コロサイ人への手紙colossians

From the pastor's office <牧師室から>


No.01『神を知る知識』
◆コロサイ人への手紙1章9〜10節
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

 スイスの宗教改革者、ジャン・カルヴァンは、子供たちの教育のために問答集を作りました。その中で、彼はこう記しています。「問一 人生の主な目的は何ですか。 答 神を知ることであります」と。私たちは神によって造られ、神はこの時代に、この国に、この地域に私たちを置かれました。今、私たちがここに生きているのは、偶然ではありません。神によって造られ、神によって生かされているのです。そして、何らかの使命が与えられています。使命と聞くと、大げさなことを考えがちですが、生きていることそのものが最低限の使命なのです。そうでなければ、生かされ続けているはずがありません。しかし、自らの使命に気付くならば、その使命を遂行しながら、私たちは神ご自身を深く知るようになるのです。これこそが、私たちの人生最大の目的です。過去を振り返ってみて、気付くことですが、至るところに神の助けがありました。もし、そのような助けがなければ、今頃どうなっていたことか。たまたま、乗り切ることができたということが、たくさんあったはずです。自分の努力や責任感だけで、人生を乗り切ってきたなどとは口が裂けても言えません。明らかに神の手がそこにあったのです。このようにして、あらゆる事柄の中に神の存在を見つけ出す時、私たちは神の偉大さを知り、神の恵みに感謝し、神をあがめるのです。このような神を知るという営みこそ、神を愛することなのです。私たちが人を愛する時、その人を知ろうとするのと同じです。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」(コリント人への手紙第一 8章2〜3節)。神に知られている幸いを覚えながら、神を愛するお互いでありたいと思います。



No.02『御子の支配』
◆コロサイ人への手紙1章13〜15節
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。


 現代、「支配」という言葉を聞くと、人々にあまり良い印象を与えません。何故なら、ほとんどの人は、力による支配を連想するからです。共産主義政権の圧政、テロによる報復、あるいはその逆の報復を考えても、民族間・国家間におけるパワーゲームとは明らかに支配権を巡る争いです。そして、その争いは、「支配」という言葉を更に悪く印象付けています。今日の聖書箇所で言う、「暗やみの圧制」とはそれにぴったりの言葉です。神を信じる以前、私たちは暗闇の圧政の中にいました。すなわち、罪と悪魔の責めたてと律法による呪いの下にいたのです。自分を創造した神の存在を無視し、様々な失敗を犯しながらも必死で自己弁護をしていました。しかし、どこかで過去の失敗に対する罪悪感を覚え、もしも神がいるとすれば、その神に愛される資格など自分にはないということに、うすうす感づいていたのです。生きるということを真面目に考えれば考えるほど、人はこの「暗やみの圧制」に気付いてしまいます。ですから、必死でそこから目を背けようとし、人はあらゆる依存症に陥るのです。しかし、「御子の支配」は全く別物です。それは、愛と恵みによる支配です。キリストの身代わりの死によって、私たちの罪を赦し、私たちに神の子どもとしての特権を与えるという、救いの支配なのです。つまり、救われた状態を保ち続けるという支配であって、自由を奪う支配ではありません。私たちには神の子としての特権と自由が与えられました。キリストの身代わりの死のおかげでです。私たちが持っている祝福は、御子の犠牲の上に成り立っているのです。この特権と自由。主のために用いるのが筋ではありませんか。主は愛による内発的な従順を待っておられるのです。



No.03『信仰に踏みとどまる』
◆コロサイ人への手紙1章23節
ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。


 原語のギリシャ語ではじめの文章を見ると、「踏みとどまる(固執する)、堅く立つ、動かない」という三つの動詞が使われています。いずれも、現状維持を指し、ふりまわされずに留まることを勧めています。何に留まるのか?それは、福音の望みであり、それを信じることに、留まれというのです。何を新しくし、何を大切に残すのか、それを見極めることは非常に難しいのですが、やはり良いものは保ち続けなければなりません。福音は良いものであり、2000年以上の時が過ぎた今でも、世界中に宣べ伝えられています。そして、それを信じた人々に希望を与え、この世が与えることのできない神の平安により、救いを与えているのです。キリスト教とは何か?と問われたら、「それは福音であり、イエス・キリストそのものである」と答えることができます。私たちが固執しなければならないのは、この福音です。キリスト教的文化でもなければ、キリスト教教育でもありません。それはあくまで、福音から生れた副産物にすぎず、時代の影響を受けて変化するものであり、変化していっていいものです。しかし、この福音だけは変えてはならないし、ここからずれてしまうなら、それはもはやキリスト教ではなくなるのです。福音のメッセージはシンプルです。@全宇宙の創造者である唯一の神が私たちを愛して下さった。Aその証拠に、神は御子イエス・キリストをこの地上に遣わされた。Bイエス・キリストは私たちの罪の身代わりに死なれ、三日目によみがえられた。以上です。このメッセージを受け入れ、よみがえられた主イエスを信じるなら、それだけで救われるのです。そこに人間の行いの差し挟む余地はありません。ただ、神の恵みによってのみ救われるのです。しかし、救われた者の生き方は、信じるだけにとどまるものではありません。そこから、感謝が生まれます。賛美が生まれます。祈りが生まれます。御言葉に対する興味と信頼が生まれます。そして、様々な愛の行いを生むのです。けれども、その原点は常に福音を信じることにあるのです。そこに踏みとどまりましょう。



No.04『The Courage to Be』
◆コロサイ人への手紙2章6〜7節
あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。


 イエス・キリストを受け入れるということは、福音のメッセージを信じるということです。すなわち、キリストの十字架と復活を通して現わされた神の愛と恵みを信じることです。そして、信じた者には、確かな約束が与えられました。それは、罪の赦しと、神の子供としての特権です。別の言葉で言えば、義と認められ、永遠のいのちに預かったということです。この体験は、自分の存在意義を確かなものとする力があります。たとえ、理想通りに生きられなくても、一生懸命頑張ったのに報われなくても、あるいは不慮の事故や予想もしなかった病気になってしまったとしても、どんな状況でも「大丈夫」と言ってくださり、共に歩んでくださる神がいるということです。そして、競争に負けたり、恥ずかしい思いをしたり、人と比べて自分が劣っているように思えても、それにもかかわらず「わたしはあなたを愛し、あなたの存在を今も喜んでいる」と言って下さる主がおられるのです。ポール・ティリッヒというアメリカの神学者は『The Courage to Be』(存在への勇気・生きる勇気)という本の中で次のように言っています。「勇気とは『それにもかかわらず』自己自身を肯定することである。すなわち自己自身を肯定することを妨げようとするものに抗して、それにもかかわらず自己を肯定することである」。このような勇気は、若さや力や経験によってもたらされるものではありません。このような勇気は信仰によって与えられるものであり、天からの賜物です。失敗にもかかわらず、罪にもかかわらず、挫折にもかかわらず、恥にもかかわらず、負けているにもかかわらず、それでも自分に『Yes』と言えるのは、揺るぎのない神の愛が、聖霊によって注がれているからです。だから、もう一度、目を覚ましましょう。生ぬるい心を燃え立たせましょう。つぶやきだらけの日常から脱出しましょう。そして、もう一度しっかりキリストに根差すのです。そうする時、私たちは、「にもかかわらず」前に進む勇気を持つことができるのです。



No.05『債務証書』
◆コロサイ人への手紙2章13〜14節
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。


 「私たちを責め立てている債務証書」なんて言葉を読むと、「私、なんか借金してたっけ」と驚かれるでしょう。前後の文脈を読めば、これが旧約聖書の律法のことであることがわかります。16節で祭儀規定のことが言われていますので、それは明らかです。つまり、律法は常に正論で私たちを責め続け、私たちは債務証書をたたきつけられているのだ!というのです。現代人には「なんのこっちゃ」と思ってしまう内容です。しかし、今の時代を生きる私たちにも、負い目や罪責感はあるでしょう。「お前があの時あんなことをしなければ、こんなことにならなかったのに」、あるいは「お前があの時決断しなかったから、こうなってしまったんだぞ」という、心の声が自分を責めることってあるはずだし、ある意味、債務証書をたたきつけられているような状態になることがあると思います。こういう罪悪感を全く持たない人がいるとすれば、その人は神をも畏れず人を人とも思わない冷血漢であり、そういう人は論外です。そういう人は確実に神の裁きを免れません。しかし、多かれ少なかれ人は負い目・罪責感を持って生きるものです。つまり、「私たちを責め立てている債務証書」が律法あるいは良心という形で突き付けられているのです。さあ、責められているあなた!負い目を感じて暗い気持ちになってるあなた!キリストの十字架を心に思い浮かべて下さい。そこから、キリストはあなたに赦しを宣言して下さるのです。「あなたの罪は赦されました。あなたを責め立てている債務はわたしが支払っておきました。わたしのいのちを引き換えに」と。だから、負い目や罪責感があなたの心を打ち負かそうとする時、責められるままにしておいてはいけません。いつも、キリストの十字架の赦しを心に持つのです。

「だから、もし罪があなたを不安にし、死があなたを恐れさせるなら、それが空虚な像、悪魔の幻にすぎないと考えるがよい。たしかにそのとおりなのだ。事実、もはや罪はなく、呪いはなく、死(神に見捨てられること)はなく、悪魔はない。キリストがこれらすべてを打ち破り、滅ぼして下さったからである」マルティン・ルター



No.06『本体はキリスト』
◆コロサイ人への手紙2章16〜17節
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。


 旧約聖書には律法というのがあります。一般にモーセの律法と言われるもので、十戒を代表とする様々な倫理規定のことです。そこには、道徳的なものもあれば、祭儀的・宗教的な規定もあり、更には司法に関する取り決めなどがあります。ユダヤ人はこの律法を神の命令と信じて大切にしてきたし、それ以外の預言書や諸書と呼ばれる旧約聖書の文書も、律法の精神に基づいて記されているのです。キリスト教はこの旧約聖書を正典とみなしているので、ユダヤ人同様にそれが神の言葉だと信じていることになります。ところが、現代、私たちクリスチャンは律法を守っているでしょうか。そこに記された細かな規定を守っているでしょうか。それを守ろうと必死になっているユダヤオタクみたいなキリスト教徒がいますが、果たしてそれは正しい態度なのでしょうか。実際、使徒たちは律法の細かな規定を守っていなかったのです。ペテロにせよパウロにせよ、ユダヤ人コミュニティーの中にいる時だけは、ユダヤ人に合わせていましたが、異邦人たちと共にいた時は律法の規定を犯していたのです。なぜでしょう。それは、律法というものが「次に来るものの影であって、本体はキリストにある」からです。ですから、キリストが来られた以上、旧約聖書のお祭りや安息日律法などを守る必要はありません。律法には食物規定というのがあって、食べてはならない動物がいろいろありましたが、今はキリストが来られた以上、何を食べてもかまいません。律法は成就したのです。じゃあ、何をしてもいいのか?ある意味、何をしてもいいのですが、全てが益となるとは限りません。律法の様々な規定は終わりましたが、その精神はキリストを通して今も生きているのです。それは、神を愛し、自分を大切にし、同様に隣人を大切にするということです。本体であられるキリストを信じた以上、私たちは愛する自由の中を生きるのです。何ものにも縛られず、同時に、与えられた自由を愛することのために用いていきましょう。



No.07『熟達した人となる』
◆コロサイ人への手紙2章20〜23節
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。


 「この世の幼稚な教え」とは何でしょうか。それは、「すがるな。味わうな。さわるな」という命令に生きること、すなわち禁欲的に生きることです。「あれ?」と思われる方がいるのではないでしょうか。禁欲的に生きることは、幼稚どころか大人なことであり、成熟した人格の特徴として一般的に取り上げられているからです。確かに、スポーツ選手や音楽家、様々な研究に携わる人たちは禁欲的です。楽なことばかりを選択していたら、上達したり成長したりすることはできません。禁欲的・自制的であることは熟達した人の優れた特質なのです。なのに、なぜパウロは禁欲的であることを幼稚と言ったのでしょう。それは、当時のユダヤ人たちが、禁欲的に生きることによって神の祝福にあずかれるとか、自制することによって救われると教えていたからです。そのような修養と修行を積めば、神に認められ・神に愛され・特別な人になって救われるのだとユダヤ人は考えたのだし、クリスチャンの中にもそう言う人たちが現れたのです。割礼派と呼ばれるユダヤ主義クリスチャンたちがそうでした。彼らは一見まじめで、禁欲的・自制的に生き、多くの人々に影響を与えましたが、パウロからしたら勘違い野郎の集まりだったのです。厳格な律法の教育を受け、誰よりも禁欲的・自制的に生きた経験のあるパウロからしたら、ちゃんちゃらおかしい教えだったのです。絶望が足らない、自分の罪深さがわかっていない、自惚れ屋の集まり、それが割礼派でした。本当の意味で人を救い、人を変革するとすれば、それは福音によって啓示された神の愛と恵みしかない!それがパウロの言いたかったことです。考えてみると、熟達した人たちが禁欲的・自制的なのは、それによって報酬を受けたいという不純な動機からではなく、その活動が好きだからです。優れた音楽家は報酬のために禁欲的になるのではなく、音楽そのものを愛しているからそうするのです。報酬のために音楽をするようになったら、その音楽家はもう終わりです。どんなに技量があり、人々から評価を受けていても、心の中は腐りきっています。神の愛と恵みはそのような腐敗から私たちを解放し、本当の意味で生きることの全てを喜ぶことができるようにしてくれるのです。



No.08『認識と行動』
◆コロサイ人への手紙3章12節
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。


 脳科学の言葉でメタ認知力というのがあります。「人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という」そうです。たとえて言うならば、頭の中にもう一人の自分がいて、自分のことをモニタリングし、認識する力が、メタ認知力だということです。自覚する能力と言ってもいいかもしれません。人は、自分をどのように認識しているかで、その行動が変わります。自分などいてもいなくてもいい存在だと認識していれば、自暴自棄な行動が生まれます。しかし、自分には使命があり、必要とされていると自覚すれば、その自己認識に応答する積極性が生まれます。また、その自己認識には、自分の能力と感情とが深く関わっています。自分にはどのような能力と特性があるのか、あるいはないのか、を認識する力が必要です。また、そのような自分を認識して、自分の感情はどのようになるのかを把握する力が必要です。その能力と感情をうまくコントロールできなくなる時、否定的な自己認識に陥るのです。そういう意味で、認識(Cognition)は重要なのですが、それをどのように取り扱い、決断・行動していくかが、もっと重要になってくるのです。キリストを信じるとは、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」の自己認識を持つことです。その認識があるでしょうか。あなたはこの時代に、この国に、この家族に、その人間関係の中に産み落とされ、派遣された選ばれし者、神の大使です。そして、今日も神に愛されているのです。何か立派になって、努力したらそうなれるというのではありません。神の恵みのゆえに、信仰によって、そのような特権をすでに受け取っているのです。そのような自覚があるでしょうか。あるなら、そこから決断と行動が必要になってきます。「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける」という決断と行動です。さあ、神に祈り、み言葉に励まされ、神の子としての正しい自己認識に支えられながら、新たな決断と行動を生み出して行きましょう。



No.09『キリストの言葉、そして感謝と賛美』
◆コロサイ人への手紙3章16〜17節
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。


 あまり綺麗事を並べ立てるのは好きではありませんが、神を信じる者の生き様がここに記されているので、紹介しておきたいと思います。要約すると次の通りです。@キリストの言葉を心に刻むこと、A感謝と賛美、の2点です。さて、聖書を記したのは人間です。当然のことです。また、その人たちが、神にコントロールされて、操り人形みたいに恍惚状態で書いたのでもありません。当然、はっきりした意識のもとに、自らの思想と哲学、そして当時の社会状況を反映させながら記したのです。だから、当然、人間の所産です。しかし、その記された書物群に、一貫した救済のストーリーが貫かれていて、キリストについての預言とその成就が描かれているのです。そこに神の摂理があり、旧・新約聖書が正典と呼ばれる理由があります。それゆえ、聖書は神の言葉なのです。この言葉を心に蓄え、刻みつけ、それに生きる時、人生に祝福の実が生るのです。また、感謝と賛美も、結実の大きな要因です。すべてのことに感謝し、神への賛美に溢れた生き方は、常に突破口を生みだします。どんなに困難な出来事に出くわしても、必ず脱出の道を見つけ出す希望と忍耐が与えられるからです。私たちは人間ですから、当然、不安にもなるし、疑いの心を持つものです。その不安と疑いを消すことは、実際には無理で、そいつとうまく付き合うしか術がないのです。しかし、感謝と賛美を習慣づけるなら、必ず突破口が生まれ、「あの不安と疑いはなんだったんだろう。取り越し苦労だったなぁ」と思える時がやってくるのです。キリストの言葉を心に豊かに住まわせると、祝福の実を結びます。感謝と賛美の習慣をつけると、突破口が開かれます。肝に銘じて行きましょう。



No.10『井の中の蛙大海を知らず』
◆コロサイ人への手紙4章5〜6節
外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。


 ここで、パウロが外部の人に対する配慮について語っています。時々こんなことを言う人がいます。「クリスチャンだったら安心ね。神様を信じているから大丈夫よ」などと本気で言っている人がいる。そして、クリスチャン以外の人に対しては、上から目線で「彼らは神様を知らないから可愛そう」とのたまう。はなはだしい世間知らずで、こういう考え方はまるで宇宙人としか思えない(笑)。仏教徒にだってすばらしい人がいます。無心論者にだって人格的に優れた人がいます。そして、クリスチャンにだって悪いやつがいるし、むしろ、クリスチャンっていうのは、もともと自分の罪に気付いて神の恵みを信じた人たちじゃありませんか。クリスチャンであることに特権意識を持つ時点でおかしいんです。それってイエスを十字架に付けた律法学者パリサイ人のメンタリティーですよ。そんなことではなくて、そんな考え方ではなくて、ただただ、神様から与えられた宣教の使命のゆえに、教会の外部の人たちと関わる時には、賢くふるまい、チャンスを最大限に生かさなければなりません。言葉遣いにも気をつけて、彼らが教会の中に来られることを喜び、歓迎し、そして福音をお伝えしなければなりません。礼拝と宣教が教会の使命だとすれば、教会の半分は宣教のためにあると言っても過言ではありません。教会が外に向かわなくなったら命を失います。まさに「井の中の蛙大海を知らず」です。そして、一番、井の中の蛙になりやすいのが、何を隠そう、牧師(笑)^_^;です。さあ、「私は世の光、地の塩」、そう信じて、今日もこの世に遣わされて行きましょう!その時に大切なのは、教えてあげようとか、自分はわかっているのだという上から目線な姿勢を改め、相手のニーズを教えていただくところからはじめることだと思います。自戒の念を込めて。


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