互いに励まし合おう

(2017年1月22日)

ローマの信徒への手紙 1章8~17節

あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。 (1:12)

今日与えられたローマの信徒への手紙1章16節でパウロは「わたしは福音を恥としない。」と書いています。わたしはこの言葉がとても唐突に書かれているという印象を以前から持っていて、なぜパウロはここで唐突に、しかもわざわざ「福音を恥としない」と否定的にいうのかと、疑問に感じていました。「わたしは福音を素晴らしいことと思う」と書けば、とても自然ではないか、それなのになぜ「恥としない」と否定的な言葉で語るのか、長くこのことを疑問に思ってきましたが、かといって追及することもしませんでした。

わたしが会社勤めをしていた時の経験では、キリスト者だと知られると、同僚たちから、「似非クリスチャン」とからかわれました。先日の説教でも、キリスト者であるゆえに先輩の誘いを断った故に嫌味を言われた経験をお話ししましたが、やはり気持ちのよい経験ではなく、隠れていた方が自分を傷つけないという思いになるのも当然だと思いました。 一方、偶然から私がキリスト者だとわかると、実はわたしも、と言ってくれる人がいました。その人は、同じ職場にキリスト者がいることがわかり嬉しかったのでしょう。裏返せば、自分がキリスト者であることを言い表せない苦しみがあったということです。
若い頃にはただ疑問だった「わたしは福音を恥としない」というパウロの言葉は、今になってやっとその重みに気づき、励まされています。
もうひとつ今日の聖書の言葉から学びたいのは、励まし合うということです。
主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われました。この言葉から宗教改革者のルターは、「救いは教会の中にある」と言いました。信仰はひとり一人の信仰が基本ですが、同時に主イエス・キリストを信じる者の集まりであることが必要なのです。洗礼を受けるというのは、個人の信仰を確かにすることですが、教会が行うときにキリストと結ばれるのです。教会とはキリストを信じる者の群れです。みなさんひとりひとりが集まって教会になっているのです。洗礼は牧師が個人で行うことではなく、牧師は教会を代表してイエス・キリストの名において洗礼を授けるのです。
教会は、信仰を同じくする者の群れであり、そこにおいて大切なことは同じ神の民として、イエス・キリストを信じるものとして互いに愛し合うこと、助け合うこと、励まし合うことです。
この世の教会は人間の集まりです。罪の多いい人間の集まりです。ですから過ちもたくさんあります。互いにそしり合うことや、憎しみ合うことすらあります。しかし、教会の本籍は天国にあります。地上は教会の仮の場所です。真の教会は、そしり合う場や憎しみ合う場ではなく、互いに励まし合う場所、互いに助け合う場所、互いに愛し合う場所です。教会が真の教会になる、それは一人一人の信仰によるのです。一人一人の祈りが集まり、教会の祈りとなるとき、祈りは聞き届けられるのです。