神による試練

(2017年3月 5日)

マタイによる福音書4章1~11節

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。(4:1)

わたしたちが生きているこの世では、時として不条理なことが起こります。なぜそうなるのか、なぜそのような目に遭わなくてはならないのか。なぜ自分の身にばかり起こるのか。理解できず、納得できないことが起こります。

ニュースでも不条理なことが始終報道されています。これといった理由なしに人が殺されることがあります。小さな子どもが悪質な運転の犠牲になることもあります。そのようなとき、よく聞く言葉が「あの人は何も悪いことをしていないのに、どうして」です。無理もないことです。これといった理由もなしに大きな不幸に遭ったのですから、このような嘆きの言葉が出てくるのです。無理もないことです。しかし、冷静に考えてみると、では悪いことをしていたのであれば、不幸に遭うのは仕方のないこと、理解、納得のできることなのでしょうか。不条理ではなくなるのでしょうか。実はそうなのです。「そうだ」というのは、それが真理だということではなく、それが現実だということです。わたしたちの中には、悪いことをすると罰を受ける、悪いことをしたのだから、罰として不幸に遭うことは仕方のないこと、という思いがどこかあるのです。不幸なことに遭うと、その原因を一生懸命に探し、見つけて納得しようとするのです。ひとによっては怪しげな宗教家に、不幸の原因捜しを依頼したりします。怪しげな宗教家は原因を見つけたと言い、それを直せばあなたから不幸は去っていく、などという訳です。こういう怪しげな宗教にさえ解決を求めたい、それほど不条理な不幸はわたしたちを苦しめるのです。
神がわたしたちに与える不条理も、わたしたちの信仰を訓練するためです。それは人を愛する神の業です。人を滅ぼすためではありません。試みを与えると同時に、生きる道をも備えてくださるのです。このことをパウロはコリントの信徒への手紙一の中で「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
このパウロの言葉に、わたしは自分の人生の中でなんども救われました。パウロ自身も何度も救われたのです。