神の輝きを見る日

(2017年3月12日)

イザヤ書35章1~10節

主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。 (35:10)

教育に携わる者も、政治に携わる者も、自分の利益のために行動する、しかもそれが悪いことであっても、わからないようにやればよいという悲しむべき思いに捕らえられてしまっている人が世の中には結構多くいるのではないでしょうか。社会的に地位のある者、権力を持つ者たちが、平気で悪を行う、社会正義はどこに行ったのでしょうか。

今から2600~2700年前のユダヤもイスラエルも同様の状況にありました。国がイスラエルとユダヤに分裂し、近隣の国々から侵略を受けるという危機的な状況の中だというのに、国の指導者たちは私腹を肥やし、人々から富を奪い、痛めつけていました。ユダヤ教の指導者であり、神に仕えるべき神殿の祭司たちは、信仰の名のもとに過酷な神殿税を人々から取り立て、信仰の名のもとに自分たちは贅沢な暮らしをしていました。このような状況を神は喜ばれるでしょうか。喜ばれるはずがありません。神は大いなる怒りをもってイスラエル、ユダヤに望まれました。このようなことを続けて、悔い改めないのであれば、大きな災いをもたらすと、神は預言者たちを通して警告されました。しかし、国の指導者たちは、神の声を真摯には受け取りませんでした。
主なる神は、わたしたちを愛し、救いへ導く神であると同時に、わたしたちに大変厳しい神です。二律背反のように思えるかもしれません。しかし、愛に溢れた優しい神の姿と、厳しい神の姿は矛盾していません。なぜなら、神の厳しさは、神の愛から出ているからです。神は、その厳しさによって人を滅ぼそうとされるのではなく、人に悔い改めを起こさせ、人を罪から立ち返らそうとされるのです。救おうとされているのです。ですから、神は愛する者ほど厳しくされるのです。神をよく知っている者には大変厳しい姿勢で臨まれるのです。神に近い者、神が特別に選ばれた民である故に神が厳しく対処されたのがイスラエル・ユダヤだったのです。
どのようなときにも、なにがあっても主なる神に信頼する。人に頼るのではなく、神を頼る。預言者たちは繰り返しこの神の言葉を語りました。しかし、神の民ユダヤもイスラエルも神を信頼するのではなく、大国に頼りました。その結果、どちらも国の形を失うという大きな悲しみを味わうことになったのです。
神の愛は本物です。どのくらい本物かというと、神でありながら己を低くして人なって地上に降り、自分自身を十字架にかけて殺し、人の罪を贖うほどの本物です。本物ということは絶対ということです。十字架による救い、それは、厳しい神の愛の心から出てくることです。受難節の今この時、神の深い愛を知り、感謝の内に十字架の向かって進みたいと思います。