猿田彦大神 と 庚申塔

        (さるたひこ)      (こうしんとう)

            猿(さる) と 申(さる) の お話           

 

猿田彦(さるたひこ)大神と彫られた石碑や庚申(こうしん)塔は、沖縄を除く全国で目にすることが出来ます。両者はそれぞれ神道(猿田彦)と仏教(庚申)の信仰から始まっていますが、江戸時代後期に二つが結びついていったようです。そのことは後述するとして、香椎地区で訪ねることが出来る石碑(塔)を確認しておきましょう。

 

 「猿田彦大神」  延享2年(1745)   香椎宮内の休憩所左前 

 「猿田彦大神」  寛保3年(1743)   北口から武内神社に登る石段左側 

 「猿田彦大神」  宝暦3年(1753)   香椎3丁目 

 「猿田彦命」    宝暦10年(1760)    香椎3丁目  

 「庚申天」     天保9年(1838)    冑塚内 

 

「庚申天」と彫られた庚申塔(こうしんとう)から話を進めましょう。庚申信仰は中国から伝来し、平安時代には日本国有の信仰に発展していきます。人間の体内には三尸(さんし)という虫が住んでいて、干支(かんし)による60日毎に巡ってくる庚申(コウシン・かのえさる)日の夜のみ、人々が寝ている間に体内から出てくるのです。そして天帝にその人の悪行を報告しに行きます。報告を受けた天帝がその人の寿命を短くするのだそうです。ですから庚申日は人々が集団で寝ずに夜通し起きて、三尸(さんし)が体内から抜け出さないようにしました。このことを「庚申待ち」と言い、一緒に過ごす集団を「庚申講(こうしんこう)」と言います。平安時代に書かれた「枕草子」には、宮廷貴族が庚申日の夜を徹して遊ぶために、趣向を凝らしている様が記されています。江戸時代になると一般庶民から農村へも広がっていきました。農業共同体として皆で酒を飲みながら、村の団結を高めてくれることから大流行しました。話は逸れますが「三猿(さんさる)」ってご存知ですよね。「見ざる、言わざる、聞かざる」。これは三尸の虫が天帝に罪を報告させないと言う意味のこじつけで出来たものです。さて庚申塔という石塔はどんなふうに産まれたのでしょう。

干支による庚申日は60日毎ですから、一年で6回巡って来ます。約3年で18回目の「庚申待ち」を達成した記念に、皆で「庚申塔」の文字を彫った石塔を建てたのです。その記念塔がいつしか村の守り神になっていきます。仏教系の庚申本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされ、関東では「青面金剛像」が彫られた庚申塔が多いようです。文字だけの場合は「庚申天」、「庚申塔」、「庚申尊天」、「庚申尊」など様々です。香椎(浜男村)の人々が18回目(3年間)の「庚申待ち」を達成して、天保9年(1838)にその記念として、そして守り神として建てたのが「冑塚」の庚申塔でしょう。

 

 

  の庚申天)冑塚

次に「猿田彦(さるたひこ)」について触れておきましょう。「古事記」、「日本書紀」の神話に登場する神様で、鼻が異様に長くサルのような面持ちだと記されています。ニニギノミコトが天孫降臨(てんそんこうりん)の際、道案内をした神様です。

 

 

天孫降臨(てんそんこうりん)とは?。天孫の天は天照大神(あまてらすおおみのかみ)の天、孫(そん)はまご。つまり天照大神の孫であるニニギノミコトが高天原から日本の国土を治めるために、九州の高千穂に降り立ったことです。ニニギノミコトの子供たち(海幸彦と山幸彦)のお話(神話)は有名ですね。山幸彦の孫が初代神武天皇です。神武天皇のお母様は志賀島の綿津見大神の次女、玉依姫(たまよりひめ)です。猿田彦はニニギノミコトを先導し、道案内をしたことから、交通安全・方位除けの神として全国の「猿田彦神社」で祀られています。

サルは「去る」に通じ「災いが去る」として早良区藤崎の「猿田彦神社」が有名です。江戸時代中期になると道案内を司る「道祖神(どうそしん)」として庶民の身近で仰がれ、村の古道の傍らに「猿田彦大神」と彫られた石碑が多く建てられるようになりました。道標(みちしるべ)また村の守り神として広まっていきます。

 

さて、うっちゃんは香椎宮とその近辺で四つの「猿田彦大神」を探し出しました。

 

の猿田彦大神)香椎宮内

 

の猿田彦大神)香椎宮内

 

の猿田彦大神は殆どの参拝客がその横を通っている筈です。逆にの猿田彦大神は北口石段の近くにひっそりと立っていて、あまり人目にふれることはありません。しかし彫られた文字は四つの中で一番鮮明です。は元々は村の入り口や道角に立っていたものを、道路や住宅地の整備による撤去を逃れ、香椎宮に移動させたものです。

 

の猿田彦大神)

 

の猿田彦命)

 

は路地の角に、は民家の敷地内角に立っています。は「猿田彦命」と彫られています。どちらとも彫られた文字は風雨に侵され鮮明ではありません。

 

さて「庚申塔」の話に戻ります。庚申の「申(しん)」は干支(えと)で猿に例えられることから、江戸時代中・後期になると「猿田彦大神」と同化し、「庚申待ち」18回の記念石塔にも「猿田彦」の名前が彫られるようになっていきます。そして道標・村の守り神として「庚申塔」と「猿田彦大神」が結びついていったのです。からは年代からみて本来の「猿田彦大神」として建てられ、1760年のは彫られた名前の「猿田彦命」から庚申待ち記念達成の庚申塔ではないかと、うっちゃんは考えています。1838年の「庚申天」は逆に「猿田彦大神」の大切な役割である道標としても「役にたってもらおう」と、浜男村の人々が「冑塚」横の唐津街道脇に建てたのでしょう。

明治政府は庚申信仰は仏教色が強く、迷信だとして禁止令(廃仏毀釈)をだします。しかし村人達は形を変えて続けていたようです。つまり信仰より酒を飲む口実になっていたのですね。

 

年に6回程のことだったら、良い意味で復活させたいですね。(本音は酒呑みたい)。庚申日では無くとも町内毎、商店街毎に日にちを変えて、それと一晩中は辛いから23時〜24時までとか。地域の振興策を語り合いながら、絆を深めるチャンスにもなるかも。「香椎庚申会」なんて如何でしょう。18回が達成したそのときには、町内毎にあるいは商店街毎に「平成庚申塔」を香椎宮敷地内に建てさせてもらったら面白いですね。

 

特記) 江戸時代まで香椎宮敷地に「護国寺」がありました。護国寺の中に「庚申堂」があり数体の庚申塔が立っていたようです。明治初期の「神仏分離」により護国寺も庚申堂も解体されますが、庚申塔の行方についての記録が分かりません。もしかしたら、「冑塚」の「庚申天」は香椎宮の計らいによって、庚申堂から香椎宮敷地である「冑塚」内に移された可能性があります。その場合は、老いの谷村の人々の庚申塔でしょう。

 

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