「点と線」 ノスタルジック香椎

注意:香椎地区は都市整備事業により、町の様子(特に駅周辺)が変わってきました。既に、本ページ内で紹介したお店や建物が移動しているものもあります。ご了承下さい。(平成28年3月現在)

(旧西鉄香椎駅と清張桜が描かれた壁画) 駅東側の壁に掛かっています

 松本清張原作「点と線」の舞台のひとつが香椎です。昭和32年(1957)、雑誌「旅」に連載された「点と線」が史上空前の推理小説ブームを到来させました。翌年(昭和33年)、東映が発表した映画(劇場版)では、ここ香椎の海岸で情死体が見つかった場面からスタートします。二人の死体は心中として処理されたのですが・・・・・、博多と東京の二人の刑事が殺人として捜査を開始・・・・、真犯人のアリバイを切り崩していきます。アリバイ崩しの大きな現場は東京駅(十三番線ホームと十五番線ホーム)と北海道(青函連絡船と急行まりも)、そしてここ福岡の香椎なのです。今日は小説と映画に登場する香椎の現場を、当時の面影を追いながら辿って行きたいと思います。

その前に、出来ればもう一度 小説を読んで映画を観ていただければ、より興味が深くなると思います。「新潮文庫」では262頁、ストレートに読んで約4時間。映画(DVD)は86分ですから両方でも 1日で十分です。それから再びこのページでお会いしましょう。 

(新潮文庫)

 

(TOEI VIDEO)

 

  

 香椎現場での登場人物

 

     

  映画出演者

  三原 紀一              

警視庁捜査二課 警部補

  南 廣 (新人)

  鳥飼 重太郎

福岡署(映画では東福岡署) 刑事

  加藤 嘉

  安田 辰朗

安田商会(機械工具)経営者

  山形 勲

  安田 亮子

安田辰朗の妻

  高峰 三枝子

  佐山 憲一

XX省(映画では産工省) 課長補佐

  成瀬 昌彦

  お時

赤坂の料亭「小雪」の女中

  小宮 光江

さて皆さん 小説と映画いかがでしたか? 面白い、そして素晴らしいと、改めて感じられたことでしょう。これから先は、皆さんが話の筋も結末もぜんぶ分かっている、との前提で話を進めます。

その前に、松本清張先生について簡単に触れておきます。

●明治42年(1909) 現北九州市小倉北区で生まれる。●大正13年(1924)尋常小学校卒業後、電気会社の給仕として掃除、お茶くみ、使い走りに携わる。●昭和3年(1928)から北九州と博多で印刷所の見習い工として勤める。この間芥川龍之介や菊池寛を愛読し、やがて文学に目覚めていく。昭和6年(1931)22歳のときに、博多の嶋井精華堂印刷所に勤めている。古代史にも興味を持っていた先生は、この時期に、「日本書紀」に記されている橿日の宮(香椎宮)を初めて訪れ、香椎海岸から御島神社を眺めたのではないだろうかこのことが「点と線」の香椎での場面設定につながっていくとは、運命としか言い様が無い。●昭和20年(1945)終戦後、朝日新聞西部本社に入社、本格的に本を書くようになる。●昭和28年(1953)朝日新聞東京本社へ転勤。昭和31年(1956)退社、作家活動に専念。●昭和32年(1957)の「点と線」がベストセラーとなり清張ブームが起こった。

雑誌への連載のスタートは通常だと新年の1月、又は4月です。ところが雑誌「旅」で「点と線」がスタートしたのは昭和32年2月号からでした。これは雑誌社の依頼が遅くなり、1月号に載せる原稿が僅かに間に合わなかったのが理由だと聞いています。よって終了したのが33年1月で変則パターンになりました。連載終了時点で大ブームになっていましたので、当時は時代劇が主流だった「東映」が直ぐに映画化を決定。同年(昭和33年)10月の封切を目指します(実際の封切は事情で11月になった)。

視点−1 「領収証」(小説では受取証)

小説で福岡署の鳥飼刑事が疑問に思ったのが、死んだ佐山のポケットに入っていた「特急あさかぜ」(東京発博多行き)列車食堂の受取証(領収証)でした。二人(佐山とお時)で「あさかぜ」に乗車した筈なのに、佐山一人で食事を食べている。鳥飼重太郎の疑問はここからスタートします。小説では受取証の項は次のようになっています。

それはポケットの底に何気なしに残っていたという様子で、くたくたになっていたのだ。

(鳥飼刑事)  「日付は1月14日、列車番号は7、人数は御一人様、合計金額は三百四十円。東京日本食堂の発行だ。何を食べたかわからん」

(鳥飼刑事)  「御一人様? この男は一人で食堂で飯を食べたのですなあ」

(係長)     「そりゃあ、君。女の方は食べたくなかったから、一緒には食堂には行かなかったのだろうよ」

(鳥飼刑事)  「しかしですなあ、係長さん、女というやつは食い気が張っていましてね。腹はいっぱいでも、つれが食べるときには何かつきあうものですよ。たとえば、プリンとかコーヒーとかですな」

 

映画では領収証の日付は右画像のように10月14日になっています。何故1月が10月になったのでしょう。皆さん、赤穂浪士の映画やドラマを観るのは12月が多いでしょう。討入りが旧暦の12月14日だからです。時を同じくしたほうが興味と臨場感が大きくなります。「点と線」で事件がおきたのは、小説では原稿を書いた1月、映画では封切り予定の10月になったのです。10月も1月も事件が起きた香椎海岸の夜は寒い日でしたから違和感はありません。

 

 小説では合計金額が三百四十円、映画では合計金額三百八十五円(三百五十円プラス飲食税三十五円)となっています。この違いは何なのでしょう。メニューが値上がりしたのでしょうか。

昭和33年当時は飲食税(正式には遊興飲食税)というのがあって10%の課税でした。レストランで食事をするとか旅館に泊まるのは贅沢とされていたのです。全旅連(旅館・ホテル同業組合)などの反対により、後に廃止されました。

小説では受取証の発行元が「日本食堂」、これは当時、列車内食堂や駅構内食堂を経営していた実在の企業名です。映画では単に「列車食堂」となっています。映画となると正しい企業名をだす兼ね合いが色々と難しかったのでしょうね。

視点ー2 「国鉄香椎駅」まで

警視庁の三原警部補と福岡署の鳥飼刑事は、小説では福岡署を出て、市内電車(現在廃止)で箱崎まで行き、西鉄宮地岳線(現貝塚線)に乗り換えて西鉄香椎駅に到着しています。映画では東福岡署を出て、国鉄○○駅(おそらく箱崎駅)から汽車で国鉄香椎駅に向っています。ここが少し変なのです。

福岡県警には昭和29年の発足以来、「福岡署」という名称の警察署はありません。小説のなかでは、 ”市内電車を箱崎で降り、和白行きの西鉄電車に乗り換えた。香椎に行くには、汽車の時間をみて行くよりもこの方が便利である” となっている。 つまり市電と国鉄の両方が利用出来る警察署。うっちゃんは小説の「福岡署」とは「博多署」を想定した署ではないかと思っています。当時の「博多署」は冷泉公園横にあった。市電の電停にも近く、しかも博多駅も現在より数百メートル西の祇園町にあったので署から近かった。博多駅はその後、昭和38年(1963)に現在の地へ移転しています。    

 

   (博多署から歩いて行けた市電と国鉄博多駅)

 

       ● (映画での「東福岡警察署」)

 

映画に出てくる「東福岡署」は、映画が制作された昭和33年には正式な署として箱崎に存在してました。ここから二人で香椎に行くのであれば、、競輪場前(現貝塚)まで歩いて直接西鉄に乗れます。国鉄箱崎駅までも歩いて行けますが少し遠いです。昭和49年に「東署」と改称され、現在の場所は西鉄貝塚駅の近くです。映画も原作通りに、鳥飼刑事の所属を「福岡署」=(博多署)としていた方が良かったのかもしれません。 しかし当時、香椎で事件が起きた場合の所轄は東福岡署ですから、忠実に従ったのかもしれません。

とにかく二人の刑事は、小説では西鉄で、映画では国鉄の汽車で香椎へ向かっています。(映画)二人は国鉄の車内で会話をしながらたばこ(新生)を吸います。話がそれますが、洋画にしろ邦画にしろ当時の映画を観ていると、電車の中、ホテル・旅館の中、会社事務所内、道路・・・どこでも皆がタバコを吸ってますね。昔の喫煙文化には、ちょっとビックリです。現在では考えられません。

二人は列車内あるいは、現場を歩きながら、お互いの情報・推理を交換し合います。

三原は鳥飼に、香椎浜で死んだ佐山憲一は汚職事件で捜査対象になっている産工省の課長補佐であることを告げます。新潮文庫では「XX省」となっています。実際に存在する官庁名を小説で使用するのはどうなのでしょう。ましてや汚職事件が絡んでいるのですから。小説ではXX省で読者が想像すれば良いのですが、映画ではそれが出来ません。「産工省」となっていました。でも現在の○○省に似ています。

 

● (映画)二人の刑事を乗せた汽車は多々良川を過ぎて香椎駅1番ホームへ入ってきます。(下の2枚の写真)

 

 

上の2枚の画像は動画として右から左へ連続してつながっています。左の画像は「かしい」の看板の後ろを、汽車(C-59?)が右から左へ通リ過ぎている場面です。この二枚の看板(名所案内含む)は、実際(下右写真)の1番ホームに立っていた二枚の看板と左右の位置も、文字の位置まで、まったく同じものを作ったんですね。これには感動です。でも、よ〜く見ると???なんですよね。

駅名看板は、右写真のように通常はホームの後ろ側に立てられていて、上写真(映画)のように、ホームに居る人と汽車の間には立っていません。ですからこの看板では博多方面(右方向)の次駅が「筑前新宮」となり、門司港方面(左方向)の次駅が「箱崎」となっています。看板を立てる場所がうしろまえになって、逆になってしまったのです。これも止むを得ませんね。当時は映画を制作する場合は90分以内と制限されていたので、余裕ある表現時間が取れないのです。「汽車がホームに入ってきた。ここが香椎。前後に筑前新宮と箱崎という駅がある」。これだけを数秒で観客に示すには、已むを得ません。 *(現在「筑前新宮」は「福工大前」と改称され、間に「九産大前」が出来ています。また「箱崎」との間に「千早」が出来ています)

 

● (香椎駅1番ホームを2番ホームから撮った写真) 当時より6年前の昭和27年撮影、左が博多方面、右が門司港方面

 

 

もう一つ、あれっと思う点があります。福岡県以外の方は分からないかもしれません。看板の中の次駅名に「どい」、「わじろ」とあります。「土井駅」と「和白駅」なんですが、これらは香椎線の駅です。香椎線は昭和19年、戦時買収によって西鉄から国鉄の線になりました。現在、香椎線の車輌は3・4・5番ホームを使用しています。もとより、1番ホームは鹿児島本線専用に造られたものなのですが、当時この1番線に香椎線車輌が入っていたのでしょうか?JR九州に確認しました。映画の看板は正解でした。正解と言うよりも、実際の香椎駅1番ホームにあった看板を、東映が忠実にロケ用の用具として作ってくれたのでした。JR九州によると、当時(昭和33年)は、1番ホームに香椎線車輌が入ってきていました。1日に数本ですが西戸崎/博多間も走っていたようです。 現在は「香椎」と「土井」の間に「香椎神宮」、「舞松原」の二つの駅が加わっています。

 

視点ー3 「国鉄香椎駅」

松本清張先生は「点と線」の中で、香椎をつぎのように紹介しています。

(鹿児島本線で門司方面から行くと、博多につく三つ手前に香椎という小さな駅がある。この駅をおりて山の方に行くと、もとの官幣大社香椎宮、海の方に行くと博多湾を見わたす海岸に出る。前面には「海の中道」が帯のように伸びて、その端に志賀島の山が海に浮び、その左の方には残の島がかすむ眺望のきれいなところである。この海岸を香椎潟といった。昔の「橿日の浦」である。大宰師であった大伴旅人はここに遊んで、「いざ児ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」と詠んだ。) 

注-1:香椎駅、現在は博多に着く四つ手前になるのですが、千早駅が未だありませんでした。注-2:残の島は能古島です。注-3:小説の上記一節から、松本清張先生が福岡市に住んでいた時、香椎頓宮の「万葉歌碑」を訪れていることは間違いないですね。頓宮の丘から、埋め立て前の香椎潟を眺めたのでしょう。「香椎潟の万葉歌碑」参照。

香椎到着後、鳥飼刑事は、一人で聞き取り調査した内容と推理を三原警部補に報告します。

 果物屋の店主が国鉄香椎駅午後9時24分着25分発の列車から降りてきた男女一組を見ている。

 西鉄香椎駅午後9時35分着で降りた会社員が自分を追い越して行った男女一組を見ている。

 この男女が同一であれば国鉄香椎駅から西鉄香椎駅まで11分かかって歩いていることになる。

 自分が何度かゆっくり歩いても6分とかからない。 香椎には同時刻に二組の男女がいたのではないか?。

 

●話は、ちょっとだけ現在に戻りますが、JR香椎駅で不思議なことを発見しました。時刻表の上り電車に、当時と同じ午後9時25分発門司港行きがあったのです(着は1分早い23分)。これは、たまたまなのでしょうか?。JR九州の粋なはからいだと思いたいですね。もしかしたら、と思って、西鉄香椎駅に行ったのですが、午後9時35分着・発はありませんでした。やっぱしネ。(平成26年5月現在)

 

これからご案内していく地図と写真では、二組の男女と両刑事が国鉄香椎駅〜事件現場まで歩いた道路を三区間に色分けして示します。

● 国鉄香椎駅〜西鉄香椎駅    =====(赤)

● 西鉄香椎駅〜御島(みしま)橋  =====(青)

● 御島橋〜事件現場         =====(緑)   事件現場はうっちゃんの推定箇所です。

まずは平成26年度現在の地図(ヤフー地図)で、男女二組および両刑事が歩いた道順を示します。

 地図-1 赤と緑の区間は当時の道を辿れます。青の駅前二丁目は都市区画整理により当時の道は現存しません。

 chizu-1n 

 

地図-2 上記の現在の地図から、埋め立てたエリアを消去し、当時の海岸線を再現すると下図のようになります。 青線(香椎駅前二丁目)は当時の道なりで表しています。

 ● 当時から2年後の昭和35年に撮影された国鉄香椎駅

 ● 現在のJR九州香椎駅

 

 

現在の駅舎は3代目です。「点と線」の時代(左写真)は初代の駅舎で明治43年に建てられました。八代駅の駅舎を解体移送して完成させたものです。現存していれば文化遺産ものですね。

 

● 下は当時より10年前、昭和23年の国鉄香椎駅発車時刻表です。1日に上りが13本、下りが11本、香椎線は5本。(現在の鹿児島本線上りは、平日で113本)。小説でも「西鉄のほうが便利だ」と言っているように、当時の発着本数は少なかったようだ。鹿児島本線の上りは19時27分から22時07分まで2時間半も間があります。10年後(昭和33年)は倍以上には本数が増えたのでしょう。小説と映画に出てくる上り21時24分着25分発の列車がここに加わります。アレッと思ったのが、鹿児島発東京行き、香椎16時09分発の急行が載っています。「急行霧島」と考えられるのですが、分かりません。しかもこの時代、香椎に急行が停車していたなんて驚きです。それより広告主にも興味あります。福岡銀行香椎支店、香椎税務署、当時からあったのですね。鈴鹿商店や綾杉醤油の藤野商店など、他にも懐かしい名前が・・・。大切なことがありました。下の真ん中に「香椎町警察署」とあります。後の香椎交番なんだと思いますが、地図-12印の場所にありました。現在は西鉄香椎駅前に移転しています。 海岸の情死体発見の第一報が朝一番で届けられた箇所です。

 

視点ー4 「国鉄香椎駅」から「西鉄香椎駅」まで

ここで大切な事は、国鉄香椎駅と西鉄香椎駅間の徒歩による所要時間を、鳥飼刑事と同じように、皆さん自身で計っていただきたいのです。注意すべきことは、当時の西鉄香椎駅改札口は今より30メートルほど北側にあったことです。

この三度の実験でわかったことは、国鉄の香椎駅と西鉄の香椎駅の間は、普通で歩けば六分ないし七分間で行けるということなのだ。(鳥飼刑事)

うっちゃんも三回ほど計ってみました。途中の信号機で止まらなければ、普通に歩いて四分三十秒程でした。鳥飼刑事の六分から七分と言うのは、少し遅いと感じたのですが・・・。ただ、和服の女性が歩いているのであれば、鳥飼刑事のほうが正しいのかもしれません。皆さんはどうでしたか。

 

(小説) 国鉄香椎駅前左にあった果物屋の店主へ鳥飼刑事の聞き込み

(果物屋の店主)

「ええ、見ました。どうして覚えているかというと、翌日、心中騒ぎがあったからですよ。そうですな、あの晩の9時24分の客は10人ぐらいしか駅から出ませんでした。いったいにその時刻は汽車から降りる人が少のうございましてね。その中に、今、おっしゃったような洋服の男と和服の女の二人連れがありました。私は、果物を買ってくれそうな気がしたので、その二人ばかりをこちらから見ていましたよ」

(鳥飼 重太郎)

「その二人の顔を記憶していますか?」

(果物屋の店主)

「何しろここからは距離がありましてね。それに駅の明るい電燈で逆光線になっているものですから、人間は黒い影みたいなもので、顔はわかりませんでした。新聞には心中した男の写真が出ていましたが、そんなしだいで、私には判断がつきません」

果物屋の店主が見た二人とは?、結末では安田亮子と死んだ佐山憲一(亮子に毒殺された)であった。

● (映画)国鉄香椎駅前左側  果物屋と店主     右側の道を真っ直ぐ行くと西鉄の踏み切り

 

● 駅前左側、映画での果物屋(上記)のモデルとなった当時の大衆食堂。 映画封切と同じ年の昭和33年に撮影。道の先に西鉄踏切がある。駅前は小さな広場になっていたようだ。

 

● 現在はタバコ屋さん(同じ位置から撮影)。 真っ直ぐ約200m→→→進むと西鉄の高架橋(当時は踏み切り)がある。それを過ぎて右折。

 

 

(小説:鳥飼が一人で調査に来たときの国鉄香椎駅の前で)

 鳥飼はポケットに両手を入れて駅の入口に立って外を眺めた。うら寂しい、変化のない駅前の風景である。お休所と書いた飲食店がある。小さい雑貨屋がある。果物屋がある。広場にはトラックがとまり、子供が二三人遊んでいる。あかるい陽ざしがその上にあった。

JR香椎駅前道路右側に「フォトスタジオ アイノ」という写真館がある。そして道路の向かい側に飲食店「よし本」がある。それぞれのご主人である相野さんと吉本さんは、当時小学生で、大の仲良し。

(フォトスタジオ アイノ)

 

(よし本)

 

「駅前広場で、友達とビー玉やメンコ、三角ベースをして遊んだ。汽車が到着し、お客が出てきた時だけ遊びを中断した」、とその頃を語っている。 「子供が二三人遊んでいる」とあるのは相野さん、吉本さんたちであろうか。

香椎駅前区画整理のため、「フォトスタジオ アイノ」と「よし本」は移転しました。平成27年11月現在

 

(映画)両刑事は国鉄香椎駅を背にして、西鉄の踏み切り方向に歩く(下の画像)。 後ろの国鉄香椎駅、雰囲気出てます。この場面のロケ地は現JR東日本総武線の当時の佐倉駅(千葉)です。佐倉駅の看板を「香椎駅」に変え、香椎宮をイメージした赤い灯篭などをセットし、香椎駅と見間違えるほど驚いた演出が施されました。

  

●当時から3年前の昭和30年に撮影された国鉄香椎駅前の通り。

 

●現在のJR香椎駅前の通り(同じ場所)→→→西鉄に向かう

 

国鉄香椎駅から、最初の四つ角(現在は信号あり)までは数十メートル。

● ちょうど昭和33〜35年頃の四つ角付近。角から駅寄りへ2軒目が中華料理の「宇宙軒」。現在は香椎参道に移転、味は抜群の人気。

 

● 現在、同じ場所から写した四つ角付近。マクドナルドとパチンコ屋の間を左右に走る道(茶線)が「唐津街道」(濱男通り)。

 

 

●右の写真は2007年、ビートたけし主演「点と線」がTV朝日でドラマ化された時のセット。同じ場所に「宇宙軒」が見えます。

「宇宙軒」は「点と線」の連載が終了し、東映映画が封切りになった昭和33年に開店しています。この年は、ソビエト連邦(現ロシア)が世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功。これによって、宇宙開発時代の幕開けになったのです。この時、現オーナーの祖母が「宇宙ほど大きく広がるものは無い」と言ったことから、「宇宙軒」と名づけられました。

 

 

●四つ角から約150mで西鉄踏切。踏切通過中の西鉄電車が見える。当時から5年後の昭和38年撮影。

 

●(現在)先に見える高架の下を抜け、右折して西鉄香椎駅へ向う。

 

(映画)二人の刑事は踏切を渡り、右折して西鉄香椎駅へ。

 

 

 

右の写真は昭和44年の撮影。上の画像とほぼ同じ西鉄踏切から国鉄香椎駅方向を写しています。当時から10年ほど経ているが、踏切の幅は変わっていないと思われます。また車も相当数通っていたようですから、映画の踏切は幅が少し狭いのかもしれません。しかし雰囲気でてますよね。奥は本当に昔の香椎商店街(右写真では左の建物)だと思ってしまう程です。ロケ地は後ほど紹介します。

 

 

西鉄貝塚線の名島・香椎間は平成18年(2006)、高架化されました。右の写真は高架工事が始まる前の平成13年に撮影された西鉄踏切です。線路の奥のホームに西鉄電車が停車しています。その左に旧駅舎が見えます。

安田亮子と佐山憲一、そして三原と鳥飼の二人の刑事は赤線のように踏切を渡り、西鉄香椎駅の方へ歩きました。

 

(映画)三原と鳥飼が踏み切りを渡り終えた場面。実際の踏切から駅を捉えた上の写真と比較すると、駅までの距離が少し短いようです。しかし雰囲気が似た、このロケ地はいったい何処なのでしょう?そのロケ地は、次の「視点ー5」にて。

 

 

 

 

 

視点ー5 「西鉄香椎駅」

(映画) 二人の刑事は西鉄踏切を渡り、右折して西鉄香椎駅に到着します。写真(上)では西鉄電車?が見えます。似てますが西鉄ではありません。そうです、この場面は西武鉄道、西武新宿線の当時の「東伏見駅」を「西鉄香椎駅」に模して撮影されました。後ろの電車は西武311型だそうです。しかし、踏切から駅まで、香椎とそっくりな「東伏見」をよくぞ探してくれたものです。

(小説:鳥飼が一人で調査に来た時、事件当日西鉄香椎駅で降りた地元会社員の話)

「改札を出て、私の家の方に歩いてゆくときです。その晩私は博多で飲んで少し酔っていましたから、歩く速度が遅かったのです。すると、私の後から同じ電車で降りた人が二三人追い抜いて行きました。それは土地の者ですから、私も見知っています。ただ知らない男女の一組が、やはり後から来て、かなり急ぎ足で先に行きました。男はオーバーで女は防寒コートの和装でした。その二人が浜の方へ出る寂しい道を歩いてゆくのです。」

「私の傍を通り抜けるとき、女が、男に(ずいぶん寂しい所ね)と言ったのです」

地元会社員が見た二人とは? 西鉄香椎駅21時35分着の電車から降りてきた安田辰朗と死んだお時(安田辰朗に毒殺された)であった。

 

下の2枚の写真は昭和33年(左)と34年(右)、当時と同時代に撮られた西鉄香椎駅です。左の写真には競輪場前(貝塚)方面から来た電車が踏切を過ぎ、ホームに入って来る瞬間が見えます。

視点ー6 「競輪場前」

(上2枚の写真)駅屋根の看板には行き先としての駅名(ボケて見づらいですが)が幾つか書かれています。「津屋崎」、「西鉄新宮」、「和白」、「名島」、「香椎花園前」、「競輪場前」です。この中で、現在見慣れない駅名は「津屋崎」、「競輪場前」でしょう。「津屋崎」は2007年、新宮・津屋崎間が廃止されました。「競輪場前」とは現在の「貝塚」です。当時、貝塚には競輪場がありました。昭和37年(1962)に廃止になり、跡地は現在「貝塚交通公園」になっています。小説の中では「競輪場前駅」が何度も出てきます。二人は市内電車で箱崎まで来て、競輪場前で乗り換えてます。

 ”競輪場前というのは、博多湾の東の端にあたる箱崎にある。箱崎は蒙古襲来の古戦場で近くに多々羅川が流れ、当時の防塁の址が一部のこっている。松原の間に博多湾が見える場所だ。” (注)多々羅→多々良

 

●余談ですが、当時より4年前までの西鉄香椎駅屋根上の行き先看板(右写真)には・・・・、ボケて見づらいですが・・・左から「名島」、「多々良(競輪場前・現貝塚)」、「箱崎宮前」、「西鉄博多」と書かれています。行き先の中に「西鉄博多駅(新博多駅)」の名前もあったのです。つまり西鉄宮地岳線が博多まで乗り入れていたのです。現在の千鳥橋(博多区千代5丁目)に「西鉄博多駅(新博多駅)」が存在してました。場所は現在の西鉄バス千鳥橋車庫。多々良(その後の競輪場前・貝塚)と西鉄博多(新博多)間が福岡市内線に編入になった時、駅名も千鳥橋に変わりました。

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駅舎の屋根に取り付けられていた「行き先看板」は、台風の時などは危ない、とのことで後年は外されています。

 

視点ー7 「清張桜」

 「点と線」の「西鉄香椎駅」は大正13年(1924)に建てられた木造平屋の駅舎です。平成18年(2006)、香椎副都心土地区画整理事業により高架駅(下写真右)に切り替わりました。(下写真左)は後ろに新しい高架線も完成し、取り壊される寸前の懐かしい西鉄香椎駅です。正面左に桜の木が見えます。安田辰朗とお時がこの駅を降りてきて、浜のほうへ歩いて行くところ(青↓)を見届けたのはこの桜のみとなります。桜は伐採が取りざたされていましたが、地元住民や清張ファンクラブの強い要望により移植保存が決定しました。

 

 

 

 

 

 桜の木(左写真)は当時の場所から、西南へ30mほど動いた現在の駅前(右写真)に、平成20年(2008)1月21日無事移植できました。1月21日とは、小説の香椎浜で佐山とお時の死体が発見された日です。何の罪も無いのに、毒殺されたお時の霊を供養するために、この日を選びました。小説の中でも映画の中でもこの桜は登場しないのですが、「清張桜」と呼ばれ、「点と線」ファンの心のよりどころとなっています。

本サイトの一番最初に出てきた「旧香椎駅と清張桜」を描いた壁絵は、駅の東側に掛けられています。必ず観てくださいね。それから、清張桜に語りかけて応援してあげて下さい。それでは、御島橋方面へ向いましょう。

 

視点ー8 「西鉄香椎駅から御島橋(みしまばし)まで」

この間は香椎駅前2丁目に当たり、区画整理事業によって一度更地になった為、当時の道を確認することは出来ません。ここからは安田辰朗とお時、安田亮子と佐山憲一の二組の男女が数分の時間と距離の差を保ちながら事件現場の海岸まで歩いていきます。

(下の地図写真) 香椎校区自治協会の岩吉会長が、手書きで作製された昭和16年頃の香椎町の地図。区画整理前は下の絵地図のような道路状況になっていました。御島橋までは青線の道を通っています。絵地図は訪問者に分かり易いように、色を加えて使用しています。作製者の岩吉会長には申し訳ありません。

地図-3

 

 

 右写真は西鉄香椎駅前の通り。お時が安田辰朗と一緒に、地元の会社員を追い抜き、「ずいぶん寂しいところねと言った通り。区画整理によって更地になる前の写真で、道路右側に「駅前ラーメン」があった。当時は、お時が言ったように、通りの両側も、もう少し寂しい感じだったんでしょう。映画の中で、お時が「ずいぶん寂しいところね」と言ったのは、この通りの印の辺りです。二人は駅から40mほど先を右折して御島橋方向へ歩いて行きます。(右折場所は現在の香椎公民館の奥あたり)。駅前2丁目内の当時の道を辿ることは、今ではもう出来ません。

 

 

 

 

 左写真は現在の御島橋交差点付近です。区画整理の途中なので、未だ更地のところもあります。都市高速の手前に3号線の信号交差点があります。横断歩道は右側だけです。左側は陸橋を利用できます。渡り終えて、都市高速のガード下を過ぎると緑線の旧海岸通りに出ます。左側に桜の並木が続いていますから直ぐに分かります。

 

視点ー9 「御島橋から事件現場まで」の香椎海岸

                              地図-4 (昭和23年撮影 航空写真)

  

          赤・青・緑、ともに当時の道をたどることが出来ました。

 

(下左写真) 事件当時から4年後の昭和37年頃撮影の香椎海岸と、現在の同じ場所から撮影した写真(下右写真)。地図-1地図-4の黄色点から水色点の御島橋方向を撮っています。この場所からは、香椎花園までの香椎海岸、西戸崎、残の島(能古島)、名島(妙見島)が見渡せたでしょう。左写真では、御島橋から長崎の鼻までの海岸線道路(緑線)が確認出来ます。 右写真を撮った場所を、特に地図-1で確認して下さい。360度、ビル・マンションの建物と都市高速に囲まれ、面影を偲ぶことは出来ません。

 

 

 

左写真は御島橋から事件現場までの通り。地図-4及び上左の写真の紫●地点から進行方向を写した現在の写真です。想像できるように、右側は御島の森、左側は白砂の海岸線だったのです。この道を2組の男女と2人の刑事は黒い岩場(御島岩礁・長崎の鼻)の事件現場へ歩いて行きます。御島橋から事件現場までは約350mです。道が直線から左回りに緩くカーブする所が長崎の鼻の入口です。左側の桜並木は、あとから植えられました。当時は松林が続き、左側の砂浜の先は香椎潟だったことを想像しながら長崎の鼻に向って下さい。

 

 

 

 

視点ー10 (長崎の鼻・事件現場)

(小説)西鉄駅からは寂しい家なみがしばらく両方につづくが、すぐに切れて松林となり、それもなくなってやがて、石ころの多い広い海岸となった。鳥飼重太郎は現場に立った。現場と見おぼえがつかないくらい、あたりは黒い岩肌のごつごつした、特徴のない場所であった。あたりの風景とくらべて、これはいかにも荒涼とした場所であった。

(小説)海岸に出ると、三原はめずらしそうに景色を見た。晴れた日で、海の色が春めいていた。島も沖も霞がかかっていた。「これが名高い玄界灘ですか?来るときに汽車の中でちょっと見たのですが、こうして降りて、ゆっくり眺めると、やっぱりいいですなあ」   

松本清張先生はどうして三原の言葉でこの海を「玄界灘」と表したのでしょう。我々地元の人間は内海の博多湾を玄界灘とは呼びません。東京から来た人間はそう思うだろう、という先生の細かい気遣いなのでしょうか。まあ、博多湾も玄界灘の一部と解釈すれば済むことですね。

上の小説の表現から、現場からは遠くに素晴らしい景色が見渡せる、しかしそこは黒い岩肌がごつごつした荒涼とした場所。その場所は御島岩礁が少し海の方へ突き出た「長崎の鼻」以外にありません。御島岩礁とは沖の御島神社まで続く硬い岩盤で、大潮時にはここから御島神社までの間に海が割れ、岩礁の道(海参道)が現われます。

●長崎の鼻付近の黒い岩肌:遠く左は名島の妙見島、右に御島神社の鳥居が小さく見える。(昭和初期撮影)

 

●片男佐海岸:奥の香椎花園近くの海岸から手前の長崎の鼻付近の岩場まで。(昭和26年撮影)

 

 

殺人現場(長崎の鼻)は地図-4(航空写真)では濃い緑で印した場所です。黒い岩肌が確認できます。「長崎の鼻」の手前に、航空写真でも確認できる大きな建物が見えます。矢印で示している初期の「香椎花壇」(料亭旅館)です(写真右)。火野葦平が香椎高校校歌の詩を書くために滞在したことで有名です。「点と線」の2年前(昭和30年)に校歌が出来上がりました。先代のおかみさんは「うちの前が”点と線”の海岸です」と当時コメントしている。右の写真でも「香椎花壇」の前の黒い岩場が確認できます。この写真から左に30〜40mほど行った所が事件現場だと思います。の道が香椎花壇の玄関前を過ぎて海岸の岩場に交わる所です。現在の「香椎花壇」は通りの右側高台に移転しています。

 

 

料亭旅館「香椎花壇」

 

 

昭和4年撮影 九州大学工学部親和会 九州大学大学文書館蔵

 

(映画) 殺人現場   最初は佐山とお時の心中と処理された。 ロケは神奈川県三浦海岸だそうです。

 

死体をいろいろな角度から撮影しおわると、背の低い警察医が、しゃがみこんだ。「男も女も青酸カリを飲んでいますな」 医者は言った。「このきれいなバラ色の顔色がその特徴です。このジュースといっしょにのんだのでしょうな」 ころがったジュース瓶の底には、飲み残しの橙色の液体がたまっていた。

 

 

 

 「点と線」殺人現場; 現在の写真です。片男佐海岸近く、海の方から撮っています。岩場があった場所は埋め立て後に建った公団の建物の下です。それぞれの写真左側の崖は、長崎の鼻(御島岩礁の岬)が海辺に落ち込む斜面の名残です。前の道はその岬(崖)を周るように丸くカーブしています。

 

 

 

 

事件現場は「香椎海岸一周ウォーキングコース」のB地点になります。一周2・9km、全て遊歩道です。お時間がある方はお楽しみ下さい。

 

 

事件現場の先は片男佐海岸と言って、神功皇后が御島神社に渡って、戻ってこられた場所です。清々しい海の対岸はアイランドシティ照葉の町です。

 

 

 

 

 

視点ー11 安田亮子の執念

(小説:三原紀一から鳥飼重太郎への手紙)  安田辰朗と亮子は、私たちが逮捕に行く前に、鎌倉の家で死んでいましたよ。どっちも青酸カリを飲んで。こんどは、偽装はありませんでした。安田に遺書はなく、亮子だけに遺書がありました。私には、どうもタフな安田辰朗が自殺したとは思えません。死期遠くないことをさとった亮子が、またも何かの詐術をもって、夫を道づれにしたように思えます。亮子という女は、そんな女なのです。

下のポスターは映画の最後の場面。亮子が青酸カリを入れたビールを辰朗に飲ませる瞬間です。このあと、三原たち刑事が部屋に入った時には亮子も傍に倒れていました。 映画鑑賞のページではありませんので論評は避けますが、ただ山形勲と高峰三枝子の出演と彼らの演技が、この映画を際立たせたのは間違いありません。「総天然色」という文字とその色がノスタルジーを誘います。

あとがき    

今回、小説を二回ほど読み直しましたが、懐かしさと共に何かが心につかえていたのです。その何かが分かりました。 「刑事コロンボ」です。つまりアリバイ崩し。「刑事コロンボ」って映画(TVドラマ)は、最初から犯人が分かっていたじゃないですか、その犯人のアリバイをコロンボが切り崩していく。その原点をこの「点と線」に感じたのです。三原と鳥飼が安田のトリックを暴いていく過程は、「刑事コロンボ」のスタイルに影響を与えていたのでしょう。 話が変わりますが、昭和40年代、中国の北京警察署では新人刑事の教育に「点と線」を教材として使用していたそうです。凄いですね。

 

この「点と線」の映画は現代版リメイクは出来ませんね。これだけ飛行機が乗り物として一般化した現在では無理です。国内の移動は鉄道だと誰もが思う時代背景。小説の中にこんな一節があります。   

”翌日の夕方、鳥飼は東京に帰る三原警部補を送るため、博多駅のホームに立った。六時二分発の上り急行「雲仙」であった。「東京にはいつごろ着くのですか?」 「明日午後の三時四十分です」 「ご苦労さまですね」 「いや、どうもお世話さまになりました」 三原は血色のいい顔をにこにこさせて頭を下げた。”  

なんと博多/東京間が二十一時間四十分です。駅弁を何回食べないといけないのでしょう。民間の人が飛行機を利用する時代ではなかったのですね。現代版へのリメイクを時代感覚差が不可能にしていることから、この「点と線」がノスタルジーを感じさせてくれる永遠の作品として、我々を魅了しているのではないでしょうか。もしかして、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のように、CGを駆使して忠実に香椎の町を再現できれば、、国鉄香椎駅から西鉄香椎駅、長崎の鼻の海岸までをバーチャル散歩してみたい気持ちは、皆さんにもありますよネ。

 

                  「点と線 ノスタルジック香椎」 おわり

 

 国鉄香椎駅から御島崎(長崎の鼻)の殺人現場まで、如何でしたか? 半世紀以上(55年)も前の風景は何一つ残っていませんが、当時の面影を重ねながら、その場所を辿ることだけは、何とかできたのではないでしょうか。 「香椎タウンストーリー」の柳瀬氏に相談し、関連する画像の使用を快く承諾していただきました。香綾会(香椎高校同窓会)はじめたくさんの方に提供いただいた写真です。これらの写真画像が無ければ「点と線 ノスタルジック香椎」を完成させることは難しかったでしょう。改めて御礼申し上げます。

●参考:「点と線」 新潮文庫、 「点と線」 DVD TOEI VIDEO

●参考:H/P 「香椎タウンストーリー」 (点と線 舞台の町)

●参考:H/P 「東京紅團」 (松本清張 点と線)、H/P 「在りし日」 (西武鉄道 ときどきの話題) 

●参考:AERA Mook (昭和の鉄道と旅)  、ウィキペディア(松本清張)

●写真と画像:「香椎タウンストーリー」(香綾会ほか)、西日本鉄道、ヤフー地図、東映、TV朝日、九州大学

●本ページ内で使用している映画の場面(画像)は、うっちゃんがDVDから静止画キャプチャーしたものです。 本ホームページは「点と線」(小説と映画)の素晴らしさ、及びその舞台となった香椎の町を、より多くの人に知ってもらうことを目的とし、営利の考えは一片も持っておりません。 それでも、キャプチャー画像には著作権があることは承知しております。関係団体(機関)により不適切と判断された時には、削除されることも、当然あると思っています。

2014年 5月 うっちゃん

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