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コリント人への手紙第一1 corinthians

From the pastor's office <牧師室から>


No.01『神を知る』
◆コリント人への手紙第一1章18〜21節
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。


 神を知る方法はただ一つしかありません。それは信じることです。それも、神の側から啓示された約束の言葉を信じるのです。やみくもに何でも信じればいいというものではありません。何を信じるかが大切なのです。天地万物の創造者であられる神は、御自身を啓示する方法としてまずアブラハムを選び、イスラエル民族にその啓示を託しました。結果、旧約聖書という啓示の書物ができあがったのです。そして、その旧約聖書が預言して来たお方がイエス・キリストです。そういう意味で、イエスさまは啓示の集大成ということができるでしょう。イエス・キリストにおいて啓示は完成し、救いが成就したのです。あとは、私たちがこのお方を信じ受け入れるだけです。そして、信じつつ聖書を読み、信じつつ祈り、信じつつ信仰生活を送る時、更に深く神を知っていくのです。この神との関係、神とのつながりを聖書は救いと呼び、それは信じた時にスタートし、信じ続けることによって救われ続けるのです。そして、その救いはこの地上の生涯を終える時に完成します。それゆえ、それまでは、神との交わりが続いていきます。さあ、神の前に大いに喜びましょう。大いに祈り、大いに願って行きましょう。喜びも憂いも、感謝も訴えも、信じて神の前に差し出す時、神は必ず応えて下さいます。この神と交わり、神を知るという営みに、この世の知恵や知者の経験値は全く役に立ちません。どんなに優れた学者であろうと、あるいはどんなに無知な人だろうと、信じることがなければ、等しく神を知ることはできません。同様に、信じるなら、知識や知恵のあるなしに関係なく、神との交わりを経験するのです。これこそが、神のご計画だったのです。誰をも神の前に誇らせないためです(コリント人への手紙1章29節)。



No.02『私は弱かったし、恐かった』
◆コリント人への手紙第一2章3〜4節
あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。


 あの偉大な使徒パウロが、コリントでの宣教活動を回想して言っています。「私は、弱く、恐れおののいていました」と。新しい地で、初対面の人たちに福音を伝えようとしていたパウロは、勇敢で、恐れなど一つもなく、自信満々であったのかというとそうではなく、不安で、弱々しく、恐れおののいていたのです。新しいことにチャレンジし、責任ある働きを続けることは、本当に恐いことですし、時に弱さを覚えます。「こんな自分で大丈夫なんだろうか?私などふさわしくないのではないか?」という葛藤がそこに生まれます。苦悩と闘いがあるのです。できれば、そんな苦しみから解き放たれて、気楽にできたらいいのに!なんて思うのですが、現実はそうはいきません。しかし、それでいいのです。現実のあるがままを受け止め、自分のあるがままを引き受けながら進んで行くところに信仰が生まれるのですから。なんでもかんでも完璧にできて、苦悩も闘いもないなら、神に対する信頼も出てきませんし、ひどい場合には神様のこともいらなくなります。「私は弱かったし、恐かった」。そう告白するパウロは、神に信頼し、神の力を体験します。パウロの宣教は、「御霊と御力の現れ」となりました。パウロの生涯に表された神の力は、パウロの弱さと恐れのもとに働いたのです。あるがままを生きることは、楽ではないし、弱さと恐れ、苦悩と闘いがあります。しかし、それでいいのです。そこに働く神の力を信じて歩んでいきましょう。 



No.03『神は私たちの交わりの内に』
◆コリント人への手紙第一3章16〜17節
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。


 まだ、エルサレムに神殿が存在していたころ、ユダヤ人にとってみれば神殿とはエルサレム神殿だけでした。聖なる都に建てられた神殿だけが唯一の神殿と思われていた時代です。ところが、パウロはコリントの教会の人々をさして、「あなたがたがその神殿です」と言ったのです。イエス・キリストが十字架にかけられ、殺された時、神殿の幕が真っ二つに裂け、大地は揺れ動きました(マタイの福音書27章51節)。御子を十字架にかけて殺した時点で、エルサレムの都はもはや聖地ではなく、エルサレム神殿は聖なるところではなくなったのです。そして、イエス・キリストを信じる群れこそが、神殿となりました。そういう意味で、私たちの集まりは非常に重要な意味があります。私たちが礼拝に集まる時、祈祷会に集まる時、家庭集会に集まる時、神を賛美するために集まる時、その集まりこそが「神殿」なのです。そこに神は住んでおられ、その集まりを神は喜んでいてくださるのです。キリストにある私たちのつながりを過小評価してはなりません。そこに主は住んでいてくださり、そのつながりを、その集まりを、その交わりを主が喜んでいてくださるからです。そして、そのところに、主はご自身のご計画と御力を表して下さるのです。



No.04『本当の力』
◆コリント人への手紙第一4章20節
神の国はことばにはなく、力にあるのです。


 神の国、すなわち神の支配、神の臨在、神のみわざのあらわれは、言葉の説明にあるのではなく、実際に働く力にあるのだとパウロは教えています。言葉を使って伝道し、言葉で信徒教育をしたパウロですから、言葉そのものを否定しているわけではありません。彼は、言葉による伝道者であり神学者でした。ですから、今日のみ言葉を取って、神学や教理を否定するようなメッセージをする人は、間違いを起こしています。パウロがここで言う「力」とは17節にある通り、「キリスト・イエスにある私の生き方」のことです。そして、パウロの生き方とは、他者を祝福する生き方でした。そのことが、12〜13節に書かれています。俗っぽく言えば、「負けて勝つ!」ということなのでしょうね。物事の善悪、優劣、勝ち負け、は神様におゆだねしてしまって、自分自身は神にお従いするというのがパウロの生き方だったのです。そして、それはイエス・キリストにならう生き方でもありました。十字架で負けて後、復活の栄光に包まれたイエス様の生き方にこそ、本当の力があるのです。それは決して泣き寝入りではありません。泣き寝入りの場合はそこに怨念が残るからです。そうではなく、自ら信じる道を突き進み、それゆえに起こる様々な反発、批判、理不尽な対応を甘んじて受けるという生き方です。非暴力ではあるが、無抵抗ではありません。見ようによっては強烈な抵抗運動です。すなわち、何があっても、最終的にはキリストに信頼して生きる、御言葉に信頼して生きる、という頑ななまでの抵抗なのです。「キリストが私の内に生きておられるから大丈夫」と信じて突き進む本当の力が福音にはあるのです。



No.05『神の栄光の器』
◆コリント人への手紙第一6章19〜20節
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。


 私たちのからだについて、パウロはコメントしています。私たちのからだは、もはや私たちのものではない!とパウロは言います。ちょっとビックリするような発言ですね。「私のからだは私のものです!」と言いたくなるでしょう。それはそうなんですよ。他の誰にもあなたのからだを支配させてはいけません。あなたのからだはあなたのものです。誰かが、今日の御言葉を使って、「あなたの体は神さまのものです。さあ、教会で奉仕しなさい」と言ったとしても、無視して下さい。誰にもそれを強要する資格はありません。神への献身と奉仕はあくまで自発的なものであり、神への信頼と愛から生まれなければならないからです。愛が目覚めたいと思うまでは、ゆり起してはなりません(雅歌8:4)。今日の箇所で言われていることは、神があなたを高価で尊い存在とみなし、キリストの十字架の贖いによって、あなたを買い取られたということです。そして、あなたの内に神が共にいるということです。言い換えれば、あなたの存在とあなたの人生が神の御手の中にあるということです。それは保証であり約束であって、あなたを占領したり蹂躙したりするためではありません。むしろ、そのようなありがたい立場にいるということをしっかりと認めて、神の子としての誇りと尊厳を失うことなく、勇敢に立ち向かって行きましょう!そう、パウロは言いたいんじゃないですかね。自暴自棄になって、何の努力もせず、罪に埋没していく人生はみじめです。「私は神の栄光の器なのですから!」と言って、次の一歩を踏み出しましょう!



No.06『真の平和を得させるために』
◆コリント人への手紙第一7章12〜15節
次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知しているばあいは、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。


 何ともデリケートな離婚の問題をパウロは取り扱っていますが、ここで興味深い点が3点あります。まず一つ目は、「これを言うのは主ではなく、私です」という断りを入れている点です。神の権威によって語るというよりも、同じ神を信じる良きアドバイザーとしてという意味でしょう。二つ目は、信者でない夫あるいは妻が、信者であるその妻あるいは夫によって聖められているという点です。パウロの契約観念がここにあらわれています。神の祝福が信者のみならず、信者の家族に及ぶという家族単位での契約観念です。個人主義ではないですね。そして三つ目は、「神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです」という点です。実際には、救い主の到来はユダヤの家庭に剣をもたらしました。イエス様を信じることにより、多くの信徒が家族からの迫害を経験しました。しかし、それは偽りの平和から真の平和へと移行する産みの苦しみだったのです。パウロははっきりと言います。「そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません」と。ここに信教の自由のはじまりがあります。信仰の世界に、男も女も、年長者も子供も、地位の高さも名誉も関係ありません。信仰による自由と平和があるのです。その平和は抑圧によって生み出された虚偽の平和ではなく、自由を前提とした真の平和です。たとえ、どのような偏見、抑圧、あるいは迫害があったとしても、自分はイエス・キリストを信じると、自分はクリスチャンであると、はっきり告白していいのです。後は野となれ山となれ!神にゆだねて生きていきましょう。



No.07『唯一の神、唯一の救い主』
◆コリント人への手紙第一8章4〜6節
そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。


 「神は唯一である」と主張するのは、現代社会では評判が悪い。不寛容だ!排他的だ!と言われ、その悪い例に一神教の国々によるところの戦争があげられます。アメリカとイスラム国家との戦いは一神教のせいだとよく言われます。そして、日本みたいな八百万の神を信じ、仏教のような寛容な宗教がある国では、ああいう殺戮は起こらないと、ある有名なニュースキャスターも言っていました。日本の歴史を振り返ると、それが嘘であることは一目瞭然なんですけどね。多神教でも人殺してるし、寛容な仏教の歴史でも、仏教サイドが人を殺してます。要は、政治や社会が宗教を利用しただけのことで、その殺人を正当化するために宗教の教義を使っただけのことです。そんなわけで、寛容か不寛容かは、一神教か多神教かの問題ではないのです。そんなわけで、あえて申し上げますが、キリスト教は明確に唯一の神を宣べ伝えます。何の神でもいいなどとは申しません。それこそ「鰯の頭も信心から」などといういい加減な思想を退けます。キリスト教では、信仰そのものが重要なのではなく、何を信じるかのほうが重要なのです。人間の信心などは所詮もろいものです。大切なのは、信じる対象が、どれほど信頼に値するかなのです。神は唯一です。そして、神が遣わされた救い主も唯一の主なるキリストのみです。天地万物の創造者であり支配者であるお方が救い主を送られた故に信頼性があるのです。人間が勝手にまつりあげただけの教祖に、何の救いもありません。本当の救いは、信頼に値する神の言葉が約束に基づいているのです。



No.08『競争の楽しさ』
◆コリント人への手紙第一9章24〜25節
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


 パウロは自分の奉仕を競技場の走者にたとえています。現代の日本において、競争と聞くと、あまりいいイメージがわきません。比較競争社会、偏差値教育、格差社会、そういったマイナスイメージのものばかりが連想されます。しかし、そのマイナスのイメージをもたらしているのは、競争主義であって、競争そのものではありません。競争主義と競争は違います。競争主義は競争に勝った者だけに価値があり、負けた者には価値も意味もないとレッテルを貼ることです。これは間違いです。負けた者も、それまでの過程における練習や自制に価値や意味があるはずです。もし、勝つことだけに意味があるとするなら、「負け戦ならすまい」と言って虚無的に生きる人が増えてしまいます。そして、勝った者は有頂天になって、負けた者たちを見下し、歪んだ人格が形成されてしまいます。そういう意味で競争主義は人間社会に歪みを生みだします。しかし、競争そのものは良いものです。なぜなら、競うことで自制し、目的に向かって自己訓練するようになるからです。ある意味で結果はどうでもよいのです。競争そのものに価値と意味が生まれ、苦しい鍛錬が喜びになってくるからです。競争主義でない競争が生みだす効果は絶大です。競争主義は人間の人格形成に悪い影響を与えますが、競争そのものは生を豊かなものにしてくれるのです。さあ、主にある兄弟姉妹とともに、切磋琢磨しながら、与えられた信仰生活を有意義なものにしていきましょう。



No.09『神の真実』
◆コリント人への手紙第一10章13節
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。


 普通に生きていても人生いろいろあります。学校でいじめられたり、家に帰っても親が喧嘩してたり、普通にがんばってるけど報われなかったり。そもそも、何でこんなに自分は不器用なのかとか、頭が悪いのかとか、損なことばかりが目につきます。普通に生きててそれですから、何かポリシーを持てばなおさら辛い経験をします。キリストを信じて、神に従うなんていうのは、余計に不幸を身に招きそうに思いませんか?牧師が言うのもなんですけど(笑)。でも、ものは考えよう。普通に生きてても、どうせ苦しむんだったら、より明確なポリシーを持って苦しむほうがましでしょう。何にもしないで人生失敗に終わるよりは、何かして失敗したほうが本望じゃありませんか。そんなわけで、初代教会の人たちは、イエス・キリストを信じることの故に迫害を受けたのです。そして、誠の神だけを礼拝すると決めていたのだけれども、社会の圧力を受けて偶像礼拝に誘われました。めんどくさいことばかり経験しています。「信じなかったらなんぼか楽やのに!」と思うほどに。でも、それは経験したことのない人の言葉。経験したらやめられません!何を経験したのか?それは、「神の真実」です。しんどいこと、めんどくさいことは相変わらずいっぱいあるのだけれども、キリストを信じて生きる時、「神の真実」を経験するんです。「耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださる」神の真実です。私も一杯経験してきました。感動もんです。



No.10『御霊によって語る』
◆コリント人への手紙第一12章3節
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。


 私たちが「イエスは主です」と言って、福音を信じた時、それはそれは弱々しい告白だったと思います。「信じたい」という思いもあっただろうし、人によっては「信じれば何とかなるかも」と一種、困った時の神頼み的な人もいたことでしょう。しかし、同時に「こんなんで大丈夫なんだろうか?ちゃんと信じれてるんだろうか?気の迷い、あるいは、そう自分で思い込ませているだけなんじゃないだろうか?」と感じた人もいるのではないでしょうか。私もそうでした。どちらかというと、はっきりと決断し、はっきりと信じて、周りからは揺るぎのない信仰のように映ったかもしれませんが、心の片隅では「こんなんでいいのだろうか?」という不安と焦りがありました。しかし、今、振り返ってみて、「イエス様、あなたは私の罪のために死なれよみがえられた神の子、私の救い主です。あなたを信じます!」と祈ったあの祈りは、御霊によって導かれた祈りだったのだなと思います。「聖霊が働いてくださっていた!」。この確信は、将来においても大きな慰めと励ましになります。「今も聖霊が働いていて下さる。私の信仰も、私の人生も、聖霊が導き、忠実に治めて下さるんだ!」、そう思えるなら、何と平安な将来でしょうか。たとえ試練があっても、乗り越えさせて下さる! 信じて進んで行きましょう。



No.11『愛の讃歌』
◆コリント人への手紙第一13章3〜8節
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。


 使徒パウロは、教会の信徒間の関わりの中で最も優先されるべき特質をあげています。それが「愛」です。そして、その愛の機能が今日の箇所で述べられています。すなわち、愛が働くと、どんな行動が生まれるかです。寛容になる、あるいは親切になる、そしてねたまない。などなど。そのように、愛することを大切にするよう、コリントの教会にすすめているのです。そのような勧めをする背景には、分裂分派・姦淫・不品行・偶像礼拝など、様々な問題があったのであり、能力主義・成果主義が教会をむしばみ、信徒間の交わりを破壊していたのです。預言や異言など、個々人の能力や賜物だけがクローズアップされ、お互いを大切にする共同体ではなくなっていました。そこで、パウロは警笛を鳴らしたのです。「愛を追い求めなさい」(14章1節)と。さあ、働きばかりに負われ、能力ばかりに関心が寄せられていませんか。相手を大切にすることを優先していきましょう。また、「自分は愛されていない」と卑下ばかりしている人はいませんか。「可哀そうな私、悪いあの人」の構図に陥っていては何の解決もありません。愛されることよりも、愛することを優先させていきましょう。教会はまさに、お互いを大切にすることで訓練され、矯正され、成長させられるトレーニングセンターです。自分に愛があるかどうかと査定することには何の意味もありません。また、「あの人には愛がある、あの人には愛がない」と評価することには更に意味がありません。なぜなら、評価している時点で上から目線になっており、自らが愛することを怠っていることが証明されているからです。自己評価も他を評価することもおやめになって、何ができるかを考えていこうではありませんか。そこにこそ聖霊の導きがあるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエスに目をとめながら(ヘブル人への手紙12章2節)、お互いを大切にしていきましょう。



No.12『いつまでも残るもの』
◆コリント人への手紙第一13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


 普通に考えて、信仰と希望と愛とはいつまでも残るものではありません。死んだら信仰も終わり、死んだら希望もついえて、死んだら愛の関係も断たれるのです。この世には、永遠に続くものなど何もありません。時間の経過とともに全てが忘れ去られていくのです。一生の間で経験する愛は、終わりから振り返ってみると、単なる人間的な愛着に過ぎなかったことに気付かされます。自らの愛に酔いしれても、時間の経過と死という現実の前に、どんな強固な愛も消え失せて行くことは明らかです。では、パウロがここで言う『いつまでも残るもの』とは何でしょうか。それは、私たち人間から生じたものではないことは確かです。つまり、神からの賜物としての「信仰・希望・愛」なのです。神の恵みに対する信仰、神の約束に対する希望、愛されたことへの応答としての愛、これらはすべて神からスタートしたものです。神は私たちを愛して御子キリストのいのちを犠牲にされました。ここに愛がある。そして、キリストを信じる者に天にある全ての祝福を注がれました。ここに信仰が生じる。神はその約束を固く守られる。ここに私たち緒希望がある。全部、キリストの十字架の恵みによって生じたものであり、神に与えられたものです。だから、『いつまでも残る』のです。パウロは単なるヒューマニズムや博愛主義を述べているのではありません。天賦の信仰・希望・愛を語っているのです。今日も、私たちのために恥と苦しみと罪の罰を背負ってくださったキリストの十字架を思い浮かべましょう。そこにこそ、私たちの信仰と希望と愛があるのですから。



No.13『わかってもらう努力』
◆コリント人への手紙第一14章12節
あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。


 14章には「徳を高める」という言葉が何度も出てきます(3、4、5、12、17、26節)。原語のギリシャ語はオイコドメーンという言葉が使われており、原型のオイコドメオーは「家」を意味するオイコスと、「建てる」という意味のデモーがくっついて出来た言葉です。建て上げる、啓発する、強化する、再構築するなどの意味に訳すことができ、家を建設するように、人や共同体を成長させていく意味で使う言葉です。今日の箇所では、教会の信徒と教会全体の成長という意味で、「徳を高める」という言葉を使っていますが、それに有益なのが、愛と預言であるとパウロは教えます。預言というと、トンデモ系のお話に聞こえてきますが、要は神の御心が何かをわかる言葉で語るということです。わからない言葉が異言でした。だから、わかるようにそれを説き明かす必要があるとパウロは教えています。つまり、相手を愛し、教会を愛すること、そして、相手にわかる言葉、教会全体が理解できる言葉で神の御心を伝えるということ、それが信徒と教会の成長につながるんだと言いたいわけです。愛については前回と前々回で触れましたから、省略しますが、わかる言葉で伝えるというのは重要だと思います。別に異言でなくても、普通に話しているのに何を言っているのかわからない説教、祈り、証しがあります。当然、すべてをわかってもらうことは大変です。相手の力量や、自分の説明能力の足らなさにも原因があるでしょう。けれども、わかってもらおうという気があるのとないのとでは大きな違いがあり、わかってもらう努力があるのとないのとでは雲泥の差があります。そして、愛はわかってもらおうという気と努力を生み出すのです。熱心に求めていきたいと思います。愛することと、わかってもらおうとする努力を。



No.14『恵みの福音』
◆コリント人への手紙第一15章1〜2節   
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。


 使徒パウロが生涯にわたってこだわったもの、それは福音です。教会が立つか倒れるか、私たちの歩みが祝福されるかどうか、その全てはこの福音にかかっているのです。パウロの言葉によれば、福音は受け入れるものであり、人生の支えにするものです。キリストが多くの苦しみを受け、私たちの罪の身代わりに十字架につけられて殺され、三日目によみがえられたという福音(良い知らせ)、これを信じるだけで、私たちは恵みによって救われたのです。すなわち、罪赦され、神の子供とされ、永遠のいのちにあずかり、神の子としてふさわしく生きる人生がはじまったのです。そして、その神の子としての人生もこの福音によって支えられるのです。そういう意味で福音から卒業することなどあり得ません。私たちの生をどこまでも肯定しうるのは、私たちの善良さや行いの正しさによってではありません。「わたしは決してあなたを捨てない」と神様に言っていただき、祝福を失わないのは、ただこの福音の約束によるのです。ですから、これからもイエス様の御名を信じ、イエス様の御名によって祈り、イエス様のみこころを求めて生きていきましょう。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のですから(ローマ人への手紙10章13節)

「キリストを知るとは、その恵みを知ることである。」フィリップ・メランヒトン



No.15『変えられる』
◆コリント人への手紙第一15章51〜52節  
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 15章で、パウロはキリストの復活に対する信仰と、信者の復活についての信仰を告白しています。キリストが死者の中からよみがえられたように、それを信じる者たちも死んで終わりではなく「御霊のからだ」によみがえるとパウロは教えます。「御霊のからだ」は、英語ではspiritual bodyです。これって、とてもユニークな表現です。「御霊=spirit」は、目に見えないものであり、肉体的なものではありません。イエス様も「神は霊である」とおっしゃいましたが、その意味はやはり肉体的・物理的制限を受けないお方だということです。そうすると、「御霊のからだ」ってなんじゃ?と突っ込みたくなります。肉体的・物理的制限を受けないからだ?それは、もはや我々人間が考えるからだではありませんね。よくわかりません(笑)。ただ、パウロはここで、信じる者は死んで終わりでないことを力説しています。眠ってしまうのではなく、変えられるのだと。つまり、死んで終わりではなく、永遠のいのちに生かされるのだと。時々、「死後のことなんてどうでもいい、今がよけりゃそれでいい。永遠なんてうんざりだ」と、来世に対して悲観的な意見を聞きます。気持ちはわかるのですが、それは、現世の延長線上に物事を見ているからです。つまり、「変えられる」ことを想定していないのです。私たちの想像を超えた素晴らしい未来が用意されていて、その未来にふさわしく私たちも変えられるとすれば、来世は希望に満ちているのではないでしょうか。そして、その希望を抱きながら生きる現世は、「今がよけりゃそれでいい」などという虚しい生き方から私たちを解放するのです。



No.16『主にあってむだでない』
◆コリント人への手紙第一15章57〜58節   
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。


 クリスチャンライフとは既に勝利が確定したストーリーです。キリストの十字架で私の罪は赦されました。信仰によって神に義と認められました。すでに永遠のいのちが与えられています。私は神の子供になりました。死んで終わりではなく天の故郷・神のおられるところに行くのです。そして、これらの祝福は絶対に奪われることがありません。神が、ご自身の真実にかけてそれを保証してくださったのです。十字架の愛がその証拠です。だから、人生の勝利のゴールは確定しているのです。じゃあ、勝利が確定していて、祝福を失わないなら、何したっていいじゃないか。それこそ罪を助長することにはならないか。この教えは人間を怠惰にさせるのではないだろうか。そういった反論が返ってきそうです。しかし、それは知らないから言うのです。経験していないからわからないのです。現に、キリストにある勝利を確信していたパウロもペテロもヨハネも、みな罪を悔い改め、勤勉に生き、神を愛し隣人を愛することに生涯をささげました。それは何故なのか?答えは単純です。彼らは神の愛に出会ってしまったからです。信じるだけで、罪を赦し恵みを注いでくださった神の御人格(御神格と言ったほうがいいか)に出会っちゃったのです。それだけでなく、神に選ばれ、神の器として用いられはじめたのです。彼らには生きがいが与えられました。神の愛に出会い、使命を与えられた彼らには、神を無視して好き放題に生きることなど考えられませんでした。むしろ、神に応えたいという愛の行動が生まれたのです。そんなわけで、みなさん。神の愛を信じているならば!あなたの労苦は、主にあってむだではありません。必ず益となり、神の報いがあり、ついには勝利のゴールに至るのです。




洛西キリスト教会

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