第2章 北海道開拓政策の変遷

  本論文で考察する尾張徳川家による北海道八雲の開拓は、後で述べるとおり、生活に困窮した士族を救済するためという側面が強いのであるが、ではなぜ北海道開拓が困窮士族救済のための方法として位置づけられたのかについては、北海道開拓が強力に進められつつあった当時の社会情勢を理解する必要があるように思われる。そこで、第2章では、北海道開拓政策がなぜ強力に行なわれる必要があったのか、それがどのように進められてきたのかについて、あまり深くは立ち入らないものの、大まかな流れをごく簡単に述べることにする。

 

2-1 江戸時代以前の開拓政策

蝦夷地のころ

北海道と呼ばれるようになったのは1869(明治2)年のことであり、それ以前は長らく「蝦夷地」と呼ばれていた。蝦夷地に和人が住みはじめたのは13世紀頃といわれており、鎌倉幕府によってこの地に流されてきた人々が住み着いたのが最初だといわれている。室町時代に入ると、渡島半島の南端に「館(たて)」と呼ばれる和人の砦がいくつか建設されており、15世紀になると1457年に起きたコシャマインの戦いのように、和人と先住民族であるアイヌの人びととの間で戦乱も起きている(1)。コシャマインの戦いは当初、アイヌ軍側が一方的に有利であったが、当時蠣崎(かきざき)氏の食客であった武田信広がこの戦いを制したことで、蠣崎氏は蝦夷地の和人勢力の中で抜きん出た立場となった。武田信広はこののち蠣崎氏に養子に入り、のちの松前氏の祖となっている。そして16世紀後半に入ると、蠣崎慶広は豊臣秀吉に接近しアイヌの人びととの交易権を独占するお墨付きを得た。慶広は1599(慶長4)年には徳川家康に接近して松前氏に姓を改め、ここに事実上松前藩が成立し幕藩大名の一員となっている(2)

松前藩成立後も、長い間蝦夷地で和人が居住していたのは「松前地」または「和人地」と呼ばれる松前を中心とする道南のごく狭い地域のみであった。その他の大部分の地域は、「西蝦夷地」と「東蝦夷地」に分けられ(図2)、いずれもアイヌの人びとの住む大地であり、和人の居住は禁じられていた。

蝦夷地の開拓が志向されなかったのは、広大な蝦夷地を管理しやすくするためでもあったが、鎖国政策を江戸幕府がとっていたためでもあった。つまり、蝦夷地は幕藩体制下では「異域」とされ異国に等しい存在であり、日本の版図としては認識されていなかった(3)。その蝦夷地を開拓することは幕府の鎖国政策を否定することに等しいためであった。したがって、松前藩はもっぱらアイヌの人びととの交易をするのみであり、異国の中の出島のような形で存在している特殊な藩として認識されていた。また、アイヌの人びともまた、異域に住む民であると認識され、ただ交易の相手とみなすのみで、彼らの生活や風習にあまり干渉することはなかった。このような江戸幕府の姿勢が根本的に転換するのは、18世紀末にロシアの南下が現実のものとなってからである。

 

(図2)江戸時代の蝦夷地

※筆者作図。和人地は1801年に山越内まで拡大されている。

 

帝政ロシアの南下と蝦夷地開拓論

16世紀終わり頃になると、帝政ロシアはウラル山脈を越えてシベリアに進出し、カムチャツカ半島を経営し、さらに千島列島沿いに南下して蝦夷地にまで探検の歩を進める情勢であった。18世紀後半になると鎖国時代における最初の通商要求といわれている1792(寛政4)年のラクスマンの根室来航などにみられるように、北方問題が緊迫化しつつあった。

そこで1799年、江戸幕府は従来松前藩が統治してきた東蝦夷地を幕府直轄にして兵を各所に配置して警備するようにした。1806年と1807(文化4)年には樺太や択捉の運上屋や番所がロシアに襲撃される事件も起こり、西蝦夷地も幕府直轄として厳重に警備させた。1807年、幕府は東北諸藩に蝦夷地出兵を命じ日露関係は悪化したが、1813年にゴローニン事件が高田屋嘉兵衛の尽力により解決し、シベリア総督とオホーツク長官が対日攻撃の弁明書を提出したため、以後日露関係は比較的平穏となった。このため1821(文政4)年、幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。

 しかし幕末になると、1853(嘉永6)年のペリーの浦賀来航などふたたび外国による通商要求が起こるようになってきた。ロシアからも1853年にプチャーチンが来航し、和親通商と境界画定を要求した。これとともに北方防備の重要性が再認識されるに至ったが、幕府は松前藩だけでは警備不能と判断し、1855年には箱館奉行を設置して松前近隣を除く蝦夷地の大部分を再び幕府直轄とした。さらに、仙台・秋田・南部・津軽の奥羽諸藩と松前藩に命じて、土地を区分して警備させ、山越内(やまこしない)・フレナイ・室蘭・白老・勇払(ゆうふつ)の各地に番所を設置した。

その後日露間では、1854年12月に伊豆国下田で日露和親条約(下田条約)が締結され、択捉島と得撫島の間が国境となったが、樺太はとくに境界線を定めず両国国民雑居の地とされたため、ロシアに対する不安感は幕府の間に強く残っていた。

一連のロシア南下の脅威が認識されるに及んで、幕府内ではこれまでの「蝦夷地=異域」という見方から、しだいに「日本の一部」であり、早急に移民を送り込んで開拓を行ない、蝦夷地の内国化を図る必要があると認識されるにいたった(4)。このことは、アイヌの人びとにとっては、日本の民に組み込まれ、同化を強いられ固有の文化の改変を共用されるという、いわば苦難の歴史のはじまりでもあった。

しかし、江戸時代の封建的な社会では、人口の大部分を占める農民の多くは土地にしばられ自由な移動は制限されており、蝦夷地開拓政策はほとんど本格化するにはいたらなかった。蝦夷地開拓が本格化するのは、農民の移動の自由が法的に認められた明治維新後のことである。

 

2-2 明治初期の北海道開拓政策

開拓使の設置と移民の募集

明治維新後の1869(明治2)年7月、明治新政府は「開拓使」を設置し、同年8月15日には蝦夷地を「北海道」と改称し、移民を募集して北海道を開拓する政策に転換した。この直接の動機は、国防・経済およびナショナリズムの高揚に求められよう。開拓使が設置されたのは1869年のことであるが、それに先立つ1868年3月には新政府は箱館裁判所を設置し、総督を置いて蝦夷地の鎮撫に当たらせている。当時は松前藩がまだ存在していたが、それを問題とせずに早々と蝦夷地開発の大方針を打ち立てていたことは、いかに新政府が北方防備の重要性を認識していたか、またいかに中央集権的な発想に立っていたか、ということを示しているといえる。

1869年当時、1854年に締結されていた日露和親条約によって、樺太には国境がなく両国国民雑居の地と定められており、日露間の領土問題はいまだ不確定であった。さらに、帝政ロシアは1853年には汎スラブ主義を掲げオスマン帝国と戦う(クリミア戦争)など、不凍港獲得を目指し南下政策を続けており、明治新政府の中にもロシアに対する不安感は根強く、北海道開拓を早急に実施して日本を防衛することが急務であると考えられたのである。また、北海道には石炭や森林など、豊富な資源がほぼ未開発の状態のままで残されており、こうした資源の存在は、「富国強兵」のスローガンを掲げ近代化を急ごうとする新政府にとって魅力的なものであった。

開拓使は設置当初から、積極的に移民を募集して手厚い保護を与え、北海道への定着を促す方針であった。1869年に制定された「移民扶助規則」では、移住した農民に家屋・家具・農具・種子などを支給し、3年間の食料扶助を給与することが定められていた。

 また1870年11月には、「開拓使十年計画」を定め、お雇い外国人の指導のもとに北海道の開拓を進めることにし、札幌を蝦夷地の中心地として札幌本府の建設に着手した。1871年1月には当時の開拓使次官黒田清隆が、アメリカ農務長官であったホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘したのをはじめ、多数の外国人技術者を招いて、彼らの調査や技術指導のもとに開拓を進めることにした。こうして、洋式農業の導入・官営炭鉱の開発・道路の建設など、欧米技術の導入が急速に行なわれた。

分領支配政策の失敗

ロシアの南下とそれに対応する北海道開拓の必要性という点では、新政府内部の認識は統一されていたが、開拓の方法については、藩などの既成勢力を利用して分領支配という形態をとるか、政府が直接国家的事業として開拓する形態をとるかの2つの意見に分かれていた。しかし、戊辰戦争が終結した直後でもあり、新政府には北海道開拓事業を直轄するだけの財政能力はなかった。このため、1869年7月に蝦夷地を分割して各藩に支配させることを決定した(図3)

しかし、分領支配に加わる藩は少なかったので、金沢・鹿児島・静岡・名古屋・和歌山・熊本・広島・福岡・山口の9大藩に分領支配を強制させ、とくにロシアに近い天塩・北見・根室・釧路などを割り当ててロシアの南下への防備を考慮することにした。しかし、鹿児島藩が遠隔・寒冷の地であることを理由にわずか2ヶ月で支配地を返還したのをはじめ、財政上や気候の問題などで支配地を返上する藩が相次ぎ、大部分が離脱するに至った。

1871年には、廃藩置県が実施され、中央集権化が進められたため分領支配政策は廃止となった。この分領支配制度のもとで実績を上げたのは維新の動乱で苦境に陥っていた仙台藩・斗南藩(旧会津藩)・淡路島稲田家関係者などに過ぎなかった。

 

(図3)北海道分領管轄図

※榎本1993より筆者が作図。

 

明治初期における北海道人口の増加

すでに1871年には四民平等が宣言され、農民の居住の自由も保障されていたので、こうした移民保護政策を行なった結果、1869年に約6万人であった北海道の人口は1879年には約21万人、1889年には約38万人にまで増加している(表1)。しかし、北海道の人口がのちに年間4〜10万人の増加を見、1901年には100万人を突破したのに比べれば、明治初期の人口増加は微々たるものであり、まだ明治初期の北海道への移民は本格化しているとはいえなかった。

この理由としては、明治初期の一般庶民の北海道に関する認識は、情報が乏しいこともあってまだ江戸時代のそれと大差なく、住み慣れた土地を離れてまで北海道開拓に活路を見出す経済的・社会的な理由に乏しかったこと、また北海道側も交通・通信などのインフラ整備が未発達であり、生活必需品の購入や農作物の販売などが困難であったことなどが挙げられる。このため、政府がいくら積極的な移住保護を与えても、移住に応じる農民は少なかった。

明治初期の北海道移民の主力は、幕末維新の混乱で失業し、生活に困窮して移住を余儀なくされた士族を中心とする、いわゆる士族移民であった。

※ 『新北海道史 第九巻』より作成。明治元年と明治6年のデータは欠落しており不明。

 

2-3 士族移民とは

 士族移民は、大きく分けると、―藉の幕末維新動乱関連の移民、中期から後期にかけての屯田兵、8經の士族授産のための移民、の3種類に分類でき、時代ごとに異なった特徴が見られる。ここでは、この3つの類型の士族移民について見ていくこととする。

初期の士族移民

明治初期の士族移民は、幕末維新の動乱で敗れ、心ならずも「朝敵」となった東北諸藩の武士団などが中心であった。彼らは開拓使が分領支配の方針を打ち出し、北海道を分割して各藩に割り当てるとそれに積極的に出願した。

たとえば、仙台藩は総石高62万石、実際は100万石を超えていたともいわれる大藩であったが、1868年9月に戊辰戦争で敗れ新政府軍に降伏すると、領地を28万石に削減され、藩士の家禄もそれに伴い削減された。とくに伊達家一門で亘理伊達家当主の伊達邦成は、家臣とその家族約7800人を抱えながらわずか2万4000石から58石5斗に削減された。これは本論文で紹介する八雲への士族移民の第1回移住者の石高とほとんど大差がない。このため、家臣の扶養どころか自身の生活にも困窮するようになり、士族身分を捨てて農民となり土地に残るか、北海道に移住するかという選択を迫られるようになった(5)。北海道移住を選択した士族たちは、新政府の北門防備の要請に応じることで、「朝敵」の汚名をそそぎ、士族身分のまま彼らの体面も維持し、新天地での家臣団の再建と維持を図ろうとした。

こうして、1870年4月には伊達邦成らが有珠郡へ、角田の石川邦光らが室蘭郡へ、岩出山伊達家の伊達邦直らが厚田郡(のち当別に移転)へ、白石の片倉邦憲らが幌別郡へ、それぞれ支配地を割り当てられて入植を行なった。これらの移住は自費による移住であり、移民たちは渡航費や入植地での諸費用を捻出するため、先祖伝来の甲冑などを売却せざるを得なかった。こうして1881年までに合計で約1300戸、約4700人の旧仙台藩士族たちが入植した。なかでも有珠郡の伊達邦成主従の移住は合計9回にも及び、約2600人の士族が移住した(6)

また、幕末維新の動乱で新政府軍に屈強に抵抗し、戦後領地23万石を没収され、下北半島に3万石を与えられ斗南藩と称していた旧会津藩の士族たちも支配地を割り当てられて移住したが、こちらは本藩の経営だけで苦しく、約50戸が入植したにとどまった。一方、分領支配とは別に「会津降伏人」と称され兵部省管轄下にあった旧会津藩士のうち約200戸が1869年に小樽近辺に入植している。

このほか、東北諸藩以外では、徳島藩筆頭家老で淡路島洲本の稲田邦植主従も、1870年10月に静内郡の支配権を得て翌年4月までに約150戸が入植している。稲田家は討幕派であり「朝敵」ではなかったものの、徳島藩からの分藩独立指向が強く、1870年4月には徳島藩士による洲本襲撃事件も起きていた。稲田家主従の北海道移住は、この事態の収拾を図るために政府から命じられたものであり、政府は移住に際して稲田家の旧石高1万4500石から稲田邦植の家禄1450石を引いた残りを10年間分の開拓費用に充当させるなど、優遇的な措置がとられた(7)。このようにして北海道に入植した士族たちは、一般的に移民の定着や開墾成績などが思わしくなかった分領支配期にあって、顕著な成果を上げたものが多かった。

この分領支配期に大きな成果を上げた士族移民にはいくつかの特徴がある。この時期に移住した士族たちは、幕末維新期の動乱で苦境に陥った藩の士族が多かった。とくに稲田家を除けば、戊辰戦争で敗れ「朝敵」とされた人びとであった。彼らは、苦境を切り抜けるために北海道開拓に活路を求めたのであるが、それだけでなく、ロシアの南下の防止に積極的に協力することで「朝敵」の汚名を返上しようという性格も強かった。また、現在の伊達市に入植した伊達邦成主従などのように、家臣だけでなく主君もともに移住するケースが多かった。さらに、この時期の移住は稲田家を除けば自費移住であり、渡航資金や生活費などを捻出するために主君自ら率先して先祖伝来の財宝を売却している。これらは、士族授産の性格が強い後期の士族移民とは明らかに異なる特徴である。

屯田兵

屯田兵とは、北海道の警備にあたり、さらにその地の開拓を図るため、道内各地域に土着兵を配置した特異な制度である。1873年1月には、徴兵制が施行され、国民皆兵の制度が全国に広まっていたが、当時の北海道は人口が少なかったため徴兵制の適用外に置かれており、北海道の軍備は手薄な状態にあった。そこで1873年11月、当時の開拓使次官黒田清隆は屯田兵設置の建議を右大臣岩倉具視に提出した。それは、東北地方の困窮士族を北海道に移住させて扶持を与え、北海道開拓および北方防備と人民保護に従事させるというもので、必要性に迫られていた北海道開拓・北門防備と東北地方の困窮士族への授産対策の両方を一挙に解決しようというものであった。

そこで、黒田の建議を受けて1874年10月には「屯田兵例則」が制定され、1875年1月に道内および青森・酒田・宮城3県の士族を対象に募集が行なわれた。のちに平民籍に編入されていた旧仙台藩士にも門戸が拡大され、1875年4月に最初の屯田兵198戸が札幌近郊の琴似村(現在の札幌市西区琴似)に入植した。兵員とその家族には農具や家具など生活必需品が支給され、入植後3ヶ年間は米と塩菜料が支給され、銃などの武器が貸与された。

1876(明治9)年には秩禄処分が行なわれ、士族の禄制が廃止されると、多くの失業士族が発生し、士族授産が国家的な課題となってきた。そこで1885年2月には募集対象地域を従来の道内および東北諸県から、沖縄県を除く全国に拡大した。同年5月には「屯田兵例則」の代わりに「屯田兵条例」が制定され、屯田兵は陸軍に準じる存在から陸軍組織の中に組み込まれることとなり、従来は規定がなかった兵員の服役期限が定められた。

その後、1890年には士族授産の問題はおおむね解決を見たので、原則として士族のみであった屯田兵の応募条件が平民にも拡大された。なお、一般に1875年から1890年までに入植した屯田兵は「士族屯田」、1891年以後に入植した屯田兵は「平民屯田」と呼ばれており、これ以後の屯田兵は圧倒的に平民出身者が多くなっている(8)

1890年代以降、北海道への移民が急激に増加して全道に開拓地が広がり、人口の増加により北海道でも徴兵制の施行が可能となったことから屯田兵制度の存在意義は薄れ、1904年に廃止された。屯田兵制度のもとで、道内には最終的に37兵村が配置され、屯田兵7337戸約4万人が入植している。

後期の士族移民

屯田兵と並行して、1878年以降になると第3のタイプの士族移民として、士族授産の性格の強い移民が現われるようになる。

1875年、樺太千島交換条約がロシアとの間で締結され、日本は樺太の所有権を放棄する代わりに、全千島を所有することが決められ、ここに日露間の国境問題はようやく解決を見たのであった。かくしてロシア南下の脅威が薄れる一方で、代わって困窮士族問題が社会問題化するようになった。すなわち、1876年8月、政府は士族の禄制を廃止し、金禄公債証書を発行する秩禄処分を断行した。これに伴い、全国各地で失業する士族が続出し、各地で不平士族の反乱が勃発するなど、士族の授産問題が全国的な課題となってきた。そこで、士族授産の一つの方法として北海道開拓が考えられるようになった。

士族授産のための士族移民には、ゝ貳夕腓出資して旧藩士授産事業として北海道開拓に着手させる方式、旧士族が華族層などからの出資により会社組織を設立して移民を募集し北海道開拓を行なう方式、Hヾ曄札幌・根室3県による移住士族募集、の3つの類型があった。

,了梁屋槎韻蓮∨槝席犬脳椶靴取り上げる1878年の旧名古屋藩主徳川慶勝による旧藩士の移住がそのさきがけとなった。徳川慶勝は、胆振国山越郡に150万坪の土地を下付され、移民へは尾張徳川家や開拓使から渡航費の補助や西洋式農具の使用法の伝授などの保護が与えられていた。これに触発された形で、1881年には旧山口藩主毛利元徳が余市郡に約300万坪の土地の払い下げを許可され、旧藩士授産事業として大江村の開墾に着手した。また、同年11月には旧佐賀藩主鍋島直大も旧藩士授産のため石狩郡当別村・生振(おやふる)村に約100万坪の土地の払い下げを許可され、開墾に着手している(9)

これらの旧藩は、いずれも幕末維新時には朝廷方についた藩であり、旧藩主も豊富な資金を持っていた。このため、移民には移住費・家屋建築費や食料費などの手厚い保護が行なわれた。これは、渡航費用や生活資金などの援助は一切行なわれず、資金を得るために先祖伝来の財宝を売却せざるを得なかった旧仙台藩士族などのケースに比べれば、格段に恵まれた移住であったといえよう。なお、名古屋藩や山口藩は、明治初期の分領支配政策期にも蝦夷地の土地を割り当てられていたが、この時は士族授産問題がそれほど深刻化していなかったこともあり、寒冷地であることを理由に両藩ともすぐに離脱をしている。

一方、△了梁屋槎韻砲蓮1880年に和歌山県士族の岩橋徹輔が設立した開進会社、1881年に兵庫県士族の鈴木 清などが中心となって設立し浦河郡へ移住した赤心社、1883年に石川県士族の林 顕三らが旧金沢藩主前田利嗣の出資で岩内郡前田村の開墾事業に着手した起業社などがある。開進会社は、「遊手坐食」の士族を授産させるために第四十四銀行頭取であった岩橋徹輔が岩倉具視ら華族から200万円の資本金の出資をもくろんで設立した会社であり、全道各地に土地の払い下げを受けたが、思うように資本金が集まらず1884年に解散した。しかし、この種の会社組織による北海道開拓は1887年以降本格化し、開進会社はそのさきがけといえるものであった(10)

また、の士族移民は3県の「移住士族取扱規則」による移住である。1882年、前年の「開拓使官有物払下げ事件」が世論の厳しい批判を浴びた影響で開拓使が廃止され、代わって北海道に函館・札幌・根室の3県が設置された。3県では1883年6月に「移住士族取扱規則」を制定し、1882・83年度に移住者を募集し困窮士族を移住させている。実際の移住は1884年から1886年にかけて行なわれ、函館県は木古内、札幌県は岩見沢、根室県では鳥取村(現在の釧路市鳥取)に約500戸、約2500人の士族を移住させた(11)。しかし、この制度は1884年7月には廃止され、新規の士族移住は屯田兵として移住させることとなった。

 

2-4   明治中期以降の北海道開拓政策

松方デフレ政策と北海道移民の増加

 士族移民は明治初期の北海道移民の中心となり、士族問題が社会問題となった1870年代後半から80年代前半にかけてピークを迎えた。士族授産対策としては、北海道開拓以外にも農業・工業・商業などが奨励され、いわゆる「士族の商売」で没落する者も多かった反面、起業して顕著な成果を挙げた者もいた。こうして1890年代に入ると士族授産問題もほぼ落ち着いたことから士族移民の移住戸数も減少し、これ以降の北海道移民は平民が中心的になっていった。

 この時期、北海道移住への流れを加速させたのは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレを解消するために、1880年代に当時の大蔵卿であった松方正義が断行したデフレ誘導の財政政策(松方デフレ)がきっかけであった。松方財政は、不換紙幣を回収して市中に兌換紙幣を流通させたことにより、紙幣の信用が著しく高まって、経済活動を活発化させ日本の産業革命の基礎を形作ったといわれる一方で、繭価や米価などの農産価格の下落を招き、農村部の窮乏を招くことにもなった。このため生活に困窮する零細農民が急増し、彼らは都市部に流入して工場の労働力となるか、北海道移住または海外移住に活路を求めるかを迫られたのである。

 同時期、十津川村大水害(1889年)や濃尾地震(1891年)・明治三陸地震(1896年)などの災害が頻発したこともあり、これ以降北海道に移住する農民は激増している。とくに1893年以降は毎年5万人前後の人口増加率を示し、北海道は急速な発展を遂げていった。

     ※安田泰次郎『北海道移民政策史』より作成。

 

北海道移民の地域的特徴

表2は、1886(明治19)年から1922(大正11)年までの都道府県別の北海道移住者数を表したグラフである。この37ヶ年間に北海道に移住した戸数は総計で55万1036戸であるが、北海道への移住が全国的な広がりをもっていたことが理解できよう。このなかでも群を抜いて多いのは東北地方と北陸地方であるが、四国地方からの移住者も次いで多い。

山田 秀の研究によれば、1897(明治30)年頃の北海道移民はその46.4%が北陸出身者、30%前後が東北出身者であったが、1937(昭和12)年頃には北陸出身者が16%程度、東北出身者が45-50%程度と東北地方出身者の割合が高くなっている(12)。これは、どちらも農業人口の多い地域であり、松方デフレの影響を真っ向から受けた地域だからであった。。とりわけ、東北地方ではヤマセなどの冷害の影響を受けることも多く、生活に苦しむこともしばしばであり、地理的にも近い北海道への移住が選択されることが多かったためであろう。北陸地方も、江戸時代から北前船によって蝦夷地との交流があったことから、他の地域にくらべて北海道移住への抵抗が少なかったためである。一般的に、北陸からの移民は明治期に多く、東北からの移民は大正期に多いという傾向がある(表3)

 

(表3)北海道移民の主要送出県(単位=戸)

1894〜1898年

1905〜1909年

1915〜1919年

1石川

2富山

3新潟

4青森

5福井

6秋田

8695

7351

6756

5988

5629

4804

1富山

2新潟

3宮城

4石川

5青森

6秋田

 9126

 8429

 7705

 6846

 6692

 6433

1青森

2宮城

3秋田

4新潟

5岩手

6山形

 11079

 11056

 10268

 9223

 7473

 6959

1〜6計 

39223

1〜6計

 45221

1〜6計

 56058

7岩手

8香川

9山形

10徳島

11宮城

12愛知

3229

3023

2630

 2448

 1947

 1824

7岩手

8山形

9福島

10福井

11岐阜

12徳島

 5157

 5003

 5001

 4121

 3377

 3103

7福島

8富山

9石川

10東京

11岐阜

12福井

 6686

 6370

 5473

 3332

 2830

 2752

1〜12計

54324

1〜12計

70984

1〜12計

 83501

全国から

 72994

94758

           113602

上位6県

の比重

 53.7%

           47.7%

            49.3%

上位12県の比重

 74.4%

           74.9%

            73.5%

※永井1966より作成。

 

東京都からの移民が多いのは意外な感もあるが、これは移民というよりは札幌などへの転勤や技術移民という側面が強く、大正期以後が中心である。また、岐阜県が多いのは1891年の濃尾地震の影響が強く、愛知県からの移民もこの時期に多く見られた。

四国からの移民は徳島県が群を抜いて多い。これは、開拓初期において藍の生産が殖産興業策として開拓使に注目され、藍の生産地として名高い徳島県出身者が多数移住したためである(13)

中国・九州地方からの北海道移民は概して少なく、これらの地域では北海道よりもむしろ、ハワイや南米などへの海外が移住先として選択されたようである。実際、海外移民の送出県として知られた沖縄県からの北海道移民は、1886年から1922年の間にわずか41戸あったのみであった。

 明治中期以降の移住者の6〜7割が東北・北陸出身者で占められていたことは、今日の北海道の生活文化の大勢に大きな影響を与えているといえるであろう。ただし、表2によれば、四国や岐阜県などからの北海道移民も無視できない数であり、さまざまな都府県出身の移民からなる移住地では、その地においてさまざまな文化的葛藤があったはずである。そうした葛藤から、しだいに異なる文化間の融合あるいは収斂などの過程を経て、今日の北海道に共通した生活文化が形成されていったのである。

 

 

<註>

(1)   「諏訪大明神絵詞」によれば、室町時代の蝦夷地には「唐子」・「日の本」・「渡党」と呼ばれる蝦夷が居住していたとされる。このうち「渡党」は本州から移住した和人のことを指すといわれ、「唐子」は大陸・樺太とのつながりがあるアイヌの人びと、「日の本」は東蝦夷地に住むアイヌの人びとを指すといわれる。江戸時代に蝦夷地が「西蝦夷地」・「東蝦夷地」・「和人地」に分かれたのは、この3つのグループが居住していた地域を元に分割されたものといわれている。

(2)   徳川家康が松前慶広に宛てた書状では、松前家に蝦夷地交易権の独占を認めたほか、アイヌの人びとに対してはその行動は「心まかせ」にするようにして「非分」を禁止している。このことは、当時の幕藩体制がアイヌの人びとを異域の人々と認識していたことを示している。ただし、この書状はアイヌの人びとの行動は自由であるとした一方で、アイヌの人びとと交易できる大名は松前氏のみと定めていたため、結果的にアイヌの人びとが松前藩以外の本州の大名と交易することはできなくなり、アイヌの人びとを幕藩体制に組み入れることとなった。

(3)   近世初期の松前藩は、第2代藩主松前公広が宣教師に対し「松前は日本でない」と答えるなど、幕藩体制下にありながら異域に位置する特殊な藩としての性格を濃厚に持っていた。

(4)   江戸時代の同化政策は、日露国境に近い千島列島ではとりわけ強力に行なわれたといわれている。また、幕末には森など和人地に近いアイヌの人びとに対して強制的な断髪などが行なわれたとの記録もある。

(5)   榎本1993、44頁。

(6)   『新北海道史 第三巻』、329-330頁。

(7)   平井1997、42頁。

(8)   1894年に募集した屯田兵の場合、実際には全491戸のうち457戸が平民出身であり、士族出身は34戸のみであった。ただし、屯田兵には士族的色彩が強く見られ、いわば士族倫理の平民への拡大というものであった(榎本1983、129-135頁)。

(9)   『新北海道史 第三巻』、338頁。

(10)  同、341-344頁。

(11) 『新北海道史 第一巻』、133頁。

(12)  山田1937。

(13)  藍生産は開拓使の奨励により北海道でも盛んに行なわれた。現在札幌市北区にあるあいの里という地名の由来はこれにちなむものである。

 

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