粥々當乃椶琉戎(あやすぎ)

                      香椎宮の御神木(ごしんぼく)

 

 

 

 

香椎宮の狛犬の間を抜け、石段を上り詰めた正面で、朱塗り囲いの中の大木を見上げることになる。この木が香椎宮の象徴、御神木の綾杉(あやすぎ)である。

神功皇后が朝鮮半島から橿日宮(かしひのみや)に凱旋した時、剣・鉾・杖を埋めた。その土の上に、鎧の袖に付けていた杉の枝を植えたのが成長したもの、と伝えられている。他の杉と違って、葉が交互に交わって綾の紋のように出ているので綾杉と称されている。

 

都(みやこ)から大宰府に赴任してきた者は、まず香椎宮に参詣し、神職から綾杉の木の枝を冠に挿してもらうのが慣わしだったそうだ。また香椎宮編年記には765年以来、不老水に綾杉を添えて朝廷に献じていたと記されている。当時の朝廷が尊崇する神社は1番が伊勢神宮、2番が香椎宮、3番が宇佐神宮、という順序であった。

足利尊氏は多々良浜で菊池軍と戦った時に、「綾杉の神威が勝利に導いてくれた」と言っている。また秀吉の朝鮮半島進出の時、香椎宮は肥前名護屋城に綾杉を献上している。太閤秀吉は大いに喜び、酒宴の席で各大名にその枝を配ったそうである。

綾杉は何度かの炎上、または台風などで倒れた記録があるが、その度に新樹が生れ出て繁茂したと言われている。まさしく神の木である。この木の下に立っているだけで生命のパワーを感じる。

 

 

 

 朱塗り囲いの前の立て札には、神功皇后が「とこしえに 本朝を鎮め護るべし」と祈りをこめてお植えになった杉で紀元860年(西暦200年)のことであります、と書かれている。祈りの言葉は「永遠にこの国を守りたまえ」の意であるが、「紀元860年(西暦200年)」は説明を要する。紀元とは神武皇紀のことであり、初代神武天皇が即位した年を紀元前660年とした日本書記に従っている。よって西暦200年は紀元(皇紀)860年となるのであるが、この問題をあれこれと御神木の下で論じる訳にはいかない。別の機会に「香椎浪漫辞書」の「神武紀元」、「日本書紀」と「干支」を参照ください。

立て札には鎌倉時代に編集された「新古今和歌集」の中から綾杉の歌がひとつ見える。

ちはやふる 香椎の宮の 綾杉は 神の みそぎに たてるなりけり

「ちはやふる」は枕ことばであり、JR千早駅の「ちはや」である。「みそぎ」とは神が宿る木と言う意味であるが、他に言葉が重ねてあるようだ。一つは「禊」(みそぎ・体を洗い清めること)、もう一つは「御衣木」(みそぎ・神仏の像を作るのに用いる木材)。そのように見ると奥が深い歌であるが、残念ながら読み人知らずで作者が分からない。

 もう一つ歌が書かれている。「秋立や 千早ぶる 世の杉ありて」、明治29年、夏目漱石が松山から熊本五高へ赴任途中、香椎宮に寄った時に詠んだ歌。

 

 綾杉を右に回ると、先ほどの読み人知らずの歌が彫られた石碑が立っている。最後の大宰府長官、そして最初の福岡県(藩)知事である有栖川宮熾仁(ありすかわのみやたるひと)親王の筆によるものです。

石碑の先の囲いの中に赤い小さな鳥居がある。パワースポットの一つが楽しめる場所であるが、内容は別ページの「香椎宮4大パワースポット」を参照下さい。

綾杉は鎌倉時代に書かれた「八幡愚童訓」の中で、「香椎四景」の一つ「祥瑞杉」(しょずいさん)として紹介され、当時から全国に名が知れ渡った御神木である。これほどの御神木は他には存在しない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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