足利兄弟と香椎宮

         うっちゃんの「私本多々良川合戦」   

          足利尊氏(たかうじ)

      足利直義(ただよし)

 

 

 北条鎌倉幕府が倒れた1336年2月下旬、遠賀川河口の芦屋の津に多数の大友軍・小弐軍の船が到着した。大友貞宗(おおともただむね)、小弐頼尚(しょうによりひさ)と彼らの軍勢の後から、源氏の血をひく足利尊氏(あしかがたかうじ)・足利直義(あしかがただよし)兄弟とその軍勢が下船して来ました。芦屋には島津勢など他の九州勢も集結していて、軍が揃うと小弐頼尚の案内で宗像大社へ騎を進めます。尊氏はその途中の馬上で、これまでのことを振り返っていた。

2年前、後醍醐天皇の呼びかけに応じ、尊氏は同じ源氏の流れを継ぐ新田義貞(にったよしさだ)らと共に北条氏の鎌倉幕府を倒します。建武の新政です。しかし武士による国の統治を一番の理想とする尊氏は、いつの間にか天皇に反発するようになります。そして、北条の残党討伐の名目で鎌倉に下った時にそのまま居座ります。天皇が新田義貞を差し向けたことで、尊氏は正式に反旗を翻し、新田軍を箱根で待ちうけ撃破。関東の他の勢力を味方に引き入れ、その勢いで京都に攻め入ります。同じ関東出身で守護の命を受けていた九州の大友軍、小弐軍も加わりました。しかし天皇方の楠正成(くすのきまさしげ)、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍に敗北し、西に逃れます。広島で光厳上皇の院宣(上皇・法王の意を受けて発行する文書)を手に入れます。これで朝敵とはなりません。しかし、この院宣を受けた事が後の南北朝に分かれる基となります。大友貞宗が言いました。「尊氏殿、ここは一度、小弐殿の本拠地である九州筑前まで引いて、体制を立て直されては如何か。我々の船を使われたら良かろう」。弟の足利直義も「兄上、私も大友殿に賛成です」。この時代、男兄弟は腹違いも多いのだが、直義は同じ母親から産まれた信頼する、そして愛する弟であった。

 

 

 3月1日、小弐頼尚と親交のある、宗像大社大宮司の胸形氏範(むなかたうじのり)の屋敷に到着しました。軍勢はこれまでの800騎に、各地から集合した1200騎を加えて約2000騎。京へ攻め入るにはまだまだ軍勢不足です。その時、小弐氏の本拠地である大宰府の有智山(内山)城から伝令が到着しました。「若殿(小弐頼尚)に申し上げます。昨日、お城に後醍醐天皇方の菊池武敏(きくちたけとし)と阿蘇惟直(あそこれなお)の軍が押し寄せ、皆必死に戦いましたが落城し、大殿(小弐貞経)は自害なされました。菊池軍はただいま、箱崎に向けて進軍しておりまする」。小弐頼尚は聞き終わると、尊氏を見つめて言った。握り締めた手のこぶしが震えている。「父上の死を無駄には出来ぬ。尊氏殿、一刻の猶予もありません。直ちに出陣のご準備を」。

兄弟はこの時、そろって宗像大社に戦勝祈願をしています。 尊氏は祈願のとき、甲冑を奉納しています。この甲冑は現在も「宗像大社神宝館」で見ることが出来ます。胸形氏範も武装した神人(下級神官)達を引きつれ、足利軍に入ります。宗像から夜間を移動し古賀、和白、下原を通って、翌3月2日朝、香椎に到着した。

 

  

 

頓宮

 香椎宮の濱宮(頓宮)では大宮司の武内覚隆(たけうちただたか)が出迎えます。ここで各軍の大将を集め、初めての軍議を開いたと記録に残っています。おそらく自軍の状況などが話し合われたと思います。このあと武内覚隆の案内で香椎宮に移動します。戦勝祈願をし、情報を待っていた、そのときです。放った斥候が戻ってきます。「ただ今、菊池武敏を総大将とする後醍醐天皇軍2万騎が箱崎から多々良川に向けて集結中であります」。弟の直義が唸るような声で聞き返します。「何と申した。2万騎とな、信じられない」。

 

御飯の山

 尊氏・直義兄弟は西へ引く途中、九州の各豪族に、「新しい武士の世の中を一緒に創ろうではないか、共に戦おう」、との書状を送っていた。「それなのに・・・」、尊氏の声は震えていた。そばで聞いていた武内覚隆(ただたか)が「多々良川河畔が見渡せる山が香椎宮の裏にあります。敵陣が確認できますのでご案内しましょう」。このとき登った山が 「御飯の山(おいのやま)」で、そのことが「九州軍記」に記されている。足利兄弟が山上から見たものは、すさまじい数の敵軍。

 

尊氏は無言のまま立っていた。 直義は敵陣全体を見回した後、多々良川の手前の丘陵(陣の腰・じんのこし・現在、松崎浄水場タンクが並んでいる丘)をじっと見つめていた。武内覚隆には、直義が何か戦術を考えているように感じられた。香椎宮に戻ると、今まで黙っていた尊氏が口を開いた。「敵は十倍の数、直義、もはやこれまでだな」。 「兄上、何を言う、合戦の勝敗は数では無い」と直義は強く兄を誡めます。そして武内覚隆の方を振り返り、言った。「先ほど山から見えた丘陵(陣の腰)を早く押さえ、陣を張りたい。どなたか貴殿の宮の者に道案内を頼みたい」。直義が準備の整った100騎を引き連れ、社殿を出ようとしたその時でした。一つがいの烏が御神木である綾杉の枝を直義の兜の前に落とします。すると、朝から吹いていた北風がいきなり唸りだし、突風と化していったのです。

  太平記絵巻   つがいの烏が綾杉の枝を直義の前に落とした。  白い馬が直義か?

  

 次の瞬間、尊氏はスッと立ち上がると鬼の形相で言います。「皆のもの、良く聞け。これは香椎宮の神が我が軍を擁護し、勝利へ導くお告げである。この風では旗さし物は役にたたない。武内殿、味方同士と判るよう、全騎の鎧に神木である綾杉の枝を着けさせるよう計らって頂きたい。直義よ、すまなかった。お前の言うとおりだ。先に丘陵を押さえて本陣を構えておいてくれ、わしも直ちに追いかける。小弐殿は直義とご一緒に川上を、大友殿、島津殿は川下の名島方面に布陣し、要所を固めてほしい」。力強い声だった。直義は兄のこの言葉を待っていた。

直義は御飯の山から敵陣を見回した時、敵の主力は前面に展開している菊池軍、阿蘇軍、秋月軍の約4千騎のみで、後ろの軍はどっちつかずで戦意が低い豪族の寄り集まりであることを見抜いていた。直義は言った、「兄上、私と少弐殿が先陣で出撃したあと、機を見て全騎で撃って出て下さい」。尊氏は力強く返した。 「直義、あいわかった。少弐殿、お父上の仇を討つのは今ですぞ」。そして綾杉の枝を持った右手を高く差し上げて叫んだ。「香椎宮の神の導きにより、我は勝つ!」。足利方の全軍から「おーっ」と天が揺れるほどの気勢が上がった。

香椎宮の神人100人も武内覚隆と共に武装し、綾杉の枝を付けて尊氏の後ろに加わった。

 

 正午過ぎ、多々良川に陣を固めたのは足利軍のほうが早かった。尊氏は多々良川北側の丘(陣の腰)の本陣に腰を下ろした。多々良川の南側、九州大学から流通センターあたりの野原や川辺を2万騎の天皇軍が埋め尽くしている。北風はますます強く、風下の天皇軍は舞い上がった砂で目も開けられないほどだった。法螺貝が鳴り響き、まず弓矢の応戦。足利軍の矢は北風に乗り、敵軍の奥深くまで勢い良く届くが、天皇軍の矢は風に押し返され途中で川に落ちる。この矢の勢いは天皇軍の戦気を弱めた。

 天皇軍が焦り始めた頃を見計らい、川の上流に陣取っていた直義軍と少弐軍が対岸の天皇軍に襲いかかります。天皇軍では菊池武敏に次ぐ副大将の地位である阿蘇惟直(あそこれなお)の軍が、直義軍と少弐軍を迎え撃った。双方互角の戦い。しかし少弐頼尚は父の仇である阿蘇軍を一騎一騎と切り崩し、徐々に前線を開いて行きます。直義も少弐頼尚も赤鬼のような血相であった。

天皇軍大将の菊池武敏はそれでも「敵は少勢」と遠くからのんびり眺めていたが、合戦の中に白い馬の武将を見つけると、「ややっ!あれは尊氏の弟の直義と見える」。そして傍に居た武将に命じた、「200騎ほどを引き連れ、直義の首のみを討て,それでこの戦いは終る」。

それより少し前、尊氏の本陣に、顔が涙と泥でくしゃくしゃになった直義の使いが着いた。「我が殿より大殿へ、形見としてこれを届けよ、と・・・・うっ、うっ」。尊氏が手にしたものは、直義の鎧の片袖であった。尊氏は片袖を強く握り締め、搾り出すような声で言った、「直義!死ぬ気かあ、ならぬぞお!」。その時だった、菊池武敏の本陣から200騎ほどが直義の軍に向かって走り始めた。それを見た尊氏は瞬間的に馬に飛び乗り、「全騎、突撃〜ッ。 直義〜ッ」と叫びながら、菊池軍に向かってまっ先に走り出した。 

同時に足利軍と大友、島津勢の全騎が雄たけびを上げ突進します。武内覚隆(ただたか)も香椎宮神人兵に向かって叫んだ、「尊氏様をお守りするのだ!」。尊氏の勇姿に力を得て、全軍一気に攻勢に出たのです。驚いた菊池武敏軍が応戦します。菊池軍の兵士の旗さし物は風で飛ばされ、味方が分からず混乱していた。足利軍は鎧に着けた綾杉の枝で味方を確認し合っている。怒号が飛び交う、凄まじい闘いが続いている。

暫くすると菊池軍の後ろのほうで、うおおッと地が響くようなどよめきが起きます。「今のは何か」と菊池武敏が叫びます。馬で駆けつけた武敏の家来が引きつった顔で報告します。「殿、松浦党一族が寝返りました」。「な、な、なんと」。菊池武敏はうろたえ、「う〜ッ、ひとまず退け〜」と瞬間的に叫んでしまった。この一言が戦況を大きく変えることになった。これで大軍の中に混乱が生じ、阿蘇惟直の軍も直義軍と少弐軍の前に犠牲者が増えていった。松浦党に続いて神田党、龍造寺党、相良党と寝返りが広がるのにさほど時間は掛からなかった。秩序が崩れた大軍の敗走を、もはや立て直すことは出来なかった。阿蘇惟直は後退した大宰府の先で戦死し、菊池武敏は本拠地の肥後菊池城まで逃げ延びている。昼過ぎに始まった戦いは夜に落ち着いた。箱崎宮に本陣を移した尊氏のもとに、大友貞宗、小弐頼尚ら各大将が集まってきた、最後に全身返り血を浴びた直義が戻ってきた。兄弟は言葉を交わすことなく、ただ潤んだ目で頷きあった。

1ヵ月後、九州の諸豪族を平定した足利軍は数万の大軍に膨れ上がっていた。4月3日、足利軍は筥崎宮で戦勝祈願をし、尊氏は海上軍を従へて博多から船で、直義は陸上軍を従えて北上。海上軍、陸上軍ともに筥崎宮八幡神(応神天皇)の八幡大菩薩の旗をなびかせ北上したという。5月25日、摂津の湊川で楠正成軍を破り、6月入京する。8月15日、光明天皇(北朝)が即位後、11月に室町幕府を開いた。その前に後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南朝を置く。以後60年間、南北朝が続くことになる。2年後の1338年、尊氏は征夷大将軍となった。

南北朝時代の間、香椎宮の年紀(年号)記載は、勿論のことではあるが北朝を使用している。

幕府を開いた尊氏は香椎宮の神威に感謝し、神領を安堵すると共に、新たに多々良、名島、唐の原、和白、三苫、三代など800町の神領を寄進したことが香椎宮資料館の記録に残っている。

  寄進状 (香椎宮資料室)      源朝臣とは尊氏のことです

また香椎宮の大宮司の名前に尊氏の「氏」一字を与えている。武内覚隆(ただたか)は武内氏覚(うじただ)と名前を改めた。その後の武内家から出る大宮司は、室町時代に「香椎宮編年記」を再編した武内氏信、1586年の戦国時代に島津勢が攻めて来たとき、立花宗茂と共に立花城で戦った武内氏永、など等、彼らの名前の「氏」は尊氏の「氏」なのです。香椎宮史によると、1374年三代将軍足利義満は香椎宮に使者を送り、南北朝合一成就と天下太平を祈願している。多々良川合戦以降、足利幕府から厚い信任を受けていた香椎宮がうかがえる。

 

うっちゃんがもう一言付け加えておきたいのが、弟の直義のこと。尊氏を調べている内に、彼に興味を持ってしまった。10倍近い天皇軍に勝利した「多々良川の戦い」は「奇跡の戦い」と言われている。しかし直義は鋭い状況判断で、相手軍の寝返りを誘う細かな戦術を組み立てていたのではないか。直義が鎧の片袖を形見として届けたことは「太平記」にも見える。ただこれも兄の決起の瞬間を促す、直義の筋書きのひとつだったのではないだろうか。勇猛果敢であり、しかも冷静沈着。尊氏の天下取りに不可欠の弟だったことは間違いない。

  (中学歴史の教科書では源頼朝の肖像画だと教えられたが 、近年では多くの学者が足利直義としている)

幕府開設にあたって、建武式目の制定など政治の実務は直義が行い、尊氏は軍事を抑えていた。この2頭政治が後々に悲劇を生むことになる。

やがて彼らは意見の対立から争うこととなり、太平記によると尊氏が直義を隠居させ、暗殺を命じている。しかし直義の死の直前、尊氏は直義を従二位に叙するよう、当時の北朝天皇である後光厳天皇に申し願いを出している。

これは直義派の武将の怒りを和らげる為だと言われているが、尊氏には幕府のトップとして心の奥で感じていた世の中の無情、その為に誰にも話せないでいた弟への強い想いがあったのではないだろうか。この兄弟の争いは、同じ源氏の血を引く頼朝、義経兄弟の話しと重なってしまう。

 

参考文献:古代・中世の香椎 (宮川 洋 先生)

      :足利尊氏 (高柳 光壽)

      :私本太平記 (吉川 英治)

      :香椎宮史

      :香椎東校区創立35年記念誌   他

      :H・P(筑紫のしろのき・多々良浜古戦場)

 

管理人はうっちゃんの高校の先輩のようであるので勝手に参考にさせてもらった。(応援歌で分かった:♪立花山の曙に多々良河畔の夕まぐれ・・・♪)

      :太平記絵巻は埼玉県立歴史民族博物館蔵(記念誌より使用)

      :絵巻・尊氏・直義肖像画パブリックドメイン確認済

      *2013年8月記

(注-1) いくつかの説の中から興味ある説をつなぎ、私なりの解釈と想像を加えています。

(注-2) 尊氏が九州に上陸した場所は、「太平記」では多々良浜、「北肥戦記」他では芦屋となっている。多々良の場合は宗像大社に奉納した鎧の説明がつかない。よって、ここでは芦屋とした。

(注-3) 多々良川の戦いは「香椎宮編年記」では2月12日となっているが、この「私本多々良川合戦」では「北肥戦記」、「梅松論」他で記されている3月2日とした。

*大友貞宗(おおともただむね)は多々良川合戦の時には既に亡くなっているのではないか?と指摘をうけました。私本太平記 (吉川 英治)では登場しています。家督を早く譲った為に、そうなったのではないか、との説もあり確かではありません。よってこのまま登場させています。2013・10月26日。

 

 

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