赤鉛筆

相次ぐ地震の中で

天のお父様。


この一週間は、自然災害の底しれぬ恐ろしさと、それにあらがうことができない無力感を再び味わうことになりました。

熊本県や大分県では、先週の木曜日から大きな地震が相次ぎ、40人以上の方がなくなりました。大勢の方がけがをしました。今も10万人近くの方が避難生活を送っています。そして繰り返される余震の中で、いつ地震が収まるのか、さらにもっと大きな地震に見舞われるかもしれないという気持ちに襲われています。

土砂崩れのために集落が孤立し、水や食料の不安、病の治療ができるかという不安にさいなまれている人が大勢います。九州から遠く離れたこの東京の我々も、被災地で過ごす方々のことを思い、不安で落ち着かない気持ちで過ごしています。

私達は、災いがただ過ぎ去るのを待っています。どうか、それに耐えられますよう、祈り続けることができますよう支えてください。

私達はとても弱く、心細い生き物です。どうか、この恐ろしい状況を乗り切れますよう、近くにいてください。家族や友人をなくし、打ちひしがれている方。地震の中で被災地で暮らしている方、救助や復旧にあたる方、それを見守る私達。その近くでどうか支えてください。そして、祈りの力を私達が忘れないようにしてください。希望を持ち、その希望を分かち合うことができますように。

支え合うことができますように、お守りください。

余震が落ち着き、一日も早く復旧・復興の活動ができますように。どうか私達の祈りが一つになり、あなたに届きますように。

この拙い祈り、主イエス・キリストのみなを通してお捧げいたします。

微生物にノーベル賞を

2015年のノーベル医学・生理学賞を受賞することになった大村智さんは、記者会見で「微生物に教わってきましたので、微生物に賞をあげたらいいのではないかですか」と述べました。
最初は「ユーモアのある人だな」と思いましたが、大村さんの献身的なあゆみを知るたびに、本当にそのように思っていらっしゃるのではないかと感じるようになりました。

わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。(創世記45:8)

ヨセフは、兄弟によって身売りされて奴隷となり、懸命に働きましたが、その後謀略にかかりさらに10年も牢獄に入れられました。
その後自分の力によってファラオに認められ、宰相にまでなりました。その後自分を売り渡した兄弟たちと再開した時、彼らを罵るのではなく神の働きをたたえたのです。
自分の業績が認められた時、人はそれを自慢したくなります。さらに中には、偶然によって成し遂げたものも自分の勲章にする人がいます。しかし真実は神様がご存知です。
神の奇跡を自らの手柄にする傲慢な生き方か。または傲慢さを悔い改める生き方か。
どちらの生き方を選ぶかによって、その人の輝き方が違ってくるものですね。(教会員より)

この苦難は誰のせい

生きるということは、確かに苦難との遭遇です。
それはわかっていても、複数の苦難が重なったり、苦難が大きい時、その理由を、自分とは別のところに探しに行きたくなります。しかし理由が見つからない場合は自分を責め立ててしまいます。

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 (中略)そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 (ヨハネによる福音書9章1節から)

私達は、自分が背負った苦難は何かが原因であると教えられ、時には「バチが当たった」などと、全く関係がない過去の行いと結びつけたりすることもありました。それによって、多くの人が自分を責め立てて傷つき、自分を責めきった人は、その後他人をも責めていたでしょう。しかし「誰も、何も、悪くないのです」。

私も今、複数の苦難に耐えています。その理由を何かのせいにしなければやっていけないほどの気持ちになります。しかし、この聖句を思い出したことは、主イエスは「そんな必要はないんだよ」と教えて下さったと感じています。そして「やはりイエス様は私を見捨てなかった」と、人々に語る時が訪れるのを楽しみにしたいと思っています。(教会員より)