本文へスキップ

ヨハネの手紙第一1 JOHN

From Pastor's Office<牧師室から>

No.01『交わりに生きる』
◆ヨハネの手紙第一1章1〜3節
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。


 「永遠のいのち」という言葉を聞くと、様々なものを連想させます。秦の始皇帝は不老不死の薬を求めて、かえって死期を早めたと言われています。あるいは、アニメ『銀河鉄道999』では、機械の体になって永遠のいのちを得るという話しが出てきます。どちらも現世における永遠です。それに対して、霊的な永遠のいのちを言う場合、来世や天国での永遠を意味します。キリスト教はこのカテゴリーに入るわけです。しかし、来世や天国のことばかりに希望を置いて世捨て人になったり、地上のことに無関心で厭世的になることを勧めているわけではありません。今日の聖書の言葉によるならば、永遠のいのちとはイエス・キリスト御自身のことです。そして、永遠のいのちは、父なる神と御子キリストと教会の交わりの中に、信じる者たちを導くのです。それゆえ、日々聖書も読まず、祈らず、教会の礼拝に出席しない信仰者は、神との交わりを失っているということができます。当然、デボーションをしなくても、祈らなくても、それこそ何年も教会に行かなくなっても、福音を信じていれば救われます。理論上は!でも、実際的には、そんなことはあり得ないというのが経験則が教えるところです。私たちは、聖書を読まずとも信仰を保てるほどに完成されているのでしょうか。祈らずに神の御心を知れるほど聖いのでしょうか。礼拝に参加せずとも正しい信仰を保ち続けることができるほどに賢いのでしょうか。いったい、私たちとは何様なのでしょうか。聖書ははっきりと言います。罪人です。それも、相当にずれていて、歪んでいて、自分でも自分の間違いに気付けないほどに霊の目が曇らされているのです。だからこそ、キリストは私たちのために死ななければならなかったのです。そして、キリストを通して与えられた救いは、私たちを神と教会の交わりへと導いて行きます。律法的に理解しないでください。むしろ自発的な愛を勧めているのです。そのように、ヨハネの手紙も勧めています。「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」と。



No.02『赦しときよめを受け取って』
◆ヨハネの手紙第一1章8〜9節
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


 全ての人に罪がある!これが聖書の人間観です。当然、人間は神に創造された被造物であり、創造の観点からすると、人間はよいものです。しかし、アダムとエバの罪以来、神との交わりが壊れたことから、全ての人に罪が入ったと聖書は教えるのです。それゆえ、罪とは交わりの破壊であるということもできます。日本の歴史学者の間で自虐史観などという言葉が使われますが、原罪とその歴史観は自虐史観ととらえられる恐れがあります。自分をいじめて自己満足に陥り、執拗に罪を告白したり、謙遜ぶることで聖人になった気になる宗教とでも言うべきでしょうか。自己反省的なので、一見立派に見えますが、単に臆病であったり、自己防衛的であったり、厭世的になっているだけのクリスチャンもいます。失敗を恐れてこじんまり収まるというか、信者同士の間で立派なクリスチャン、立派な牧師、立派な伝道者と呼ばれることに必死になってしまう。こうなると、罪を認めるイコール自虐的になると見なされても仕方ありません。しかし、聖書の語る罪とは、「神の前にある罪」です。特に新約聖書が言うところの罪がそうです。要は、神の前に自らのありのままの状態を認めることであって、人間社会でへーこらへーこら頭を下げることではないのです。当然、生きていたらそうしなければならないこともあるでしょうし、時には交渉事として強く出なければならない時もあります。しかし、それは人間社会における振る舞いのことであって、神の前にどうかという問題ではないのです。そんなわけで、重要な点は神の前に出ているかです。神の前にありのままの自分をさらけ出しているでしょうか。主の導きを求めているでしょうか。自分の願望や思い込みではなく、神の御心がなることが最善と信じているでしょうか。すなわち、自分の罪を認めているでしょうか。それが出来ているなら、その人には赦しときよめが与えられるのです。その後は、自信をもって進んで行きましょう。



No.03『あなたがたが罪を犯さないようになるため』
◆ヨハネの手紙第一2章1〜2節
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。(Tヨハネの手紙2章1〜2節)


 神がそのひとり子であるイエス・キリストを遣わし、その身代わりの死によって私たちの罪を赦してくださったのには、いくつかの目的があります。その一つが、「罪を犯さなくなる」ことです。榎本保郎さんもこう言っています。「イエスは私たちが罪を犯すために十字架につかれたのではない。罪が許されて清くなるために十字架につかれたのである」と。確かにその通りだと思います。その犠牲には応答が必要です。本当にその神の愛に感動しているなら、そこには行動が生まれ、献身が生まれるはずです。「赦されてるんだから、何もせんでええは。」「今日もやっちゃいました。明日もよろしく神さま!」みたいな生き方ではだめでしょう。そんなわけで、清く正しく美しくとは言いませんが、主の愛に応答するお互いでありたいと思います。今いるところから、更に一歩踏み出して神様の召しに応答していきましょう!ちなみに、ヨハネの手紙で言う罪とは、直接的には教会のメンバーの間で憎み会うことです。あるいは大切にしないことです。えこひいきをしたり、人を公平に扱わないことも入るかな。お互い好き嫌いはあるでしょうけど、それに従って行動してしまったらおしまいですしね。というわけで、嫌いなまんまでいいから(笑)、意志によってお互いを大切にしていきましょう。私たちは、神と教会の交わりの中に招かれているのですから。でも、マザーテレサさんが言うように、もっと悪いのは無関心であることです。嫌ってたり、文句を言ってたり、何か改善しようと空気をブチ壊していたりしてるほうが、無関心であるよりはいいのかもしれません。それゆえ、『罪を犯さないようになるため』というのは消極的になれと言っているのではありません。もしそうだとすると、煩わしい教会の交わりから去ることが最善策になってしまいます。罪を犯さないとは、交わりに生きることです。神を愛し隣人を愛する、その交わりに私たちは招かれているのです。



No.04『罪を赦免するが、許可しない』
◆ヨハネの手紙第一2章12節
子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

 
 ヨハネがその手紙を書き送った理由の一つは「あなたがたの罪が赦されたから」です。現代に生きる私たちにもこのメッセージは語られています。すなわち、「赦されたことを知ってください」というメッセージです。過去にどんな罪があったとしても、どんな失敗をしてしまったとしても、また現在どんなに醜い思いが心の中にあったとしても、そして将来に対してどれほどの不安を抱いていたとしても、天のお父様は赦していてくださるということです。あの放蕩息子の父親が無条件で罪深い息子を愛し受け入れたように(ルカの福音書15章11〜32節)、天のお父様のまなざしはいつも赦しとあわれみと寛容に満ちているのです。だから、完全な赦しをいただいたことを認めましょう。心に刻みましょう。しかし、同時に、神は罪を許可したり、あるいは推奨したりしていないということも忘れてはなりません。神は決して私たちを誘惑なさいませんし、罪を犯した時に「神がそうさせた」などというのは大きな間違いです。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(ヤコブの手紙1章13〜14節)。十字架の赦しは、罪を容認するものではありません。それゆえ、「神は私を愛して下さっている。責めてはおられない。赦して下さっている」という確信と、「愛され赦されたのだから、その愛に応えて行こう」という応答とのバランスが必要です。キリスト教は、罪を責められて改善していこうと必死になるただの倫理宗教ではありません。逆に、赦しばかりを強調して、応答も献身もない、怠惰と自己中心を助長する宗教でもありません。真のキリスト教は、愛と赦しを確信し、その愛に応えていく生き方を生み出すのです。今日も、キリストの愛と赦し、その恵みを瞑想しながら、その愛に応えて行く決心をしていきましょう。「私には何ができるだろうか」と。



No.05『神の子供であるということ』
◆ヨハネの手紙第一3章1〜2節
私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(Tヨハネの手紙3章1〜2節)


 イエス・キリストを信じることによって与えられる救いとは、神の子供になるということであり、神との親しい交わりに入れられることでもあります。罪が赦されて義と認められ、聖なる者と宣言されたのも、単に天国行きの約束が与えられたというだけでなく、神との親しい交わりに入れられるためなのです。言い換えるならば、私たちクリスチャンは神との親しい間柄を生きるために新しく生まれ変わったのです。聖書が語る新生も、その意味は、神の子となって神との親しい間柄になったことを指すのであって、「お酒をやめました、煙草をやめました、ギャンブルもやめました、品行方正な人間になりました」ということではないのです。新生とは神を無視し自己中心に生きる人生から、神を主とし神と交わる人生にシフトしたことを意味するのです。だから、神との親しい交わりを生きた結果として、結実し、正しい生き方が生まれたのであればいいのですが、「道徳的な努力の結果として品行方正になったから私は新生しました」と言ったとすれば、それは聖書が語る新生ではなく律法主義であり、自らの努力を神とする倫理宗教にすぎません。そういう人は、キリストの十字架の贖いも復活の命も、それこそ神の恵みをも必要としません。その人が頼りとしているのは自分の努力だけです。それをキリスト教だと履き違えている、倫理宗教まがいのキリスト教徒がどれほど多いことか。十字架の贖いと復活のいのちの恩恵にすがらない信仰は、福音信仰ではありません。さあ、そのことを強調した上で、いつかこの生涯を終え、キリストと出会う時、私たちはキリストのありのままの姿を見、キリストに似た者とされることに注目します。日々の祈り、御言葉の瞑想、それらも神との出会いの時です。人は出会う相手に似てくるものです。触れるものに影響されます。その変化こそが、神の子供であることの証です。より一層、神との交わりを深めていきましょう。



No.06『先行する神の愛』
◆ヨハネの手紙第一4章10節
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


 生まれた時から神を愛している人はいないと思います。言い換えると、生まれた時から、神様に信頼していて、神様に感謝していて、神様に従おうと決心している人なんていないのではないでしょうか。むしろ、人間は生まれた時から神がわからず、そして神がわからないまま生きて行くのです。そして、無自覚なことなので、人を責めることはできませんが、人間は神を無視し、自己中心に生きる生き物です。自分と自分の人生が全てで、その延長線上に神と他人を見ているのです。つまり、周りの人も神も、自分を幸せにするかどうかでその価値を測るのです。そこまで露骨でなかったとしても、腹の底には自分が可愛いという思いがあるのではないでしょうか。僕にはあります。親や、妻や、子供や、教会や、周りの人たちや、それこそ神様でさえ、自己実現の道具のように考えてしまった時がありますし、今でもそういう誘惑に駆られます。それも、無意識だから困りもんです。間違っても、「私が神さまを愛したから、神様はこんな多くの祝福をくださったのだ」などとは思いたくもありませんし、口が裂けても言えません。よくよく冷静に自分のやってきたことと、自分の心の深いところと向き合うと、誇れるところなんかどこにでもなくて、ただ神の恵みと憐れみでここまでこれたんだなって思うのです。そうすると、このヨハネの手紙の言葉がしっくり来るのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し!」。本当にその通りです。人様には多少誇れることが一つや二つあったとしても、神の前では到底無理です。私の罪と弱さにもかかわらず、これほどまでに愛して下さった。キリストの十字架によって赦して下さった。そして、キリストは今も生きていて私を弁護し、私のためにとりなし、私とともにいてくださる。今、私はキリストのおかげで力強く生きて行くことができる。どう考えても、神の愛が先行しているのです。この神の愛こそ、私の最後の砦であり、私のホームなのです。ここに人々をお招きし、共に励まし合うのが教会の使命です。この神の愛の交わりに、飛び込んで来ませんか。




No.07 世に打ち勝つもの(パート1)
◆ヨハネの手紙第一5章3〜5節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。


 「世」とは何でしょうか。世の中全般と解釈するなら、私たちはこの地上で生きていくことができません。世の中のおかげで、私たちの衣食住が守られているのだから。それゆえ、「世」とは世の中全般ではありません。1世紀の文脈で考えるなら、「世」とはイエスを十字架にかけたユダヤ人の指導者たち、すなわち宗教家・政治家のことです。彼らの特徴は、律法主義・競争主義・排他主義でした。律法を守ることによって神に認められると教え、その律法をどれだけちゃんと守っているかで競争し、律法を守れていない者たちに罪人のレッテルを貼って排斥しました。なぜ、彼らは律法をこんな風に用いたのでしょうか。本来、律法は「神を愛し・自分を愛し・隣人を愛する」ためにあるはずなのに。理由はただ一つです!自分たちがいい目を見るためです。どんなにラビ(教師)たちがいいことを言ったとしても、結局は律法主義・競争主義・排他主義のユダヤ当局が政治も宗教も司ってしまったのです。自分たちがいい目を見るために。イエスを神の御子と信じる者は、この律法主義・競争主義・排他主義の考え方に勝利するのです。過去にどんな罪があり、どんな失敗があったとしても、神はレッテルを貼られない!私たちの罪を赦し、何の功績もなく償いもできていない私たちをあるがままで受け入れ、「愛する子よ」と呼んでくださるのです。このような神の愛に生きる者こそ真の勝利を得るのです。

「キリストは愛され、礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界をつつんでいる。これを『死んでしまったキリスト』と呼ぶことができようか。イエス・キリストは、永遠の、生ける神であることの証明である。・・・ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。キリストは、愛の上に王国を打ち立てた。」ナポレオン・ボナパルト



No.08 世に打ち勝つもの(パート2)
◆ヨハネの手紙第一5章3〜5節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。


 人間の価値をその業績や成果によって判断する社会、それが1世紀のユダヤでした。律法を守っているかどうかが人間の価値を決め、それを守れない貧しい者たちや職業差別を受けていた人たち、そして地域差別を受けていた人たちも、罪人というレッテルを貼られて、価値なき人間とみなされました。その世に敢然と立ち向かわれたのがイエス様であり、復活の主と出会い聖霊を受けた後の弟子たちです。その精神は、非暴力で社会に訴えたガンジーやキング牧師によって継承され、マザーテレサの働きにおいてもあらわされました。そして彼らはみな十字架の道を歩んだのです。ですから世に勝つ道とは、十字架の道です。律法を守ることによって称賛される道ではなく、信仰のゆえに見下される道です。イエスを神の御子と信じているからといって世の中に称賛されることがあるでしょうか。全くありません。しかし、それは天の父なる神の喜ばれる道です。その信仰のゆえに、いやもっと強調するならば、その信仰のみによって、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と天のお父様はおっしゃるのです。ですから、イエス様を信じているあなたは勝利者なんですよ!!

“God has not called me to be successful; He has called me to be faithful.” Mother Teresa
「神は私を成功するために召されたのではありません。私が忠実な者となるために召されたのです」マザー・テレサ

洛西キリスト教会

〒615-8013
京都府京都市西京区桂清水町103

TEL 075-391-0044
Mail sfddrcc@yahoo.co.jp

「聖書のメッセージ」 洛西キリスト教会