魁々當乃椶慮翕膺声(みしまじんじゃ)

神功皇后は御島に何処からどのようにして渡ったのか?

片男佐(かたおさ)海岸、浜男(はまお)通りの地名由来。

海参道」の謎?

 

● 御島神社(写真左)と御島で髪を洗っている神功皇后(写真右)。その後ろに武内宿禰(たけうちすくね)、中臣烏賊津(なかとみいかつ)、志賀島海人族の阿曇磯良(あずみいそら)が控えている。

 

「神功皇后伝説」の第4章で、皇后は朝鮮半島進出の前に御島に渡り、髪を洗い、左右に分けて「みずら」と言う男髪にされた、と書きました。大和連合軍の兵士の士気を高めるために、男姿になることを決意したのです。御島神社は香椎宮の境外末社で香椎潟の海の中に建っている。以前は毎朝、香椎宮の神官が船で渡り、お参りしていたと言う。天候が悪い時には、浜辺の濱男(はまお)神社でお参りを済ませていた。

現在は鳥居が立っているが、当時は祠だけであったろう。この祠には志賀島の阿曇一族(海人族)の守護神である「綿津見大神」(わたつみのおおかみ)が祀られていて、皇后は「綿津見大神」に朝鮮半島への航海安全を祈ったのです。この時は武内宿禰、中臣烏賊津に加え、阿曇磯良も御島に同行したと思われます。

さて神功皇后はこの御島に何処から渡ったのでしょう。下に香椎一帯の地図が2枚あります。上が現在、下は4世紀後半の予想地形(香椎潟は古代より明治時代まではほぼ同じ地形)。昭和初期からの埋め立てが進み、現在は「イオン」横の遊歩道から目の前に御島神社を眺めることが出来る。

                ●現在の地図

 

 

        ●神功皇后時代の香椎潟海岸線

 

 神功皇后は当日、久山の聖母屋敷から橿日の宮に寄り、それからC地点の海岸に出て船で御島を往復した、とまず考えられるのであるが・・・。そうすると片男佐海岸や鎧坂、冑塚の位置関係が説明できないのです。皇后が御島で男髪にされ、戻った海岸が、半分だけ男になったと言う意味の「片男佐(かたおさ)海岸」。以前は、AB間が「片男佐海岸」と呼ばれていた。AB地点間の何処から船が出て、再び戻ってきたのであろうか。? A地点の香椎花園横に「高塚稲荷神社」があり、皇后が乗った小舟が発着した所と言われている。しかし、うっちゃんは「長崎の鼻」と呼ばれていたB地点ではないかと考えています。御島までの距離はB地点の方が近いのです。

そう思う理由はもう一つ。御島とB地点の間には大潮の時、海が割れて道が現れるのです(青い点線部分)。昭和初期の古老には、この道が「海参道」と呼び伝えられてきたようです。下左は昭和中期の航空写真。御島神社からB地点の間に僅かであるが黒い線が見えます(実際の写真ではもう少し明瞭に線が見える)。下右は埋立地に建った団地の上階から撮った写真。御島神社からB地点に向け、干潮時の海上に現れた道が確認できる。

 

 

(香椎タウンストーリー柳瀬氏撮影)

 

この「海参道」は明治時代、御島神社の鳥居や祠の補修用に造った道ではないかと言われている。しかし補修はそれ以前からも必要であっただろう。「長崎の鼻」と呼ばれる鼻のような突起は、なぜ波の浸食に耐えて残ったのか?。この地点の岩盤が硬いからであり、その岩盤が御島まで続いているのです。御島もその岩盤の硬い部分が海上に残った小さな島なのです。古くからあった道を明治時代に補強したとも考えられます。また「海参道」と言う呼び名が伝えられてきたのは、古代より、阿曇氏や村民が大潮の時には、この道を歩いてお参りに行っていたからではないだろうか。江戸時代、日照りが続いた年は村民が島に渡り「雨乞い」のお祭りをしたと記録にあります。

神功皇后一行の当日の潮が分からないので、船なのか又は歩いてなのかは確認する術も無いがB地点から渡ったことだけは間違いないでしょう。B地点に戻って来た後に、A地点までの白砂浜を片男佐海岸と呼ぶようになったのだと思います。現在はB地点からイオン(大型ショッピングセンター)までの埋立地に遊歩道が出来て、A地点からイオンまでを片男佐海岸と呼びます。イオン横の香椎川に架かる橋は「片男佐橋」と名付けられました。

神功皇后一行がBの片男佐から橿日宮に戻る途中(皇后時代の地図参照)、香椎八景の一つ鎧坂(よろいさか)冑塚(かぶとづか)に寄り、休憩します。

 

 

 

 

冑塚

 

皇后は鎧坂で鎧を身に着け、冑塚で冑を付けられました。冑塚で全身が男姿になられたので、ここから香椎参道入口までを、浜の男、浜男(はまお)と呼ぶようになります。後に参道入口の浜辺(C地点)に建てられたのが現在の「濱男神社(はまおじんじゃ)」です。皇后の朝鮮進出をお助けした海の神が祀られているそうです。「海の神」とは綿津見大神のことでしょう。濱男神社は御島神社の遥拝所(ようはいしょ)の役割も担って建てられたのだと思われます。これで皇后の足取り(順序)と地名のつながりが確認できました。

 

 

唐津街道の脇に立つ濱男神社

 

 

      

 

追記・重要) 皇后が髪を洗い、男髪にされたことは日本書紀に記されている。その場所が御島であることは「筑前国続風土記」にも見える。しかし香椎宮の社伝によると、皇后が髪を洗ったのは香椎宮の横を流れる小川としている。香椎宮の北東を流れる「祓川(はらいかわ)」(宮北川とも呼ばれる)であり、香椎八景のひとつ「分髪川(ふんかんせん)」である。男髪にするときに、この小川で髪を洗い、お祓いをして髪を分けた、と言うことになります。

八景の一つとして選ばれているので無視はできませんが、この「分髪川(ふんかんせん)」は1450年頃の室町時代に、追加された四景の中の一景です。当時の大宮司であった武内氏信が地域活性化のために、日本書紀の記述を基に造り出した一景であると考えられます。よって、うっちゃんとしては、皇后は御島に渡って航海安全を綿津見大神にお願いして男姿になった、という説が一番有力で正しいと思っています。

注意現在、海の参道は途中に一箇所、水抜き溝(干潮時に潮が流れやすいように掘った溝)が作られているので干潮時でも歩いて御島に渡ることは出来ません。

連絡)A・B地点へのアクセスは「香椎海岸ウォーキング」を参照ください。

連絡)B地点は松本清張の「点と線」の事件現場です。「点と線 ノスタルジック香椎」を参照ください。

連絡)旧暦8月15日に御島神社祭が斎行されます。「御島神社祭」を参照ください。

 

●参考文献:香椎東校区創立35周年記念誌

●「古代・中世の香椎」 上巻   長 洋一 先生

●香椎宮史

●「香椎タウンストーリー」(海の参道)及び管理人の了解を得て写真転載

●神功皇后の御島の絵:ウィキペディアより

 

香椎宮探訪

香椎浪漫