神の民の幸せ

(2017年1月29日)

詩編84編2~13節

万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。 (84:2)

話題の映画「沈黙-サイレンス」を見ました。先週の火曜日、久しぶりに幼稚園の仕事を休みにして、午後から見に行ってきました。平日の午後3時少し前からの上映なので、ガラガラに空いているだろうと思って行ったのですが、意外と多くの観客が入っていました。私くらいの年代の人が多かったのですが、中には女子高校生もいました。

多くの善良な神の民が苦しみの叫び声を挙げているのに、神よ、なぜあなたは彼らの叫び声に応えて下さらないのですか。なぜあなたは沈黙しておられるのですか。なぜ、黙って見ておられるのですか。なぜすぐに助けに来てくださらないのですか。キリシタン弾圧に苦しむ人々、また宣教師たちは何度も神に尋ねますが、神は沈黙されたままでした。
キリシタンと同じような叫び声を、古代イスラエルの民も挙げました。その叫びは詩編の中にいくつか見出すことができます。
人生というわたしたちの歩みの最終到達地点、最終目的地は神の国です。わたしたちは神の国を目指して歩んでいます。神の国は見えません。しかし、神の国を目指しつつ、地上の生活において、目的地を目指して歩んでいます。わたしたちは神の国を目指す巡礼者です。イスラエルの人たちは神の家が地上に映し出された家として、エルサレム神殿を目指して巡礼をしました。では、わたしたちは地上において何を目指して巡礼すればよいのでしょうか。何を目指すことで、神の国を目指した巡礼になるのでしょうか。
わたしたち巡礼者が目指す場所、天国、それはどこか特別なところではなく、遠くでもなく、すぐ近くにあると主イエスは言っておられます。それは、わたしたちの普段の生活の中にあるということです。家庭生活において、地域社会において、会社などの組織の中において与えられた場所が巡礼の場所なのです。与えられた場所において、主イエスの教えに従って隣人を愛するとき、そこが愛の実践の場、すなわち神がいてくださる神殿になるのです。神はわたしたちの生活の場を、愛が行われる場、神殿にしてくださるのです。そのような神殿を目指す巡礼者になることは、幸いなことなのです。巡礼には主イエスが共に歩んでくださいます。主イエスに導かれ、神の国を目指す巡礼者として、神の国、神の家、神の庭を慕い、大きな望みをもって主の道を歩みましょう。神の民であることはなんと幸いなことでしょう。