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テモテへの手紙第二2timothy

From the pastor's office <牧師室から>

No.01『神が与えて下さるスピリット』
◆テモテへの手紙第二1章7〜8節
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。


 キリストを信じることにより、神が私たちに与えて下さった霊の特徴を、パウロはテモテに教えています。それはおくびょうの霊ではありません。他者の目を気にしすぎたり、恐れたりして、自分の使命を見失ってしまうようなことがあってはならない!そのような霊は神が与えてくれた霊ではないとパウロは言います。では、どのような霊が与えられたのか。それは「力と愛と慎みとの霊」です。英語の聖書(NIV)では「a spirit of power, of love and of self-discipline」と訳されています。力と愛と自己訓練の霊といったところでしょうか。私たちが神のみことばを聞き、それを信じて祈り、神を賛美する生活を送る時、私たちに備わる性質は力と愛と自己訓練・自制であると言えます。こういった性質を神様は与えて下さるのです。実際、私たち人間が自分の心に目を向ける時、弱くて利己的で怠惰な面をたくさん発見するのではないでしょうか。そういったマイナスの部分にだけ目を留めていると暗くなるばかりです。けれども、私たちがそこから目を上げて主に向く時、そのような弱さは主の恵みによっておおわれていきます。そして、力と愛と慎みという性質が備わってくるのです。これは恵み以外の何物でもありませんし、聖霊の働きによるのです。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント人への手紙3章16〜18節)とあるとおりです。主を見上げて進んで行きましょう。



No.02『寛容さを示して』
◆テモテへの手紙第二2章24〜26節
主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。


 私たちは主のしもべです。神にお仕えするために救われました。パウロもその一人です。その彼が弟子のテモテにこう言います。「主のしもべが争ってはいけません」と。まず、付け加えておかなければならないことは、「怒るな」とか「批判したり反論するな」と言っているのではないということです。怒りそのものは悪くはありません。義憤と言われるものもあるわけですから、十把ひとからげに怒りを否定することはできません。ただし、その怒りに身を任せて行動することが問題なのです。罵声を浴びせかけたり、暴力をふるったり、相手にとって不利益になることをしたりと、実際に行動に移すことと、怒りを持つこととには雲泥の差があるのです。批判や反論も同様で、それを主張する自由はありますが、それが通らないからと言って破壊的な行為を実際に行うことが問題なのです。そういう意味で、聖書が語る優しさや柔和さ、寛容さは、感情の問題ではないことがわかります。それは、意志を働かせて行う一つの行為です。喜怒哀楽があって感受性が豊かなことも、批判精神が旺盛なことも、結構なことです。しかし、忘れてはならないことは、その感受性も批判精神も、罪の故に歪みがあるということです。それを忘れて、自分の感情や批判精神が絶対かのように思って、決断することは危険です。それは自らを神とすることになります。さあ、心配や恐れも含めた様々な感情が沸き起こるお互いですが、寛容さを示して悪に立ち向かって行きましょう。キリスト教は無抵抗主義ではありません。寛容さを示しながらも、おかしいと思うことには非暴力で大いに抵抗するのです。キング牧師がそうであったように。



No.03『聖書を大切に』
◆テモテへの手紙第二3章14〜15節
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。


 ここでパウロが言うところの聖書とは旧約聖書のことです。さて、パウロによると、旧約聖書は知恵を与えて、私たちをイエス・キリストを信じる信仰に導くそうです。世には聖書の専門家や学者さんたちがいて、聖書考古学や文献批評の立場から様々な解釈が発表されています。また、現在のユダヤ教やイスラム教も、旧約聖書を教典としているので、それぞれに理解の仕方が違います。更には多くの新興宗教も聖書を引用したりしているので、無茶苦茶な解釈が氾濫しています。しかし、使徒パウロの言葉に耳を傾ける時、旧約聖書本来の目的が明らかになります。それは、イエス・キリストを信じる信仰へと人々を導くことです。ですから、旧約聖書にはキリストについての証言が満ち溢れているのです。言い換えれば、キリストを信じる信仰に向かわないならば、旧約聖書が書かれた目的は果たされておらず、どんなに深い関心を寄せて旧約聖書を探求したとしても全く無駄骨だということです。神がご自身を啓示する方法として計画されたことは、神の子が人類の身代わりに罪の罰を受けて死なれるということです。そのことを通して、神の愛と謙遜とが表され、その贖いを証明すべくキリストはよみがえらせられたのです。絶望のどん底にいる人間をも救い出すために、神はこのような啓示の方法を取られました。誰が私を捨てたとしても、あるいは自分自身が自分を捨てたくなったとしても、絶対に私を捨てないお方がいる!そんな愛がある!そのことをキリストの十字架は表しているのです。そして、旧約聖書は私たちをこのキリストに導くのです。さあ、もう一度、キリスト信仰へ導く書物として聖書を読んで行きましょう。それによって私たちは救いを得たのですから。



No.04『時が良くても悪くても』
◆テモテへの手紙第二4章2〜4節
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(テモテへの手紙第二4章2〜4節)

 ここで言う「みことば」とは何かというと、当然聖書のことなのですが、手紙全体の流れから考えると福音のことを指しています。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」とパウロは言います。調子がいいか悪いか、気分が乗るか乗らないか、環境が整っているかそうでないか、時勢が福音に対して受容的かそうでないか、そういうことに関わらず、福音を宣言し続けていくことはとても大切なことです。毎週日曜日の礼拝説教は福音の宣言であり、教会あげてその福音を宣べ伝えているのです。そして、その礼拝の場から、私たちは平和の使者として派遣されていくのです。家庭に、地域に、職場や学校に、そして知人や友人、親戚のもとへと、神の和解の努めを帯びて遣わされるのです。誤解のないように。私は皆さんにプレッシャーをかけているのではありません。「礼拝を休むな!」とか、「教会に人を連れてこい!」と圧をかけているのでもない。そうではなく、自分は神の家から派遣されている大使なのだという自己認識を持ってもらいたいのです。あわてて何かをする必要もありません。しかし、そのような自己認識が確立するならば、自然とその人はその認識にふさわしい行動をするようになります。それこそ、「時が良くても悪くても」みことばを宣べ伝えることになるでしょう。何事も、勢いではじめたことは勢いがなくなると途絶えるものです。大切なことは勢いがあろうがなかろうが自分が神に遣わされているという認識を持ち、その認識に則って行動することです。それは福音宣教に限ったことではないでしょう。さあ「時が良くても悪くてもしっかりやり」ましょう。



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