22. 立花宗茂と香椎宮(うっちゃんの私本香椎宮炎上) 

       ● 1章 武内親子との出会い (宗茂9歳)

       ● 2章 立花道雪の跡取り (宗茂15歳)

       ● 3章 養父立花道雪の死 (宗茂19歳)

       ● 4章 嗚呼壮烈岩屋城 (宗茂20歳)

       ● 5章 最後の戦い(立花城・御飯の山城)

       ● 6章 香椎宮炎上

       ● 7章 柳川十三万石領主 (宗茂21歳)

       ● 8章 肥前名護屋城 (宗茂26歳) あとがき

  

            登場人物

立花道雪(たちばなどうせつ)  立花城城主

高橋紹運(たかはしじょううん) 宝満城・岩屋城城主

立花宗茂(たちばなむねしげ)  高橋紹運の長男

武内氏永(たけうちうじなが)  香椎宮大宮司

武内氏続(たけうちうじつぐ)  武内氏永の長男

島津忠長(しまづただなが)   島津義久(当主)の従兄弟

星野吉実(ほしのよしざね)   八女星野の領主

黒木正信(くろきまさのぶ)   立花道雪の家臣(架空名)

大友宗麟(おおともそうりん)

小早川隆景(こばやかわたかかげ)

黒田官兵衛(くろだかんべえ)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

立花道雪・高橋紹運・立花宗茂は何回も名前を変えています。本物語では便宜的に晩年の名乗りで統一しています。

 

 

(立花山山頂)

(立花城古地図)

 ● 1章 武内親子との出会い(宗茂9歳)

1575年(天正3年)の穏やかな春の日、香椎宮領地内の武内屋敷は神人達が立花城のお殿様を迎えるため、準備に慌しく動いていた。鎌倉時代の元寇以来、香椎宮は神人達を武装化し有事の時のために体制を整えていた。多い時には200人以上の神人武装兵がいたと言う。それは過去の元寇など、異賊の攻撃に備える事のみならず、立花城が催す儀式の際の見守り、城や村の見張りなどにも借り出されていた。今日は、その軍労に対するお礼の感状を大友家立花城の城督(城主)である立花道雪(たちばなどうせつ)が直々に授けに来たのである。

香椎宮大宮司の武内氏永(たけうちうじなが)は部屋の上席に座った立花道雪から恭しく感状を受け取った。道雪は礼の言葉の後に続けて言った。「武内殿、九州の情勢は肥前の龍造寺、薩摩の島津などいよいよ険しくなっていくであろう。豊後(大分)の大殿(大友宗麟・おおともそうりん)から、どのような事態にも筑前国と香椎宮の神領を守るように、との命を受けておる。しかしワシももう歳(道雪この時63歳)じゃ。武内殿のご意見番としてのお知恵添えと香椎宮の武装力を今まで以上にお願いしたいが、よろしいかな。」武内氏永は答えた。「道雪様、ありがたきお言葉、もとより香椎宮の神威と我々の力の限りお努めいたす所存でございます」。道雪は「ウムッ」と頷いた。

武内氏永が訊ねた、「ところで道雪様、お連れのご家来衆と庭で遊んでおられるお子はどなた様であられますか。」道雪はその子供を手で招き、部屋に上げると言った。「武内殿、紹介しておこう。同じ大友家の武将、宝満城の城督である高橋紹運(たかはしじょううん)の長男 宗茂(むねしげ)殿じゃ。今9歳だが、ときどき立花城に遊びに来ておる。来ておると言うより、遊びに来てもらっているのじゃ、ワシに男の子がいないのでな。今日は香椎宮を見たいと言うので連れて参った」。すると宗茂が武内氏永を見つめて挨拶した。「高橋紹運の長子 高橋宗茂と申します。よろしくお見知りおき下さい」。子供とは思えぬしっかりした口調に氏永は一瞬たじろいでしまった。しかし次の言葉が、「武内様にはお子はおられないのか?」それでも未だ子供だった、遊び相手が欲しいらしい。武内は答えた、「氏続(うじつぐ)という男の子がおりますが、未だ3歳でございます。来年になれば少しはお相手が出来るでしょう。」高橋宗茂とは後の立花宗茂、氏続とは後に父の後を継ぎ、香椎宮大宮司となる武内氏続である。宗茂と武内親子は、今日の出会いから激動の戦国時代に流されていく。

  

 ● 2章 立花道雪の跡取り(宗茂15歳)

天正年間(1580年代)になると、九州は豊後の大友宗麟(おおともそうりん)、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩の島津義久(しまづよしひさ)によるみつどもえの勢力争いが続くことになる。大友宗麟はキリスト教に改宗した為に、神仏を信じている大友派領主の間に混乱が起きていた。島津領の日向(宮崎)への進軍に失敗した(耳川の戦い)後には、勢力圏としていた豊前と筑後の領主に反大友派が増え、龍造寺や島津へ通じて行く者もいた。そして日向の守りを固めた島津軍は肥後から北上を開始した。みつどもえの重要拠点が筑後であり、ここに大友・龍造寺・島津による争奪戦が始まった。このころ関西では大阪城の築城が始まり、秀吉の政権確立が着々と進んでいた。

筑前国における大友勢力は二人の武将によって支えられていた。立花城の立花道雪(たちばなどうせつ)と宝満城の高橋紹運(たかはしじょううん)である。立花道雪は大分戸次(べっき)から、高橋紹運は豊後高田から大友宗麟の命により移り住んでいた。二人とも終生、大友家に忠誠を尽くした人物として戦国歴史愛好家に知らない者はいない。道雪の方がかなり年上であるが、武士の義を重んじる者どうしお互いに信じあい、尊敬し合っていた。ある日、息子がいない道雪が、紹運に言った。「いま大友家の力も弱くなってきた。今後も両家で大友家を支えて行く為には、私に跡取りが必要じゃ。貴殿は二人の息子に恵まれている。どうだろう、長男の宗茂殿を養子にいただきたいのだが」。突然の事に慌てた紹運はこの時は断ったが、何回も訪ねて来て大友家の将来を説く道雪に根負けし、ついに承諾した。1581年(天正9年)宗茂、15歳を迎えた元服の年であった。小さい時から何回も立花城に遊びに来ていた高橋宗茂に、道雪は大器の片鱗を感じていたのである。

歳若い跡取りを迎えた立花城では盛大な酒宴が開かれた。数日後、宗茂は立花宗茂として香椎宮を訪れた。宗茂は立花城に遊びに来るたびに香椎宮に立ち寄り、武内氏永に会い、氏続とも遊んでいた。体つきも立派に成長し、今日は立花城の若殿である。その沈着な態度に感服し、武内氏永はひれ伏して言った。「宗茂様におかれましては、元服の義、まことにおめでたくお祝い申し上げます」。宗茂は「今日は私の方よりご挨拶に参ったのです。実の父、高橋紹運から聞き及ぶに、武内殿のご始祖は武内宿禰大臣とのこと、仲哀天皇、神功皇后を支え、政(まつりごと)もさることながら武術にも長け、中国の蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい)にも並ぶ戦略家だったとも聞いております。養父の立花道雪の話では武内殿もその大臣の秀でた血を引き継がれておられ、何かと相談事に対し的確なご指導をいただいていると申しておりました。私に対しても無礼は構わぬ故、厳しく接してお教えいただきたくお願い申し上げる」。氏永は初めて顔をあげ宗茂に答えた。「光栄に存じます。かしこまり、承知いたしました」。

そして宗茂を神木の綾杉の下に案内すると、宗茂の体を紙垂(しで)でお祓いして言った、「この綾杉は聖母大菩薩(神功皇后)そのものです。宗茂様の武運長久をお祈りしましょう」。宗茂は低頭し長い時間祈っていた。お祈りが終わると、隣に男の子がチョコンと立っていた。9歳になった武内氏続である。武内氏永は「氏続、若殿に失礼であろう」。宗茂が「宜しいではないか、私の遊び友達だ。」氏続は水が入った小さな桶を持っている。「宗茂様、喉がお渇きかと思い、冷たい水をお持ちしました」。武内屋敷内に湧き出る天下の名水、不老水である。氏永が付け加えた、「武内宿禰大臣の頃より不老長寿の神威があると伝えられております。武運も開けるでしょう」。宗茂が柄杓の一杯を飲むと、「ウーム、氏続殿、旨い!力が出てきたゾ、ハッ、ハッ、ハッ」。綾杉の下で三人の笑顔がはじけていた。この時期、武内氏永は既に大宮司職を香椎4党の次の代(三苫氏)に譲っていた。しかし香椎宮の実力者として宮内でも立花城内でも一目置かれた存在であった。

実の父高橋紹運から武士の心得を徹底的に教え込まれた宗茂を、養父の道雪は筑後への戦いに動行させた。それまで大友方であったが島津に通じた秋月を討つため、立花城、宝満城の両城から5千人の軍勢が出発した。宗茂は150人の兵を任され、2人の父親と共に戦いに参加、秋月軍を破って初陣を飾った。初めての指揮権を冷静に判断し兵を統率した宗茂を遠くから眺めていた紹運は、冑の中で誰からも見られる事なく喜びの涙を流していた。

その後、数回の出陣を重ね、宗茂は逞しく育っていった。暫くの間、筑後の争奪攻防戦は膠着状態が続いていたが、龍造寺が島津に折れ、均衡が破れた。肥後をほぼ手中に収めた島津の大勢力が筑後方面に拡大してきた。島津軍の総大将は島津忠長(しまづただなが)、当主島津義久の従兄弟である。島津の北上を懸念した豊後の大友宗麟は失地回復に焦っていた。

  

 

● 3章 養父立花道雪の死 (宗茂19歳)

1585年(天正13年)、宗茂は19歳になった。筑後へは豊後(大分)から本体が出動し、筑前からも大軍を率いた道雪と紹運が出発した。筑後の高良山に拠点に置き、島津軍との攻防を繰り返していた。筑後の星野吉実(ほしのよしざね)は星野地域一帯(現八女市星野村)を治めている豪族である。高橋紹運とも面識があり、筑後に於ける大友の重要な砦の一つとして星野城を守っていた。しかし大友宗麟のキリスト教への改宗に疑問を持っていた一人でもあった。そんな時、島津忠長から九州制覇の夢に誘われ、また領地安堵と恩賞の約束を条件に城を明け渡し屈服してしまった。同じように反大友派となった筑紫、原田そして筑豊の麻生、宗像などの豪族も次々と島津に通じ、立花城と宝満城は完全に遠まわりに囲まれ、孤立した状態になりつつあった。

その間、立花城は宗茂、宝満城は高橋直次(宗茂の弟)が僅かな兵で守り抜きます。両城とも山頂に築かれた頑強な城だった。この年の6月、高良山の陣中で立花道雪が病に倒れた。高橋紹運は道雪の枕元で必死に看病を続けた。しかし・・・。9月11日の朝、紹運は道雪の小さな呻きで目が覚めた。「紹運殿、いよいよお迎えが来たようじゃ。心残りは大友家のこと、なにとぞ主君(大友宗麟)のことよろしくお頼い申す。」「道雪様、お約束いたします。大友家への忠義は変わりませぬ。それより戦は未だ終わっておりませぬ。お気を確かにお持ちくだされ。」道雪はそっと紹運の手を握り、言った。「立派な跡継ぎができたこと感謝しておる。」徐々に道雪の声が細くなってきた。紹運は道雪の口元に耳をあてて聞いた。「紹運殿、豊後の大殿(宗麟)が直々に大阪へ出かけ、豊臣秀吉に援軍を頼みに行くようじゃ。もし援軍が来ることになれば、そのあいだ立花城と宝満城で出来るだけ島津軍を引き付け、時間を稼ぐのじゃ・・・。宗茂・・・、宗茂殿に・・・」。大友家が誇る名武将が一人、息をひきとった。73歳であった。

 

9月14日、立花軍と高橋軍は高良山の大友軍の陣を出発、道雪の亡骸を入れた棺を守りつつ立花城へ向かった。敵の追撃から棺を守るため、高橋軍がしんがりを務めた。しかし島津忠長は名武将であった立花道雪に哀悼の意を表し、それを追撃することはしなかった。棺が到着した翌日、宗茂以下家臣一同、高橋紹運、武内氏永などが参列し葬儀が行われた。ご遺体は立花山口の梅岳寺に埋葬され、今もここで眠っておられる。葬儀の日、宗茂は名実ともに立花城の城督(城主)となった。ほとんどの家臣が道雪に育てられた武将達であった。吉田右京、内田壱岐、綿貫左三兵衛、小野和泉、十時伝右衛門、彼らは宗茂を、若いが新しい城督(城主)として相応しいと、心から従った。宗茂がそれなりの資質を備えていたこともあるが、道雪に鍛え上げられた家臣団が素晴らしいということも言える。

 

 

(立花道雪肖像画)

 

高橋紹運は葬儀が終え、宝満城に戻る馬に乗った。そして見送りに来た宗茂に言った。それは息子にでは無く、城主に対する言葉使いだった。「立花城城督の宗茂殿に武将としてお教えすべきことはもうありませぬ。あとは大友家主君、そして立花家の為に何をすべきかはご自身で判断され行動されるよう」。馬上から最後に宗茂の眼を一瞬であるが、キッと見つめて去った。立花宗茂はその後、使者を通じて紹運と連絡は取りあっていたが、高橋紹運の姿を直接見たのはこの時が最後だった。紹運は途中、香椎宮に寄り戦勝祈願をした。横に控えていた武内氏永は紹運が祈願している小さな声のなかに、「・・・宗茂・・・」と確かに聞いた。祈願の後、紹運が氏永に言った。「武内殿のことは宗茂や道雪様から良く聞いておったが、一つだけお願いがある。それは・・・」。二人で暫く話をしていたが終わると紹運は馬で駆け去った。

 

● 4章 嗚呼壮烈岩屋城 (宗茂20歳)

年が明け、1586年(天正14年)宗茂は20歳になった。筑後は豊後(大分)からの大友軍が懸命に戦っていたが、6月までの攻防は敗北に終わった。筑後をほぼ押さえた島津軍の次の目標は高橋紹運が守る宝満城と岩屋城(いわやじょう)だった。岩屋城は宝満城から南西の四王寺山(しおうじやま)中腹にある支城で、紹運は二つの城の利点を生かした攻撃と防御が得意だった。7月の初め島津軍は筑後から北上を開始した。そんな中、豊後の大友宗麟から書状が届いた。内容は、豊臣秀吉が島津征伐を決定され、秀吉自身もいずれ九州に出陣する。その前に黒田官兵衛を軍監(総大将)とした小早川隆景ら毛利軍の援軍が送られる。それまで何としても筑前国を守れ、という命であった。

高橋紹運は黒田官兵衛率いる援軍が到着する日を逆算していた。どんなに急いでも30日はかかる。紹運は考えた。宝満城と立花城は山頂に造られた頑強な城であり、島津の大軍といえど二つの城を落とすには、それぞれに15日はかかる。岩屋城は山の中腹であり、この城に自分が入れば、まずここを攻めてくるだろう。次男の直次を宝満城に移し、ここ(岩屋城)で15日間耐えれば何とか宝満城と立花城の二つの城が助かるかもしれない。紹運は岩屋城をおとりにして、自らの命と引き換えに二人の息子を救おうと考えた。そのことで立花家、高橋家が存続し、大友家への忠義が果たせる。死んだ道雪様にも顔向け出来る。島津軍の総大将は島津忠長(しまづただなが)、島津2万の兵と龍造寺派など服従してきた各地の豪族兵1万を従えて迫ってきた。紹運は主な家臣に決意を話し、岩屋城に残る意思のある者を尋ねた。紹運に心酔し、死を覚悟した者が我も我もと争って名乗りを上げた。この中には立花城から派遣されていた立花家の家臣も含まれていた。紹運は嬉しさのあまり涙を流しながら、岩屋城に残る763人を選んだ。家老の伊藤源右衛門に幼い次男の直次を託し、2000名の兵と共に宝満城に移動させた。 

 

 7月12日、紹運以下763人が守る岩屋城に島津忠長(しまづただなが)率いる3万の大軍が押し寄せた。「岩屋城の戦い」である。「嗚呼壮烈岩屋城」と本丸跡の石碑に残っているように、戦国史上に残る激戦であった。高橋紹運と言う名武将の名は島津軍にも知れ渡っている。戦えば損害が大きくなることも島津は分かっていた。島津忠長は観世音寺の近くに本陣を置き、13日朝、降伏を勧める使者を出した。使者は八女星野村の星野吉実(ほしのよしざね)であった。大友家に従っていた時に、紹運とも面識があった。「紹運殿、今や大友も島津もない、九州は一つにならないと秀吉に征服されてしまう。道雪様も亡くなり、ここで紹運殿を討つのはしのびない。もう充分に大友には尽くされたではないか、後世に恥じることはない」。星野吉実は紹運を死なせたくない思いから、必死に説得した。しかし紹運の気持ちが変わるはずはない。紹運は拒否の回答をわざと翌日に延ばした。1日でも時間を稼ぎたかったのである。

そして16日、島津の総攻撃は朝から夜まで続いた。紹運の的確な指揮とそれに従う武将たちの働きに、島津軍の兵は苦しめられた。次の日も次の日も、総攻撃は23日まで続いた。全員死を覚悟している岩屋城兵士の凄まじい気迫に、島津軍の死傷者が増えた。しかし岩屋城内でも日々討ち死にする者が増えていった。25日は背後からの攻撃が加わり、ついに外郭の砦が破られ城内に島津の兵が流れ込んできた。紹運は残った鉄砲隊と弓隊を二の丸に退却させ次に備えた。26日、紹運はこの日が最後の戦いと覚悟していたが、懸命に戦いその日も耐えた。しかし二の丸に続く南門が破られ、そこを守っていた54名全員が討ち死にした。27日夜が明けると前後左右からの総攻撃が始まった。鉄砲の弾も弓矢も昼前に尽きていた。二の丸に残った兵士は10名毎の斬り込み隊を組織して白兵戦に打って出たが昼過ぎには全員が壮絶な戦死を遂げた。紹運も本丸の柵を越えて来た島津兵と交戦、十数人を切り倒したが、自身も背中と腹に傷を負った。もはやこれまでと、本丸の最上階に登り、「宗茂・・・、直次・・」とつぶやくと「エーィッ」、気合とともに割腹して果てた。残った兵士40名は紹運の最後を確認すると、掛け声とともに一斉に大軍の中に切り込んで行った。岩屋城の763名全員が玉砕した。まさに壮絶の15日間であった。そして計画通り、島津軍を15日間釘付けにした。

 

(嗚呼壮烈岩屋城址の碑)

 

 

(岩屋城址 高橋紹運の墓)

 

勝利した島津忠長は、「この15日間、紹運殿は戦神の化身のようであった。類まれなる名将を殺してしまった」と後日談にある。島津はこの戦いによって3500人以上の兵を失った。これより後、島津軍が立花城方面と宝満城方面に軍を分ければ更に時間が稼げる予定だったが、宝満城があっさり降伏したのである。家老の伊藤源右衛門は、紹運の次男である幼い直次の命を何とか助けようとの思いから、降伏の勧めにのってしまった。8月6日、無血開城にはなったが、直次は島津の捕虜となってしまった。 

 

● 5章 最後の戦い(立花城・御飯の山城)

立花城では食料、武器などを搬入し籠城の準備が進んでいた。それより前、紹運が玉砕する寸前の情報が届いたとき、宗茂は気持ちの揺らぎを抑えることが出来ず、自分も今から岩屋城に留まり父と一緒に死ぬ、と言い出した。それを言い含め、留めたのは武内氏永であった。紹運は宗茂のことを氏永に託していた、「武士としてどんな時でも正常心で耐える力は鍛えてあるが、それが肉親の事となると、若さゆえ瞬間的に己を失うことがある」。その若さが出た時のことを紹運は武内氏永に頼んでおいたのである。しかし果たして、さすが宗茂である、「武内殿、取り乱して申し訳ありません。養父道雪と実父紹運の思いと教えは、しっかりと承知しております。」2日後、紹運の玉砕の報には微動だにしなかった。そして広間に集まっていた家臣に言った、「岩屋城は763名で15日間戦った。筑前国を守る為にはあと何日この城が耐えなければならないかである。黒田官兵衛殿の使者が持って来た書状によると、援軍の到着まで15日前後と思うが、どう戦えば持ち堪えることが出来るのか、一同の気持ちを伺いたい。」殆どの家臣が死を覚悟で立花城を守りぬく気持ちを宗茂に伝えた。

 

8月8日、香椎宮及び武内屋敷、神官たちの官舎は慌しい1日となった。岩屋城に続き宝満城が落ち、いよいよ島津軍が香椎に向かってくるというのだ。聖母大菩薩(神功皇后)を祀る香椎宮を襲うことは無いと思っているが、念の為である。香椎4党の神官達は宮内の貴重品、書籍、などを分担して保管することにした。本殿のご神体は通常であれば大宮司しか取り扱いが出来ない。今回は非常事態により大宮司の清原基宣(きよはらもとのり)がご神体を取り出し、長老である武内氏永が預かることになった。氏永は武内屋敷の裏山の洞窟にご神体を他の貴重品とともに隠した。香椎4党の他の大伴家、三苫家、清原家もそれぞれに香椎宮の貴重な品々を持ち出した。

そんなとき1騎の馬が香椎宮に走ってきた。宗茂であった。「武内殿、気を鎮めたいので綾杉にお祈りに来た。」宗茂は氏永から以前のようにお祓いを受け、綾杉に祈った。宗茂は綾杉に祈るととても心が鎮まるという。そして再び馬に乗ろうとした時、一人の若い神官が近寄って来た。「お殿様、お久しぶりでございます。氏続(うじつぐ)でございます」。「おお、氏続殿か、暫く見ぬあいだにまた大きく成られたのお。幾つになられたか?」「14歳になりました。父上も居られますので、丁度よかった。お二人に話を聞いていただきたいことがあるのですが・・・お許し頂けますか?」。宗茂が答えた、「氏続殿、そんなにかしこまらなくとも良い。申せ。」「明日にでも島津軍は侵入してくるとのこと、お城の話では12日間持ちこたえれば援軍が到着すると聞いております。援軍は1万人と聞いておりますが、これだけの人数が関門海峡、遠賀川を渡り切るのは簡単なことではありません。そのうえ門司と香椎の間には島津に通じた宗像と麻生がおります。となると、到着はもう数日遅くなるのではと案じております。」宗茂が間を挟んだ。「そうかも知れぬ。氏続殿は何か策をお持ちなのか?」。氏続が続けた、「香椎宮の東に御飯の山(おいのやま)がございます。鎌倉の時代より砦として使われておりましたが、現在は城としても充分整えられ装備なども揃っております。私は香椎宮社家の武装神人50人とここに立て籠り、1日だけでも、島津兵を引き付けることが出来ないかと考えておりまする。お城と香椎村を守るためです。覚悟は出来ております。」

今度は武内氏永が間を挟んだ、「子供が何をたわけたことを言っている。敵は数万の大軍だと知って言っているのか?」宗茂が静かに言った。「氏続殿の申すこと、一理ある。さすがは武内大臣の血筋。14歳と言えば私の初陣の一歳前、もう子供では無い。砦の存在は以前より聞いておった。よかろう、但し条件がある、立花城からも100人の兵と優れた隊長を派遣する。その隊長の指示に従い、戦いが始まれば2日間凌いでほしい。2日目の夜、立花城に全員引き上げること。これが条件である。氏永殿も、よろしいか?」「仰せのとおり計らいましょう。」武内氏永は息子の驚くほどの成長ぶりとその覚悟に驚いていた。宗茂が帰ったあと氏続に話した。「そなたの計画と思いは、良く分かった。今や香椎村と香椎宮の危機である。我々のご先祖様に武内氏覚(うじただ)という方がおられた、足利尊氏将軍とともに多々良川で戦った大宮司だ。そのとき尊氏様の「氏」の一字をいただいた。私の氏永の氏、そなたの氏続の氏は尊氏様と同じ「氏」である。武運高き名に恥じなきよう戦われよ」。

夕方までに武内家、三苫家、清原家、大伴家、木下家、石川家、本郷家、安部家、西尾家、井上家など香椎四党(しとう)や各社家の中から「御飯山部隊」に60名の者が志願した。みな香椎村と香椎宮を守りたい一心だけだった。日が沈みかけた頃、立花城から隊長の黒木正信(くろきまさのぶ)が100名の兵を引き連れ到着した。弓矢の他に鉄砲が30挺もあった。香椎宮神人軍は弓矢が主力なので皆心強く感じた。黒木正信は60歳を過ぎた初老ではあるが体格良く鋭い眼光をしていた。道雪に使えた武将であった。黒木正信は氏続に言った、「氏続殿、お若いのに立派な覚悟。また香椎宮にお仕えの方々も感心いたした。共に香椎村の為に戦いましょうぞ」。

8月9日、武内氏永は香椎村民を三苫から先の志賀島方面へ避難させ、男で戦える者は立花城へ入城させた。立花城は本丸の他、続く二つの山に松尾砦、白岳砦がある。香椎宮神人兵士は立花口から攻めてくる島津軍を防ぐ白岳砦へ、村民は武器の輸送を援助するため武器庫のある松尾砦に待機させた。武内氏永は立花宗茂の参謀として本丸にいた。朝からぽつりぽつりと見えていた、「丸に十の字」の島津の旗さし物は夕方になると香椎の村にあふれ出した。氏続が立て篭った御飯山城からは眼の下に香椎宮と武内屋敷が見える。屋敷内の敷地にも沢山の島津軍の兵が座り込んでいた。焚き火をして大声で騒いでいる者たちもいる。氏続は拳を握り、怒りを抑えていた。

8月10日朝、島津忠長の使者が立花城本丸を訪れた。この時も星野吉実(ほしのよしざね)が送られた。高橋家のことを知っている吉実が適任とされたのであろう。吉実は紹運の死を悼み、その嫡子宗茂を何とか守りたいと思っている。実はその思いは島津忠長のほうも強かった。加えて、立花城が降伏すれば大友派の他の城もそれにならうだろうとの思惑もある。降伏を勧める吉実に対し、宗茂は「養父道雪、実父紹運と大友家への義を通すためにも、我々は潔く討ち死も覚悟し、城を守ることを決している。その覚悟、島津忠長殿にしかとお伝え頂きたい。」続けて武内氏永が星野吉実に尋ねた、「島津忠長殿においては神仏崇拝をどのようにお考えか?全国の武士の武運をお守りしてきた聖母大菩薩を祀る香椎宮に危害を加えることは無いと約束願いたい。」吉実は直ちに戻り、それらの返答を届けることを約束した。夕刻、再び吉実が来て島津忠長の言葉を伝えた、「立花宗茂殿のお覚悟、分かりもうした。総攻撃は明朝とする。今からでも女、子供、村民を城から退避させることがあれば本日中はこれを攻撃しない。それから八幡大菩薩(応神天皇)の母君様であられる聖母大菩薩を祀る香椎宮は我々武士の聖地でもある。これに手をかけることは無いとお約束する。」帰り際に星野吉実が言った、「宗茂殿、お父上は素晴らしき名将であられた。戦国の世の運命とはいえ、高橋紹運殿を死に至らしめたことは残念であった」。

 

(発掘調査時の御飯の山)

 

 

(御飯の山城)

 

8月11日、1700名の立花城、160名の御飯山城に3万近くの島津軍が取り囲んだ。島津軍は立花城の3km南にある御飯山の小さな城が気になるらしく、御飯山の麓には3千人ほどの島津勢が集まってきた。城までの道らしい道が無いのが幸いしている。両手をついて登ってくる島津兵に、上から弓、鉄砲を、神人兵は丸太や大石を転がして応戦した。夕刻、3箇所の門の内1箇所が破られたが再び追い返した。黒木正信が言った、「氏続殿、初めての戦にしては素晴らしき働き、感服いたしましたわ。しかし今日は40名もの兵が死傷した。明日1日を耐えることが我々の務め、気を引き締められよ」。この日、立花城には立花口と下原方面から2万人ほどの兵が攻撃を仕掛けたが、ほとんどが追い返された。長谷(ながたに)口は兵が来なかった。その延長線上に御飯山城があるからだろう。

 

 このことから見ても武内氏続の御飯山城作戦が当たったとも言える。8月12日、島津軍は昨日の反省からか、先に御飯山城を攻め落とすこととなり、正面左右から5千名の兵が押し寄せた。御飯山城は小さいので上り口はさほど多くない、兵が多く寄せてきても、城まで近づける人数は限られている。黒木正信は昨日と同じように砦の縁に兵を張り付け、上から鉄砲・弓で応戦した。香椎宮の社人達も石を島津兵目がけて投げ付けた。平成9年、福岡市教育委員会が御飯の山の発掘調査の際、城のふもとからまとまった多数の大石を発見した。この時、城から落された石であろう。

 

 

 

山の中腹に島津兵の死体が積み重ねられるように増えてきた。それでも、その死体を踏み台にして次から次へと兵が乗り越えてきた。昼過ぎには昨日と同じ門が破られ進入されたが、黒木正信ら立花勢が白兵戦で切り込み、これを防いだ。日が落ちるとともに島津勢は退いた。凄まじい戦いだった。60名いた香椎宮勢は30人に、100人いた立花城勢も30人までに減っていた。黒木正信は白兵戦の時に首と胸に傷を負った。

黒木正信は14歳の武内氏続を呼んで言った、「氏続殿、良く戦われた。お見事である。これで殿と約束した2日間を持ちこたえた。あとは負傷した者を連れ、残った者全員で立花城へ退却することだけじゃ。闇に紛れて長谷(ながたに)の間道を行けば2時間で城に着く。拙者一人がこの砦に残る、この傷ではもう皆と一緒に歩けない。それに火の気や物音が砦から消えると、敵に感づかれるからのお」。思ったとおり、氏続が自分も残ると渋った。「氏続殿、拙者がこの砦に自ら名乗り出たのは、老いた身だからじゃ。もう大友家と立花家には充分すぎるほど働いた。それに、そなたを城に帰すのはお父上と殿に約束しておる」。子(ね)の刻(深夜0時)ごろ、負傷者を含む60名が御飯山城から立花城に移動した。立花宗茂は戻ってきた60名に労いの言葉をかけた。「自らを犠牲した皆の働きにより、立花城はほとんど無傷だ。2日も時間を稼げた。援軍到着まで最後の一兵になろうと出来るだけ長く戦うのだ。」武内親子もお互いの無事を喜ぶと同時に改めて覚悟を固めた。

8月13日、朝一番に御飯山城から火があがった。黒木正信はその前に自刃していた。武内氏続は立花城から御飯山方面を見ながらつぶやいた、「黒木様・・」。御飯山が落ちたと同時に、立花城の長谷口も含め全方向から島津軍が襲ってきた。九州一の山城と言われる立花城に、3万近くの島津軍が毎日のように総攻撃をかけるが、宗茂の機敏な指揮と道雪が育てた統制の整った家臣団の働きによりなかなか落ちない。武内氏永が指揮をとる香椎宮神人勢も立花軍に劣らぬ活躍だった。1週間が経過した。

8月20日、黒田官兵衛、小早川隆景率いる援軍1万名が関門海峡を渡り終えた、と伝える使いが飛び込んできた。立花山頂で歓声があがった。下原から少し離れた濱男に本陣を構えていた島津忠長のところにも斥候から同じ内容が届いた。島津忠長は思った。この一週間で三日月山を含む4つの砦を突破している。援軍が到着するまで最低2日はかかるだろう。明日で勝負をつけよう。立花城を奪い、先に落した宝満城とともに島津軍が立ち篭れば、秀吉の援軍とも戦える。

8月21日、島津軍は落ちた4つの砦に大軍を集中し猛攻撃を仕掛けてきた。昼ごろ、白岳の三の丸が落ちた。三日月山方面からも直接、本丸近くが狙われた。宗茂は砦の間を駆け回り、指示と檄をとばした。夜になり戦いは止んだ。落とされた三日月山頂上の砦は平地で、その夜は島津軍が火を焚いて駐留した。この日の島津軍の攻撃による立花城の損害は大きかった。

 

● 6章 香椎宮炎上

8月22日、島津忠長の本陣は朝から落ち着かない動きをしていた。下原、和白方面に陣取っていた島津方豪族もざわざわしていた。時には大きな怒鳴り声も聞こえる。三日月山や白岳の砦に居座っていた島津軍も平地に撤退し始めた。上から眺めていた立花軍には何が起こったのか解からなかった。朝早くの使者によると豊後(大分)にも四国の長曽我部(ちょうそかべ)の援軍が上陸したとのこと。このままでは筑後と肥後で分断され全滅すると悟った島津忠長は撤退を決意したのである。昼過ぎ、元は大友家に従っていたが島津に通じていた宗像、麻生、筑紫、原田ら筑前・筑後の豪族の使いが立花城へ降伏を伝えに来た。筑後八女の星野吉実の使いは来なかった。

久山から大宰府に抜ける山道を、島津忠長を含む島津軍の一部が動き始めていた。午後になると島津に服していた各地の豪族が騒ぎ始めていた。もともとは竜造寺や秋月の配下であったが、島津の勢いに屈して立花城攻めに参加していた豪族である。領地の安堵と恩賞を期待していたのに、このままだと全てが無くなるのである。不満が吹き出し始めた。夕方までに薩摩の島津軍は規律正しく撤退をしだしたが、幾つかの豪族が暴徒化し始め、民家の中の食料などを強奪し家屋に火をつけながら退却しはじめた。暴徒化した豪族はますます人数が多くなり、博多方面へ向かう集団もあった。集団の一部が下原から老いの谷(香椎宮北側)に入ろうとしていた。武内氏永は一瞬、「しまった!香椎宮が危ない!氏続!すぐさま神人の兵を集めよ。城を降り、香椎宮を救いに向かう」。指示を出したその時だった、薄暗くなり始めた御飯山の少し右手から小さな火柱が上がった。「父上!あれは?」。氏永は「遅かったか、無念だ」。

立花城本丸下の砦に、生き残った香椎宮の神官、社家、神人兵100人近くが力を無くし座り込み、香椎宮の方向を見続けていた。火柱は何本にもなり上空の空が真っ赤に染まった。氏続は立ったまま流れる涙を拭おうともせず、炎を眺めていた。14歳の戦いが終わった。香椎宮一帯は一晩中燃え続けた。

8月23日、武内氏永は立花宗茂から本丸へ呼ばれた。「武内殿、香椎宮を守れなかったこと誠に申し訳ない。許してください。我々は黒田官兵衛殿の命により、只今から島津軍を追う、そして宝満城と岩屋城を取り返さなくてはならぬ。一部の兵を残し、留守にするが宜しくお頼い申す。」立ち上がって部屋を出ようとした時にもう一度振り返り、「先ほど黒田官兵衛殿の使いによると、明日の朝早く小早川隆景殿が到着されるそうです。武内殿のことも伝えている故、香椎宮のことなど今後のことについては何なりと相談されよ、とのことです。それから、氏続殿にお伝え頂きたい。この度の働き、この宗茂が褒めておったと」。

 

宗茂は兵を従え島津軍を追った。なんと島津軍のしんがりを務めていたのは星野吉実の軍だった。星野吉実は若杉山の西方1.5kmに位置する高鳥居城(たかとりいじょう)に立て篭り宗茂軍を待った。島津軍退却の捨石となったのである。高橋紹運という名武将の凄まじい戦死を見届けている吉実は、弟と300名の兵で丸1日を戦い潔く自刃した。大友を裏切ったという武士としての償いの念があったのかも知れない。宗茂はそのまま軍を進め、宝満城と岩屋城を取りもどした。立花城への帰路、星野吉実(よしざね)の首を那珂郡糟屋村に塚を造り丁重に葬った。その塚は村人から吉実塚と呼ばれていたが、いつからか吉塚(よしづか)となり現在は地名(博多区吉塚)として残った。塚は現在も地元民によって守られている。 

 

 

吉塚地蔵堂(吉実塚)

 

● 7章 柳川十三万石領主(宗茂21歳)

年が明け1587年(天正15年)、小早川隆景はその後も香椎に駐留し、ここから筑前国の戦後の状況を逐一秀吉に報告していた。秀吉は毛利元就の三男坊であるこの小早川隆景を武人として認めていたようだ。駐留させたまま筑前国の領主に任命し、立花城を与えた。宗茂には島津追討軍の先陣を務めるなどの活躍を認め、龍造寺一族が治めていた柳川に十三万石を与えた。宗茂は島津が降服した後、捕らえられていた弟の高橋直次を取り返し、柳川城の支城として三池に一万八千石を与えている。小早川隆景は立花城には入らず、名島に城を作り始めた。毛利家の中でも水軍を担当する小早川家とすれば山の上より海の近くの方が動きやすかったようだ。援軍の軍監(総大将)を務めた黒田官兵衛には豊前中津が与えられた。後年、息子の長政が福岡藩52万石の初代藩主になり、代々香椎宮をお守りしていくようになるとは、この時点で想像もしていなかったろう。

香椎宮と香椎の村は全て焼け落ち、綾杉も黒こげた幹だけが残っている。小早川隆景は香椎宮の再建を約束し、まずは仮殿(かりでん)を綾杉の前に建てた。武内屋敷の裏山の洞窟は無事だった。運び出したご神体を仮殿に納めた。香椎4党に分担して保管させた宮の貴重品は半分以上が戻らなかった。この時、香椎宮の歴史を記した重要な書の大半が紛失している。4党そして社家、神人にも戦死者、離散者が多かった。大宮司の清原基宣(きよはらもとのり)の家は離散したため、しばらくは大宮司は決めずに武内氏永が長老としてみんなを統率していくことになった。このあと香椎4党の制度は崩れ、以後は明治の初めまで武内家のみが大宮司職を継いでいくことになる。本殿の再建が進みつつある5月の暖かい日、氏続が大きな声で氏永を呼んだ。駆け付けた氏永が見たものは。なんと黒こげになっていた綾杉の幹から2本の若い枝葉が伸びてきているではないか、「なんと言う生命力だろう、この木にはまさしく聖母大菩薩の命が吹き込まれている。まことの神木である。」感激した武内親子は涙を流しながら香椎宮の復興を確信した。

 

● 8章 肥前名護屋城 (宗茂26歳) あとがき

それから5年が過ぎた1592年(文禄元年)の4月。肥前国松浦(唐津)の名護屋城では秀吉主催の朝鮮進出壮行の宴が開かれていた。一番隊の小西行長の軍勢1万8千は、既に出発したばかりだった。宴には今後出発して行く二番隊の加藤清正、三番隊の黒田長政、大友義統(宗麟の子)、四番隊の毛利吉成、五番隊の福島正則、六番隊の小早川隆景らが秀吉から呼ばれていた。末席には小早川隆景の六番隊に加わった柳川の立花宗茂らの姿も見える。ほどよく酒も入った頃、秀吉が宴の真ん中に立って言った、「皆の出陣に際し、この上ない心からの縁起物を与えよう。これに持て。」白の神官服を着た若者が、杉の枝が入った桶を抱えて、秀吉の傍らに膝まづいた。武内氏続だった。秀吉が続けた、「この杉の枝は筑前国香椎の宮の綾杉の枝である。朝鮮進出を果たした神功皇后の霊が宿された日本一の神木と言われている。この綾杉の枝を冑に付けると武運長久の願いが叶う。」各武将から「ありがたき幸せ。」と乾杯が続いた。秀吉はご機嫌で酒を飲んでいる。この演出を提案したのは立花宗茂であった。宴席から退出する氏続を宗茂が追いかけてきた。「氏続殿、ご苦労であった。太閤殿下も大層お喜びである。ところで大宮司になられたとのこと、お祝い申し上げる。父上殿はお元気か?。朝鮮半島から戻ったら香椎へ遊びにいく故、不老水で作った酒を用意しておくようお伝え下され。」「宗茂様もどうかお体には充分お気をつけられるよう。それから綾杉でのお祓いは、これからは私に申しつけ下さい。」宗茂26歳、氏続20歳の春であった。

 

 武内氏永は107歳の長生(1534〜1640)であった。香椎武内家の始祖である大膳紀宿禰(おおかしわできのすくね・武内宿禰の13代目)から武内氏永は28代目である。その間、100歳以上は氏永を含め6名いたようだ。80歳以上は何人もいたらしく、氏永は「まさに不老水の神威による」と言っている。氏続の大宮司職は息子の氏理(うじさと)が引き継ぎ、福岡藩初代藩主の黒田長政(黒田官兵衛の長子)から厚遇を受けた。

 

立花宗茂は関が原の戦いの時は、豊臣家への忠義をとおして西軍に加わった。そのため徳川家康から柳川を追われ東北で浪人生活を送っていたが、2代将軍徳川秀忠に認められ、柳川藩主に復帰した。西軍についた者で元の藩主に復帰したのは宗茂だけだった。柳川2代藩主は弟直次の4男忠茂(ただしげ)が継いだ。以後、柳川藩立花家は幕末まで続き、その繁栄の遺品を柳川市「御花」(料亭旅館)の史料館で見ることが出来る。武士の忠義を守り貫く心の強さは、実父高橋紹運と養父立花道雪の厳しい教えによる。

                                 終り

 

 

 

 

(立花家家紋)

 

(柳川 御花)

(宗茂公 甲冑)

あとがき

 

貝原益軒の「筑前国続風土記」に「島津軍侵攻時に香椎宮大宮司武内氏永は立花宗茂と立花城に、氏永の息子で若干14歳の氏続が御飯の山城に立て篭もった」と記されています。この事柄がこの物語を書く起点となりました。登場した人物名は、御飯の山で戦死した「黒木正信」を除いて、全て歴史に残る実在人物です。ただし立花道雪の家臣に黒木姓の武将がいたのは確か(柳川古文書館調べ)で、江戸時代の香椎宮史にも黒木姓の名前が見える。現在、長谷の入り口には十数世帯もの黒木姓の方々がお住まいです。その内のお一人から聞いた話によると、寺の過去帳に残る黒木家は420年前まで遡るという。420年前(1593年頃)ということはちょうどこの時代に当たる。立花家が柳川に移る際、何らかの理由で立花(香椎)に残ったのではないだろうか。うっちゃん的には、道雪公への忠誠心に従い、墓を守るために黒木家が残ったのだと考えたい。

 

多くの小説では島津忠長が退却時に香椎宮を燃やした、星野吉実が退却の時火をつけた、と二人が悪役になっている。しかし、島津忠長は武士の義を貫いた敵将立花道雪と高橋紹運の死にあれ程の哀悼の意を表している。これほど義を重んじる武将が「香椎宮に火をつけろ」、と軽々しく命令するであろうか。また、宗茂が星野吉実の首を塚まで造って丁重に葬った、と言うことは立派な武将と認めていたからではないだろうか。香椎宮の焼失は、戦争と言う悲惨な状況の中で、人間が通常心でおれない行動の結果起きたことである。うっちゃんは島津忠長と星野吉実の二人を立派な武将として何とか救ってあげたい一心を、この物語に組み入れたのでした。

 

神功皇后伝説」、「足利兄弟と香椎宮」と同様、この「立花宗茂と香椎宮」も素人のうっちゃんが趣味の範囲で書いています。歴史的認識が足りない、表現がお粗末、背景がおかしい、など多々お叱りを受ける点ありますが、薄学愚老に免じてお許し下さい。楽しむ程度に留めていただきたくお願いします。平成25年11月 うっちゃん

 

 参考にさせて頂いた文献・資料

 

「立花宗茂」   河村哲夫

「香椎東校区35周年記念誌」

「立花城興亡史」  吉永正春

「香椎宮史」

「香椎町史」

「立花宗茂と立花道雪」  滝口康彦

H・P 「宋雲院」(立花家ゆかりの地を訪ねて)

H・P 「立花家十七代が語る立花宗茂と柳川」、立花家関連の写真使用確認済

御飯の山城・遺跡関係の写真:福岡市教育委員会

立花家資料館、柳川古文書館の学芸員の方にはお世話になりました。感謝申し上げます。

 

 

 

 

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