不死の王権

 

はじめに

王という人間自身が、政治的秩序の繁栄や存続を表現している社会では、ひとたび王が死んで彼の肉体が腐り始めると、政治的安定の統合的象徴が消え、それは厄介な象徴となり、政治的暴力の勃発の可能性は異常なまでに顕在化する。このような問題は、いったいどのように解決されたのであろうか。ここでは、ヨーロッパ(イギリス、フランス)における事例を、スーダンのシルック族の神聖王権と比較して考察してみる。

汽后璽瀬鵑離轡襯奪族の神聖王権

スーダンのナイル河流域に居住するシルック族においては、王なる人間は国民全体の豊饒と幸福を代表しており、そのため彼の肉体の衰え、とくに性的能力の衰えは許しがたいこととされる。なぜなら、王が死ぬことは国家が死ぬことであり、シルック族の統合や存続を表す象徴は腐ることも衰えることもできないからである。衰えが最初に判明した時点で王は窒息させられ、その遺体は泥の小屋の壁に数ヶ月間塗り込められる。死後の肉体の腐敗はこうして人から遠ざけられ、あたかもなきがごとくに扱われる。

王権はシルック族の象徴である。王はレス reth と呼ばれるが、君臨しているのは彼ではなく、シルック族の不死の文化英雄であるニイカング Nyikang であり、個々の王の死にかかわらず不死のものである。継承者たちは唯一の王権たるニイカングの器に過ぎない。ニイカングの霊は肖像に表されて、各王の在位中は神殿に祀られるが、空位期には次の王の即位に関与すべく再活性化される。王の死体という厄介な問題は、肖像に置き換わることによって解決される。

新たな王の選任と即位はシルック族全体の行事であり、後継者はシルック族の有力な平民首長たちの広い支援を得なければならない。王の候補者は軍勢を引きつれてニイカングと模擬的な戦闘を行ない、ニイカングに打ち負かされて捕虜となる。その後、即位式においてニイカングの霊は肖像を離れて、新たな王の肉体に憑依する。肖像は神殿に戻され、新たな王の死を待つこととなる。

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西欧では1213世紀頃から王の権威が次第に上昇し、フランスでは13世紀末までには「王はその王国における皇帝である」と規定されるに至った。王の権威が上昇するにつれ、王の肉体の腐敗というシルック族と同様の問題が浮上してきた。イギリスでは、王は自然的身体 body natural と政治的身体 body politic の二つの身体をもつと法的に規定した。この考え方でシルック族の観念と著しく対照的なのは、王の政治的身体が自然的身体に優越している点であり、国家の象徴の腐敗というシルックの問題を免れている。

個々の臣下が誓いを立てるのは政治的能力を持った王ではなく、むしろ自然的人間としての王であるとされた。謀反も王の政治的身体に対して行なわれ、政治的身体は不死身であった。したがって、イギリスにおける国王殺害は、シルック族のそれと著しく類似している。17世紀半ばのチャールズ1世殺害も、議会は政治的身体としてのチャールズ1世の名において軍隊を召集し、自然的身体としてのチャールズ1世に戦いを挑み、王の政治的身体に致命傷を与えることなく王の自然的身体を処刑することに成功したのである。

1189年のヘンリー2世の葬儀以来、イギリスでは王の死体を葬列の際に公開することが慣例化した。死体の公開は前王の自然的身体が終末を迎えたという明白な証拠となり、新しい王の権威を正当化するために役立った。1327年のエドワード2世の葬儀では、遺体の代わりに木製の肖像が用いられるようになり、死んだ王に対する供養の期間は長く大規模なものとなった。肖像の使用は1世紀半にわたり断続的に採用された。イギリスにおける肖像の登場は、これまで見えなかった政治的身体が見えるようになり、もはや自然的身体は見ることができなくなったという点で、徐々に王の二つの身体という概念の意味変化をもたらしていった。

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フランス王家ではじめて肖像が使用されたのは、1422年にイギリスのヘンリー5世がフランスで死んだときで、以後、ルイ13世が死んでルイ14世が王位を継承するまで、フランスのすべての君主に対して行なわれた。それ以前は王冠をかぶせたままで埋葬することで王が不死であることを示していた。フランス王家はイギリスの議会主義の伝統とは異なり、強大な王権主義と融合し、絶対主義へと動いていった。王の二つの身体という観念はフランスには適用されなかった。フランスにおける王の肖像の意味は、それが王権やフランス国家の永続を表すものとなったという点で、シルック族の肖像の意味と多くの共通点が見られる。儀礼は死の勝利と死に対する勝利協会の儀礼と国家の儀礼、悲哀と歓喜、さらには死すべき王の肉体と不死なる王者の肖像との対立、といった二項対立の緊張を表現するものとなった。

王の死に続く直後の期間は、死体や肖像を整えることに費やされる。心臓と内臓は除去されて別々に納棺される。一方、肖像は生き写しに製作され、華やかな装飾をされる。王宮の大広間も贅沢に飾りつけられ、「記念の間」と呼ばれる。肖像は11日間この状態で置かれ、生前と同様に食事などの奉仕を受けた。しかし、その後雰囲気は突如として逆転し、大広間の派手な装飾は黒い服喪用の布に代わり、肖像に代わって棺が置かれる。大広間はもはや「記念の間」とは呼ばれず、これ以後は「悲しみの間」となった。

このあと葬列がパリ郊外のサン・ドゥニ教会へと向かった。この行列は3つの部分に分けられ、先頭は棺と王の「栄光の品々」の行進、後尾は深い哀悼の行進であるが、中央部には肖像が置かれ、葬式を示すものは何もない。サン・ドゥニ教会到着後、肖像は直接棺の上に載せられ、儀式最後の夜を過ごす。しかし、遺体が墓に納められず、肖像が公開されている間は、君主の権力は依然として彼のうちに留まっている。2ヶ月におよんだ儀式は、棺を墓に納め、「王は死に給う。とこしえに王の生き給わんことを」と、フランス王の君主権の再生を宣言することで終わりを迎える。この王家の葬儀が強調しているのは、王という人間にまつわる二つの側面の根本的な対立であり、王の権威と死すべき人間の運命である。儀式の最初の段階では対立はもっとも強烈で、棺と肖像は同時には決して現れない。パリの街頭を行進する間は、棺と肖像は空間的・象徴的に分離されてはいるものの同時に姿を見せている。サン・ドゥニ教会での最後の礼拝では肖像は棺の真上に置かれる。最後の埋葬では新王をフランスの王として宣言することによって、王なる人間の二つの側面が再び統合されるのである。

弦融

これまで見てきたように、死は権力を持つ個人の絶対的限界をあらわしており、死の限界を乗り越えるさまざまな儀礼が考え出された。人間の共同体がつくり出した権力の制度は、権力が死に行く人間としての個々の王を超越したところにあるということを儀礼によって表現している。こういった権力の超越化は、共同体自体を聖化し、これによって共同体の不死をも体現しているのかもしれない。

 

 

参考文献

バーリー,N.

1998      『死のコスモロジー』  柴田裕之訳  凱風社

フレーザー,J.G.

 1994  『図説 金枝篇』  内田昭一郎・吉岡晶子訳  東京書籍

メトカーフ,P/ハンティントン,R.

 1985  『死の儀礼―葬送習俗の人類学的研究』  池上良正・川村邦光訳  未來社