亜武内宿禰の末裔

 

 

武内宿禰(菊池容斎画・明治時代)

 武内宿禰(たけうちすくね)については、本ホームページで何回も登場しています。ここでは彼の子孫について調べてみましょう。

彼と彼の子供の頃は未だ伝説の時代ですから、学者・研究家によってさまざまな説が存在します。

彼の子供については9人が記されている「古事記」に従い、そこからスタートします。あとは多くの説の中から、うっちゃんの好みでまとめさせて頂きます。武内宿禰の子孫は歴史を動かしています。

 

武内宿禰(父親)の9人の子供達

1、長男  羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)

2、次男  巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)

3、三男  蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)

4、四男  平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)

5、五男  紀角宿禰(きのつのすくね)

6、長女  久米摩伊刀姫(くめのまいとひめ)

7、次女  怒能伊呂姫(ののいろひめ)

8、六男  葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)

9、七男  若子宿禰(わくごのすくね)

 

 香椎宮には武内宿禰のほか3人を祀る社(摂社・末社)がありますので先に確認しておきます。

 父親である武内宿禰を 祀る「武内神社」です。(摂社)

 長男の羽田八代宿禰を祀る「朽瀬(くちとせ)神社」です。(末社)

 三男の蘇我石川宿禰を祀る「印鑰(いんやく)神社」です。(末社)

 四男の平群都久宿禰の子孫(現在の香椎の武内家)を祀る「高陪(こうべ)神社」です。(末社)                                                                                          

 

 

● 長男  羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね) 

香椎宮末社△竜狎タ声に祀られていて、神功皇后朝鮮半島進出の時は父親と共に出陣しています。また応神天皇時代にも兄弟と一緒に百済へ渡っています。波多氏、羽田氏、長谷部氏の祖。香椎宮社家の中でも奈良時代から名家と言われる本郷家の始祖でもある。香椎の町には現在も本郷姓の方が沢山お住まいです。

● 次男  巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)

兄の羽田八代宿禰、父親と共に出陣しています。応神天皇時代にも兄弟と百済へ渡っています。巨勢氏、軽部氏の祖。

 

 ● 三男  蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)

 

末社の印鑰神社に祀られている。蘇我氏・石川氏の始祖である。彼も兄達と一緒に応神天皇の命により百済に行ってます。彼の孫の韓子(からこ)とひ孫の高麗(こま)の名前は朝鮮半島と何か関係があったのでしょうか。蘇我稲目(いなめ)から歴史に登場します。百済から仏教が伝わると自分の家をお寺にし、廃仏派の物部(もののべ)氏と対立。子の馬子(うまこ)の時に、物部守屋(もりや)との武力対決に圧勝。ともに戦った聖徳太子と一緒に難波の四天王寺を建てます。稲目と馬子は娘を天皇の妃として嫁がせ、強大な権力を掌中にしている。

馬子は欽明天皇の娘(馬子の姪)を推古天皇として帝位に押し上げます。日本最初の女帝である。この時、聖徳太子が摂政の地位についている。その後、権勢は蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と移るが、中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターにより滅びる。この辺は別の機会に。

 

 

 

● 四男  平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)

 

平群(へぐり)氏の祖であり、右は現在の香椎武内家の系図です。神功皇后が大和に凱旋した後、武内宿禰の子供達はそれぞれ有力豪族として、朝廷に仕えていた。律令制度が整い平城京遷都の年(710)に、神功皇后の霊を祀る香椎廟創立が決まります。神功皇后の功臣の末裔から廟司を送ろう、とした時に選ばれたのが、武内宿禰の四男(平群都久宿禰)から十二代目の大膳紀宿禰(おおかしわできのすくね)。彼は香椎到着後、武内宿禰が居住していた旧屋敷跡に館を構え、周りにクスノキを植えた、とあります。727年、大宰府長官である大伴旅人の赴任挨拶を受けたのは彼の時代です。彼の息子から新たに武内姓を名乗ります。

六代目武内武宣が屋敷の北西の端に、香椎武内家の始祖である「大膳紀宿禰」を祀る神社を建てます。それが「す眷罅覆海Δ戞某声」で、現在は香椎宮の末社です。その後、この神社に武内宿禰も祀られています。

鎌倉時代初期、平家との関係が深かった武内公友(十三代目)は頼朝から左遷させられました。足利尊氏時代が武内氏覚。うっちゃんが気に留めている二十三代目の武内氏信、「香椎八景」をまとめた人物です。香椎宮の組織・管理を強化する為に、次男松寿丸(信孝)を別家「木下」と称させ、権大宮司職を与えます。別棟を建てたところが、クスノ木の下だったので「木下」になったとも。明治時代に大宮司制が廃止になったあと、木下美重氏が香椎宮司を務めている。その息子の木下祝夫氏はドイツ留学からの帰国後、「古事記」をドイツ語訳し、1976年香椎宮奉斎会より刊行した。

武内家二十八代目の氏永と息子の氏続(14歳)は1586年、島津軍が侵攻してきた時、それぞれ立花城、御飯の山城で善戦した。氏永は107歳の長生で、香椎武内家の始祖である大膳紀宿禰以来、100歳以上が6名いたそうです。80歳、90歳以上は何人もいたらしく、「不老水の神威による」、と本人が言っている。四十代目武内秀夫氏は香椎小学校の校長を務め退職されているが、その記録は昭和28年の「香椎町誌」による。現在、何代目かは屋敷にお訪ねして聞けば良いのだが、恐れ多くてとても行くことが出来ない。

 

 

 ● 五男  紀角宿禰(きのつのすくね)

 紀氏の祖である。平安前期の歌人、紀貫之(きのつらゆき)は末裔である。「古今和歌集」編纂者のひとり、また「土佐日記」は有名。

 

● 長女  久米摩伊刀姫(くめのまいとひめ)

● 次女  怒能伊呂姫(ののいろひめ)      姉妹を記した資料を見つけ出せていません。

 

● 六男  葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)

 

応神天皇は即位後、朝廷を大和から河内へ移します。これは崇神天皇の王朝が新しく応神王朝に代わったとする説(王朝交代説)もあれば、朝鮮半島情勢を受けて出来るだけ海に近い場所に政治拠点を移した、と言う説もあります。

神功皇后が九州・朝鮮遠征中にクーデターを起こし、大和凱旋のとき戦ったのが仲哀天皇の先の皇子達です。彼らを支持した豪族もまだ大和に残っていたでしょう。河内朝は大和近辺からの脅威も感じていました。応神・仁徳両天皇のこれらの不安事を一手に引き受けていたのが武内宿禰の子供たちです。大和に戻ったあと、其々の居地で力を蓄え、朝廷に仕えます。大和から河内の間の生駒山系、ここを平群氏が守ります。もう一つの葛城山系、ここを葛城氏が守ります。その後ろを蘇我氏、羽田氏が押さえています。武内一族の一番強力な時代です。その中で応神天皇から一番の信頼を得ていたのが、葛城襲津彦。九州の海人族である胸形氏・阿曇氏の力も借りたのでしょうが、この時代の瀬戸内海・対馬海峡航路を掌握し、朝鮮半島外交を任されています。

娘の磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の妃となり、三人の天皇を産みます。中国の史書にみえる「倭の五王」とは、履中・反正・允恭・安康・雄略天皇だとも言われています。この時代、葛城氏の力がいかに大きかったのか想像できます。この絶大なる権力も王位継承に関した一連の政変により落ちていくことになります。しかしその後、同じ武内一族から、今度は蘇我氏がのし上ってくることになります。

 

● 七男  若子宿禰(わくごのすくね)

 

江沼氏、利波氏の祖です。他に彼のことを記した資料を探し出せていません。

 

日本書紀によると武内宿禰は長生きして、仁徳天皇にも仕えた、とあります。それはあり得ないにしても、応神天皇時代の記述は多いので、おそらくお世話をしたのでしょう。しかしその後、何世紀にもわたり、末裔達がこれだけ活躍した場面を、宿禰はどんなふうに眺めていたのでしょう。

 

参考文献:香椎町制施行十周年記念誌

      :香椎宮史

      :古代天皇列伝(豪族の系譜と職掌)

      :姓・氏類別大観  H・P

      :ひもろぎ逍遥    H・P

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