23  香椎宮 小散策

              (もっと知ろう、香椎宮)

 香椎宮の絵馬掛と絵馬堂(えまどう)

 招霊の木(おがたまのき)

 皇太子お手植えの木

 皇族下乗(こうぞくげじょう)

 稲荷神社(いなりじんじゃ)

 鶏石神社(けいせきじんじゃ)

 香椎宮の筋塀(すじべい)

 扇塚(おおぎつか)

 香椎宮の楼門(ろうもん)

(今後も定期的に追加して行きます)

 香椎宮の絵馬掛と絵馬堂(えまどう)

絵馬は神社に祈願をする時に、あるいはそのお願いが叶った時のお礼(報謝)に奉納する、絵が描かれた木の板です。現在、絵はいろいろですが、元々は馬の絵だったので絵馬と呼ばれています。奈良時代、馬は神様の乗り物として神聖視され、祈願あるいは報謝の時には生きた馬が奉納されていました。しかし馬は高価であり、また奉納された神社側でもお世話が大変だったので、次第に板に描いた馬の絵で代えられるようになったのです。

 

(本殿横の絵馬掛)

 

当時、絵馬の奉納は朝廷貴族や有力豪族に限られていましたので、大きさや豪華さを競った絵馬が奉納されていました。安土桃山時代から江戸時代になると著名な絵師に描かせた本格的な絵馬が人気となり、それらを展示する絵馬堂が神社内に建てられます。絵馬堂は美術館のような役割を果たしていたようで、地域の人々が文化・芸術を共有し、楽しむ場となっていたようです。

江戸時代中期になると、一般庶民が小さな絵馬板に家内安全や商売繁盛といった願いを書いて、絵馬掛に奉納する現在の形が始まります。学問の神様である菅原道真を祀った大宰府天満宮の絵馬掛には受験生の合格祈願の絵馬でいっぱいです。こちらの香椎宮でも神功皇后が安産・子育ての願いを一番に叶えてくれます。また摂社・末社の武内神社、稲荷神社、弁財天社が控えていますから、家内安全・商売繁盛・交通安全や合格祈願も大丈夫です。しかし、神功皇后はやさしい反面、とても厳しい方ですから、ただの神頼みはダメです。努力する人々を心から応援しています。

(香椎宮の絵馬堂)

 

 

 

香椎宮の絵馬堂を覗いてみました。明治時代?以降の戦勝祈願や還暦祝いなどの大きな絵馬が奉納されていますが、年月が経って、絵の具の色が落ち、内容が分からないものもあります。本来の「美術館のような役割」と考えると、ちょっぴり寂しい気がします。香椎地区のみなさん、ここを小さな美術館にできないですか?香椎には「まちなか美術館」というイベントもあるじゃないですか。絵馬堂の場所はです。本殿の参拝後、左側から出て、武内神社、絵馬堂、お手水所左横の石段へ帰るような人の流れを創れたらいいですね。

 参考 : 「神社のしきたり」(浦山明俊 著)    ウィキペディア(絵馬)

 

  招霊の木(おがたまのき)

香椎宮の「招霊の木」を紹介します。招霊の木は「古事記」、「日本書紀」に「神の木(花)」と記され、古来より「依り代(よりしろ)」として神事に使用されてきました。現在、神事には葉の形が似た「榊(さかき)」が使用されていますが、「招霊の木」はその基となる神威が漂う木です。綾杉の南東に位置する勅使館右側の木立の中で見ることができます。プレートなど標記されたものが付いていないので、分かり難いのですが赤のの木です。一円玉の裏面のデザインは何だったか覚えていますか?葉っぱが八枚付いた木の枝が描かれています。その枝が「招霊の木」です。

 

香椎宮のお話では、現在でも神式のお葬式には文字のごとく「霊を招く」ことから、この「招霊の木」を使用するとのことです。「招霊の木」については「古野三宝荒神宮」で詳しく紹介しています。そちらを参照ください。香椎宮の「招霊の木」は背丈が高くて葉っぱに触ることが出来ません。葉っぱに触ってパワーを分けてほしい方は「古野三宝荒神宮」へお出かけ下さい。できれば香椎宮のこの木にも看板かプレートを付けて欲しい。参拝者にも「招霊の木」の浪漫を感じてほしいのです。

 

 

  皇太子お手植えの木

 本殿右側から奥には、勅使参拝の折に植えられた幾つかのお手植え木が見られます。それらの木の中で、皇太子殿下お手植えによる松ノ木と杉の木の2本を紹介しましょう。それぞれの所に立っています。

 

 嘉仁(よしひと)親王お手植え  明治33年10月28日

 

裕仁(ひろひと)親王お手植え  大正9年4月7日

 

左の写真は本殿右側奥、皇太子嘉仁(よしひと)親王殿下(大正天皇)お手植えによる杉の木です。右の写真は拝殿のすぐ右側、皇太子裕仁(ひろひと)親王殿下(昭和天皇)お手植えによる松ノ木です。 

嘉仁親王(大正天皇)は明治33年10月、北九州一円に行啓された折り、香椎宮に寄られました。当時、香椎宮近辺は赤松の林が広がり、松茸狩りで有名でした。皇太子が松茸狩りを楽しまれた祭、あまりにも沢山採れるので「殊更に植えにしはあらずや」とヤラセを見抜き、お付きの者や関係者を慌てさせたそうです。しかしそんな関係者の気遣いにも理解を示されるなど、心優しいそして堅苦しいことが嫌いな天皇でした。側室の制度を廃されたのも大正天皇です。漢詩が得意で外国語も堪能だったそうです。

大正10年3月、大正天皇の皇太子裕仁親王(昭和天皇)は父の代わりに欧州5カ国訪問に出発します。母の貞明皇后が香椎宮にその航海安全を祈願されました。皇太子裕仁親王(昭和天皇)はその前年の大正9年に香椎宮へ行啓されています。その時、植えられた木が拝殿横の松ノ木です。松ノ木の後ろには、母(貞明皇后)が奉納された「戦艦攝津」の砲身が置かれています。「戦艦攝津」については「貞明皇后行啓記念碑」を参照ください。

*大正・昭和両陛下のお写真はパブリックドメイン確認済。

 

(大正天皇と貞明皇后)

 

 

(昭和天皇と香淳皇后)

 

 

  皇族下乗(こうぞくげじょう)

楼門の手前、三の鳥居の左側に「皇族下乗」と彫られた石塔(写真左)が建っています。文字の意味からすると、「皇族の方々はここでお車を降りて、後は徒歩にてお願いします」ということでしょう。

 

 

 

明治の初め、政府は廃仏毀釈命(正式名は神仏分離令)を出し、神祇省を設置します。勿論のこと仏教徒の反発がありました。また近代国家樹立のためには欧米諸国との付き合い上、キリスト教など信教の自由な国家を目指さなければいけません。方針の変換を迫られることとなり、明治5年3月、神祇省に代わり宗教関係を所管する教部省を置きます。社寺の廃立、神官・僧侶の任命など多くの業務を取り扱い、その中の一つが「皇族下乗」の発表でした。国で一番偉い天皇に車を降りろ・・・・?。言い換えると、一番偉い天皇ですら神を敬い、尊び、崇拝していることを国民に知らしめたことになります。明治政府は日本を神の国とし、他信教を認めながらも、天皇を頂点とした神道国家形成を目指したのです。古代天皇あるいは神話に出てくる神が祀られた神社に「皇族下乗」が立てられました。福岡近辺では香椎宮の他に、住吉神社、宗像大社、大分県では宇佐神宮などで見られます。

右の写真は大正11年3月21日、貞明皇后(大正天皇妃)が香椎宮に行啓された時の写真です。しょうぶ池に架かる2番目の太鼓橋(上の絵図の印の橋)を渡られるところです。山高帽をかぶった宮内官が皇后の足元を確認しながら先導しています。この時、皇后は「皇族下乗」塔の前までお車を乗り付けて良かったのですが、クスノキ参道(この時は未だ植えられていない)が終る二の鳥居前から歩かれています。皇后ご本人の希望だったのかどうかは分かりません。皇后の衣裳と帽子、素敵ですね。大正浪漫です。

*貞明皇后のお写真:香椎宮資料館所蔵

 

  稲荷神社(いなりじんじゃ)

鶏石神社の左に鎮座されているのが稲荷神社。香椎宮北東の老いの谷に祀られていたが明治15年、ここに遷座された。お稲荷さんの名で親しまれている。稲荷は稲生・稲成とも書き、稲を干す棚を”稲荷木”という。祭神は保食(うけもち)の神で日本書紀に登場する女神。食の神様、農作物を生み出した神様で、五穀豊穣の御神徳で知られる。現在は商売繁盛の神としても知られている。お稲荷さんの使いは狐(キツネ)で、倉庫のお米を食べに来る鼠(ねずみ)を追い払ってくれる。狐の好物が油揚げだとされたため、油揚げを使った寿司を稲荷寿司、油揚げうどんをキツネうどんと呼ぶようになった。(狐は油揚げを本当はあまり好きでない)

 

日本全国の神社の数は、11万社とも13万社ともいわれ正確には分からない。その中で稲荷神社が3万2千社、八幡神社2万5千社、天満宮1万4千社、宗像神社6千社。稲荷神社は伏見稲荷社を本宮として、圧倒的に日本で一番多い。何故、一番多いのか?。稲荷神社が全国に広まったのは、江戸時代に飛脚制度が整ったことも理由のひとつ。本来、稲荷神社を祀るには、その土地(村)の有志が本宮(伏見稲荷)を訪ね御神体分けをしていただくのだが、当時 お祓い料や運送費用を添えて伏見に申し込むと飛脚が御神体を届けてくれる簡便な仕組みがあったようだ。そんな訳でお稲荷さんが全国に広がりました。江戸時代に既にこのような通信販売があったとは驚きです。

参考:稲荷神社前由緒書、他

  

  鶏石神社(けいせきじんじゃ)

綾杉の北側に二つの神社(末社)が並んで鎮座している。右側が鶏石神社。由緒書によると、祭神は不詳、御神体は鶏(にわとり)の形をした石とのこと。鶏を祀る神社として西日本では珍しいが、山形県や宮城県など東北地方では、ニワタリ(荷渡・ニ羽渡・二和多利)神社など鶏信仰から生まれた神社がある。成立した起源が異なっているのだろうか。「韓詩外伝」に鶏について、「冠を戴くはなり、蹴爪を持つはなり、敵前に敢えて戦うはなり、食を見て相呼ぶはなり、夜を守って時を失わぬはなり」とあって、この鶏石神社には「文武勇仁信」(ぶんぶゆうじんしん)五徳向上の御神徳があるという。

 

 

9月1日が御祭日、養鶏・鶏卵・水炊き業など鶏に関係する企業や店の方々が多く参詣している。鶏は夜中は鳴かないことから、子供の夜泣きにもご利益がある。

特記)神功皇后のお身体には新羅系王族の血が流れているという。皇后が朝鮮半島(新羅)に進出した時に、戦も無しに国交が成立したのはその為だ、という説につながっている。その新羅は鶏を神聖視していて、国号が「鶏林(ケリム)」と呼ばれた時期もあった。その鶏が祀られた神社が神功皇后の香椎宮に鎮座している。間違いなく新羅と関係している、とする見方もある。そうだとすれば不詳となっている祭神は神功皇后ではないだろうか。それから、先ほどの東北宮城県多賀城市に鎮座し、鶏信仰が起源とみられる二和多利(にわたり)神社。ここの祭神は武内宿禰。エーッ、東北地方に武内宿禰。う〜ん、新羅、神功皇后、鶏、武内宿禰、何となくつながりがありそうな気もするが・・・。

酉年は鶏石神社へ参拝に行こう

鶏石神社と新羅

鶏石神社の神像除幕式

参考:鶏石神社前由緒書、H/P「とんちゃん日記」

                

  香椎宮の筋塀(すじべい)

雄大な楼門の左右に築地塀が伸びている。良く観ると壁には帯状の線が横に五本入っている。この線を定規縁(じょうぎぶち)と言う。定規縁が入った築地塀は特に筋塀(すじべい)と呼ばれている。筋塀はもともと皇族の御所で用いられ、その格式の高さにより三本、四本、五本の定規縁に分けられていた。五本を最上として権威の象徴となっている。この筋塀を付けられるのは天皇の勅許、つまり許可がなければならない。香椎宮は天皇家直系の「廟」として成立している。

 

よって五本の定規縁、また楼門の扉には菊の紋章が入っている。天皇家と関係が深い○○宮、○○神宮では筋塀が見れるが他の神社にはありません。四本の定規縁は天皇家と血縁がある将軍家、公家などが使用している。また皇族が入寺し、住職を務めた寺院にも三本、四本の定規縁が見られる。

(注) 現在は天皇制がなくなっているので、定規縁について厳格な規則はありません。民間のお屋敷でも好きな本数を入れても良いのですが、このことを知ると何となく恐れ多いですよね。

 

  扇 塚(おうぎつか)

武内宿禰像の左側に「扇塚」と彫られた石碑が建っている。扇子の供養塚である。何故、香椎宮に扇子の供養塚が・・・。1712年の江戸時代、大阪の医者寺島良安が編集した百科事典がある。「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)と言って全105巻。26巻目の芸能の項に、扇について漢文で次のように記されている。「神功皇后三韓征伐之時見蝙蝠羽始作扇」。神功皇后が朝鮮半島へ渡航中、蝙蝠(こうもり)の羽を見て、その形から扇を作って香椎に持ち帰ったのである。

 

福岡で巾広く活動している博多民踊協会がある。踊りに使用して汚れたり、壊れたりした扇子を何とか供養したいと、会員から相談が持ちかけられた。その時、福岡県観光アドバイザーの岡部定一郎氏が神功皇后の香椎宮と結びつけ、建立に至ったのです。建立の心は「ふるさとを限りなく愛す」、「ふるさとを振興す」そして「ふるさとを踊る」とある。なんと素晴らしいことでしょう。いまや6月の「扇としょうぶ祭り」は香椎宮と地域の祭りとして位置づけされている。

参考:「福博歳時ウラオモテ」(岡部定一郎氏記)、「和漢三才図会」(国会図書館電子書)

 

  香椎宮の楼門(ろうもん)

現在の楼門は明治36年(1903)に建てられた。1586年島津軍が侵攻してきた時に炎上して以来、四百数十年ぶりに再建された。焼失以前の楼門の歴史については香椎宮が炎上した時にそれらの書物も燃えてしまったので記録が無い。楼門とは、2階建てで上部に屋根を持つ建物を言う。造りについては平安後期の寺院様式が始まりと言われているが、神仏習合時代であり神社でも数多く見られる。しかし調べた限りでは、筥崎宮など八幡神(応神天皇)関係の神社に多いようだ。宗像大社には楼門は無く、一階建ての神門(しんもん)となっている。

 

 

建築様式は色々ある。香椎宮の楼門は十二脚楼門で柱が十二本。四脚楼門はお寺にある鐘楼門(しょうろうもん)など小規模楼門が多い。楼門の規模は「何間何戸」(なんげんなんこ)で表します。一間一戸(いちげんいっこ)は間(ま)全体が一つの開口で出入りする小規模なもの。香椎宮楼門は三間一戸(さんげんいっこ)で、開口が一間で残りのニ間は左右に振り分かれ、部屋になっている。大きな寺院の三間一戸の楼門であれば両側の部屋に仁王様が安置されている。楼門は鳥居と同様、一般領域と神域とに分ける結界(けっかい)としての役割を持っている。香椎宮の浜鳥居(一の鳥居)を過ぎると神域に入るがクスノキ参道までは、まだ冗談話は許していただける。しかし楼門を過ぎれば完全な神域です。心身ともに、清らかに振舞いましょう。

参考:H・P「秋田県楼門建築」、「門のお話」

 

香椎宮探訪                香椎浪漫