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テモテへの手紙第一1timothy

From the pastor's office <牧師室から>

No.01『恵みは、満ちあふれる』
◆テモテへの手紙第一1章13〜14節
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。


 よく、「赦しばかりを強調すると人間は怠惰になって、良い行いに生きようとしなくなる」という意見を聞くことがありますが、これは赦しについての誤った理解です。聖書は全ての人間が罪人だと教えます。どんなに素晴らしいと評価される人でも、必ず心の中に神に反逆し隣人を愛せない罪があると指摘し、どんな人でも神の裁きを免れないと教えます。ましてや、暴力をふるう者、人を殺す者、姦淫をする者、人の物を奪う者、そしてそれらを平気で行う者たちは言語道断です。それゆえ、聖書の赦しは神の律法から来る倫理基準を前提としているのです。だから、全ての人は神の赦しなしに、その祝福にあずかることなどできないということです。そのため、本当の意味で神からの赦しを経験する人は、同時に、自分がどれほど罪深い人間であるかを思い知らされることになるのです。聖書の言う赦しは、「神様はあなたを愛しているから何でも赦して下さってますよ〜」というような薄っぺらで軽々しい赦しではありません。その赦しはキリストの血の犠牲の上に成り立っているのであって、その血の犠牲なしには救いようのない罪が私たちの心に存在しているという事実をつきつけているのです。それゆえ、罪の赦しは、自己への絶望と深く結びついていて、その絶望感が強ければ強いほど、神の愛の大きさがわかるというものなのです。本当に赦しを経験しそれを理解した人は、神の御心を求めるようになるのです。冷静になって自らの現状を踏まえ、身の丈に合わない幻想を抱いて自惚れることなく、そのような私「にもかかわらず!」あわれんでくださった神の恵みを思い起こすべきです。そして、この「にもかかわらず」のあわれみと恵みは、信じる者の人生を追いかけてきます(詩篇23篇6節)。信頼して前に進んで行きましょう。



No.02『見本とするために』
◆テモテへの手紙第一1章15節
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。


 キリスト教は神の愛と恵みを語ります。神は人間を愛し、恵みによって人類を救おうと計画された、という風に私たちは教えます。ですから、絵で表すと、神の方から私たちに向かって愛と恵みのベクトルが向いているようなものです。さて、神は、何が理由で私たちを救おうとされたのでしょうか。私の心が特別に清いからでしょうか。私の家族はノー!と言うでしょう(笑)。私の心が素直でまっすぐだからでしょうか。どう考えてもひん曲がってます^_^;。私が熱心で神に対して従順だからでしょうか。あるいはそういう見込みがあったからでしょうか。いいえ、こんなに冷めた人間は扱いにくいだろうと思います。つまり私の側に理由が見出せないのです。パウロもそうでした。彼はそれを表現して自らを「罪人のかしら」と呼んでいます。そんなパウロに対して、神があわれみを注いでくださったのは、彼を見本とするためだとパウロ自信が言っているのです。ならば、私もあなたも見本です!これから、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けようとする人たちへの見本なのです。では、何の見本でしょう?神の恵みの見本です。あなたも私も、信仰の故に神に受け入れられたことをあらわす見本です。あなたも私も、存在そのものが神の恵みをあらわすモデルとなったのです。だから、胸をはって生きていきましょう。誇りを持って!何を誇るかって?勿論、神の恵みです!そして、それを表すキリストの十字架です。



No.03『平安で静かな一生』
◆テモテへの手紙第一2章1〜3節
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。


 イエス・キリストの福音を信じれば、必ずしも反体制的になるとは限りません。イエス様が反体制的に見えたのは、当時の律法主義に反対したからであって、国家や政治そのものに逆らったわけではありません。それはパウロもそうでした。基本的には、「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるように」すべきなのです。体制的なものに理由もなくあい逆らう傾向や、目上のものに歯向かう態度は、無意味に身を滅ぼす可能性を生んでしまします。上の者のためにとりなし、感謝をささげられるようにすることは、「平安で静かな一生を過ごすため」に大切なことです。ただし、理由がない場合だけです。イエス様もパウロも理由があった時にははっきりと戦いました。どんな理由があった時か。それは福音の本質に触れた時です。すなわち、人間の尊厳を回復し人を救う神の恵みをないがしろにするような人や組織に対して、イエス様とパウロは断固として立ち向かったのです。結果、彼らは平安ではあっても静かな生涯を送ることはできませんでした。そういうわけで、Time・時、Place・場所、Occaision(or Opportunity)・場合です。福音に生かされる者は、状況によって変化する柔軟さを持つ者ですが、恵みという原理・原則は断固として曲げないのです。それが、楽しかろうが、大衆受けしようが、多くの人の支持を得られようが、全く関係がありません。しかし、基本は「平安で静かな一生を過ごすため」に国家の権威者や自分の上に立つ者たちのために、とりなしの祈りと感謝がささげられるようでありたいと思います。



No.04『神の家』
◆テモテへの手紙第一3章14〜15節
私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。


 「神の教会は、神の家だ!」とパウロは宣言しています。だから、洛西キリスト教会も、神の家です!どういう意味で神の家か?まさか、会堂に寝泊まりしてはるとか。そんなわけはありませんし、そんな意味ではありません。現に、この手紙が書かれた時代、初代教会は会堂を持っていませんでした。それぞれが、家庭を解放して集会を行い、共に御言葉を学び、祈りをし、聖餐式を行っていたのです。そして、使徒や教師たちはそこに招かれて奉仕をしたのです。だから、教会といっても、それは建物をさしませんでした。教会とは、信徒たちの集まりのことをさしていたのです。教会と訳された原語のギリシャ語のエクレシアも、呼び集められた者の群れをさす言葉です。だから、二人、または三人が、福音を中心とし、洗礼や聖餐式を執行しながら、祈りと御言葉の共同体をつくっていくところに教会は存在し、その集いこそが神の家なのです。そういう意味で、洛西キリスト教会は神の家なのです。礼拝も、祈祷会も、家庭集会も、それこそ、ゴスペルの働きも含めて、そこに信仰者が主の名のもとに集う時、そこに神は住まわれるわけです。だから、教会の集まりを大切にしていきたいと思います。しかし、その集まりが害になることもあります。それは、人々が神を礼拝するためではなく、飲み食いや商売や利害のために集まる時です。それゆえ、教会は、信仰告白において一致し、礼拝のために集まる共同体でなければなりません。カルヴァンが言うように、福音が正しく説教され、聖礼典が正しく執行されているところに、真の教会があるのです。そのことが重んじられているならば、それは正真正銘、本当の教会であり、「真理の柱また土台」ということができるのです。信仰告白を保ちながら、神礼拝を大切にしていきましょう。そこにこそ、神は存在するのですから。そして、神がいらっしゃると知れば、私たちは恐れることなく、安心して進んで行けるのです。



No.05『禁欲と律法主義』
◆テモテへの手紙第一4章4〜5節
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(テモテへの手紙第一4章4〜5節)


 パウロは、後の時代について4章1節で語り、間違った教えを報じる者が現れると予告しています。その教えの特徴は禁欲と律法主義です。結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりして、そのような禁欲によって救われるという考え方です。これは明らかに1世紀の律法主義に陥っていたユダヤ人を指しています。パウロはこのような偽りの教えを語る者たちの存在を、コロサイ書においても言及しています(コロサイ人への手紙2章16〜23節)。パウロはそこにおいて、律法とは「次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」と言っています。そして、禁欲と律法主義による自己満足な礼拝の誤りを指摘し、人間の罪深さの前には律法の行いは何の効果もないことを教えています。こういうことからも、キリスト教は単なる禁欲主義や道徳宗教ではないことが明らかです。私たちは、結婚することも、子供を作ることも禁じません。あるいは、食物を断つことによって霊的な高みへと引き上げられるなどとも教えません(教えている間違ったキリスト教がありますけどね)。そんなものを禁じたところで、人間の罪深さを制御することなどできないからです。むしろ、「感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません」とパウロは言うのです。それはなぜか?「神のことばと祈りとによって、聖められるから」です。そう。神の言葉である福音のメッセージにより、信じる者は罪赦され聖なるもとして選び分けられるのです。それゆえ、キリストの恵みによって救われた者が感謝して受けるなら「捨てるべき物は何一つ」ないのです。私たちは神の恵みに取り囲まれています。感謝して受け取っていきましょう。



No.06『自分自身と教え』
◆テモテへの手紙第一4章16節
自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。


 この手紙で、使徒パウロは若き伝道者テモテに向かって様々な教訓を与えています。そのしめくくりに語ったのが、今日の言葉です。注意点は2つ。「自分自身」と「教え」です。まず、自分のふるまいに気をつけるよう、パウロは教えるわけですが、そのふるまいは「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になる」というものでした。なかなか難しい要求ですが、ここには情熱が必要です。更には教えです。自らが教えている内容に気をつけるということです。時々、牧師や伝道者の中にも、教えている内容に気をつけていない人がいます。つまり、自分の言いたいことを言っているだけということがある。そうならないために、私たちは様々な教えに耳を傾ける必要があるのです。神学も、教理も、最近の流行りも含め、様々な考えや教えに一応耳を傾けて、自らのバランスを保つ必要があります。ある意味冷めたところが必要なのでしょう。教える者がただ熱意だけでつっぱしると、教えている内容が支離滅裂で一貫性を失うからです。以上、私なりに要約すると、「自分自身」と「教え」に気をつけるということは、情熱と知識、あるいは熱心さと冷静さのバランスを保ち続けながら歩むことだと思います。年齢を重ねるごとに、責任が増していく私たちですが、「自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことに」なるよう、この2点に気をつけていきたいものです。そして、何よりも忘れてはならないのは、パウロがテモテを応援していたように、自分自身を応援してくれている人がいるということと、自分が応援すべき相手がいるということです。ルターは子育てについてこう言っています。「父親にできることは、子どもがなりたいというもののために、最もふさわしいと思われる教師を捜し出して、大地にひざをついて、わが子をこの人に託すことだ」と。応援する父親の姿が描かれています。そのように応援する者でありたい。そして、私たちも、天の父なる神の応援をいっぱいに受けて進んで行きましょう。



No.07『みことばと教え』
◆テモテへの手紙第一5章17〜18節
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。


 使徒パウロは当時の教会の指導的な立場にいた長老の処遇について教えています。評価の基準は「みことばと教え」です。当時の教会において、パウロが優先したことは福音を宣べ伝えることと、聖書教育だったのです。この任にあたりがんばっている長老を尊敬し報酬を与えなさいとパウロはテモテに指導しています。それはその働きが継続され、その長老が喜んで奉仕することができるためです。私がクリスチャンになって21年が経ちますが、最初の頃は、牧師というものは人々から尊敬され、それなりの報酬を受けていると思っていました。しかし、実際にはそうではないことがわかってきたのです。特にこの日本ではそうです。信徒の数が少なく、教会運営の存続があやぶまれたりしますと、どうしても経営的なものの見方で教会や牧師が測られるようになります。そして、人間的な解決方法に走るのです。しかし、忘れてはならないことは、私たち教会の働きとは霊的な働きだということです。その中でも最も優先すべきことは「みことばと教え」、すなわち福音宣教と聖書教育ではないでしょうか。教会が立ちもし倒れもするのは、「みことばと教え」を大切にするかどうかにかかっています。幸い、私は今の教会で信徒の皆さんから「二重に尊敬を」受けており、本当に感謝しています。おかげで、「みことばと教え」に専念することができます。私は、「みことばと教え」を大切にしてくださる教会の皆さんのことを誇りとしていますし、それに専念できる環境が与えられていることを喜んでいます。私は信じています。「みことばと教え」を大切にする群れと指導者に主が必ず報いてくださるということを。ご自身の真実にかけて。



No.08『お大事に』
◆テモテへの手紙第一5章23節
これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。(テモテへの手紙第一5章23節)


 パウロは弟子のテモテにこの手紙を送っているわけですが、パウロの様々な勧めからテモテの状態を推測することができます。テモテはどうも胃が悪かったようです。しかし、手紙の文脈からすると、周りでは禁欲と律法主義が礼賛されていて、テモテ自身も禁欲的なところがあったみたいで、彼は水ばかり飲んでいました。これは決して悪い意味での禁欲、すなわち行いによって救われようとする自己満足的な禁欲ではありませんでしたが、まじめなテモテは主にお仕えする生活の中で身を聖く保ったのでしょう。しかし、パウロは少量のぶどう酒を飲むことを勧めています。テモテの胃の病気はたびたび起こっていたらしく、その痛みをやわらげる意味でも、水よりぶどう酒のほうが良かったのだと思います。パウロの実に現実的な対応です。時々、極端なカルト宗教では、医者のところに行かず信仰によって癒されることを勧めます。そして、癒されなかったら、その人の信仰が足りないとか、罪があるとか言って、病人を責めるのです。これは、奇跡的な治癒を起こして、それを宣伝広告に信者を増やそうとするカルト宗教指導者たちの魂胆があるからです。実際には奇跡でも何でもなくて、自然治癒かさくらなんですけどね。さあ、みなさん、人間は病気になります。持病を抱えている人もいるでしょう。元気だからって祝福されてるとは限りません。病気もせず健康で元気な人間が人の痛みもわからず罪ばっかりおかしてる場合もあるのです。だから健康が祝福!という考えは短絡的すぎます。あるがままで行きましょう!弱さを認めましょう!そして、折に適った助けを求めて行こうじゃありませんか。そして、弱った体には良い薬とお医者さん、そして何より休養を!これからも主にお仕えし続けるために。人々にお仕えするために。



No.09『敬虔』
◆テモテへの手紙第一6章6〜8節
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。


 敬虔とは、神への畏敬の念であり、信仰深さのことです。無神論者からすれば、それは幻想なのかもしれませんが、信じる私たちには「大きな利益を受ける道」、すなわち益をもたらすライフスタイルなのです。10節には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」という言葉が出てくる通り、富に関する教えが続きます。金銭そのものは決して悪いものではありません。実際のところお金がなければ、ご飯を食べることができません。お金がなければ人と交際することも難しくなります。教会が礼拝と宣教を継続するのも、お金なしにはできません。ですから、お金は必要不可欠です。まさに「衣食足りて礼節を知る」という諺の通りです。しかし、人類の歴史は、衣食足りてもなお礼節を知らない人間の罪を証言しています。人間の醜さは、衣食程度では収まらないというのが実際のところでしょう。その醜さから脱する道は、満ち足りる心を与えてくれる「敬虔」です。真の幸福は、畏敬の念と信仰から生まれるのです。イギリスの伝道者ジョン・ウェスレーは「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい」と言っています。決して金儲けを否定していません。むしろ、より儲けるために働くことを勧め、貯蓄することをも勧めています。しかし、その後に与えることを勧めるのです。すなわち、金儲けそのものが目的なのではなく、貯えて与えることが目的であり、自らの使命のために金銭を用いることが最優先事項であるということです。富や名声に縛られず、貪欲さや妬みに翻弄されず、真に幸福に生きる道は、「満ち足りる心を伴う敬虔」です。



No.10『楽しませてくださる神』

◆テモテへの手紙第一6章17節
この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

 「この世で富んでいる人たちに命じなさい!」強い口調で始まりましたが、聖書の記述のおもしろさは、世間のものの見方とは逆であることです。一般的に、この世で富んでいる人たちに対する人間の反応とは、うらやむとか、おもねるというのが普通です。あるいは、逆に、妬みから敵対心を抱く人もいます。資産家で、高学歴で、要職につき、社会的影響力もあり、ついにはスポーツ万能・頭脳明晰・芸達者となれば、まるで神々の一人です(そんなやつはおらんか)。そういうものの見方から出る言葉はこれです。「やっぱりお金よねぇ!」(笑)。さて、聖書はそのようなものの見方を相対化します。「高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように」と。富や権力は人を傲慢にさせ、持たない者の痛みを無視して傷つけます。それは単にお金や地位だけでなく、能力や技術を持つことも同じです。持つ者には持たない者の痛みがわからないのです。逆に、持たない者には、持つ者の苦しみがわからないということもありますが、それは今日のテーマではないので、またの機会に…。次に、富や権力、能力や技術は、「たよりにならない」そうです。そんなアホな!めっちゃ頼りになるやん!と言いたい。あったほうがええに決まってるやん!そう、いいに決まってるのです。だから、あることを否定しているわけではないのです。パウロはそれに「望みを置かないように」と言っているのであって、富や権力、能力や技術そのものを否定しているのではありません。ただ、それが心の神にならないように、ということです。「お金さえあれば幸せになれたのに。もっと頭がよければ幸せになれたのに。もっと容姿端麗だったら、もっといい育ちだったら、…」など、これがないから私はダメ、あるいは、これさえあれば私は大丈夫という考えには要注意だということでしょう。じゃあ、何に望みを置くべきか?答えははっきりしています。「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。神とその約束に対する信仰こそが私たちの力であり、富であり、最大の望みです。



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