本文へスキップ

エペソ人への手紙EPHESIANS

From the pastor's office <牧師室から>

No.01『天にあるすべての霊的祝福』
◆エペソ人への手紙1章3〜4節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。


 エペソ人への手紙では、恵みによる救いを教える福音のメッセージが語られています。そして、その福音信仰における一致点からはじまって、教会の一体性と成長を目標として記された書物です。更には、その福音信仰における一致と教会の一体性を破壊しようとする悪の勢力(悪霊と表現されていますが、具体的には迫害者であったユダヤ人指導者とローマ帝国のこと)に善をもって立ち向かうよう勧められています。現代とは全く違う時代背景のもとで書かれた書物ですが、その中から現代にも生きてくるメッセージを受け取りたい思います。

 キリストを信じる者は祝福を受け取ります。信じたのに受け取っていないという人はいません。「祝福が足りません」と言うのはまさに灯台下暗しです。物事が思い通りに運ばないことへの「不満」という病理に取りつかれているのです。何故なら、この祝福は「霊的祝福」だからです。「霊的祝福」とは霊的である以上、目に見えない祝福です。つまり、必ずしも現世御利益をさしていないということです。時には現世御利益が与えられることがありますが、それはあくまで目に見えない「霊的祝福」に付随する副産物にすぎません。大切なのは、魂に真の平安と喜びを与える「霊的祝福」です。これがもし失われるなら、現世御利益は害になります。物事がうまくいっても、いかなくても、いつも変わらない魂の平安と喜びをもたらすのが霊的祝福です。だから、私はこう考えるようにしています。「物事が思い通りに運んだら神さまに感謝しよう。でも、それを心の拠り所にしてはならない。物事が思い通りにならなくても私には天にあるすべての霊的祝福が注がれているので大丈夫!何故なら、思い通りにならないことさえも神が必ず益に変えてくださるからだ。それゆえ自分を憐れむのはやめよう。何かもらってないかのように文句を言って座り込んでも何も生まれない。受け取った霊的祝福を携えて、自分に与えられたミッションを遂行するのだ!」と。そして、日常に戻って行くのです。霊的祝福は何の変哲もない日々に輝きを与えてくれます。霊的祝福は目に見える景色を変えてくれるのです。霊的祝福には日常を神の国に変える力があるのです。



No.02『恵みによる赦し』
◆エペソ人への手紙1章7節
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

 
「贖い」とは身代金を払って買い取るという意味で、本来奴隷売買において使われていた言葉です。以前私たちは罪とそこから来る罪責感とサタンの告発に縛られていて、自分の存在価値も人生の意味も見いだせなくていました。けれども、イエス様がその血を流し、自らを身代金として支払い、私たちを神の子供として買い戻してくださったのです。その代価の故に私たちの罪は赦されました。私たちの懸命な努力や償いによるのではありません。私たちの熱心な奉仕によるのでもないのです。ただ、天のお父様が私たちを愛してしてくださった恵みのわざによるのです。私たちの側でできることは、「ありがとう」と言って受け取るだけです。それが聖書が言う信仰です。清水の舞台から飛び降りるような無謀さと男らしく勇敢な決断なんかいりません(笑)。そんなのはただの自己満足です。そんな熱心さや犠牲は人の目には信心深く見えても、完全な神の前では愚かなナルシズムです。悲壮感漂う信仰生活ならやらないほうがまし!そういうのって結局は自分に栄光を返すだけですからね。私たちが神の祝福にあずかる方法はただ一つ。謙虚になって、「ありがとう」と恵みを受け取ることだけです。イエス様の周りの罪人たちのように、子供たちのように。そして、その恵みによる赦しを経験する時、いてもたってもいられなくなる感動が私たちを突き動かすのです。それこそが聖霊の働きであり、信仰の実なのです。信仰によって私たちは善い木に変えられます。そして善い木は善い実を実らせるのです。



No.03『心の目がはっきり見えるようになる』
◆エペソ人への手紙1章17〜19節
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


 使徒パウロは、1章の3節でこう言っています。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。つまり、神の愛を信じ、救い主イエス・キリストを受け入れた人たちは、すでに祝福を受け取ったのです。それも、全ての霊的祝福です。あの人は立派な信仰だから9割、あの人は中途半端だから4割、などということはあり得ません。神の恵みは、信じる者にただで注がれる賜物です。だから、「私は受け取っていない」ということはあり得ない。なのに、祝福されていると感じる人とそうでない人の間に温度差があるのは何故なのでしょうか。原因は二つあると思います。まず、一つはこの祝福が霊的祝福であるということがわかっていない場合。つまり、神に、現世御利益ばかりを求めて、地上的繁栄という意味での祝福を期待しすぎている場合です。神は確かに、現実的な解決を与えてくれるお方です。けれども、地上的繁栄イコール神の祝福かというとそうでない場合が多く、繁栄が堕落を生み出してしまうケースがたくさんあります。2000年のキリスト教の歴史がそれを証明しています。だから、まず、私たちが受け取った祝福が「霊的」であることを認めなければなりません。そして、第二の原因は、その霊的祝福が見えていないことです。今日のパウロの言葉によると、心には目があるようです。肉眼ではないので心眼とでも言うべきでしょうか。その心の目、霊的な目が「はっきり見えるようになって」とパウロは祈っています。つまり、曇ることがあるのでしょう。それが曇る原因は様々だと思いますが、曇って見えなくなることは確かです。それゆえ、私たちは祈るのです。何かが足らないから祈るのではありません。すでに受け取っているのです。ところが、すでに受け取っているものの素晴らしさがわからなくなることがあるのです。だから、祈るべきなのです。お互いに祈りましょう。「知恵と啓示の御霊」が与えられて、「心の目がはっきり見えるように」なり、すでに受け取った霊的祝福を享受できるようにと。



No.04『 教 会 』
◆エペソ人への手紙1章22〜23節
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。


 「教会」と聞いてみなさんは何を連想するでしょうか。荘厳な大理石でできたヨーロッパの礼拝堂を想像するでしょうか。しかし、それは「教会」ではありません。それは教会堂です。じゃあ、「教会」って何でしょう。それは、あなたです!!厳密にはあなたがた、わたしたち、と言ったほうがいいかもしれませんね。つまり、イエス・キリストを信じる人たちの集まりです。それが「教会」なのです。教会と訳されている原語のエクレシアは、「呼び集められた人たち」という意味があります。まさに、神によって召し出されたあなたや私のことなのです。最小単位はイエス様がおっしゃるとおり、二人または三人です(マタイの福音書18章20節)。そんな小さな集まりからすでに教会なのです。それはそれは、尊い集まりです。復活のキリストはそこに存在しているのです。ここに大切な気付きがあります。この集まりだけが、福音を伝えることができるのです。この集まりだけが、神を礼拝する場を提供し、神の臨在をあらわすことができるのです。この集まりだけが、聖書を神の言葉と信じて、それを教えることができるのです。そこに行けば復活のキリストに出会うことができるのです。そのような気付きができたなら、信仰者である自分の存在の大きさに気付くことができるでしょう。私とあなたが集まるだけで、そこに「教会」が存在し、そこにキリストがおられるからです。私たちは、神の主権により選ばれ、召され、神の御心をを行うという使命をゆだねられた存在です。そのような存在として、自らを尊び、教会の集まりを大切にしていきましょう。



No.05『恵みのゆえに、信仰によって救われた』
◆エペソ人への手紙2章8〜10節
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 
私たちは恵みによって救われました。私たちが信じているのは恵みの福音です。恵みとは何か?パウロはこう説明します。「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」つまり、プレゼントです。ギフトです。それに見合う行いをしたからもらえるという「報酬」ではなく、ただでもらえる贈り物なのです。私たちの側でできることと言えば、「ありがとう」と言って受け取ることだけです。その受け取ることが信仰なのです。そうしますと、救いということに関して言えば、私たちの側で誇れるものは何もありませんね。私たちの誇りはただ一つ、キリストの十字架だけです。そこから生まれる思い、それは感謝と従順じゃないでしょうか。その思いは礼拝と奉仕を生み出すのだと思います。そういう意味で、行いによって救われるのではないのだけれど、結果として救いは人を良い行いへと向かわせるものなのです。私たちは神によって新しく作り変えられました。それは、良い行ない、すなわち神を愛し隣人を愛するという方向に実を結ぶ者へと作り変えられたということです。そして感謝なことに主はその良い行いをも備えてくださいます。私たちは恵みによって救われたのですが、行いも恵みによってさせていただくのです。そして栄光は神にのみ帰されるのです。ハレルヤ!

◇マルティン・ルター著、徳善義和訳、ガラテヤ大講解より
「恵みは罪のゆるしをあたえ、平安は静かな、喜ばしい良心を与える。さらに、罪が赦されていなければ、平安はもちえない。律法は罪のゆえに良心を告発し、恐れさせる。良心が感じる罪は、巡礼や徹夜の祈りや労働や熱心な努力や断食など、要するにいかなる行ないによっても取り除かれない。いや、むしろそれらによって増大されるのである。だから、われわれがより労し、罪を取り除こうと努力すればするほど、われわれの状態はよりひどくなる。罪は恵みのみによって取り除かれるのであって、ほかのなにによるのでもない。このことは大いに学ばれるべきである」



No.06『神に近づく』
◆エペソ人への手紙3章12節
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
 

思い出しましょう。そして決して忘れてはなりません。私たち人間は本来罪深い者であり、神の祝福にあずかる資格のない者であるということを。近現代のヒューマニズム(人間中心主義)は人間の尊厳ばかりを強調し、歴史上繰り返されてきた人類の失敗を自分のこととしてはとらえません。そして、その失敗を反省と努力によって克服できると信じてきましたが、その失敗は繰り返され、ひどくなるばかりでした。人間は本質的に狂気を抱えているのです。それゆえ、まことの神に近づくことなど許されず、人間がそのままで神に受け入れられる資格などないのです。しかし、パウロは言うのです。「大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」と。その確信はどこから来るのか。その根拠はどこにあるのか。それは、私たちの中にはありません。私たちの努力。私たちの良心。私たちの善行。そこから、神に認められるようなものは何も引き出せません。神に近づく確信、その根拠は、私たちの側にではなく、神の側にある。私たちの内にではなく、私たちの外から来る。すなわち、神の憐れみと恵みによるのであり、それはただ信じるだけで与えられるのです。キリストの十字架の愛を信じ、神の憐れみと恵みに信頼して神の御前に立つなら、今日も、神はあなたを赦しておられる。あなたを責めてはいない。あなたを見下す者、あなたを糾弾する者からあなたを守り、あなたを愛される。そして、あなたの存在が神に喜ばれているのです。この恵みの約束に信頼して、進んで行きましょう。



No.07『全的堕落』
◆エペソ人への手紙2章1〜3節
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 全的堕落(Total depravity)というキリスト教の教理があります。これは、「堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない」という考え方です。その教理の根拠の一つがこの聖書の言葉です。パウロは人間のことを「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」だと表現しています。「失礼な!ちゃんと真面目に生きてるは!」と反論したくなる教えです。大体私なんかは小さい時から真面目な人間で、自分には思いやりがあると思っていましたし、身勝手な人間が許せないでいましたから、そんな私からしたら、この全的堕落の教理は受け入れがたいものでした。「キリスト教徒より優れた人は他宗教の人にも、あるいは無神論者にもいっぱいいるだろう」という反発をしていたことを覚えています。それは間違いではありません。しかし、この全的堕落の教理は、人の目に堕落しているということの前に、神の目に堕落しているということを語っているのです。人との比較の中では差があったとしても、全能にして義なる神の前では大差ない、どんぐりの背比べ、みな生きていても死んだも同然だと教えるのです。ひどい話ですね(笑)。でも、ちょっとほっとさせられるのは私だけでしょうか?人間同士の競争から降りた時の安堵と言いますか、あるがままを認めた時の安心感があります。それもやはり、神に対する信頼があるからなのでしょうね。聖書は、人間の罪を糾弾して終わりではありません。罪の指摘は裁くためではないのです。救うためであり、赦すためです。素直に罪を認めて頭を垂れる者を神はお見捨てにはなりません。その神の愛の御手に自らをゆだねていきましょう。



No.08『恵みは人を救い、人の心を突き動かす』
◆エペソ人への手紙2章4〜6節
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。


 「恵み」、英語ではグレイス、ラテン語ではグラティア、ギリシャ語ではカリスという言葉が使われています。これは、代価を払わずに与えられる神からの賜物(ギフト)という意味です。簡単に言えば、ただで与えられるもので、私たちの努力や善行の報酬ではないということです。神が一方的に私たちを愛してくださったその結果として与えられること、それが「恵み」なのです。キリストは私たちの罪の罰を身代わりに受けて死んでくださいました。本来私たちが罰を受けなければならないのに、私たちをその滅びの状態から救い出すために、代わりに苦しみを負ってくださったのです。だとすれば、キリストの十字架と復活を信じた私たちはどうなりますか?もう罰を受けることはありません。責め苦を負う必要はないのです。以前は「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」でしたが、今はキリストとともに生かされている神の子供なのです。なんというありがたい話でしょうか。ただ、信じるだけでいいのです。そして、信仰は必ず、私たちの生活に変化をもたらします。「信じるだけでいいなら、何したっていい。罪を犯しても仕方ない」と開き直るのは間違っています。当然、弱さがあって、罪や悪癖から抜け出せない現実は厳しいかもしれません。しかし、信仰を自暴自棄の言いわけに使うのは間違いです。信仰とは単なる信念や気休めではありません。それは、神と神の約束の言葉に対する信頼であって、そこに神との人格的な交わりが生まれるのです。そして、恵みは人の心を突き動かします。教会を愛し、隣人を愛する方向へと…。



No.09『神からの賜物』
◆エペソ人への手紙2章8〜9節
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。


 「いい子にしてへんかったら、サンタさん来はらへんで!プレゼントもらえへんで!」。昔のお母さんは、クリスマス時期になりますと、こうやって子どもをおどしました(笑)。で、いい子にしてもらえる物は、実はプレゼントとは言えません。それは報酬です。リワードです。プレゼントあるいはギフトとはただで与えられるものです。本来、神の祝福というものはただで与えられるものであって、よい行いの報酬としてもらえるものではありません。もし、行いによってもらえるとしたら、人は神に報いていただくためにどれほどの努力をすればいいのでしょう。どれだけやれば神に認めてもらえるのでしょう。神様に愛してもらうためにどれだけがんばればいいのでしょう。考え出すと気が遠くなり ます。聖書ははっきりと応えます。「もし、行いによって神に認めてもらおうとするなら、旧約の律法を全て行いなさい」と。一つの落ち度も許されません。完璧にやらねばならないのです。さあ、みなさんがんばりましょう!?って、無理です。やってもいいけど、すでにスタートラインからアウトです。だって、私たちはみんな異邦人ですから。割礼を受けなければなりません。あ、女性はだめですよ。律法によると、女性は男性の所有物ですから。だんなさんにがんばってもらってください。え?独身女性は?そんなの知りません。あきらめてください。そうなんです!みんな行いによっては無理なんです。がんばってる人も、そうでない人も、神の目の前では五十歩百歩、ご一緒に地獄行き^_^;。まぁ、そんなわけで、ただじゃないとだめなんです。プレゼントじゃないと、ギフトじゃないと私たち人間は救われないんです。しかし、もし救いが「神からの賜物」だとしたら、誰も誇れませんね。感謝することしかできません。「主よ感謝します!」と。今日も、恵みにより信仰によって救われたことを感謝し、主を見上げながら進んで行きましょう。



No.10『破壊された隔ての壁』
◆エペソ人への手紙2章14〜16節
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。


 関係を破壊するもの、それはプライドです。どんなに低姿勢で相手に接したとしても、相手が人を見下していたり、心の中に高いプライドの壁があっては関係は成り立ちません。同様に、私たち自身も傷つき安い心であったり、他人のせいにする癖や、劣等コンプレックスに支配されていては、他者との関係が無意識に破壊されていきます。ユダヤ人には強烈なプライドがありました。神の律法を所有しているという選民意識と、聖民意識(?)があったのです。そして、律法自体も聖なる者しか神に近づくことができないと言い、聖さを要求したがために、異邦人や罪人は神の祝福から除外されていました。ユダヤ人の神殿には聖所というところがあり、そこには汚れたものは入ることができませんでした。さらに、聖所の奥には至聖所というのがあり、聖所と至聖所は垂れ幕で仕切られていました。そして、至聖所には年に一度大祭司だけが犠牲の動物の血を携えて入ることが許されたのです。このような様々な仕切り、つまりパウロが言うところの「隔ての壁」がユダヤ人の習慣の中にありましたので、彼らの心も「隔ての壁」だらけだったのです。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれた時、旧い契約は終わりを告げました。キリストの死と同時に、聖所と至聖所を仕切っていた垂れ幕は真っ二つに裂けたのですが、これは非常に象徴的な出来事なのです。みなが、イエス・キリストを通して、大胆に神に近づくことができるようになったのです。私たちが持つ神との親しさは、キリストが身代わりに死んでくださったおかげであり、それによって「隔ての壁」が取り除かれたからです。それゆえ、今はユダヤ人も異邦人もありません。男も女も、奴隷も自由人もありません。ただ、イエス・キリストを信じるだけで、みな神の子なのです。十字架こそが、神と人、人と人の間にある敵意を取り除くものです。ちまたでは、安っぽい平和論が語られていますが、それは不可能です。十字架の前にひれ伏すことなしに、傲慢な人間の和解はあり得ません。



No.11『愛における成長』
◆エペソ人への手紙3章18〜19節
・・・また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3章18〜19節)


 エペソ人への手紙の中で、パウロはエペソの教会の信徒たちのために神への祈りをささげています。その祈りの中で、神を信じる者たちが霊的に成長していくことを祈っているのですが、その中心テーマは「愛」です。「愛」における成長、それがパウロの願いです。イエス様が、律法の中で最も大切ないましめとしてあげられたのも「愛」でした。神を愛し、自分自身を愛し、同様に隣人を愛するという三つの愛に生きることです。心理学者のフロイトもこんなことを言っています。「成熟した人は、愛することと働くことができる」と。愛することも働くことも、人間関係があってはじめて成立する営みです。そこに人がいるから愛するわけですし、共に働く人や顧客がいるから自分も働けるわけです。同時に、一生懸命愛したからといって報われるとは限りません。必死で働いたからといって必ずしも評価されるとは限りません。愛すること・働くことの中には、思い通りにならないことがたくさんあるのです。けれども、それに振り回されて、愛さなくなったり、働かなくなったり、すねてしまうのは未熟なパーソナリティーです。たとえ、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても、おどすことをしなかったイエス様。そして、十字架の死にまで従われたイエス様の従順こそ、真に成長した人のモデルです。しかし、これは実に高いハードルです。到底無理!と思うのが普通です。「私ならできる」と思った人はやばいかも…。しかし、無理!と思うところから祈りが生まれるのです。身の程を知るからこそ、神の恵みにより頼むのです。私たちも、愛における成長を願いながら、お互いに祈りあって進んで行きましょう。無理!を、可能!にしてくださる主に信頼して。



No.12『教会のゴール、私たちのゴール』
◆エペソ人への手紙4章12〜13節
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。


 教会には様々な働き人がいます。初代教会であれば、使徒、預言者という人たちがいましたし、現代でも伝道者、宣教師、牧師、教師がいます。それら多くの働き人がいるのは、キリストのからだなる教会を建て上げるためであり、私たち一人一人を霊的に成長させるためです。その霊的成長のゴールとは、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ことです。これは恐れ多い目標です。キリストの身丈など、到底追いつけません。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。聖書を読み、福音書を理解すればするほど、それが無理だということに気付かされます。イエス・キリストは本当に偉大なお方であり、このような人格は例がありません。そこをゴールにするなど、気の遠くなるような話です。しかし、この聖書箇所を理解する鍵は、「私たちがみな」と言っているところにあります。つまり、私がピンでキリストの身丈にまで成長するというのではなく、信仰の共同体として、私たち神を信じる者たちが信仰の一致によりキリストの身丈にまで達するということなのです。これは、「人は一人では生きていけない。周りの人の助けなしには生きれない」というような、ありきたりな人生訓をを語っているのではありません。むしろ、それぞれが、ゴールであるキリストの身丈にまで達することを求めながら、その目的を達成する協力者として、私たちは助け合うのです。私たちは人生という名の山を登る、登山家の一団です。強い者もいれば、弱い者もいる。元気な者もいれば、疲れている者もいる。それぞれのペースで山を登るのですが、向かうゴールはみな同じです。そして、それぞれがその登山を終えられるように、お互いが助け合うのです。そこに愛が生れます。そして、そのゴールとはイエス・キリストです。



No.13『怒るクリスチャン、盗むクリスチャン』
◆エペソ人への手紙4章26〜28節  
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。


 この聖書箇所を読みながら、意外とみなさんスルーしてしまわれるところなんですが、初代教会のクリスチャンは結構いい加減でした(笑)。彼らの中には怒ってる人がいたのです。クリスチャンは怒ったらあかん!みたいな、なんか暗黙の了解がありますが、初代教会のクリスチャンは怒りまくっていましたし、イエス様だって怒っていました。ただし、その怒りに支配されてはならないと教えているのです。だから、教会に怒ってるクリスチャンがいるからってつまづかないでください。牧師が怒ってるからってつまづかないでください。それで人に危害を加えたり罪を犯したら問題ですけどね。それこそ悪魔に機会を与えているのです。また、初代教会には盗みをしているクリスチャンがいました(爆)。そんなクリスチャンいやですよね。そんな教会行きたくないです。みなさん、貴重品の管理をしっかりしましょう^_^;。で、そういう人たちを兄弟姉妹として受け入れながらも、ちゃんと、「そんなんしたらあかん!それより人を助けることができるように、自分で働きなさい」と教えるわけです。当然ですよね。さあ、そんなわけで、荒削りで粗野な人たちも含め、初代教会はみんなを神の家族と呼んだのです。ここに神の愛と恵みがあります。決して、悪を行っていいと言っているのではありません。むしろ、聖書は義のために生きろとすすめます。しかし、クリスチャンらしく生きていないからといって、その人にレッテルを貼って追い出すようなことはしませんでした。みなさん、神の子としての特権を失うことは決してありません。救いを失うことはないのです。そこは安心してください。しかし、だからこそ、そこにあぐらをかくのではなく、神の子として、その召しにふさわしく歩んで生きるように聖書は勧めるのです。



No.14『らしく生きる』
◆エペソ人への手紙5章1節
ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
◆エペソ人への手紙5章8節
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

 現代は「〜らしく生きる」ということが、あまり尊ばれない時代です。父親らしく、母親らしく、妻らしく、夫らしく、大人らしく、子供らしく、先生らしく、牧師らしく・・・こういう言葉を聞くと、「人間なんだから、失敗もあるし、本音のところは違うんじゃない?」などと言って、まわりは一見寛容さを見せます。ところが、いざ、不祥事が起こると、「〜らしくない!」ということが声高に叫ばれるのです。つまり、「〜らしく」という言葉が、失敗を責めるというネガティブな面でしか使われていなくて、「〜らしく」ということの良さが評価されていません。父親が「らしく生きる」ことを放棄したらどうなるでしょう。母親が「らしく生きる」ことを放棄したらどうなるでしょう。ところ が、自分に対してはみな変に寛容で、現代では簡単に「らしく生きる」ことが放棄されてしまうのです。しかし、本当は「らしく生きる」ことは素晴らしいことなのです。私はどちらかというと自由を好む人間で、父親らしくありません。夫らしくありません。また、牧師らしくありません。だから、放っておくと、らしくない方向に流れて行ってしまうのです。けれども、その父親としての、夫としての、牧師としての立場や役割が、私自身を作り上げて行くのです。当然、楽なことばかりではありません。嫌になることだってある。けれど、その立場や役割が私に自覚を与え、耐える力を与え、周りの人を大切にする意思を与えるのです。一種の使命感のようなものでしょうか。さあ、私たちは、神に愛される者 となりました。神の子・光の子となりました。天来の全ての霊的祝福に預かり、神に選ばれた者としてこの地上に生きています。父なる神は今日もあなたに注目しておられるのです。そのまなざしを自覚して生きていきましょう。恵みを受けた者としての自覚、それが感謝を生み出し、どうか「愛されている子どもらしく」生きることが・「光の子どもらしく」歩むことが、自らの使命感となり喜びとなりますように。



No.15『神への応答』
◆エペソ人への手紙5章19〜20節
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。


 神を賛美するということ、神に感謝の祈りをささげるということ、これら神をたたえる行為が教会には満ち溢れています。賛美のない教会はなく、感謝の祈りをささげない礼拝はありません。考えてみると、賛美と感謝は教会の集いに欠かせない行為であり、聖書のみ言葉同様、神礼拝の中では重要な位置を占めます。もし賛美と感謝が教会になかったなら、礼拝はいのちを失い、信仰生活は形だけのものとなるに違いありません。聖書のみ言葉が、私たちに対する神の語りかけだとすれば、賛美と感謝は神に対する私たちの応答だからです。応答のない交わりは死んだ交わりです。親子関係でも、親の側から一方的に話され、子どもの方から応答がなければ、その交わりは命を失います。夫婦においても同様です。応答のない交わりは死んでいます。同じように、神との交わりにおいて、賛美と感謝が存在しないというのは、応答のない親子関係・夫婦関係、反応のない人間関係のようなものなのです。賛美も、感謝も、神への応答です。それはどんな形でもいいのです。何かが優れていて何かが劣っているというわけではありません。ゴスペルもワーシップも、讃美歌・聖歌、詩篇の朗読、個人的な祈りにおける賛美と感謝、どれもこれも間違ってはいません。全て神に対する応答です。応答のあるところに、またいのちがあふれ、私たちは神の御心を知ることとなるのです。そして、神の御心の中にいるという確信、神に愛されているという平安が、私たちの歩みを更に確かなものとするのです。



No.16『お勤めご苦労様』
◆エペソ人への手紙6章6〜8節
奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。


 これは、奴隷制度を容認する言葉ではありません。1世紀は奴隷制を持つことがごく当たり前だった世の中なので、その制度に従うしかありませんでした。基本的人権や平等が説かれるようになったのは近代になってからであり、それまでは奴隷制度の廃止など考えることもできなかったのです。現在、国際法において人身売買は禁じられていますが、実際には世界中で2700万人もの奴隷がいると言われています。人間が神の似姿に作られ、神が人間を愛しておられるという観点からも、奴隷制度は廃止しなければなりません。ジョン・ニュートン、ウィルパーフォース、リンカーン大統領、キング牧師などは、十字架を通して現された神の愛の視点から、奴隷解放・人種差別撤廃を訴えかけたのです。けれども、そんなことが通じない1世紀において、イエス様を信じた奴隷たちはどのように振舞えばよいのか。それが当時の課題だったのです。その原則は「キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従う」というものでした。言いかえれば、それは「人にではなく、主に仕えるように」従うのであって、自分の主人が頭がいいか悪いか・能力があるかないかには関係がないのです。この姿勢は現代、職場環境において有効です。自らの上司に「主に仕えるように、善意をもって仕え」るのです。そうすれば、人からは報いがないかもしれないし、それを期待しないほうがいいのですが、必ず主が報いてくださるのです。ということで働いている皆さん!お勤めご苦労様です。主は見ていてくださいます。そして、主が報いてくださるでしょう(*^_^*)



No.17『私たちの格闘』
◆エペソ人への手紙6章12節
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。


 この聖書の言葉が、いろいろと物議をかもし出した時代がありました。間違って解釈すると、キリスト教が変な方向に進んで行くきっかけになる箇所です。これ以外にも、旧約聖書の「聖絶」などが、愛の宗教であるはずのキリスト教を狂気へと豹変させるきっかけとなる箇所です。ただし、旧約聖書は来るべき本体の影にすぎず、本体であるキリストが来られた以上、その影は過ぎ去りました。なので、新契約の時代に生きる私たちにとって「聖絶」はナンセンスですし、旧約帰りですし、「聖絶」を唱えることは神が完成形だと呼ばれた恵みの福音に対する冒涜です。しかし、今日の聖書箇所はどうなるのでしょう。一部の保守的キリスト教会は、こういうところを読んで、他宗教を批判します。イスラムは悪魔だと言って同時多発テロへの報復を支持した一部のアメリカの教会。遡れば、聖地奪還を叫んでコンスタンティノープルを血の海にした十字軍。仏教や神道の行事・日本の文化を全て悪霊だと言った欧米の宣教師たち。どれもこれも、相手を悪霊呼ばわりしている方が悪魔的です。パウロは本当にそんなことを言ったのでしょうか。実は、このエペソの手紙は獄中書簡と呼ばれ、パウロが牢屋にいた時に書かれたものです。つまり、イエス・キリストの福音を伝えたためにパウロはユダヤ人から訴えられ、捕らわれの身となったのです。彼が原因で暴動が起こったことも捕らえられるきっかけとなりました。言うなれば、捕らわれることによりローマから保護されていたのです。なぜ、パウロはユダヤ人に訴えられたのか。それはイエス・キリストを信じるだけで救われるという恵みのメッセージを語ったからです。律法を守り、厳格な宗教を誇りとしていたユダヤ人からすれば、取税人だろうが売春婦だろうが、しまいには異邦人までも、信じれば救われると説いたパウロは目の敵だったのです。それゆえ、聖書が語る悪霊とは何か!それは信じるだけで救われるという神の愛のメッセージに立ち向かう勢力であり、律法主義であり、神の恵みに立ち向かう競争原理だと言えるでしょう。さあ、私たちの敵は誰か?それは、人ではありません。国家でもなければ社会でもない。もっと言えば他宗教でもない。それは、十字架によって現された神の愛を握り潰そうとする人間の思念であり、その考え方、世の中の空気、そして私たちの心に巣食う傲慢さなのです。




洛西キリスト教会

〒615-8013
京都府京都市西京区桂清水町103

TEL 075-391-0044
Mail sfddrcc@yahoo.co.jp