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コリント人への手紙第二2 corinthians

From the pastor's office <牧師室から>


No.01『神により頼む者となるため』
◆コリント人への手紙第二 1章8~9節
兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

 パウロはアジアでいのちの危険を感じるような苦しみに会いました。それがどのような出来事であったかはわかりませんが、様々な迫害を経験してきたパウロですから、死を覚悟することは幾度もあったしょう。しかし、そのような経験はパウロをより強固な信仰の人へと変えていきます。そのような試練は、「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるため」だったと彼は言うのです。私たち自身に置きかえてみましょう。私たちが「なぜ、私はこのような苦しみに合わなければならないのか」と問いたくなるような経験をする時に、その経験は私たちを「神により頼む者」にするためにあるということです。 人間の罪は神との断絶を生みだしました。その断絶を聖書は死と表現しています。 それゆえ、人間には一つの傾向があります。それは、神から離れようとする傾向です。クリスチャンであろうがなかろうが、原罪があるために、人間は神から離れ、自分自身を頼みとする傾向があるということです。知らず知らずのうちに、私たちは自分の腕を頼みとし、自分自身の力により頼んでいるのです。まるで、気付かないうちに居眠りをしているようなものです。しかし、居眠りが続くと危険です。人生を居眠りしていると、居眠り運転の先にあるのは死です。そこで、神は目を覚まさせるために、私たちに試練を与えられます。その試練の中で、父なる神は叫んでおられるのです。「わたしに返れ。いずれは朽ち行く自分や人間を頼みとするな。復活の力を持つわたしを信ぜよ」と。ですから、C.S.ルイスはこう言いました。「痛みは神の拡声器である」と。それゆえ、神により頼むことこそ最優先課題なのです。



No.02『混ぜ物をせずに売る』
◆コリント人への手紙第二 2章17節
私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。


 神のことばとは、直接的には福音のことです。福音に混ぜ物をするとはどういうことでしょうか。もうこの時点でピンと来た人もいるかもしれません。それは、信じるだけで救われるという恵みの福音をねじ曲げて、律法を守ることなしには人は救われないと教えることです。すなわち、割礼派と呼ばれた1世紀のクリスチャンたちの教えです。その教えは、ユダヤ性を強調し、ユダヤ人のようになることを救いの条件に入れてきました。これは、異邦人たちには酷な要求でした。現在に生きる私たちに置きかえるとこうなります。「健康でなければ祝福されません。元気でなければ祝福されません。頭がよくて成績優秀でなければ救われません。立派にならなければ神に認められません。成功しなければ愛されません。鳴かず飛ばずなら相手にされません。その人の生きる価値、人生の意味は、その成果にあります。だから、競争に勝てなかった者は生きる価値のないものです。目に見える成果と行い、そして社会的認知度がなければ、その人の存在には意味がありません。信じるだけで救われるなどというのは理想論であって、実際には行いが全てです。信仰プラスアルファが大事なのです!」。このような考え方こそ、福音に混ぜ物をするということです。混ぜちゃいけません!救いは信じるだけで得られるものですし、人は行いによっては救われ得ないというのがパウロの考えでした。行いが無駄だと言っているのではありません。神に愛されている私たちが、その恵みに応答して、よい行いに生きることは神に喜ばれることです。しかし、神に愛されるために、あるいは神に認められるためにする行いは、罪の故に無駄に終わるということです。私たちが神に愛され、祝福にあずかるためには、一旦、神に赦されて、神との関係回復をしなければなりません。その赦しと関係回復は、私たちの力では不可能なのです。しかし、それをキリストが成し遂げて下さいました。だから、私たちにできることは、ただ福音を信じることだけです。しかし、信じた人は胸を張ってこう言えるのです。「私は罪ある者であり、弱点があります。でも、神は私を赦し、私を神の子としてくださいました。私は神に愛されています。だから、私は価値ある者であり、私の人生には大きな意味があります。私は神に喜ばれています!」。こういった確信から、ゆとりを持って喜びながらする行い・感謝しながら生きる人生を、神様は応援してくださるのです。悲壮感漂う、自惚れだらけの行いを主は望んでおられません。さあ、福音は混ぜ物をせずに提供しましょう!



No.03『御霊に導かれて』
◆コリント人への手紙第二 3章6節
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。


 ここで言う文字とは旧約聖書の律法のことです。律法は神の聖性を表すものであり、その神の義がその戒めの中に深く刻まれています。それゆえ、律法は神の御心を表すものであり、よいものです。イエス様はその律法の要約を、神を愛し、隣人を愛することの二つにまとめられました。やはり、律法は良きことを告げているのです。ところが、その良いものが、人を殺すのです。殺すと言っても、律法が夜中に歩き出して人を襲うなんて言うホラー映画みたいなことを言っているのではありません(笑)。律法そのものは良いことを言っているのですが、その良いことが人を断罪し、責め、裁き、ついには神との関係の断絶である死に向かわせるのです。一つの例えを話しましょう。ある貧しい国で、裕福な人が、家の庭に金銀財宝や御馳走を並べて、玄関に張り紙をしたとします。「とってはいけません。盗みは犯罪です」と。さあ、貧しい人々はどうするでしょうか。想像におまかせしますが、ただ言いたいことは、盗みが罪だという命題自体は正しいのですが、その国の貧しさが盗みを誘発するということです。これは例えです。律法自体は正しいのですが、人間の心の中に潜む罪、すなわち原罪が、律法を犯すという間違った行為を誘発するのです。それゆえ、律法は正しいのですが、罪の故に、律法は人を滅ぼすのです。このことをパウロは「文字は殺し」と言っているのです。正しさを振りかざして、立派な考えを並べ立てても、人は変わらないし、変われないのです。人を変えるのは神の御霊です。その御霊は、神の愛、十字架の赦し、そして神の子としての自覚を私たちに与え、断罪と責めと裁きから私たちを解放してくれるのです。自己嫌悪から自尊心へと、恐れから信頼へと、不安から平安へと、強制から自発性へと私たちを導いてくれるのが神の御霊の働きです。祈りとみ言葉を通して神と交わり、御霊の追い風を受けて歩んでいきましょう。



No.04『不動の礎』
◆コリント人への手紙第二 4章16~18節
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


 自分自身が経験してきた様々な試練、迫害、苦しみや悩みは「軽い患難」だとパウロは言います。実際パウロが経験した試練は想像を絶するものでした。決して軽くなかったはずなのに。やせ我慢で言っているのでしょうか。いいえ、パウロほどその試練に心を痛めていた人はないと思います。彼は涙を流しました。断食をして懇願の祈りをしました。肉体のとげを取り除いて欲しいと神に3度も求めました。眠ることのできない夜もあったようです。彼は誰よりも自分の弱さを自覚し、もはや自分の力を頼みとしないまでになったのです。そんな大きな痛みを経験した彼が、その痛みのことを「軽い患難」と呼ぶのは、不可解なことです。これは実は比較の問題です。人間パウロという視点からするなら、その痛みは決して軽いものではありませんでした。しかし、いざ信仰の目を通して神の国から視るならば、それは「軽い患難」なのです。彼は、その痛みの中で、自らの弱さを自覚する度に、神の偉大な力を経験してきました。自らを頼みにできなくなったとき、神を頼みとするようになり、神の力強い導きを経験するようになりました。目に見える現状がマイナスに向かっているのに、彼はますますプラスになると信じたのです。くじけるどころか、彼は勇気を失いませんでした。それは、目に見える一時的なものなど信じず、見えない世界に存在する不動の神に信頼をよせたからです。そこには重い永遠の栄光が存在し、天来の全ての祝福がすでに用意されているのです。私たちの見ている有様は一時的です。いつかは変化していくのです。その変わりゆくものを基とする人生は、絶えず一時的なものに振り回される人生となるでしょう。しかし、変わらぬ神の愛と恵みを基とするなら、私たちの人生は揺るぎのないものになるに違いありません。



No.05『新しくされたことを信じて』
◆コリント人への手紙第二 5章17~18節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。


 みなさん!イエス・キリストを信じると新しく造りかえられます!古いものは過ぎ去って、新しい人生がスタートしました。で、連想する新しい人生ってどんなでしょう?品行方正になって、酒もたばこもやらず、清く正しく美しく、何のけがれもない人になるのか?あるいは、信仰が強くなって、思い煩いや心配がなくなり、感謝と喜びだけの人生になるのか?もし、それが新しい人生、ボーンアゲインクリスチャンだとすれば、みなさんの現状と照らし合わせてみると全然違うのではないでしょうか。中には、がんばってそうなろうとしているか、あるいはそれを装って必死になっている人もいます。そうすると、新しく造りかえられた人生とは、実にやせ我慢の人生で、本人は成長している気になっているのでしょうが、はたから見たらアイタタな人です。パウロは本当にそういうアイタタな人になると言ったのでしょうか。パウロの神学を学んでみると、赦されるとか義とされるということの意味は、実質の変化という意味よりも、立場の変化であることがわかります。聖書の契約概念も同じことが言えるでしょう。私たちは相変わらず罪深いものなのですが、神の恵みにより、信仰によって、神の契約の中に入れられるのです。そして、このような私たちの立場の変化が、後に私たちの行動に変化をもたらすのです。その変化の担い手が聖霊なる神です。それゆえ、罪深い人間がイエス・キリストを信じて生活が変えられるというよく聞く証しは、実質の変化があってから行動が変わるというのではなく、立場の変化から神の子としての自覚が生まれ、聖霊の働きによって行動が変わっていくというものです。それゆえ、新しく造られた者という表現も、実質の変化を言うのではなく、新しい契約のもとに立場が変えられたことを指しています。その立場の変化をパウロは別の言葉で「和解」と表現しています。みなさんは、イエス・キリストを信じて、父なる神と和解しました。以前は、神の怒りと裁きの対象だったのですが、御子の身代わりの死を信じ、赦されて、神の子となったのです。あなたはもはや神に裁かれる対象ではありません。品定めされ、チェックされている存在でもありません。神はあなたを愛し、あなたを喜び、あなたに期待し、あなたの人生に最善の計画を用意しておられるお方です。自覚を持ちましょう!



No.06『神の恵みをむだにしない』
◆コリント人への手紙第二 6章1~2節
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。


 パウロは信仰による救いを教えました。行いによって人は救われるのではなく、ただ、福音を信じることによってのみ、人は救われると教えたのです。じゃあ、信じるだけで救われたのだから、恵みによって救われたのだから、何をしたっていいや!となったのかというと、そうではない。むしろ、逆で、彼は誰よりも多く働き、福音を伝え、人のために祈り、愛する努力をした人だったのです。彼は恵みによって救われたからこそ、その恵みに感謝し、その恵みが無駄にならないために、一生懸命主に仕えたのです。もしも、恵みによって救われた者の生き方が、主に従おうとする生き方でないなら、神の恵みは無駄になってしまったのです。パウロはここではっきり言っています。「今は恵みの時、今は救いの日です」と。何年か先に救われるのでもないし、何年か先に祝福されるのでもありません。イエス・キリストを信じるなら、もうすでに恵みを受け、救われたのです。私たちは神に愛され、喜ばれているのです。「私は愛されていない」などとは言わせません。「私には恵みがたりない」とも言わせません。「祝福が不十分だ」とも言わせません。自分が可哀そうと憐れんで、「悪いあの人、可哀そうな私」、「悪い社会、被害者の自分」という自己憐憫の構図の中に陥っていては恵みが無駄になります。しかし、すでに祝福を受けた者として自分を認識し、そのように扱ってくださった神を誇りとする時、私たちは未来に向かって積極的な一歩を踏み出すことができるのです。愛されることよりも、愛することを追い求めていく。「受けるよりも与えるほうが幸いである」とおっしゃった主の約束を信じて、進んで行きましょう。



No.07『気落ちした者を慰めてくださる神』
◆コリント人への手紙第二 7章5~6節
マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。


 キリスト教を信じる、クリスチャンになる、とはどういうことでしょうか。清く正しく美しく、品行方正で何の罪もなく、また信仰が強くなって疑うことも恐れることもなくなり、何の葛藤もない人生を生きることなのでしょうか。決してそうではありません。確かに、キリストの御姿へと成長していくという歩み(それを聖化<Sanctification>と言います)ではあるのですが、それはキリストを見上げながら目指していくものであって、現時点で完成されるものではありません。そういう意味では完全なモデルとなるザ・クリスチャンと言える人など一人もいないということです。パウロでさえそうでした。彼ほどモデルとなるクリスチャンはいないと思います。しかし、その模範的なパウロでさえ、「うちには恐れがありました」と告白しています。彼にも伝道者としての葛藤があったのです。また、彼は気落ちしていました。落胆し、落ち込んでいるパウロの姿など想像できないかもしれませんが、彼も人間だったのです。彼はふさぎこんでいました。いや、彼だけではなく、彼と同行した者たちもそうだったのです。しかし、そんな気落ちしているパウロたちを励まし、立ち上がらせた要因は何だったのでしょうか。それはテトスという同労者が来ることによってでした。すなわち、人を通しての励ましです。人は一体何によって慰められ、励まされるかというと、それはやはり人によってなのです。私たちは人との関わりの中で傷つくと同時に、人によって慰められるのです。ですから、生きることは大変なことなのですが、同時に、捨てたものでもありません。神がそのような出会いを与えて下さるのです。さあ。気落ちした人がいますか?神はあなたを慰め励まして下さいます。人を通して。あるいは、様々な出来事を通して。



No.08『恵みのわざ』
◆コリント人への手紙第二 8章9節
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙第二 8章9節)

 イエス・キリストは恵み豊かなお方でした。彼が恵みのお方である理由はこれです。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」。すなわち、神の子であられるお方、いや神ご自身が、その栄光の位を降りて、人間となり、罪と弱さの中で滅んでいく私たち人間を救うために自らをお捨てになったというイエス・キリストの謙遜こそ、彼が恵みのお方と呼ばれる理由です。そして、彼のその恵みによって私たちは富む者となりました。すなわち、私たちは天地万物の創造者であられる神の子供となったのです。以前は見捨てられ、地獄にたたき落とされても仕方のない貧しき罪人でしたが、今は神に愛され神に喜ばれ、全ての霊的祝福に預かった富む者となったのです。これらは、全てイエス・キリストの恵みのわざによって与えられた特権です。そして、パウロはこの恵みのわざに参加するよう、教会の信者に呼びかけています。その恵みのわざとは献金のことです。与えることによって恵みのわざに参加できるのです。しかし、それは献金だけにとどまらず、礼拝出席や様々な教会における奉仕、そして宣教の働きを含め、全ての犠牲と献身が恵みのわざなのだと思います。そのような与えるわざに参与することにより、私たちも神とともに働くのです。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント人への手紙第一15章58節)。あなたがした恵みのわざはむだになっていません。そして、これからする恵みのわざもむだにはなりません。何故なら、神があなたと共に働いておられるからです。あなたの働きを確かなものにし、完成してくださるのは主です(ピリピ人への手紙1章6節)。



No.09『心で決めたとおりにする』
◆コリント人への手紙第二 9章6~8節
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。


 これは、献金についてパウロが語っているところです。彼は献金を強要しているわけではりません。むしろ、豊かに蒔こうとする人、すなわち神に多くささげようと思って自発的に献金した人には、神がその人の人生を実り豊かなものにしてくださるに違いないと言っているのです。なぜなら、「神は喜んで与える人を愛して」くださるからです。そして、与えるものが尽きることのないように、神がその人を豊かに恵んでくださる、それが彼の確信でした。このような、多く与える者が多く刈り取るようになり、また更に与えるようになるというこの連鎖の考えが、本来の資本主義の精神だったとマックス・ヴェーバーは語っています。ですから、資本主義はこの聖書の言葉から生まれたと言っても過言ではありません。その証拠に、彼はその著作の中で、ルター、カルヴァン、ウェスレー、リチャード・バクスターなどを取り上げ、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を生み出す契機となったことを語っています。そして、この聖書の箇所は献金以外にもあてはまります。「神は喜んで与える人を愛して」くださるのです。だから、後はおのおのが「心で決めたとおりに」すればいいのです。もし、神にかけようとする者がいれば、神がその責任を負ってくださいます。かけてみませんか?主なるイエス・キリストに。



No.10『主に推薦される人』
◆コリント人への手紙第二 10章17~18節
誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。


 コリントの教会では、派閥抗争があったようで、誰が誰につくかという争いがありました。そこで、その各党派の指導者たちは自己推薦していたのでしょう。「私たちこそ神の御心にかなっている!」と。それで、それぞれが、自分は神の御心にかなっていると主張した場合、誰がその査定をするのかというと、実際できませんよね。結局、自慢合戦、中傷合戦になってしまったのだと思います。そこで、パウロは、「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」と言います。なるほど!と思う反面、よく考えると益々わからなくなります。だって、イエス様が突然現れて、「パウロの優勝です!」と言うとは考えられませんから。主に推薦される人ってどんな人なんでしょうね。よくわかりません。第一、この手紙を読むと、パウロ自身も自己推薦しているように思える表現があるからです。ただし、言えることは、この教会はパウロの伝道によって生み出されたということです。彼がコリントの地で福音を伝えたがために、この人々は救われました。主に推薦される人とはそういうことなのかもしれません。自分の力や能力を自慢するのではなく、むしろ、こんな弱い自分を通して神が働かれた!と言える人なのでしょう。望みを主に置きながら行動し、何かを生み出して行く人。それも、神の恵みにより頼みながら生み出す人。そして何よりも、神の言葉の集大成とも言うべき「恵みの福音」を信じ、そこに生きる人こそ主に推薦される人だと思います。拠り所を自らの内に置くのではなく、自分の外からやってくる神の恵みに信頼する時、あなたは主に推薦される人となるのです。



No.11『弱さを誇る』
◆コリント人への手紙第二 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。


 この11章を読むと、パウロに敵対する者が多かったということと、パウロの経験した苦しみがどれほど大きかったかがわかります。彼の主張は常に明確でした。それは、十字架の言葉であり、キリストの苦しみを通して現わされた神の愛だったのです。そして、信じるだけで救われるという恵みのメッセージこそがパウロの伝えた福音した。そのメッセージによってコリントの教会も生まれたのです。しかし、主張が明確であるということは、同時に敵対者を生み出しやすいのです。誤解も生まれやすい。主張が曖昧で、何でも包含してしまうような人に敵は生まれませんが、同時に何をも生み出せません。福音は明らかに何かを生み出す主張であり、人間の傲慢と誇りを打ち砕き、人生観を根底から覆すものです。自分の罪を認め、その恵みを信じる者には救いのメッセージですが、そうでない者にとっては滅びのメッセージです。特に、自分の強さや賢さを誇りとし、それを自分の存在の拠り所にしている者にとっては、福音のメッセージは破壊的です。それゆえ、ユダヤ人であることを誇りとし、割礼を代表とする律法を自らの拠り所としてきた割礼派のクリスチャンは必死でパウロに敵対しました。そして、コリントの信者たちを自分たちの仲間に取り込もうしたのです。割礼派の主張は曖昧でしたが、自慢話に満ちあふれていました。イエス・キリストを信じると言いながら、パリサイ派のように律法主義を主張した彼らの論理は破綻していたのです。なのに影響力があったのは、自慢話がいっぱいだったからで、その自慢話に魅了された人たちが多くいたのです。そこで、パウロは言うのです。「私は自分の弱さを誇ります」と。嫌味にも聞こえるこの言葉!深みのある言葉です。誰よりも必死で努力したパウロでしたが、同時に弱さを痛感させられたのです。神を愛すれば愛するほど、教会を愛すれば愛するほど、彼は傷つき弱っていきます。しかし、同時に神の奇跡的な力を経験して行くのです。露呈した弱さは彼の誇りであり、神の力の現われるところとなりました。神の奇跡は人が目を背ける弱さから出発するのです。キリストの十字架のように。



No.12『恵みは十分である』
◆コリント人への手紙第二 12章9節
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


 様々な苦しみと試練を経験したパウロにとって、肉体のとげ(ハンディ)は追い打ちをかけるようなものでした。その肉体のとげのことを、彼はここで「弱さ」と表現しています。パウロはこの弱さを取り除いてもらうよう、三度も神に求めましたが、聞き入れられませんでした。その理由を神は説明します。まず第一点目、「わたしの恵みは、あなたに十分である」です。パウロは自分にハンディがあるために、神の恵みは不十分・不完全・不足していると考えたのかもしれません。そのため、彼は自分を憐れんだことでしょう。ところが、神は、「わたしの恵みは、あなたに十分である」とおっしゃるのです。実は恵みは不足しているどころか、完全に満たされていたのです。第二点目はその理由説明です。「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」。そのハンディがあるからこそ、神の力が完全に現れるというのです。言い換えれば、パウロの強みを通しては、神の力は不完全にしか現れないということです。考えてみれば当然のことです。何の問題もなく、順風満帆で、何でもこなせるスーパーマンだったら神に頼るなどということはないでしょう。慢心して、愚かになるに違いない。そして、神の力が働いたとしても、自分の知恵と努力によってできたのだと、全ての成果とその栄光を自分に帰するに違いありません。そこには宗教は存在しても、神は見いだせないのです。パウロは、自分にハンディがあるがゆえに、神の力が現わされているということを納得し認めました。それゆえ、彼は喜んで自分のハンディを誇ったのです。私たちもあるがままの弱さを恥じることなく、その弱さこそが神の働かれるところと信じて進んでいきましょう。



No.13『弱い時にこそ強い』
◆コリント人への手紙第二 12章10節
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二 12章10節)


 弱さ、苦しみ、試練、そういった類のものを喜ぶ人などどこにもいませんし、人はみなそこを回避しようとします。また、大切な恋人や家族、守るべき子供には、できるだけそういう苦しみを味わって欲しくないと思うのが人の心です。しかし、人が経験値を上げ、成長を遂げるには、やはり、弱さを避けては通れません。失敗や屈辱的な経験をしながら、人は生きるということを学ぶのです。そして、そのような生きた体験の中でこそ、私たちは神の力というものを知るのです。神の存在、神の摂理、神の導き、そして神の力と愛は、私たちの経験の中で知らされるのです。それも、み言葉と聖霊の働きを通して。そして、そのような経験のカギとなるのが、弱さなのです。弱さは私たちを神のあわれみに導きます。弱さは私たちに祈りを教えます。弱さを覚える時、神の偉大な力に期待します。弱さはかえって私たちの信仰を強くさせ、より積極的な生き方へと導いて行きます。それゆえ、イエス・キリストの福音を信じる者にとっては、弱さが行動を断念する理由にはなりません。むしろ、弱さは信仰へと、信仰は行動へと、私たちを導いて行くのです。それゆえ、能力や強さで自分を測るのはやめましょう。なぜなら、能力を発揮できなくなり、自分の強さを感じられなくなったら、私たちの行動は意味を失ってしまうからです。むしろ、自分の力を超えた神の計画、そして、弱さを通して働く神の力に信頼を置くべきです。そうする時、私たちの信仰や行動は断念させられることがありません。パウロがまさにそうでした。彼はこう告白しています。「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(6章9~10節)。あらゆる逆境が彼の信仰と行動を食い止める理由にはなりませんでした。むしろ逆境は彼を信仰と神の力へと導いたのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(4章16~17節)。私たちも弱さの中に働く神の強さを信じて進んで行きましょう。



No.14『キリストがいることを認めなさい』
◆コリント人への手紙第二 13章5~6節
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。


 「自分が信仰に立っているかどうか、自らをためし、吟味せよ!」。こう命じられると一瞬不安になります(^_^;)。自分は大丈夫なんだろうかって。自分は不適格なんじゃないかって。日頃の自分の行いや発言、心の中に浮かぶ醜い思い、そういった全てを総合すると、自信を持って「適格です!」とは言い難い。もうちょっとがんばらな!みたいな気になってしまいます。でも、この「もうちょっとがんばらな」という思いは、だいたい空回りするんですよね。肩に力が入って、追い立てられるような気持で努力するけれども、やればやるほど偽善的になっていくのです。これこそ、律法主義的動機づけでして、うまく行ったら自己満足に陥って傲慢になる、失敗したら落ち込んで卑下する、といった醜い姿になってしまいます。果たして、パウロはそうなるように命じているのでしょうか。そんなはずはありません。パウロが言っているのは、「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか」ということです。つまり、何が起ころうとも、私たちの内側にイエス・キリストがおられるということを認める・承認する・そう思うように決めるということです。主が共におられるという大前提に立ち、自分はこのキリストを信じているがゆえに適格だという大前提に立ち、自分自身のことは神に任せて、神に与えられたやるべきことを確実にこなしていく、これこそ適格な者の歩みではないでしょうか。変な罪悪感や切迫感は十字架のもとに置いて、自分のできる範囲内のことだけを果たしていきましょう。後は神がなんとかしてくれます。いや、なんとかするどころか、最善をなしてくださるのです。


洛西キリスト教会

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