誕生日には歌を   (第1章−3)  

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  六条橘乃は要のお気に入りである。

 もちろん、彼は彼女に恋心を抱いているわけではない。 あくまでも客として好きなだけだ。

 

 そういえば、『女たらしだ』『傍若無人のひとでなしだ』『鬼だ』『悪魔だ』『変人だ』と言われたい放題の彼女の父親のことも、彼は好きだった。

 六条源一郎氏には、確かに傍若無人なところがある。 

 要にしても、彼から無茶な要求をされたことが一度ではすまない。 

 しかしながら、六条氏は、金を払っている客だからという理由でホテルの従業員に対して居丈高に振舞ったことはない。 きちんと話をしさえすれば、できることとできないことを聞き分けてくれる。 彼は、上質の客。 ホテルでの振舞い方を知っている、れっきとした紳士である。

 

 そんな彼の娘たちもまた、サービスを供する者たちへのマナーと、淑女としての振る舞いを骨の髄まで叩き込まれたレディーばかり。 特に、この3女 ―― いつでも機嫌が良さそうな橘乃嬢に接するたびに、要は癒される思いがする。 

 こんなことを思うのは失礼だとは思うのだが、彼女を見ていると、人懐っこい小型犬を見ているような微笑ましい気分になるのだ。

 

「ごめんなさい。 あんまり感じが違うのでわからなかったわ」

 コロコロと笑いながら橘乃嬢が謝った。 「ところで、ここで何をなさっていたの?」

 

「それは、その……」

 要は、手の中にあるものを隠すように握り締めながら、歩道の上に残された同じもの……歩道の敷石の所々から顔を出している雑草に目を落とした。 「草が、その…… つい、目についてしまったのですから」

「草むしりをしていらしたのね。 この時期は、草も成長が早いですものね」

 得心がいったように橘乃嬢が微笑んだ。 「手伝いましょうか?」

「はい?」

 思いがけないことをさらりと言われて、要は面食らった。

 

(手伝う? 草むしりを? このお嬢さまが、か?)

 

「め、めめめめめめ、めっそうもございませんっ!」

 お嬢さまであろうとなかろうと、客に、そんなことをさせるわけにはいかない。

 要は橘乃嬢から後ずさりながら両手を振ろうとした。 だが、片方の手に握り締めたままになっている根っ子に土をつけた雑草に気がついて、慌ててズボンのポケットの中に押し込んだ。 ついでに、泥のついたままの手も、咄嗟にシャツの裾で拭ってしまう。

「ごめんなさいね」

 うろたえる要を見て、橘乃嬢が、ひどく申し訳なさそうな顔をした。

「困らせるつもりはなかったんです。 ただ、時間を持て余していたところだったから」

 聞けば、橘乃嬢は、どこかに出かける途中でこの道を通りがかったのではなく、父親と落ち合う時間までの暇つぶしのために散歩していたとのことだった。 「それに、ホテルを建て替えちゃうって聞いたから、今のうちにしっかりと見ておかなくちゃ……と思って」と、嬉しいことも言ってくれる。

 

「さようでございましたか」

 バツの悪い思いをしながらも、要は、なんとか自分を立て直して営業用の微笑を浮かべた。 

「そういうことでしたら、私のほうが、お嬢さまのお散歩のお供をさせていただいてもよろしいでしょうか?」 

 自分でも意識しないうちに、要は、妙なことを口走っていた。

 草むしりに客を巻き込むのもまずいと思うが、ホテルの、しかも普段着姿の従業員に誘われるなど、彼女にとっては迷惑でしかないだろう。 

 だが、橘乃嬢は、要の申し出に「よろしいの?」と、目を輝かせた。

 

(良家のお嬢さまが、こんなに無防備に男の誘いに乗ってしまっていいものなのだろうか?)

 自分で誘っておきながら、要は、一抹の不安を覚えた。 

 だが、そんな気持ちはおくびにも出さずに、「もちろんですとも」と橘乃に笑いかける。

 

「でも、梅宮さん、お仕事中なのでしょう? いいのかしら?」 

「いいえ。 今日は非番でして」

 気遣うような視線を向ける橘乃に、彼は、普段着の自分を示しながら、手にしていた底の広い菓子屋の紙袋を持ち上げてみせた。 

 ちなみに、紙袋の中身は、祖母八重の好物の羊羹である。 

 今日は彼女の誕生日なので、孫を代表して彼が日本橋まで買いに走ったのだ。

 

「じゃあ」

 はにかんだような笑みを浮かべて橘乃嬢が歩き始めた。 

 要も、彼女の進む方向と速度に合わせて歩き始める。 

 親切な彼女は、日傘まで自分に差しかけてくれようとしたが、それは全力で遠慮した。

 だか、すぐに、気が付く。

 自分は、彼女よりも背が高く、しかも男性で、しかもサービスを提供する仕事に従事している者だ。 そんな自分が、ただぼんやりと彼女にくっついて歩いているだけでいいはずがない。

 

「それは、私が」

 要は、日傘を取り上げると彼女に差しかけた。 

「ありがとう」

 橘乃が嬉しそうに微笑む。

 『してあげられる』ことができて、要は少しばかり気が楽になった。

 

「でも、壊しちゃうなんて、本当にもったいないと思うんですけど。 特に本館。 あんなに素敵なのに」

 新館に向かっていた橘乃が、不満そうな顔をしながら象牙色の建物を振り返った。

「本館は、壊しませんよ」

 要は首を振った。 本館は補修と改装だけだと、要は聞いている。 壊す予定はない。

 

「まあ。そうなの? よかった」

 橘乃が嬉しそうに手を打ち合わせた。 

 要が相手だから口先だけで調子を合わせてくれているわけではなく、本当に、このホテルを好いてくれているようだ。 

 要は礼を言うと、今後の計画のあらましを彼女に説明し始めた。

 

 今回の工事の一番の目的は、現在は新館の隣にある駐車場を地下に持っていくことにある。

 今のように地上にあると停車できる車の数も限られてくるし、なにより、都会の一等地を車を置くためだけに使うのは勿体ないと、祖母が周りから説得されたからだ。

 

 新館は、取り壊されることが決まっている。

 新館の代わりに新築される建物は、駐車場を地上からなくすことで生まれた空き地も利用するので、今までよりも広くなる予定である。 また、新しい新館は、今建っている場所よりも、本館に対して後ずさるような位置に建てられることになっている。

 その結果、本館と新館の間の空間が広くなるわけだが、そこは、中庭として整備するそうだ。 

 中庭は、ホテルに逗留する人々のみならず、ホテル脇の街路を歩く人々の目と気持ちを和ませる空間にしたいと祖母は思っているようだ。 ちなみに、要は、そうやって和んだ気持ちになった通行人が、『一度足を運んでみたいな』と思ってくれれば更に嬉しいとも思っている。

 

「そうなんですか」

 完成後の姿を想像するように目を細めながら、橘乃が新館から本館へと大きく首を廻らせた。

「でも、古い本館は残すのに、新館のほうを壊すなんて、ちょっと不思議な感じがしますね」

「実は、本館のほうが新しいんですよ」

 まだ残念そうな顔をしている橘乃に、要は言った。

「昭和30年ごろだったかな。 それまでの建物と同じように、だけども強度と高さだけは増やして建て直したそうです」

 祖母や古参の従業員が要に話してくれたところによると、現在の本館は8階建てだが、以前の建物は3階建てだったそうだ。 

 縦に伸びた代わりにといってはなんだが、建て替え前の本館のほうがフロア面積が若干広かったらしい。

 

「新館を壊すのを残念に思ってくださるのは嬉しいのですが、あれは、建て直さないわけにはいかないんですよ。 これ以上の改造を重ねるのも無理がありますし、なにより危険だと言われたので」

「改造? 危険?」

「ああ、そうか。 お嬢さまは、新館の上のほうには、あまり行かれたことがありませんよね?」

 キョトンとしている橘乃に要は微笑みかけた。 

 要の記憶が確かなら、彼女は、1階のティーラウンジと彼女の姉の結婚式が行われた2階の大宴会場とその周辺しか知らないはずだ。

 

「あれ、何階建てに見えますか?」

 要は新館を指差した。

「ええと、12、いえ、13階建てかしら?」

「正解です」

 窓の数を縦に数えつつ、心もとなげに答えを口にする橘乃に要はうなずいた。 

「元々は13階でした」

「こんなことを言ってはなんですけど、13階って、なんだか不吉な感じがしますね」

 口元を押さえながら、ためらいがちに橘乃が言う。

「そうなんです。 不吉なんです。 でも、わざとそうしたそうです」

「わざと、不吉な13階建て?」

「ええ。 お嬢さまは、『接収』という言葉をご存知ですか?」

 橘乃が興味をもってくれたことに気をよくしながら、要は次の質問をした。

 

「父から聞かされたことがあります。  戦後、進駐軍が施設などを強制的に取り上げたそうですね。 では、このホテルも?」

「本館が、そうでした。 ここと、横浜にあるうちのホテルも取られました」

 

 昭和20年から27年頃まで、帝都ホテルを筆頭に、このあたりのホテルを自由にする権利は進駐する連合国軍にあった。

 従業員を除く日本人のホテルへの立ち入りは、著しく制限された。 

 もちろん宿泊もできなかった。

 

「おかげで、東京のこのあたりには、日本人が泊れるホテルがなくなってしまいました」

 だけども、当時の東京は、これから復興に向かおうという時期だった。 ますます人の出入りも激しくなるし、商談も増える。

 それなのに、復興を支えるための足場となるべき場所は進駐軍が差し押さえており、自分たちには使わせてもらえない。

 

 人々は、安全なホテルを求めた。

 まだまだ治安が悪かった東京で、地方から商談に訪れた客に安心して紹介できるような、時には忙しすぎる自分たちがゆっくり体を休められるような、安全で清潔で、食事が美味しくて、食事のついでに腹を割った話し合いもできるような、近所をウロチョロしている進駐軍の目を気にせずに話せるような…… そんなホテルを、この近辺に起点をもつ企業の経営者や従業員たちは切望した。

 

「茅蜩館ホテルは、今でこそ高級ホテルのように思われていますが、そもそも商人宿として江戸時代に出発した宿泊施設です」

「商人宿?」

「今の言葉でいうところのビジネスホテルですね。 茅蜩館は、それのちょっと豪華なタイプといったらよろしいでしょうか。 日本橋などの大店が、大切な取引相手を泊める先として、ずっと贔屓にしてくださっていたんです。 だからこそ、長く続けてこられたホテルです」

 それゆえ、当時のオーナー兼社長の恵庭久志は、彼らの期待に応えないわけにはいかなかった。 

 

 だけども、久志には、心配があった。

 せっかく日本人の客のためのホテルを建てたとしても、そちらのほうが新しくて住み心地が良さそうだという理由でGHQに取り上げられるようなことはないだろうか?

「そうしたら、『だったら、取り上げる気になれないような、住み心地の悪いホテルを建てればいいんじゃないか』と、先のオーナーに助言したお客さまがいたそうなんですよ」

 

 新しい建物は、進駐軍がいやがるほど、窮屈な客室の集まりにしてしまえばいいと、その人は言ったそうだ。

 客室は、思いっきり狭く、そして、天井を低くしてしまえばいい。

 背が高いうえにベッドで休む西洋人にとっては狭苦しく感じられるかもしれない。 だが、平均的に小柄な自分たちが畳の上に布団を敷いて寝る分には、高さも広さも申し分ないはずである。

 風呂もシャワーも、各部屋にはいらない。

 その代わりに大浴場を充実させればいい。 もちろん、入浴時の水着着用は不可とする。

 どうせだから、建物は、西洋人が忌み数と考えている13階にしよう。

「……と、まあ。 当時の日本人には気にならなくても、全体的に大柄でベットに入る時以外は靴を履いている欧米の外国人に嫌がられそうな仕様で建てられましたのが、あの新館だといいますか……」

 要の説明を聞きながら、橘乃がケタケタと笑っている。

 本当によく笑う。 しかも、いろんな笑顔を見せる人だと、要は変なところで感心してしまった。 

 

「それで、その作戦は上手くいったんですの?」

「ええ」

 昭和22年に完成した新館は、オーナーの期待通りに、進駐軍から『ウサギ小屋』どころか『ハト小屋』とか『郵便仕分け箱』とか『小人さんの不吉な宿屋』といった様々なあだ名で馬鹿にされ、まともなホテルとして認識されなかったそうだ。

 

「でも、そういう大きな建物を建てるにあたって、進駐軍さんは文句を言わなかったんですの?」

「当時の建築物の申請云々がどうなっていたかについては、私もわかりませんが、新館を建てるに当たって、いろいろ面倒なことはあったようです。 ですが、 そうした『ややこしいこと』は、全て、桐生喬久氏と六条さまがやってくださったと、祖母が申しておりました」

 

 ちなみに、13階ホテルの提案をしたのも桐生氏である。 

 活動時期が短いために、あまり知られていないようだが、桐生氏は、終戦前後に活躍した、いわゆるフィクサーだった。

 彼は、卓越した語学力と、日本人離れした自己主張の強さで、日本にとって少しでも有利な形で終戦を迎えられるように裏から画策し、終戦後も、国ができるだけ早く立ち直ろうとしている努力を無為に阻むような面倒な手続きや横槍や屁理屈といったものを嫌い、それらの裏をかく……つまり正攻法ではない方法でぶった切ることに骨を折ってくれたという。

 茅蜩館の上顧客の中にも、桐生氏に恩があるという人は多い。

 

 見せ掛けは貴族的な紳士でありながら、やることは、大雑把で気まぐれで無茶苦茶で理解不能。 でも格好よかったと、今でも祖母が目を細めて懐かしむその人の書生をしていたのが六条源一郎……つまり、橘乃の父親であった。

 

 

 


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