うっちゃんの香椎浪漫辞書

 

 「香椎浪漫辞書」はホームページ内の用語についての補足解説用ページです。

内容は「フリー百科事典ウィキペディア」・「YAHOO百科事典」から転用している部分があります。

 

 

                                                       アイウエオ順

 

阿曇海人族           (あずみあまぞく)

阿曇族は古代日本を代表する海人族として知られる。本拠地は筑前国糟屋郡阿曇村(現在の福岡市東区一帯)。古くから海洋航行の高い技術を持ち、中国・朝鮮半島と交易していた。後にこの地から離れて全国に移住したとされている。移住したとされる地は安曇・渥美・厚見・熱海など。海神である綿津見神を祖としており、日本書紀では応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、古事記では「安曇氏は綿津見神の子なり」と記されている。志賀島の志賀海神社の創建は香椎宮よりも古く、古代より現在まで阿曇氏が祭祀を司っている。志賀海神社の社伝によると「神功皇后が朝鮮進出の祭は船団の長として阿曇磯良(いそら)に協力を求め、磯良は承諾して皇后を庇護した」とある。磯良は磯良丸とも呼ばれ、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来する。また663年、百済救援に向かった倭国水軍の指揮官は阿曇比羅夫(ひらふ)だった。比羅夫は白村江の戦いで戦死している。

 

延喜式神名帳         (えんぎしきしんめいちょう)

 平安時代中期(905年〜927年完成)に編纂された律令の施行細則が「延喜式」である。律令国家として細かなことまで規定されているので、古代史研究の上で重視されている。全30巻、3,300条に及び、その中で9・10巻を「延喜式神名帳」と言い、国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別が明記されている。平安時代の全国の神社は約3万と言われ、その中で「延喜式神名帳」に記載された神社を「式内社」と言う。式内社は2,861社であった。香椎宮はこの時点では神社では無く「香椎廟」として別格の扱いを受け、神名帳には載っていない。香椎宮近辺では「式内社」として、宗像神社、織幡神社、筥崎宮、住吉神社、志賀海神社が見える。

 

大伴旅人             (おおとものたびと)

奈良時代初期の貴族、歌人。720年隼人の反乱鎮圧のため、征隼人大将軍に任命され宇努男人(うぬのおひと)ともに九州へ向かう。727〜730年、大宰府長官として再び九州に赴任。万葉集に78首の和歌が選出されている。うち39首が大宰府赴任中の歌、また13首が酒をほめる歌であったことから、酒をこよなく愛していたようだ。一級の知識人で、名門大伴家の長として気品ある詠風が特色。大宰府赴任は藤原氏による一種の左遷と見る向きも多いが、当時の国際情勢から外交、防衛上の手腕を期待された順当な人事であった。万葉集編集の中心人物とされる大伴家持(やかもち)は彼の息子である。札幌や福岡(博多)に転勤が決まると、サッチョン、ハカチョンで夜の楽しみを考え、単身赴任を希望するが、彼は家族同伴で赴任してきた。家族思いであった。

 

招霊の木             (おがたまのき)

古事記・日本書紀にも神の木(花)として記されている。邪馬台国民族は神を迎える「依り代」として招霊の木を用いました。招霊の木はモクレン科で植物学上、台湾・沖縄・九州にしか分布していません。大和民族の奈良には分布していないので、やむを得ず葉の形が近似しているツバキ科の榊(さかき)を代用するようになります。神の町、高千穂町の町の木が招霊の木です。一円玉の裏面、木の枝と葉っぱが八枚デザインされています。これが招霊の木です。香椎宮内では勅使館の右側で見ることができます。神式のお葬式では、文字のとおり霊を招くために「招霊の木」が用いられます。

 

奥村玉蘭            (おくむらぎょくらん)

  1761(宝暦11年)〜1828(文政11年)、博多中洲の醤油醸造業家の三男に生まれる。黒田藩の学者達とも親交が深かった。「筑前名所図会」の作者。この本は筑前国十三郡の名所・古跡などの写実的な風景絵図とその土地の古老からの聞き書きによる解説が記されている。十年の歳月をかけ、1821年全十巻を完成させた。黒田藩に献上し,出版を願い出たが許可されなかった。数百の絵図と解説がこと詳し過ぎていたため、黒田藩の機密が漏れることを恐れたため、とのこと。「筑前名所図会」が日の目を見たのは昭和の終戦後となる。福岡市博物館所蔵。

 

貝原益軒             (かいばらえきけん)

 江戸時代、福岡黒田藩の藩士であり、儒学者、医者、農学者であった。1630(寛永7年)〜1714(正徳4年)、84歳で没す。18歳で藩に仕えたが、1650年2代藩主忠之の怒りに触れ浪人生活を送る。1656年、3代光之に許され藩医として帰藩。朝鮮通信使の対応や佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」を編纂する。多くの著書の中で「養生訓」は有名。

 

香椎宮御神幸祭        (かしいぐうごしんこうさい)

香椎宮では中世から廃絶していたが明治6年に再開された。現在は筥崎宮と交代で一年おきの偶数年に行われている。4月17日の直近の土・日に行われるが、4月17日は神功皇后のご崩御の日と言われる。三基の御神輿(おみこし)を中心に獅子楽、稚児、武者行列、共ぞろえの人々により本宮から頓宮までクスノキ並木の参道を華やかに執り行います。1日目は御神輿が頓宮でお泊りになります。「お下り」です。2日目は「お上り」で本宮にお帰りになります。御神輿の1基目には応神天皇、2基目には仲哀天皇と神功皇后の両陛下、3基目に住吉大神が乗られています。(参考:香椎東校区創立35周年記念誌)

 

香椎四党             (かしいしとう)

香椎宮は724年、「香椎廟」(神功皇后の霊を祀る廟)として建てられた。香椎廟司(後の大宮司)は天皇が命じた職であった。廟司は香椎四党(かしいしとう・又は四頭)と言って、四家が6年交代で務めることに定められていた。四家は神功皇后が朝鮮進出の時に、功のあった者の子孫を当てるとされ、武内家、中臣家(三苫家)、大伴家、清原家を言う。他の神社の大宮司はその土地の氏族が担っていたのに対し、香椎四党は全て中央氏族が占めている。このことからも香椎宮の成立に国家が深く係わっていたことが分かる。(「古代・中世の香椎」より)

 

唐津街道             (からつかいどう)

 江戸時代に全国的に整備した街道のひとつ、ただし古代より大陸との関係から歴史と浪漫に満ちた由緒ある街道。出発地、到着地は諸説あるが一般的には小倉から唐津までの約120Kmである。魏志倭人伝で言う、マツロ国・イト国・ナ国へのルート。日本書紀に登場する神功皇后にまつわる事跡が多く残るルート。遣隋使・遣唐使はこの街道を那の津(博多)まで下り、そこから船出した。防人や貴族もこの道を西下してきた。秀吉の無謀な朝鮮出兵時、道幅が整備され名護屋城建設資材がこの道を通って運ばれた。江戸時代は唐津藩、福岡藩の参勤交代に芦屋・若松まで行列が歩いていった。(参考H/P 歩く唐津街道)

 

干 支           

(かんし・えと)

中国をはじめアジアの漢字文化圏で使用されている。下記のように10の干(かん)と12の支(し)の組み合わせで、年・月・日・時間・方角を表す時に用いる。日本で「干支(えと)と言う場合、十二支のみを指しているが本来は誤りである。10と12の最小公倍数は60なので、干支は60回で一周する。人生60歳の「還暦」は暦が還(かえ)った、一巡した節目のお祝い。中国では辛酉(シンユウ・かのととり)は王朝が交代する革命の年とされ、加えて60年一巡の21回目の辛酉(シンユウ)年、つまり1260年毎に大革命が起きるとされている。日本でもこのことが信じられ、推古天皇9年(601年)がこの年にあたることから、西暦720年に編纂された日本書記では、601年から1260年遡った紀元前660年(辛酉)を神武天皇の即位年にしたとの説が強い。その為、その後の天皇の寿命を長くしたり、「欠史八代」など架空の天皇が必要となった。日本書紀編纂者はこれで大きなミスをおかした可能性が高い。歴史の本の中でも事項名に干支が使用されている。例えば戊辰戦争(1868)は「つちのえたつ・ボシン」の年だった。壬申の乱が起こった672年は「みずのえさる・ジンシン」の年。時間は12支が使用される。午前0時は子(ね)の刻、昼の12時は午(うま)の刻、午前とは午(うま)の前の時間を言う。午後とは午(うま)のあとの時間を言う。また丙午(ひのえうま・ヘイゴ)、庚申(コウシン・かのえさる)など、迷信も多い。

 

 

韓詩外伝             (かんしがいでん)

中国の周代に作られた詩(周詩と呼ばれる)を編集したのが中国最古の「詩経」(しきょう)。その詩経を前漢時代に韓嬰(かんえい)という国学者が解説書としてまとめたのが「韓詩外伝」。例えば「敵は幾万ありとても」という軍歌がありますが、その中に”石に矢の立つためしあり”というくだりがあります。狩に行った時、虎と見誤って石を射たところ矢が石を射通した、という故事からきています。一念をもって行えば、どんなことでも出来るというたとえ。この説明が「韓詩外伝」に載っています。

 

熊襲・隼人            (くまそ・はやと)

 熊襲とは「記紀」に登場する九州南部に本拠地を構え、大和朝廷に抵抗したとされる人々(いくつかの族)である。古事記では熊曾、日本書紀では熊襲と表記される。熊本県人吉近辺の球磨(くま)から、霧島市周辺の曽於(そお)あたりに居住したと言われる。6世紀頃までには「隼人」として大和朝廷に臣従したとされている。日本書紀では十三代「景行天皇」、その長男「ヤマトタケル」、タケルの息子「仲哀天皇」まで3代にわたって熊襲討伐が記されている。また大伴旅人は720年、大宰府長官の前に「征隼人将軍」として九州入りしている。

 

元寇                (げんこう)

鎌倉時代、当時大陸を支配していたモンゴル帝国の大王クビライは日本の「金」に着目していて、朝鮮半島で服従していた高麗軍と共に日本に侵攻してきた。「元寇」とはその呼称である。「寇」とは”他人の家に入り込み棒で打つ」と言う意味。「蒙古襲来」とも言う。時の執権、北条時宗は全国の豪族を集め、これを迎え撃った。一度目は1274年文永の役(ぶんえいのえき)で蒙古・高麗軍は900艘、40,000人で攻めてきた。日本軍は異国の初めて見る戦法に最初は戸惑っていたがこれを追い返す。二度目は1281年弘安の役(こうあんのえき)、前回を遥かに上回る4400艘、15万人の大軍であった。博多湾20kmに及び築いていた防塁、各豪族の必死の戦い、そして八幡神の神威(神風)により再び撃退する。この時の各豪族は政変・領土問題などで何回も争うのであるが、この時ばかりは日本軍としてまとまって戦っている。大友、少弐、島津、大内、菊池、竜造寺、松浦など等・・・、宗像大社、香椎宮、箱崎宮の神人達も武器を持って戦っている。

 

古事記               (こじき)

 712年(和銅5年)、太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された。内容は神代より日本最初の女帝である推古天皇(33代)に至るまでのさまざまな出来事(神話・伝説)を収録している。天武天皇の命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた天皇の系譜や古い言い伝えを太安万侶(おおのやすまろ)が編纂したもの。天皇家の私的歴史物語で、上・中・下の三巻から成る。中巻の仲哀天皇の項に神功皇后が記されている。文体は和文の響を生かした漢字表記(後の万葉仮名)である。

 

審神者               (さにわ)

 古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことである。もともとは「清庭」(さやにわ)の意味で、神を祭り神託を受けるために忌み清めた庭(場所)ことを指すという説も有力。「日本書紀」神功皇后9年3月には、皇后自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津を審神者としたと記している。

 

三条実美             (さんじょうさねとみ)

1837〜1891(明治24年)。尊皇攘夷派(天皇を尊び、外敵から国を守る)の公家で、幕府に攘夷を求めた為、公武合体派(朝廷の権威と幕府・諸藩で再編強化をはかる)から朝廷を追われる。京都を逃れて、当時同じ思想の長州藩に匿われるが幕府の長州征伐の際、福岡藩に預けられ大宰府で3年間の幽閉生活を送る。この間に西郷隆盛、高杉晋作、坂本竜馬らが訪ねてきている。薩長土肥主導による新政府が立ち上がるとともに表舞台に復帰する。その後、太政大臣から内大臣に転じている。明治21年、万葉集の中から大伴旅人ら3人の歌を書き、その碑が香椎の頓宮に建っている。

 

諡号                (しごう)

 起源は中国である。帝王など貴人の死後を奉り、生前の事跡・徳行などへの評価に基づき贈られる名。「諡」の訓読みの「おくりな}は「贈り名」を意味する。古代天皇で「神」の諡号が付く天皇は3人、神武・崇神・応神であり、王朝の替わり目に付けられたと、また「武」が付く天皇は強くて戦いが好きだったなど、諡号から古代史の研究もされている。仏教用語の中にも「諡号」があり、高徳な仏僧の没後、朝廷から大師、禅師、和尚、上人などの号が贈られる。中世になって主流となったのは「追号」(ついごう)で一条天皇、鳥羽天皇など地名・皇居の名前が付けられた。明治以降、おくり名は明治天皇、大正天皇、昭和天皇と、在位した元号が付けられている。

 

七支刀               (しちしとう)

 日本書紀の記述に、神功皇后時代に百済と倭国の同盟を記念して百済の国から皇后に七子鏡一枚と七支刀一振りが奉じられた、とある。名の由来は鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刀が出て計7本の刀の形にある。実用的な武器としてで無く祭祀の時に使われたものである。刀身に金象嵌の文字が61字記されている。内容は「百済王が倭王に贈った」との解釈が定説。当時、百済は高句麗からの圧迫を受け始めていたので同盟国である倭国に協力を求めたのであろう。奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社に収められている。1953(昭和28年)国宝に指定された。

 

徐福伝説              (じょふくでんせつ)

2200年ほど前、紀元前219年、秦始皇帝(しんのしこうてい)が医者であり天文学者の徐福(じょふく)に「不老不死」の薬を探させる命令を出した。徐福は3000人の若い男女、百工(多くの技術者)、稲など五穀の種などを乗せた大船団で日本へ向かう。しかし中国に戻った記録は無い。日本の何処に着いたかは不明だが、各地に徐福伝説が残っているのである。佐賀県、福岡県、鹿児島県、和歌山県、愛知県・・・・。各地で尊敬された言い伝えが残っている。強風で船団がバラバラになり漂着した所でそれぞれが稲を伝え、技術を持ち込み村を発展させたのであろうか。伝説の人であったが、1982年江蘇省で徐福村と系図が発見され、実在の人物だとされている。

 

神武紀元              (じんむきげん)

初代神武天皇が即位した年を元年とする日本の紀年法。略称は皇紀(こうき)という。神武天皇即位元年は西暦でいうと紀元前660年となる。日本では明治6年から昭和20年の終戦までは、元号と皇紀を用いていた。現在も続いているのであれば、今年(平成25年)は2673年になる。中国の干支では辛酉(しんゆう・かのととり)の年は改革が起こる年とされている。720年に編纂された「日本書紀」では日本も中国と同じように歴史がある国だとする為に、神武天皇の即位年を大きく遡り、紀元前660年の辛酉の年に合わせたのではないか、とされている。日本書紀編纂者はここで大きなミスをおかしている。歴史学上では大和政権の成立は西暦250〜300年前後とされているのでまったく一致しない。

 

摂社・末社             (せっしゃ・まっしゃ)

神社本社とは別に、その神社の管理に属し境内または境外にある小規模な神社を言う。枝宮(えだみや)、枝社(えだやしろ)とも言う。また両社を合わせて縁故社(えんこしゃ)の呼称もある。摂社とはその神社の祭神と関係の深い神や、その地の地主神を祀った神社と規定されている。その基準に当てはまらない神社を末社と言う。格式は本社、摂社、末社の順である。本社の境内にあるものを境内摂社、境内末社、本社の境外にあるものを境外摂社、境外末社として分けている。香椎宮で言えば、竹内宿禰を祀る武内神社と中臣烏賊津を祀る巻尾神社の2社が境内摂社となる。皇后が髪を洗い、男髪にされた海の中にある御島神社は境外末社となる。

 

 

大化の改新             (たいかのかいしん)

 大化元年(645)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが中心となって行った政治改革。唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家を目的としている。下記の四つの主たる条を表した「改心の詔」(基本方針)が出された。仝地公民==豪族が管理する土地などを公収し、民も全て天皇のものとする。国郡制度==今までの国、郡(こおり)、県(あがた)を整理し、令制国(奈良から明治まで続いた地方区分)に整備する。H錨勅受法==戸籍と計帳を作成し公地を公民に貸し与える。ち斗把粥覆修茲Δ舛腓Α法瓠畍民に税や労役を負担させる税制度改革。昭和・平成など日本最初の元号が大化である。

 

玉依姫               (たまよりひめ)

記紀の神話に登場する女性の神様。志賀島の海の大王、綿津見大神(わたつみのおおかみ)の子で豊玉姫の妹である。神話「海幸彦・山幸彦」の山幸彦(弟)が海幸彦(兄)の釣り針を失くし、海の大王の館に探しに来る。姉の豊玉姫と恋をし結婚、男の子を産む。豊玉姫は訳あって、その子の養育を放棄。妹の玉依姫が育てるが、成人したその子と結婚。4人の男の子を産み、末っ子が初代神武天皇。玉依姫は大野城市で亡くなり墓を御陵と言う。現在の御陵中学に名が残る。玉依姫の神廟が大野城市の宝満神社。宝満山ふもとの竈(かまど)神社は息子の神武天皇東征の成功を祈った処と言われている。竈神社の分社が宝満山の頂にあり、彼女はここに座して水分神(みくまりのかみ)となり、遠く志賀島の古里を懐かしみながら福岡市、筑紫野市一帯の水を支配し、見守っている。

 

筑前国続風土記          (ちくぜんこくしょくふどき)

 貝原益軒80歳のとき(1703宝永6年)ライフワークとして完成させた。益軒は自分の目で見て確認し、考え、納得したことを文章にする実学主義の学者であった。30巻のこの書を著すにあたって、筑前各地を自から足を運び史跡を確認し、地元民の言い伝えを聞き集めている。この書も奥村玉蘭の「筑前名所図会」と同じく、藩内の情報が漏れるのを防ぐためか、出版の許可が下りなかった。中村学園の電子図書で詳しく見れる。

 

 

勅祭社                (ちょくさいしゃ)

 祭礼に際して天皇より勅使が遣わされる神社のこと。勅祭社とされる神社は古くからあり、京都周辺の二十二社が代表であった。1868(明治元年)、明治天皇が氷川神社の祭事に行かれたのが近代勅祭社の始まりで、1945(昭和20年終戦時)に以下の16社が勅祭社と決まった。・加茂別雷神社・加茂御祖神社・石清水八幡宮・春日大社・熱田神宮・出雲大社・氷川神社・鹿島神宮・香取神社・橿原神宮・近江神社・平安神宮・明治神宮・靖国神社・宇佐神宮・香椎宮である。伊勢神宮は毎年勅使が遣わされるが別格であり、勅祭社とは呼ばない。九州の2社、宇佐神宮と香椎宮には10年毎に勅使が遣わされる。香椎宮は平成27年度に勅使を迎える。(平成25年8月)

 

渡来人                (とらいにん)

4世紀〜7世紀、古墳時代から飛鳥時代にかけて倭国に渡り、政権を支えた技術者や亡命者を指すことが多い。中国または朝鮮半島経由で水稲に始まり漢字、仏教、寺院の建築技術など当時における文化・政権形成に大きな役割を果たした。大規模な渡来の歴史は、百済滅亡のとき多数の貴族や技術者が渡ってきた時である。帰化人と言う呼び名も歴史学者の中で復活しているようだが、「帰化」の言葉の中に服従する、と言う意味がある限りうっちゃんは嫌である。ただ倭国からも朝鮮半島に移住した人々が多いと言うことは、正しく考えれば相互交流なのである。

 

日本書紀              (にほんしょき)

 720年(養老4年)に成立したわが国最初の正史。神代より持統天皇(41代)までを、当時の国際語である漢文で記す。編纂総裁は天武天皇の皇子、舎人(とねり)親王。古事記が天皇家の歴代統治の正当性を主としているのに対し、書紀は国外(特に中国)に向けて国家としての日本の存在を示すことを目的に書かれている。全三十巻、第九巻はまるまる「神功紀」として神功皇后が占めている。第十巻が応神天皇である。神代を除き干支による紀年で記載され、神武天皇の即位を紀元前660年(辛酉しんゆうの年、中国では改革が起きる年)を起点としている。内容について編纂当時の藤原不比等(ふひと)の影響を重視する説も強い。

 

廃仏毀釈              (はいぶつきしゃく)

 1868年3月、維新政府が発した太政官布告(神仏分離令)を指す。神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものでは無かったが、結果として廃仏毀釈と呼ばれた。「廃仏」は仏を廃し、「毀釈」は釈迦の教えを壊(毀)すという意味。実際に寺院・仏像・仏具の破壊活動が起こった。隠岐島では全島のお寺が破壊され、1寺も残らなかった。今ではとんでも無いことだが、国宝になっている興福寺の五重塔も25円で売り出され、薪にされようとしていた。香椎宮においては他の神社に見るようなお寺や仏像破壊の事跡はない。但し、護国寺・鐘楼などが撤去された。鐘楼は博多の聖福寺に移築寄進されている。弁財天社は暫くの間一時避難していた。(一部を香椎東校区35周年記念誌参考)

 

博多湾鉄道             (はかたわんてつどう)

 明治時代、福岡県で開業した鉄道事業者で湾鉄(わんてつ)の愛称で呼ばれた。明治37年(1904)、糟谷炭田の石炭を西戸崎港に運ぶために、西戸崎から須恵を建設。翌年、宇美までの全線開業。大正9年(1920)、海運業に参入し、博多湾鉄道汽船と名称変更。大正13年(1924)、現在の貝塚線を建設、千鳥橋(新博多駅)から現香椎線の和白駅接続。現在でも西鉄とJRは和白で接続している。昭和7年(1932)、香椎駅近くに野球場(香椎球場)を建設。昭和13年(1938)、香椎チューリップ園を開園、現在の香椎花園である。昭和17年(1942)、戦時体制対応のため九州電気軌道と合併、西日本鉄道となる。昭和19年(1944)、糟谷線(香椎線)が国有化された。

 

白村江の戦い           (はくそんこう・はくすきのえ)

 朝鮮半島の任那(みまな)が新羅の攻撃により陥ち、倭国は同盟国の百済(くだら)を守らなくてはいけなかった。663年8月、倭国・百済連合軍と新羅・唐連合軍が朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で開戦した。倭国軍は第一派が1万余人、第二派が2万7千人、第三派が1万余人、倭国軍船の合計は千隻を超えた。第一派の将軍が志賀島の阿曇族の長である阿曇比羅夫(あずみひらふ)であった。阿曇水軍などの援軍で勢いを得た百済軍は、倭国第二派の主力軍を加え、一時新羅軍を追い返すことに成功したが、唐の水軍・陸軍十万の増援を得た唐・新羅連合軍に白村江で大敗した。阿曇比羅夫はこの戦いで戦死している。倭国水軍は残った軍船で倭国兵士や亡命を望む百済民を乗せ敵の水軍に追われるように帰国した。倭国は朝鮮半島の権益を失い、そして唐・新羅による報復、侵攻を恐れて北部九州に水城・大野城など防衛砦を築いた。同時に律令国家の建設を急ぎ、国号を「日本」とした。

 

福岡アイランドシティ       

 香椎・和白沖に博多湾の港湾機能の強化、宅地開発などの為に、埋め立て方式で建設中の人工島。完成時の面積は401ha、現在80%近くが竣工している。島の東側が「まちづくりエリア」、西側が「みなとづくりエリア」となっている。「まちづくりエリア」は「福岡花博覧会」会場跡地の公園を中心に高層マンションが立ち並び、「香椎照葉」(かしいてりは)の町として、小・中学校、病院などが充実し始めている。特に「アイランドタワースカイクラブ」は42階建て、福岡市一の高さを誇る145mの高層マンションで、福岡の著名人が入居しているらしい。近くに大型ショッピングモール「イオン」もあり、今後も住居環境は発展していきそうだ。「みなとづくりエリア」は港湾関係用地として「国際コンテナターミナル」の他、「福岡市青果市場」が整備される予定。

 

放生会                (ほうじょうえ)

 一般的には「ほうじょうえ」だが、我々地元人間は「ほうじょうや」と呼ぶ。筥崎宮のお祭りで、万物の生命をいつくしみ殺生を戒める八幡信仰(応神天皇)の神事。黒田藩政時代はこのお祭り期間中の地元の漁は禁止されていた。「放生会」は仏教用語であり、明治の神仏分離で名称を「仲秋会」と変更されていたが、庶民が馴れ親しんだ「放生会」にいつの間にか戻ってしまった。全国から集まり立ち並ぶ露天の数は700軒を超え、西日本随一。

 

万葉集                (まんようしゅう)

759年に編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人にいたるまで、さまざまな身分の人達が詠んだ歌が4500首以上集められている。名前の意味は「万・言・葉」を集めたとする説で多くの言の葉=歌を集めたもの、と解釈されている。歌を詠む者の出身地が各地にわたり、「方言学」の資料としても貴重。編者の中心となったのは大伴家持(おおとものやかもち)と言われている。何故ならば彼の歌が473首収められ、全体の一割以上を占めているからである。次に多いのが父親である大伴旅人(おおとものたびと)の78首である。父親と同じで高級官僚、最後は中納言まで登りつめている。明治時代に出来た軍歌「海ゆかば」の詩は万葉集の中の家持(やかもち)の歌であることはあまり知られていない。

 

                   (もがり)

 日本の古代に行っていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの長い間、棺に遺体を安置する。別れを惜しみつつ遺体が腐敗し白骨化などの物理的変化を確認することにより最終的に死を認める。インド・中国・メラネシア古代に同形式の葬儀儀礼が認められる。「古事記」、「日本書紀」の中に幾つか「殯」の文字が散見できる。仲哀天皇ご崩御後にその遺体を武内宿禰が下関豊浦宮に運び殯にしている。殯の儀式は仏教とともに伝わった火葬の普及もあり急速に衰退した。

 

安本美典              (やすもとびてん)

 1934年生〜、本名は美典(よしのり)。京都大卒、産業能率大教授(2004退職)、著書は「邪馬台国への道」、「卑弥呼の謎」など多数。独自の歴史年代論(数理文献学的分析)により1〜4世紀の天皇の在位年数を9年〜10年とした。そのことにより次のような仮説を展開。*古事記・日本書紀は実際の歴史上の出来事が伝承して伝わったものである。*卑弥呼は天照大神であり邪馬台国は九州(甘木・朝倉)である。神功皇后についても、そのモデルが実在したとしている。独自の考え方で古代史の謎に迫る先生の論説は極めて新鮮で説得力がある。

 

遥拝所                (ようはいじょ)

「遥拝所」とは「離れた場所から遥かに望み拝する所」。昭和12年「国民精神総動員」運動の時にも、国民が伊勢神宮の方向に向かって遥拝した。稲荷神社のように御神体が分霊され全国の村々に広がった神社は良いが、分祀という訳にはいかない神社では遥拝所を設けお参りした。近くでは宗像大社・沖ノ島の沖津宮、女性は古来より沖ノ島には渡れないが手前の大島の遥拝所からお参りすることが出来る。香椎潟の御島(みしま)神社。香椎宮の神官が嵐など天候が悪い時は浜の濱男(はまお)神社でお参りを済ませていたという。濱男神社は御島神社の遥拝所として建てられたのが起源だと思われる。

 

依り代                (よりしろ)

 古代より神様や神霊は目の前には居ないとされている。神社の鈴を鳴らすことや柏手を打つことは神様を呼ぶ動作である。呼ばれた神様が依り憑く(よりつく)、あるいは乗り移る対象物のことを「依り代」と言う。社が作られる前は山、樹木、岩が多い。また神が乗り移る前の媒体となるものも「依り代」と言う。榊(さかき・たまぐし)や竹の葉(地鎮祭の時に竹で囲む)、旗などがそうである。

 

倭の五王               (わのごおう)

 中国の歴史書(宋書)による倭国(日本)の五人の王。時代は5世紀で、宋書が言う五王とは讃(さん)王・珍(ちん)王・済(せい)王・興(こう)王・武(ぶ)王を言う。この五王が誰であるか諸説があるが、一般的には讃=履中天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇とされている。済・興・武の三人については間違いないようであるが、讃と珍については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定。他の有力説として、讃を応神天皇、珍を仁徳天皇とする説もある。

 

香椎浪漫