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使徒の働きThe Acts of the Apostles

From the pastor's office <牧師室から>

No.01『神のあわれみを現わす器』
◇使徒の働き1章6〜8節
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


 これは復活の主と出会った弟子たちとのやりとりです。「イスラエルのために国を再興してくださるのですか」とは、選民のために独立国家を作ってくださるのですかという意味であり、1世紀のユダヤ人にとってはメシア待望と密接に結びついた期待だったのです。そしてそれこそが終末でした。ですから、メシアの到来と独立国家再建と世の終わりは一つことだったのです。しかし、その実現は弟子たちが考えているようなものとは違うものでした。結果的にイスラエルの再興どころか、エルサレムはローマ軍によって滅ぼされ、ユダヤ人は離散の民となり、弟子たちも迫害を受けて殉教します。イエス様が「あなたがたは知らなくてもよいのです」というのはその通りでして、弟子たちには別の使命がありました。それは聖霊の力を受けて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるということです。そして、その福音を信じる者の群れこそが真のイスラエルであり、目に見えない霊的な共同体です。そして、神の国はその信じる者たちの存在によって拡大して行ったのです。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人が差別していたサマリヤ人、更には地獄行きのレッテルが貼られていた異邦人さえも、イエス・キリストを信じて神の子となって行きました。ただ信じるだけでです!神の懐の何と広いことか。神の愛の何と大きいことか。その神のあわれみを現わす器として、あなたも選ばれているんですよ。信じて進んで行きましょう。あなたの内には、偉大なお方が住んでおられるのです。そのお方を信頼し、へりくだってそのお方の御心を求めるなら、あなたは神の栄光を見るでしょう。



No.02『罪の赦しのバプテスマ』
◇使徒の働き2章38節
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 
 キリスト教の中心的な教えは罪の赦しにあります。神が私たち罪人を赦してくださり、私たちを神の子供として受け入れてくださり、新しい歩みをさせてくださるのです。その新しい歩みとは聖霊に導かれる歩みです。祈りとみ言葉の生活を送ることにより聖霊に導かれるのです。このような祝福に与ることができたのは、罪が赦されたからです。罪の赦しなしに、私たちは神の祝福に与る資格などないのです。それゆえ、罪の赦しを受ける大前提として、罪の自覚というものが必要になります。だからペテロは「悔い改めなさい」と言ったのです。悔い改めとは方向転換することです。これまで自己中心に生き、あるいは人に引きずられ世間に引きずられ世間中心に生きていた自分を、神中心の人生に方向転換させるのです。その時はじめて人は自らの惨状に気付くことができるのです。神の栄光に照らされ、私たちの内にある歪み、傷、弱さ、自惚れ、恐れ、傲慢さ、欲深さ、他さまざまな罪の性質が露呈するのです。その時、人は罪の赦しの必要性を感じます。罪の赦しの必要性やそのありがたさがわからないのは、自分の罪がわかっていない証拠です。しかし、私たちが神に向かうなら、私たちの心は真理の光に照らされ、神の恵みに突入していくのです。悔い改めと信仰。これこそ救いにいたる道です。
 


No.03『イエスによって与えられる信仰』
◇使徒の働き3章16節
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

 
 エルサレム神殿の美しの門というところに一人の足に障害を持つ男の人がいました。彼は毎日ほどこしを受けるためにそこにいたのです。そこへ、ペテロとヨハネがやってきて、この男がほどこしを求めたところ、ペテロがこう言ったのです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」。この男は癒され、歩きながら神を賛美します。この出来事に驚いた人々を前にして、ペテロが語った内容が今日の御言葉です。この癒しの奇跡には当時の時代的なメッセージが込められています。当時病人は罪人でした。病気は罪の結果・神の罰のしるしでした。けれども、癒しは、この人が神に愛され、喜ばれ、赦されていることを証明したのです。今日的な意味においては、イエスを信じる信仰が完全な赦しを与え、人としての尊厳を回復させるということです。人はあなたに向かっていろいろ言うかもしれません。また、自分の心も自分を責めたりあるいは有頂天にさせたりするかもしれません。しかし、全能の神の前に立つ時、その両者が実にあてにならないことに気付くのです。最終的にあなたが立つのも倒れるのも、神の右の手によるのです。イエスの御名を信じ続けるならば、その人は立つのです。なぜなら、「イエスによって与えられる信仰」がその人を立ち上がらせるからです。もう一度、このお方に対する信頼を新たにして、自分に与えられた課題に取り組んで行きましょう。神からの称賛を求めて・・・。



No.04『自分の見たこと、聞いたことを話す』
◇使徒の働き4章19〜20節
ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」


 イエスの弟子たちは、イエスが天に昇られて後、聖霊の力を受けて奇跡を行いました。まず、足に障害を持つ人をイエス・キリストの御名によって癒すという奇跡を行います。この奇跡が意味するものは、イエスこそが旧約聖書で預言されていたメシア(救い主)であり、このお方を選民であるはずの1世紀のユダヤの指導者たちが殺したということです。ここには本末転倒が起こっています。1世紀のユダヤ人が見捨てたお方がメシアであったという本末転倒と、神に選ばれたはずの民が神が遣わされたメシアを殺したという本末転倒です。いつの時代もそうですが、時の権力者があべこべなことをして間違いを犯すと、権力者はその過ちを隠ぺいしようとします。同様に、ペテロとヨハネもユダヤの指導者たちから圧力を受けます。しかし、彼らには確信がありました。それはイエスこそがメシアであるという確信と、自分たちが神に従っているという確信です。現代は何事においても確信が持てない時代ではないでしょうか。情報過多で、実際に自分で見たり聞いたりしたわけでもないのに、知ったような気になっている人が多く、自分もその一人だと思います。そうすると、錯綜する情報に翻弄されてしまうのです。しかし、実際には、自分の目で見、耳で聞いたことのインパクトに、それらの情報は勝つことができません。実体験に勝るものはないのです。ペテロとヨハネは、その体験したことを信じました。神との交わりで得た経験は貴重であり、確信を持てない現代にあって、私たちに確信に満ちた歩みをさせるのです。さあ、共に神に聞き従って行きましょう。生きた体験を求めて。



No.05『神から出たものならば・・・』
◇使徒の働き5章38〜40節
「そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」彼らは彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。


 この「」の中の言葉は、あの使徒パウロがキリスト者になる前に師事していたユダヤ教の教師ガマリエルの言葉です。ガマリエルはイエス・キリストを信じていたわけではありませんが、非常に冷静かつ的確な指示を与えて、使徒ペテロやヨハネに対する議員たちの弾圧を食い止めています。元来、神の律法に従うことを教えた律法学者たちにとっても、人を脅したり殺したりすることは望ましい行為ではなかったので、彼はふさわしい発言をしています。その中で興味深いのは、「もし神から出たものならば」という言葉です。もし、神から出ていなければ自滅するし、神から出たものなら弾圧しても滅びないというのです。いやむしろ、弾圧することは神に敵対することになるかもしれないとまで言っています。性急な裁きをしないこのような姿勢は尊敬に値します。使徒パウロも「先走ったさばきをしてはいけません」(コリント第一4章5節)と言っている通りです。このような姿勢には忍耐すること・待つことが要求されます。性急な裁きをせず、待ち望む者にこそ人の計画の儚さがわかり、神の計画が見えてくるのです。「もし神から出たものならば」必ず神がそれを存続し成し遂げられるはずです。だから、何よりも私たちは主を待ち望んで生きて行こうではありませんか。



No.06『祈りとみ言葉に専念して』
◇使徒の働き6章3〜4節
「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」


 初代教会の時代、エルサレム教会において、給食の問題で教会内に分裂が起こりました。「ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである(1節)」とあるとおりです。食べ物の恨みは恐ろしい(笑)。けれども、この苦情は当然の訴えでした。ヘブル語を使うユダヤ人、すなわち生粋のユダヤ人こそが優等だという意識があったのか、彼らが優遇されて、ギリシャ語を使う地方からやってきたユダヤ人は後回しにされていたのです。これはあってはならない差別でした。しかし、こういう問題が起こったとき、使徒はどうしたかというと、霊的な解決を選択したのです。二つの方法を採りました。まず、第一に、御霊と知恵に満ちた七人の人たちを選んで彼らを給食担当者にしたのです。彼らの名前から推察するに、この七人はギリシャ語を使うヘブル人です。後回しにされていた側のグループから、復讐めいたことはしないであろう人々、公平に物事を処理できる御霊に満ちた人たちを立てたのです。第二に、使徒たちは「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むこと」にしました。祈ること、そして聖書のみ言葉に耳を傾けることが最優先にされたのです。私たちも様々な問題に直面するとき、自分の力や人の力を頼りとし、問題解決にのみ奔走してしまいますが、それより優先すべきなのは霊的な対応です。その中でも、最も重要なことは自らが「祈りとみことば」に専念することです。



No.07『罪を認めて、イエス様を心に』
◇使徒の働き7章52〜53節
「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」


 この言葉はユダヤ人であるステパノがユダヤ人であるリベルテンの会堂に属する人々(6章9節)に向けて語った言葉です。ステパノは旧約聖書のストーリーを要約して語り、その結論として今日の箇所の言葉を語ります。彼の結論は、イスラエルの民は神に選ばれた人々であり、神の祝福にあずかったにもかかわらず、神に逆らい続けたというものです。その証拠として、神が遣わされた預言者を殺し、ついには御子キリストをさえ殺したとステパノは言います。この言葉は、選民思想が強く律法と神殿を持っていることを誇りとしていたユダヤ人からしたら、はらわたの煮えくり返るような内容です。そんなわけで、この後、ステパノは石で打たれて殺されます。しかし、最後までステパノは彼らに対する赦しを宣言し続けました。この出来事を通して、ますますユダヤ人が神に反逆していたことが証明されてしまうのです。素直に自分の罪を認めてしまえばいいものを。彼らは必至で自分の野望を果たそうとします。これは高慢さのなせるわざです。そこには神の語りかけに耳を傾けるゆとりもありません。彼らの心は彼らの野望でいっぱいなのです。けれども、自らの罪を認めて、イエス様を心にお迎えしたユダヤ人たちもいました。彼らこそ真のイスラエルです。私たちも彼らにならって、神の前にへりくだり、自らの罪を認めて、イエス様を心にお迎えしましょう。そして、私たちの心の中心に入っていただいき、主の導きを待つのです。そうするとき、神は私たちを用いて、私たちの人生に神の栄光をあらわしてくださるのです。



No.08『神の祝福にあずかるには』
◇使徒の働き8章14〜17節
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。


 サマリヤというと、生粋のユダヤ人から宗教的差別を受けていた地域であり、悪霊の住むところとみなされていました。サマリヤ人が神の祝福にあずかるはずがない!これが律法を堅く守ろうとしたユダヤ人の見方だったのです。恐らくペテロもヨハネもユダヤ人でありましたから、同様の偏見を持っていたことでしょう。彼らはガリラヤ出身で、サマリヤ同様、悪霊の住む地から来た地の民(アム・ハー・アーレツ)として差別されたのですが、どこかサマリヤ人よりはましだという思いもあったのかもしれません。差別を経験した者は、自分より低い人間を探して更なる差別を生むというのが人間の罪深さです。ところが、そのサマリヤ人がイエス・キリストを信じたのです。そして、ペテロとヨハネが彼らに手を置いて祈ると、ペンテコステの時に自分たちに注がれたのと同じ聖霊が下ってきたのです。これは、神がサマリヤ人をも信仰のゆえに受け入れられたという確たる証拠でした。このことを通して、神は現代に生きる私たちにも語っておられます。私たちが何者であろうとも、どんな失敗があり、どんな弱さを持っていようとも、自らの罪も認めてイエス・キリストを心にお迎えするなら、その人は神に受け入れられるということです。そして、その人の心にイエス様は住んで下さり、その人の歩みを確かなものとしてくださるのです。



No.09『危機的体験』
◇使徒の働き9章3〜5節
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。


 キリスト教徒を迫害することに情熱を燃やしていたパウロ(ヘブライ名サウロ)がダマスコに行く途中で危機的な体験をします。天からの光とともに、彼は地に倒れるのです。そして神の声を聞きます。その声の主は、何と、パウロが迫害してきたキリスト教徒の信じるイエスでした。パウロにとって最も忌まわしい存在が、実はまことの救い主、まことの神の子であったのです。キリスト教徒を迫害することが神の御心だと思っていたパウロでしたが、実は神に反逆し神の民を苦しめていたのです。認めがたい事実ではありましたが、地に倒れ、目が見えなくなったパウロには抗う余地がありません。後にアナニヤという弟子に祈ってもらい、癒されて目が見えるようになりましたが、その時にはパウロはすでにイエス・キリストを信じ証しする者へと変えられていたのです。私たちも危機的体験をする時があります。肉体的に、精神的に、危機を迎えるような出来事が起こり、自らの思惑が打ち砕かれる時があります。しかし、その危機は恵みの時でもあります。心の中を占有していた自らの野望が追い払われて、神がそこを満たすチャンスなのです。神は私たちの心を御自身との交わりで満たそうと考えておられます。そして、パウロのように私たちの心の目を開き、新たな一歩を踏み出させようとしておられるのです。その時、危機はまさに好機となるのです。



No.10『世界中の人々に向けられた救いのメッセージ』
◇使徒の働き10章39〜43節
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。

 
 これはペテロがイタリヤ隊の百人隊長コルネリオに対して語った言葉です。コルネリオはローマ帝国の兵士であり、そのリーダーでした。ですから、彼は異邦人です。サマリヤ人同様、ユダヤ人からしたら神の祝福にあずかれない人々です。そんなコルネリオとその親族、親しい友人がみなこのペテロのメッセージを聞いて、イエス・キリストを信じました。彼らは自分の罪を認めて救い主を信じたのです。その結果、ペンテコステの時にペテロたちに注がれたのと同じ聖霊が、異邦人であるコルネリオたちの上にも注がれたのです。これは、彼らが神に受け入れられたことの確たる証拠です。このようにして、救いはユダヤ人だけでなく、サマリヤ人にも、更には異邦人にも、信じるすべての人に与えられたのです。そして、この救いのメッセージは、今、私たちのところにも届けられました。自らの罪を認め、イエス・キリストの身代わりの死と復活のいのちを信じ、この救いにあずかりましょう。イエス様を心にお迎えするのです。そうすれば、聖霊があなたに注がれ、神に導かれる人生がスタートするのです。



No.11『あなたのできることを通して』
◇使徒の働き11章19〜21節
さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。


初期のクリスチャンたちは、ユダヤ人以外の人々にイエス・キリストの福音を伝えなかったようです。それは、メシアがユダヤ人を救うためにやって来られたという理解に基づくものです。同族だけに伝えるという閉じられた宣教の在り方は、ユダヤ人の選民意識からすれば当然のことだったのだと思います。ところが、その中に「キプロス人とクレネ人」がいました。彼らは民族的・宗教的にはユダヤ人でありましたが、離散してキプロスとクレネに住んでいたのです。だから、彼らのライフスタイルはユダヤ的であったものの、異邦人の間で生活していたがために、異邦人社会での勝手がわかっていたのです。そんなわけで、ギリシャ人にも福音が宣べ伝えられることとなり、大勢の異邦人がイエス様を信じる結果となります。この勢いは誰にも止めることができませんでした。初代クリスチャンたちが殻を破る瞬間です。神は時に殻を破るよう促されます。その時に用いられるのは、私たちの日々の生活習慣なのです。自分に見合ったものを神は用いられます。自分にできないことをうらやんで落ち込んでいる暇があったら、あなたのできることに注目し、あなたのできることから始めてください。そこに、考えもしなかった独自性が生まれ、殻を破ることができ、ブレイクスルーが起こるのです。神は掛け替えのないあなたに注目しておられます。



No.12『とにかく祈る習慣を』
◇使徒の働き12章15〜16節
彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。


 ヘロデ王は教会の人々を迫害し、使徒のヤコブを剣で殺した(1〜2節)。それにユダヤ人が喜んだのを見て気を良くしたヘロデは、更に使徒ペテロを捕えて牢に入れた(4節)。教会は彼のために必死で祈った(5節)。そして、主の使いがペテロを夜中に牢から脱出させたので、ペテロは教会の人々が集まるマルコの母マリヤの家に向かった(12節)。ペテロが家の戸をたたくとロダという女中が応対し、それがペテロだとわかると、喜びのあまり門をあけるのも忘れて教会の人々に知らせに行った。以上が、今日の御言葉までのあらすじです。そして今日の御言葉を読むと、不思議なことに教会の人々はペテロが生きて還って来たことを疑っているのです。ペテロが生きて還ってくることを熱心に祈っていたはずの彼らがです。おもしろいですね。信じて祈りながらもどこかで疑っている。疑っているのだけれども、祈りはする。そして、いざ祈りが聞かれると驚く。人間のユニークなところです。これこそ人間の本当の姿だと思います。でも、神さまはそんなあやふやな信仰の祈りにも耳を傾けて、応えてくださいました。脱出の道を用意してくださったのです。そう考えると、「とにかく祈る」という習慣は大切だと思います。理屈抜きに、いや理屈がむちゃくちゃでも、とにかく思いのたけを神さまにぶつけて行く、その時、神さまは最善の解決を与えてくださいます。そういう意味では、神さまも相当ユニークなお方ですね。さあ、このユニークな神さまに、心を一つにして、とにかく祈りましょう。



No.13『愛の御手をのばして』
◇使徒の働き13章26〜30節
「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。


 これは、使徒パウロがユダヤ人の集まる会堂で話した内容です。そこには、ユダヤ人と神を信じて改宗した異邦人たちがいました。救いのメッセージは彼らに向けて語られているというのが、パウロの考えです。神を無視し、自分勝手に生き、真理を求めようともしない人のことは眼中にありません。神は御自身を求める者たちを探しているのです。じゃあ、求めようとしない人は地獄行きなのかというと、そうはっきりも言えません。ただし、こう言うことはできるでしょう。神は何とかして私たちに働きかけ、求める思いを起こさせようとするのです。ある場合には罪や失敗、病気や災い、試練や誘惑などを経験させることにより、神は私たちに呼びかけられるのです。「わたしを求めよ!」と。そこを通過した時は悲しみに暮れるのですが、何年かしてふり返ってみると、神を求めるという太い信頼のパイプが心の中に出来上がってくるのです。そして、その神との絆を築き上げる最大の理由は、イエス・キリストです。十字架の身代わりの死を通して現わされた神の愛と赦しが、神との関係を回復させるのです。そして、よみがえられたキリストが私たちの心に住むことにより、平安と癒しが与えられるのです。だから、本当は神さまの側が先に私たちを探しておられたのです。あのお方はいつでも待っておられます。愛の御手をのばして・・・。



No.14『祈ってゆだねる』
◇使徒の働き14章22〜23節
彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。


 使徒パウロたちの宣教活動が拡大する中、ユダヤ人による迫害はより一層強まって行きました。最も多く迫害を経験していたパウロは、現地の信者たちを励ます言葉を残しています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と。苦しみのない信仰生活などありません。人生もそう。しんどいことがいっぱいあります。でも、それは通過点にしか過ぎません。私たちはそこを通過してからどこに行くのかというと、神の国です。神の国というと、当然、天国を指すのですが、同時に現世の祝福をも指しています。その祝福とは神様の御手に包まれて、守られているということです。苦しいことを通過して後、私たちはいつも気付かされるのです。神さまの御手に守られているということを。これこそ神の国です。これほど大きな励ましはありません。しかし、これに気付けないで迷路に迷ってしまうことがあります。そうならないためには祈ってゆだねることが大切です。「祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた」とあるとおりです。祈るだけでなくゆだねることが大切です。祈ったら、「後は神さまに任せた」と言ってそこを立ち去り、次の課題に取り組むのです。「祈った内容は神さまの課題、私は自分に出来る課題に取り組もう」ぐらいの気持ちでリセットしていきましょう。



No.15『もうあなたを悩ませない』
◇使徒の働き15章16〜19節
『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。


 聖書の時代、ユダヤ人たちには、自分たちだけが神に選ばれているという自惚れがありました。ところが、旧約聖書のはじめから終わりまで、神の計画は異邦人をも救いに導くことだったのです。神はご自身を求める者を、国籍や人種の隔てなく祝福したいと願っておられました。しかし、それを阻もうとしていたのは人間の側だったのです。さあ、そこで、今日の聖書箇所を語っている人物ですが、ヤコブという人です。彼は血筋で言うとイエス様の弟にあたります。母親は当然マリヤです。イエス様が地上での働きをされている時には、イエス様を信じていませんでした。彼は、極めて典型的なユダヤ人の考え方と生き方をしていたはずです。ところが、その彼が言うのです。「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません」と。ヤコブはイエス様の十字架と復活を目撃し、その後に起こった聖霊の働きを目撃しながら、神の御心が全ての信じる者を救うことだと悟ったのです。そして、教会はこの決定を受け入れました。「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません」。どんな過去があり、どんな弱さがあり、どんな罪があったとしても、神に立ち返る者を神は受け入れられるのです。そして、教会もそのような者を神の子として受け入れるのです。大切なことは「神に立ち返る」ことです。へりくだって罪を認め、イエス・キリストの福音を信じる者を、神は今日も待っておられます。



No.16『祝福の基となって』
◇使徒の働き16章31節
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 
 これはパウロとシラスが、自殺しようとする看守をひきとめて言った言葉です。地震で壊れた刑務所から囚人が逃げてしまうことは、看守にとって死活問題であったため彼は自害しようとしたのです。しかし、彼が心配することは何も起こりませんでした。そして、このみ言葉が語られるのです。心配事を抱えて生きる私たちにとって、この言葉は大きな励ましであり慰めです。「主イエスを信じなさい」!イエス様に信頼する時、その心配事は主の手の中にあるのです。そしてそこには約束が伴っています。「あなたもあなたの家族も救われます」!そうです。あなたの信仰はあなたの救いだけにとどまらず、あなたの家族の救いにまで及ぶのです。家族の範囲がどこまでなのか?そんな議論は無意味です。あなたにとって大切な人たちにまで及ぶと信じればいいのではないでしょうか。あなたがイエス様を信じるということは、あなただけの問題ではなく、あなたが関わりを持つコミュニティに祝福が及ぶかどうかという問題なのです。信じてください!あなたは祝福の基です(*^_^*)

「信仰はその家の隠れた家宝である。」ゲーテ


No.17『良さについて』
◇使徒の働き17章10〜11節
兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。


 「あの人は良い人ですよね」と人が言う時、その良さは、優しさであったり、信頼性であったり、あるいは誠実さが問われたりします。そのような美徳は当然良いものなのですが、今日の聖書箇所で、使徒の働きの著者ルカは、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」ということを良さにあげています。人の評価というのは実に相対的なもので、ある人には良い人でも、他の人にとっては悪い人だと評価されることがあります。また、良い評価が一転して悪い評価に変わることもあり、世間の目というものは実に移ろいやすいものです。そして、神の前に人はみな罪深い存在です。そう考えると、ベレヤの人々が、自らの好みや私的な判断に頼らず、聖書の御言葉に評価を委ねたということは、実に謙遜且つ冷静な判断だと思います。この謙遜さと冷静さを、ルカは「良い」と言いました。聖書における「良さ」はへりくだって自らの罪を認め、物事の判断を神とその御言葉に委ねることにあります。私たちも、ベレヤのユダヤ人のように、生ける神の御言葉に熱心に耳を傾け、調べるものでありたいと思います。



No.18『黙ってはいけない』
◇使徒の働き18章9〜11節
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。


 コリントの町での宣教を繰り広げたパウロに対して、ユダヤ人による強烈な反発と迫害がありました。同胞であるユダヤ人に向かって、イエスこそが旧約聖書が預言していたメシアだと宣言した結果、反抗は激化していったのです。そのユダヤ人たちに向かってパウロはこう宣言しました。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と。彼の心中は穏やかではなかったのかもしれません。同胞が信じるどころか迫害してきた時、がっかりもしただろうし、虚しさも覚えたかもしれません。あるいは恐れもあったことでしょう。そんなパウロに主が約束を与えられるのです。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と。みなさんも物事がうまく行かなくてがっかりすることがあるかもしれません。期待通りにことが運ばなくて虚しさを覚えるかもしれません。あるいは、先々の不安でいっぱいになるかもしれない。そのような混沌とした状態から抜け出すために、気晴らしも必要でしょう。しかし、究極的には全能の主の約束こそが人を解放するのです。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。」。その約束に信頼して、続けて行きましょう。



No.19『恵みのゆえに、信仰によって救われる』
◇使徒の働き19章5〜6節
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。


 パウロを通して多くのユダヤ人と異邦人とがイエス・キリストを救い主として信じました(10節)。使徒たちの宣教はエルサレムからはじまって、ユダヤとサマリヤに広がり、更には地の果て(1世紀の時代の地中海世界)にまで広がり、その地の果ての宣教における第一人者はパウロとなったのです。その証拠に、今日の聖書の言葉のように、ペンテコステの聖霊の傾注、サマリヤでの聖霊の傾注、異邦人コルネリオへの聖霊の傾注と同じ出来事が、パウロの宣教によってエペソにおいても起こったのです。これは、パウロが神に遣わされたしるしであり、彼が語るメッセージが正しいことを証明したのです。それこそが、この使徒の働きの著者・ルカが最も言いたかったことなのでしょう。イエス・キリストを信じるだけで恵みにより救われるというパウロのメッセージは、当時のユダヤ人から無律法主義だと批判され、異邦人からは罪を犯してもいいのだと誤解され、教会内部でも疑う者が多かったのです。しかし、パウロの同行者であるルカは知っていました。パウロが本当に神に遣わされ、また彼の語る福音のメッセージが真実であることを。こんにち、キリスト教と呼ばれるものは、この福音のメッセージに即しているかどうかによって本物か偽物かがはかられます。私たち人間は神の前にみな罪人です。その罪人である私たちのために身代わりの死を遂げたイエス・キリストの十字架にこそ神の愛とあわれみが証しされているのです。それゆえ、人はみな恵みのゆえに、信仰によって救われます(エペソ2章8節)。神の恵みに期待し、十字架を通して現わされた無条件の愛を信じて進んで行きましょう。



No.20『成長と将来への可能性』
◇使徒の働き20章32節
いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。


 パウロはエペソの長老たちを集めて別れの挨拶をしました。その時に語った言葉がこの聖書の箇所です。クリスチャンを育て成長させるのは「神とその恵みのみことば」であるということをパウロは知っていました。ですから、彼らとその教会を「神とその恵みのみことばとにゆだね」たのです。ここで鍵になるのは「恵みのみことば」です。「恵み」とは受ける資格のない者に与えられる神の愛であり、福音の本質です。その人の行いによってではなく、信じるだけでただで与えられるものです。神はその人の行いや功績によって成績をつけ、その成績に応じて報酬の額を変え、より報酬の多いものを愛し、そうでない者を見下す、そんな神ではありません。神は全ての者を恵みたいと願っておられるお方なのです。そこで、失意の中にある方や、将来に希望を持てない方、あるいは虚無感におそわれている方は、是非「神とその恵みのみことばとに」自らをゆだねていきましょう。そうすれば、神は私たちを「育成し」、私たちの行くところどこにおいても、そこを神の国に変えてくださいます。そこには私たちの成長と神が全てを益とするという可能性が秘められているのです。成長と将来への可能性!素晴らしい言葉ですね。大丈夫!あなたにできないことでも、神にはできるのです。問題は私たちが神に対して信頼し、希望をいだき、神の導きを愛するかどうかにかかっているのです。私たちの信じる神は、恵みとあわれみに満ちた神です。信頼して進んで行きましょう。



No.21『パウロの告別説教』
◇使徒の働き20章34〜35節
あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

 使徒パウロがエルサレムに向かう前に、エペソの教会の長老たちを集めて話した内容の一節です。エルサレムに行けば、パウロに対する迫害が待ち受けていることは明白でした。しかし、神の啓示により、パウロは命がけでエルサレムに向かうのです。それは福音(ゴスペル)を伝えるためにです。さて、パウロはイエス様の格言を引用しています。「受けるよりも与えるほうが幸いである」というこの言葉は、福音書のどこにも見当たらない、パウロだけが語ったイエス様の格言です。この意味は、与える者のほうが、与えられる者よりも勝っているというような宗教的競争意識を植え付けるための言葉ではありません。むしろ、ここで語られていることの中心点は、自分のためにさらに多くの富を蓄えようとする人々よりは、他の人々を助けるために与えることのできる人のほうが幸いだということです。そのように、人からのお返しを期待せず、天からの報いのみを期待して与えたあなた!あなたは幸いです!神は必ずあなたの歩みを確かなものとしてくださいます。人生をふり返って見る時、そこに神の指紋、神の足跡をあなたは見ることになるでしょう。




No.22『啓示にそむかず』
◇使徒の働き26章19〜20節
こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。


 パウロはその宣教活動の中で、いつも「天からの啓示」を思い起こしていました。その「天からの啓示」とは、迫害者であったパウロが復活の主に出会った時の出来事です。すなわち、彼がイエス様を救い主と信じた時です。その原体験がいつも、彼の活動の動機となっていました。人が行動する上での動機付けにはいろいろな種類のものがあります。それこそ、マズロー(アメリカの心理学者)に言わせると、生理的欲求から自己実現の欲求まで様々な欲求が人間にはあり、それらが動機づけとなるのです。けれども、私はいつもこの動機づけに悩んでしまいます。やる気が出たり出なかったり、時には好きな音楽も嫌になったり、ご飯が食べれて感謝と思えたり思えなかったり、他者貢献が喜びになったり煩わしくなったりと、1年間の心の動きを観察すると様々で、それはまさに揺れ動く葦のようです。ところが、そういった変化の中で、最終的に揺るがないものが一つだけあるのです。それは、神が罪人の私を恵みによって救ってくださったという確信です。この確信は消し去ろうとしても消えない、様々な疑いをかけてみたところで無くならない、天賦のものなのです。それゆえ、どんな心の変化があろうと、結局、私は神に祈り、神に聞き、神に従おうとするのです。これが私にとっての最大の動機づけです。あなたも天啓を持っていますか。持っているなら、「この天からの啓示にそむかず」、神に信頼して進んで行きましょう。天啓こそが人間にとっての最大の動機づけだと私は考えます。
 




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