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ガラテヤ人への手紙galatians

From the pastor's office <牧師室から>

「恵みは罪のゆるしをあたえ、平安は静かな、喜ばしい良心を与える。さらに、罪が赦されていなければ、平安はもちえない。律法は罪のゆえに良心を告発し、恐れさせる。良心が感じる罪は、巡礼や徹夜の祈りや労働や熱心な努力や断食など、要するにいかなる行ないによっても取り除かれない。いや、むしろそれらによって増大されるのである。だから、われわれがより労し、罪を取り除こうと努力すればするほど、われわれの状態はよりひどくなる。罪は恵みのみによって取り除かれるのであって、ほかのなにによるのでもない。このことは大いに学ばれるべきである」
(マルティン・ルター著、徳善義和訳、ガラテヤ大講解より)



No.01『信じる者は本当に救われる』
◆ガラテヤ人への手紙1章4〜5
キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。


 パウロは基本的にこの世界を悪いものとみなしています。この「悪の世界」というのは具体的に何をさしていたかというと、律法主義、競争主義、成果主義で人間の価値をはかる1世紀の世界、特にイスラエルをさしていました。これは本来神が望まれた神の民とは程遠い姿でした。キリストを信じた者はこの世界から救われたのであり、現代に生きる信仰者も、類似の価値観を持った現代の世界から救われているのです。つまり、恵みにより信仰によって、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちにあずかり、天にある全ての霊的祝福を受け取りました。それも、ただでです。何の行いも、何の実績も、何の成果もないままに、ただ信じるだけで受け取ったのです。それゆえ、私たち信じる者の価値や存在意義は、この世の何によって測られようとも失われることなく、あるいは減ったり削られたりすることなどありません。信じる者は本当に救われたのです。それゆえ、私たちの幸福は遠い未来に存在するのでもなく、誰か他の人が持っているのでもありません。幸福はすでに私たちの心の中にあるのです。それを発見できた人は真に幸いな人と言えるでしょう。

「真の信仰心から、そして心の底からひたすら神のもとを訪れる者には、そのすべての願いが聞き入れられ、求めていたものが与えられる」マルティン・ルター



No.02『混ぜちゃだめ』
◆ガラテヤ人への手紙1章9
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。


 今日のみ言葉は何だか穏やかでないですね。一見、パウロは人を断罪する偏狭な宗教者のように思えます。しかし、本当は逆でして、彼の敵がガチガチの融通の利かない戒律主義のクリスチャンだったのです。ここで、パウロが守ろうとしているのは福音でした。それも「あなたがたの受けた福音」です。つまり誰かが作り出したメッセージではなく、イエス・キリストから弟子たちに、そしてパウロにも啓示され(12節)、ガラテヤの信徒たちに伝えられたメッセージです。その内容は、キリストが人類の罪の身代わりに死なれ三日目によみがえられたことにより、それを信じるだけで救われるという恵みのメッセージでした。そこには人種や国籍、文化的背景による差別はなく、みなが神に愛され、神の祝福にあずかれるのです。実に良い知らせです。Good Newsです。Gospelです。そして、この良い知らせを聞いて、それを信じたガラテヤの信徒たちは喜びに満ちあふれ、その福音を伝えてくれたパウロのためならば全てを差し出したいと思ったほどです。そこには愛の関係、信頼の関係があり、自発的で喜びに満ちた行動がありました。誰も強制せず、感謝から来る従順がそこに生まれたのです。これこそ、恵みの力、福音の力でした。しかし、それが気に食わない戒律主義のクリスチャンたちは、福音に混ぜ物をし、「信じるだけではだめだ。割礼を受けて、律法を行い、ユダヤ人のようにならねばならない」と主張したのです。まぎらわしいのは、キリストを信じることを否定していないところです。ただ、彼らは混ぜ物をしたのです。救われるためには、やっぱりそれ相応の行いが必要だと。結果として、混ぜ物の福音を信じた人たちからは喜びが失われ、冷めきった宗教だけが残ったのです。さあ、そうならないために、信じるだけで救われるという恵みの福音に、私たちも立ち続けましょう。そして、喜びに満ちた信仰生活を全うしようではありませんか。混ぜちゃだめよ。



No.03『自惚れに至る行いと信仰による行いの違い』
◆ガラテヤ人への手紙2章16節
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

 
 良い行いをすることは良いことです。当たり前か(笑)。でも、その動機が問われます。その良い行いをしている自分に酔いしれて、「神はこんな私をほうっておくはずがない。必ず私の正しさを見て私に報いてくださるはずだ」などと考えるとしたら、それは大間違いです。神を振り向かせるほどの行いってどんなでしょう。神を認めさせることのできる正しさってどんなでしょう。マザーテレサの行いでしょうか。キング牧師の行いでしょうか。もしそうだとしたら、人類のほとんどは絶望的です。いやマザーテレサやキング牧師でさえ、行いのゆえに神に認められるのだとすれば望みがないでしょう。彼らも同じ人間であり、罪と弱さを持っていたからです。パウロの言うとおり、行いによって正しいと認められる者は一人もいないのです。人が神に認められるのは、信仰によるのであって、神の恵みとあわれみによって受け入れられる道しか存在しないのです。父なる神の愛に対する全幅の信頼こそ、神に喜ばれる道です。そしてその信頼が本当の意味での良い行いを生むのです。つまり、自分に酔いしれることなく、感謝の表れとしての行いです。それこそ、パウロ、アウグスティヌス、カルヴァン、そして歴代の信仰者たちが教え、実践した行いでした。ここに、自惚れに至る行いと信仰による行いとの違いがあります。信仰こそが力の源なのです。



No.04『神の恵み』
◆ガラテヤ人への手紙2章20〜21節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。


 人間の価値や人生の意味は本当にあるのでしょうか。アルフレッド・アドラーという心理学者は「一般的な人生の意味はない。人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ」と言いました。結局、自分の価値や生きる意味を外に求めたところで見つけ出すことはできません。パウロが言うところの「義が律法によって得られる」という生き方も、外に意味を求めているのです。どれだけの成果があげられ、どれだけ立派な行いができたか、それによって神に認められようとする、すなわち、自分の価値と生きる意味を行いに求めるという生き方は、いずれ必ず絶望に行き着くのです。何故なら、人には死が定められており、病や事故や、あるいは能力の有無、衰えなど、様々な限界があるからです。しかし、神の恵みに限界はありません。私たちの行いや功績が不十分であるにもかかわらず、いや、もっと言えば、罪があってマイナスの状態であるにもかかわらず、信じるだけで神に認められるからです。「イエス様!あなたを救い主として信じます」と告白した瞬間から、古い私たちは葬られて、恵みにより新しい人生がスタートしたのです。確かに、キリストはあなたの内に住んでおられます。それゆえ、あなたは神に愛され喜ばれているのです。あなたは実に価値ある存在であり、その人生には必ず意味があります。信じる者は、人生の意味を自分自身に与えるのです。



No.05『救いの道』
◆ガラテヤ人への手紙3章13〜14節
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

 
 ここでパウロが言う信仰とは、何か強い信念を持つとか、意志が固いということとは違います。逆に、より頼むとか、委ねるとか、信頼を置くという意味があり、私達の側の強さを表すものではありません。むしろ、強い何かによりすがることなのです。その強い何かとは、神の約束です。キリストが私達の身代わりにのろわれてくださったおかげで、私達がアブラハムの祝福を受け、聖霊を受けるという約束です。この約束に、より頼み、委ね、信頼を置き、よりすがることこそ、パウロの言う信仰です。律法を行うという人間の側の強さによっては救われず、人間の側の弱さを表す信仰を通して私たちは救われるのです。なぜなら、人間の強さはもろく、神の約束は堅固だからです。そこで、3通りの生き方を連想させます。一つ目は、身の程を知ってあきらめるというやつです。これは絶望的ですし、本当は身の程を知るのが怖いので、先に諦めてしまうのでしょう。そのほうが楽ですから。二つ目は、身の程をわきまえず、自分の努力とスキルが全てだと考える生き方です。身の程知らずというやつですね。律法主義がこれにあたります。三つ目は、身の程をわきまえてなお信じるという生き方です。あるいは、身の程をわきまえたからこそ信じるというべきかもしれません。これこそ、パウロが語る救いの道です。この道を行くものは、一見、弱く、諦めているように見えますが、実際の歩みは、潔く、しなやかで、粘り強い。「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)、「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:24)、「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(コリント第二6:9〜10)。救いの道を選んで行きましょう。



No.06『天の父に育てられて』
◆ガラテヤ人への手紙3章24〜26節
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

 
「おきてはわたしたちにさまざまの善行を教え、規定していますが、そのことによって善行は生じません。なるほど、おきては示しはしますが、助けはしません。おきては人間のなすべきことを教えますが、それを実行する何らの力を与えません。従って、おきてが定められているのは、ただそれによって人間が善をなすのに無力であることをさとり、自分自身に絶望することを学ぶためだけです。ですから、それは旧約と呼ばれ、すべてのおきては、旧約に属しています・・・」マルティン・ルター『キリスト者の自由』

律法、ルール、規則、倫理、道徳などは、みな正しいことを語っています。けれども、それは人を本当の意味で正しくすることはできません。もしできていたなら、今までの歴史は違っていたことでしょう。罪の故に、律法では人を救うことはできなかったのです。それゆえ、律法は救い主が来るまでの養育係でしかありません。キリストが来られた以上、養育係に育てられる必要はありませんし、お世話も不要です。私たちは「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子ども」になったのです。すなわち、直接父なる神に育てられるようになりました。聖霊の力により、イエス・キリストを通して父なる神との交わりの中に生きることこそ、私たち「神の子」の生き方です。その神との愛の関係の中で、自発的に生まれた良い行いならば素晴らしいのですが、何か規律を守ることがクリスチャンライフだなどと考えるのは間違いです。それは単なる善行の模倣に過ぎず、先に待ち構えているのは自己に対する絶望です。しかし、信仰の道は、神の子としての自由で喜びに満ちた、感謝の歩みを生み出すのです。



No.07『神の愛に出会う』
◆ガラテヤ人への手紙4章3〜7節
私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。


 「この世の幼稚な教え」とは、原語でストイケイア、意味は天体に宿る「諸霊力」だそうです。ですから、新共同訳は「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」と訳出しています。また、このストイケイアは初歩的な教えをも意味しており、新改訳はそちらのほうを採用し「世の幼稚な教え」と訳しています。どちらにせよ、否定的な意味で使われているわけで、キリストを通して現わされた神の愛に出会うまでは、人間は様々な意味で縛られていることを教えています。その縛りをもたらす最たるものが律法だというのです。本来律法は良いものです。正しいことを語り、人間が本来あるべき姿を示しています。その要約は、神を愛し、隣人を愛することです。人類が神を愛し、隣人を愛することに成功していれば、律法には意味があったでしょう。しかし、歴史を振り返れば、それが失敗であったことは明らかです。正論では人間の罪を制することはできなかったし、それどころか偽善という形で罪を助長する結果となりました。そこで、神の側からもたらされた切り札がキリストだったのです。御子キリストのいのちを犠牲にするほどに私たちを愛されたのです。そして、キリストを信じる者に神の子としての資格を与えられました。それも、ただで!この愛と恵みに出会い、そして日々出会い続けるところ(祈りと御言葉)に真の解放があるのです。

「わたしたちのうちひとりしかいないかのように、神はわたしたちみなを愛す。」アウグスティヌス



No.08『愛の実践が伴う信仰』
◆ガラテヤ人への手紙5章5〜6節
私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。


 聖書の中心的なメッセージは神の恵みによる救いです。そして、それは信仰によってのみ与えられる救いです。そこには何の差別もありません。「割礼を受ける受けない」とはそういうことです。ユダヤ人も異邦人も、あるいは奴隷も自由人もと、当時の民族的、階級的差別に左右されることなく、ただ信じるだけで与えられる救いです。現代に生きる私たちにも同様のことが言えます。血筋も、生い立ちも、学歴も職業も、能力の違いや性格の違いも、趣味や特技の違いも、あるいは健康であるかそうでないかも、全く関係ありません。どれ一つとして神を納得させるだけのものはなく、神の前ではどのような誇りも通用しません。ただ、信仰のみが神を喜ばせ納得させるものなのです。信仰のみが神の祝福を通す唯一の管です。そして、信じる時、人は神の恵みを受けて、愛を実践するものとなります。「愛によって働く信仰」と訳されているところは、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰」となっています。信仰を管として注がれた神の祝福は、私たちを愛の実践に駆り立てます。「クリスチャンのくせに愛がないな」とノンクリスチャンの家族などに批判されることがあって、時々悩むことがあります。しかし、そこで悩むところに既に愛があると言えます。相手に関心がなかったら、悩みもしないでしょうし、言われたことに傷つかないでしょう。自分の足らなさや、愛の欠如を痛感していることそのものが、愛の実践に取り掛かっている証拠です。愛するというのはきれいごとではありません。痛みの伴わない愛などあり得ないし、そんなことを期待しているようでは、愛を実践する見込みはありません。神の祝福は、私たちを愛の実践に駆り立てるのです。腹をくくっていきましょう。

「愛の反対は憎しみではなく無関心です」マザーテレサ



No.09『律法の究極的な目標』
◆ガラテヤ人への手紙5章22〜23節
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。


 旧約聖書の律法は、人間の罪を刺激し、結果的には人間が救いようのない存在であることをあらわにしてしまいました。だから、律法を行うことによって救われる道は失われたのです。しかし、律法とは別に救いの道が用意されました。それが、キリストの十字架という恵みにより、信仰によって救われる道です。そして、信仰によって救われた人は、どうなっていくかというと、上記の聖霊の実を結んで行くことになります。聖霊が、私たちの内に変化を与え、愛の実を結ばせてくれるのです。結果として、その実は律法の精神に合うものであり、律法を全うすることになるのです。それも、強制によってではなく、自発的・内発的にです。それゆえ、強いられてでも、脅されてでもなく、神への愛と感謝から、そして生かされていることの喜びから、実を結んで行くお互いでありたいと思います。結果的にそれこそが律法の究極的な目標なのですから。愛すること、喜ぶこと、感謝すること、熱中すること、好きになること、これにまさる力はありません。「赦されたから何やっても自由だ。罪を犯したって構わない」というのは、実は信じてなんかいない人の発想です。自分の欲望のために信仰を利用しただけにすぎません。真の信仰とそこから生まれる本当の自由は、愛すること、喜ぶこと、感謝すること、祈ること、熱中することを生むのです。聖書のこと、キリスト教のこと、教会のこと、お互いのこと、そして自分のことを大切にしていきましょう。



No.10『十字架によって、あなたはOK』
◆ガラテヤ人への手紙6章14〜15節
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 神に愛されるにはどうしたらいいのか。神に認められるためにはどうしたらいいのか。これは1世紀の神話的世界観に生きた人にとって重要な問いでした。現代はどうでしょう。神に愛されるとか、神に認められる、などということはどうでもいい世の中です。それこそ、健康で、能力があって、周りからある程度の良い評価があって、より有意義な生き方ができていればそれでいいと考えていることでしょうし、そこに神が入り込む余地はありません。それこそ、天国も地獄もどうでもいい、死んでからのことなどどうでもよくて、今がよければそれでいいと多くの人が思っているでしょうし、私もその気持ちがよくわかります。ところが、いざ病気になったり、災難が降りかかると、そういう人でも突然宗教的になります。それまで考えもしなかった、「神がいるならなんでこんなことが起こるのか」とか、「なんで私だけこんな辛い目にあわなければならないのか」とか、ついには、「人生に何の意味があるのか、私という人間にどんな価値があるのか」という根源的な問いにまで至るのです。そうすると、現代人でも、結局は1世紀の人々とそう変わらない問いに行き着きます。つまり、何か目に見えない確かな存在からの確証というか、勇気づけというか、アファメーションが必要になってくるのです。キリストの十字架こそがそれです。彼の犠牲のゆえに、信じる者は罪赦されて義と認められる。すなわち、神に愛されて認められる人生・神の子としての人生がスタートするのです。だから大丈夫ですよ。今日もあなたはOKです!十字架を信じている限り・・・。



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