるのです。人が何と言おうとです。神の前に生きることを大切にしながら、信仰の生涯を全うしていきましょう。



洛西キリスト教会

〒615-8013
京都府京都市西京区桂清水町103

TEL 075-391-0044
Mail sfddrcc@yahoo.co.jp