信じて求めれば

(2017年2月19日)

マタイによる福音書15章21~31節

そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(15:28)

「主よ、どうかお助けください。」主イエスの前にひれ伏して懇願します。ところが主イエスは「こどもたちのパンをとって小犬にやってはいけない。」とお答えになったのです。「こどもたち」とはイスラエルの民のことです。パンとは神の恵み、救いのことです。小犬とは外国人であるこの女性のことです。イスラエルで人を犬に例えるときは、かなりその人を軽蔑した言い方です。そのことを主イエスが知らないはずがありません。軽蔑した言葉を使って、神の恵み、救いはイスラエルの民のためにあるのだ、お前たち外国人に神の恵みは分け与えることはできない、と言われたのです。

どうでしょうか。とても主イエスの言葉とは思えないのではありませんか。耳を塞ぎたくなりませんか。主イエスの言葉をまともに聞くことができるでしょうか。イエス様、なぜ神の子として神から遣わされて来られたあなたがこのようなひどい言葉を使ってこの女性に冷たくされるのですか。いくら外国の女性だからといって、ひどすぎやしませんか。この聖書の箇所を読むと、どうしてもそのような思いに駆られるのではないでしょうか。
主イエスに悪霊に苦しめられている娘の癒しを求めた母親の懇願はそれこそ必死のことだったでしょう。娘の苦しみを見ることで、自分も苦しんでいました。主イエスは、そのことを認めながらも、周囲が見えなくなっている母親に、大切なことを気づかせようとしたのではないでしょうか。子どもに対する強い思いの故に、自己中心的になっていることに気づかせようとしたのではないでしょうか。主イエスは、女性の願い通りにすぐに娘さんの病を癒すことはできたでしょう。しかし、イスラエルの民でない、すなわち真の神を知らないこの人の願いを簡単に聞き入れてしまったとすると、この人は神の愛、神の力に気づかないまま、娘の病気が治ったという喜びだけになってしまうだろう。自分の必死の懇願が功を奏して、主イエスの奇跡を引き出したと思ってしまうだろう。それでは、この親子に真の救いは訪れない。主イエスはそのように見抜かれたのではないでしょうか。それ故、わざと冷たくし、彼女の心の中に神への信仰が生まれるのを、会話を通して促したのではないかと思うのです。子供たちへのパンの話は、イスラエルの民の選民思想、イスラエルの民だけが神の救いに与れるという考えが間違いであることを通して、この女性に自己中心的な考えの問題に気づかせるためであり、そのことによって母親が自分の自己中心的な思いから解放されて、広い心で自分の娘の癒しを願うようにと促されたのではないでしょうか。イエスのパンの話に、この母親はこう答えています。「主よ、ごもっともです。」この言葉こそ、この女性が自己中心的な自分のことに気づいたしるしとして、主イエスの心に留まったのではないでしょうか。パン屑ほどでよいから、わたしたち親子にも目を向けて下さい、という言葉が、この母親が短い時間に信仰的な成長をしたこととして、主イエスを喜ばせたのではないでしょうか。
わたしたちは、人生のいろいろな場面で、主イエスがわたしたちの叫びになかなか答えてくださらない経験をします。それは、きっと私たちの信仰を成長させるための主イエスご計画なのです。必要なことは、今日の聖書に登場した母親のように、執拗に主イエスに求めることです。回数を重ねればよいということではありませんが、門をたたき続け、求め続けるのです。その過程で、わたしたちは、大切なことに気づかされ、信仰的な成長を与えられるのです。そして、主イエスは必ず私たちの心からの叫びにお答えくださるのです。