松倉金山


松倉金山とは

魚津歴史民俗博物館のかつての入場券(現在は入館無料)には、「松倉金山絵図」が描かれていました。松倉金山は、角川の源流域、松倉にあって、江戸初期には産金額は15万石に相当すると言われた金山です。

松倉金山

応永年間の始まりと伝えられます。当初は椎名氏の支配でしたが、天正年間は、上杉氏の家臣、河田長親が支配しました。

この産金量は、もっとも栄えた慶長年間では、30日切で判金300枚から500枚、重量では、500枚で81.4Kgも算出しました。

地名として、千両舗・七枚平・千枚谷等の地名が残ります。

虎谷金山

虎谷金山の始まりは、元和元年3月のことです。鉢との境の「三枚六両」で鉱脈を発見し、各所から山師が集まって坑道を開いたそうです。この「三枚六両」は最初に掘り出された運用高がそのまま地名となったものだそうです。

河原波金山

天文二年三月に河原波の向山谷というところで鉱脈が見つかり、翌年、銀谷・木落し山というところから金銀が産出したとあります。

慶長年間が最盛期で、運上銀は、月に、40枚・50枚に及びました。

参考資料 魚津市史

松倉金山の発見は、応永年間と伝えられます。このあたりは山岳密教が盛んで護摩堂という空海の聖地もあります。金山は恐らく修験者によって発見されたのでしょう。その後、河原波金山(天文2年)、下田金山(天正2年)、虎谷金山(元和元年)と次々発見され、ゴールドラッシュに沸きました。松倉金山は、松倉城主・河田長親によって経営されていたようです。虎谷には、町屋が出来、女郎屋も置かれ、その跡が地名で残ります。そのため、武田信玄も金山の下流域である松倉城下をも金山と呼びました。現在の金山谷という地名はその名残でしょう。また江戸時代には関所が設けられ厳重に警備されました。

詳細が知りたい方は、越中鉱山雑誌を参照下さい

上の写真は長五郎屋敷の大表から撮影したもので、雲海の中に木曽ヶ平砦があります。松倉金山は、木曽ヶ平砦の項目も参照して下さい。

 

旧松倉部落(松倉金山)

 

 旧松倉部落は、松倉金山の中心地でした。文政13年の加弥山絵図を見ると、坊主山を中心にいくつもの坑道が開けていました。坑道には、千両舗や本口敷といった名称が付けられていました。

 松倉金山の産金額は、江戸初期には15万石に相当したとも言われますが、産金額はその後激減しました。かつての主な金山跡は、虎谷村から旧松倉村に至る山中で、旧松倉村跡へは、かつては古鹿熊から遡上する事が出来ましたが現在は林道があります。また、虎谷から小早月川沿いの林道を登り、途中の谷の出会いから北上すると角川源流に至ります。ここが松倉村跡で、集落跡は昭和30年代まで家があったといいますが、現在は対岸に苔むした墓標がさびしく残るだけです。ここは、杉が植林される以前はスキーが楽しめたそうです。昭和30年頃までは民家が残っていました。

私が始めて訪れたときは、住居の基礎が残り、対岸には墓地もありました。たぶん、今も自然石の墓標があると思います。このサイトの林道から撮影した左側が千両鋪といわれた松倉金山あたりです。旧松倉村は、右の写真の右下あたりにありました。

 

 坊主山の坑道跡は、虎谷から坪野に抜ける林道沿いに坑口が確認されます。

虎谷部落(虎谷金山)

 元和元年に至って虎谷鉱山が発見されると、虎谷はたいへん繁栄しました。虎谷は、昔、虎谷には人家が1000軒ばかりあり、寺も虎谷七ヶ寺といって七つあったそうです。その多くは、現在は魚津や滑川へ移ってしまいました。

 伝説によると、営林署の南方にある低い山を火の番町山といって火がでないか見張った山という。営林署から山側の畑は、現在杉林となっているが、ここを女畑と言い女郎屋町という。村から一里ばかりの奥の大野という所には、昔大野焼の釜跡があった。その奥に鬼ヶ城という所があって、そこは絶壁でなかなか登れないからそのように名付けられたという。金は昔は露天掘で、村の周囲の山々には数多くある。金の製錬所は、村の入口にあったといいます。

 

上の写真は虎谷の集落です。かつては金山で栄えた村も、今は人影が無く廃村寸前です。村を歩くと「虎谷の屋号」という記念碑がありました。この村には、鎌倉時代の刀鍛冶、郷義弘の子孫と伝わる家もありました。かつての金山らしく「金」を姓にした家が目立ちます。


松倉金山地図

松倉周辺地図


 

注意   松倉金山の探訪は危険です。坑道には絶対立ち入らないで下さい。またここは熊の生息地です。くれぐれもご注意下さい。