純愛小説風行政書士試験用テキスト

「たまむし!」

 

善井

 

1.天国と地獄!

 

京極高顕26歳。名前はまだ無いなんてことはなく、26年間ずっとこの名前なわけだけれども、大層な名前とは裏腹に実にしけた男である。

 

5流大学法学部を卒業後、アニメ好きが高じてアニメ関係の仕事を目指すとかいいながら、就職もバイトもせずに両親兄弟隣近所からの冷たい視線も気にせずに家でゴロゴロする日を幾日も過ごした。

 

友人達が社会人となり、金回りがよくなり、楽しそうにしているのを見てさすがに焦りはじめたのか、柄にもなく、「なんか資格でも取らないとこのままではヤバイ。」と思い、アニメオタクらしく、人気マンガの主人公に憧れ、行政書士の資格取得を目指したのが、3年前。

 

「アニメは諦めてちゃんと仕事するから。」と親に涙目で頼んだ甲斐があって、資格学校に通学するお金は出してもらえたわけだけれども、あまりの物分かりの悪さに、資格学校講師に呆れられながら、なんとか3年間通学し、彼なりに勉強はした。

 

今日はその成果が問われる行政書士試験の合格発表日である。この男、いつもは、この上なく、しけた男ではあるのだけれども、たま〜に、そう、ごくたま〜に、周囲を驚かすことをしでかすこともある。

 

中学生の頃、全校対抗水泳大会で、なぜか、頭も身体も急にクリアになり、自身のチームは最下位だったのに、前泳者からバトンをタッチされて、前を先んじていた3チームを瞬く間にゴボウ抜きし、準々決勝に進出した経験を持つ。(ただし、その準々決勝では、泳いでいる最中に水を飲んで溺れてしまいそのまま病院送りとなったが。)

 

3度目の行政書士試験においても、この10年に一回あるかないかの、目の前がクリアになる現象に見舞われ、面白いように問題が解けた。

それだけに、今日の彼は、自信に溢れていた。

行政書士試験の合否はインターネットで発表がされる。

朝起きて、トイレも行かずに、ソッコウ〜で、高顕はパソコンを立ちあげた。

おそるおそる合格者の受験番号が掲載されている財団法人行政書士試験実施協会のサイトを見ると。

 

「やった〜!」。まさに奇跡だった。何かの間違いではないかと何度も何度も受験番号を確認したが確かに高顕は合格していた。「難しかったのに、よく通ったなあ、オレ。偉いなあ、オレ。なになに?試験結果一覧?」財団法人行政書士試験実施協会のサイトには今回の試験結果の一覧も掲載されていて、全国合格率も書かれていた。「ええ、にっ、2.6%!ひえ〜。」

 

この事実を今まで高顕をゴミ扱いしてきた、家族に知らせるべく、自分の部屋から、1階に駆け下り、両親のいる部屋へと報告に向かった。

 

「おとうちゃん!おかあちゃん!やったで!合格や!」と、両親に向かっていうと、父親の高道(48歳)は、「なにを朝から騒いどんねん。大人しくそこに座れや。」とつれない返事。

 

間髪入れずに母親の顕子(46歳)が、「あんな、おとうちゃんとおかあちゃん、離婚することになってん。おとうちゃんに昔から彼女おったのお前しってたやろ。おかあちゃんもなあ、好きな人ができてしもて、もうおとうちゃんやらおまえとは一緒にはおられへんのや。だからな別れることにしてん。おかあちゃんにとっても、最後の一花やと思うから。おまえら子供も大きなったさかい、なんとか生きていけるやろ。あんじょおがんばるんやで。家族バラバラになるけれども、こころはひとつやからなあ。」と涙ながらに語るではないか・・。

 

「なにが心はひとつやんねん。ちょっと俺の話も聞いたれや!おれなあ、めっちゃ、難関の試験に・・。」と高顕はいうものの、話を遮るように高道が、「おれもなあ、若い女とここで、暮らすことになるから、26にもなったお前に居座ってもらうわけにはいかんねん。おかんは、今日出て行くけれど、おまえには、1ヶ月猶予をやろ。それまでに部屋見つけて出て行くんやで。お兄ちゃんもお姉ちゃんも独立してやってるんやから、お前も甘えたらあかんで。」とつれない返事。

 

「いや、そうやなくて、俺な合格してん。」

 

「おおそうか、就職試験に合格してんな、ちょうどええやないか、住み込みできるんか。」

 

「ちゃうがな。」

 

「なにがちゃうねん。よかったな。住み込みできんでも、給料もらえんねんから、ほな一人で生きていけるな。おとうちゃんも応援してるから、がんばれよ。」

 

「おかあちゃんも、あんたのこと忘れへんからな。あいたなったらいつでも電話ちょうだいね。」

 

3年間の苦労が実ったことが両親に伝わることもなく、高顕は、うな垂れるばかりであった。

 

  

 

 

2.もう、やめて〜!

 

高道がいうには、1ヶ月後から木造二階建てである自宅は解体され、新しく三階建ての家に改築するらしい。

 

高道の彼女(須賀麓子33歳)が、「前の嫁はんとあんたが、一緒に住んでた家なんかに一緒にはすまれへん。」というものだから、壊して建て直すという。

 

新しい家が出来上がるまで、高道は麓子のマンションで一緒に住むので、解体工事が始まるまでは高顕は今のまま自宅に住んでいていいようである。

 

ということで、誰もいない見慣れた自宅での高顕生れて初めての一人暮らしが始まった。とはいえども、1ヶ月後にはここを出ていかなければならない。

 

高道と麓子が一緒に暮らすマンションに転がり込むこともできないし、むろん若い男と同棲することになる顕子のところへ行くこともできない。

 

すでに結婚している兄(一郎28歳)と姉(陽子27歳)にも連絡を取って、同居させてくれるよう頼んだが、共に「配偶者が反対するに決まっているから」と取り合ってはくれない。

 

今まで無風の生活を長年送り、試練という試練にぶち当たったことがなかった高顕にとっていきなり訪れた急転直下の大悲劇である。

 

当たり前のようにあった家族も瞬時にして崩壊し、この上ない孤独感を味わうはめになったわけだが、このような悲劇に対抗する抵抗力がないため、熱が出て、なんどもトイレに行って吐く高顕であった。

 

そんな中で難関の行政書士試験に合格したことも忘れて、ただうなされながら眠ることだけが高顕にできる唯一のことであった。

 

翌朝、目覚めた高顕は、少しは熱も吐き気も治まっていることに気付いた。しかし、現実は厳しい。口やかまし顕子も、柄の悪い怒ると誰よりも怖い高道ももういない。

 

当たり前だった日常を失ったとき、はじめてその日常の大切さを知るわけだが、文句をいう相手も食事を作ってくれる母親もいないのだということを実感すると再び吐き気が襲ってきた。

 

しかし、早く就職先を見つけて、部屋を探さなければならない高顕は、悠長に寝込んでいる暇もない。部屋を見つけるにあたっての敷金とそれまでの生活費は高道が払ってくれるという約束は取り付けたのだが、それ以後の毎月の家賃と生活費は高顕持ちであるため、早急に仕事を見つけなければならない。

 

とはいえ、今まで引きこもりだったわけだから、頼りになる親友もおらず、両親も新しい恋路に熱中しているため、コネによる就職も期待できない。

 

「どうしたらいいんだ!」と叫びたくなる気持ちを抑えながら悶々としていると、突然、高顕の携帯電話がなった。

 

「京極君、行政書士試験の結果どうだったかな?」

 

高顕が通っていた資格学校トリニティの女性講師である足立純恵からの電話であった。純恵は28歳になる女性実務家行政書士であり、週2回、勤めている行政書士事務所での仕事が終った後に、トリニティで後進の指導にあたっている。純恵の姿を見るためだけに、勉強もそこそこにトリニティに通い詰める受講生も多くいるぐらいの美貌の持ち主でもある。そんな知的美人である純恵ではあるが、物分かりが人一倍悪い高顕には、イライラするのか、非常に厳しく接していた。それでも、日頃女性との接触がない高顕は純恵に話しかけられると嬉しかった。いつも純恵に怒られていた高顕であるが、純恵のおかげで3年もの間、勉強を続けられたと自分でも思っている。そんな憧れにも似た感情を持っている純恵の声を聞いて、高顕はなぜか涙がこぼれてきた。

 

「試験結果を聞きたいから、時間があれば学校の方に来てください。何?泣いてるの?また、落ちたの?まあ、詳しい話はあとで聞くからとにかく来るのよ。」

 

愛想も何もない純恵からの電話であったが、家の中にいると気が狂いそうになるので、丁度いい気分転換にもなるし、数ヶ月振りに純恵にも会えると少し嬉しく思った高顕は、3年間通ったトリニティに合格報告を兼ねて出向くことにした。

 

自宅のある京阪枚方市駅から電車に乗った高顕は、久しぶりに外に出たこともあってか、窓の外の風景も目に入らないぐらい、また気分が落ち込んできた。京橋からJR環状線に乗り換え、大阪駅へと向かったが、電車の窓から見える、スーツを着込んで颯爽と街を歩くサラリーマンや楽しそうなカップルを見て、なんで自分だけこんなにみすぼらしいのかと情けなくなってきた。大阪駅前ビルの23階にあるトリニティに向かうため、JR大阪駅を降りた高顕は、通いなれた道を歩いたせいか少し気分がほぐれてきた。大阪駅前ビルについた高顕は誰もいないエレベータに乗り込んだ。トリニティの受付で用件を告げると、受付奥から純恵が現れた。

 

「久しぶりね、高顕君。」そう、純恵に声をかけられなぜか涙が出そうになった高顕であるが、必死でこらえて、声を詰まらせながら試験合格の報告をした。

 

「そうなの。合格したの。よく頑張ったわね。偉いわよ。おめでとう。さっきは落ちたから泣いてたんじゃなくて、合格したから泣いてたのね。よしよし。」

 

きりっとしたスーツ姿の純恵はダメな弟を褒めるかのように、典型的なアキバ系スタイルである高顕の髪の毛を撫ぜた。

 

「でも、その割には元気ないわね。」そういいながら純恵は、高顕の頭を撫ぜる手を止めて、怪訝そうに顔を見た。「家庭の事情で急にどうしても就職しなければならなくなって困ってるんです。」と、つい純恵相手に本音をいってしまった高顕だったが、純恵からは予想外の言葉が返ってきた。

 

「そういえば、あなた、仕事していなかったわよね。なんなら、うちの行政書士事務所で働いてみる?ひとり職員が辞めて人手不足で困ってるんだよね。」なんという偶然!なんでもいいから早く仕事を決めたいと思っていた高顕は、ふたつ返事でOKした。「じゃあ、早速だけど、うちの事務所の代表社員に連絡しておくから、明後日、面接に来てちょうだいね。場所は私の名刺に書いてある住所になるから、そこに来て、受付で足立の紹介で面接に来たと伝えてね。」

 

純恵からもらった名刺を見ながら、まさに天国から地獄へと落ちたこの一日、そしてまた一筋の光が指してきた今を感じながら、やっと落ち着いた気持ちになった高顕は久々に味わう安らぎを胸に家路についた。

 

 

 

 

 

3.はじめての面接!

 

地下鉄に乗る機会もこれまで、あまりなかった高顕は面接日当日、やっとの思いで、目的地である御堂筋線本町駅に着くことができた。駅を出てからも、迷いに迷い、普通の人なら5分でたどり着けるところを、20分たった今でもなお迷い続けている。

 

「本町第三ビルの8F、イマジニア行政書士法人かあ。それにしても変な名前の会社だなあ。この辺かなあ。」

 

見上げるとそこに本町第三ビルの看板が掲げられていた。「やったあ。やっと見つけた!でも面接時間まで、あと5分しかないや。早くいかなきゃ。」息を切らせながらビル内に入り、エレベーターに乗って、8Fで上り、右手の奥の部屋にイマジニア行政書士法人の事務所を見つけた。

 

緊張しながら、受付で用件を告げると、事務所奥の応接室に通された。しばらく待たされた後、面接担当の一色直人(42歳)が現れた。

 

「イマジニア行政書士法人専務社員の一色です。早速だが、足立から話は聞いているよ。足立の教え子なんだってね。昨年の試験は難しかったと聞いているが、よく合格したね。でも、試験に合格したからといって仕事ができるわけではないよ。仕事は一から憶えてもらうことになるからね。まあ、君は合格者だから実務ができるようになれば、当法人の幹部や場合によってはパートナー社員の目がないでもない。がんばってくれたまえ。」まだ何も、話してないのに一色の口振りではどうも採用のようらしい。

 

「ええ、ということは採用ということですか?」

 

「そうだよ。人手不足だからね。君でいいよ。君も生活に困っているようだし、それに行政書士試験に合格しているぐらいだから、バカではないんだろう。試験に合格したということは、行政書士事務所の仕事ができる能力があるという証でもあるから、別途採用試験はしないよ。ということで採用だ。ただし、足立から君のことは色々と聞いているので、ちゃんと仕事を憶えるまでは厳しく接するけど、がんばってついてくるんだよ。」

 

「ありがとうございます!」

 

かくして、家族崩壊の憂き目から、ドタバタしながらも、仕事が決まり、高顕初の社会人生活が、3日後の月曜日から始まることになった。家に帰った高顕は、「ふっ〜。なんとかこれで生きていけそうだ。ところで、行政書士の仕事ってなんだ?やっぱり、カバチタレ!みたいなことするのかなあ?金バッチ付けさせてもらえるのかなあ。なかなかカッコいいじゃん!まあ、給料貰えればなんでもいいや。」などと、アニメヲタグセが抜けきれずにのん気なことを思いながらも、久々にやっと深い眠りにつくことができた。

 

 

  

 

4.初出勤!

 

今日は高顕にとって記念すべき社会人として初出勤の日である。緊張しすぎたのか、朝4時に目が覚めてしまった高顕は、昨日書店で買った「社会人の常識」という本を読むことにした。何せ、26年間、バイトのひとつもしたことがなかったわけであるから、仕事というものを知るためには、こんな本でも読んで、疑似体験するしかないである。が、行政書士試験を合格するための試験勉強をしていたとき以来の読書なので、読めば読むほど眠くなってくる。眠ってはいけないと思えば思うほど眠気は強くなり、知らない間に本当に眠ってしまった。「リッリーン!」けたたましい携帯電話の呼び出し音で目が覚めた高顕は、咄嗟に電話を取ると、受話器の向うから、いつもは甲高い声なのに、今日に限って非常に低いトーンの純恵の声が聞こえてきた。

 

「あんた、何してんの?今何時だと思ってんの?」

 

「ありゃ、9時半。あちゃ〜。」

 

「あちゃ〜じゃあないわよ。どうすんのよ?」

 

「今から行きます。」

 

「あんたね、初日よ。いいかげんにしてよね。紹介した私の面目丸つぶれじゃん。」

 

「今から行きますから。勘弁してください。」

 

「まあ、いいわ。とにかく早く来るのよ。」

 

電話を切った後、高顕は、洗面所の流し台で大急ぎで髪の毛を洗い、歯を磨き、顔を洗って、髪の毛を乾かすこともなく、スーツを着て、飛び出るように家を後にした。道行く人が振りかえるほど、駅まで猛ダッシュで走り、改札をくぐって、電車に飛び乗った。「はあはあ」いいながら電車の椅子に腰掛けた高顕を、同乗している人達は不信そうに見ている。本町駅に着き、電車のドアが開くと、再び高顕は、猛ダッシュをし、イマジニア行政書士法人事務所を目指した。

 

そして、ようやく高顕は、汗まみれになりながら、イマジニア行政書士法人事務所に到着した。

 

イマニジア行政書士法人の受付で仁王立ちして出迎えたのは純恵であった。

 

「やっと来たわね。何、汗まみれになってんのよ。ほら、タオル。ほんと相変わらずダメニートもいいところね。所長がお待ちだから早く、応接室に行きなさい。」純恵に渡されたタオルでひたいの汗を拭きながら、純恵に押されるように応接室へと向かい、おそるおそる、応接室の扉を開けた高顕が目にした光景は信じがたいものであった。そこにはいまどき流行らないパンチパーマのどうみてもヤクザにしか見えない男がソファーに深々と腰掛けていた。

 

「おお、お前が京極君か。ようきたのう〜。まあ、そこに座れや。」

 

「も・し・か・し・て、所長?」

 

「もしかも、カモシカもあれんがな。わしが所長の皆元佳和45歳や。以後お見知り置きを。初日から大遅刻とはええ、根性しとるのお。気に入ったで。まあ、そこに座れや。」

 

「いや、早く起きてしまって本を読んでまた眠ってしまって。」

 

「何わけわからんことゆうとんねん。失敗したときはいいわけよりも謝るのが先ちゃうか?」

 

「ごめんなさい。」

 

「いや、ごめんなさいやなくて、申し訳ございませんでした、やろ。」

 

「ああ、申し訳ございませんでした。」

 

「まあ、ええわ。最初やからしかたないやろ。足立から色々きいとんで。おまえ、ニートとかいう流行りの若もんらしいなあ。な〜んも知らん、バカヤングらしいけど、まあ俺がこれからしごいたるから立派になるんやで。」

 

「ヤング??」

 

「なんや、おかしいか?」

 

「いや、あまり聞かない難解な専門用語なので。。」

 

「ヤングって、専門用語なんか?まあ、ええわ。うちは仕事さえちゃんとしてくれたらなんでもええんやから、ちゃんと仕事だけはするんやで。」

 

「はい。」

 

「よっしゃ。じゃあ、早速仕事してもらおうか。おい、足立、今朝、内縁の相続問題について相談者が来所する予定やったな。こいつも同席さして、わしらの相談業務ちゅうやつを教えたれや。」

 

「所長、お言葉ですが、今日の案件は結構ハードのようなので、京極君に同席してもらうよりも、私がじっくりとご相談に応じた方が依頼者にとってもいいと思うのですが。」

 

「足立、こいつお前が紹介したんやろ。お前が責任持って一人前に育てなあかんで。わしが同席せいいうとんのやから同席さしたれや!」

 

「あっ、はい。」

 

足立は今日の相談業務の件について、相当の入れ込みを持って挑んでいたのであるが、この能天気なヤクザ所長の一言で調子が狂い、鏡を見ると、知らず知らずのうちに、眉間に皺が寄っていた。

 

 

 

 

5.高顕、初仕事の巻。

 

純恵は、しかたなく、今日の朝一番の仕事である依頼者からの相談に高顕を同席することにした。

 

「あんたね、いいこと。余計なこといわないでよね。これは研修の一貫なんだから、私の受け答えを黙って見てるだけでいいんだからね。あんたは、一切、何もしゃべらずに、ただ今後の業務の参考にメモだけ取るようにするのよ。」

 

「ああ、はい。」

 

「そう、いいわよ。じゃあ、相談室に相談者が待っているからいきましょう。」

 

高顕は、生涯初の初仕事に面して、緊張の面持を隠せ得なかったが、純恵は高顕が変なことをしないかとの不安から、緊張の面持ちを隠せ得ず、やな予感を感じながら相談室へと向かった。

 

イマジニア行政書士法人では、依頼者の相談をまず、電話またはメールで受注し、受注時に大まかな内容を聞き込み、概要をレポートにして、実際の対面相談を行う行政書士に見せるようにしている。そのレポートによると、今回の相談者の香坂春美(49歳)は、勤めていた会社の社長であった高丘幸治(2ヶ月前に急死:享年62歳)と23歳の時に知り合い、以後26年間に渡り、ずっと内縁関係を続けてきた。妻のいた幸治とは当初不倫の関係であったが、幸治の妻奈央美の死亡後は、病弱で度々大病となり寝込んでしまう幸治の療養看護につくすばかりの毎日であった。春美は常々、幸治に対して婚姻届を出して、正式に結婚するよう頼んだのだか、結局、それを叶えることなく、幸治は亡くなってしまった。春美は25歳の時に仕事を辞め、以後、仕事をすることはなく、幸治に対する内助の功のみに専念してきたため、特に手に職があるわけでもなく、今すぐに仕事を見つけることも難しいという。金銭的な面については全て幸治に頼ってきた春美であったが、その幸治が亡くなった今、幸治が毎月渡してくれていた生活費20万円の中から少しずつ貯めていた貯金を食いつぶしながらなんとか生活しており、将来のことを考えては、途方に暮れる毎日を過ごしている。幸治には、既に他界している前妻の奈央美との間に、幸子と勇一という2人の子供がおり、幸治の残した46,250万円の遺産はこの2人が相続している。内縁だったとはいえ26年間もの間、幸治を支え、晩年に到っては、幸治の看病に明け暮れた毎日だったのにここ10年あまり、ほとんど音沙汰なしで、病気の幸治のことも一切省みることもなかった幸子と勇一が遺産の全てを相続していることには納得がいかない、いくらか遺産がもらえるよう幸子と勇一に請求できないかというのが春美からの今回の相談内容である。

 

「私は一応、相談内容レポートを一通り読んでるけど、あんたも読んどく?」

 

そういいながら、純恵は春美の相談内容レポートを高顕に渡した。

 

「このような事例の場合に対応する学説が2つあったわね。最高裁の判例はどうなっていた?」

 

そう、高顕に問い掛ける純恵であったが、質問にも答えず、レポートを読み込む高顕の顔が紅潮しているのが気になった。

 

「あんたね、あんたのところの家庭がどうなったのか、詳しくは知らないけれど、今回の相談内容の子供側の立場とあんたが、もし仮に似通っている立場に万が一あるとしても、私情を挟んで考えてはダメよ。そんなのでは仕事にならないからね。」

 

「あっ、はい。わかりました。足立先生のいうとおり、実は僕、この件での子供さん達と同じような立場にあるんです。オヤジもオカンも恋人作って出ていっちゃたんです。」

 

そう、涙目ながらに話す高顕に対し、純恵は、

 

「あら、そう。26にして親に捨てられたのね。お気の毒に。でも、別に対したことないじゃん。だって、あんたもう、26歳でしょう?親のことなんて関係ないじゃん。っていうか、あんたニートだったから、26歳でも小学生みたいなもんか。あはは!」

 

と、あまりにも軽く返してきた。

 

「足立先生、いくらなんでも笑い飛ばすなんて酷すぎます。僕は、僕はこの数日間、どんなに悩んで苦しんだことか。」

 

「知ったこっちゃないわよ。あんたのプライベートのことなんか。どうでもいいのよ、そんなこと。それより、仕事よ。さっきもいったように、私情を交えて、香坂さんを色眼鏡で見たり、敵視したり、とにかく余計なことしないでね。」

 

「わかりました。」

 

そんな会話をしながら、相談室の前まで来た純恵と高顕は、ひとつ深呼吸をしてから、一気に相談室のドアを開けた。

 

「はじめまして。香坂さん。行政書士の足立純恵と申します。こちらは、アシスタントの京極と申します。この度はご主人のことでさぞかしご心痛のところに相続のことが重なって大変、お辛かったと存じます。私たちには守秘義務がございますので、ご安心頂いてなんなりとお話くださいませ。」

 

そう、純恵が挨拶するところをぼっ〜と見ていた高顕に、純恵は依頼者である香坂春美に挨拶するよう高顕にアイコンタクトを送った。しかし、鈍感な高顕はそれに気付かず、今度は、妖艶な魅力を全身から発する春美に見惚れているようである。なにせ、この数年間、自宅に引き篭もり、外出するのは資格学校に行くときぐらいで、しかも、会話できる女性は、自分の母親と純恵ぐらいという環境にいた高顕にとって、目の前にいる妖しげな魅力を持った大人の女性は刺激が強すぎたようである。

 

(このバカ、見惚れてやがる。熟女マニアニートか?おお、キモ。)

 

と思いつつも、挨拶をとりあえずさせなければならないと思った純恵は春美に見えないように高顕の脇腹に肘鉄を見舞った。

 

「うっ、痛い。」

 

と思わず口にした高顕に間髪いれずに、純恵は、再度挨拶をするようアイコンタクトを送った、というよりメンチを切った。純恵のするどい目付きを見て、ようやく気付いた高顕は、

 

「あっ、あの、京極高顕と申します。」

 

とかみながらもやっと春美に挨拶をした。そんな様子を見ながら、少し緊張も解けたのか、固かった春美の表情も柔かくなり、微笑みながら、

 

「香坂春美と申します。足立先生、京極先生、宜しくお願いいたします。」

 

と柔らかではあるけれども高い魅力ある女性らしい声を発して挨拶をした。

 

「早速ですが、今回の件、少し、」

 

と純恵が話し掛けたところで、相談室のドアが開き、イマジニア行政書士法人職員の赤松満智子(24歳)が部屋に入ってきた。

 

「足立先生、相談中、申し訳ありませんが、室町不動産の社長から急用でお電話が入っております。」

 

「ちょっと、後にしてくれないかなあ。見てのとおりなんだけど。」

 

そう、満智子に答えた純恵であったが、満智子からそっと手渡されたメモを見て顔色が変わった。

 

「香坂さん、大変申し訳ないのですが、しばらく席を立たせて頂いてよろしいでしょうか。すぐに戻ってまいりますので。それまで、この京極がお話をお伺いしますので宜しくお願いいたします。」

 

といって席を立ちあがった純恵は、高顕に相談室から少し出るよう促した。

 

「顧問先の申請の件で少しトラブルが発生しているみたいなので電話に出てくるわ。それまであんたが、香坂さんの相手をするのよ。ただし、アドバイスをしたり、解決案を示したりはしないでね。ただ、世間話を上手くして時間を引き延ばしていてちょうだい。わかったら部屋に戻って。じゃあね。頼んだわよ。」

 

そう、言い残すと純恵は電話口へと向かっていった。

 

「皆さん、お忙しいんですね。私のしょうもない相談で時間費やしてほんま申し訳ないです。」

 

色香が溢れる春美の口元から心地よい声が聞こえてきた。

 

「いや、そんなことないです。仕事ですから。どうぞ安心してなんでもしゃべってください。遺言書はあったのですか?」

 

いかにも、頼りなさそうな高顕にそう言われたところで安心できそうにもないのであるが、春美は口を開いて、優しい声で語りはじめた。

 

「遺言書はないんよ。いやね、ほんとは私、お金が欲しいんやないんです。あの人はね、私にとって最初で最後の男の人で、いつまでも一緒にいたかったんね。でも先に死んでしもうたから、いくらかでもあの人が私にお金残してくれた思えるものがあればね、愛情感じてあの人のこと忘れんと生きていける思えるんちゃうかなあって思うてね。なんか、このままあっさり終ってしもうたら、なんかさみしいてね。」

 

冷静に考えると、論理的でもなんでもない春美の言葉ではあるが、妖艶な眼差しで見つめられながら魅力ある優しい声で話し掛けられた高顕は、「春美さんがかわいそうだ。なんとか、この人を救わなければ。」という気持ちに勝手になってしまった。

 

「わかりました。私達にまかせてください。遺産を相続したご主人の子供達に請求をしましょう。法的にも、大丈夫です。取れますよ。」

 

「ほんまですか?いや私もね、おんなじように内縁やった女友達がいるんやけど、彼女が離縁したときに、旦那の財産わけてもうたいうてたん、きいてたんですわ。それが頭にあるもんやさかい、今回相談させてもうたんですけど、でけへんいう人もおって、どうやろうとおもうてたんですう。でも、先生に聞いてよかったわあ。やっぱり内縁でも、財産わけできるんやね。」

 

「まず、婚姻届を出している夫婦の場合は、民法768条によって財産分与権が認められています。離婚と内縁離別はよく似ていることから、この規定が内縁離別にも類推適用されます。まあ、財産分与というのものは、夫婦の実際の共同生活に着目したものなので、内縁といえども夫婦の実体はあるから、類推適用できるという論理になります。」

 

「なんや、難しい話でようわからんけど、やっぱり専門家やね。若いのにすごいね。じゃあ、分け前はもらえるということみたいやけど、離別やのうて死別の場合も、ほんまにOKなんですか?」

 

「そりゃ、そうですよ。離別でもOKなんですから、死別の場合もOKですよ。」

 

「いや、ほんまきいてよかったわ。京極先生、ありがとう。若いのにたいしたもんやわ。そや、全部片ついたらお食事に誘わしてもらうから、一緒にお食事してね。京極先生、うちの人の若いときにそっくりやから、なんか惚れてしまいそうやわ。」

 

「香坂さんこそ、私の母親に年格好が似ていて何か懐かしいものを感じるんです。」

 

「いやね〜、お母さんかいなあ。私も若い若いもうてたけど、京極先生から見たらお母さんの歳やねんね。」

 

数年もの間引き篭もりであり、女性に接する機会は全くなかったのであるが、意外に女性をくどく才能が自分にはあるんじゃあないかとこのとき高顕は実感し、妙に自分に感心していた。と次の瞬間、相談室のドアが開き、純恵が息を切らしながら戻ってきた。

 

「香坂さん、お待たせいたしまして失礼しました。早速、本題ですけれども、本件でご主人のお子様達に遺産分けを請求することは極めて難しいのではないかと思います。」

 

「ええ、そんなあ、今、京極先生から聞いたら、子供達から取れるいうてましたで。」

 

純恵の頭は一瞬真っ白になり、呆然となったが、すぐに現実を把握し、高顕に対する怒りで顔が真っ赤になった。

 

「すみません。内縁関係の死別での解消の場合は、財産分与制度の適用は最高裁判例で否定されているんです。離別の場合なら、財産分与は認められているんですけれども。」

 

「でも、京極先生が、死別の場合でもいけるいうてましたで。どっちがほんまなん。」

 

「申し訳ございません。京極は新米でして、勘違いしているのだと思います。同席させてしまった私に責任があります。お許しください。」

 

と純恵が懸命に謝っているところに高顕が口を挟んできた。

 

「ええ、そんなことないでしょう。だって、離別と同時に財産分与をして、その1分後に相手が死亡した場合でも財産分与されるんですよ。そして遺族がこれを負担しないといけないじゃあないですか。ところが死別の場合は最初からダメとなると不公平でしょう。なんで何年も音沙汰無しの子供達が46,250万円もの遺産を相続して、一所懸命看病して、ご主人を支えてきた香坂さんに一銭も入ってこないんだよ。おかしいよ。」

 

「一銭も入ってこないことはないわ。ご主人が社長をされていた会社の規定をみないとなんともいえないけど、死亡退職金の受給権者に香坂さんがなれるかも知れないし、遺族年金給付の受給権もあると思われるの。でもね、ご子息が相続した遺産に対して、香坂さんが財産分与権を主張し、請求することは難しいと思うわけ。平成12310日の最高裁判例で、死亡による内縁解消の場合の民法768条の類推適用はきっぱりと否定されてるのよ。あんた、よく調べもしてないのに、お客さんに根拠もない勝手なこというんじゃあないわよ。」

 

いつもは気弱な高顕ではあるが、なぜか今日は恩師でもある純恵にしつこく噛み付いた。

 

「勝手なことをいってるんじゃあないよ。仮に足立先生がいうように768条の類推適用を否定したとしても、ご主人には香坂さんを扶養する義務があって、それが相続人に継承されて結局ご主人の子供達は香坂さんに財産わけしないといけないということになるでしょう。」

 

「それが、そうはならないのよ。そういう学説もあるけれども、それも先の最高裁判例ではきっぱりと否定されているわ。あんたがいっているのは学説の一部でそれをあんたが支持していたとしても実務においてはなんの効力もないことはあんたも知ってるでしょう。ああ、さては、香坂さんに言った手前、私に恥じかかされたとか思ってるの?」

 

「そんなんじゃあないけど。でもどうも納得できない。香坂さんがかわいそうじゃあないか!」

 

「かわいそうだけじゃ、この商売やってられないわよ。いい?婚姻関係にある夫婦の場合は、離婚のときは、財産分与、死亡のときは、相続と清算処理をわけてるわよね。それなのに、内縁関係の場合だけ、死別解消の場合も財産分与制度を類推適用するということになると、法体系を崩すことになるわけ。法の予定しないものになってしまうわけね。そういうわけで判例では、内縁の死別解消の場合における民法768条の類推適用を否定しているわけよ。わかった?ほんとちょっと目を離した隙に何やってんだか。」

 

「香坂さん、京極が勝手なこと申しまして本当にすみませんでした。以後、このようなことないようにいたしますので、お許しくださいませ。ご主人の子供さん達への遺産分けの請求はちょっと法的には無理そうですし、ご主人の子供達と交渉して取るというのも、難しそうです。うちは、ファイナンシャルプランニングサービスもしておりますので、死亡退職金と遺族年金給付の受給の可能性を探りながら、今後のご生活のマネープランなどをご一緒に考えて検討していきたいと思います。そういうことでお願いできませんでしょうか。」

 

「はい。難しい話で、よくわからなかったところもあるけれど、また詳しく教えてやってくださいな。京極先生は新米さんやねんね。でも、わたしのこと思って一所懸命考えてくれたんやとおもうわ。ありがとう。最近、主人の子供からも冷たくいわれて、なにせ内縁やったから、誰にも相談できんで、落ち込んでたんやけど、今日はじめてあったのに、親身になって考えてくれて、なんや嬉しいなったわ。ほんまにありがとう。」

 

そういいながら、春美は流れる涙を上品なハンカチで拭い取った。

 

春美の相談を聞き終えて、執務室に戻った純恵と高顕は椅子に腰掛け、赤松満智子が煎れたコーヒーの飲みながら一息ついていた。

 

「あんたね、さっきはなんとかなったけど、これからは感情にまかせて適当なこというのやめてね。」

 

「あっ、はい。」

 

「もしかして、香坂さん結構、綺麗だったから、いいとこ見せようと思って偉そうなこといったまではいいけど、それを私に全否定されたから、ムキになったんじゃあないの。馬鹿じゃないの。ニートのくせに熟女マニアなわけね。それともマザコン?ああ、どっちにしても、キモい。」

 

「そんなんじゃあないよ。」

 

「じゃあ、なんなのよ。ともかく、私は事前レポートを読んで事案を検討してから相談を受けているわけ。あんた、なんの検討もしないでよく調べもせずに根拠ないこというんじゃあないわよ。ヘタしたら事務所にツケが回ってくることになるのよ。あんた自身が損害賠償請求される可能性もあったりするのよ。わかった?」

 

「わかったよ。今度から気をつけるから。」

 

「あのね、わたし一応、この事務所の先輩なの。口の利き方も気をつけるのよ。わかりましたでしょう。」

 

「わかりました。」

 

純恵と高顕の会話を横で聞いていた、満智子がクスクス笑い出した。

 

「赤松さん、なにがおかしいわけ。あっそうか、このニート野郎のバカさかげんに呆れているわけね。」

 

「いや、足立先生と京極先生がなんか仲のいいお姉さんと弟みたいで見ていて微笑ましくなったんです。」

 

「これみて、どこが仲良く思えるわけ。こんなキモいニートの弟なんていらないわよ。それにまだ、行政書士登録もしてないから、先生なんて呼ばなくていいのよ。ニートでいいのよ。」

 

「足立先生、お言葉ですが、僕は今日から社会人なのでもうニートではないです。それにこんなキツイお姉さんもいらないです。赤松さんのような優しい人をお嫁さんにしたいです。赤松さんはすごい僕のタイプの人です!」

 

「あっ、くどいてら。さっきからなんなのよ、あんた。それにあんたみたいなニートのところに赤松さんがお嫁に来るわけないでしょう。ああそうか、久しぶりに世の中に出て来て、綺麗なお姉さん達にいっぱい出会ってしまって、檻から開放されたさかりのついたケダモノみたいになっているわけね。ほんとキモイわね。」

 

「赤松さんは綺麗なお姉さんだと思うけど、足立先生は、怖いだけのお姉さんです。」

 

「いつもながらムカツクキモヲタね。そりゃ、私は怖いわよ。空手3段で西日本空手道選手権女子の部無差別級でも優勝したことあるからね。早く、バカを治さないとハイキックで失神させるわよ。でもね、赤松さんには、お金持ちの御曹司でイケメンの婚約者がいるの。まあ、ここには結婚までの腰掛けで来てるのね。残念だったわね。ニート崩れのあんたにゃ勝ち目がないので諦めることね。あんたに彼女なんて10年早いわよ。嫁入り前のお嬢さんを預かってるんだから、赤松さんに変なことしたら許さないわよ。」

 

「ええ、そんなあ。赤松さんのような綺麗な人みたことないから諦めつかないなあ。いや、僕はあきらめましぇん。」

 

「まだ、いうのなら本当にアバラ折るわよ。」

 

瞬時に終った初恋にショックを隠し切れない高顕であったが、満智子はただ、横でケラケラと笑うだけであった。こうして、高顕の社会人としての初日は予想通りのニート崩れらしい情けない展開で過ぎていったのであった。

 

 

 

 

 

6.朝礼!

 

イマジニア行政書士法人の出勤時間は朝の9時である。実際の業務開始時間は10時からであるが、9時半まで事務所内の掃除をし、その後朝礼を10時までするのである。今日も所員全員で掃除をした後、朝礼開始時刻となった。総勢6人しかいない事務所での朝礼は恥かしいものでもある。朝礼ではまず、ただ一人少人数朝礼を全く恥かしがっていない所長の皆元が恒例の訓示を述べる。

 

「ええか、みんな。今月も中盤や。まだ目標月間売上を今月は達成してへん。わしらの事務所のメインは建設業関係と運輸関係やけど、これで新規の仕事を取ってくるのはなかなか難しいことや。せやさかい、会社設立や相続案件やら、FP業務やらの業務もこれからはどんどん取っていかなあかん。赤松・山名の両名は、経理やスケジュール管理、書類作成補助で忙しいやろけど、DM送付やHP更新に勤しむんやで。」

 

「お言葉ですが、所長、相続・FPなどの業務は私しかできへんやないですか。仕事いっぱい取るのはいいんですが、あんたらも少しぐらいは勉強してやったらどないですのん。できもせんのに、偉そうにいいなさんな。」

 

「こりゃ、足立君いつもながら厳しいですな。わしと一色は許認可業務以外に資金繰りや各会合に出て、営業でいそがしいんや。それに民法とかはよう知らんねん。45すぎていまさらお勉強なんてできるかいや。おまえにはそれなりの報酬も払ってるがな。大層なこというんやったら独立して自分でやったらええがな。まあ、人手不足ちゅうんやったら京極君をつけたるから京極君と一緒にやったらええやないか。優秀な足立君の教え子やから立派にやってくれるやろ。わかったな、京極君。足立君の手伝いをするんやで。もちろん、わしらの手伝いも、DM作成もHP更新も全部するんやで。」

 

「ええ、新人なのに、全部するんですか?」

 

「あほ、当たり前やがな。新人やから業務全部おぼえんとあかんねや。全部やるんやがな。ということで、今日はまず、顧客の東山不動産社長が新たにやろうとしている雀荘の営業許可の申請業務をしてもらおうか。風俗営業許可申請マニュアルは全部読んだやろうな。」

 

「はあ、一応、読みましたけど、全部理解してないので、できるかどうか。」

 

「できるかどうかやないやろ。やらなあかんやないか。でけへんというのはうちの事務所では禁句やで。わかったら、東山不動産にいって社長と打ち合わせして、それから雀荘の方に行って、実測して図面仕上げるんやで。それ終わったら、今日もまた相続案件の相談が入ってるから、足立と一緒に依頼者の相談にのるんや。」

 

「わかりました。」

 

「ほな、みんなも一日、元気でがんばって、儲けるんやで!」

 

雀荘の営業許可、すなわち、風俗営業許可申請の仕事を命じられた高顕であるが、この業務は結構ハードである。担当窓口である警察や依頼者との交渉に加えて、作成しなければならない書類も多岐にわたる。許可要件も人・設備に関して厳しく定められており、行政書士が要件を見逃した場合、当然ながら依頼者から損害賠償請求をされることにもなる。業務としての難易度が高く、損害賠償リスクも高いため、やりたがらない行政書士も多いであるが、「できない」という言葉が辞書にないイマジニア行政書士法人では他事務所で引き受けないような仕事もホイホイと喜んで受注している。今までは主に純恵にこの業務のお鉢が回って来ていたわけであるが、高顕の入所をこれ幸いにと高顕に覚えさせようとしているわけである。皆元からすれば風俗営業許可業務担当が2人に増えれば実入りの大きい業務だけに売上を増加させることが可能であるからである。

 

「ああ、なんか難しそうだなあ。図面作成もあるし。図面なんか書いたことないんだけどできるのかなあ。」

 

「大丈夫よ。あの足立先生だって、最初はオロオロしながらやってたんだから。頑張ってね。」

 

皆元から命じられた雀荘営業許可申請業務に対し、不安を募らせる高顕に満智子が声をかけた。

 

「赤松さんは、足立先生よりも先に入所されてたんですか?」

 

「ううん、ほとんど同時に入所したから同期かなあ。最初、この事務所は、所長と専務と山名さんとこの間辞めた人の4人でやっていたの。業務拡大をするからって募集があって、私と足立先生はその求人募集をこの事務所のHPで見て2年前に入所したの。足立先生は別の事務所から移ってきたみたいだけど。」

 

「へえ、山名さんが社員以外では一番古いんですね。」

 

「古いという言い方はやめてくれるかなあ。もともとは、この事務所は所長と私の2人で10年前からはじめたの。仕事が増えてきたので、5年前に一人事務所をしていた一色先生との共同事務所にして、法人化が可能になってから法人にしたのね。」

 

一番の古株である山名政子(32歳)がイマジニア行政書士法人の歴史をそう説明してくれた。山名は聡明そうな顔立ちであるが、それでありながら大人の色気を醸し出している。ニートのくせに気の多い高顕にとって、満智子とともに気になる女性である。

 

「そんな、歴史があるんですね。なあんだ、あの偉そうな足立先生も2年前入所ならまだ新人ですよね。」

 

「また、そんなこといってると足立先生に怒られますよ。」

 

そう言いながらくすくすと笑う満智子を見ながら、その愛らしい瞳に吸い込まれそうになる高顕であった。とその時、背後に殺気を感じた高顕は振り返ってみると、鬼恩師純恵の仁王立ち姿が目に飛び込んできた。

 

「何、また赤松さんに媚び売ってんのよ。早く、東山不動産に行ってきなさいよ。あそこの社長、私なんかよりも、ずっと怖いんだから。」

 

「ええ〜、また怖い人が登場するの?もういいよ〜。できないよ〜。」

 

「この事務所には、「できない」という言葉が辞書にないのよ。さっさといってらっしゃい!」

 

不機嫌そうに身支度をした高顕はとぼとぼと事務所を後にした。

 

 

 

 

 

7.鬼社長

 

東山不動産は、京阪電車千林駅を下車し、徒歩15分ぐらいのところにある。大阪でも有数の商店街である千林商店街を抜けて、奥まった狭い道沿いの雑居ビルの3Fがその事務所である。電車を降りた高顕は、千林の駅前で地図を見ながら歩きはじめた。千林商店街ではダーク・ダックスが歌う「千林商店街のテーマ」がいつも商店街中に流れている。単調で覚えやすいそのテーマを聞いてすぐに覚えた高顕は、「せんばや〜し商店街〜。」と小さな声で口ずさみながら、上機嫌で東山不動産の事務所を捜した。東山不動産事務所が入っていると思われる雑居ビルを見つけた高顕は、そのビルの狭い階段を上がって3Fについた。「東山不動産」の看板がかかった事務所があったので、高顕はノックをしながらその事務所のドアを開けた。

 

「イマジニア行政書士法人の京極と申します。社長さんはいらっしゃいますか。」

 

恐る恐る受付でそう挨拶をした高顕を事務所の奥の方から見ていた、がたいの大きい、スキンヘッドの中年男性が高顕に近寄ってきた。

 

「おお、ようきたのう。わしが社長の東山や。皆元から話はきいとんで。あんたが担当の京極君やな。まあよろしゅう頼むわ。さっそくやけど、雀荘の方にいこか。ここから3分ぐらいのところにあるからな。」

 

挨拶しながらも上着を羽織り、お茶も出さずに、そそくさとエレベーターの方へと向かう東山に、慌てて高顕もついていった。2人は東山不動産事務所がある雑居ビルを出て、しばらく黙って、千林商店街を歩いていたが、間が持たないと感じた東山が面倒くさそうに高顕に話し掛けた。

 

「雀荘はうちが所有しているテナント物件やねんけど借り手がなかなかのうてな。それやったら自分でなんかやった方がええやろおもて雀荘しようとおもったんやけどな、警察いって許可とらなあかんいうやないか。それで警察いって申請用紙もらったんやけど、こりゃ無理やでおもうて、いくつか代書屋まわってんけど、みんななんやかんやいうてでけへんいいよんねん。それで、前に宅建業の免許申請してもうた皆元のところに頼んだわけや。あいつはなんでもやりよるからな。最後の頼みの綱やで。」

 

「そうですか。」

 

「ところであんた、たよんなさそうやけど、大丈夫か?」

 

「はい、一応、行政書士の資格もありますし、大丈夫です。」

 

「おお、あんた先生かいな。ほな、あんじょう頼むで。ほんまに。」

 

そんな会話をしながら商店街を歩いているうちに、目的地である雀荘開業予定場所に到着した。商店街から少しはずれたところの公園近くにある二階建て店舗の一階部分がその場所である。店舗の中を見渡すと既に内装は完了しており、麻雀台もきちっと配置されている。「相当なお金がかかっているなあ」と高顕は思いながらもバックの中からメジャーを取り出して計測の準備に取り掛かった。

 

「それでは、図面作成のため、計測をさせて頂きます。メジャーで四隅を図りたいと思うので、社長、メジャーの向う端を持って下さい。」

 

そういった瞬間、東山の表情が変わった。

 

「なんやと!客に手伝わすんか!お前は。わしは客やで。なんで、メジャーで計るのわしが手伝わなあかんねん。おまえひとりでやらんかい!ボケッ!」

 

東山にこっぴどく怒鳴られた高顕は身を竦めた。「すみませんでした。」そういって東山に頭を下げた高顕は、脅えるような仕草を見せながら、静かにひとりで計測をはじめた。メジャーの反対側の端に、近くにあったストーブを重し代わりにおいて計測しようとしたのだが、上手くいかず戸惑っていると、それを見た東山が携帯でどこかに電話をかけているようである。

 

「皆元ちゃんか?あんた、こんな出来の悪い人間よこしてきたらあかんで。店の計測するのにわしにメジャー持って手伝えいいよんねんで、この男。怒ったったら一人でやっとるけれど、上手いことでけへんみたいやわ。誰か別の人間よこしてくれへんか。ええ、叱ってもええから、こいつにやらせってか。まあ、あんたには借りがようさんあるからしゃあないな。今日は大目にみたるわ。でも今度からはこんなんやめてや。」電話を切った東山は、悔しそうな表情で黙々と計測をしている高顕を睨み付けながら続けていった。

 

「おい、先生よ。今聞いたとおりや。口の利き方ぐらい勉強せいよ。あんまり、皆元の大将困らせたらあかんで。おまえみとったらイライラしてくるから、わしゃ、事務所に戻るけど、ちゃんとやって終ったらここ締めに来るからまた連絡せいよ。」

 

そう、言い残して東山は雀荘店舗を出ていって、東山不動産事務所に戻っていった。

 

さっきまでにこやかに談笑しておきながら、いきなり急変し怒鳴り出す人間にはじめて遭遇した高顕はびっくりすると同時に自分の不甲斐なさに涙が出てきた。涙を床に落としながらメジャーと悪戦苦闘して3時間かけて計測を終えた高顕は、東山に電話をし、店を閉めてもらって事務所へと帰っていった。

 

 

 

 

 

8.藁の上の養子

 

「京極先生、すごく疲れている感じ。大丈夫?東山社長のところでなんかあったの?あの人、いつも誰にでも怒っている人だからあんまり気にしない方がいいわよ。元気出してね。」

 

そう、いいながら、高顕にお茶を出す満智子に今まで味わったことのない安らぎを高顕は感じた。そもそも、高顕は、今まで女性に優しくされた経験がほとんどないヲタニートであるので、少し優しくされると、必要以上の感激を感じてしまうわけである。高顕は急速に満智子に対する想いを寄せていく自分がそこにいることを実感しはじめていた。

 

「赤松さん、ありがとう。僕社会経験がほとんどないので、赤ちゃんと一緒なんですよね。見るもの全てがはじめてで驚いてばかりです。」

 

「うふふ、大きな赤ちゃんでちゅね。」

 

「赤松さんにお母さんになってもらいたいでちゅ〜。」

 

「あら、まあ。困ったわねえ。年上の赤ちゃんのお母さんになるなんて、どうしましょう。」

 

今日の東山不動産での辛い思いを癒してくれる甘い会話に心なごませていた高顕であったが、背後に殺気を感じ、振り返ってみるとそこには仁王立ちした鬼軍曹の純恵が立っていた。

 

「あんた、また赤松さんに媚び売ってんのね。なにが赤ちゃんでちゅ〜、よ。キモニートの赤ちゃんなんかいないわよ。さっさと図面仕上げないと、ここに東山社長呼ぶわよ。」

 

「あっ、はい。早急に仕上げますので。」

 

「で、それ終わったら、相続案件の相談の打ち合わせがあるから、連絡してよね。」

 

そう、純恵に言われて、うな垂れながら図面作成に取り掛かる高顕であった。

 

「うふふ、お母さんは足立先生ね。」

 

「お母さんというより、鬼上官のような感じだけど、足立先生がお母さんならやっぱり赤松さんがお嫁さんかなあ!」

 

満智子を前に調子に乗って、懲りずにとぼけたことをいう高顕であったが、図面作成のことが気になりだしたのか、我に返って、業務に取り掛かりはじめた。

 

図面作成にも手間取る高顕は、こちらも3時間がかりでようやく仕上げた。ぎりぎり相続案件の相談打ち合わせ時間に間に合いそうだったが、歩いてこっちに向かって来つつある、純恵の目からはすでに炎が吹き出ていた。

 

「あんた、いつまでかかってんのよ。今日はこの間のようなことがないように、事前に打ち合わせしてから相談にあたる予定だったでしょ。早く打ちあわせしないと依頼者が来るじゃない。事前レポートを読んで内容は頭に入れてきたわね?わたしは先に行ってるけどさっさと来るのよ。」

 

そう、純恵に吐き捨てるように言われて、一息入れる間もなく、今度は事前レポートを手にし、目を皿にして読む高顕であった。昨晩は、「風俗営業許可申請マニュアル」を読んでいる途中に眠くなり、そのままソファで眠ってしまい、相談案件の事前レポートまで読んでいなかったのである。

 

事前レポートによると、今回の相談者は南條小百合(61歳)とその娘の百合子(35歳)である。百合子は小百合の両親である徹(86歳)と慶子(84歳)の養子でもある。小百合は徹と慶子との実子ではなく、いわゆる藁の上からの養子すなわち、他人の子であるのに徹と慶子の子として虚偽の出生届を出していた可能性が高いという。徹と慶子には他に、長男として慶一(63歳)がいたが、すでに他界しており、またこの慶一も藁の上からの養子である。慶一には妻である陽子(59歳)と娘直子(29歳)がいるが、この陽子が、老年期痴呆と診断されていた徹について後見開始の審判の申立てをした。これに対して両親の財産を陽子達がすべて管理してしまって自分達に不利になるのではないかと思った小百合と百合子が、陽子とは折りが悪かった慶子を見方につけて、「故人となった慶一と徹及び慶子はもともと親子ではなかったため、よって陽子も直子も他人である」という主張を行い対抗できないかというのが今回の相談内容である。

 

「ふっ〜、今回の案件もややこしいなあ。関係図を書いてやっと理解したよ。でも、藁の上からの養子に関係する判例はどんなだったかなあ。ああ、昨日寝ないで調べておくんだった。」

 

「なにやってのよ。いつまで待たせる気?早く相談室に来なさい。」

 

しびれをきらした純恵が、高顕の耳をひっぱりながら、相談室へと高顕を連れていった。

 

「さあ、今回の件に関する判例、ちゃんと調べてきたわね。どう処理すればよかったのかな?」

 

そう純恵に問われて、必死に判例を思い出す高顕だったが、ふとした瞬間に記憶が蘇った。

 

「あっ!思い出した!」

 

「思い出したって?やっぱり昨日の晩、調べてなかったのね。」

 

「いや、今日の雀荘の仕事の方が気になって、事前レポートまでは読んでなかったんです。」

 

「しかたないわね。まあ、いいわ。その思い出した判例の内容は?」

 

「昭和50年4月の最高裁判例だったと思います。藁の上からの養子は、「嫡出子でないことは当然として、さらに、養子でもない」として、出生届としての無効はもちろんのこと、無効行為を転換し、出生届に養子縁組届の効力を認めることもできないという内容のものだったと思います。ですので、藁の上の養子については、誰でもいつでもまず、「親子関係不存在の訴え」を起して、相続権を否定することができうるということになるんでしたよね。ですから、小百合さんと百合子さんには、故人の慶一さんとご両親との親子関係不存在が認められる可能性が高いということで、回答し、後は提携弁護士事務所に振るという処理でよいのではないでしょうか?」

 

「相変わらず甘いわね。確かに最高裁判例ではあなたのいうとおりの判示をしているけれども、それでも、下級審では虚偽の出生届に養子縁組としての効力をあたかも認めるがごとく無効行為転換を肯定し、養親子関係を認めるものがあるわよ。」

 

「ええ、そんな。出生届だけで養子縁組の効力が生じるとすると、未成年者を養子にする場合は家庭裁判所の許可がいるのに、それがいらなくなってしまうということになるし、未成年者養子については未成年者保護の観点から家裁許可が必要とされているのに藁の上からの養子の場合に限って許可は要らないということを認めるということにもなり、論理に合わないと思います。また、藁の上からの養子を養子として認めると満15歳未満の子供についての代諾権者による代諾の要件も無視されることになるし、戸籍上嫡出子と記載されてしまっては、あくまでも養子であるのに、離縁ができないということにもなりますよ。」

 

「確かにそうね。」

 

「だいたい、普通の養子の場合は離縁できるのに藁の上からの養子の場合は離縁できないとすると不当じゃあないですか。さらに、戸籍上他人の嫡出子と記載されることにより、実親がわからなくなり、近親婚等の身分関係の混乱を招くことになるんじゃあないですか。韓流ドラマみたいになっちゃうじゃあないですか!」

 

「チェ・ジュウが好きなのね。」

 

「そんなこといってないですよ。チェ・ジュウより赤松さんの方が好きです!山名さんも好きです!」

 

「あら、私が入ってないじゃあない。よかった。キモニートに好かれてるって思うだけで鳥肌立っちゃうからね。ところで、婚約者のいる赤松さんになんかするつもりなの?それも、韓流ドラマみたいね。まあ、せいぜい頑張ってね。愛は奪い取るものよ!」

 

「それより、下級審ではどういう判断をしているのですか?」

 

「何、その態度。大阪人ならツッコミいれなさいよ。まあ、いいわ。平成3年の大阪高判は、「実親子関係と同様に親子共同生活を継続してきた場合に、何ら合理的理由もないのに、突如として親子関係を全く否定することが、一般の社会通念に照らし、信義則上、不当であると認められるような場合」には、例外的に嫡出子としての出生届を縁組の届出とみなすことができると解しているわ。平成9年の最高裁判決でも、親子関係不存在確認請求は認めながらも、可部裁判官の補足意見として、請求の実質が財産上の紛争に過ぎない場合は権利濫用として排斥される場合がありうることを明言しているわよ。」

 

「じゃあ、下級審で排斥される可能性があるわけかあ。普通に訴訟をするとしてもとても時間がかかるし、それに今回の場合は訴訟そのものが無駄足に終る可能性もあるんですね。」

 

「そうね。訴訟は回避するよう説得した方がいいかもね。さっきの続きだけど、血縁関係を過度に重視すると、その紛争の実質が財産をめぐる紛争でもあるにもかかわらず、慶一さん達が関与していない出生届を理由としてそれまで築いてきた身分関係が一挙に覆されることになるのね。それにそのことが、陽子さんや直子さんにまで影響が及ぶとなると、生活関係において極めて不合理かつ深刻な結果をもたらすことになるということも請求を排斥すべきとする考え方の理由のひとつなのよ。」

 

「なるほど。」

 

「平成14年1月の東京高判でも、ほぼ今回と同様のケースに対して、当該請求を「権利の濫用として許されないものというべきである。」との判示をしているわ。小百合さんも藁の上からの養子である可能性が高いわけなのに、慶一さんについてのみ親子関係不存在確認の請求をし、長期間に渡って形成、維持されてきた親子肉親関係の全てを否定しようとすることは妥当ではないという理由からね。陽子さんらに過大な精神的、財産的負担を強いることにもなり、その回復の手段もないので、戸籍の正確性や真実性を確保するという要請を考慮しても一般社会通念上許容することのできない不当な結果をもたらすものであるとしているの。だから、親子関係不存在確認の請求をしても下級審では退けられる可能性が高いわね。」

 

「じゃあ、今回の件についてはどのように回答すればいいのですか?」

 

「この議論の要旨を伝えて、できれば他の方法で財産争いにつき解決を図ることがよいのではという回答を示して、最終的に訴訟するか否かは依頼者に選択させるしかないんじゃあない。訴訟を選択しなかったら、私たちが継続して担当しましょう。私が思うには、結局のところ、今回の案件は、慶子さんと小百合さん、陽子さんの嫁姑争い的なものの延長じゃないかなあ。」

 

「僕もそんな感じがします。」

 

「本当にあんたにわかるの?まあ、いいわ。藁の上の養子とはいえども、慶一さんと小百合さんは兄妹だったわけだし、慶子さんと慶一さんだって紛れもなく親子だったと思うのね。幼いときに一緒に遊んだ兄との思い出や、幸せだった親子団欒を思い出すようにすれば心のわだかまりも解けて来て無意味な争いを止めようという気にもなってくるかも知れないわね。法律で解決できる問題ではなく、心の問題だと思うわ。さあ、一応、回答案がまとまったから依頼者をよんでらっしゃい。」

 

「はい。」

 

純恵と高顕は、訴訟しても、下級審で請求が排斥される可能性が高いことを、小百合と百合子に何度も丁寧に説明し、陽子との話し合いで解決することを勧めた。

 

「そんな、私たちが裁判で負けるわけないでしょう。あんたらいうてることおかしいわ!裁判やったら勝つにきまってるでしょう。裁判しかないやないの、陽子らを懲らしめるのは!裁判せな気がすまんのや。私らは。」

 

説明を聞き終えた後、小百合が声を荒げながら、純恵と高顕にいった。

 

「いや、そうはいいましても、感情だけで進めてもろくなことないんじゃあないですか?」

 

熱心に説明したのにその意図をわかってもらえないことを歯がゆく思った高顕は、売り言葉に買い言葉的に少し大きな声で興奮しながら小百合にそういった。

 

「あんたら、どっちの見方なん?まあ、あんたらは弁護士やないから、裁判の手続はでけへんのやね。裁判になったら金になれへんからそんなこというんでしょう?もうええから、はよ、知り合いの弁護士紹介してえな。あんたらと話ししても埒があかんから。」

 

 

小百合の捨てセリフを聞いた高顕は顔が紅潮し、さらに何か言い返そうとしたが、それを遮るように笑顔を見せながら純恵がいった。

 

「小百合様、わかりました。では、当事務所と提携している弁護士事務所をご紹介いたします。後で、紹介状をお渡しいたしますので、おかえりの際に受付の方で受け取って頂きますようお願い申し上げます。今日はご来所頂きどうもありがとうございました。」

 

結局、依頼者が訴訟することを選んだため、純恵は、懇意にしている法律事務所に今回の件を送致することにした。

 

不機嫌そうにぶつぶつ言いながら事務所を後にした小百合と百合子を、エレベーターの前まで送った純恵と高顕はどっと疲れた表情で執務室に戻った。

 

「なんか空しいなあ。小百合さん達は単に陽子さんととことんまでケンカしたいだけなんじゃあないかなあ。何があっても裁判するとか、裁判しかない、とかいってたけど。」

 

「そのようね。裁判の意味なんかわかってないんでしょうね。まあ、いいんじゃあない。あの人達がそう判断したんだから。それより、あんた新しい部屋は見つかったの?」

 

「お陰様で、京阪樟葉駅の近くにワンルームマンションを見つけました。来週引越しします。」

 

「あら、そうなの。私はタワーマンション樟葉ヒルズに両親と妹と住んでるのよ。近所じゃない。じゃあ、引越し祝いで、あんたのところで鍋でもしようかなあ。来月の3週目の金曜日に行くから、食材とお酒を買って準備しとくのよ。」

 

「なんで僕が買わないといけないんですか!引越し祝いなら足立先生が買って持って来てくださいよ。」

 

「あら、満智子ちゃんと政子ちゃんも誘って連れて行くわよ。」

 

「満智子さんも来るんですか。じゃあいいかなあ。」

 

「美女三人に囲まれて引っ越しのお祝いしてもらえるんだから、食材代とお酒代ぐらい安いもんじゃあない。ちゃんと準備しておくのよ。」

 

「美女2人と鬼一匹だと思うんですけど。」

 

「あんた、まだまだ見る目がないわね。まあ、あんたに私の女ぷっりを理解してもらったところで何の得にもならないから別にいいけど。」

 

「あっ、妬いてるんでしょう?先生がどうしてもっていうんなら、彼女にしてあげてもいいけど。よく見ると可愛いところもあるし、年上にも少し興味があるから。」

 

「キモイこといって、調子に乗るんじゃあないわよ。このアニヲタニート。マジで顔面打ち砕くわよ。」

 

「やっぱり、やめる。平和主義者なので、暴力女の嫁はいらんとです。」

 

「あんたのところに嫁なんか来ないわよ。」

 

いつもながらの、能天気でオバカな2人の会話を聞きながら、横にいた満智子と政子はただ、横で見合わせてくすくすと笑うだけであった。こうしてニート高顕は怖い人達に怒鳴られながらも、一歩一歩着実に脱ニートの道を歩みはじめたのである。

 

 

  

 

9.ヒッキー太郎!

 

「ああ、やっと今日も仕事が終った〜。さあ、帰ってゆっくりしようと!」

 

ある日の午後5時、高顕は業務時間が終了したのと同時にそう言いながら帰り支度をしようとしていた。そんな高顕の右手を純恵がいきなり掴んで帰らせまいとした。

 

「そうはいかないのよ。今日はあんたまだ仕事があるのよ。」

 

「ええ、なんで?ちゃんと書類も作ったし、今日はもう仕事ないはずなんだけど。」

 

今日は高顕が以前から楽しみにしていたTVアニメ「ヒッキー太郎!」の最終回がゴールデンタイムに放送される。これを見る為に高顕は早めに仕事を終らせようと今日は黙々と得意先訪問や書類作りに励んだわけである。予定の仕事を終らせたのに「まだ仕事がある。」と純恵に言われて高顕は純恵に手を掴まれたまま不機嫌そうな表情をしている。

 

「今日はトリニティで講義をしないといけないんだけど、助手の子が急病で、レジュメを配ったりしてくれる人がいないのよね。そこで、あんたの出番なわけ。わかった?」

 

ようするに純恵は、事務所の仕事ではない仕事を高顕に手伝わそうとしているわけである。これでは、いくら恩師で先輩の純恵の申し出とはいえ高顕が納得するわけがない。この何ヶ月間か夢中になってずっと見続け来た「ヒッキー太郎」最終回があるわけであるから何がなんでも純恵の申し出は断らないといけないと高顕は思った。

 

「いくら足立先生の命令とはいえ、今日は、楽しみにしていた「ヒッキー太郎」の最終回があるから、お手伝いするわけにはいかないです!僕、帰ります!」

 

顔を真っ赤にしながら、真剣な表情で純恵の申し出を断った高顕であるが、純恵は不敵な表情を浮かべた後、せせら笑うようにいった。

 

「ふん。何が、「ヒッキー太郎」よ。馬鹿じゃあないの。いい年して。つべこべ言わずについてくるよの。」

 

純恵は、掴んでいた高顕の手を強引に引っ張りうむを言わせず、高顕を事務所の外に連れ出した。

 

「痛い、痛い。そんなに手を引っ張らないでよ。わかったから、いけばいいんでしょう。いけば。」

 

観念したのか高顕はヒッキー太郎を見るのを諦めて純恵について行くことにした。

 

「わかればいいのよ。わかれば。キモヲタが見るようなTVよりも私と一緒にいる方が楽しいでしょ?さあ、いくわよ〜。」

 

そういいながら高顕の手を握ったまま純恵と高顕はイマニジアの事務所が入っているビルの地下へと向かっていった。エレベータに乗っている途中、純恵に手を握られていることに気付いた高顕は純恵の柔かい手の感触を確かめながら嬉しそうにして黙っていた。

 

「あれ?あんた!なんで私の手を握っているのよ。離しなさいよ。いやらしいわね!」

 

「この方が自然でしょう?それに、だいたい、先生の方から手をつないできたんじゃない。」

 

「そんなわけないでしょう。いいから離しなさいよ。この痴漢!」

 

純恵は高顕の手を振り解いて、強烈なメンチを高顕に放った。

 

「ごめん。」

 

「こんどやったらタダじゃあ済まないからね。さあ、地下駐車場についたわよ。トリニティで講義がある時は車で来てるの。終ったら送って行ってあげるわ。さあ、乗って。」

 

純恵は地下駐車場に停めてあった愛車のBMWに乗り込んだ。

 

「なにしてんのよ。鍵開いているから早く乗りなさいよ。」

 

外車に乗るのが初めての高顕は、そう純恵に促されてもなぜか、乗るのを躊躇している。純恵に助手席のドアを開けてもらって手を引っ張られるようにしてようやく純恵の車に乗った。

 

「世話のやける子ね。」

 

「いや、BMWに乗るの初めてだから緊張しちゃって。」

 

「あらまあ、可愛いわね。それはそうと、またいつまで手を握ってるのよ。運転できないでしょ。離しなさいよ。」

 

「ああ、ごめんなさい。」

 

純恵は、車に乗り込むとサングラスをかけて、エンジンを吹かした。愛車を走らせ、曲がりくねった地下道から地上に出て、トリニティのある梅田方面に向かった。仕事ができて、知的で美人で、若くしてBMWを颯爽と走らせる純恵の横顔を高顕はため息まじりで見つめていた。

 

「何さっきからそんなに見てるのよ。何か私の顔についているの?それとも見惚れているの?」

 

「いや、足立先生、カッコイイなあって思ってつい見つめてしまいました。いいなあ。BMW。僕も欲しいなあ。」

 

「私がいいのか、この車がいいのかどっちなのよ。まあ、軽の中古車ぐらいならすぐに買えるようになるわ。がんばってお金貯めなさいね。」

 

本町からトリニティがある大阪駅前ビルまでは車で10分足らずである。あっという間に大阪駅前ビル地下駐車場についた2人は純恵の車を降りて、エレベーターに乗り、トリニティの教室のあるビルの23階を目指した。

 

「ああ、久しぶりだなあ。トリニティ。でも今日僕何をすればいいんですか?」

 

「あっそうそう、このレジュメを持ってて。私が授業の中で「配ってください。」っていうからそう言われたら受講生に配るのよ。あと、授業中、あんたに向かってウインクするからウインクされたら黒板を消すの。帰りは教室を掃除してね。それ以外の時間は前の席で私の講義を聴いていいわよ。」

 

「ええ、それぐらい自分でできるじゃん!横着な先生だなあ。」

 

「いつもは助手の人がやってくれるのよ。つべこべいわずにやってよね。」

 

エレベーターのドアが開いて23階に着いた。トリニティの受付を過ぎると、純恵の前に受講生が集まってきた。高顕がトリニティに通っているときから純恵は受講生から絶大な人気があったわけだが、その人気は今も衰えてないらしい。受講生から質問責めに合う純恵であったが、「ちょっと待ててね。」といいながら高顕とトリニティの事務所の中へと入って行った。

 

「いや、足立先生、今もすごい人気ですね。僕がいた時から受講していた人もまだいるみたいだけど、僕と一緒にいたら変な噂立てられないですか?」

 

「誰も私があんたなんかと付き合うと思うわけないでしょう。「ああ、京極のヤツ、足立先生の見習いになったんだなあ」ぐらいにしか思わないわよ。それより、私、質問に答えてくるから授業が始まるまであなたはここで待っててね。」

 

そう言い残して純恵は高顕を残して受講生のいるサロンの方へと向かっていった。一人残された高顕は事務所の外からサロンの方を見ると多くの受講生の質問に答えている純恵の姿があった。かつての自分と同じように純恵に怒られながら指導されているニートのような若い男もいた。そんな光景を見ながら少し懐かしくなってきた高顕であった。

 

午後630分になり授業開始の時間となり、純恵が事務所に戻って来た。

 

「さあ、時間になったから教室に行くわよ。ちゃんとレジュメ持ってるわね。」

 

高顕と一緒に教室へと入った純恵は、高顕を真ん前の席に座らせてから教壇に立った。

 

「こんばんは。皆さん。時間がきましたので講義をはじめます。今日は基礎法学の2回目ですが、法律案件処理についてお話いたします。助手の京極君、皆さんにレジュメを配ってください。」

 

そういきなり純恵に言われて、よたよたと立ち上がり高顕は受講生にレジュメを配った。

 

「あのう、すみません。3枚足りないんですけど。」

 

受講生にそうクレームをつけられ、高顕を睨んだ純恵であった。

 

「助手の京極君、レジュメ3枚足りないらしいわよ。ちゃんと数えて配ったのかなあ。行政書士はたくさんの書類を作成し、お役所なんかに提出するのが仕事だから紙の枚数ぐらいはきちんと数えることができなければなりません。皆さん、京極君のような紙も数えられないような行政書士だけにはならないようにしてくださいね。」

 

純恵がそういうと、受講生達は一斉に高顕の方を見てクスクスと笑った。授業のネタに使われた高顕は、ちぇっ!という表情をしながら純恵の方を見たが、純恵に睨み返されて大人しく足りなかったレジュメを受講生に渡し最前列の席に座り直した。その姿をニヤッとした表情で見ながら純恵は講義を続けた。

 

「レジュメに書いてあるのは、法律案件処理一連の流れを表したものです。法律は、法律要件・法律効から成り立っていて、要件に合致する事実があると、当該事実が裁判所なり他の官公署から事実認定されることによって権利義務の発生・消滅・変更等といった効果が発生し、強制されるという流れのもとで処理されることになるということだったわね。」

 

受講生は皆真剣な眼差しで純恵を見ている。行政書士の世界で成功している女性行政書士の元で授業を受けられるということが受講生のモチベーションを高めることにもなっているのである。特に女性の受講生は憧れにも似た感情を純恵に対して持っており純恵のいう言葉をひとことひとこと噛み締めるように聞いている。

 

「だから、法律案件処理をする場合にまず必要なのは、請求内容の確認です。次に、請求を実現させる法律効果を生じさせるために必要となる法律の探索と要件の確認、そしてその要件が不明瞭、結論が不当である等の場合に限って、反対意見を考慮しつつ、妥当な結論を導き出すために法律解釈を行います。ここまでの作業で規範が明らかになったら、要件に合致する事実を確認し、そして要件に当てはめ、結論を出すということになるわね。行政書士業務の場合は訴訟等と違い、手続を行う前に要件に合致する事実を作って、望む効果を導き出すことも可能なので、当該要件に合致する事実を作るための、相手方・関係各所との交渉を行なうということも必要になります。交渉過程や相談時にはカウンセリングの手法が必要となるときもあるから合格後は臨床心理学も勉強するといいと思います。では、法律解釈を行う場面において、どのような場合にどのような解釈を行うのだったかしら。皆さんの先輩でもある助手の京極君に模範解答を示してもらいましょう。」

 

いつの間にか助手にされ、しかも受講生でもないのに、なぜか、純恵に当てられてしまった高顕は、右手を左右に振って拒否のポーズをした。

 

「あら、京極君どうしたの?後輩の皆さんの前で現役行政書士事務所員らしい立派な答を聞かせてくださいね。京極君は、皆さんと同じくトリニティで去年まで受験生をしていたのですが、超難関だった昨年の試験で見事合格して今は私の事務所で補助者として頑張っています。ですのでさぞかし参考になる意見を聞かせていただけることと思いますので注目しましょう!」

 

純恵がそういうと受講生の視線がまた高顕に集まった。純恵は高顕の傍にやってきて、小声で質問に答えるよう催促した。

 

「何やってんのよ。早く答えるのよ。受講生に答えさせて恥じかかせたら悪いでしょう。だから、あなたがやるのよ。」

 

「ええ、僕レジュメ配りに来ただけなのに。それに僕だって恥じかきたくないよ。可愛い女性の受講生もいるのに。」

 

「可愛い受講生がいたってあんたには関係ないでしょう。彼女になってくれるわけでもないんだから。早く答えなさいよ。さあ、皆さん、昨年度の合格者の京極君が答えてくれます。期待しましょう。」

 

しかたなく、立ち上がった高顕は背中を丸めながら話しはじめた。

 

「用語の枠を超えて条文適用を行う類推解釈・準用、用語の枠内で意味を広げて解釈する拡張解釈は、適用すべき条文がない場合に行われる解釈手法で、これもできない場合は、民法12項等の一般条項を使用するという形になります。ただし、一般条項による場合は、その性質がもともと抽象的であるので、それを補う理論構成を適確・明確に作り上げる必要があります。逆に、ある条文の適用を排除したい場合や適用範囲を狭めたい場合は条文外要件の設定を行なったり、反対解釈または用語の枠内で意味を狭めて解釈する縮小解釈を行なったりします。文言不明瞭な場合は総合的な解釈を行なうということになります。」

 

「さすが、私の教え子ね。では、その他解釈にあたって注意する点は?」

 

「解釈にあたっては、悪い奴が得しないように、正義・公平にかなうような配慮、相手方を納得させるため、あるいは、所論を検算するために反対利益に対する配慮が必要となります。ただ、これらの解釈等を行なうのは、条文が古いとか、ある理由からもとから条文を抽象的・曖昧にしているので、現代の事情あるいは個別事案にそのまま適用すると妥当な結論を導き出せない場合の最終手段として行なうべきものであって、元から、妥当な結論を導きせる条文があれば、それを素直に適用すればよいということになるわけです。」

 

「他には?」

 

「法律構成上、注意しなければならない他のポイントは、形式的正当性と実質的正当性を考慮するという点です。形式的正当性とは、「条文」・「判例」・「条文にはないが争いなく認められている理論」に基づく法律構成であるということです。形式的正当性を考慮する場合は、条文の趣旨から理論を考えるということも有用だと思います。また他の条文で同趣旨の条文を補助的な理論根拠に使用するという方法や適用条文の前後の条文から理論を考えるという方法、同じ法律の違う条文を複数あげ、当該法律全体が目指すベクトルを明らかにして理論づけ行うという方法も有用だと思います。」

 

「形式正当性だけではなくて、実質的正当性を考慮する必要もあるわね。では、実質的正当性を考慮する際のポイントは?」

 

「実質的正当性のポイントとして必要性、つまり、この理論を取ればメリットがあるということと許容性、つまり、この理論を取ればデメリットが少ないということを理論的に強調するという点が重要となります。所論を採用すればこんなに大きなメリットがあって、デメリットが少ないという点を強調することによって理解が得られやすくなるということになると思います。」

 

「では、解釈が完成した後に注意する点は?」

 

「解釈が完成したら、解釈検算を行います。完成した解釈で他の事件ケースを処理した場合、妥当な結論が出るかどうかを思考実験します。同種の他の事件を適用して不当な結論となった場合は、もう一度解釈をやり直す必要があります。同種他事件でも妥当な結論が導き出された場合は、次に条文に完成した解釈を仮想的に組み込んでおかしなところがないか確かめ、大丈夫なら他の法律の条文との整合性を考えます。ここまでできたなら、検算も完了したと認識し、解釈手続を終えることになります。」

 

「いいわよ。去年の難しい試験を突破しただけのことはあるわ。」

 

そういいながら、笑顔で高顕の元にやってきた純恵であるが、高顕の耳元で小声でなにやら話した。

 

「あんたね。優等生のような答をしないで、もっとオバカな答をしなさいよ。じゃないと受講生の参考にならないでしょう?あんたがおかしな答をすることによって「ああ、あんな奴でも合格するんだったら私でも合格できる!」ってみんなが思えるんじゃあないの。」

 

「ええ、必死で答えたのに、バカになれってヒドイよ。」

 

「あなたの後輩のためでしょう。融通が利かないわね。まあ、いいわ。さあ、皆さん。法律解釈はこのように妥当な結論を導き出すために行うわけだけど、解釈をするにあたって、結論が妥当であるならば、結論を先に決めてそれから条文との整合性をつけるため法律構成をすればよいという人もいるわね。となってくると、法律解釈とはあくまでも単なる条文操作、言語操作であって、最終的に一番重要となってくるのはその妥当な結論を妥当であると決めるための価値判断ということになると思うんだけど、じゃあその価値判断の基準とは何?価値判断の基準がしっかりしていないと、どのようにでも解釈できる、白を黒に変えられるとなってしまうからね。さあ、京極君答えてね。」

 

「嫌がらせだなあ。そんなのわからないよ。」

 

「何か言った?さあ、早く答えるのよ!」

 

そう純恵に急かされ、やれやれという表情で高顕は答えた。

 

「価値判断の基準は結局、法解釈学以外のところにあると思います。例えば哲学や民俗学、または参与観察、質問用紙調査などの調査技法や推測統計学、推理モデルといったような科学的分析装置を有している社会学とか。価値判断基準だけは法解釈学の言葉だけでは語りきれない部分があると思います。だから、法律専門家は法解釈学だけではなくて、他科学や世論の動向等にも気を配る必要があると思います。」

 

「まあいいでしょう。では、次、実践編ね。」

 

「まだ、やるの?」

 

たまらず高顕は叫んだ。

 

「やるのよ。今確認した解釈技法を使って事例を考えてみるのよ。いいわね。」

 

「わかったよ。」

 

「では、皆さんもよく聞いていてね。レジュメにも書いてあるけど一応、口頭でも確認するわね。何かの商売をしているAさんが、大きい取引をする予定があって、お金が必要になるということで、代理人Bに頼んでAの土地を売ってもらうことになったとしますね。でも、Bが全然動いてくれないのでAが急かしたら、次の日、BがCに売ったとAにいいました。ほらね!とBがAに契約書も渡してくれた。これでお金が入ると思ったAは安心して仕入先Dと取引しました。その後、Dに対する支払期日が迫ってきたので、AがCに土地代金をくださいませんかといったら、「いや、あれは、Bとの偽装取引で、民法94条上の虚偽表示だから無効だ。おまえがBを急かすから困ったBが俺に虚偽表示を持ち掛けただけだ。そういうことだから金は払わん!」といわれました。」

 

純恵が事例の中で挙げた民法94条を調べるため、受講生達は一斉に六法全書を開いた。

 

(民法 94 「相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。」)

 

「六法で民法94条は確認できたかな?では、続きね。Cからお金がもらえず、困ったAさんは以前に会社設立手続をしてもらった行政書士Eに相談しました。さあ、京極君がこのE行政書士だったとしたら、どうする?」

 

「ええ、どうするって言われても。。」

 

「あんた、一応プロなんだから、もっと真面目に考えなさいよ。もう。あのね、こういう場合、民法101条1項みても、「代理行為につき、瑕疵があるかどうかは実行行為をした代理人につき決定する。」としか書いてないわけよね。文字どおり条文を読む文理解釈だけだと、当該代理行為は本人に帰属するので、本人AがCと虚偽表示を行ったことになるから、やはり契約は無効となって、お金は貰えないということになるわよね。」

 

(民法 1011 「意思表示の効力が意思の不存在、詐欺、強迫又はある事情を知っていたこと若しくは知らなかったことにつき過失があったことによって影響を受けるべき場合には、その事実の有無は、代理人について決するものとする。」)

 

「そうです。」

 

「そうですじゃあないわよ。こういう場合、文理解釈しかしない行政書士が、「いや、こういう場合はお金貰えませんよ。代理人がやった虚偽表示もあなたがやったことになるんです。残念ですね。はいさよなら・・。」というような返答をしていいのかということになるわね。」

 

「そりゃそうです。。」

 

「じゃあ、京極君ならどう解釈するの?」

 

「う〜ん。」

 

「う〜んじゃあないわよ。じゃあ、早乙女さん、答えて。」

 

考え込む高顕に見切りをつけた純恵はトリニティの受講生である早乙女洋子を指差した。

 

「この場合、1011項をそのまま適用すると、妥当でない結論になるため、この適用を排除したいわけですが、そういう場合は、さっき、京極さんに教えてもらったように、条文外要件を別途設けるという解釈方法を使えばいいと思います。例えば「原則として、瑕疵ある代理行為かどうかは、代理人についてみるが」ここまでは1011項の内容ですが、これに加えて、相手方Cが虚偽表示無効を主張するためには、「本人Aが当該通謀虚偽表示につき悪意ないし有過失であることを必要とする」という条文外要件を設定します。そして、本人AがBC間の通謀虚偽表示につき、善意無過失であるならば、BCの行為は本人に帰属せず、CはAに対して虚偽表示によりBC間契約の無効を主張できないと解釈します。」

 

難解な法律用語が講義の中で出てくるたびに受講生達は法律用語辞典をパラパラと忙しそうにめくっている。

 

(「瑕疵→欠陥のことを指す。:善意→ある事項につき知らないことを指す。ちなみにある事項につき知っていることを悪意という。:過失→注意義務違反、つまり不注意を指す。」)

 

「ありがとう、早乙女さん。早乙女さんの条文外要件の設定で結論が妥当になったとしましょう。ただ、思いつきで要件を勝手に継ぎ足すのは御法度なので、こういう要件を足していいという法律上の根拠つまり、形式的正当性が必要になります。じゃあ、どうする?早乙女さん、続けて。」

 

「先の結論を根拠づけるために、民法12項の信義誠実の原則を使って形式的正当性を理論づけるということになります。ようするに本人が虚偽表示につき善意無過失であれば、民法12項上、つまり信義誠実の原則上、相手方は無効を主張できないとするわけです。これで一応の解釈は完成したと思います。」

 

(民法第1条2項 「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」)

 

「さすがね。この間の模試でトップだっただけのことはあるわ。でも、民法12項のような一般条項を持ち出す場合は、もっと精緻な理論構成が必要になるわね。なぜなら、安易に一般条項を使うといつでもどこでもこれが使えるとなって結論をどうにでもできるからね。そうなると白を黒にできてしまうから、法的安定性を欠くということになるのでしょう?だから、一般条項による形式的正当性理由はツッコミが入りやすいということになるの。じゃあ、京極君、どうする?」

 

早乙女洋子の方ばかりをぼっ〜としながら見ていた高顕を再び純恵があてた。

 

「またかよ〜!これ以上、恥じかかせないでよ。」

 

純恵にあてられ、我に返った高顕は大きな声を上げながら、ふてくされたような顔をしながらいった。

 

「このまま終ったら後輩の前でみっともないでしょう。最後にビッシと先輩らしいところを見せなさいよ。」

 

ふてくされている高顕の傍にやってきて、耳元でささやくように純恵がいった。

 

「しかたないなあ。じゃあ、僕は、早乙女さんとは別の理由を考えてみたいと思います。とりあえず、こういう場合は、Aを救済すべきである、Cから金貰える!という結論は、これでいいものと思います。Aは不誠実なBCに騙されたようなものだから、利益衡量してみて、善意無過失のAの利益を守るべきか、不誠実なBCの利益を守るべきか考えても、救済すべきはAであるという結論は実質的正当性に適うと思います。」

 

「実質的正当性はそういう結論でいいとしても、じゅあ、形式的正当性つまり、その結論を裏付ける条文はどこにあるの?」

 

「困ったことに、Aを救済するための条文がないんです。そこで、妥当な結論を引き出すための条文がない場合の解釈手法、さっき答えたように、拡張解釈、類推解釈等を使うということになります。一般条項を使ってもいいと思うけど、その場合は、足立先生が説明したように細かな理論構成が必要になってしまいます。そこで、Aを欺く不誠実なBは、代理人の資格はないと考えます。」

 

「でも、ここでBを無権代理人としてしまうと、やはりBC間の取引は無効になっちゃうからダメよね。」

 

(民法 103 「代理権を有しない者が他人の代理人としてした契約は、本人がその追認をしなければ、本人に対してその効力を生じない。」)

 

「代理人ではなくて使者だと考えます。そうすると、BCの合意の上での偽装契約つまり、虚偽表示ではなくて、CがAに対して行った買う気もないのに買うといった民法93条上の心理留保と捉えることができます。」

 

(代理人と使者 「いかなる法律行為(契約等)をするかを本人が決定し、その意思表示を単に伝達するだけの者を使者といい、代理人は使者と違って、代理人自身の判断でいかなる法律行為(契約等)をするか決定し、意思表示を行う。」)

 

「民法93条上の心理留保に着目したのね。それでいいわよ。では続きは?」

 

(民法 93 「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。」)

 

「そこで、民法93条を本ケースに類推適用すれば、AがCの真意を知りまたは知り得る場合でない限り、相手方Cの意思表示は有効であると解することができ、CはAに土地代金を支払わなければならないという結論を導き出すことができます。93条を使って類推解釈しているので、形式的正当性にも適っていると思います。結論が出たら、後は念のため、この見解に合致する判例等がないかどうか調べてあれば、C宛ての内容証明を作成し送付するということになります。」

 

「判例の見解もほぼ同様ね。OKよ。はじめに京極君が説明した解釈の型どおりにもなってるわね。これでみんなも、実践感覚が掴めたかなあ?これから勉強する判例や学説についても、今日やった型にはめて考えるようにしてね。では、ここまでの内容を問題集で確認したいと思いますから、皆さん、問題集の52頁を開けてください。」

 

純恵の掛け声とともに問題集を開き、問題を解きはじめた受講生を見て、高顕は一番前の席でほっとした表情で息を吐いた。受講生が問題を解いている間に純恵が高顕の傍にやってきた。

 

「お疲れ様。ありがとう。事務所の方で休んでていいわよ。終ったら迎えに行くから。」

 

そう純恵に言われて高顕は教室を出て事務所へと戻って行った。

 

トリニティの事務所で休んでいた高顕は、今日の講義を純恵が高顕を見せたのはもしかしたら、仕事に取り組む姿勢を再確認させるためではないかとふと思った。イマニジアに初出勤したときの失敗以来、いまだに慣れてない相談業務に悩むときもあった高顕であるが、そんな悩みにヒントを与えるために今日この場に高顕を連れてきたのではないかと感じた。高顕に厳しくあたる純恵ではあるが、心の底ではいつも自分のことを気にかけてくれているのかもしれないと思った。

 

2時間半の講義が終り、純恵がトリニティの事務所に戻ってきたのは午後9時過ぎであった。

 

「ああ、やっと今日も終ったわね。見たいTVがあったのに付き合わせてごめんね。お詫びに食事にでもいこうか?」

 

純恵を待っている間、純恵の優しさを感じていた高顕は黙ってうなずいた。

 

大阪駅前ビルの30Fにあるレストラン「大阪シティビュー」で食事をすることになった純恵と高顕は、トリニティの職員に挨拶をしてトリニティを出た。エレベーターに乗り込み30Fに着くと大阪市内の夜景が目の前に広がっていた。大阪シティビューに入った2人は少し疲れた表情でメニューを見ながら注文をした。

 

「景色が綺麗だなあ。足立先生はいつもこんなにいいところで食事してるんですか?」

 

「いつもじゃあないわよ。たまにね。でも、あんたみたいな男とでもこんなところで食事するとちょっといい感じになるわね。」

 

そう、純恵に言われて外の夜景を見るのを止めて下を向いてしまった高顕であった。

 

「僕も早く、お金を貯めて、お洒落をして、アキバ系から卒業して、いい車を買って、足立先生に「あんたみたいな男でも」なんていわれないようにしたいなあ。とりあえず、アキバ系からは卒業するようがんばるよ!」

 

「何がアキバ系よ。あんたそれでも大阪人なの?大阪人なら日本橋系っていいなさい。ポンバシ系って。でんでんタウン系でもいいけど。」

 

「でんでんタウン系なんて誰もいわないよ。変なところにこだわるなあ。」

 

「でもまあ、アニヲタでゲーオタのヒッキーニート君を連れてちゃあ、私の女の価値も下がるかもね。」

 

純恵のそんな血も涙もない言葉を聞いて高顕は涙目になってきた。

 

「そうですよね。確かに今のままじゃあ、僕と一緒にいたら足立先生が回りから変な目でみられちゃうもんね。」

 

悲しそうな表情でさっきよりもさらに下を向いて語る高顕を見ていてさすがの純恵も少し言い過ぎたと感じた。

 

「そんなに悲しそうな顔しないでよ。ごめん、いいすぎたわ。私ね、あなたのこと、心底嫌いなわけじゃあないのよ。それに男は服装や車じゃないわ。今日の教室でのあなた結構カッコよかったわよ。女性の受講生も素敵な先輩って感じで尊敬の眼差しをあんたに向けてたわよ。」

 

「ええ、そうなの!先生の質問に答えるので精一杯だったから気付かなかった!これから授業のある日は毎日、足立先生について行ってトリニティで彼女見つけようかなあ?」

 

「何また調子に乗ってんのよ。私の教え子に手を出したら許さないわよ。わかったわね。」

 

立ち直りの早すぎる高顕に純恵は再び強烈なメンチを切った。

 

「じゃあ、足立先生でがまんするよ。」

 

「私でがまんする〜?そこの窓から突き落とすわよ。あんたが私と付き合うなんて50億年早いんだから。」

 

「いくらなんでも50億年って。」

 

50億年思い続けることができるんだったら付き合ってあげるわよという意味よ。」

 

「そりゃ、無理だ!」

 

「バカ。やっぱりだめね、あんたは。もうちょっと女心がわからないと彼女はできないわよ。」

 

「法律よりも難しいなあ。女心って。」

 

「それにしても大阪の夜景もこうしてみると綺麗ね。」

 

食事を終えた後、純恵の車で帰路についた2人は、また、たわいのない話をしながら梅田から高顕の新居がある樟葉に向かった。午後10時を過ぎていたせいか、帰り道である国道1号線は車の数も少なくあっという間に樟葉についた。

 

「あんたの新居この辺だよね。あれかなあ?結構いいマンションじゃあない。今度の引越し祝いが楽しみね。今日は遅くまでごめんね。」

 

そういいながら、純恵は車を高顕の自宅前で止めた。

 

「送ってくれたお礼によかったら、上がってお茶でも飲んでいきませんか?」

 

何気なく純恵を引っ越したばかりの部屋に来るよう誘った高顕であった。

 

「何、うら若き女性を部屋に誘ってんのよ。何する気よ!」

 

「そんなことは考えてなかったんだけど。ただ、お礼にお茶をっていっただけだよ。」

 

「何それ!もっと言い方あるでしょう。まあいいわ。だいたいね、嫁入り前の乙女が一人暮らしの男の部屋に一人でいけるわけないでしょう。今度、みんなで来るからその時お邪魔するわよ。ちゃんとお部屋掃除しとくのよ。じゃあ、今日はありがとうね。また明日。」

 

純恵はそういうと助手席のドアを閉めて、これまで見せたことのないような柔らかな笑顔で高顕に手を振りながら車を発進させた。

 

颯爽とBMWで去って行く純恵を見えなくなるまで手を振りながら見送った高顕はなぜか寂しい気持ちになりながらマンションの階段を上がって行った。

 

 

 

 

 

10.プリクラ

 

高顕の今日の仕事は、新規雀荘営業許可申請のための営業所計測業務である。東山社長に怒鳴られたの一件からこの計測業務は高顕のトラウマとなっていた。

 

「皆元所長。」

 

「なんや、京極君。あっ、メジャーかここにあるで。ほら。はよ雀荘行って、今日も頑張って計ってこいよ。」

 

「いや、メジャーはもう持っているのですが。」

 

「ほな、なんやねん。」

 

「あのう、実は、できれば、計測は2人でやりたいのですが。足立先生と一緒に行ってはいけませんか?」

 

「甘えとったらあかんで。計測はひとりでやるもんや。2人でやったら、その時間に足立ができる仕事がでけへんようになってもったいないやないか。なんとか工夫してひとりでやったらんかい!どうしてもメジャー一人で使いこなされへんっていうんやったら、電子メジャーを使えよ。これやったらひとりで計れるで。ほら。」

 

そういって、皆元は高顕に電子メジャーを手渡した。電子メジャーとは、電卓のような形態をしたもので、その先端を壁に向け、本体についているボタンを押すと、超音波が壁にぶつかり、跳ね返って電子メジャー本体に戻るという原理を利用して、瞬時に距離・面積・体積が計れるという優れモノである。風俗営業許可申請専門行政書士の多くが使用している定番グッズであるが、これも慣れるまでに時間がかかり、使いこなすためには若干の練習が必要である。

 

「いや、電子メジャーも使ってみたのですが、何度やっても計測値が違って、結局普通のメジャーの方を使ちゃうんですよね。」

 

「嬉しそうにいうなよ。それはおまえがとろいだけやないか。まあ、なんでもええからひとりでやれよ。わかったな。」

 

「あっ、はい。」

 

結局、皆元に取り合ってもらえず、しかたなしに計測をする営業所がある京阪京橋に向かうための準備をはじめた高顕の傍に純恵がやってきた。

 

「あら、元気なさそうね。所長に計測を一人でやれっていわれて拗ねてるの?」

 

「いや、別に拗ねてるわけではないんですけど。仕事ですから。」

 

「少しは大人ぽくなってきたわね。よかったら、手伝ってあげるわよ。所長には内緒だけど。」

 

「えっ、ほんとですか?」

 

「声が大きいわよ。所長に聞こえるじゃない。私、ほんとうは大阪府庁にいかなければならないんだけど、その前に、一緒に京橋に行って手伝ってあげるわよ。」

 

「いやあ、嬉しいなあ。じゃあ、今から一緒に行きましょう!」

 

さっきまで、暗そうな顔をしていた高顕だが、急に鼻歌まじりで出かける準備をしだした。

 

「準備できたわね。じゃあ、行こうか。」

 

「は〜い!」

 

仲のよい姉弟のように、事務所を後にした純恵と高顕であったが、そんな姿を少し寂しそうな眼差しで見つめる満智子の姿があった。

 

計測現場についた純恵と高顕は、現場を見て、これなら2人でやれば計測はすぐに終ると直感した。凹凸の少ない営業所であったからである。2人でメジャーの端を持ちながら、計測をはじめたが、嬉しそうに計測している純恵と高顕を見て、依頼者である雀荘開業予定者の郡山が話し掛けた。

 

「あんたら、嬉しそうに仕事してるなあ。まあ、結構なことやなあ。なんか羨ましいなあ。」

 

「あら、郡山さん、遊んでいるように見えたかしら。これでも一生懸命にやっているんですよ。」

 

微笑み返しをしながら、純恵は郡山にそう話した。

 

「おお、ごめんごめん、熱心に仕事してもらっているのに、わるかったな。」

 

依頼者の郡山とも打ち解けた感じで話をしながら、業務を進めていた純恵と高顕であったが、計測は30分足らずで終り、2人は雀荘開業予定地を出て、京阪京橋駅へと向かって行った。

 

「足立先生、ありがとうございます。この間の営業所も似たような感じだったのですが、あの時は3時間もかかったんです。足立先生のおかげです。何かお礼でもしなくちゃ!何がいいですか?」

 

「あんた、お金も持ってないのに、プレゼントなんかできないでしょう。何をくれるっていうの?お嫁さんにでもしてくれるの?」

 

「えっ、僕、キモニートだからダメなんじゃあないですか?いつも、あんたのところに嫁なんかこない、彼女なんてできるわけないっていってたじゃあないですか?」

 

そう、高顕に聞かれて、しまったという顔を一瞬した純恵であった。自分の顔が段々と赤くなっていくのを感じて余計に高顕の顔を見られなくなってきた。

 

「いや、冗談よ。冗談。私があんたのお嫁さんなんかになるわけないじゃあない。だいたい、私にだって彼氏ぐらいいるわよ。あんたなんかよりもよっぽどしっかりしてるんだから。」

 

そう、下を向きながら答える純恵であったが、なぜか、胸がドキドキしてくる自分に戸惑っていた。

 

「ええ!足立先生に彼氏がいたんですか?初耳だなあ。怖い者の知らずの彼氏というかなんというか。でも、なんか、顔赤くないですか?熱でもあるんですか?」

 

「なんでもないわよ。」

 

「よかった。でも、どんな彼氏なんですか?」

 

「あんたに関係ないでしょ。それより、プリクラでも一緒に撮らない?」

 

「ええ、なんで?なんで、僕とプリクラ撮るの?」

 

「キモオタ・ニートを友達に見てもらって、みんなで笑うためよ。」

 

「なんちゅう理由や!」

 

「いいから行くわよ。」

 

そういいながら、純恵は京橋駅前のゲームセンターに、強引に高顕の手を引っ張って引き込んだ。

 

「どのプリクラがいいかなあ?」

 

少女のようにはしゃぎながら、純恵は好みのプリクラを捜していた。

 

「あっ、これがいいなあ!可愛い!ねえ、あんたも可愛いと思うでしょう。」

 

いつもは、キャリアウーマン風の態度を崩さない純恵に女子高生のような一面があるのを見て、高顕は不思議そうにしていた。

 

「じゃあ、これにしようね。う〜ん、なるほど、ポーズを作ってからこのボタンを押すわけね。さあ、もっとくっつきなさいよ。きちんと写らないわよ。」

 

そう、純恵に言われて、高顕は、頬がつくぐらいに、自分の顔を純恵にくっつけた。その時、ちらっと純恵が高顕の目を見たので、「くっつきすぎよ!」と怒られると思った高顕は一瞬、頭を後ろに引いた。

 

「何、また離れてんのよ。それじゃあ、写らないっていってるでしょう!」

 

逆の意味で怒られた高顕は、再び、自分の顔を純恵の顔に密着させるようにせまいプリクラ機の中で、寄り添うようにポーズをとった。

 

「そうよ、それでいいのよ。それともっと笑いなさいよ。何真面目な顔をしているの?」

 

そう、純恵に言われても、中々笑顔が作れない高顕は結局、引きつり笑いしかできなかった。

 

「カシャ!」

 

2人でプリクラを撮った純恵は出来上がったプリクラ写真を見ながら、しばらくじっと黙ったままであった。

 

「どうしたんですか?なんか、僕、変ですか?足立先生は結構いい女風に写ってますね。」

 

「あんたは、変にきまってるじゃあない。キモヲタ・ニートなんだから。私がいい女なのは当たり前なのよ。それと、この写真、事務所のみんなには見せないでね。みんなに、キモヲタ君とできてると勘違いされた困るから。」

 

そういいながら、純恵は、出来上がったプリクラ写真の半分を高顕に渡し、自分の分を大事そうに胸ポケットにしまった。その後、2人は京橋駅から京阪電車に乗った。純恵は天満橋で下りて、高顕は淀屋橋で下りるので1駅だけの同乗であったが、高顕と並んで座る電車のシートの上で胸の鼓動を抑えながら少女のような気分になっている自分を感じていた。

 

「天満橋についたから、私はここで下りるけど、あんたは事務所で頑張って図面作成してね。仕事終ったら今日はあんたの引越し祝いだから、帰らずに待ってるのよ。私と赤松さんと山名さんとで一緒に樟葉に行くからね。」

 

「あっ、しまった。食材とお酒を買うの忘れてた!」

 

「まあ、いいわよ、帰りに一緒に樟葉商店街で買えばいいじゃない。じゃあね。」

 

そういいながら、天満橋駅で電車を降り、小走りで駅の階段を上がっていく純恵の後ろ姿を見ながら、高顕もふと一瞬、遠い昔、どこかで見たような懐かしい風景を感じていた。

 

 

  

 

11.更衣室

 

イマジニア行政書士法人事務所には、女子職員用の更衣室がある。純恵が皆元に議論を吹っかけ強引に作らせたものである。皆元は1年前から事務職員の山名と赤松に制服を着用するように命令した。来客対応等もするこの2人が私服のままだと客によくないイメージを与えるからという理由からである。山名と赤松は当初、トイレで制服に着替えていたのであるが、これを見た純恵が、更衣室も作れないのだったら制服着用を強制するなと皆元に噛み付き、皆元はしかたなく、執務室のスペースを一部削って更衣室を設けたのである。更衣室が出来てからは、純恵も出勤の際にはラフな服装で出勤し、事務所に来てから予め更衣室においているスーツに着替えて業務を行っている。また、この更衣室は女性職員達のコミュニケーションの場ともなっている。今日も業務終了後、女性職員3人が更衣室で着替えながらいつものように談笑していた。

 

「今日の京ぴょんの引越し祝い楽しみですね。山名さんもいくんでしょう?」

 

満智子が政子に話し掛けた。女同士の場では、高顕のことを女性職員達は京ぴょんと呼んでいるようである。

 

「いや、私、急用が出来て今日はいけないの。足立先生と赤松さんで行ってきてね。」

 

「それは残念ね。あのキモヲタニートも楽しみにしてたわよ。チェ・ジュウより赤松さんの方が好きです!山名さんも好きです!とかいってたぐらいだから。」

 

「それなに?なんでチェ・ジュウなんだろう。京ぴょんは変わった人ね。とにかく私はお先に失礼しますので、お三人さんで楽しんで来てね。」

 

そう言い残して、政子は先に更衣室を退室した。

 

更衣室に2人きりとなった純恵と満智子はしばらく黙って着替えをしていたが、純恵が着ていたスーツをロッカーにしまおうとしたその時、純恵のスーツの胸ポケットから、今日高顕と一緒に撮ったプリクラがこぼれて床に落ちた。

 

「あれ、足立先生、何か落ちましたよ。何かしら?」

 

そう言いながら、満智子が床に落ちているプリクラを拾って、純恵に渡そうとした。

 

「あれ?これ、足立先生と京ぴょんですね。」

 

「あっ、ありがとう。」

 

そう言いながら、満智子から奪うようにしてプリクラを取り戻した純恵はまた頬を赤らめてしまった。

 

「あのう、もしかして、京極先生とお付き合いをされてるんですか?なんか、いつも仲よさそうですし。」

 

「変なこといわないでよ。これは面白半分に撮ったものだから。私に婚約者がいること赤松さんも知ってるでしょう。」

 

「寄り添っているし、なんか恋人同士みたい。前からとても仲よさそうでしたよ。前にお会いした彼氏と一緒におられるときよりも、京極先生と一緒のときの方が先生いつもイキイキしてらっしゃるし。気が合うっていう感じがすごくするもん。」

 

「気のせいよ。あいつは私なんかより、赤松さんのこと気に入っているみたいよ。あんなのに好かれちゃったら迷惑かも知れないけど。」

 

「そんことないですよ。結構、ハンサムだし、可愛げがありますよね。それに、粗削りだけど、私は将来性があると思いますよ。粗削りで頼りない分、傍にいてあげなきゃって気にならないですか?私の彼氏なんか、元からお金持ってるし地位もあるし、出来上がっちゃってるから、私がいてもいなくても一緒のような気がするし、結婚しても私は付属品みたいな感じになるんじゃあないかってなんか最近思うんですよね。でも、私には取柄がないから、そういう男の人についていって一生過ごすのがいいような気もするし。足立先生は私と違ってしっかりしているから、旦那さんの附属品にはなれないような気がするなあ。それに、京極さんを育てるのにすごく喜びを感じてるような気がしますよ。」

 

「冗談じゃあないわよ。足手まといで迷惑しているんだから。」

 

「ほんとかなあ?」

 

「そりゃ、拾ってきた捨て猫に情が移って、可愛くなってきたっていう感じに似た感じはしないことはないけど…。」

 

「ほら、やっぱり。もしかして先生とライバルになるのかなあ。」

 

「ええ?」

 

「どっちにしても抜け駆けはやめましょうね。」

 

「何いってんの?」

 

着替え終わった2人は更衣室から出て、高顕が待っている事務所の受付の前へと向かった。

 

「さあ、用意もできたから、行くわよ。美女2人と新居で引っ越し祝いができていいわね。山名さんは用事があるらしいから、私と赤松さんとでお邪魔するわね。」

 

「あれ、山名さんはこないんですか?じゃあ、美女1人と鬼一匹じゃあないですか。」

 

「あんた、ホントに殴るわよ。」

 

純恵と高顕の掛け合いを見ながら、クスクスといつもどおり笑いながらも、満智子の心は少しずつ曇り始めていた。

 

  

 

12.引越し祝い

 

引越し祝いのために高顕のワンルームマンションへと向かう電車の中で、純恵と満智子は、高顕そっちのけで、たわいのない話で盛り上がっていた。

 

「足立先生と赤松さんは仲がいいですね。本当の姉妹みたいですよ。よく見ると顔も雰囲気も少し似ているような気もするし。」

 

「あんた、女同士の話に横から入ってくるんじゃあないわよ。デリカシーがないんだから、もう。外の景色でも黙ってながめてなさいよ。」

 

「でも、毎日見ている風景だし、つまらないよ。」

 

「じゃあ、寝てなさい。ついたら私たちを目一杯、接待しないといけないんだから、体力を温存しとくことね。」

 

「ええ、祝ってもらうのに接待するの?」

 

「当たり前でしょ。」

 

そうこうしているうちに、電車は京阪樟葉駅についた。食材と酒を買うため、3人は駅からすぐの樟葉商店街へと向かっていた。

 

「ここの商店街の、ほら、あそこ。足立惣菜店って看板があるところ。あそこが、私の両親が働いているお惣菜屋さんなの。ああ、もう閉まってるなあ。天ぷらとフライ貰おうと思ってたんだけど…。」

 

「へえ〜、足立先生のご両親はご夫婦でお惣菜屋さんを経営されてるんですね。」

 

「そうよ。あんたにうちのお父さん見せたかったなあ。あんたにそっくりなのよ。なんか頼りなくてね。」

 

「ええ、僕に似てるんですか?」

 

「そうよ。お母さんはしっかりしてるんだけど、お父さんは、ダメねえ。三重から出て来て夫婦でお惣菜屋さんはじめたんだけど、店もお母さんでもっているようなものなの。」

 

「でも、偉いなあ。経営者だもんなあ。」

 

「経営者っていっても、小さな商店街のお店だからね。赤松さんのお父さんとはえらい違いね。」

 

「赤松さんのお父さんも会社を経営されてるんですか?」

 

「ええ、まあ。」

 

いつものように純恵と高顕の会話を黙って聞きながらも、いつもと違って少し不機嫌そうな感じであった満智子が笑顔もなく返事をした。

 

「赤松さんのお父さんは、あのコウサン自動車の常務さんなのよ。一部上場企業の経営者と駅前商店街の経営者だからちょっとくらべられないわね。」

 

「へえ、赤松さんって、すごいお嬢様なんですね。」

 

「そんなことないですよ。コウサンの常務といってもサラリーマンだし、子供の頃からあまり贅沢をした思い出はないんです。」

 

「でも、2人ともお父さんは経営者ってすごいなあ。僕も将来的には経営者になれるかなあ。」

 

「まあ、うちのお母さんのようなしっかり者が傍についていたら、形だけの経営者にはなれるかもね。」

 

そう、答える純恵に、満智子が、

 

「そうですよ、足立先生のような女性が奥さんになれば、京極先生も大成功すると思いますよ!」

 

と、いつもの穏やかに話す声のトーンと違ったやけに上擦った声で言った。純恵と高顕は、一瞬びっくりした表情で満智子を見たが、2人の視線を感じて我に返ったのか満智子はうつむきかげんで暗い表情を見せた。

 

「さあ、スーパーについたわよ。たくさん買わなきゃね。」

 

話を逸らすかのように純恵は、スーパーの中に先頭を切って足早に入っていき、レジの傍にあったカゴを片手に食材選びを1人でし始めた。

 

食材の買物が終った三人は、高顕のマンションへと向かっていった。商店街から10分ほど歩いたところに高顕のマンションはある。山に近い、もの静かなところである。マンションに着いたところで、純恵が、

 

「あんた、部屋キレイに掃除したんでしょうね。女の子が来るんだから。」と高顕に聞いた。

 

「あっ、そう言えば、掃除してないや。」

 

そういいながら鍵を開けてマンションの扉を開いた高顕であった。高顕のマンションの中をおそるおそる覗いた純恵と満智子は開口一番、

 

「きゃ〜、汚い!」と声を揃えていった。

 

「なんで、引越してきたばかりなのにこんなに汚いのよ。なんか変なニオイするし。」といつものように悪態をつく純恵に、「男の1人暮らしなんだからしかたないよ。それに一人暮らしなんて今までしたことがなかったし。」と高顕が憮然として答えた。

 

「うふふ、じゃあ、私が掃除します。そういえば、お鍋するのに、カセット・コンロのボンベがいりますよね。さっき、ボンベ買いましたっけ?足立先生と京極先生は、私が掃除している間、お2人でボンベを買ってきてくれませんか?」

 

「じゃあ、私が買って来てあげる。この辺は私の庭みたいなものだし。赤松さんとあんたは、部屋にいて。一応、あんたの引越し祝いだし、今日は私が使い走りになってあげるわ。」そう、純恵は言って、そそくさと高顕のマンションを後にした。

 

女性と自分の部屋で2人きりになったことがない高顕は、緊張のあまり何を話していいかわからずに、ただ満智子が掃除しているのを黙ってみていた。しばらく、掃除機の音だけが鳴り響いていたが、満智子が掃除機のスイッチを切って、手を休めたときに高顕が思い切って満智子に話しかけた。

 

「あのう、足立先生の彼氏ってどんな人か知ってます?」

 

満智子の婚約者の話ではなく、純恵の彼氏の話を聞いてきた高顕に一瞬眉をひそめた満智子ではあったが、気を取り直し、話しはじめた。

 

「足立先生が通っていた高校の空手部OBのようですよ。足立先生も空手部に所属していたみたいなんだけど、足立先生の彼氏は空手の指導をしに会社帰りにいつも学校に寄ってて、そこで知り合ったみたい。だからもう10年以上のお付き合いみたいです。うふふ、友達の彼氏だったのを奪ったんですって。一度、お会いしたことがあるんですけど、背が高くて、イケメンでしたよ。留学して、アメリカの会計士の資格を取って、今は、ヒューストン・コンサルティング・グループ日本法人のチーフコンサルタントをしているみたいです。年収3千万円なんですって。まだ34歳なのに。」

 

「あの、有名なヒューストンの?ああ、勝ち目ないなあ…。」

 

「ええ?」

 

「いや、足立先生の彼氏も赤松さんの婚約者もすごくてなんか僕、男として情けなくなってきたなあ。まだ、駆け出しだし、収入もないし。」

 

「うふふ、京極先生はこれからの人ですもの。誰でも最初は駆け出しですよ。」

 

「優しいなあ。赤松さんは。でも、もうすぐ結婚しちゃうんですよね。残念だなあ。いや、おめでとうございますっていわないとダメなんですよね。」

 

「足立先生も、もうすぐご結婚されるのよ。今年の12月だったかなあ。彼氏が来年からヒューストンのアメリカ本社に勤務されるんですって。だから、今年中にご結婚されて、来年からは彼氏と一緒にアメリカでお住まいになるみたい。」

 

満智子のこの話を聞いて、両親が離婚を切り出したとき以上の衝撃を受けた高顕は一瞬言葉を失って、顔が青ざめた。また、孤独になった、ひとりになったという感じがした。目眩がするほどの感覚を覚えた高顕であったが、この時、純恵にただならぬ好意を抱いていたことを自覚した。自分にとってなくてはならない人であるということを実感した。と同時に、満智子もまた、高顕が純恵のことを深く想っていることを感じとり、恋心を抱き始めた男が別の女性のことを想っている様を見てショックを受けた。

 

(好きなら奪い取ればいいのに。女の子は待っているのに。)そういいかけた満智子であったが、口を閉じたまま、台所へと向かった。

 

「京極先生、何か飲みます?お茶でいいかなあ?足立先生遅いですね。」

 

「あっ、はい。お願いします。」やっと重い口を開いた高顕であったが、まだ視点は定まっていなかった。しばらくして思い出したように、

 

「あっ、そう、赤松さんの彼氏はどんな方なんですか。」と満智子に話し掛けた。

 

「父と同じ、コウサンの役員の長男なの。彼氏のお父さんは父の同期なんだけど、同期といってもコウサンの創業者一族だから同じ役員でも全然ちがうの。昔から家族ぐるみのお付き合いはしてたから彼とは幼なじみでもあるの。今は別の会社に勤めてるけど、来年からはコウサンに移るみたい。でもね・・。」

 

「へえ、彼氏は、将来、コウサンの社長になるのかなあ。じゃあ、赤松さんはコウサンの社長夫人になるんですね。すごいですね。なんでうちの事務所の女性はみんなそんなすごい彼氏がいるんだろう?僕なんかほんとダメだなあ。この歳まで仕事はしてなかったし、両親には捨てられるし。なんかなあ。」

 

「まだ、若いんだし、そんなこといっちゃあダメですよ。京極先生にはみんな期待してるんだから。」

 

「その割には、みんな僕のことボロクソにいってますよ。」

 

「うふふ、可愛がってるのよ。」

 

「そうかなあ。」

 

「そうよ。だってかわい…。」

 

と、満智子が言いかけたそのとき、純恵が息を切らせながら帰ってきた。

 

「ただいま〜!さあ、鍋するよ〜。私が仕切るから、あんた達黙ってみてるのよ!」

 

重い空気が流れていた高顕の部屋に、また柔らかな風が戻ってきたような気がした。

 

 

 

高顕の引越し祝いの鍋パーティは酒が入っていることもあってか、たわいもない会話に包まれながら時間ばかりが過ぎていった。

 

「そうよ、最初からずっと一緒にやってるんだから、所長と山名さんが何かないわけないわよね。」

 

えてして、酒が入ると他人の噂話に花が咲くものであるが、いつもは理知的に見える純恵も、酒の力がそうさせるのか下世話な話を饒舌に語り出した。

 

「えっ、あの所長と山名さんが?足立先生、みたんですか?」

 

「何もみてないわよ。高顕バカね。でも、なんとなくそうおもうわけ。ねえ、マコちゃん。」

 

「うふふ、スミちゃんのいうとおりだと思います。なんとなくそう思いますね。」

 

「そう、なんとなくなのよ。あんたにはわかんないのよ。」

 

いつの間にか、純恵と満智子は、スミちゃん、マコちゃんと呼び合っている。そんな2人を見ながら、女性同士の会話の不思議さに新鮮さを覚える高顕であった。そうこうしているうちに、純恵がふと時計を見てすでに午前1時を回っていることに気がついた。

 

「あら、もうこんな時間だわ。帰らなきゃ。マコちゃんは、おうち堺だったわよね。電車あるの?あるわけないか。泊まる?」

 

「ここに泊まるんですか?スミちゃんも泊まるの?」

 

「いやね、ここじゃあなくて、私のおうち。すぐそこだから。」

 

「ご家族に迷惑がかかるから、タクシーで帰ります。」

 

「ええ、でもタクシー代すごいんじゃあない。」

 

「うふふ、大丈夫ですよ。」

 

「そうだね、マコちゃんは、お嬢様だもんね。それに帰らないとご両親も心配するものね。」

 

 

 

純恵は自宅に戻るため、満智子はタクシーに乗るため、2人は帰り支度をして、高顕のマンションを出ようとしていた。

 

「じゃあ、帰るね。またマコちゃんと遊びに来てあげるからね。いつもきちんと掃除するのよ。掃除しなかったら遊びに来てあげないからね。じゃあね。」そういって、純恵は、満智子をタクシー乗り場に送っていくため、高顕に別れを告げて、高顕のマンションを後にした。

 

 

 

 

13.はじめての夜

 

「ちゃんと帰れる?きちんと行き先告げるんだよ。運転手さん宜しくお願いします。じゃあ、マコちゃん、気をつけて。」

 

「先生もお風邪ひかないように暖かくして帰ってくださいね。」

 

「あいよ!じゃあ、また月曜日!」

 

満智子をタクシーに乗せて、手を振って見送った純恵は、家路につこうとした。とそのとき、スカーフを高顕のマンションに忘れてきたことに気がついた。ふと、なぜか、嬉しくなった純恵はすぐに高顕の携帯に電話をかけようと思った。高顕のマンションに戻る口実ができたからである。

 

「高顕!ごめん、あんたのところにスカーフを忘れたみたい。今から取りにいくから起きててね。」

 

「足立先生、もう外に出てますよ。スカーフ忘れてたから、2人を追いかけてタクシー乗り場の方に向かってます。そこで待っててください。」

 

「あっそう。じゃあ、待ってるわ。それでね、足立先生じゃあなくて、純恵って呼べよ!」

 

「なんでですか?」

 

「じゃあ、待ってるから。」

 

ほどなく、タクシー乗り場に高顕が走ってやってきた。「寒かったでしょう。純恵。ちゃんともってきたからね。」

 

「なんで、呼び捨てするのよ。キモヲタニートがこの私に向かって。」

 

「だって、さっき、純恵って呼べっていったじゃあないですか。」

 

「あら、そうだったかしら。」

 

「酔ってるんですか。危ないから送っていきますよ。ここからすぐなんですよね。おうち。」

 

「じゃあ、送ってもらおうかしら。あんた汗かいてるじゃん。一生懸命走ってきたのね。可愛いヤツ。ご褒美に・・。」

 

そういって、純恵は高顕の頬にキスをした。一瞬たじろいだ高顕であったが、その後、純恵の目をじっと見つめた。

 

「なによ。ちょっとほっぺにチュしたぐらいで。そんあに見つめないでよ。あっ。もしかして、初キスだったの?」

 

と、からかうように話す、純恵がすべてを言い終わらないうちに、高顕は突然、純恵をきつく抱きしめた。

 

「なんなの、あんた、ちょっと離しなさいよ。なにしてんのかわかってんの!」

 

「僕もう、ダメだ。先生がいないとダメなんだ。ずっとずっと傍にいてどこにもいかないで!」

 

と叫びながら、高顕は純江の唇に激しく、くちづけをした。まだ寒さの残る3月の夜空の下、2人はきつく抱きしめ合った。最終電車も行き過ぎ、明かりの消えた駅前で、静かな春の夜の景色を見ながら純恵と高顕は不思議な感覚に包まれながらしばらくじっとしていた。

 

「うちに、戻る?」

 

「うん。」

 

「ご両親は心配しない?」

 

「うん、女友達のうちに行って遅くなるって電話入れてるから。大丈夫だと思うわ。近くだし、朝方に帰ればわからないから。」

 

「じゃあ、行こう。」

 

高顕は純恵の手を強く握って、さっき来た道を戻って、高顕のマンションへと向かった。

 

高顕のマンションに戻ってくると、まだテーブルの上に鍋が残っていた。

 

「鍋、片づけなきゃね。私は洗い物しているから、あなたはシャワーでも浴びてきたら。」

 

「うん、わかった。」

 

バスルームへと向かう途中に振り返ると、台所で鍋の片づけをしている純江が見えた。これから毎日、こんな光景が見られたら幸せだなあと思いながら、高顕は脱衣所のドアを開けた。着ている服を脱ぎ捨て、どきどきしながらシャワーを浴びた。

 

シャワーを浴びてパジャマに着替えた高顕は脱衣所のドアを開けて居間へと戻っていった。

 

「あら、可愛いパジャマを着てるのね。結構似合うじゃあない。私もシャワーを浴びていい?」

 

「いいよ。」

 

「入ってこないでよね。」

 

「わかってるよ。」

 

そういいながら、バスルームに入っていく純恵を確認した後、高顕は慌ててテーブルをどけて、押入れから蒲団を取り出し、寝床の準備をした。蒲団を敷き終わった後、純恵が出てくるまでの間、そわそわし、落ち着かない様子の高顕はあまりもののビールを飲んだり、歯を磨いたりして時間を潰した。

 

バスルームのドアが開き、純恵がバスタオルを羽織って戻ってきた。純恵の意外に女性らしい豊満なシルエットを見て、はちきれそうな感覚に高顕は襲われた。

 

「ちょっと、私のパジャマはないの?」

 

「あっ、パジャマは一着しかないんだった。」

 

「なんでもいいから、部屋着はないの?」

 

という純恵を、いきなり高顕は黙って強く抱きしめた。そのまま、寝床に純恵を寝かせ、純恵の身体を纏っているバスタオルをはがして、重なるように純恵の唇にそっとくちづけをした。知らず知らずのうちに高顕の手は純恵の胸元にあり、2人は激しくお互いを無我夢中で求め合った。

 

嵐のような夢のひとときが過ぎ去り、少し落ち着きを取り戻した純恵と高顕は寄り添いながら静かに語り合った。

 

「ホントにこれであなたはよかったの?今ならまだ元に戻れるわよ。私は今日だけのことでもいいの。後悔はしてないし、あなたにとって今日だけの遊びだったとしてもいいの。私はあなたのことが好きだから。」

 

「僕もずっと先生のこと好きでした。でも、今日、赤松さんから先生の彼氏のことと、年末に結婚するっていうこと聞いて、いてもたってもいられなくなって。本当に好きだったっていうことに気付いたんです。」

 

「もう、先生ってやめてよ。純恵って呼んで。それにその他人行儀な話方もやめてよ。私はあなたのものなんだから。」

 

「さっき、純恵っていったら怒ったじゃあない。それに急には話し方変えるの無理だよ。」

 

「うふふ、じゃあ、いいわ。ねえ、ずっと幸せにしてくれるの?」

 

「うん。幸せにする。今の仕事をちゃんと覚えて、将来は先生と一緒に独立して2人で事務所をしたいなあ。」

 

「あら、専業主婦はさせてくれないのね。うふふ、まあ私はおうちに閉じこもっているのは苦手だから丁度いいけど。でも、いつも一緒でケンカしないかしら。今でも毎日、ケンカばかりなのに。」

 

「先生ならずっと好きでいられるから、ケンカしても大丈夫だよ。」

 

「だから、純恵って呼んでよ。」

 

「純恵、ちゃん・・。」

 

「そう。」

 

「純恵ちゃん、大好き・・。」

 

再び、高顕は純恵の身体に覆い被さり、時が経つのも忘れて2人は夢の世界へと誘われた。

 

その頃、高顕のマンションの1F玄関前に、一台のタクシーが止まっていた。その中には満智子がいた。満智子は途中で引き返してきたのである。チャイムを押そうとして、高顕の部屋の前まで来たのであるが、ドアの前に立って、女にだけわかる感で、全てを悟った。満智子は、チャイムを押さずにタクシーに戻った。

 

「運転手さん、堺方面に行ってください。」

 

そういった後、自分の膝に顔を埋めて、声を出さずに泣くことだけが満智子にできる唯一のことだった。

 

「お客さん、大丈夫ですか?気分が悪いんですか?」

 

「いえ、大丈夫です。そこを右に曲がってください。」

 

車の流れも少ない夜の道が満智子の寂しさを煽っているかのようだった。

 

 

  

 

14.夢

 

カーテンの隙間からこぼれる朝日に目が覚めた純恵は、まだぐっすりと眠っている高顕の横で携帯電話を手に取り自宅に電話をかけた。

 

「ああ、お母さん、昨日はごめんね。お友達のおうちに泊まったの。今日の晩帰るから心配しないでね。」

 

「あれ、純恵ちゃん、もう起きてたの?」

 

純恵の電話で高顕も目を覚ました。

 

「うん、うちに電話してたの。起してごめんね。今日はずっと一緒にいれるよ。あなたはまだ寝ててもいいよ。」

 

「じゃあ、もうちょっと眠るね。」

 

「私も寝ていい?」

 

「うん、昨日遅かったからもう少し一緒寝ようよ。起きたら遊園地にでも行こうか?」

 

「まあ、嬉しい。遊園地に連れていってくれるの?」

 

「うん、ジェットコースターに乗ろう!純恵ちゃんの怖がるところみてみたいなあ。」

 

「私がそんなので怖がるわけないじゃない。」

 

「な〜んだ、怖くないの。可愛くないなあ。」

 

「ええ〜、私のこと可愛くないの?」

 

「ううん、すごく可愛いよ。」

 

「嬉しい。高顕、もっと愛して、もっともっと、いっぱい愛して。」

 

燃えさかる恋路は一旦、走り出したら留まることを知らない。目の前には幾多の困難があるはずなのに、それさえも忘れさせる何かがある。何度も重なり合った後、知らず知らずのうちに、2人は深い眠りについた。

 

  

 

15.大城学

 

大城学(34歳)は、純恵の婚約者であった。純恵が所属していた高校空手部のOBで、満智子がいっていたように、もう10年以上の付き合いになる。外見、職業、収入ともに世間的な見方をすれば何一つ不自由がないどころか、完璧すぎるぐらいの男である。しかし、純恵はこの男を捨てて、不十分もいいところの未熟な若者である高顕を選んだ。だが、純恵と高顕と付き合いだしてから、2週間が過ぎた今も、はっきりと純恵は学に別れを告げていない。夢路のような恋の炎に包まれている間はすべてを忘れられていたからよかったのであるが、いざ、現実に戻ると、目の前にある障壁を超えるのに躊躇してしまう純恵であった。三重から出て来て苦労して商店街で惣菜屋をしている純恵の両親は、学と純恵の交際に大賛成しており、「立派な若者に見初められて嬉しい。」ととても喜んでいた。結婚も決まっていたのに、どこの馬の骨かわからないような若者を好きになってしまって、学とのことを全て白紙に戻すということを両親に告げるのはいくら行動力のある純恵であってもすぐにできることではなかった。また、その前に、学に新しい恋人ができたことを話さなければならない。こちらもすぐにはできそうもないことだったが、身も心も完全に高顕のものになって幸せをこれ以上ないほどに感じたい純恵は勇気を振り絞って学に別れを告げることにした。ある日の昼休み、事務所近くの公園のベンチに腰掛けながら、携帯電話を取り出して純恵は学に電話をした。

 

「学、ちょっと話したいことがあるんだけど。」

 

「なんだよ。仕事中に電話してくるなんて。あとにしてくれないかな。今日はとても大切なプレゼンがあるんだけど。」

 

「私よりも大切なものがあるわけね。」

 

「困らせないでくれよ。俺の仕事がポシャったらおまえも困るだろう。頭のいいおまえなんだからわかるだろう。」

 

「あなたの仕事がポシャっても私は困らないわ。私にだって仕事はあるんだから。」

 

「そういうなよ。おまえがちゃんと立派に仕事していることは俺も百も承知だよ。でもな、それとこれとは話が別だろ。俺がおまえを大切に思っていることはわかるだろう。」

 

「ううん、わからなくなったの。それにもっと大切にしてくれる人ができたの。」

 

「ええ?いまなんていった?」

 

「別れて欲しいの。」

 

「ええ、何いってんだよ。突然。」

 

「好きな人ができたの。」

 

「俺達、もう結婚することが決まってるんだぞ。」

 

「それは悪いと思うわ。でも、もうだめなの。」

 

「冗談いうなよ。どうすんだよ。いまさら。何処のどいつなんだよ。そいつは。」

 

「もう、あなたには関係ないの。別れてくれるわね。ごめんね。戻れないの。わかってね。今までありがとう。あなたの成功祈っているわ。素敵な人を見つけてね。じゃあね。」

 

「おい、ちょっと待てよ。待ってくれよ。」

 

電話を切った後、人目も憚らずにベンチですすり泣く純恵に、小さな女の子が近づいてきた。

 

「お姉ちゃん、なんで泣いてるの?はい、ハンカチ。」

 

「ありがとう。ごめんね。お姉ちゃん、悪い子なの。」

 

「お姉ちゃん、悪くないよ。とっても綺麗なお姉ちゃんだよ。だから、泣いたらダメだよ。」

 

「うん、もう泣かないね。お母さんが心配するから、お母さんのところに戻るのよ。」

 

「うん、お姉ちゃん、元気だしてね。大きくなったら私、お姉ちゃんみたいに綺麗になるね。」

 

自分にもあのような子供の頃があったことを思い出した純恵は、大人として生きていくことの残酷さを噛み締め、また大粒の涙がこぼれてきて、公園を後にしても涙が止まることがなかった。

 

   

 

 

16.愛の巣?

 

純恵と高顕は結ばれた夜以来、仕事が終ると一緒に帰り、しばらくの間、高顕のマンションで共に時間を過ごすようにしている。高顕の部屋は小さな、とても小さなワンルームマンションであるが、今の2人にとっては夢の城のような空間に思える。たわいもない会話でも幸せを感じられ、高顕は何年も味わったことのない至福に満たされた毎日を過ごしている。今日も仕事帰りに樟葉駅前のスーパーに立ち寄り、飲み物や軽食材を買って、新婚夫婦のように連れ立って2人は高顕のマンションに帰ってきた。

 

「ああ、今日もお仕事疲れたわね。ここに帰るとなんか落ち着くわ〜。」

 

と言いながら、純恵は高顕のマンションに帰ってくるやいなや、床に寝そべり大きく両手を伸ばした。

 

「あはは!なんか純恵ちゃんのおうちみたいだね。一緒に住むならもっと広い部屋を探さないとね。」

 

「そうね。樟葉がいいなあ。事務所までは遠いけど、静かだしね。うふ、キッチンが広いところがいいなあ!」

 

「ええ、ちゃんと料理できるの?」

 

「当たり前よ。料理教室にだって通ってたんだから。」

 

「花嫁修業で?」

 

そう、高顕が言った瞬間、純恵の表情が硬くなった。

 

「ちょっと、水さすようなこといわないでよ。もう。」

 

「あっ、ごめん。」

 

「それより、元カレと別れたこととあなたと付き合っていることまだ、両親に言ってないんだけど、どうしよう。あなたがいいなら、両親に説明して、あなたに会ってもらおうと思ってるんだけど、どうかなあ。」

 

そう、純恵に問い掛けられて、高顕は一瞬、下を向いて渋い顔をした。暫く考え込むような仕草をし、弱々しい声でやっと話し始めた。

 

「う〜ん、まだ早いんじゃあないかなあ。突然、元カレと別れて、まだ一人前でもない、どこの骨かもわからないような年下の男と付き合い始めたなんていったらご両親、怒るんじゃあないかなあ。おまけに僕の両親も情けないぐらいだらしないし、前の彼と比べたら月とすっぽんだから、交際反対されないかなあ。会ってくれるのかなあ。」

 

「ちょっと!どういうこと?あなた私のこと本当に好きなの?私は何もかも捨ててあなたと一緒になろうと思っているのに。私の両親に反対されたら、両親も捨ててあなたについていくわよ。それにあなたの両親のことも関係ないし、まだ若いんだし、一人前じゃないのも当たり前じゃない。あなた、面倒なことが嫌なだけじゃないの?」

 

「そんなんじゃあなくて、僕のことで、ご両親ともめて純恵ちゃんが傷つくところを見たくないだけなんだよ。」

 

「だからさあ、私は傷ついてもいいのよ。もう、いいわよ。今日は帰るわ。」

 

と不機嫌そうにこたえて純恵は立ち上がって、黙ってそそくさと帰り支度をはじめた。

 

「純恵ちゃん、怒らしたのかなあ。ごめんね。」

 

と、純恵の髪の毛を撫ぜながら許しを請おうと思った高顕だったが、その手を純恵に振りほどかれた。

 

「なんで謝るのよ。もういいよ。帰るから。」

 

女性との付き合いの経験が少ない高顕は、このようなときの女性に対する対応の仕方がわからないのか、そう純恵にいわれて黙るしかなかった。玄関で靴を履く純恵を黙ってみながら、「気をつけて帰ってね。」ということしかできない高顕を純恵はぎっと睨み付け、「すぐそこに帰るのに何を気をつけるというのよ。そこまで、心配してるんだったら、私の家まで送ってくれれば?」といいながら、大袈裟なそぶりで玄関のドアを開け、振り向きもせずに帰っていった。一人残された高顕はただ呆然と立ち尽くしていた。

 

自宅に戻った純恵は、「ただいま」もいわずにすぐに自分の部屋に閉じこもろうとしたが、純恵の母である良子に呼び止められた。

 

「ちょっと、あなた、今日も遅かったわね。学君から何度も何度も電話があったのよ。あなた達何かあったの?」

 

「なんにもないわよ。誰だってケンカぐらいするでしょう。お父さんとお母さんだって毎日ケンカしてるじゃあない。」

 

「そりゃそうね。でも、まあ、ちゃんと学君に電話入れておいてね。」と良子が言い終わらないうちに電話が鳴った。学からであった。

 

「ほら、また学君からよ。はい。」

 

そう良子に言われて、純恵はしかたなく受話器を取った。

 

「純恵か?俺だよ。学。なんで携帯に出てくれないんだよ。しかたないから家の方に電話したけど。この間みたいな電話一本で終れると思っているのか?あれから俺、全然寝てなくてもう、ヘトヘトなんだよ。」

 

「今日は、携帯に出るから5分してから携帯に電話くれない?」

 

「本当だろうな?」

 

「本当に出るから。今、母親が傍にいるからちゃんと話せないの。」

 

聞き耳を立てる良子に聞こえないような声で話す純恵であったが、学もわかったようでひとまず電話を切った。

 

「あら、もう電話終ったの?」

 

そう不審そうに聞く良子であったが、娘の恋愛にとやかくいうのはよくないと思ったのか、詮索することなく台所へと足早に立ち去って行った。

 

自分の部屋に戻った純恵は、ほどなくして携帯にかかってきた学の電話に出た。

 

「はい、純恵。」

 

「やっと出てくれたね。声が聞けてなんだか安心したよ。ずっと心配してたんだよ。」

 

「うん、この間はごめんね。そりゃ、いくら学だって、あれだけで終りにされたらもたないよね。悪いと思ってるわ。許してね。」

 

「本当に好きな人ができたのか?」

 

「うん。」

 

「もう、戻れないのか。」

 

「うん。」

 

「俺さあ、忙しくておまえを構ってやれなかったことを今、すごく後悔している。別の男に目が行ったのもたぶんそれが原因だと思う。でも、おまえのためにずっと働いてきたんだ。留学費用もおまえに出してもらったし、会社に勤めては辞めてだらしない男だった俺を一人前にしてくれたのはおまえだと思ってるから、だから、結婚しておまえを幸せにするために、何不自由ない生活をさせるためにがむしゃらに働いてきたんだ。でも、おまえに別れを告げられてから何のために働いているのかわからなくて腑抜けのようになってるよ。また、ダメ男に戻りそうだ。」

 

「そうなの?」

 

「ああ、ごめんな。今のおまえには俺のことなんて、もう関係のないことだろうな。泣き言いって悪かった。電話したのはグチをいうためじゃあなくて、お礼を言いたかったんだ。今まで付き合ってくれてありがとう。ずっと楽しかったよ。付き合いが長かったから最近は、妹のような感じで接していたのかもわからない。そういうところもおまえにとっては不満だったんだろう。相手のヤツがどんなヤツか知らないけど幸せにしてくれそうか?」

 

「うん。」

 

「そうか、それならいいんだ。幸せになれよ。もし、その男に嫌なことされたら戻ってこいよ。俺、待ってるから。」

 

「そんな待たなくていいよ。学だって新しい人見つけて幸せにならなくちゃいけないんだから。」

 

「いや、俺は待ってるから。」

 

「私も今まで楽しかったわ。ありがとう。」

 

「そうか。よかった。俺のところに戻ってこなくても、悲しいことや辛いことがあったらいつでも相談してくれていいんだからな。一緒になれなくても、よそのヤツのところに行っても、おまえが幸せであってくれたら俺はそれだけでいいんだ。幸せになれよ。」

 

「ありがとう。学もね。」

 

2人はそう話しながら携帯電話の受話器を間にお互いにすすり泣き合った。こうして純恵と学の長かった恋の季節は終りを告げた。

 

  

 

 

17.相殺?

 

ゴールデン・ウィークの間、純恵と高顕は2人で福井の小浜に出かけた。女性と一緒に旅行になど行ったことのない高顕は夢のような休日を過ごした。2人で釣りをしたり、海辺で水を掛け合ってじゃれたり、温泉に入ったり、海鮮料理を食べたりしたが、高顕にとって一番嬉しかったのは、数日間純恵と片時も離れず過ごせたことである。こんな日が毎日続けばいいと思ったが、楽しい時間はあっという間にすぎ、旅も終り、旅館の女将に別れを告げて純恵と高顕は純恵の愛車であるBMWに乗り込んだ。

 

「なんか、寂しいなあ。それにまた明日から仕事だし。もっと純恵ちゃんと一緒にいたかったなあ。」

 

「また、来ればいいじゃない。これからはいつでも一緒にいられるんだから。そうそう、夏休みはどこに行こうかしら。沖縄なんていいかもね。それとも海外に行く?」

 

「沖縄もいいし、海外もいいなあ!お金貯めておくね。」

 

山道を抜けて、琵琶湖が見えてきた頃に、空が夕焼けに染まりはじめた。

 

「綺麗な夕日だなあ。純恵ちゃんと一緒にこんな綺麗な夕日が見られるなんてなんか幸せだなあ。あれ?どうしたの、こんなところで車、止めて。」

 

「ちょっとのどが渇いたの。そこのコンビニでジュース買わない?」

 

そういいながら、道路沿いにあるコンビニの駐車場に車を止めた純恵はコンビニの中へと入っていった。慌てて高顕も純恵の後を追うようにコンビニに入った。

 

「あれ、純恵ちゃん、ジュース買わないの?」

 

ジュースのコーナーに行かずにそそくさと雑誌が置いてあるコーナーへと向かって行った純恵を見て、高顕はそういった。

 

「うん、この雑誌、読みたかったの。なんかさあ、コンビニに来ると、雑誌コーナーに来たくなるのよね。高顕も、そう思わない?そうそう、高顕、私の烏龍茶がいいわ。」

 

そう純恵に言われて高顕は烏龍茶を2本カゴに入れた。

 

「あっ、この雑誌もお願いね。」

 

高顕の元に駆け寄ってきた純恵は、高顕が持っているカゴにポン!と選んだ雑誌を入れてそそくさと車に戻って行った。

 

「しょうがないなあ。」

 

高顕は買物の会計をしながら、車の中で楽しそうに手を振りながら高顕の帰りを待つ純恵を見ながらそうつぶやいた。高顕が帰ってきた後、車を発進させた純恵は、高顕の頬に軽くキスをした。

 

「ちょっと、純恵ちゃん、危ないよ〜。」

 

「うふふ、大丈夫よ。私の運転が信じられないの。」

 

「そういうわけじゃあないけど。でも、琵琶湖も綺麗だね。夏は琵琶湖で海水浴もいいかもね。」

 

「ええ、琵琶湖で海水浴?ちょっとそれ変じゃあない?だって湖なんだから。」

 

「そっか。じゃあ、淡水浴っていうの?」

 

「淡水浴なんて聞いたことないわよ。ああ、雄琴が見えてきた!ここってすごいところなんだよね。高顕まさか行ったことないでしょうね。」

 

「そんな、あるわけないじゃない。今まで働いてなかったし。そんなお金ないよ。」

 

「ええ、じゃあ、あなたお金があったら行くの?」

 

「そんなこといってないじゃん。あっても行かないよ。純恵ちゃんがいる僕にはそんなところは必要ないんだよ。」

 

そういいながら、高顕は運転中の純恵の頬に軽くキスをした。

 

「それでいいのよ。ちょっとはわかってきたのかな。私がいるのにこんなところに来たら高顕、タダじゃあ済まないからね。」

 

「わかってるよ。純恵ちゃんは、空手の高段者なんだから何されるかわかったもんじゃあないんだから。」

 

「あれ?私が空手の高段者だから行かないって行ってるわけ?」

 

「いや、そうじゃなくて、純恵ちゃんがいるのに行く必要がないってことです。」

 

「そう、それで正解よ。」

 

車の中でも2人は盛り上がって過ごしたが、あっという間に京都を抜けて樟葉周辺まで戻ってきた。

 

「あら、もう樟葉だわ。寂しいね、高顕。」

 

「今日は、僕の部屋に泊まれないの?」

 

「うん、お母さんに今日は戻るからっていってあるから。」

 

「そっかあ。」

 

「そっかあじゃあないわよ。あなたが、悪いのよ。私、早くあなたを両親に紹介したいんだから。あなたが躊躇するから私まだ、両親に学と別れたこといってないのよ。まだダメなの?」

 

「うん、だってまだご両親に合わす顔がないよ。もうちょっと待ってくれないかなあ。夏が過ぎる頃には今の仕事にも自信がつくと思うし。自信をつけてご両親に堂々と「純恵さんを下さい。」って言いたいんだ。」

 

「あなたの気持ち、わかったわ。まだ誰か私よりいい人が表れるんじゃあないかとあなたが思って躊躇しているんだと思ったけどそうじゃあないんだね。信じるわね。私、待っているからね。それに私、うちであなたのこといっぱいお母さんにお話しているの。お父さんに似てるっていったらお母さんもあなたに会いたいっていってたわよ。うふふ、あなたを会わせてうちのお母さんが高顕に惚れちゃったらどうしましょう?」

 

「それはないよ。純恵ちゃんのお母さん、お父さんのこととても好きだと思うよ。」

 

高顕がそう言い終わる頃、高顕のマンション前に到着した。純恵は車を止めてから高顕にキスをしていった。

 

「そうね。私もずっとあなたのこと好きでいたいわ。」

 

「ずっと僕のこと好きでいてね。」

 

高顕は運転席の純恵の肩を抱きながらキスをしてそっと車を降りた。純恵は助手席の窓をパワーウインドウのボタンを押して開けて、マンションの階段を上がりかけていた高顕に向かっていった。

 

「今日はゆっくり寝てまた明日から頑張ろうね。」

 

車を発進させた純恵が見えなくなるまで高顕は純恵に手を振って見送った。

 

翌朝、出勤をした高顕と純恵を待ってましたとばかりに所長の皆元が出迎えた。

 

「おい、お2人さん、今日は「西中島建設」に決算変更届と許可更新の件で行くんやったな。ついでに、近くにあるキャバクラの「不思議なリンゴ」のママのマンションに行って来てくれへんかなあ。この間、あそこのチェーン店の営業許可申請やったやろ。その報酬の支払日が今日やねん。あそこのママの森下なみえ、また名古屋にチェーン店だすとかいうてたからその許可申請の仕事、名古屋の行政書士なんかに頼まんとうちにやらせてえなあって営業もかけてきてくれな。」

 

「はいはい、わかりました。なんか面倒な仕事だからさっさと行って終らせましょうね。高顕。じゃあ、早速行ってきますので、今日は朝礼でなくていいですね。」

 

「ええ、わしの朝礼の挨拶きけへんっていうんかいなあ。わしゃあ、足立君に聞いてもらおうっておもって前の晩からいつも挨拶考えてるんやで。悲しいなあ。まあでも、今日は営業もしてもらわんとあかんから免除したるわ。頑張って、報酬の取立して、仕事もとってくるんやでえ〜。」

 

出勤したばかりの純恵と高顕は、また事務所を出てなみえのマンションがある西中島へ行くため本町駅へと向かって行った。本町から西中島までは地下鉄御堂筋線一本で行ける。旅行疲れが出たのか電車の中で純恵は頭を高顕の肩に乗せながら寝てしまった。すやすやと眠る純恵を見ていると高顕も眠くなってきてうとうとしはじめた。本格的に眠ってしまった2人が目を覚ました頃には電車は西中島の駅を過ぎて新大阪に着こうとしていた。

 

「あら、大変、高顕起きるのよ。西中島過ぎちゃったわ。」

 

「ああ、ほんとだ。どうしよう。」

 

「電車で戻るのもなんだし、ここから歩いて西中島まで行こうか?」

 

「そうだね。そうしよう!」

 

新大阪駅で電車を降りた2人は歩いて西中島まで向かった。

 

「西中島まで結構あるのね。この辺よくわからないからもっと近いかと思ったわ。」

 

朝からかなりの距離を歩いた2人であったが、そうこうしているうちになみえのマンションについた。

 

チャイムを鳴らすと、すっぴんで眠そうな顔をしたなみえがマンションのドアを開けた。

 

「あら、皆元ちゃんところの足立先生やないの。なんやのこんな朝から。」

 

「森下さん、この間の新しいキャバクラの営業許可申請の報酬を頂きに参りました。」

 

「ええ、取り立てかいな。まあ、こんなところではなんやからあがってえな。」

 

そういって、純恵と高顕を自分の部屋にあげた、なみえであったが、昨日の晩も遅くまで仕事だったのかとても気分が悪そうである。それでもコーヒーを純恵と高顕に煎れてくれた。

 

「いつもながらママの煎れるコーヒーは美味しいですわ。」

 

「そんな、お世辞いうってもなんもでえへんで。」

 

「いや、報酬は出してもらわないと困ります。」

 

「相変わらず厳しいなあ。足立先生は。でもなあ、今日はちょっとお金ないねん。それに今、うち大ピンチやし。」

 

「ええ、なんですって。それは困りますよ。今日払ってもらわないと。」

 

取り立てに関しては厳しい純恵の目の色が変わった。そんな純恵を見てうなだれながらなみえは、大ピンチである訳を話し出した。

 

「いやなあ、足立先生。実はなあ、今年の1月にうちの若い子が急に退職してなあ、300万円の退職金払わなあかんようになってん。丁度その頃、資金繰りが悪うってお金なかってん。ほんでどうしようかなって思ってたら、客の「淀川不動産」ちゅう不動産屋の社長が、「わしが貸したるわ。その代わりデートしてやあ。」いうて下心丸見えやったけどそいつから借りてもうてん。そしたらその社長、貸した翌週からまあ、私の店来てツケで飲むわ飲むわ。自分ところの若い連中や得意先も連れて来るさかいあっという間にツケ代金、320万円ですわ。うち借りた金額オーバーしているやないですか。ちゃんと飲み代はろうてやいうても、「おまえには金貸し取るやないか。」いうて聞けへんのですわ。でもこういうことはキチンとしとかなあかんおもって、3月にちゃんとツケはろうてな、4月の頭にはろうてなって決めたんですわ。はろうてくれへんかったら私もあんたからの借金払えへんからなっていうって。」

 

「なみえさんのその社長からの借金の返済期日はいつだったんですか?」

 

「3月のはじめだったんですわ。でも社長がツケでいっぱい飲むから、ちゃんと精算するまではうちも払えへんでいうって払えへんかったんですわ。社長が払わんかったら借金とツケ帳消しするからなっていうて。」

 

「なるほどね。」

 

「そしたらやなあ、昨日、「ITカンバセーション」とかいう、淀川不動産の債権者やちゅう人がうちの店に来てな、「おまえが淀川不動産から借りてる借金300万円うちに払え。」ちゅうんですわ。なんや淀川不動産もうあかんみたいで、ITカンバセーションへの買掛金払われへんみたいなんですわ。ほんでやねえ、うちに払えいいよんねん。でもなあ、うち、淀川がツケ払えへんかったら、この300万円の借金も払わんつもりやったやろ。それが、ITに300万払わなあかんわ、うちのツケ320万円はもらわれへんはいうたらうちも潰れてしまうがなあ。ITに払われへんのやったらどうせ、うちにもツケ払われへんやろ。そういうことやから、イマニジアの報酬も払われへんということですわ。夜逃げの準備せなあかんっておもうてるぐらいやねんから。」

 

なみえの話を聞き終わった純恵はニヤっとした笑いを浮かべた。

 

「いや、うちの報酬は払ってもらいますからね。ママ、パソコンはあるかしら?」

 

「ええ、ここまで話しても許してくれへんのですか?厳しいなあ。パソコンぐらいあるけどなにするのん?」

 

「いいことしてあげるから、上手く行ったら、報酬払ってもらって、ついでに名古屋で開店予定の新しいお店の営業許可申請もうちでやらせてもらっていいかしら?」

 

「いいことって何?またアロマトリートメントでもしてくれるのん。でも、足立先生、すごいわね。アロマテラピストの資格も持ってて。うちの若い子達も足立先生のトリートメントはいいって評判だったわよ。ちょっと料金高いけど。」

 

「ちょっと、ママ。同僚もいてるんだから内職してるの黙っててくれないかなあ。」

 

2人のやり取りを黙って聞いていた高顕がはじめて口を開いた。

 

「ええ、純恵ちゃん、お水のお姉さん達相手にアロマセラピストのバイトをしてたの?」

 

ゴホンと咳払いのマネをした純恵は高顕の横槍を無視して話しを進めた。

 

「いや、ママ、確かに今のママには癒しも必要だけどそうじゃなくて、ITカンバセーションに300万円払わなくていいかもしれないようにしてあげるっていってるの。」

 

「ええ、そんなことできるん?できるんやったら嬉しいわ。そら、報酬も今日払いますし、名古屋のお店の許可申請もイマジニアさんに依頼するわ。だってITに金払ってたら名古屋のお店なんか開店でけへんもんね。」

 

泣きそうになるなみえを尻目に純恵は高顕に向かっていった。

 

「高顕、ママから淀川不動産とITカンバセーションの社長の名刺もらって、所在地を調べてママのパソコン借りて、淀川不動産に対する相殺通知書とITに対する相殺済みによる支払拒絶通知書を作って。内容証明にして帰りに郵便局から出すから文字数行数に気をつけてね。これでITカンバセーションがママに300万円払えって言わなくなったら、名古屋の店の営業許可はうちに回してくださいね。」

 

「そりゃ、約束するわよ。ああ助かったわ。じゃあ、今日の報酬も今払わせてもらいます。」

 

「あっそう、今同僚がやってる仕事の分も払ってくださいね。今度でいいから。」

 

「ちゃっかりしてるわね。足立先生は。安心したらほっとしちゃった。そうそう、また私とうちの子達にトリートメントもしてよね。」

 

「その話は、携帯にこっそりしてくれないかなあ。同僚がいてるから。」

 

「あら、今パソコン打っている人、同僚なの?彼氏かとおもちゃった。なかなかいい男じゃあない。彼氏じゃあないなら、彼氏にしちゃおうかなあ。彼何歳ぐらい?私や純恵ちゃんと同い年くらいかしら。行政書士さんが彼氏なら今回のようなことがあっても安心するし。」

 

「今回のような問題が起きたときには、私がいるじゃあないですか。それに彼は可愛い彼女がいてるんですって。残念ですね。歳は私たちよりも少し若いですわよ。」

 

「あら、そうなの。じゃあ、しかたないわね。年下には興味はないし。それにしてもありがとう。はい、これこの間の報酬。これからも頼むわね。」

 

「ママも早く、いい人見つけてね。はい、これ、今そのイケメンさんがやっている仕事の分の請求書。今月末まででいいからね。」

 

「はあ〜。」

 

なみえのマンションを出た純恵と高顕はその足で郵便局へと向かった。郵便局で内容証明郵便を出した後、近くにある西中島建設に向かうため2人は高架下をくぐってなみえのマンションがある反対方面を歩いた。

 

「ねえ、純恵ちゃん、さっきのなみえママの件だけど、あれ相殺できるの?ITカンバセーションが淀川不動産がなみえママに持っている債権を差し押さえしたら相殺できないんじゃあなかったかなあ。」

 

「あら、どうして?」

 

「だって、最高裁の判例によると、なみえママが持っている淀川への債権の弁済期は4月の頭でしょう。淀川がママに持っている債権の弁済期は3月のはじめ。相殺する方が持っている債権、つまり自働債権の弁済期が相殺される方が持っている債権、つまり受働債権の弁済期よりも後の場合は万が一受働債権が差し押さえされた場合、相殺できなかったんじゃあないの?ママが相殺するためには自働債権の弁済期つまり4月の頭まで待たないといけないよね。そうなると、ママは受働債権に対して履行遅滞となるよね。自ら履行遅滞をしておきながら相殺による担保機能を期待するのは正当な期待とはいえず、保護に値しないというのが判例の立場だったと思うんだけど。」

 

「それは、制限説による判例で昭和39年の古いヤツじゃない。その判例を変更した、昭和45年の最高裁判例は忘れたの?」

 

「あっそうだ、無制限説っていうのがあったんだね。「支払の差止を受けた第三債務者はその後に取得した債権による相殺をもって差押権者に対抗できない。」っていう民法511条の規定を反対解釈して、この規定を満たしているんだったら、制限説のような条文外要件を設けずに、受働債権の差押前に取得された自働債権なら、自働債権の弁済期が来て相殺適状にさえなれば差押後でも相殺できるっていう説だね。でも、これでは、債務不履行を助長することにならないのかなあ。」

 

「そういう批判はあるけど、相殺による担保的機能は現代の経済社会において、取引の助長などに役立つなどの理由で結局は最高裁も経済的需要を考慮し判断したということになっているのよ。」

 

「なるほどね。前に純恵ちゃんのトリニティの講義を見に行った時の話と同じだね。この問題の場合も、最終的には価値判断ということなんだね。法解釈の限界が見えた後は結局、法律の外における要因、民法の解釈外要因のところで基準を立てないとしかたないということなのかあ。」

 

「まあ、そういうことね。それよりまだ早いけどお昼にしない?この辺に確かインド料理店があったのよね。」

 

「ええ、西中島建設はどうするの?」

 

「朝から一仕事したんだから後回しでいいわよ。さあ、本場のカレーいくわよ!」

 

純恵は高顕の手を引きながら西中島駅から少し歩いたところにあるインド料理店へとスキップしながら歩いて行った。2人の笑顔は柔らかな春の日差しよりも輝いていた。

 

  

 

17.波乱の夏のはじまり

 

早いもので、高顕がイマニジア行政書士法人に勤め出してから、半年が経とうとしていた。見習い扱いで入所した高顕であったが、行政書士登録も完了し、今ではイマジニア行政書士法人のアソシエイト行政書士としていくつかの仕事も一人でこなせるようになり、着々とプロフェッショナルとしての道を歩み出している。高顕の給与体系は、固定給こそは、10万円程度しかないが、1件業務をこなすとイマニジアが顧客から受け取る報酬額の10%がインセンティブとして高顕に支払われる。高顕の営業活動により獲得した案件については、最後まで高顕が処理することを条件に報酬額の40%がこれまたインセンティブとして高顕に支払われる。社会経験の少ない高顕は自分で仕事を取ってくるということは難しいため、40%のインセンティブを得ることはほとんどないのだが、10%のインセンティブの方は、月に30万円近くになる。固定給と合せると月々の収入は40万円から多いときでは50万円近くになるときもあるため、同年代の者に比べるとかなり多めであり、生活にも余裕が出て来て、念願だった自動車も中古車ながらローンで購入した。

 

純恵との交際も恋愛当初の激しさはなくなりつつあるが、その分落ち着いた関係になってきている。しかし、まだ、純恵は両親に学と破局し、高顕と付き合っていることを話していない。この件を切り出すと高顕がウジウジしだすので、ほったらかしにしているというところである。そういう気まずさはあるものの、朝は2人仲良く揃って樟葉から本町まで一緒に電車通勤をしている。

 

「高顕、今日は、あなた、会社設立の案件が2件だったけ?」そう純恵が電車の中で隣り合って座っている高顕に聞いた。

 

「うん、そうだね。会社設立案件が2件。純恵ちゃん手伝ってくれるの?」

 

「しょうがないなあ。私の方は、建設業許可と帰化の案件があるけど、そんなに時間がかからない案件だから、余った時間で手伝ってあげるわ。そのかわり相談が一件あるからそっちを一緒にやってね。事前レポートのコピーはこれだから読んどいてね。」

 

「さすがは純恵ちゃん、ただでは手伝ってくれないんだね。」

 

「あなたね、可愛い彼女に向かってその言い草はないでしょう!」

 

「ごめんごめん。」

 

そうこうしているうちに本町駅に着いたが、駅から事務所までは別々に向かった。事務所の同僚達にはまだ2人の仲を話していないからである。まず、高顕が最初に事務所に到着し、それから2分遅れで純恵が事務所についた。さっきまで恋人然としていた純恵と高顕であったが、事務所に着くと他人行儀を装い、そそくさと準備をして朝の行事である掃除をはじめた。

 

同僚達もなんとなく、2人の関係には気付き始めているようであるが、あえて知らない振りをしているようである。もちろん、満智子は2人の関係を知っているわけであるが、高顕の引越し祝いの日のこともまるでなかったかのように、普通に純恵と高顕に今まで接してきた。しかし、今日はそんな満智子の様子が少し変である。掃除を終えて仕事着である制服とスーツに着替えるため純恵と満智子は更衣室に入った。

 

「ねえ、足立先生。京極先生は、最近、熱心にお掃除をされますね。仕事もテキパキとされますし、入所されたときとは見違えるように自信に溢れているような感じがしますよ。彼女でもできたのかなあ?」

 

「そうね。そうかもしれないわね。」

 

「そうかもしれないわねって?うふふ、先生が京極先生の彼女のこと一番よく知ってるんでしょ。」

 

「ええ、突然何いうのよ。」

 

「私わかるもん。女だから。足立先生が彼女なんでしょ?隠してもダメですよ。引越し祝いの日にお泊りしたんでしょ?抜け駆けしないでねっていったのに。」

 

「そんなわけないじゃない。違うわよ。」

 

「隠したって無駄なのに。でも、足立先生が彼女じゃあないんだったら、遠慮いらないのかなあ。私、まだ諦めてないもん。誘惑しちゃおうかなあ。」

 

「ダメよ。止めてよ。絶対、許さないから。」

 

「あら、なんで。うふふ、ほら。大事な彼氏なんでしょう。」

 

「赤松さん、婚約者がいるじゃない。」

 

「先生だっていたじゃあない。」

 

「もう、別れたわよ。」

 

「やっぱり。でも、私も諦めないもん。京極先生、最初私の方が好きだったんだから。好き好きっていうから私も好きになっちゃたんだもん。責任取ってもらわなきゃあ。」

 

「高顕はあなたのところには行かないわよ。」

 

「自信があるなら心配しなくてもいいんじゃあない。私も自信があるもん。」

 

満智子の突然の宣戦布告に言葉を失った純恵であったが、皆元の朝礼をはじめる合図の言葉を聞いて、それ以上、話しをすることなく、更衣室を出た。

 

「みんなおはよう。ほな、朝礼はじめるで。なんや、足立君と満智子ちゃん機嫌悪そうやなあ。2人ともアレか?まあ、無理せんと一日頑張ってくれや。」

 

「ちょっと、所長、何それ。セクハラじゃないの。行政書士にあるまじき行為だわ。訴えるわよ。いや、殴った方が早いわね。」

 

更衣室で満智子と険悪なムードになった上、脳を通さずにものをしゃべる皆元の朝からのセクハラで純恵の怒りは頂点に達した。純恵の尋常ではない怒りにみちた目を見た皆元は、はと我に返ったように急に真面目に朝の挨拶をはじめた。

 

「いつものことだか、6月ももうすぐ終盤だ。今月もまた予算を達成していない。気を抜かないで頑張って欲しい。」

 

「あんな暴言吐いた後で真面目に話しても説得力ないわよ。」

 

「これまた、いつもながら、厳しいなあ、足立君。謝るからもう許してね。ごめんなさい。」

 

「わかればいいのよ。二度と、あんなこというんじゃあないわよ。」

 

そう言って、朝礼場所である会議室を出て、肩を左右に大きく振りながら純恵は執務室へと向かって行った。苦笑いしながら、山名と一色も会議室から執務室に向かい、バツが悪そうに皆元もトボトボと会議室を後にした。出遅れて、会議室に残った満智子は同じように残っている高顕ににっこり笑って話し掛けた。

 

「足立先生、いつもながら怖いわね。あれじゃあ婚約者さんも大変かも。ね、京極先生。」

 

「あっ、うん、そうだね。」

 

「そういえば、最近、京極先生、私のこと、可愛いってあんまり言ってくれなくなったね。前はいつも言ってくれてたのに。」

 

「いや、赤松さんはいつも可愛いですよ。」

 

「うふふ、好き?」

 

「えっ?」

 

「ねっ、今度デートしようか?」

 

「えっ、いつ?」

 

「いいの?嬉しいなあ。7月に入ったら行こうか。どこに行く?私、神戸に行きたいなあ。」

 

制服の一番上の胸のボタンを外している満智子の胸元から見える豊かな胸の谷間に気を取られた高顕は、思わず、うなずいてしまった。

 

「やった!みんなには内緒にしてようね。」

 

「でも、赤松さん、婚約者がいるんじゃあないですか?」

 

「そんなこと言わないでね。ちょっと、デートするだけなんですから、大丈夫ですよ。それに婚約者とはあまり上手く行ってないの。だって、もっと素敵な人が目の前にいるんだもん。京極先生は最近見違えるように立派になってきてとても素敵ですよ。ねえ、いいでしょう?」

 

「ええ、まあ。赤松さんとデートできるなんて嬉しいです。」

 

「じゃあ、決まりね。都合のいい日が決まったらメール下さいね。」

 

純恵のことが一瞬頭をかすめたが、少しデートするくらいなら大丈夫と自分に言い聞かせながらワクワクしている自分を押さえ切れなかった高顕は満智子とデートすることに同意してしまった。

 

  

 

 

18.瑕疵担保責任

 

「さあ、会社設立案件手伝ってあげたんだから、次、今日の相談案件の打ち合わせしましょう。」

 

今朝、高顕と約束した相談案件の打ち合わせが嬉しくてしかたない純恵はそう高顕に言った。とにかく高顕と一緒に何かするのが嬉しいようである。相談案件の打ち合わせのため執務室から会議室へと向かう純恵と高顕を横目で見ながら、満智子は少し身体を震わせていた。

 

会議室の椅子に隣り合って座った純恵と高顕は早速打ち合わせに取り掛かった。

 

「純恵ちゃん、今回の件もややこしそうだね。ふむふむ、新品ウォーターベッドの買主さんからの依頼かあ。さてさて、170万円のウォーターベッドを…、って170万円!なんだそりゃ!まあいいや、その買主さんがウォーターベッドを引き取ってから1年と2ヶ月後に欠陥があることに気付いたので、契約の解除を求めたところ、売主が「判例では、新品ウォーターベッドのような不特定物でも、特定されることにより、中古住宅のような特定物となり、特定物なら瑕疵担保責任が適用され、債務不履行責任は排除され、契約解除は、瑕疵を知ってから1年しか行使できないはずである。黙って受け取っているんだったら瑕疵についても知っていたのであろう。本件においては履行から1年経ってるから、債務不履行による契約解除はできない。」と主張しているのか。この売主、ただものではないよね。」

 

「そうね、昔法律を勉強したことがあるような感じの売主よね。でも、理論構成が甘いけど。だいたい、その判例って大正時代のものよね。」

 

「そうなの?」

 

「そうなのって、知らないの?」

 

「だって、今朝レポート渡されたばかりだから調べてないもの。」

 

「これぐらいの話は覚えておきなさいよ。基本じゃあない。」

 

「そういなわいでよ。法律知識については純恵ちゃんの方が上だって、僕も認めてるんだから。僕のお師匠さんなんだから優しく教えてよ。あっ、よく考えると純恵ちゃんは教え子に手を出したんだね!」

 

「なにいってんのよ。あなたが、女教師に手を出したんでしょ。まあ、どっちでもいいわよ、そんなこと。それより、この場合、どう理論構成するの?」

 

「瑕疵担保責任の場合、学説が二つあったね。法定責任説と契約責任説だったけ?法定責任説で考えると、瑕疵担保責任を追及できるのは、「特定物」だけということになるね。特定物の場合は、現状引渡でいいので、契約前から瑕疵のある目的物なら瑕疵がついたまま引き渡せばいいけど、それでは、買主に酷だから、売主に過失がなくても、責任追求ができるという民法570条が特別に認めた売主に過失がなければならないという債務不履行責任とは別の特定物にのみ適用される特殊責任が瑕疵担保責任と考えるんだったね。だから、法定責任説の立場からすると不特定物

 

の場合は担保責任を追及することはできないということになるね。」

 

「そう、いいわよ。じゃあ、契約責任説は?」

 

「契約責任説では、担保責任は債務不履行の一種と考えるから、特定物・不特定物両方に適用され、特定物・不特定物に関わらず責任追及できるとするんだったね。ただ、通常の債務不履行で要件とされる過失を問わず無過失責任とするので、民法上特別の規定が必要になったとするんだったよね。」

 

「そう、やるじゃん。じゃあ、本件の場合は?」

 

「全然、わかんない。」

 

「だめじゃん。本件の場合は類似事案に関する昭和36年の最高裁判例があったでしょう?行政書士試験にも出てたじゃあない。」

 

「忘れたよ。」

 

「もう、だめねえ。「債権者が暇疵の存在を認識した上でこれを履行として認容し債務者に対しいわゆる瑕疵担保責任を問うなどの事情が存すれば格別、然らざる限り、債権者は受領後もなお、取替ないし追完の方法による完全な給付の請求をなす権利を有し、従つてまた、その不完全な給付が債務者の責に帰すべき事由に基づくときは、債務不履行の一場合として、損害賠償請求権および契約解除権をも有するものと解すべきである。」っていうヤツじゃあない。」

 

「さすがは僕のお師匠さん。でも、よく覚えてるね。そんな判例。」

 

「っていうか、法律専門家だったら常識でしょう。これぐらいの判例、空で言えるの。」

 

「うちの所長は言えないと思うけど。」

 

「それは言わないの。あんなのでも一応、所長なんだから。ようするに、この判例は、不特定物の売買について、瑕疵ある物の給付は、履行にはあたらないため、買主は、瑕疵のない物の給付を求めることができるにも関わらず、買主が履行として認容して受領した場合、つまり、瑕疵があるけどまあいいかと思って受領した場合には、瑕疵のない物の給付を求めることができなくなり、一般債務不履行責任を追及できず、瑕疵担保責任しか問えないけれど、履行として認容せずにつまり、瑕疵があることを知らずに受領した場合は、債務者に帰責事由があれば本来の債務不履行責任も問えるんだ、だから本件も債務不履行による契約解除が認められうるとするものね。」

 

「ひえ〜、すご〜い。さすがは、純恵ちゃん、パチパチパチ。よかった純恵ちゃんが彼女で。将来一緒に事務所しても頼れる純恵ちゃんがいるから安心するよ。」

 

「何情けないこといってんのよ。高顕もしっかりしてよ。赤ちゃんできたら、あなたが一人で切り盛りしないといけないんだから。」

 

「純恵ちゃん、美人だし、僕ハンサムだから美男美女の子供が生れるね。可愛いだろうなあ。でも、美男美女は苦労するからなあ。」

 

「うふふ、何、気の早い話してるのよ。それより、この判例は法定責任説なのかしら、それとも契約責任説?」

 

「ええ、もういいじゃん、債務不履行に基づく契約解除が可能とわかったんだから。瑕疵担保責任のきっちり1年だけの除斥期間内での品質保証ではなくて、本件の場合は、債務不履行責任が適用可能だから、10年間は責任追及を行なうことができるということでしょう?結局、本件は、10年も経ってないから契約解除も可能ということで後は内容証明作って売主に送れば本件は一件落着!チャンチャン。」

 

「そんなんだから、成長しないんじゃあない。」

 

「ええ、赤松さんは立派になったって言ってくれたよ。」

 

「赤松さん?そういえば、最初ここに来たときあなた赤松さんが可愛いとか言ってたけど、まだ気になってるの?それならいいわよ。赤松さんのとこに行けば。」

 

「立派になったって言ってくれたっていっただけじゃん。拗ねないでよ。」

 

「拗ねてないわよ。もういいっていってんの。」

 

「そうじゃあなくて。」

 

「あなたが成長しているかどうかは私が一番よく知ってるに決まってるじゃないの。わかってくれないならもういいわよ。」

 

「ごめんね。ちょっとやきもちやかしただけなんだよ。」

 

「もう、ほんと女心がわからないんだから。だめよ。もうちょっと私の気持ちをわかってくれなきゃあ。どこかに飛んでいちゃうわよ。」

 

「ごめん。純恵ちゃんがいないと僕生きていけないからどこにも飛んでいかないで。」

 

「よし!それでいいのよ。じゃあ、続きね。」

 

「ええ、まだやるの?」

 

「当たり前よ。ある学者は、この判例を「契約責任説」に基づくものと位置づけた上で、「買主が履行として受領した場合、売主としては、履行が完了したものと期待するのが通常で、それを後から、債務不履行だと文句をいうわけだから、売主との期待との調整を考えて、一般の債務不履行責任よりも短期間で処理し、また適用領域も限定し、一般債務不履行責任は、買主が目的物を受領するまでに問える責任で、特殊債務不履行責任たる瑕疵担保責任は買主が目的物を受領した後に問える責任としていると説明しているわ。」

 

純恵はいつのまにか手を腰にあてて、右足を少し前に出してしゃべっている。

 

「他の学者は、一般説として法定責任説を採用している人が多いから、「この判例は、担保責任についてその性質が、法定責任説、契約責任説いずれをとっているのか定かでない。」と評価する人が多くて、結局のところ、決着がついていないという形になっているわ。この判例理論には問題があるとする方が多いようね。」

 

「なんだそりゃ。」

 

「個々の事件においては、過去同様の事件があったとしてもそれとは微妙に異なる部分・事情があって、過去の判例をそのままストレートに適用すると妥当な結論にならない場合もあるけれども、かといって過去の判例を簡単に覆すわけにもいかないので、過去の判例を適用し、当該事件に無理矢理合わそうとするので非常に複雑な判例理論となる場合がたまにあるということかしら。」

 

「なんだかわかったようなわからないような感じだなあ。」

 

「まあ、そういうことだから、じゃあ、内容証明作って売主に送っておいてね。」

 

「ええ、結局、僕が作るの?」

 

目を細めながら、少し上擦った声で高顕が言った。

 

「会社設立手伝ってあげたじゃない。それにさっき、私のご機嫌損ねたんだから、これぐらいのことやってくれるわね。」

 

「わかったよ。じゃあやるから、機嫌なおしてくれる?」

 

「うん、帰りにケーキ奢ってくれたらね。」

 

「わかったよ。じゃあ、これ終ったら一緒に帰って、ケーキ買ってうちで食べようね。」

 

「やった!さっさとやって早く帰ろうね!うふふ、こっち向いて。ちゅ。」

 

「だめだよ、人に見られたらどうすんの。」

 

と、高顕が言い終わらないうちに、会議室のドアが開いて皆元が入ってきた。

 

「お前らえらい仲がええな。そんなに顔近づけて、キスでもしてたんか?えらいとこみてもうたなあ。」

 

「あら、所長、また懲りずにセクハラあそばせるのですか?今度は本当に殴るわよ。」

 

「おいおい、西日本空手道選手権チャンピオンに殴られたらナイスガイが、わやくちゃになるがな。それに行政書士が脅迫したらあかんやろ。生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫したものは、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金やで。」

 

「あら、脅迫にあたるかどうかは具体的状況のもとで一般的に人を畏怖させるに足りる内容かどうかを基準に判断されますのよ。可憐な私が可愛く殴るわよなんて言ったところで現実味がない冗談としかとれないんなんだから、脅迫なんかにはならないわよ。っていうか、私に殴られたら所長、喜ぶくせに。」

 

「おいおい、人をMみたいにいうわんといてくれよ。おまえがセクハラしとるやないか。まあ、ええわ、許したるから朝の件と帳消ししてくれや。まあな、足立君がキツイこというてくれんとなんや元気ないんかおもてわしも心配するからな。」

 

「あら、少しは親心みたいなところがあるのね。」

 

「あたり前や、おまえらのことは子供やおもとんねんで。せやさかい、仲人も引き受けたんやないか。まあ、相手が変わって万が一、このボンクラになっても、こころよう引受たるから安心しとけよ。」

 

「所長・・。」

 

「まあ、仲ええことはええことや。ボンクラも足立君を大事にしなあかんで。泣かしたら承知せんからな。」

 

そう言いながら皆元は会議室から静かに出ていった。皆元に純恵との仲を見透かされて、高顕は顔を赤らめながら思わず下を向いた。

 

純恵も、皆元に全てを知られてしまったと気付き、顔が赤らんできたが、品はないが暖かみのある言葉を皆元からかけられ嬉しくなって思わず黙って高顕の手を握り締めた。

 

  

 

 

19.田場

 

7月のはじめのある日、イマジニア行政書士法人にいまどき流行らないヒッピーのようなカッコをした田場真二という男が訪ねてきた。起業に関する相談があるという。この手の仕事は経営コンサルティングを伴う業務であるため、役所に対する行政手続業務を主としている皆元や一色はあまり得意ではなく、いつも純恵にまかされている。ところが今回はその純恵も他の仕事で名古屋に出張中であり忙しく、純恵の愛弟子である高顕にお鉢が回ってくることとなった。

 

「うちの事務所でやっていくためにはこういう業務も知ってもらう必要がある。わしや一色、足立君は今忙しいから京極君にまかすで。しっかりやってや。まあ、わからんところがあったら、年上女房の足立君によく聞いて教えてもらうんやで。」いつもながらの下品な付け足しをしながら、皆元が田場の仕事を高顕に割り振ってきた。

 

「いや、足立先生は年上女房じゃあないですよ。」頬を赤らめながら、下を向いてそう話す高顕だったが、間髪入れずに皆元は、

 

「ほな、この間のいちゃつきはなんやねん。わしゃ、みたんやで。」と高顕に問い詰めた。

 

「いやあ、あれはちょっと顔を近づけ過ぎて話していただけであって・・。」

 

「なにいうとんねん。接吻してたやないか。隠しても無駄やっちゅうねん。おまえ、赤なっとるけどな、こっちの方が照れくさあなってもうたがな。まあ、なんでもええんやけど、あんまり事務所内ではいちゃつかんといてくれな。他の職員の手前もあるよってな。それと足立君とつきあうんは覚悟がいるで。わかってるやろ。略奪愛になるんやからなあ。あはは!まあ、がんばれや。それはええとして、今回の仕事、ちょっと注意してやれよ。あの田場っていう男ちょっとクセあるからな。」

 

「クセがある?」

 

「みてわからんのかいなあ。まだボンクラぐせが抜けんやっちゃなあ。まあ、気になることがあったらすぐにわしや足立君に相談するんや。自分で即断して突っ走ったらあかんで。わかったら、はよ相談室に行って、相談聞いてきたれや。」

 

「わかりました。」

 

そう、皆元に促され、高顕は相談室に向かった。相談室に入ると、田場が頭を抱えながら、背中を丸めてソファに腰掛けていた。

 

「今回の件を担当いたします、行政書士の京極と申します。はじめまして。宜しくお願いいたします。」

 

片手で名刺を田場に渡しながらそう挨拶した高顕に対して、

 

「田場真二といいます。「TB楽器」っていう店構えて、中古楽器の販売と修理の仕事をしてますう。」と田場も高顕に挨拶をして、お辞儀をしながら、「TB楽器株式会社 代表取締役社長 田場真二」と書かれた名刺を両手で高顕に手渡した。

 

「TB楽器さんは会社なんですか?」

 

「いや、それが会社ちゃいますねん。でも、こっちの方がかっこよろしおまっしゃろ。それに近い内に会社にしようおもってますから。」

 

「ええ、会社じゃあないんですか?会社法っていう法律がありましてですね。その7条で、会社でない者はその名称または商号中に会社であることを示す文字を使ってはならないという決まりがあってですね、ちょっとまずいような気がするんですけど。」

 

「そんな、法律ありまんのか?ほな、これ名刺作り直さなああきまへんなあ。いや、知りませんでしたわ。やっぱり専門家に聞いとくもんやなあ。」

 

そう、答える田場を見ながら、これは先が思いやられると感じた高顕であった。

 

「では、今回のご相談の内容をお聞かせくださいませんか?」

 

「ほな、先生、まずこれみておくんなはれ。」

 

そう言って、田場は、ラジカセのような機械を大きな鞄から取り出した。

 

「ちょっとなんでもええから、先生、この機械に向かって鼻歌でも歌ってもらえんやろか?」

 

「ええ、機械に向かって歌うんですか?あんまり歌は得意じゃあないんだけどなあ。」

 

「ええから、ええから。音痴でもOKですねん。」

 

そう、田場に言われて、高顕は適当な鼻歌をその機械に向かって歌った。

 

「先生、ほんま、音痴ですなあ。」そういいながら、田場は、その機械の表面にいくつもついているボタンを鮮やかな手つきで操作した。そうすると、先程高顕が歌った鼻歌が見事にアレンジされ、伴奏がついた曲になってその機械のスピーカーから流れてきた。

 

「どうです?これは鼻歌を元に作曲してくれる作曲マシーンですわ。名づけて「ノーズ・コンポジション」っていうですけど、略してノーコンいうてますねん。」

 

「いや、驚いた。すごいですね。もしかして、田場さんが発明したんですか?」

 

「そうですねん。それで本題やねんけれども、このノーコンでわしビジネスしたいわけですわ。でも、わし、全然金もってませんねん。それで、わしに資金提供してくれる出資者をずっと探して全国駆け回ってたんやけど、やっとみつかったんですわ。」

 

「そりゃ、よかったですね。ところでその出資者って誰ですか?」

 

「大阪で薬局5件経営している人で、大園治樹っていう人ですわ。まあ、浮いた金でなんかしようおもっていつも考えてたみたいですな。この大園さんのHPでニュービジネス募集っていうコーナーがあってそれみて応募したら、面白いっていうことで採用になったんですわ。でもなあ、先生。その大園さんがやなあ、出資したってもええけど、なんや経営計画書みたいなもんを作ってよこせいいよんねん。わし、そんなもん作ったことないし、どうやってつくってええのかもさっぱりわかりませんねや。わからなんなりに作って大園さんに見せたら「そんなんではあかん!」いいよんねん。途方に暮れてたら知り合いが以前おんなじように経営計画書やらをイマジニア事務所さんに作ってもうて役所から助成金もうたいうんを聞いてな今回おじゃましたわけですねん。」

 

そう、今回の依頼の内容を説明した田場の話を聞いてようやく高顕も依頼のポイントを掴むことができた。

 

「わかりました。経営計画書作成依頼ということですね。では、ノーコンの原価や売価、見込み客等を後に詳しくお伺いした上で経営計画書の作成をさせて頂きたいと思います。大園さんの出資が決まった段階で会社を設立される場合はそのお手伝いもさせて頂きたいと思います。あっ、それとノーコンは特許は取ってるんですか?」

 

「いやね、特許はとってないんやけど、大丈夫ですわ。著作権ならとってますねん。先生、まあ、これをみたってください。」

 

そう、言って田場が取り出した賞状のような用紙の表題には、「著作権登録書」と仰々しく書いてあった。これに綴られている2枚目の用紙にはノーコンの使い方が書かれてあり説明書のようになっていた。

 

「これで権利化したんですわ。知り合いから聞いてやったんやけど、特許取んのん、めちゃめちゃ高いでしゃやろ。金もないしどうしようかいなおもってたら著作権で権利化したら安いでいわれてやったんですわ。いや、助かりましたわ。」

 

「田場さん、あのですね。確かにノーコンの取扱い説明書を作ってらっしゃいますから、その説明書自体には著作権が発生し保護されますけれども、ノーコン自体のアイディアはちょっとそれでは保護されませんよ。つまりですね、取扱い説明書の方はマネされませんが、ノーコン自体は無断で製造販売されてしまう可能性があるということですよ。やはり、発明そのものについては特許権、念のためノーコンという名称も商標権という形で権利化すべきだと思うのですが。」

 

「ええ、これであきまへんのか!そらあえらいこっちゃなあ。でも特許や商標取るのん金かかるんでっしゃろ。わし、今全然、金おまへんねん。借金なら山ほどありますけどな。あはは!」

 

「大園さんの出資が決まれば、そこから資金を出して、権利化すればいいと思います。提携している特許事務所を紹介しますのでちゃんと権利化していた方がいいと思いますよ。あっ、それと、特許権を取得するためには、産業上利用可能性、新規性、進歩性という要件が求められるのですが、特に注意しないといけないのは、新規性で、新規性とは発明がいまだ社会に知られていないことをいうんですね。ですので、HP等でノーコンのことを公開しないようにした方がいいですよ。」

 

「いや、そうなんですか。わし、技術者やからそういうのなんもしらんのですわ。内緒にしとかなあかんわけですな。いや、先生に相談してよかったですわ。」

 

「それと、このノーコンの試作品は田場さんのお店で

 

製作したのですか?」

 

「いや、これは、出入りしている「カレント」っていう楽器メーカーの工場で試作してもうたんですわ。」

 

「ええ!結構大手の楽器メーカーですよね。気をつけないとカレントに特許取られてしまうんじゃあないですか。」

 

「そうですなあ。町の発明家の発明をアイディア持ち込んだ大手メーカーが取ってしまういう話よう聞きますからなあ。気をつけますわ。まあ、カレントも、わしと齟齬になったら困ることありますさかい、そんなことせえへんと思いますけど、取らんように話はつけときますわ。」

 

「そうしてくださいね。じゃあ、ノーコンの原価や予定売価、見込み客、事務所経費等の細かい点を教えてください。」

 

経営計画書を作成するために必要な、田場からの聞き取り作業は約2時間ほどかかったが、ようやく依頼遂行の目処がたった高顕は最後に報酬面の確認をすることにした。

 

「色々とお聞きして、経営計画書作成の目処が立ったので、作成に取り掛からせて頂きます。また不明な点があればお名刺の電話番号の方にお電話させて頂いてお聞きしたいと思いますので宜しくお願いいたします。あと、報酬の方なんですけれども、今日の相談料の方が、1万円になりまして、これは今日お支払い頂きます。今日帰りに受け付けの方でお支払いください。経営計画書作成料は15万円になります。よろしければこちらの依頼申込書の方にサイン頂けますでしょうか?」

 

「えらい高いなあ。まあしゃあないですな。わかりました。ここにサインしたらええんですな。」

 

依頼申込書に顔がつくような仕草でサインをし、印鑑を押した田場は、その後、受付で相談料1万円を支払い、イマニジア行政書士法人の事務所を後にしていった。

 

田場が帰った後、高顕は依頼を受けた経営計画書の作成に取り掛かるため早速パソコンに向かった。経営計画書の作成は以前にも依頼があって、高顕は純恵のサポートをしながら作成に関与した。その時の記憶を辿りながら高顕は作成の手順を確認していた。

 

「う〜ん、結構大変だなあ。まずは、初年度本体短期経営基本計画表を作成するんだったな。ええと、初年度の見積貸借対照表と見積損益計算書、キャッシュフロー計算書、それにCVP分析表の4表だったなあ。それと直営店を初年度は5店開店する予定とかいってたからこの直営店の経営基本計画表も作って、合算して、次に5年シミュレーションの中期経営基本計画表と証券市場上場計画表を作って最後に概要書だな。うん、なんとか見えてきたぞ!」

 

そう、ひとりごとを言いながらパソコンに向かっていた高顕の隣にいつの間にか満智子が座っていた。

 

「うふふ、今日は純恵お姉さんが出張だから、京極先生1人で大変ですね。よかったら、お手伝いしますよ。」

 

「ええ、嬉しいなあ。赤松さんはもともと経理のお仕事をしてらっしゃったから、この手の仕事は得意だもんね。パソコン打つの早いし。」

 

「私の方も嬉しいわ。だって、いつもは京極先生のこと足立先生が独占しているから、中々一緒にいられないんだもん。あっそう、早くお仕事すまして、今日は一緒にお食事でもしながら、この間約束したデートのプランを考えません?」

 

「いいですね。なんかがぜんやる気が出てきたなあ!」

 

意気投合した高顕と満智子は執務室で遅くまで経営計画書の作成に没頭した。夜7時を回ったところでようやく仕事も一段落した。

 

「今日はこれぐらいにしません?お腹へってきちゃった。」

 

「うん、そうだね、じゃあ、お食事にでも行こうか?」

 

「わ〜い、嬉しい!」

 

仕事を終えた高顕と満智子は、帰り支度をして、事務所を後にし、以前高顕が純恵と一緒に行ったことがある心斎橋の中華レストランで食事をすることにした。地下鉄本町から電車に乗り、車内では寄り添うように身体を密着させながら隣り合ってシートに座り心斎橋へと向かった。長時間一緒に仕事をしたということが2人の距離を急速に近づけていったようである。

 

心斎橋の中華レストランについた2人は、スペシャル飲茶コースを注文し、紹興酒に舌鼓を打ちながら歓談した。

 

「この紹興酒美味しいね。」

 

「うん、甘くて美味しいです。でも、満智子さん、ちょっと飲み過ぎじゃあないですか?帰れなくなちゃいますよ。」

 

「うふふ、帰れなくなったら、京極先生のところにお泊りしようかなあ?それにしても、こんなお洒落なお店どうして京極先生知ってたの?コースのことも詳しいし来たことあるのかなあ?」

 

「いや、以前に友達と来たことがあって。」

 

「ええ、友達って足立先生のことじゃあない?」

 

「いや、男友達ですよ。」

 

「嘘つくのがヘタね。」

 

「嘘じゃあないですよ。」

 

「まあ、いいわ。今日は私とお付き合いしてるんだから、他の女性のことは考えないのが紳士だもんね。偉いですよ。京極先生。でも、さっきからずっと私の胸元みてないですか?えっちなんですね。京極先生。」

 

「ええ、そんなことないよ。」

 

「うふふ、だってみてるじゃあない。正直にいってごらんなさい。」

 

「実はみてました。だって、満智子さんすごくスタイルいいから。」

 

「いや〜ん、やらしい。」

 

「正直にいえっていうから言ったのに!もしかして、酔ってません?」

 

「酔ってないわよ〜。」

 

そういいながらも満智子はかなりの量の紹興酒を飲んでいて、食事が終り店を出たときには相当足元がふらついていた。

 

「さあ、次はカラオケ行くわよ〜。高顕ついてらっしゃい。」

 

「なんか、純恵ちゃんみたいになってきてるなあ。」

 

「ええ、なんか言った?純恵とかいわなかった?今日はその名前はいわない約束でしょ?」

 

いつもおとなしいお嬢さん然とした満智子であるが、今日は酒が入ってがらりと違う雰囲気になっていた。

 

満智子が高顕の手を引いて連れていったのは、道頓堀のラブホテル街であった。夜なのに怪しげな照明で昼間のような感覚を覚えるこのあたりには、体を寄せ合ったカップルしか歩いていない。そんな行き過ぎるカップル達を見ていると、酔いが回っていることもあり、高顕も満智子も淫靡な気持ちになってきた。

 

「さあ、入りましょう。ここにしましょう。プールもサウナもついてるんだって。高顕、サウナ好きなんでしょう?」

 

「ええ、ここラブホだよ。いいの?」

 

「もう、情けないなあ。女の子にそんなこと言わせないでよ。」

 

「そうだね、ここでカラオケするんだよね。じゃあ、入ろう!」

 

酒の勢いもあいまって、高顕は満智子の手を握って一気にラブホテルの中へと入っていった。入り口を過ぎると部屋の写真がいくつも並んでいるパネルがあった。

 

「どれにする?」

 

「高顕が決めて。」

 

「じゃあ、ベットの大きいこの部屋にするね。」

 

パネルのボタンを押して、パネル横にあるエレベータに2人で乗り込んだ。満智子の手を握りながら高まる胸の鼓動を抑えられない高顕は、エレベータの中では急に無口になった。黙っていても、次なる展開を考えるといってもたってもいられない様子であった。エレベータが止まり、ドアが開いてランプが点灯している部屋に入り、靴を脱いで部屋の中に2人で上がった。

 

「結構、いい部屋ね。」

 

そういいながら、満智子は、部屋をじろじろと興味深そうに眺めていた高顕の腰に両手を絡ませた。豊満な満智子の胸が自分の身体に密着して、たまらなくなったのか、高顕は満智子をそのまま黙ってベットに押し倒し、キスをしながら満智子の胸を服の上からきつく揉んだ。甘い吐息をあげだした満智子だったが、

 

「ちょっと待って。シャワーを浴びさせて。」

 

と高顕を制止した。

 

「向う向いててね。着替えるから。」

 

バスルームに向かう満智子にそう言われて素直にベッドに顔を埋める高顕であったが、満智子が服を脱いで、バスルームのドアを開ける音を確認した高顕は、照明の照度を調節したり、BGMのチャンネルを幾度も替えたりして落ち着きなくガサガサとしていた。部屋のTVのスイッチを入れ、アダルトチャンネルを見だしてからは少し落ち着いてきた高顕であったが、再びバスルームのドアを満智子が開ける音を聞いて慌ててチャンネルを変えた。

 

「高顕も入る?」

 

バスタオルを胸の位置から巻いて髪をとかしながら話す満智子にそう促されて、黙ってうなずきバスルームへと向かった高顕であったが、シャワーを浴びている間も早くベッドへ行って、思いっきり満智子を抱きたいとそればかりを考えていた。バスルームから高顕が出たとき、満智子はすでにベッドの中で静かにしていた。バスタオル一枚を腰に巻いただけの高顕がベッドにそっと身体を滑り込ませ、蒲団の中に入って満智子の身体に手をやると、満智子の素肌の感触が高顕の手に伝わってきた。この感触をきっかけに高顕の頭は真っ白になり、その後は無我夢中で自分の身体を満智子の身体に激しく絡ませた。時が過ぎるのも忘れて、快楽に身を任せる2人であったが満智子の中で高顕が激しく果ててようやく夢のひとときが終った。

 

「高顕、激しいんだから。もう。でもすごくよかったわ。興奮した?」

 

「うん、満智子さんすごくよかった。」

 

「そりゃ、新しい女の方が興奮するよね。でも、どうしたの?少し悲しそうよ。」

 

「・・ ・・ ・・。」

 

「もしかして、足立先生のこと思い出してるの?そんな泣きそうな顔をしないでよ。今日はスミちゃんのこと忘れてっていったでしょ。」

 

一時の快楽をむさぼっている間はよかったのであるが、満智子の言葉でふと純恵のことを思い出して後悔しはじめている高顕を感じた満智子はそう高顕に言った。

 

「満智子さん、知ってるの?」

 

「知ってるわ。足立先生とお付き合いしてるんでしょ。お引越し祝いの日にお泊りしてからでしょ?やっぱり、足立先生の方がいいの?」

 

そう、満智子にきつい口調で言われると、高顕は急に頭を抱え出し、ベッドにうずくまって啜り泣きをはじめた。

 

「もう、情けない子ね。ちょっと私としたぐらいで泣いちゃって。純恵お母さんが恋しくなっちゃったのね。スミちゃんには黙っててあげるから、子供みたいに泣いてないでそろそろ寝る?」そう言いながら高顕の頭を撫ぜながらまるで子供をあやすように満智子はすすり泣く高顕の横で添い寝をした。

 

 

 

翌朝、ホテルを出た2人は、一緒に難波駅前のファーストフード店で食事をし、事務所へ出勤するため地下鉄に乗り込んだ。

 

電車の中で満智子は頭を高顕の肩に倒しながらスヤスヤと眠っていた。

 

「満智子ちゃん、本町についたよ。」

 

そういって満智子を起した高顕は満智子の手を握って電車を降りた。

 

「うふふ、同伴出勤ね。一緒に事務所に行くとまずいからここで別れて事務所に行こうね。」

 

そう満智子に言われた高顕は別ルートで事務所へと向かった。事務所に着くと、もう純恵は掃除をはじめていた。

 

「おはよう!高顕。どうしたの眠そうね。所長に聞いたけど昨日遅くまで仕事がんばってたんだってね。どう、上手く行きそう?」

 

そう、純恵に声をかけられて、ただ、下を向いて、「うん。」としか答えられない高顕であった。

 

   

 

 

20.純恵怒る!

 

「京極君!田場の件、ちゃんと処理したんか!」

 

7月の中旬、夏の暑い日の盛りに熱い皆元の怒号が飛んだ。

 

「ええ、ちゃんと書類作って田場さんところに送付しましたが。」

 

「田場の依頼の件の報酬支払日3日前やったのに今日になっても振込ないやないか。どうなっとんねん!」

 

「ええ、そうなんですか?」

 

「そうなんですかやあれへんで、電話かけて催促したれや。」

 

「はい。」

 

そう、朝から皆元に怒鳴られた高顕は早速田場の事務所に電話をかけた。

 

「お掛けになった電話番号は現在使われておりません。電話番号をお確かめになって・・。」

 

「ありゃ、おかしいなあ。」

 

「どうしてん!京極。田場の電話つながれへんのんか?ほんまええかげんにしてや。今月も目標売上いってへんねんで。」

 

「そうなんです。」

 

「そうなんですやあれへんがな、どうすんねん。もしかしてやられたんか?おまえなあ、あれだけ田場には気を付けよういうてたやろ。とりあえず催促状送っとけ。仕事は報酬回収してはじめて終わりやねんで。書類作って終りやないんやからな。債権の管理もしっかりとせなあかんで。」

 

「はい。」

 

純朴な田場の夢の架け橋になればいいと思っていた高顕は裏切られたような思いが込み上げて来てブルーになった。

 

「どうしたの?高顕。何で所長に怒られたの?」

 

沈み込む高顕を見て、純恵が声をかけた。

 

「純恵ちゃんが名古屋に出張に行ってたときに来た客が報酬払わないんだよ。電話もつながらなくて・・。」

 

「ああ、所長がうさんくさいのが来たって行ってたけどあの客ね。でもね、今回の件では所長がいうことは正しいわ。債権の管理もしっかりとしなくちゃね。行政書士が報酬踏み倒されるってちょっと情けないからね。」

 

「はあ・・。」

 

「まあ、いい経験だわ。今度から気をつけることね。」

 

その時、2人の会話に割り込むようにして満智子が入ってきた。

 

「今日は足立先生冷たいんですね。でも残念だなあ。田場さんの書類、私と京極先生が一緒に一生懸命作ったのに。悔しいですね。京極先生。」

 

満智子のこの言葉を聞いて純恵は少しムッとしたが、返事を返すこともなく、満智子を無視するように自分の仕事に取り掛かろうとした。純恵の態度を見て満智子は話し続けた。

 

「そういえば、あの日、お仕事終った後に言った心斎橋の飲茶屋さん素敵だったですね。また一緒に行きましょうね。」

 

「えっ、高顕、赤松さんと食事したの?」

 

取り掛かろうとしていた仕事の手を止めて純恵は高顕の方に向かってそう言った。

 

「ええ、そうよ。とっても美味しかったんです。「ペーロン」っていう心斎橋のお店なんですけど。」

 

そう、答えた満智子を見て一瞬固まったように言葉を失った純恵であったが、ふと我に返って声を荒げた。

 

「ちょっと、「ペーロン」は私が高顕に教えてあげたレストランじゃない。なんで赤松さんと一緒に行くのよ!」

 

「何怒ってるんですか?京極先生なんてニートでどうしようもないっていつもいってたじゃないですか?大嫌いなんでしょ。じゃあ、私が京極先生と付き合っても文句はないでしょう?」

 

いつもは上品なお嬢さん風の満智子が今まで見せたことのないような固い表情で言い放った。

 

「付き合ってもどういうこと?」

 

純恵は睨み付けるような表情で高顕を見た。

 

「抱いてくれたんだから付き合ってるんだよね?」

 

いつもなら考えられないような返答をして高顕を見つめた満智子を見て、高顕は思わず下を向いてしまった。

 

「抱いてくれた?ちょっとどういうこと?ホントなの高顕?」

 

激しく純恵に問い詰められても黙っている高顕を見て純恵の怒りは頂点に達した。

 

「ちょっと、あんた達いいかげんにしてよね。赤松さん、前にいったでしょう。そういうことしたら許さないわよって。」

 

「足立先生の方こそ、前に抜け駆けしないでねっていったのに抜け駆けしたじゃない。お互い様でしょう。」

 

言い争う純恵と満智子を見てどうしていいのかわからない高顕はただ黙って見ているしかなかった。

 

「お前らなにしとんねん。仕事中やぞ!」

 

慌ててやってきた皆元が一喝した。

 

「もう、今日は仕事なんかやってられないわよ。帰らせてもらうわ。」

 

そういって、純恵は着替えることもなく事務所を出ていこうとした。

 

「おい、足立。どこいくねん。職場放棄やぞ。」

 

そう怒鳴る皆元を無視して純恵は事務所を後にした。出て行く純恵を見ながら皆元は高顕の方を睨み付けていった。

 

「足立出ていってもうたがな。京極君どういうことやこれは?おまえ赤松と二股かけたんか?色恋沙汰で事務所むちゃくちゃにせんといてくれよ。遊びにきてるんとちゃうんやで。」

 

「すみません。」

 

そう言ってうな垂れるしかない高顕であった。

 

  

 

 

21.結納

 

満智子と浮気したことが純恵にばれてから、純恵は病気を理由に事務所を欠勤し続け、また高顕のマンションに来ることもなかった。純恵の携帯に何度電話をかけてもつながらず今どこで何をしているのかもわからなかった。

 

「今日も足立先生、欠勤だったね。もうやめちゃうのかなあ。ねえ、それはそうと、決めてくれた?」

 

仕事が終った後、高顕と一緒に事務所を出た満智子はそう高顕に言った。

 

「え?何を」

 

「何をって、私と足立先生どっちにするのって聞いてるの。私だってもう婚約者と別れたのよ。」

 

「ええ、別れたの?」

 

「そうよ、だってあの日、高顕がすごく強く私の胸を揉んだでしょ。胸にあなたの手形がついちゃったんだから。次の日、彼氏に会う予定だったんだけど、会うといつも求められるから思い切って新しい人ができたから別れてっていったの。だって、私高顕のこといっぱい、好きなんだもん。」

 

「ええ、もう戻れないの?」

 

「戻る気ないもん。高顕と一緒になりたいんだもん。」

 

そう、満智子に言われて下を向いて歩きながら黙っていた高顕にさらに満智子は話を続けた。

 

「私は婚約者と別れたけど、足立先生は寄りを戻したみたいなんだよ。昨日、結納したんだって。元の婚約者と。今日足立先生から山名さんにメールが来たみたい。元カレとよりを戻した人と私とどっちを選ぶの?」

 

突然、満智子からそういわれてレンガで頭を殴られたような衝撃を高顕は感じた。そして投げ槍になりつつある自分を感じていた。(純恵が元カレとよりを戻したんだったらもういいや。目の前にいる満智子ともっと深い関係になってやれ。ちょっと浮気をしたぐらいで俺を裏切る女のことなんてもういい。)そう自分に言い聞かせながら高顕は満智子を自宅に誘うことに決めた。

 

「満智子ちゃん、ウチ来ない?」

 

「ええ、おうちにいってもいいの?嬉しい。引越し祝い以来だね。それって私を彼女にしてくれるってこと?お泊りしてもいいのかなあ!」

 

「満智子ちゃんがよければ泊まっていって。満智子ちゃんのこと抱きたい気分なんだ。」

 

「まあ、高顕たら。えっちなんだから。ほんとうに私でいいの?いいのね。」

 

一瞬のすれ違いが純恵と高顕の距離を離れさせていった。引越し祝い以来、はじめて満智子を部屋に招きいれた高顕は狂ったように満智子の身体を求めた。

 

「今日の高顕、なんかすごい。どうしたの?」

 

声にならないような声で高顕に聞く満智子であったが、高顕は、返事をすることなく、満智子の唇に自分の唇を激しく重ねあわせた。何度も何度も満智子の中で果てた高顕はそれでも空しさを拭い切れないまま深い眠りについた。

 

   

 

 

22.覆水盆に帰らず。

 

7月の終盤になってようやく純恵が事務所に戻ってきた。

 

「えらい長い間病欠してた足立君がやっと帰って来てくれました。休んでいる間に婚約者と結納も交わしたみたいで、めでたいこっちゃ。仲人を頼まれているわしとしてもひと安心ちゅうところやな。そういうことで足立君は正式に12月に寿退社することが決まった。あとわずかやけど、足立君、最後のひとがんばりお願いするで。」

 

そう、朝礼で挨拶する皆元の話も聞かずに高顕はぶ然としていた。仕事がはじまっても黙って書類作成をしている高顕に純恵が話し掛けた。満智子との浮気がばれて以来の会話である。

 

「高顕、田場がまた今日来所するみたいよ。今度は会社設立の依頼みたい。出資者と一緒に来るんだって。私は追い返せって所長にいったんだけど、前の報酬と合せて報酬を取ればいいからって依頼を受けたみたいだわ。担当はまた高顕にするっていってたけど、気をつけるのよ。」

 

約1ヶ月振りに口を聞くのに案外あっさりした口調で仕事の話をする純恵に高顕は戸惑った。自分は満智子と浮気をし、結局付き合うようになり、純恵は元カレとよりを戻したというのに前と変わらない口振りで高顕に語り掛ける純恵を見て高顕は少し嬉しくなった。

 

「うん、でも、また僕だけでやるのは不安だなあ。純恵ちゃん手伝ってくれない?」

 

「いいわ。相当の曲者みたいだから、一緒にやろうね。所長には私の方から伝えておくわ。」

 

あれだけの修羅場を演じ別れたはずだったのに、付き合っているときとなんら変わらない優しい口調で高顕に話す純恵を見て益々女性というものがわからなくなった高顕であったが、なぜか懐かしさを感じて顔がほころんできた。もしかしたら12月までの間にまだやり直せるチャンスがあるかもしれない。やっぱり純恵じゃないとダメだ、そんなことを考えている高顕に純恵は続けて話し出した。

 

「出資者は赤の他人みたいだから、会社ができたとしても多分波乱があるわね。こういうのはケンカになるのが相場なのよ。田場にはあまり入れ込まずに淡々と手続だけをしようね。」

 

仕事の話より、純恵の元カレとの結納のことを高顕は聞きたいのであるがそうも言えずただ黙って純恵の顔を見惚れながら純恵の指示を聞く高顕であった。

 

 

 

午後になって、田場が出資者の大園治樹とその兄である大園宏司、妻である瞳と一緒にやってきた。

 

「いいこと、今回の件は慎重にも慎重を重ねて対処するのよ。わかったわね。」

 

そう、高顕に釘をさしながら純恵は高顕と相談室に入っていった。

 

 

 

はじめてイマジニアに来たとき饒舌だった田場はこの間とは打って変っておとなしく、下を向いて黙っているだけで、今回は大園治樹が一人で依頼内容をまくしててていた。

 

「だいたい、ご依頼の内容はわかりました。大園治樹さんが3千万円を出資し株式会社を設立するということでよろしいですね。会社名は、「メジャー・ランド・ミュージック・カンパニー株式会社」ですね。取締役会を設置し、治樹さん、宏司さん、それに田場さんが取締役、瞳さんが監査役ということですね。ええと、代表取締役はどうしましょう?治樹さんでいいのでしょうか?」そう高顕は、治樹に聞いた。

 

「いや、代表取締役社長は田場君でええやろ。田場君の発明で今回会社を作るわけやから。それにわしらは、ノーコンのことようわかりませんねん。わからんもんよりわかるものの方が社長である方がええおもてますねん。それにわし、薬局もやってまっしゃろ。あんまり、副業で表に出て、仮にでっせ、このノーコンがやなあ爆発的に売れたりしてわしの顔が売れてしまうのもまずいかなあおもてね。あはは!」そう答える治樹に純恵が口を挟んだ。

 

「お言葉ですが、出資されていない方よりも、ご出資された治樹様が代表取締役になられた方が後々、トラブルは少ないような気がするのですけれども。」

 

「出資者やないと代表取締役になれへんのですか?」

 

純恵の言葉に田場が敏感に反応し目をぎらつかせてそう聞いてきた。

 

「いや、出資者でないと代表取締役になれないという決まりはないのですが、今回のケースでは・・。」

 

そう、純恵が話し終わらないうちに、治樹が言った。

 

「いやもう、きめてますねん。我、メジャー・ランド・ミュージック・カンパニー株式会社、略してMLMいうてますねんけどな、MLMの社長は田場君で決まりですわ。こいつ、楽器屋も閉めてもうて今もう職ないんですわ。今も生活費はわしがはろうとんねんけど、MLMの社長にならんかったら生活もたちゆきいかんやろうし、さっきいったようにわしは表にたちとうないねん。そういうことやさかい田場君を代表取締役社長で設立の方お願いできんやろうか。」

 

純恵はスペシャリストとしての長年のカンから、田場は代表取締役でない方がよいと判断したわけであるが、治樹にそう言われたらそれ以上進言することもできないと思った。

 

「わかりました。定款等の書類の方はすぐに作りまして、早速公証役場にて定款の認証作業に入りたいと思います。2週間もあれば全ての手続が完了してMLMをスタートさせることができるかと思います。報酬の方は・・。」

 

そう、報酬の件につき、高顕が切り出すと、治樹がびっくりするような声で言った。

 

「報酬って、金いるんかいな?」

 

「当たり前ですよ。こっちだって商売でやってるんですから、それに田場さんは以前に私どもの方で作成しました経営計画書の報酬もまだ払って頂いていないんですよ。そちらも合せて今回ご請求いたしますので宜しくお願いします。」

 

元々、今回の件を受任することに反対だった純恵は少しむっとした表情で田場の顔見ながら言った。田場が来所して以来、自分と高顕の関係も、ぐしゃぐしゃになり、純恵にとってはこの田場という男が疫病神に見えてしかたなかったのである。

 

「田場君、いかんやないか。いやね、こちらの京極さんっていう方、田場君のご友人で会社設立の手続タダでやってくれるいうからきたんですわ。この田場君がそういうてたんやけどちゃうんやね。わかりましたわ。手続終ったらちゃんと報酬は私がお支払いしまひょ。でも、前に田場君が依頼した件はうちとは関係おまへんから払えへんで。その分はこの田場君から貰っておくれ。」

 

ただ、純朴なだけの男と思っていた田場が治樹達に勝手なことを言っていたことを聞いてさすがの高顕も表情を曇らせた。

 

「はい、わかりました。では、前の分の報酬は田場さん個人から頂くことにして、本件の分についてはこちらの依頼申込書の方にサインいただけないでしょうか。それと田場さん、あとで経営計画書作成の報酬の件でお話させて頂きたいのですが、お時間宜しいでしょうか?」いつもは柔らかな口調の高顕が珍しく声を張り上げ、きつい表情をして田場に言った。

 

相談が終って、純恵は治樹らを事務所の外に送っていったが、高顕と田場は相談室に残った。

 

「田場さん、ひどいじゃあないですか!経営計画書作成報酬の件もですが、今回も僕がタダでやるって治樹さん達にいうなんて。」一度ならず二度までもこののらりくらりした田場にしてやられた高顕はきつく田場を問いただした。

 

「いや、すんません。でも、わし、今金全然もってませんねん。店もしめてもうてね。先生もご存知でっしゃろ。わし、金ないのん。今回MLMの社長に就任したら月給50万円くれるいうことですんねん。それでこの間の報酬と会社設立の費用もわし個人でお支払いしまひょうっておもってたんですわ。騙すつもりはなかったんやけど、会社設立の費用もおまえがだせえってあの大園がいうもんやから、連中をここに連れてこよう思ったらああいわなしかたなかったんですわ。あの美人の先生のおかげで会社設立の費用は大園らがはろうてくれるみたいやけど、この間の報酬は社長に就任したらすぐに払いますから堪忍してくれんやろうか?」

 

そうのらりくらりと答える田場を見ながら、今請求したところで田場は払えそうもないことを実感し、未払報酬を回収するためにはこの田場をなにがなんでも無事代表取締役に就任させ、社長として田場がMLMから貰う給料から回収するしかないと強く思う高顕であった。

 

  

 

 

23.MLM!

 

MLMの会社設立手続もすべて終り、田場らの会社であるMLMがスタートした。定款作成等の会社設立関係報酬は無事回収できたが、田場の最初の依頼であった経営計画書作成報酬は依然として回収ができていない。田場の社長としての最初の給料から未回収の報酬を貰うという新たな契約をイマニジアと田場との間で締結したわけであるが、なにせ曲者であるということが鈍感な高顕にさえも十二分にわかったぐらいであるから、所長の皆元も気が気でない。

 

「京極君、無事MLMができたみたいやないか。あの田場社長、しっかりと管理して前の分の報酬きちんと回収せなあかんで。最初の給料日チェックして、給料日から来たらすぐに回収に行けよ。ああいう奴は給料もうたら何か衝動買いせんともかぎらんからな。おまえはたかが15万円ぐらいで、やいやいいうなおもうかもしれんけれども、仕事したら報酬もらうの当たり前や。タダ仕事やって平気でいるようでは経営者は務まらんぞ。おまえも将来独立を目指してるんやったら、今のうちから変なクセつけたらあかんで。」

 

そう、皆元にいわれて高顕は、債権管理の大切さよりも、純恵と一緒に独立して2人で事務所経営を仲睦まじくやっている自分を想像し、少しにやけてしまった。

 

「おまえ、聞いとんのんか!わしが経営者としての哲学を力説してるちゅうのに。わしはなあ、若いおまえに期待しとるんやで、帝王学を授けてるんやからまじめに聞かなあかんやないか!」

 

「ああ、はい、よくわかりました。」

 

皆元に大きな声を出されてふと我に返った高顕は、さっき想像した夢想が現実からは離れていっているということを思い出し、また気分が沈み込んできた。そうこうしているうちに受付の方から騒がしい声が聞こえてきた。

 

「なんや、受付の方が騒々しいな。京極呼べっ!って誰か叫んどるぞ。なんやおまえまたなんぞやったんか?」

 

そう皆元に言われて、いやな予感がした高顕は、皆元と2人で受付の方に行くとそこには、大園治樹が顔を真っ赤にして立っていた。

 

「やあ、これはこれは大園さん、またなんでっしゃろ?書類に不備でもあったんかいな?」

 

そう、にこやかに治樹に聞く皆元であったが、治樹は表情を崩すことなく怒りを高顕にぶつけてきた。

 

「京極さんよ、あんたも田場とグルやろ。どない責任とってくれんねん。おまえも訴えたろか!」

 

「まあ、ここではなんですから、大園さん、相談室でゆっくりとお話聞きましょう。足立君も呼んで京極君も一緒に相談室くるんや。ええな。」

 

今にも高顕に殴り掛からんばかりの勢いの治樹を見て、これは穏やかではないと直感した皆元は、治樹を相談室に誘導しようとした。

 

相談室のソファに治樹を座らせ、その前の椅子に皆元、高顕、純恵が並んだ。

 

「大園さん、どういうことでっしゃろ。何があったんですか?」

 

イマニジアを経営していく中で何度も修羅場をくぐってきた皆元は落ち着いてそう治樹に聞いた。

 

「所長先生、まあ聞いておくんなはれ。そりゃ、ひどい話でっせ。あの、田場の野郎、とんだ食わせもんですわ。商材のノーコンあいつが発明したいうから、わし、3千万円も出資したのに、ノーコンは田場が発明したもんでもなんでもないんですわ。」

 

これを聞いた皆元は、「あちゃ〜」という表情で高顕を見た。

 

「ノーコンを製造してもらうために、田場が出入りしていた大手楽器メーカーのカレントさんと製造ライセンス付与の契約の話に行ったら、カレントさんがノーコンはうちが発明したもんやいうやないですか!カレントが発明したもんやのに、なんでMLMさんとライセンス契約かわさなあかんねんて大笑いされたがな。」

 

顔を真っ赤にしながら、治樹は相談室の外にも聞こえんばかりの大声で怒鳴った。

 

「田場はカレントの一代理店であんなボンクラにこんなもん発明できるわけないやろっていわれましたがな。わし、あいつには今まで生活費の負担やら借金の返済資金やらなんやらで出資金以外に300万円も貸してねん。まあ、MLMの方はせっかく設立したんやから、別の商売でもするからええとしても、この300万円は騙し取られたようなもんやがなあ。詐欺で訴えたいぐらいやわ。訴えるときは、京極はん、あんたも共犯者なんやから一緒やで。」

 

そう、治樹にいわれて、高顕は何かよからぬことに自分が巻き込まれつつあることを感じ取り、この場から逃げたくなってきた。早くこのひとときが過ぎないかそればかりを考える高顕を尻目に治樹が続けた。

 

「それに、一昨日、そういうわけやから、おまえ社長首にしたるって田場に電話かけたら、その後に、わしの女房に電話かけて、甘えた声でわしを説得せいいうて口説いたみたいですわ。女房が田場のこと気に入ってるって勝手に勘違いして電話かけよったんですわ。そりゃ、うちの女房も気持ちわるがってましたで。金は騙し取るは、女房にストーカーみたいな電話かけるわあいつ一体なんやねん。そもそも、京極はんが作った経営計画書を見てわし、あいつを信用したんやで、あんたにも責任取ってもらわんと気すまんがな。」

 

そう、治樹に言われて大事に巻き込まれようとしていると感じた高顕は知らず知らずのうちに顔が青ざめてきた。またここで田場がMLMの社長の座をひきずりおろされるようなことになると未回収報酬の回収ができなくなることも頭によぎり、治樹を説得して丸く収まるようにした方がいいのか、それとも田場を切り捨てるようにした方がいいのかで迷ってしまい高顕は言葉を発することができなかった。高顕が何も言えないのを見かねて純恵が口を開いた。

 

「大園さん、京極が作成した経営計画書はあくまでも、依頼を受けて、田場さんからのヒアリングに基づいてそれを忠実に再現した見積書で、何も大園さん達を騙そうと思って作ったものではないですよ。それどころか、私達だって、あの人からまだ報酬をもらっていない分があるわけですし、タダで利用できる連中みたいに大園さんにもいってたわけでしょう?被害者というなら私たちだって被害者的な面があるわけですからグルなわけがないでしょう。」

 

「そういえばそうやなあ。つい腹たってもうてあんたらにも八つ当たりして悪かったなあ。ほな、田場を訴える告訴状、あんたらで作ってもらえへんやろか。できたら、京極先生に作ってもらいたいわ。そうしたら、わしらかって京極先生信用できるさかい。お願いでけへんやろか。」

 

そう治樹に言われて、さらに頭の中が混乱してきた高顕であった。なんども騙されているとはいえども、いちどは田場の夢の実現に向かって共にがんばろうと思った高顕は少なからず田場に情も持っている。そんな田場を告訴するようなことをしてもいいのだろうか。頭の中で何度も自分にそう問い掛けるうちにまた言葉を発することができなかった。

 

「なんや、でけへんいうんか?やっぱりグルやおもうてしまうで、そんなことでは。」

 

高顕に再び疑いの目を向ける治樹に向かって冷静に純恵が答えた。

 

「大園さん、行政書士の業務範囲は広くて、個々にそれぞれ専門があるんです。京極は刑事告訴の専門家ではありませんので急にご依頼を頂いて戸惑っているんです。私どもの事務所では、所長のこちらの皆元が刑事法関連の専門家ですので、告訴案件については当方では皆元が承っております。そういうことで、告訴状作成の案件につきましては皆元が受任させて頂くということでどうでしょうか?京極には、田場社長解任に関する議事録作成や田場さんにお貸しになってらっしゃる300万円回収のための内容証明作成などをやらせますのでそういうことでお願いできませんでしょうか?」

 

「まあ、知識がのうてでけへんのやったらしょうがないな。ほな、告訴は皆元先生にたのんますわ。」

 

ようやく怒りも静まってきたのか、純恵の提案に治樹も同意した。

 

「ところで、大園さん、田場の肩を持つわけやあないんやけど、告訴状を作成するということになると、ノーコンの発明者が誰や言う件についてははっきりさせとかんとややこしいことになりまっせ。一体どっちが発明者なんやろか。その辺ははっきりしてるんですか?」

 

純恵に告訴状作成を勝手に割り振られてしまった皆元は観念したのか業務に取り掛かるため治樹から事実関係のヒアリングをはじめた。

 

「カレントさんがいうにはノーコンの特許や商標の出願も、もうしてるいうことやからまずカレントさんに間違いない思いますけれど、詳しいことはカレントさんから聞いてもらえんやろか。まあ、わしかてほんまのことはわかりませんわ。」

 

「さようですか。ほな、この皆元がカレントさんからヒアリングの方させてもらいますわ。」

 

「もしかしたら、ほんまに田場のヤツが発明してカレントに持ち込んだのをカレントにとられてしもうたんかもしれません。けど、そんなことはどうでもいいんちゃいますか。商売いうもんは力のある奴が勝ついうことは所長さんも経営者やったらわかることでっしゃろ。カレントがいうことがウソやったとしても、普通に考えたらカレントのいうことの方が筋通ってますわ。田場のいうことの方がはちゃめちゃに見えるって誰でも思いますやろ。そういうことですさかい、あとよろしゅうたのんますでほんまに。」

 

「わかりました。そしたら、告訴の件についてはこの皆元がやらせてもらいまひょ。でも、詐欺での告訴の場合、受理されるのが難しいと思いますが、それでもええですか?」

 

「ああ、受理されなんだらそれはそういうもんやろうからええわ。ほんまはあいつが捕まってもうたら300万円回収でけへんから、告訴の件は正直いうてどっちでもええんやけど、なんや告訴状作ってもうてあいつの目の前に叩きつけなあ気がすめへんねん。これも何かの縁や思うから、イマニジアさんには次の商売の件とかも協力してもうて、これからも長ごうお付き合いさせていただきとう思うてますから、誠意みせてくれたらそれでええですわ。」

 

「わかりました。所員一同、全力で協力させてもらいまひょ。今後ともよろしゅうお願いしますわ。」

 

最後は皆元と治樹が固い握手をして、なんとか相談が終ったが、高顕にとってはまさに針のむしろにいるような苦痛を感じる相談であった。皆元と純恵、そして高顕の三人で治樹を事務所外まで見送った後、高顕はすまなさそうに皆元に頭を下げた。

 

「所長、申し訳ありませんでした。僕がもうちょっとしっかりしていればこんなゴタゴタにならなかったのに。それに、田場さんの未回収報酬もちょっと回収が難しくなったみたいですし。」

 

「もうええって。田場の報酬回収は最初からちょっと無理かなってわしも思うとったんや。でもな、おまえに債権管理の重要性を知ってもらおう思ってまあ、厳しくいうてたわけや。MLMも継続して取引してくれるいうことやさかい、頑張れば田場の分も他で儲けることはできる。それにカレントから色々聞かなあかんわけやけど、考えようによってはこれきっかけにしてカレントに食い込むこともできるで。まあ、そういう営業は足立君が得意やから、うちの事務所への最後の奉公やおもて、足立君、カレントへのヒアリング頼むわ。」

 

「ええ、告訴の件、所長の仕事やないですか!なんで私がカレントへの聞き込みせなあかんのですか。それも、聞き込みついでにカレントから仕事とって来いやなんて厚かましすぎませんか?」

 

さりげなく、自分の仕事を純恵に振ろうとする皆元を見てたまらず純恵はそう言った。

 

「まあ、そういうなや。なんやったら京極君も一緒に連れていって、2人で楽しい思い出作れよ。一緒にいれんのもあとわずかやからなあ。若いってええなあ。そうや、京極君、今日は足立君のおかげでおまえ助かったんやで。お礼しっかりしとかなあかんで。」

 

そう言い残して、皆元は所長室へと去っていった。

 

残された純恵と高顕はお互い顔を見合わせて、付き合っていたときと同じような柔らかな微笑みを交わし合っていた。

 

   

 

 

24.ああ、夏休み・・。

 

イマニジア行政書士法人では8月に入ると徐々に仕事が減ってくる。顧問先企業が夏休みになるため必然的に依頼が少なくなってくるのである。そのため所長の皆元は5月、6月、7月に激烈な営業活動を行い仕事をいつもよりも多めに取って、8月の収入減に備えている。所員達も8月はじめまでは地獄のような激務をこなさなければならず、残業続きとなるわけだが、8月も中旬になると随分と暇になってくる。暇を持て余して、おのずと業務中も仕事をしている振りをしながら、例年15日前後からはじまる、夏休みの予定などを考えたりしているのである。イマニジアに入所してからはじめてとなる夏休みをまじかに控えた高顕も、パソコンに向かいながら夏休みの過ごし方を考えていた。気がつけばよくわからない間に彼女が純恵から満智子に変わっていた高顕であるが、その満智子にせがまれ、夏休みの間は東京に行く予定になっていた。長年引き篭もりであった高顕は今まで東京に行ったことなどなく、連日、「東京満喫ブック!これであなたも東京通!」などの東京ガイド本を見ながら東京研究は重ねていたが具体的なツアープランはまだ出来上がっておらず、今日も職務中でありながらツアープラン立案のために頭を悩ませている。そんな高顕を見て、隣の席の純恵が怪訝そうな顔して高顕の顔を覗き込むように話し掛けた。

 

「仕事なんかないはずなのに、何考え込んでるの?」

 

「いや、別に。」

 

満智子と付き合っているとはいえどもまだ、純恵に未練が山ほどある高顕は、満智子との東京ツアーのプランを考えているいや考えさせられているとも言えず、本心を悟られまいとして目を伏せた。

 

「あんたがそういう態度を取るときは怪しいのよね。はは〜ん、さては赤松さんとどこに行こうかなとか考えてるんでしょう?」

 

「ええ!なんでわかるの?」

 

「なんでわかるのじゃなくて、そんな時はウソでも「違う!」って言いなさいよ。バカ。なんかや〜な感じになったから、さ〜て、外回りでも行ってくるか。」

 

急に機嫌の悪くなった純恵はそのまま、鞄に書類を詰めて、立ち上がって事務所を後にした。そんな純恵の様子を見た満智子が高顕にコーヒーを出しながら話し掛けてきた。

 

「なんか、元カノ、ご機嫌ななめだね。結納まで交わしてまだ、ヤキモチやいているのかなあ。自分だってフィアンセと夏休みに軽井沢にお泊り旅行するクセに。」

 

「ええ、足立先生、フィアンセと旅行するの?」

 

コーヒーを飲む手を止めて、高顕は睨み付けるように満智子を見た。

 

「何よ。あなたもヤキモチやいてるの?相変わらずはっきりしない人ね。そんな風に言われたら私は何なのよって思ちゃうじゃない。そんな時はウソでも「ふ〜ん、あっそう。」って言いなさいよ。バカ。いつまでたっても女心がわかんないんだから。」

 

「ごめん。」

 

「うふふ、ウソよ。怒ってないわよ。ちょっと足立先生のマネをしたかっただけよ。それより、東京旅行どうするか考えてくれた?」

 

「うん、まだ考え中なんだけど、案としては国会議事堂を見学して、二重橋を見て、東京都庁に行って、浅草に行って、花やしきで遊んで、上野の西郷さんを見て・・。」

 

「ちょっと、待ってよ。何そのおじいさんおばあさんツアーのようなプランは。代官山とか、表参道ヒルズとかディズニーランドじゃないの普通は?」

 

「そうなの?」

 

「そうなのじゃあないわよ。もう、だめね。やっぱり高顕にはまかせてられないわ。私が考えてあげるから。黙ってついてくるのよ。」

 

「はい。」

 

「うふふ。楽しみだなあ。」

 

「そうだね。」

 

そうだねといいつつも、折角東京に行くのに前から見たかった国会議事堂は見られないのかと思うと気分が落ち込んでくる高顕であった。

 

「早く行きたいね。明日の10時の新幹線に乗らないといけないから、今日は高顕のところにお泊りしていい?おうちにはもうお友達のところに泊まるからって連絡してるの。」

 

「うん、いいよ!」

 

気は純恵と一番合うと思っている高顕ではあるが、身体の相性が抜群に合う満智子と一緒に夜が過ごせると思うとさっきの落ち込みがウソのように晴れてくる。夜のことを思うと体中のアドレナリンが湯気うつような気がして顔までがほてってきた。

 

「なんか、顔が赤いわよ。高顕。いやらしいことでも考えているの?」

 

「なんでわかるの!」

 

「なんでわかるのじゃなくて、そんな時はウソでも「違う!」って言いなさいよ。バカ。なんかや〜な感じになったから、さ〜て、お昼休憩にでも行ってこようっと。」

 

そう言い残して満智子は政子を誘い事務所を出て事務所近くにあるレストランへと向かって行った。

 

 

 

その日の夜、仕事を終えた満智子は高顕と一緒に事務所を出て、高顕のマンションに帰った。帰りに寄ったスーパーで買ってきた食材で、流行りの歌を口ずさみながら、持参したエプロンを着て、夕食の用意をする満智子を見て、(満智子ちゃんと家庭を持つのもいいかも知れない。)と高顕は思いつつあった。

 

顔スタイルとも申し分なく、聡明であり、真面目な両親に育てられた満智子は本来であるならば高顕にはもったいないぐらいの女性である。純恵に対する想いは残っているものの、純恵が結婚し、高顕の前から姿を消せばそれも時間が解決するだろうし、そうなれば満智子に対する想いももっと募ってくるはずである。まだ幼さが残る、料理をけなげにしている満智子の横顔を見ながらそう思う高顕であった。

 

「今、パスタ茹でてるからね。もうちょっと待ってね。うふふ、なんか新婚夫婦みたい。こういうのに憧れてたんだ。明日からの旅行は新婚旅行!」

 

そう、無邪気に話す満智子を見て、段々と満智子が可愛く思えてきて、急速に愛情が芽生えつつあることを感じていた。

 

「あれ、これ何かなあ?」

 

キッチンの横にある本棚の小さな箱の中を見て満智子が言った。そして、さっきまで天使のような笑顔を見せていた満智子の表情が曇った。

 

「ちょっと、これ何よ!足立先生と撮ったプリクラじゃあない。なんでこんなものがまだあるのよ!」

 

そう、満智子に言われて、さっきまでの新婚夫婦気分が一遍に吹っ飛んでしまった高顕は言葉を失った。

 

「私の目につきやすいところにいつまでもこんなものを置いているなんてひどいじゃあない。そんなに足立先生のことが忘れられないの?」

 

純恵に対する想いは高顕の中に確かにまだ残ってはいるだが、その想いをよせてこのプリクラを残していたわけではなく、高顕としては単にその場所に置いているのを忘れていただけであった。手慣れた男性であれば、「あっ、捨てるのは忘れていた。っていうか、そこにあること自体を忘れてたんだね。こんなものはもう捨てるね。」とかなんとか言ってこの場を切り抜けるのであろうが、高顕にそんな術があるはずもなく、口篭もっていると満智子がさらに畳み掛けてきた。

 

「そんなにあの人のことが忘れられないんだったら、もういいわよ。私帰る!」

 

「そんなんじゃあないんだよ。誤解だよ。ちょっと待ってよ。」

 

やっと言葉を発した高顕であったが、満智子に傾きつつあった自分の気持ちを上手く伝えることもできず、こんなありきたりのことしかいうことができなかった。高顕のそんな言葉で満智子が説得されるはずもなく、東京旅行のために荷物をいっぱい詰め込んだ鞄をもの凄い勢いで掴み取った満智子は、そのまま高顕の部屋を出ていってしまった。高顕1人が残された部屋では、パスタを茹でている鍋がグツグツという音だけが鳴り響いていた。

 

結局、この日以来、夏休みの間、満智子にいくらメールや携帯で電話を取ろうとしても返事が来ることはなく、高顕の夏休みは例年どおり1人で過ごす寂しいものとなった。

  

 

25.さよなら満智子

 

イマニジア行政書士法人の夏休みも終り、まだ激しい暑さの残る8月のある日、いつものようにイマニジア行政書士法人は皆元の朝の訓示から一日がはじまった。

 

「突然やけど、赤松満智子さんが今日を持って事務所を退職することになった。今までこの事務所がもってきたんも、赤松さんの力によるところが非常に大きい。うちにとっても赤松さんが抜けることは大きな打撃やけど、10月にご結婚されるいうことやからまあしゃあないなあ。赤松さんはこれから花嫁修業に専念されるちゅうことだ。12月には足立君も結婚してアメリカにいってまういうことやからうちとしても寂しいなるけどみんなで暖かく2人を送り出してやろうないか。」

 

高顕にとっても寝耳に水であったが、純恵が結納を交わしたということを聞いたときよりはショックは少なく、寂しい気持ちがありながらも、むしろなぜかほっとした気持ちになった。

 

高顕と満智子の付き合いは2人で食事や遊びに出かけるということもほとんどなく、高顕の気が向いたときに、満智子を部屋に誘って会話もそこそこにお互い身体の快楽をむさぼり合うというだけの付き合いであった。夏休み直前に高顕の心も満智子に傾きかけてはいたのであるが、約束していた東京旅行も例の1件でなくなり、また、職場では、満智子よりも純恵の方ばかりをうっとりと見ている高顕に満智子も付き合うのが馬鹿らしくなってきたというところであろう。いや、純恵が結納を交わしたと聞いたときから、純恵への熱い想いが高顕の中に込み上げて来ているのを見て、満智子も高顕を自分に向かせるために純恵と同じように元カレとよりを戻したのかも知れない。それとも、冷静になって考えてみると、まだまだ半人前の高顕よりも、将来は大手企業の社長になることが決まっている満智子の元カレと一緒になった方が満智子にとって現実的な幸せが得られると感じたのであろか。色々な想いが高顕の頭の中を駆け巡ったが、急な別れを満智子本人からではなく、皆元の朝の訓示で聞かされた高顕は複雑な想いでその日一日を過ごした。

 

業務が終った後、皆元がみんなを呼んだ。

 

「急なことやったから、送別会の用意もせえへんかったけど、赤松さんもそういうのはええっていうから、この終礼で赤松さんともお別れになる。足立君あれ。」

 

そう、皆元に言われて、純恵は朝慌てて買ってきた花束を満智子に渡した。

 

「赤松さん、長い間お疲れ様でした。急なことだったけど、幸せになってね。」

 

そこまで言って、言葉が続かなくなった純恵は急に涙が出てくるのを止めることがなかった。

 

「ううん、こちらの方こそ、足立先生には色々とお世話になりました。尊敬していた足立先生から色んなこと教えてもらって幸せでした。披露宴にはみなさんで来てくださいね。待ってますから。」

 

そういって満智子も純恵の胸に顔をあてて誰憚ることもなく泣いた。キツネに包まれたような感じになってきた高顕であるが、この光景を黙って見ているしかなかった。花束を抱えて事務所を後にした満智子を見ながら純恵は高顕を呼んだ。

 

「あっけなく振られたわね。ほんとバカね、あんたは。優柔不断だからダメなのよ。赤松さんが本当に好きなら今からでも遅くないから奪ってきたら。」

 

そういいながら、純恵は心の中で、(私も一緒。私のことをまだ好きなら奪ってみたら。)との想いを高顕に送っていた。相変わらず鈍感な高顕はそういう純恵の気持ちもわからずにただ呆然と立ち尽くしていた。

 

「女の子にいきなり覆い被さる勇気はあっても、気持ちを伝える言葉はないのね。ほんといつまでたってもダメね。あんたは。このまま終ったら、もやもやするんじゃあない?追いかけて行ってせめてさよならぐらいは言ってあげたら?」

 

そう、純恵に諭されて、高顕は慌てて事務所を出て、満智子を追っていった。

 

事務所近くの横断歩道で満智子に追いついた高顕は、大声で満智子を呼んだ。

 

「満智子ちゃん、待って。」

 

高顕の声で後ろを振り返った満智子は立ち止まって高顕がやってくるのを待った。

 

「満智子ちゃん、ごめんね。」

 

「なんで謝るのよ!」

 

今まで見たこともないような怒った表情をみせた満智子に一瞬たじろいだ高顕であったが、勇気を振り絞って次の言葉を発した。

 

「別に満智子ちゃんを弄んだわけじゃあないんだ。満智子ちゃんのことは好きだったんだ。一緒になれたらいいと思ったときもあったんだ。東京にも一緒に行きたかったんだよ。でも・・。」

 

「でも、もっと好きな人がいたから私に心底気持ちを向けることはできなかったんでしょ。それぐらいわかるわよ。東京旅行の前の日だって、なんで飛び出した私を追っかけて来てくれなかったのよ。悲しかったんだから。遊びなら遊びって割り切ってくれたらよかったのに中途半端に優しいから余計悲しくなるのよ!」

 

「ごめん。」

 

「だからなんで謝るのよ。」

 

「わかんない。」

 

「もう、相変わらずダメ男ね。最初会ったときから成長してないじゃん。」

 

そういって今日はじめて笑った満智子に、高顕は、同じように微笑み返しをした。

 

「その笑顔にやられちゃうのね。もしかして、私も、たぶん足立先生もダメ男が好きなのかしら?でも、もういいわ。いい思い出ありがとう。短い間だったけど、一緒にいられて楽しかったよ。京極先生も幸せになってね。足立先生が好きならなりふりかまわずアタックしないとダメですよ。女の子はいじわるしてても、待ってるんだから。」

 

そう言われて、なぜか涙が出てきた高顕であったが、次の瞬間、目が点になった。いきなり、満智子が思いっきり高顕の頬を張ったからである。

 

「ああ、すっきりした。なんで泣くのよ。相変わらず馬鹿野郎だわ。綺麗さっぱりあなたの前から消えてあげるから安心してね。遠くから見守ってあげるっていってあげたいけど、一刻も早くあなたのことなんか忘れたいわ。私、いっぱい幸せになって、あなたのお嫁さんになる人よりもずっと幸せになるんだから。悔しかったら、あの時、なにがなんでもあなたから離れずについっていった方がよかったって、私を思わせるぐらいに素敵になってごらんなさいよ。ちょっと今のままでは無理だと思うけど。それじゃあね。さようなら。」

 

それだけ言い残して、横断歩道を渡っていった満智子の背中を見ながら、他の歩行者達が振り返るぐらいの大声で高顕は叫んだ。

 

「満智子ちゃん、ありがとう!ほんとうにほんとうにありがとう!一生、忘れないから、幸せになってね。」

 

もう二度と、振り返ることもなく、右手だけを挙げて、高顕に手を振る満智子は時が経つにつれて、高顕の視界から段々と小さくなっていった。

 

   

 

 

26.一人で生れて一人で死ぬ!(名言。)

 

まだ暑さの残る9月のある日の朝、政子がスケジュール調整のために純恵のデスクに近寄ってきた。純恵のスケジュール調整は満智子の仕事であったが、満智子が退社した後、政子がその仕事を引継いでいる。

 

「足立先生、今日は建設業許可の相談が2件と会社設立案件が2件、それにMLMの代理店契約書の作成が今日までになっています。それと先生のご著書の「企業法務における行政手続法の活用事例と活用可能性」の最終校正、「月刊誌ロー・コンプリート」の原稿入稿期日も今日が締切となっています。あと、大阪経済友好会から会社法に関する講演会依頼が来ておりますが、こちらも返事が今日までですのでお返事の方を宜しくお願いします。午後から関西放送さんのニュース番組でコメンテータとして出演して頂きますので、OBPの大阪放送さんに行ってくださいね。収録が終ったら、資格学校トリニティでの講義になります。あと、赤松さんの代わりの職員、トリニティの生徒さんでいい方おられたらご紹介くださいね。」

 

政子の話を傍で聞いていた高顕は目を丸くして驚いた。

 

「純恵ちゃんってすごい人だったんだね。TVにまで出る人だったのかあ。」

 

「そうですよ、美人行政書士・ファイナンシャルプランナー・コメンテータとしても有名なんですから。足立先生は行政書士として今キャリアの絶頂にあるんですよ。でも、これだけの才能と実績がありながら12月ですっぱり辞めちゃってアメリカいっちゃうなんてもったいないわね。」純恵の成長振りをまじかで長年見てきた政子は口惜しそうにそういった。

 

「そうね、アメリカでは、当分専業主婦をして、落ち着いたらアロマテラピーの仕事をしようかなって思ってるの。新しい環境になるからそれに合せて仕事も法律とかFPの仕事とは違う新しい仕事をやった方が新鮮だしね。そうそう、新しい事務職員の件はよさそうな人を探してみるわ。私も抜けるから私の代わりも探さないとね。あっそう、高顕も通っていたトリニティの行政書士試験講座の講義の仕事、これもできなくなるから12月から高顕が引継いでね。泉南学術大学法学部の法務実務特別講座の講義は一色先生に引継いでもらうように山名さん伝えてもらえるかしら。」

 

「足立先生はアロマテラピストのライセンスも持ってるものね。いいなあ。色んな才能があって。そう、一色先生の方には私から伝えておきますね。でも、トリニティの講義、京極先生で大丈夫なのかしら?」

 

そう政子に言われて、高顕も不安そうになっている。純恵に教えてもらっていたトリニティで今度は自分が教壇に立つことになるわけであるが、今だに依頼者からの相談にも噛みながら答えることがしばしばの高顕に大勢の前でしゃべることなんてことは高顕自身もできそうにもないと思っているからである。

 

「純恵ちゃんと出会った場所の教壇に立つのは嬉しいんだけど、山名さんがいうように僕にできるのかなあ?」

 

そういいながら、徐々に純恵との別れが迫って来ている感じが急にしてきて教壇に立つ不安よりも寂しさの方が高顕の胸を締め付けた。

 

「大丈夫よ、私から教わったことをそのまま、オウムのようにコピーして言ってればいいのよ。やりたくても誰でもできるような仕事ではないんだから回してもらって有り難く思うことね。」

 

もう、トリニティの講師の仕事も他人事になりつつある純恵は心ここにあらず的に言い放った。

 

「ええ、そんな、純恵ちゃんの講義なんて覚えてないよ〜。」高顕が、純恵が講師を勤めるトリニティに通っていたのはもう約1年ほど前の話になるので純恵の講義での話も高顕の記憶から消えつつあったのであった。

 

「あんたね、私が一生懸命した講義を忘れたっていうの!そこの柱に縛り付けるわよ〜。」

 

「なんか今日は一段と怖い。」

 

高顕は大袈裟に頭を抱えながら屈むようなそぶりをしたが、そんな高顕の頭を丸めた書類でポコンと叩いた純恵の笑顔はとても嬉しそうであった。純恵と高顕の会話を聞きながら政子が寂しそうに話し掛けた。

 

「足立先生と京極先生、こんなに仲がよくて気が合うのにもうすぐお別れなんて、私まで寂しくなちゃいます。足立先生と京極先生みたいに気が合う人、今までみたことないですよ。やっぱり、足立先生、この事務所に残って、みんなで一緒に仲良くやっていきません?」

 

今にも泣きそうな顔で政子が純恵に言った。

 

「気が合っても、縁がない人っているのよね。」

 

そう、純恵に言われて、高顕は口をぽか〜んと開けて黙ってしまった。

 

「縁が合っても気の合わない人と一緒にいるよりは、やっぱり気の合う人の傍にいる方がよくないですか?」純恵と高顕がよりを戻して純恵が事務所に残ることを望んでいる政子はさりげなく純恵の本心を探ろうとしていた。

 

「人はひとりで生れて来て、ひとりで死んでいくもんだから、結局、ひとりなのよ。別にパートナーはこの上なく気が合う一心同体の人でなくてもいいんじゃあない。それに夫婦っていうものは、多少合わないところがあるから面白いっていうところもあるかもよ。」そう純恵に言われて返す言葉がなくなった政子は純恵を引き止めるのがもう難しくなったと思ったのかそれ以上純恵を引き止める話を続けることはできなかった。

 

「人はひとりで生れて来て、ひとりで死んでいくものかあ。そう言われればそうですね。私もぴったしかんかん!な人をずっと探しているけど、そんな人探さなくていいのかなあ。」

 

純恵よりも年上である政子は年下の純恵から含蓄を賜って妙に納得している。

 

「それにねえ、私、名字が変わった方がいいことあるみたい。この間、姓名判断の占い師さんに見てもらったんだけど、足立よりも、大城の方がいいんだって。」

 

ガチガチの合理主義者に見えて、タマに占いを信じたり、プリクラに夢中になる純恵を見て、そこに女の子らしさを感じ、相反する魅力を改めて感じる高顕であったが、ただ、大城の名前が出てきたので、憮然とした表情をしてしまった。まずいことをいったかなという顔をしながら、今度は高顕の方を見て純恵がいった。

 

「高顕、行政書士試験講座でやった経済の講義を覚えている?完全競争市場っていう言葉があったわね。売手買手が無数にいて、生産者はもちろん消費者も市場に関する完全な情報を持って、参入と退出が自由にできる市場のことだったわね。実際にはこんな市場は少なくて完全競争市場じゃあなくて、その反対の不完全競争市場になっている場合が多いんだけど。」

 

高顕にいじわるなことをいって、申し訳ないと思った純恵が、暖かい言葉を高顕にかけてくれるのかと思ったらとんでもなかった。なぜか、またもや難しそうな話をしだした、純恵を見て、高顕と政子は目を合わせて(ヤバイ!)という表情をした。教え好きの純恵が気が合う合わないの話から転じてなぜか経済学の講義をはじめようとしているからである。

 

「ええ、なんで、今の話に経済学の話が関連してくるの?関係ないと思うけどなあ。」なんとか、純恵に経済学講義を止めさせようと高顕はさりげなく言ったが一度流れに乗った純恵を止めることはできなかった。

 

「まあ、聞きなさい。高顕君。結婚も市場って考えるとわかりやすいわね。どっちが売手か買手かはわかんないけど、仮に男性を売手、女性を買手としましょうか。この場合、男性は夢のある未来の家庭という商品を女性に提供しようとするわけね。高顕もその市場の売手参加者だったとして、もし、その市場が完全競争市場ならバカな高顕君の情報が一から十まですべて買手に知れ渡るので、気のいい私ぐらいしか買手がつかないわね。」

 

「買ってくれるの?」

 

「うん、買おうとしたんだけど、別のモノ好きな買手さんと契約しようとしたから、キャンセルしたんだけどね。別の買手さんもキャンセルしたみたいだけど。」

 

ツッコミを入れたつもりが黙ってなさいとばかりにさらに厳しいツッコミを返されて高顕は後ろずさりをした。その間にも純恵は講義を続けた。

 

「まあ、高顕のような商品を完全競争市場のもとで一瞬でも買おうとする買手は私ともうひとりぐらいしかいないので、次に買手はもう現れないということになるわ。」

 

「そんな、ひどい・・。」

 

高顕の言葉にまあまあというような手振りをしながら純恵が話を続けた。

 

「でも、不完全競争市場なら高顕君のバカさカゲンを公開しなくても取引はできるから、高顕君の発する値打ちコキ情報を真に受けた、高顕君にとってみれば高嶺の女性である女性が間違って買ってくれることがあるかも知れないわけなのよ。」

 

「やった!不完全競争市場ばんざ〜い!」

 

「そうね、高顕のような男性にとっては、結婚市場が不完全競争市場であることはありがたいわね。で、実際には世の中、高顕のようなバカ男ばかりだから、不完全競争市場である結婚市場にいる男性は女性から見るとほとんどが割高なのよね。これを経済学では「逆選択」というのね。不完全競争市場であるがために女性側に男性の情報が行き渡らず情報の偏りがあることを「情報の非対称性」というの。結婚後に情報が偏っていたということを女性側が気付くわけだけれど、それで離婚になるわけよ。」

 

「おお、離婚を経済学的に分析している。純恵ちゃんおそるべし。」

 

「茶化さないでよ、高顕。お調子もんなんだから。続けると、さらに、男性は結婚や付き合ってエッチした後は、釣った魚に餌はやらないとばかりに構ってくれなくなったりするでしょう。このように結婚や付き合った後に男性の態度が変わることによって女性が望む付き合いができなくなることをモラルハザードっていうの。私も高顕にこれやられちゃったおかげでアメリカに行けるんだけどね。」

 

「ごめん。」

 

高顕が気まずそうに純恵に謝っているところを見計らって政子はこの純恵の教え魔地獄から抜け出すために腰をかがめながらそっと自分の席へと戻っていった。政子がいなくなったことにも気付かず純恵は地獄の経済学講義を残された高顕に続けた。

 

「一瞬の気の迷いが人生を変えるということもあるってことね。山名さんの世代になると、男性や結婚生活に関する正確な情報を多く持つことになるから、割高な男性か自分の持つ価値に見合った男性かを区別することが容易になってきて、安易に割高な男性を買ってしまうということはなくなってくるわけね。まあ、それで行き遅れちゃうことになちゃうわけだけど。」

 

「山名さんがいたら怒られるよ。」

 

「あれ、山名さんいなくなっちゃったの?折角、山名さんに気が合う男性がなかなか見つからない理由を経済学的に説明したのに。」

 

「そんな説明、山名さん、受けたくないと思うけど。」

 

「あれ、もうこんな時間じゃあない。今日は忙しいのに、こんなことしている場合じゃあないんだよ。高顕、なんでもっと早くに私の話止めないのよ。バカ!」

 

「そんな、めちゃくちゃな。」

 

相変わらずの純恵と高顕の仲のよさを、離れた自分のデスクから見て、政子は苦笑いすると同時にもうすぐやってくる純恵との別れのことを思ってか近づきつつある秋の気配のような切ない寂しさを感じていた。

 

   

 

 

27.顕子現る!

 

爽やかな秋の風が心地よく感じられる10月の中旬、イマニジア行政書士法人に派手な服装の40代の女性が飛込みで相談にやってきた。

 

「えらい、べっぴんの相談者やなあ。菅野美穂似やないか。ありゃ、わしのタイプやで。」

 

受付で政子と話をしている相談者を覗き込むように見ている所長の皆元が言った。

 

「ほんと落ち着いた日本美人って感じね。何の相談かしら。まさか、会社設立や建設業の許可申請とかじゃあないでしょうから、また離婚か何かかなあ。ああ、どうせまた私と高顕が対応しないといけないのね。」

 

今日も予定が詰まっているのに急な仕事が舞い込みそうで少し憂鬱になっている純恵のところに、相談者の対応を終えた政子がやってきた。

 

「足立先生の出番のようですよ。お子さんをご出産されたようなんですけど、出生届が受理されないんですって。相談者には相談室の方に行ってもらってますので足立先生、対応の方お願いいたします。」

 

「わかったわ。高顕と一緒に対応するわね。あれ、高顕は?お手洗いかなあ?」

 

ちょうどその頃、お手洗いから出てきた高顕がヘタな鼻歌まじりで機嫌良く執務室に戻ってきた。

 

「やっと戻ってきたわね。高顕、飛込み相談よ。たぶん、離婚後、前婚の嫡出推定期間内に出産して出生届が受理されないで困っているという案件じゃあないかなあ。所長や一色先生には無理な案件なのでまた私とあなたで処理するわよ。」

 

「なんかまたややこしそうな案件だね。」

 

さっきまでご機嫌だった高顕も、また難案件が舞い込んで来て表情が曇ってきた。

 

「まあ、そういうなや、相談者美人やったぞ。無理してでもわしがやりたいぐらいやがな。今回は譲ったるからがんばるんやで。さあさあ、はよ相談に乗ったれや。」

 

いつもながら下品な励ましで純恵と高顕の背中を押して相談室に行くようせかす皆元であった。

 

相談室にはまず、純恵が先に入り、少し遅れて高顕が入った。純恵の後に相談室に入った高顕は顔を上げた相談者の顔を見て目が丸くなった。

 

「おかん!」

 

そう、相談者は、高顕の母親である顕子であった。

 

「なんでこんなところにおかんがおんねん!」

 

「あら、高顕、久しぶりやね。1月に別れてからやから、えらい経ってるんやないの。元気やったん。連絡くれへんから心配しててんで。あんたも相談にきたんか?なんかあったんか?」

 

10ヶ月ぶりの親子の会話であった。

 

「おかん、よういうわ。どこにおんのかもわからんのに連絡なんかでけへんやろ。それに相談者やのうて、相談受ける方やがな。」

 

「あれ、あんたここに就職したんかいな。よかったなあ。職が見つかって。」

 

「何、のん気なこというてんねん。で、なんできたんや。」

 

「あら、こちらの方は、高顕君のお母様なんですか?はじめまして、高顕君の上司になります。足立純恵と申します。」

 

「あら、うちの子、社会経験が少ないものですから、皆様に迷惑かけてませんでしょうか? あれ、そういえば、足立さん?TVで見たことがありますわよ。すごい!有名人の方にご相談に乗っていただけるなんて光栄ですわ。」

 

「いや、有名人っていうほどのものではありませんよ。高顕君はうちで立派にお仕事をされていますよ。ご安心くださいませ。ところで今回のご相談は?」

 

「ちょうどいいわ、高顕、あんたにも関係あることやからよう聞いてね。実は、お母さん、7月の終わりに再婚したんよ。ほんでね、10月のはじめに赤ちゃん産んでん。あんたのはじめての弟ができたんやで。」

 

「ええ!なんちゅうこっちゃあ。だいたいなんで7月に結婚して10月に子供ができるねん!いくら高齢出産やからいうて早産すぎるやろ。もう、お母ちゃんやめてなあ。大事な人の前ではじかかすん。」

 

「なんでそんなこというのん。あんたの弟が生れたっていうのに。そや、「顕」っていうんやで、あんたの弟。あんたにもちょっと似てるわ。可愛いでえ。今日は連れて来てないけどまた見に来てちょうだいね。それに大事な人って、この足立先生のことか?いや、あんたもやったわね。こんな素敵な女性が彼女なん?よかったね。」

 

「いや、彼女やないけど。」

 

「ほななんなん。片想いか?まあええわ。若いうちはなんでも経験するのが一番やからな。」

 

「ほんまのん気なおかんやな。ほんで、やっぱり出生届受理されへんかってんやろ。」

 

「なんでわかるん。それやから困ってんねんや。なんや、受理してまうと、今の旦那の子やのうて、高顕のお父さんのあの高道の子になってまうでって役所でいわれてん。ちゃんと再婚もしたのになんで、高道の子になってまうのん?なんや、高道に訴えてもらえとか、なんとかわけわからんこといわれて困ってんのんや。それで、友達で以前に内縁の夫が死んでもうて相続の件でこちらのイマニジアに世話なったいう人がいてここを紹介してもうたんやけどな。ねえ、足立先生、なんでこんなことになんの。」

 

元カレである高顕の母親との衝撃的な出会いに驚きを隠せず黙って、この京極親子の会話を聞いていた純恵であるが、顕子に質問を向けられ、ようやく我に返ったように口を開いた。

 

「ええとですね。高道さんとご離婚されたのはいつですか?」

 

「それだけは忘れられへん日やわ。僕の行政書士試験合格日の日。足立先生、僕の行政書士試験の合格発表の日にこのおかん離婚しよってん。」

 

顕子と純恵の話に割ってはいるように高顕が答えた。

 

「あっそう、じゃあ、ちょっと計算してみるわね。」

 

そう言いながら、純恵は電卓を叩いた。

 

「う〜ん、やっぱり300日に足りないわね。お母様、婚姻解消、つまり離婚されたときから300日以内に生れた子供は前婚中に懐胎した子とされて、法律上、前婚の夫つまり、高道様の嫡出子と推定されてしまうんですよ。」

 

「そんな!高齢出産やから、ちょっと早産気味やったけど、前の結婚中になんやかんやして生れた子やないですよ。そんなふしだらではないですう。ちゃんと高道の家を出てから妊娠したんです。そやのに、そんな風にいわれたら悲しいわ。」

 

「よういうわ。家にいたときから、若い男と付き合ってたくせに。おとんもおとんやけど、おかんもおかんやないか。」

 

「なにいうてんのん。誰がここまであんたを育てたおもてんのん。お母さんは若い時、遊びもせずに、あんたらを産んで一生懸命育てたんやで。大学卒業してもフラフラしてたおまえを文句もいわんと食わしてたんは誰やの。その恩も忘れて。もう、あんたら子供も大きいなったんやから、お母さんがどういう生き方しようともええやないの。お母さんが信じる道生きたらあかんの?いつまでもあんたらの顔色見ながら生きなあかんの?お母さんの人生はなんなんよ。」

 

「なんでもええけど、なんか、頭割れそうになってきたわ。純恵ちゃん、この案件、僕降りていいかなあ?」

 

「何いってんのよ。お世話になったお母様への恩返しになるじゃあない。親孝行だと思って今回の案件は、あなたがやるのよ。事務所としてもちょっと報酬になりづらい案件だから、相談料だけは頂いて、それ以外は頂かないから。あとはあなたが処理するの。もちろん、私もお手伝いするけど。」

 

「ええ、純恵ちゃん、この件に噛むの?なんかうちの家族の恥さらしを純恵ちゃんに見られちゃうようで嫌だなあ。」

 

「何っていってんの。素敵なお母様じゃあない。私、お母様のような女性になりたいわよ。」

 

「あら、やっぱりいいお嬢さんね。高顕、頑張って足立先生をお嫁さんにするのよ。足立先生ならお母さん大賛成だから。」

 

「あ〜ら、お母さんったら。高顕君はとっても立派な男性で私なんかにはもったいないですわ。もっと素敵なお嫁さんが来ると思いますわよ。」

 

そういいながら、顕子と純恵はほほほ笑いをした。このままでは女性同士のよくわからない話が延々と続くと思った高顕は話を相談内容に戻さねばと思った。

 

「あの、相談が前に進んでないんだけど。進めていいかなあ、純恵ちゃん。お母ちゃん、市役所でもおんなじこといわれたと思うけど、こういう場合は、まず、顕をおとんの子供として出生届を出して、それからおとんに話をして、おとんに「嫡出否認の訴え」っていう裁判を顕の法定代理人であるお母ちゃんに対して起してもらわなあかんねん。この訴えはおとんからしかでけへんし、このことをおとんが知ってから1年間しかでけへんからはよやってもらわなあかんで。裁判っていうっても、その前に調停をせなあかんねんけどな。法律でそういうふうに決まってんねん。」

 

「なんで、顕があんたのお父さんの子にならなあかんのん。変やはそんなん。ほんで、それから、顕とお母さんが訴えられるのんか?めちゃめちゃないの。その法律。なんで私と今の旦那の子供を自分らの子供として戸籍に入れるだけの話なのに、前の旦那にややこしいことを頼んだり、訴えられたりせなあかんの。」

 

「お母様のおっしゃるとおりだわ。その変な規定は、民法という法律の条文にあるのですけれども、この条文は、私も、女性の生き方に不自由さを強いていると思います。夫と離婚状態になり、結婚が破綻していく中で、心許せて和ませ合える新しい素敵な男性と出会って、その人の子どもを宿すことは別に悪いことでもなんでもないし、私はむしろ素晴らしいことだと思うわ。それなのに、法律は前の旦那を子どもの父親とすることを強いてくるんです。」

 

「ほんまひどいねえ。でも、ちゃんと再婚してそれから生れた子やのに、前の夫の子とされて、今の夫の子とされへんのはどう考えてもおかしいわ。今の夫との再婚の届はちゃんと受理されているのよ。」

 

「お母様、これもひどい話なのですが、婚姻成立後200日以内に生れた子は原則として嫡出推定されないので、今の旦那様の嫡出子とはされずに、推定の及んでいる高道様の子とされてしまうんです。」

 

「ええ、でも、若い子達なんか、できちゃった婚とかいって、結婚してすぐに子供産んでるやないですか?あの子らも、じゃあ産んだ子供はダンナの子になってないの?」

 

「例えば、初婚同士で、内縁が先行している場合なら、役所の戸籍取扱実務では、できちゃった婚の場合の子供でも、嫡出子として扱うようになっているんです。この場合の子供を拡大生来嫡出子っていうんですけど、実際には内縁が先行しているかどうかはわからないので、役所の戸籍取扱い上、前婚の嫡出推定の問題がない場合のできちゃった婚で生れた子供は一律に拡大生来嫡出子として取扱いがされているんです。こうしないといくらなんでも一般感情が許さないからなんですけれども、前婚の嫡出推定の問題がある場合は、こういう取扱いもされないんですよ。」

 

「ええ、ひどいわ。私のような場合かって、一般感情的に許されへんと思うわよ。」

 

「ほんとですわね。私もひどいと思います。」

 

「でも、足立先生が相談に乗ってくれてよかったわ。女性の気持ちが分かるいい先生やね。なんかちょっと気分がやわらいできたわ。でも、そのひどい法律、なくなれへんのやろか。ほんまにひどいわ。法律って正義の味方ちゃうのん?こんなん、めちゃくちゃやないの!でも、そうなってるんやったら、しかたないわね。そういう世の中なんやろね。足立先生、高顕がいうてた方法以外に顕を高道の戸籍に入れんと、なんとか、私らの子供にする方法ないんやろかしら。」

 

「出生届はまだ受理されていないということですので、顕君の法定代理人として顕子さんから高道さんを相手に、裁判所に親子関係不存在確認の訴えをおこすという方法があります。これは民法には規定がないのですが、判例によってみとめられたもので、それを受けて平成15年に制定された人事訴訟法において人事訴訟の中に含まれるとされたものです。こちらも調停前置主義が適用されるので、まずは調停をしなければなりません。調停がまとまり、高道さんと顕君との親子関係がないという審判を得た後に、次にその審判書を添えて、出生届を提出するんです。離婚がまだ成立していない場合は、顕君の籍は、父親欄は空欄となりますが、高道さんの戸籍に一旦入ります。が、本件は、すでに高道さんとの離婚が成立していますので、高道さんの戸籍に顕君が入ることもなく処理できると思います。高顕君の提示した方法は、民法にはっきりと定められている方法なので、役所はそれを勧める場合が多いと思うのですが、今私がお話させていただいた方法によることもできます。ただ、審判までは早くても3・4ヶ月かかると思います。」

 

「高道の戸籍に顕を入れへん方法があるんやね。足立先生ありがとう。高顕、あんたはあてになれへんわね。市役所とおんなじことしかいわんと。」

 

「いや、高顕君も後で説明しようと思っていたところに私が口を挟んだだけですよ、お母さん。高顕君は本当に立派にうちの仕事をしてくれていますからご安心してください。あと、お母様や今の旦那様がいくら顕君は自分たちの子であると言っても、高道様からの「顕は自分の子でない」という証言を取るか、血液型によって高道様顕君の親子関係が完全に否定されるか、DNA鑑定結果等がない限り、審判が下されないことになっているんです。ですので、どちらの方法によるにしても、高道さんのご協力は必要になると思います。」

 

「そうなん。高道にまた会って話しするのはいややわあ。実は、役所に高道に訴えてもらえいわれて、一回話しに行ったんですわ。そしたら、向うも新しい嫁がおるんやけど、「嫁がおまえ嫌ってるんやからややこしいこと言いに来るなよ。おまえんところの子供のことなんか知るか。わしらに関係ないやないか。」いわれて追い返されましてん。高道の嫁は、私と結婚しているときからの浮気相手ですねん。そやさかい、なんか今だに私のこと向うの嫁が毛嫌いしてるみたいで、私が出ていった後も、「顕子と一緒に住んでいる家なんかにはすまれへん。」ってあの嫁がいいよったみたいで、建替えしたぐらいなんですわ。また行っても門前払いされてしまいますわ。」

 

「わかりました。高道さんとの交渉は高顕君がやってくれますからお母様は安心してくださいね。調停の申立手続や顕君を新しい旦那様が認知する手続も高顕君にやらせますので、あとは高顕君に任せてお母様は産後で大変でしょうからごゆっくりとされてはいかがですか?」

 

「ええ、高道の子やないってことが裁判所で決まっても、新しい旦那が認知せんとあかんのですか?うちの顕はやっぱり私生児みたいになるんですか?何それやっぱり変やわ。法律って。」

 

「いや、準正という制度があって、お母様はすでに新しいダンナ様ともうご結婚されておりますから、ダンナ様が認知されれば認知準正といいまして、認知の時からちゃんとご夫婦の嫡出子となります。また、学説では、認知準正の場合に認知時から嫡出子となるとの条文の規定どおりでは、認知前に相続が発生した場合、不公平になる可能性があることから、認知準正の場合も、その効果は婚姻時に溯るとする説もありますので、この説に従えば婚姻の時から嫡出子つまりご夫婦の子供さんということになります。」

 

「そうなん。もう、ややこしいなあ。なんで自分らの子を産んだだけやのに、こんなにややこしいことになるんですか。顕もかわいそうやわ。でもそんなグチいうてもそんなふうになってるんやったらしゃあないことなんですね。ほな、足立先生、先生がおっしゃるとおりにさせていただきますわ。ほんまにありがとう。いや、ほんまにいい人やね。私に似て美人やし。高顕のお嫁さんになってくれたら、あとはもう、私も高顕のこと心配せんと新しい家庭でやっていけるのに。」

 

「っていうか、今までも心配なんかしてへんかったやろ。僕がどこに住んでるか何しているかも気にせんとどこの誰かしらん男とよろしくやってたくせに。」

 

「まあ、そういいなさんな。落ち着いたら、うちにも足立先生と一緒に遊びにおいでね。結婚しますって挨拶やったらもっと嬉しいけど。ほな、あとは高顕よろしくお願いするわ。お母さん、ダーリンと顕が待ってるから、これでお暇するわ。ちゃんとここで勤めて皆さんに迷惑かけへんようにするんやで。」

 

そういいながら、高顕の住所や連絡先を聞くこともなく、顕子は純恵と高顕を残して相談室を出ていった。

 

「なんか、落ち込むなあ。純恵ちゃん、情けないおかんやと思ってるでしょう?」

 

「そんなことないわよ。若くて綺麗なお母さんで素敵だわ。それに自分に素直に生きてらっしゃるし。羨ましいぐらいよ。」

 

「そうかなあ。でも、嫡出推定が及んでいるのに、なんでおかんや顕の方から親子関係不存在確認の訴えができるの?こういう場合は、おとんからの嫡出否認の訴えしかできないんじゃあないの?」

 

「嫡出推定を受ける場合でも、夫が在監中であったりして、妻の懐胎が不可能な場合は、嫡出推定が及ばないわよね。こういう子をなんというんだった?」

 

「ええと、表見嫡出子。推定の及ばない子ともいうね。」

 

「そう、表見嫡出子よね。血液型鑑定やDNA鑑定等により、科学的な証明によって父子関係が100%ないとされる場合も表見嫡出子となって父子関係が否定されるとする考え方があったわよね。」

 

「東京家裁審判例にある血縁説だね。」

 

「そうよ。血縁説ね。でも、民法774条や777条は血縁説のような真実の父子関係よりも、沿革的には夫の名誉を守ること、ただこれは現代思想に合わないから、今は家庭の平和や父子関係の早期安定をはかることを目的とした規定とされているのね。だから、もし家庭の平和が維持されているにも関わらず第三者である真実の父が妻の不貞を暴き、夫の生殖不能等を理由にして親子関係不存在の主張してくるということは、民法の規定の趣旨に反するし、場合によっては子の利益にもならない場合もあるとも考えられるわね。」

 

「そう言われればそうな感じもするけど、うちのおかんのようなケースの場合は家庭がすでに崩壊しているし、そもそも離婚後に懐胎してるんだから民法のいう趣旨とかも関係ないような気がするよ。」

 

「そうなのよ。そこで、夫婦関係が円満な時は、妻の不義ゆえの子であったとしても、嫡出推定を及ぼすけれども、家庭が破壊されているような場合には、血縁説にもとづき嫡出推定しないという説があるの。これを家庭破壊説または家庭平和説っていうんだけど、家裁実務ではこの立場を支持している場合が多いというわ。」

 

「なるほど、だからおかんのケースでは嫡出推定がはずされ、いつでも誰でも親子関係不存在確認訴訟を起すことができるということになるのか!」

 

「でも、家庭破壊説にも、不都合はあるわね。妻の不義の子であっても夫婦が一緒に自分の子として育てようという気になる場合があるでしょう。その後、気が変わって夫か妻の意思で別居しだした場合、家庭破壊説では、父子関係を否定することが可能となるわね。とすると、安定した父子関係が壊されてしまい子の養育上好ましくないとなるわけよ。」

 

「なんかもうどうでもよくなってきたんだけど。おかんのケースでは親子関係不存在確認できるってことだからもういいじゃん。」

 

「だめよ、続きがあるんだから、しっかり聞かなきゃあ。そこで、家庭破壊説における家庭破壊の基準を、妻が子の真実の父と同居ないしは再婚しているときに限るという説もあるの。これなら、子の養育の点についてはクリアできるんじゃあないかということなのね。まあ、これも法律上の夫の意思を全く無視しているという問題点があるとの指摘はあるけど。」

 

「最高裁判例はどうなってるの?」

 

「外観説に立っているようなの。」

 

「外観説って?」

 

「事実上の離婚状態にあるため懐胎が外観上不可能であることが明らかな場合に限って表見嫡出子を認め、関係者間に合意あるような場合にのみ、運用によって真実の父子関係を尊重するべきであるとする説よ。平成1234日の最高裁判例では、「夫と妻との婚姻関係が終了してその家庭が崩壊しているとの事情があっても、この身分関係の法的安定を保持する必要が当然になくなるものではない」として外観説を支持していることを明らかにしているの。」

 

「ええ、じゃあ、おかんのケースもおとんの了承を取りつけた方が確実だということになるのかなあ。」

 

「そうね、だから高顕の出番なのよ。しっかりとお父さんを説得しないとダメよ。高道さんとの交渉には私も一緒にいってあげるからね。」

 

「ええ、純恵ちゃんにうちのおとんも見せることになるの?やだなあ。」

 

「あなたの両親を見てあなたのことを嫌いになったりはしないわよ。」

 

「ええ、じゃあ、まだ僕のこと想ってくれてるの?」

 

「顔も見たくないぐらいに嫌いだったら、とっくの昔にもう事務所やめてるわよ。でも、だからといってあなたにされたひどいことは忘れてないわよ。浮気するにしてもわからないようにするならまだしも、私なんて目の前で相手の女性からあなたが浮気したことあなたがいる前で聞かされたんだから。もう変になりそうだったんだから。たまたまその後、元カレの学から電話が掛って来て、そんなひどいことされたんだったら戻っておいで、僕は命懸けで君を守るからっていわれたのよ。そんなことを言ってくれる男性と浮気を知らされて困っている私を見て見ぬふりしていたあなたと、あなたが私の立場だったらどっち選ぶ?」

 

「そうだね。ごめんね。謝っても謝りきれないと思うけど。」

 

「学の誠意を超える誠意をあなたが見せてくれないと、私は一度、学を裏切ってるんだからもう二度と彼を置いてあなたの元に行くことはできないのよ。」

 

「そうだね。」

 

「そうだね、じゃあないでしょうに・・。もう、だめね。いつまでたっても。まあ、一緒になるかどうかは縁の問題だからね。前にも話したけど、縁がなければどうしようもないことね。」

 

「でも、婚姻って、うちのおとんやおかんもそうだけど、一度関係が冷えるとこんなに法的にややこしいことになるかも知れないのになんでみんな平気でやるのかなあ?」

 

「知らないからじゃあない?法的「情報の非対称性」ってとこかしら?」

 

「じゃあ、なんでよく知っている純恵ちゃんは結婚しようとしているの?」

 

「両親や周りの人達は、年頃になれば女は結婚するものだと思ってるからよ。いちいち説明するのも面倒だし、だいいち説明してもそもそもわかってくれないでしょうからね。変な子って思われるのがオチでしょう?」

 

「ええ、それで結婚しようと思ってるの?」

 

「周りに合わせるのが悪い?バカぽい制度だとは思うけれど、女がそれに反して生きていくことは男がそうするよりも厳しいことなのよ。だいたい結婚した後に仲悪くならなきゃあいいんだから平気よ。」

 

「そんなのわかんないじゃん。」

 

「そうなれば、そうなったとき考えるだけよ。そうでなくても疲れることが多いのに、わざわざ反逆児みたいな生き方をなんでしなきゃあなんないの。私の結婚を言葉で阻止しようとしないで、映画みたいに結婚式の日、私を奪いに来るぐらいのことをして態度で示してみたら?」

 

「そんな大胆なことできるわけないじゃん。映画じゃあないんだから。」

 

「意気地なしね。それじゃあ誠意は伝わらないわよ。やっぱりご縁がないってことね。高顕も私のことなんて忘れて早く縁がある人見つけた方がいいよ。そんなことより、早く、あなたのお父さんのところに今回の件についての交渉に行かないとね。」

 

そういって、相談室を出た純恵と高顕は、京阪枚方市駅近くにある高顕の実家、すなわち、高道の家に向かおうとしたのだが、所長の皆元に呼びとめられた。

 

「おい、おまえらどこに行く気やねん。」

 

「さっきの相談者の件で枚方に行くんですけど。」

 

そう、答えた純恵を見て、意地悪そうな笑顔を見せた皆元が言った。

 

「さっきの相談者、京極君のお母さんらしいやないか。「うちの子よろしゅう。」って挨拶して帰ったがな。相談料はもらったけど、あとはタダやいうたらしいな。まあ、京極君のお母さんのことやから、京極君がするんやったら別にタダでもなんでもええんやけど、勤務時間に出かけてもらったら困るで。」

 

「あら、顕子さんが独身じゃあなかったから、ご機嫌ななめになったのかしら?おまけに高顕のお母さんだから、さすがの所長も手出しはできないわね。手を出しちゃったら高顕のほんとうのお父さんになちゃうものね。」

 

「おう、こんな息子いらんわい!」

 

「ええ、前に私と高顕のこと子供みたいに思ってるとかいってなかったけ?ほんといいかげんなんだから。」

 

「相変わらず、するどいツッコミをするね。足立君。そういうことやのうて、身内のボランティアするんやったら仕事終ってからにせいいうことやないか。わし、間違ってるこというとるか?」

 

「はいはい、わかりました。じゃあ、高顕、今日の仕事が終ってから、枚方に一緒にいきましょうね。これでいいんでしょう?」

 

「わかればええねん、わかれば。ほな、仕事たまってるんやから、さっさと取り掛かってくれよ。」

 

そう、皆元にクギをさされて、しかたなく純恵と高顕は本来業務へと戻っていった。

 

 

  

 

 

28.ひさしぶりの同乗。

 

業務を終えた後、純恵と高顕は2人揃って事務所を後にし、高顕の実家でもある高道の家に向かうため御堂筋線本町駅から京阪枚方市駅を目指した。純恵と高顕は久しぶりに隣合って電車のシートに腰掛けることになったわけであるが、嬉しそうにしている高顕を呆れた目で見ながら純恵は高顕に話し掛けた。

 

「ねえ、顕子さんの話によると、あなたのお父さんの高道さん、今回の件について協力させるの一筋縄ではいかなさそうね。きちんと説得するのよ。」

 

「あのオヤジ、頑固だからなあ。その割には、女には弱くて、たぶん新しいカミさんにも尻を敷かれていると思うよ。その新しいカミさんが反対してるんだったら、厳しいなあ。まあ、がんばって法律ではそうなっているからしかたないから協力しろって言ってみるけど。」

 

「こういう場合は、法律論をいくら説明したところで、協力してもらうことは難しいと思うわ。お父さんだって顕子さんから説明を受けてある程度、法律上の手続をしなければならないことは理解しているはずだと思うの。でも色々な感情が渦巻いて顕子さんの申し出を拒否しているんじゃあないかなあ?」

 

「じゃあ、どうすればいいの?」

 

「お父さんの感情を受け止めた上でのカウンセリング的な交渉が必要になるんじゃあないかなあ。」

 

「カウンセリング的交渉?そんなのわからないよ。純恵ちゃんはアロマテラピストだから、カウンセリングに関する知識があるんだろうけど、僕には無理だよ。」

 

「そんなことないわよ。だいたい高道さんとあなたは親子なんだし、わかりあえるはずよ。」

 

「よその女を連れて来て、僕のことを追い出したオヤジだよ。僕にだってあのオヤジには恨みもあれば、わだかまりもあるし。」

 

そう言いながら、高顕の脳裏には、10ヶ月前に父親に追い出され、路頭に迷った時の悪夢が蘇ってきた。そういえば、その悪夢から救ってくれたのは、今目の前にいる純恵であるということも高顕は思い出した。よく考えると純恵には何度も救われ、癒され、愛されたのに裏切ってしまって申し訳ないという気持ちも今更ながら込み上げてきた。そんな考えを遮るかのように純恵の返事が返ってきた。

 

「よくいうよ。自分だって、浮気したくせに。それに、もう大人なんだから、実家を出て、一人で生きていくことぐらい別に普通のことじゃない。子供が26歳にもなれば、親子といえども、もう別の人生を歩んだところで問題はないでしょう。養育も終っているんだから。普通のことをされたぐらいで、恨んだり、わだかまりを持ったりするんじゃあないわよ。それよりも、26歳にもなるまで文句も言わずに養ってくれたことを感謝するという気持ちに切り替えた方がいいんじゃない。つまらない恨みやわだかまりといったようなマイナス思考をしていると前向きになれないでしょ?育ててくれてありがとうという感謝を気持ちを持つ方がポジティブな思考ができてお父さんの感情も受入れやすくなるんじゃあないかなあ。」

 

「さすがだなあ!なんかそんな気になってきたよ!」

 

「相変わらず単純ね。変な悪徳商法に引っかかりそうなタイプね。気をつけなさいよ。」

 

「相変わらず皮肉屋だなあ。自分で話振って来て、乗ったら振り落とすなんてひどいよ。全然、カウンセリングになってないじゃあないじゃない。」

 

「うふふ、ごめんね。法律専門家は反対解釈をするのがクセだから、よい法律家ほど、皮肉屋に見えるのよ。法律家は悪しき隣人っていうでしょう。」

 

「でも、今はカウンセリングの話をしてるんでしょう?」

 

「そう、だから本件のような感情のもつれた案件では悪しき隣人的な態度ではダメなわけよ。カウンセリングマインドを持ってお父さんに接しないとだめよっていう話をしているわけ。わかった?」

 

「なんか、煙に巻かれたような感じがするけど。」

 

「うふふ、私の煙に巻かれて幸せでしょう!」

 

「うん!幸せ。」

 

「単純なヤツ。」

 

「話がサークルサークルしてるんだけど。」

 

「あら、ごめんね。」

 

まるで、夫婦漫才のような2人の会話に、電車の乗客も思わず、純恵と高顕の方を見てくすくすと笑っている。

 

「それより、高顕、パラカウンセラーって知ってる?」

 

「いや、知らない。」

 

「臨床心理士のような本職のカウンセラーを、「職業的カウンセラー」っていうのね。で、心理療法をやるわけではないけれど、職業上、クライエントからの相談を受けないといけないような職業者、つまり医師や看護師、教育者、法律家などを「パラカウンセラー」と臨床心理学では呼ぶのね。つまり、行政書士も、セラピーつまり、心理療法をするわけではないけれども、パラカウンセラーである以上は、本来的に相談や交渉のような面談の際に必要な技法は知っておく必要があるわけなの。」

 

「パラカウンセラーとして面談の際に必要な技法?」

 

「通常、それには、マイクロカウンセリングっていう技法が適しているとされているわ。」

 

「マイクロカウンセリング?」

 

初めて聞く言葉に高顕は純恵の目を見ながら首をかしげた。

 

「そう、マイクロカウンセリング。これをマスターするためのポイントとして、まず、かかわり行動っていうのがあるの。これは、クライエントを前にどのようにして聴けばよいのかという問題ね。視線の合わせ方、ボディランゲージ、声の調子、クライエントの話に興味をもって聴き、カウンセラーが勝手に話題を飛躍させないことなどに対する技法のことよ。」

 

「難しそうなだなあ。」

 

「視線については、相手の目と鼻の間ぐらいを見るのがよいとされているわ。よく話するときは、相手の目を見ろっていうけれど、日本人の場合は、やっぱり目を見られると嫌なもんでしょう?声については甲高いのは耳障りになるわね。優しいトーンで話される方が落ち着くんじゃあないかなあ。面談する際の位置も重要ね。相手の真向かいに座ると対立的になってしまうから、斜め前あたりに座るのがよいとも言われているの。かかわり行動で一番大事なのは相手の話をよく聴くということね。」

 

「なるほど!」

 

そういいながら、高顕は大袈裟に手をポンと打った。

 

「本当にわかったの?まあ、いいけど。次のポイントとして、質問技法があるの。OQ、これは、クライエント自身の考えで答えられる質問のことをいうんだけど、これとCQ、これは、YESかNOかで二者択一的に答えられてしまう質問のことね。この、OQとCQの使い分け技法などのことを質問技法というわけね。」

 

「どういうふうに使い分ければいいの?」

 

「OQとCQは会話の状況を見極めながら臨機応変的に使い分ける必要があるけど、まだお互いをよく知らない、打ち解けていないような相手同士は、CQから入り、質問の的を絞り、相手の興味や状況を探ってから、OQに切り替え、会話の内容を深めるという形の方がよいといわれてるわね。よく知らない人に、「ねえ、昨日の阪神巨人戦どうだった?」って普通聞かないでしょう?だって、相手が野球が好きかどうかもわかんないんだから。こういう場合は、CQで、「プロ野球はお好きですか?」って聞いて好きと答えたならば、「どこの球団が好きですか?阪神ですか?」と聞いて、これに阪神と答えたならば、OQに切り替えて、「昨日の阪神巨人戦はいかがでしたか?」と聞けば会話がスムーズに進むでしょう?」

 

「すご〜い!ほんとだ。会話を進めるための質問の仕方にも技法があるんだ。」

 

「そうよ。質問技法をマスターすれば、高顕もまた、私のような素敵な女性を見つけられるかもね。」

 

「もう、寂しいこといわないでよ。」

 

高顕は今更ながら、純恵の女性としての魅力はもちろんのことその博覧強記振りにさらなる驚きを感じていた。末っ子体質の高顕は、尊敬できる一面を女性に見せられるとそこに魅力を感じるところがある。この目の前にいる純恵を怒らせてしまったあの日のことが悔やまれてならない高顕であった。

 

「じゃあ、高顕がコンパで新しいいい人見つけられるように、質問技法のトレーニングをしてみましょう!コンパに来ているつもりで私に話しかけてみて。」

 

「ええ、コンパなんかいったことないからなあ。じゃあ、そうだなあ。ねえ、君、今日のコンパどう?」

 

高顕は純恵から楽しそうな役どころを与えられここぞとばかりに嬉しそうに純恵の顔を下から覗くように見て言った。

 

「どうっていわれても。」

 

純恵も役柄に成りきって不機嫌そうに答えた。

 

「何か不機嫌だね。なんで?」

 

「別に不機嫌じゃあないわよ。なんで、初対面のあなたに、不機嫌でもないのに、不機嫌だねとか、なんで不機嫌なのとか聞かれないといけないわけ?」

 

役に入り過ぎて純恵はつい声が大きくなってしまった。

 

「ありゃ!怒らせちゃった。でも、純恵ちゃんちょっと声が大きいよ。周りの人がみちゃうじゃあない。」

 

「もう、全然だめね。あなたがいけないのよ。さっきいったじゃあない。知らない人と会話するときは、YESかNOかで答えられるCQから入って、質問の的を絞るべきだって。打ち解けるためのOQはその後でしょう。さあ、もう一回。」

 

「まだやるの?厳しいなあ。じゃあ、僕のこと好き?」

 

「ふざけないで。ちゃんとやってよ!」

 

純恵は、高顕の脇腹をつねりながらそういった。

 

「痛いなあもう。ちゃんと、CQから入ったじゃない。じゃあやり直すね、ビールと水割りどちらが好き?」

 

「そう、いいわよ。わたしね、水割りよりビールの方が好きです。」

 

「毎晩は飲まないよね。」

 

「それがね、毎晩飲むんです。野球みながら。」

 

「野球が好きなんだ。おっさんみたいだなあ。ビール飲みながら野球観戦なんて。」

 

「おっさんみたいは余計なのよ。もっと優しく話してよ。」

 

「じゃあ、阪神が好きなの?」

 

「それが、巨人なのよ。大阪では肩身が狭いわね。」

 

「ええ、偶然、僕も巨人ファンなんだよ。巨人のどこがいいの?」

 

「OCに変えたわね。いいわよ。うふふ、カッコイイ選手が多いところ。」

 

「どの選手が好きなのかなあ?」

 

「高橋由伸!」

 

「偶然だね、僕も高橋選手が好きなんだ。一緒に野球見に行ったら面白そうだね。」

 

「そうね。じゃあ、今度連れてってくれる?ほら、どうよ?会話がはずんでるじゃあないの。」

 

「ほんとだ!すご〜い。」

 

ひさしぶりに事務所以外で純恵と盛り上がった会話ができて、楽しくてしかたない高顕は大袈裟なリアクションを取った。

 

「ほんとにすごいと思ってるの?しらじらしいわね。まあ、いいわ。よそで悪用するんじゃあないわよ。じゃあ、質問技法はこれぐらいにして、次いくわね。」

 

「ええ、まだあるの!」

 

「あるのよ。次にポイントになるのが、面談を進めながらクライエントを観察把握する技法である「クライエント観察技法」とカウンセリング用語でうなずきのこと指す「はげまし」と、クライエントの言った内容をカウンセラー自身の言葉に置き換えて伝え返す技法である「いいかえ」、それに、クライエントが延々と語った話をカウンセラーが簡潔に表現し伝え返す技法である「要約」なの。いいかえ、要約は、クライエントの自己理解と話しの内容の整理に役立つけれど、カウンセラーは歪曲していいかえ・要約しないよう注意する必要があるわ。最後に、クライエントの感情を面談の中で明瞭にしていく技法で、「感情の反映」というのがあって、マイクロカウンセリングを用いた相談はこれらの技法をマスターして上手く組み合わせて用いて行くことになるの。」

 

「う〜ん、やっぱり大変そうだなあ。相当練習しないと上手くできそうにはないなあ。」

 

「確かに、なんどもロールプレイングをすることが必要にはなるわね。マイクロカウンセリングは、今みた技法を組み合せながら、全体としては、カウンセラーとクライエントとの間で、まず親和・共感的関係を作り上げ、これ、ラポールの形成っていうんだけど、これを第一段階として、次の段階で、クライエントの情報収集をし、クライエントの問題を定義化するの。さらに、目標を設定し、その目標を実現するための方法の選択をし、それを日常生活へ反映させるという流れで進めて行くことになるわけ。」

 

「すごくシステマチックな技法だとは思うけれど、今日のオヤジの説得にすぐには使えそうにもないなあ。」

 

せっかく純恵が自分に一生懸命教えてくれているにも関わらず自分にはできそうもないと思うと情けなくなり、思わず電車の窓の向う側を遠く見つめる高顕であった。そんな高顕を見てもどかしさを感じている純恵であったが、しかたないわねという表情で純恵は答えた。

 

「じゃあ、ひとつ今日にも使えそうな技法を教えるわ。それは、お父さんのお話をよく聴いてあげることね。聞き流すんじゃあなくて、よく聴くことが大事だわ。そして、「共感」してあげることよ。」

 

「共感?」

 

「そう。これはカウンセリング技法でも、最重要スキルなんだけど、これを上手く使うことによって絶大な威力を発揮することになるわ。」

 

「具体的には?」

 

「例えば、病院に行って、「お腹のこの辺がひどく痛くてつらいです。」といったとするわね。そうしたら、ある医者は「そうですか、これは盲腸ですね。じゃあ切りましょう。このオペはですね。」とかなんとかいいながら、治療方法の説明に入ったとするわね。別の医者はこのような場合に「そうですか、それはさぞかし、おつらい思いをしましたね。」と低いトーンでうなずきながら「共感」してくれて、「それでは、早くよくなるように一緒に最善の治療方針を考えましょう。」と言ってくれるとするわ。あなたなら、どちらの医者に診てもらいたい?」

 

「そりゃ、共感してくれる医者の方がいいなあ。」

 

「そうでしょう。だから、「おつらい思いをしましたね。」といいながらうなずくだけでも相手を癒して心開かせ、目標に向かわせることもできる場合があるのよ。」

 

「なるほど。これならオヤジの説得にも使えそうだなあ。そういえば、今日のオカンの相談でも純恵ちゃん、この手を使っていたね。オカンの「こんな法律ひどいわ」っていうグチに、「ほんとひどいですね」っていってたもんね。」

 

「そうよ、よく気付いたわね。この共感があなたのお母さんを前向きにさせたかどうかはお母さんに聞かなければわからないことだけど、少なくとも今日の相談ではお母さんは前向きになってくれたわね。」

 

「何気なく相談していると思ったら、いたるところに小技を挟んでるんだね。ほんとに純恵ちゃんはおそるべしだよ。マジで尊敬しちゃうなあ。」

 

感服したという表情で純恵を見た高顕であった。今まで単に好きな女性ということで純恵を見ていたところがあった高顕であるが、純恵のスペシャリストとしての力量の高さに専門職業人の尊敬をこの時初めて感じて、純恵のような行政書士になりたいという憧れを持ちつつある自分を感じていた。そして、もしこのまま純恵と別れるようなことがあっても、今このようにして純恵から教えてもらっていることを活かして行政書士としてやっていけることができれば、別れて遠く離れたとしてもいつまでも純恵は自分の中に一緒にいると感じられるのではないかと思いつつあった。あとわずかかもしれない純恵と一緒に過ごせる時間を大切にしたいと思う高顕であった。

 

「何とろ〜んとした目で見てるのよ。さあ、枚方市駅についたわよ。いくわよ。」

 

背筋を伸ばして電車から降りる純恵の後を追いかけるようにして高顕もまた駅のホームに降り立った。

 

   

 

 

29.オトンを説得!

 

純恵と一緒に10ヶ月ぶりに実家に戻った高顕であったが、そこには26年間暮らした、見慣れた2階建ての古い建物の姿はなかった。高道が再婚相手である麓子にせがまれ自宅を取り壊し新しい3階建て建物を建てたからである。新築3階建ての高道の新居は1階がガレージになっており、玄関は階段を上がったところ、2階の左側にある。純恵と高顕は1階の門柱に設置されているインターホンを押した。

 

「どちら様ですか?」

 

インターホンの向うからは麗子と思われる女性の声が聞こえた。柔かい女性らしい優しそうな声である。

 

高顕は実家にいるときから、高道に愛人がいることは知っていたが、声を聞くのははじめてである。動揺して声を出せない高顕の背中を純恵が押した。

 

「何だまってんのよ。早く答えなさいよ。」

 

背中を押された高顕は声を上擦らせながら言った。

 

「す、すいません。高道の次男の高顕といいます。お父さんいますか?」

 

「高顕さん?少々お待ちくださいませ。あなた。」

 

さっきとは違った少し、低い声になった麗子の声が返ってきた。

 

しばらくして、玄関のドアが開き、シャツとジーパン姿の高道が現れた。

 

「おお、高顕、久しぶりやのう。元気にしとったんか。あら、えらいべっぴんさん連れて、もしかして、フィアンセか?そうか、結婚すんのか、おまえ。未来の嫁はん連れて挨拶にきたわけやな。まあ、あがれや。」

 

そう、いいながら高道は、2階まで上がって来て家に入れとばかりに手招きをした。(いや、ちがうねん、おとうちゃん。)といいそうになった高顕に、純恵は自分の口の前に左手人差し指を立て「しいっ」という仕草をした。(黙って上がるのよ)という合図だと感じた高顕は何も言わずに、純恵と階段を上り2階玄関のところまで行って、靴を脱いで家の中に入った。

 

「どや、ええ家できたやろ。」

 

そう高顕に聞く、高道にうなずきながら、高顕は家の中を見渡した。まだ、木の香りが残る高道の新居を眺めながら高顕は複雑な感じがしていた。2階奥の応接間に通された純恵と高顕はソファに腰掛けるよう高道に促された。

 

「おい、麗子、お茶でも入れたってくれ。お茶でええねんな。」

 

「うん、ええよ。」

 

10ヶ月ぶりに高顕は高道に口を開いた。

 

「ほんで、おまえこの子と結婚するんか?よさそうな子やないか。美人やし。おとうちゃんが惚れてしまいそうやわ。あはは!」

 

自分を追い出しておきながら、10ヶ月に渡り、連絡もしないで、麗子のことばかりにかまけて、あげく、高顕の近況を聞くこともなく、能天気なことを言っている高道を見て、怒りが込み上げてきた高顕であったが、電車の中で純恵に言われたことを思い出しながら、冷静に答えた。

 

「いや、おとうちゃん、この人は、足立純恵先生っていうんやけど、僕の職場の同僚やねん。」

 

「おまえ、就職したんか?」

 

「当たり前やろ。ここ放り出されたんやから、仕事せな生きていかれへんやないか!」

 

つい声を荒げてしまった高顕であったが、(だめだ、冷静にならなければ。)と思い直して、再び落ち着いた声で話した。

 

「いやな、おとうちゃん、僕な行政書士事務所に就職してん。」

 

「行政書士?そういえば、おまえそんな資格かなんか取るんやいうて勉強しとったなあ。わしも建設業やっとるから、行政書士さんにはよう世話なっとるわ。ほう、おまえ行政書士さんになったんか。えらいもんやなあ。」

 

(今まで音沙汰無しのくせしてえらいもんもなにもないやろう)と思いつつも怒りを抑えながら高顕は話を続けた。

 

「それでやなあ、おとうちゃん、今日、おかあちゃんが僕がおるいうのしらんとうちの事務所に再婚相手との間にできた子供の件で相談にきよってん。」

 

そう、高顕が話した瞬間、高道の目の色が変わった。表情も急に険しくなり、眼光するどく高道は高顕と純恵を睨みつけた。

 

「なんや、その件できたんか。顕子のヤツも一回きよったがな。うっとしいわけのわからんことばっかりいうとったからこいつ変になりよったんちゃうか思うたで。なんか再婚相手との間に子供ができたけどほっといたら、わしの子になるから、裁判を起せやら協力せいやらいうってたけど、ほんまなんか。」

 

今度は、横を向きながら吐き捨てるように高道が言った。

 

「そやねん。ほっといたらおかあちゃんの子供、法律上、おとうちゃんの子供になってまうねん。麗子さんがおかあちゃんのことようおもてないことは知ってる。色々あるやろうからそれはしかたないことやと思う。おとうちゃんにとって今一番だいじなんは、麗子さんとのことやということもわかる。そこにおかあちゃんがいきなりやってきて面倒なこといわれて仕事でも忙しいおとうちゃんがしんどなってる気持ちもわかる。おとうちゃん、めんどくさいこと嫌いやもんな。」

 

麗子と同居するために追い出した息子にそう言われて、さっきまでの険しい表情が崩れ出している高道であった。一緒に住んでいたときもまともに息子としゃべったことがなかった高道であったが、久しぶりに会った高顕が自分の気持ちを代弁するようなことを言ったのを見て聞く耳をもとうとしているのである。

 

一方、 高顕の受け答えを黙って見ている純恵は、さっき授けたばかりの「共感技法」をいきなりストレートに出した高顕を心配そうに見ていた。

 

「そや、ようわかるの。仕事も忙しいし、なんや裁判みたいなめんどくさいことやれいわれて少しカッとなったところはあるねん。顕子が帰った後、しばらくたったら、そら、ちゃんとやったらなあかんと思うときもあったわ。えらいケンカして別れたけど、30年近くも連れ添うたヤツのことやからなあ。本気であいつを憎いなっておもうてへんねん。おまえのおかあちゃんでもあるんやからな。幸せになって欲しいともおもってるがな。でも、あいつのことで手間かけて、いまの嫁はんに心配かけるのんもいややねん。どうしてええんかわからへんというところも正直あるわ。」

 

さっき教えたばかりの手法を用いて、高道から情報収集し、高道側の問題を引き出しつつある高顕を純恵は固唾を飲んで見守っている。一方、高顕は高道の話を深くうなずきながら相槌を打って聞いていた。

 

「めんどうな手続は僕ができる限りやるわ。だから心配せんといて。おとうちゃんとおかあちゃんに26年間も面倒みてもらったのになんもできんと離れ離れになってしもうたから、恩返しやおもうてやらせてもうてええかなあ。もちろん、全部を全部僕がおとうちゃんに代ってやることはでけへんねん。裁判所にいってもうたりもせなあかんけれどそんときは僕がついていくし、わからんところあったら聞いてもうたらええ思うし、なるべくおとうちゃんがしんどうなれへんようにするから手伝ってくれへんかなあ。」

 

高顕の話を聞きながら、高道はソファの前に置かれたガラステーブルの表面を見ながら黙っている。ここで、はじめて純恵も口を開いた。

 

「お父様、私もできる限りのサポートはさせていただきますから手続の面ではご心配しないでくださいませ。」

 

そう、にっこり微笑みながら純恵はいった。

 

「あとは、麗子さんやなあ。麗子さん、おとうちゃんのことが大好きすぎるから、おかあちゃんのことで、おとうちゃんが色々いそがしいするのつらいんやろうな。おかあちゃんの名前聞くのもいやなんやと思うわ。そんな麗子さんを見て、おとうちゃんも、つらなるんやろ。」

 

そう、高顕にいわれて、高道は顔をあげて、「ふっ〜。」とため息をついた後、高顕の質問に答えた。

 

「そうや、そのとおりや。面倒くさいことはおまえらがやってくれるのはええとして、あとは麗子や。俺、あいつには頭があがれへんねん。あいつは俺の最後の女やおもうてるけど、あいつはまだ若いからな。怒らせて出て行かれたら思うたら、顕子のことで俺が動くのためらってしまうんねんや。」

 

高道の話をうなずきながら聞いていた高顕は、最大の問題点は麗子の顕子に対するわだかまりであると思った。

 

「ほな、おとうちゃん、麗子さんを、僕が説得してええかなあ。」

 

そう、高顕に提案されて、またしばらく黙り込んだ後、高道が言いにくそうに口を開いた。

 

「おまえの話を麗子が聞くかなあ。おまえも顕子の子供やねんから、もしかしたら麗子はおまえに対してもひっかかるもんがあるかもしれへんし。」

 

そう、下を向きながら話す高道を見て、今度は純恵が微笑みながら口を開いた。

 

「ねえ、お父様、そういうことは女性同士で話しをした方がいいかも知れませんね。どうでしょう?麗子さんとは私がお話させていただいてよろしいかしら?」

 

「あんた、足立さんっていうんやったんかいな。」

 

下向きかげんだった高道が顔をあげて、高道の話にうなずく純恵の顔を見た。

 

「あんた、麗子と歳も近そうやし、上手く説得できるんやったらそら、是非お願いしたいわ。」

 

そう、高道に言われて、純恵は笑顔で大きくうなずいた。

 

「是非、やらせてくださいませ。私は、麗子さんとは何のわだかまりもありませんし、冷静にお話しすることができると思います。」

 

「ほな、頼もうかなあ。あんたやったら上手くやってくれそうな気がするし。お願いできるかなあ。」

 

純恵の笑顔で安心したのか高道も前向きになってきたように思えた純恵と高顕であった。その時、応接室のドアが開いて、麗子がお茶を持って入ってきた。

 

「お待たせしました。皆さん、お茶をどうぞ。」

 

そう言いながら、お茶をテーブルに置く、エプロン姿の麗子を見て、純恵が声を上げた。

 

「麗子先輩!」

 

純恵の言葉に一瞬何のことかわからず、あっけに取られたような顔をした麗子であったが、しばらく純恵の顔をじっと見つめて、思い出したように笑顔を見せて純恵にいった。

 

「純恵ちゃんじゃあない!久しぶりねえ。ええ、あんた、高顕さんと結婚するの?さっき、うちの人がちらっと「高顕が嫁さんになる人連れてきよった。」っていってたけど。あらら、どうしましょう。私があなたのお母さんになっちゃうじゃあない。」

 

そういいながら麗子は嬉しそうに純恵の肩を叩いた。

 

そんな2人を見ながら高道がいった。

 

「おまえら、知り合いか?」

 

「いやん、あなた、この子私の後輩なのよ。高校空手部の。私が3年生のときに、1年生で入って来たの。とっても可愛い子で、一番私のことを慕ってくれてたのよ。空手のセンスもよくて上達も早かったから教えがいもあった子なの。あれ、そういえば、あなた大城先輩と付き合ってたんじゃあなかったの?この子ったら、同級生で同じ空手部員のお友達のゆかりちゃんの彼氏だった大城先輩を取っちゃって彼氏にしちゃったのよ。私ゆかりちゃんに泣きつかれて相談されて大変だったんだから。あら、ごめんね、フィアンセの前で。でも懐かしいわね。」

 

「ええ、まあ、積もる話はまた後でゆっくりしましょうね。麗子先輩。でも知らなかったなあ。高顕君のお父様の奥様が麗子先輩だったなんて。お父様、麗子先輩は当時、学校中のアイドルで、部活が終った後の帰りに、下駄箱開けるといつもどっさとラブレターがこぼれ落ちていたぐらいだったんですよ。」

 

「ええ、おまえそんなにもててたんか?こいつの若い時、どんなんやったんか、足立さん、またいつでも高顕と一緒に遊びに来て、ゆっくり教えたってくれな。あはは!そや、女同士積もる話しもあるやろから、男どもは退散しようか。なあ、高顕。麗子も久しぶりの後輩との再会や。家のことはええからゆっくりするんやで。」

 

そういいながら、高道と高顕は応接室から出て行った。

 

残された麗子と純恵は、お互い向き合ってソファに座ったが、その直後、純恵は少し位置をずらして、麗子の右ななめ前に座り直した。

 

「ひさしぶりね、純恵ちゃん。8年振りぐらいかしら。綺麗になったわね。」

 

「そんなことないですよ。先輩の方こそ素敵な奥様になってらっしゃって。偶然とはいえ、お会いできて嬉しいわ。」

 

「ええでも、高顕君と本当に結婚するの?」

 

「いや、違うんです。実は、高顕君とは職場の同僚なんですよ。」

 

「あら、高顕君のフィアンセじゃあなかったの?じゃあ、なぜ、高顕君と一緒にうちにきたの?」

 

「私、行政書士なんです。うちの事務所に高顕君がいると知らずにたまたま、高道さんの前妻の顕子さんが相談に来られて、顕子さんが再婚相手との間にできた子供の法律的な手続の面の話をしに今日はお伺いしにきたんです。」

 

「そうだったの。」

 

純恵の来訪の目的が顕子の件であることを聞いて、少しがっかりしたような表情を見せた麗子であった。

 

「顕子さんのお子さんの件は、先輩聞いてらっしゃいますか?」

 

「うん、この間、顕子さんがやってきたのは知ってるわ。でも、詳しい話は、夫がしてくれないから知らないの。」

 

さっきまでの笑顔が消えた麗子は今度はうつむきかげんで純恵の質問に答えた。

 

「そうなんですか。実は高道さんにご協力いただいて裁判所で色々と手続をしないと顕子さんの再婚相手との間の子供が戸籍上高道さんの子供になってしまうんです。」

 

「ええ!なんで。なんで顕子さんと再婚相手との子供がうちの人の戸籍上の子供になっちゃうの?そんなの困るわよ。」

 

どうやら、高道は今回の件につき、麗子に何も詳しいことを話していなかったようである。これはもしかして話が早いのではないかと純恵は思った。そこで、純恵は本件の内容と法律上の説明を丁寧に麗子に話して、高道が手続に協力することについての理解を求めた。説明を聞いた麗子は苦笑いしながら言った。

 

「変な法律があるものね。そりゃあ、うちの人の戸籍上の子供に顕子さんのところの子供がならない方法があるんだったら早くやって欲しいわ。あの人ったら何もいわないからそんなの知らなかったのよ。知ってたらさっさと手続しなさいっていってたわよ。」

 

「そうだったんですか。高道さんは、また先輩が心配するんじゃあないかって一人で悩んでたみたいなんです。」

 

「もう、あの人ったら。私だってバカじゃあないんだから、そんな大事な手続の邪魔なんかしないわよ。こんなことで私がヤキモチ妬くなんて思ったのかしら。」

 

「高道さん、麗子先輩のことが好きでたまらないみたいですよ。ちょっとでもご機嫌損ねて嫌われちゃったら困るって思ってたみたい。でも、先輩からお話をお伺いして安心しました。手続はちゃんとやりますので、ご心配なさらないで下さいね。」

 

麗子への説得がスムーズに進んで内心ヒヤヒヤしていた純恵も一安心した。

 

「それはそうと、あんた高顕君と付き合ってるんじゃあなかったら、別に彼氏がいるの?」

 

「ええ、大城と12月に結婚するんです。」

 

そういいながら、純恵はなぜか顔がひきつっているのを麗子に悟られまいと必死で笑顔を作ろうとした。

 

「やっぱり、大城先輩と付き合ってたんだね。結婚するのかあ。おめでとう。なんか感慨深いなあ。披露宴には呼んでね。でも、あんまり浮かない顔してるわね。マリッジブルーかなあ?」

 

「そんなことないと思うんですけど。」

 

「そうかなあ。もしかして、高顕君が気になってるんじゃあない。さっきもとても仲よさそうでただの同僚には見えなかったわよ。高顕君もあなたのことばかり見てたし、気があるわよ。あれは。昔、試合の時、いつも応援に来ていた純恵のお父さんに雰囲気が似てるもんね。あの子。」

 

「ばれちゃったかなあ?」

 

「いや〜ん、やっぱりそうなの?困っちゃったわね。どうするの?」

 

「う〜ん、待ってるんだけど、なかなか行動してくれなくて。」

 

12月に結婚が決まってるんだったら、そりゃあ、高顕君も動けないわよ。いっそのこと、駆け落ちしちゃったら?」

 

「あはは、先輩は相変わらず大胆ですね。」

 

「どっちにしても後悔しないように生きた方がいいわよ。誰に反対されようが、世間から後ろ指刺されようが好きなものは好きなんだから悔いがないようにするべきだと思うよ。人生は一度切りなんだから。」

 

その言葉どおりに生きてきた麗子の言葉には説得力があった。思わず考え込んでしまった純恵であったが、そんな純恵を見て麗子が言った。

 

「私はあなたを応援してるからね。うふふ、うちの人も言ってたけど、また高顕君と遊びに来てね。うちの人に私のこといっぱい話してあげてね。待ってるわね。」

 

「はい、わかりました。お言葉に甘えてまた、高顕とおじゃまさせてもらいます。」

 

そう言った純恵の髪を麗子は妹をあやすように撫ぜた。

 

   

 

 

30.さようなら、大好きな人

 

高道の自宅を後にした純恵と高顕は、京阪枚方市駅に戻り、共に自宅のある樟葉へ帰るため電車に乗り、崩れるように電車の座席に座り込んだ。

 

「ああ、今日は疲れたわね。高顕も疲れたでしょう。」

 

「もう、ヘトヘトだよ〜。でも、純恵ちゃんと久しぶりに長い時間一緒にいられて嬉しかったなあ。」

 

「じゃあ、もうちょっと一緒にいようか。あなたにアロマテラピートリートメントをしてあげるわ。あなたのマンションにいっていい?」

 

「ええ、来てくれるの?嬉しいなあ!」

 

「変なことしないでよ。嫁入り前なんだから。」

 

「わかってるよ。」

 

樟葉の駅を降りた2人は久しぶりに一緒に高顕のマンションへと向かった。こうして肩を並べて歩いて帰るのはいつの日以来であろうか。金木犀の香り漂う樟葉の街を歩きながら懐かしい気持ちに心躍らせる2人であった。

 

「純恵ちゃん、ところでアロマテラピーって何?」

 

「ええ、あんた知らなかったの?何されるか知らないでよく嬉しそうな顔をするわね。」

 

「純恵ちゃんと一緒にいるのが嬉しいんだよ。」

 

「あんた、ほんとうに私のことが好きなんだね。もう、そんなことで、私がアメリカいっちゃったらどうするの?そろそろ独り立ちするのよ。女の子は他にもたくさんいるじゃあない。ほんといい人早くみつけたら。」

 

お母さんから離れない小さな子供を見るような目で純恵は高顕を見た。

 

「そんなこといわないでよ。僕はまだ諦めていないんだから。」

 

「それは結構なことだけど、今日は変なことしないでよ。するんだったら帰るから。」

 

「わかったよ。約束するよ。そんな僕を飢えた野獣のように見ないでよ。」

 

「なら、いいわ。アロマテラピートリートメントはね、精油、エッセンシャルオイルともいうけど、これを混ぜた、スキンオイルを使ってトリートメントするのよ。」

 

「エッセンシャルオイル?シャンプーのCMでよく聞く名前だけど、それって何?」

 

「植物の葉や、花、果皮、樹皮、樹脂などから、水蒸気で蒸したり、圧搾したりして採る、植物の有効成分を抽出した、揮発性の有機化合物のことをいうのよ。」

 

「いつもながら、純恵ちゃんの話は難しいなあ。」

 

「そうかしら。精油は、アロマポットやアロマランプという芳香拡散器で芳香浴をしたり、お風呂のお湯に入れて沐浴したり、洗面器等にお湯を入れて、数滴、精油を滴らし、吸入したり、トリートメントしたりして、アロマテラピー利用することで、心身・皮膚・細菌・ウイルス・虫などに作用するの。」

 

「へえ、身体にいいの?」

 

「身体だけじゃあなくて、心への作用の方が有効かなあ。心身への作用としては、鎮静作用、つまりリラックス作用ね。あと、鎮痛作用、筋肉の緊張を解く作用、消化食欲増進作用、ホルモン作用、刺激作用、強壮作用、免疫賦活作用、利尿作用などがあるとされているの。」

 

「純恵ちゃん、歩く百科事典みたいだね。」

 

よくもまあ、何もみないで次から次へと高顕の知らないことばかりを口にする純恵を見て高顕はいった。

 

「アロマテラピートリートメントによる皮膚への作用としては、皮膚の引き締め作用、保湿作用、皮膚をやわらかくする作用などがあるとされているのよ。」

 

「美容にもいいのかあ。だから、三十路前なのに純恵ちゃんのお肌は10代のようなんだね。」

 

「三十路前は余計よ。」

 

「でも、なんで、芳香浴だけでも心身に作用するの?トリートメントで心身に作用するということは、肌からその精油の有効成分微粒子が吸収されて作用するイメージがつくからわかるような気がするんだけど。」

 

「それはね、精油の香りの成分が鼻孔より吸入され嗅上皮の粘膜に付着して、その芳香成分が嗅細胞に伝わって電気的信号に変換されて、嗅球というところで、中継された信号が、大脳辺縁系に入り、ホルモンの分泌や免疫系その他に大きな影響を与え、自律神経精神的生理作用や薬理作用を生むということになるからなのよ。」

 

「専門的すぎて全然わかんないや。」

 

「行政書士試験の一般教養試験対策で勉強したじゃあない。」

 

「生物だね。でも、そんなのいちいちおぼえてないよ。」

 

「業務でも役立つ時があるかも知れないから思い出しておくことね。」

 

そうこう言っているうちに高顕のマンションに到着した。

 

玄関をあけて靴を脱いだ2人は揃って部屋に入った。

 

「ただいまあ!ああ、久しぶりだけど、なんか落ち着くわね。この部屋。ありゃ、私と撮ったプリクラがまだあるじゃあない。こんなの目立つところに残しておくから、赤松さんにも逃げられたのね。」

 

図星をつかれた高顕は苦笑いしながら、スーツの上着を脱いで壁に架けてあるハンガーにかけた。

 

「じゃあ、私はトリートメントオイルを作って準備しておくから、高顕はシャワーを浴びて来て。」

 

そう言って、純恵は鞄からエッセンシャルオイルやビーカー、トリートメントオイルを取り出してなにやら実験のようなことをはじめだした。(何をしているのかなあ?)と気になりながらも、高顕はバスルームへと向かった。

 

今日も一日、びっくりするようなことの連続で、身体は疲れきっているはずなのに、なぜかウキウキしている気分に心躍らせながら高顕はシャワーを浴びた。

 

「準備できたわよ。出てらっしゃい!」

 

そう、純恵に言われて、バスローブを羽織った高顕がシャワー室から出てきた。

 

「おまたせ!」

 

「さあ、はじめるわよ。バスローブを取りなさい。」

 

「ええ、下、何も着てないんだけど。」

 

「いいわよ。見慣れてるんだから。ただし、トリートメントなんだから変な気になるんじゃあないわよ。」

 

「そんな、憧れの人の前で全裸になっちゃったら変な気分になっちゃうよ。」

 

「ならないのよ!さあ、そこに寝るのよ。」

 

口を尖らせて子供を叱り付けるように言った純恵を見て、高顕は言われるがままに黙って敷布団の上に裸で横たわった。

 

「仰向きで寝るんじゃあないの!うつぶせになるのよ。」

 

顔を赤らめながら純恵がまた高顕を叱り付けた。

 

「あれ、顔が赤くなってるよ。照れてるの?」

 

「そんなこというんだったらもう帰るわよ。黙って寝てなさい。じゃあ、やってあげるわね。」

 

純恵は、ビーカーに入った精油を希釈したトリートメントオイルを手にとって高顕の背中に擦り込むように塗っていった。そして、手全体を使って、長く大きなストロークで高顕の腰から背中にかけて軽く擦っていった。

 

「どう?気持ちいい?これは、エフルラージュっていうアロマテラピートリートメントの主手技なの。」

 

「うん、すごく気持ちいい。」

 

次に純恵は、高顕の肩甲骨の周りを揉みほぐすようにトリートメントした。

 

「肩甲骨の周りって疲れがたまりやすいのよね。この揉みほぐすようにやる手技はペトリサージュっていうの。」

 

あまりの気持ちよさに高顕は純恵のアロマテラピートリートメントの解説に適当に相槌を打ちながら眠くなりつつあった。

 

次に純恵は、高顕の背骨の横側の筋を親指を使って指圧のように圧力を加えていった。

 

「これは、フリクションっていうの。ちょっと指圧に似てるかもね。よほど疲れたのね。ちょっと凝ってるわ。」

 

仕事帰りの夫をいたわるような感じに純恵もなってきた。

 

夫婦ってこんな感じなのかなあと思いつつ、今度は、高顕の腰のあたりを手のひらでリズミカルに軽打した。

 

「どう、これはパークションね。」

 

「ああ、その辺も、気持ちいいなあ。毎日やってもらいたいなあ。」

 

「なにいってんの。私と結婚したら、あなたにも覚えてもらってやってもらうからね。」

 

「うん、やってもらいながら、覚えてるよ。」

 

もうすぐ別れが迫っているのに、まるで、もうすぐ一緒になるかのが当然のような口振りで2人だけの世界に入り込んでいた。

 

「うそ、眠りかけてるくせに。」

 

今度は、振るわせるような手つきで高顕の脇腹を純恵は擦った。

 

「これはバイブレーションっていうの。ちゃんとやってもらいながら覚えてる?あとで、私にもやってよね。私だって今日は疲れたんだから。」

 

高顕は薄れゆく意識の中で、声にならないような声で純恵の質問に答えた。

 

「うん、いいけど、純恵ちゃんもすっぽんぽんになるの?また変な気分になっちゃうよ。」

 

「見慣れてるから大丈夫でしょ。力を入れないで優しくするのよ。人間はね、大好きな人にこうやって触ってもらったらとても落ち着くものなのね。とても安心しちゃうんだね。お母さんに撫ぜられたら赤ちゃんは泣き止むでしょう。」

 

もう、高顕は純恵の質問に答えることもなく、スースーと寝息を立て出している。

 

「あら、もう寝ちゃって。心が泣き止んで寝ちゃったのかなあ。私にはトリートメントやってくれないで、もう。寝たふりだったら、それでもいいから聞いててね。ねえ、実はね。この土日明けに私もう、アメリカにいっちゃうの。学の転勤が早まっちゃってさあ。だからね、今日が最後の出勤日だったのよ。所長にはもう言ってるんだけど、そっと去ろうと思っていたから、みんなには内緒にしてたの。明日の朝11時頃に、学が迎えに来て、学のマンションがある東京に行くの。明日の午後3時頃にはもう東京にいるかなあ。で、そのまま月曜日に成田からアメリカに行くの。ねえ、聞いてるんでしょう。」

 

高顕が寝てしまった後も純恵は丹念に高顕の身体にトリートメントを続けた。高顕の身体をこうやって触るのもこれが最後になるかも知れないと思いながら。はじめてこの部屋で高顕の身体に触れた時の記憶を辿りながら。

 

「だからね、高顕、明日、学が来る前の朝10時に、私を迎えに来てくれないかなあ。樟葉駅前で私、待ってるから。私、待ってるからね。一緒にしばらく遠くに行こうね。遠足気分で駆け落ちもいいかもね。あっ、でも、今日のあなたのお父さんとお母さんのお仕事の件どうしよう?うふふ、その時はまたこっそり戻ってくればいいか。ねえ、聞いてるの?」

 

純恵の問い掛けに寝ぼけているのか起きているのか、高顕がうなずいているように純恵には見えた。

 

「やっぱり寝たふりしてるのかなあ?それとも本当に寝てるのかなあ。相変わらずはっきりしない子ね。」

 

いつのまにか純恵の涙が高顕の背中を濡らしていた。眠ってしまった高顕にトリートメントを念入りに行った後、高顕の背中に自分の頬をつけて高顕を抱きかかえるようにしばらくじっとしていた純恵であったが、思い出したように高顕に毛布をいたわるようにかけ、眠り込んでしまった高顕の唇に愛しいそうにそっとくちづけをした。涙をこぼしながら何度も何度も高顕にくちづけをした。それでも眠ったままの高顕を見て、あきらめたようにそっと唇を離した純恵は、精油やオイルやビーカーを鞄に仕舞い込んで、なにやら紙にペンで書いてその紙を高顕の枕もとに置いた。ゆっくりと立ち上がって、玄関の方へと向かった純恵はいつも高顕が置いてあるキー・ボックスから高顕のマンションの鍵を取り出して部屋の外に出た。外から鍵をかけた後、マンションの鍵を、ドアについている郵便受けから部屋の中に投げ込んだ。(チャリン!)という鍵が落ちる音が空しかった。鍵のかかった高顕の部屋のドアをしばらくの間、名残惜しそうに見ていた純恵は、

 

「もう、ここに来ることもないわね。さようなら、大好きな人。ばいばい。ばいばい。」とドアに向かって何度も手を振りながらつぶやくようにいって、高顕のマンションを後にした。

 

純恵の書いた紙には、(鍵は郵便受けの中だからね。勝手に寝ちゃって、ばか!今度は絶対、私にもトリートメントしてね。絶対だからね。体に気をつけて元気でいてね。じゃあね。)とだけ書いてあった。

 

   

 

 

31.たまむし!

 

翌日の土曜日の朝、目が覚めた高顕は、時計が9時半を回っているのを見て、慌てて服を来て、マンションの外に出て、自分の車を止めているガレージへと向かった。車に乗り込み、エンジンを蒸かして、樟葉駅へと向かった。

 

樟葉駅前に着くと駅前ロータリーの道路脇のパーキングに車を止めて、純恵を捜した。純恵の姿を見つけた高顕は純恵のところまで一気に走った。樟葉駅の入り口あたりで、あたりをキョロキョロ見渡しながら両手で大きな旅行鞄を持った、純恵が白いシャツにピンクのスカートを着て、両足をきちんと揃えて立っていた。高顕が一番好きだったソバージュに髪型をまとめた純恵を見て、微笑みながら高顕は言った。

 

「純恵ちゃん、ごめん、待った?車はそこのパーキングに止めてるから、さあ、行こう。」

 

「ほんとうにいいの?私でいいの?」

 

「いいに決まってるから来たんじゃあない。さあ、行こう。」

 

純恵の手を引っ張って車に戻ってきた高顕は、ドアを開けて純恵を強引に助手席に座らせた。そして車を走らせて商店街横の道路から国道1号線に出て、京都方面に向かった。

 

「もう、ここまで来れば大丈夫かなあ。」

 

高顕はさながら、逃げる逃亡者気分でドキドキしていた。

 

「別に逃走犯じゃあないんだから。バカね。でも、駆け落ちって結構楽しいわね。遠足みたい。こんな経験できる人は少ないから貴重な体験ね。家族も仕事も何もかも捨てて旅に出るってすっきりするわね。できるだけ遠いところにいって2人で住み込みで働けるところ見つけて、お金溜まったらまた2人で行政書士事務所をやろうね。ずっと大切にしてよね。」

 

「うん、もちろんだよ。もう何があっても絶対離さないからね。」

 

「今度、浮気したら承知しないわよ。」

 

「純恵ちゃんが僕の最後の女の子だもん。」

 

そういって、純恵の頬に高顕はキスをした。

 

「ちょっと、危ないじゃない。ちゃんと前みて運転しなきゃあダメよ。」

 

2人は日中、京都を車で見て回って、時を忘れて秋の京都を楽しんだ。

 

「そうだ、純恵ちゃん。鞍馬に温泉があるの知ってる?昨日から今日にかけて慌ただしかったから温泉でゆっくりしようか?」

 

「賛成!」

 

京都見物に疲れて、出町柳駅近くの川縁で座って川の静かな流れを見ていた2人は、また車に乗り込んで鞍馬へと向かった。

 

鞍馬の木々が色づくにはまだ早い時期であったが、2人には、紅葉になりきっていない周りの景色が綺麗に染まった紅葉よりもなによりもこの上なく美しく見えた。

 

「温泉ってひさしぶりだわ。うふふ、混浴かなあ。ずっと高顕と一緒にいたいから、別々に入るのやだなあ。」

 

「ここは、混浴じゃあないよ。これからずっと死ぬまで一緒になんだから、少しぐらいは別々になるのがまんしなきゃ。」

 

「そうね、あっ、ここが女風呂の入り口ね。じゃあ、1時間ぐらいしたら、出ましょうか。ここで待っててね。」

 

温泉につかりながら、高顕は人生最良のときめきを感じていた。露天風呂から見える鞍馬の森の景色を目に焼き付けるように見ていた高顕は、これから職も失って住むところのあてもないのに、そんなことは気にならないぐらいに幸せな気分に浸っていた。 高顕が温泉を出ると、いつの間にか日が落ち、あたりは暗くなりかけていた。

 

「待った。すごい、いい湯だったね。気持ちよかった!」

 

桜色に肌が染まった純恵も遅れて出てきた。

 

「湯上がりの純恵ちゃん、色っぽいなあ。また新たな魅力を発見しちゃった!」

 

「なにいってんのよ。もう、いやらしいんだから。」

 

「そういう意味じゃあないんだけどなあ。」

 

「じゃあ、どういう意味よ。そうそう、今日はどこにお泊りする?」

 

「ラブホテルでいいかなあ。琵琶湖のほとりにあったと思うんだけど。」

 

「なんで、そんなところのラブホテルをあなたが知ってるのよ!」

 

「前に旅行に行った時に、電車の窓から見ただけだよ。」

 

「うふふ、それならいいわ。そういうところにお泊りするのはじめて!どんなところか楽しみだわ。あなたのずっと一緒にいられるの嬉しい。」

 

「僕もだよ。」

 

そういいながら、また車に乗り込んだ2人は一路、琵琶湖を目指して走り出した。京都と滋賀の境の山道を走っている途中、にふと純恵の方を見ると疲れたのか、純恵は助手席で知らない間に眠っていた。そんな純恵を見て、高顕は、あまりいいことのなかったこれまでの人生を振り返って、こんな幸せがあっていいのかとさえ思った。幸せすぎて怖いぐらいに感じた。

 

湖のほとりにちらつく、ネオンの色が鮮やかな、膳所に近づいてきた頃、高顕は純恵を起した。眠そうな顔をした純恵は目が開ききれない。

 

「どうしたの?せっかく、眠っていたのに。」

 

「お店が多くあるのはもうこの辺しかないよ。」

 

「そうね、遠足だから、ジュースとお菓子買わなきゃね。そこのコンビニで止めて。」そう、純恵にいわれて車を止め、純恵と高顕は2人で、手をつないでコンビニに入った。

 

高顕がジュースを選んでいる時、純恵は雑誌が置いてあるコーナーに行ってファッション雑誌を読んでいた。

 

自分のジュースを決めた高顕は、「純恵ちゃんはどれにする?」と聞いて振り返ると、そこにさっきまでいたはずの純恵の姿はなかった。必死で店内に純恵の姿を探しても純恵はどこにもいなかった。

 

ふと、自分の左肩を見ると虹色のたまむしがとまっていた。 それが純恵の化身であることは、高顕はすぐにわかった。

 

「あれ!純恵ちゃん、たまむしになっちゃったよ。どうしよう。」

 

高顕がそのたまむしの目を見ながらそういうと、純恵の化身であるたまむしが、高顕の心の中に言葉を投げかけてきた。

 

(あら、ほんと。私、たまむしになっちゃったみたい!)

 

「早くもとに戻ってよ。純恵ちゃん、動かないでね。」

 

そういいながらも、なぜか、純恵はもうもとには戻らないということを高顕は感じとっていた。

 

(いやん、乱暴にしないでね。)

 

たまむしが、どこかに飛んでいってしまいそうな気がしたので、高顕が左肩のたまむしをそっと右手の手のひらで優しく包み込もうとすると、たまむしはゆっくりと羽ばたいた。どうしていいのかわからずに、高顕はただ、上を見上げて、たまむしが飛ぶ方向についていくことしかできなかった。店内を3度ほどゆっくりとたまむしは回りながら飛んだが、客が来て自動ドアが開いた瞬間に店の外へと飛んでいった。

 

店の外に出て、空高く舞いはじめた、たまむしを見て、高顕も店外のたまむしを追いかけた。空に向かって「純恵ちゃん!いかないで。」と何度も大声で必死で叫んだ。たまむしも高顕の心の中に(うん、でもなぜか、飛んでっちゃうのよ。)と言葉を投げかけた。「純恵ちゃん、行ったらだめだ!」高顕の叫びもむなしく、そのたまむしは光り輝きながら大空へと舞って行ってそのうち姿が見えなくなった。高顕は地面に座り込み、ただ空を見上げるしかなかった。

 

夢から覚めた高顕はしばらくの間、呆然としていた。

 

時計を見ると、土曜日の午後3時が過ぎていた。

 

ふと気がつくと、枕元に純恵からの手紙が目に付いた。手で掴んで読んでみて、その瞬間に目の前が真っ暗になった。

 

(鍵は郵便受けの中だからね。勝手に寝ちゃって、ばか!今度は絶対、私にもトリートメントしてね。絶対だからね。体に気をつけて元気でいてね。じゃあね。)

 

前のめりになって毛布に顔を埋めて泣いた。一番、大切なものを失ったと感じて、こんなに泣いたことはないほど、大声で泣いた。なぜ、泣いたのか、なぜ大切なものを失った感じがするのか自分でもよくわからなかった高顕は、純恵の携帯に電話をかけた。

 

「純恵ちゃん、高顕だけど、なんか変な夢みてさあ。気になって。」

 

そう受話器に向かって話をしたが、電話に出てきたのは、純恵の母親の良子だった。

 

「ごめんなさいね。これもう、純恵の携帯じゃないんですよ。」そういって、良子は今日、純恵が東京に旅立った理由を高顕に話した。携帯電話はもう使わないからと母親に解約を頼んで手渡したものだった。

 

「あなたが京極高顕さんね。娘がお世話になりました。あの子ね、仕事から帰ってきたらいつもあなたのお話ばかりをしてましたのよ。だからね、私もあなたが恋人なのかなって思う時もあったぐらいですのよ。うちのお父さんに似てるんだってね。純恵がよく言ってました。娘はもういないけど、よかったら一度遊びに来てくださいね。よほど、仲良くしていただいたんだと思いますけど、ほんとうにありがとう。」

 

そう、良子にいわれてまた涙が出てきた高顕であったが、泣いていることを良子に気付かれないように、かすれた声で

 

「お母さんも寂しくなりますね。こちらの方こそお世話になりました。純恵さんに宜しくお伝えください。」

 

とだけ言って電話を切った。

 

狭いの部屋の真中で、高顕のとても鮮やかだった、ひとつの季節が終った。

 

  

 

32.新たなる旅立ち

 

翌週、高顕が出勤すると皆元が、朝礼で、純恵の退社を説明した。

 

「足立君は12月までうちで働いてくれる予定やんたんやけど、急遽、婚約者とアメリカに行く用事ができたらしく、先週の土曜日をもって退社ということになった。最後に会えず残念だったがしゃあないな。アメリカでの用事が済んだら、日本で結婚式を挙げるために、12月に一時帰国して、うちにも挨拶に来るらしいから、その時、言葉をかけてやってくれな。 披露宴にはわしは、仲人として出るけれど、おまえらも、全員で参加やからなあ!また、寂しいなるけど残った者でがんばるんやで。そや、今日から、また、新しいアソシエイト行政書士が入所することになった。女の子やけど、足立君の教え子やそうな。なんや、京極君が手ぐせ悪いから男捜してたみたいやねんけど、男はええのおらんかったらしいわ。」

 

そういって、皆元は新しい職員を紹介した。

 

土曜日以来、魂が抜けたようになっていた高顕は皆元の朝礼の挨拶も耳に入らず、新人職員の顔もろくすっぽ見ることはなかった。

 

「今日からこちらに入社させていただきました。行政書士の佐久間さおり25歳です。一昨年度の行政書士試験を合格して、今まで、別の事務所にお世話になっていたのですが、足立先生のご紹介でこちらに転職したしました。こちらには、足立先生が講師をされ、私も通っていたトリニティで一緒だった京極先生がいるらしいのですが、また机を並べて仕事をすることができて光栄です。ただ、足立先生から手が早い割には仕事が遅いから気をつけなさいと忠告されているので注意したいと思います。そういうことで皆さん、宜しくお願いいたします。」

 

挨拶の中に自分の名前が出てきたのを聞いた高顕は、顔を上げて新人職員の顔を見た。そこには、トリニティでいつも自分の前の席に座っていた佐久間さおりが立っていた。さおりは、トリニティに3年間も通った高顕と違い、合格年度の初めに入学し、一回で合格している。最後の模試でなんとかギリギリ合格点を取った高顕と違い、さおりは、常に模試では全国NO.1であった。受講生仲間は誰も話し掛けてくれなかった高顕と違い、さおりはトリニティ内にファンクラブができるほど人気があった美人である。もちろん、高顕もさおりの隠れファンの一人であった。勇気がないので言葉を交わしたことはあまりないが、憧れていた純恵とファンだったさおりの顔を見るためにトリニティに行って大嫌いな勉強をしていたようなものであった。憧れ恋して愛した純恵に去られ、生きているのか死んでいるのかわからないような状態の高顕であったが、かつてのアイドル的存在であった人に再会でき気分が晴れてきた高顕であった。

 

「ほな、佐久間君は、その出来の悪い京極君のデスクの隣をマイデスクにしてくれるかなあ。そこが足立君の机やったさかい。」

 

そう、皆元に指示されたさおりは、そそくさと高顕の机の隣に座り、自分の鞄を机の上にばさっと措いた。

 

「久しぶりね。京極君。2年前は、頼りなさそうだったけど、少しはシャッキとしてきたみたいね。足立先生からは、「京極君は形式上、トリニティでも、この事務所でも、佐久間さんの先輩だけど、実際はあなたの方が早く合格したし、実務にもついているし、実績もあるから、色々と教えてやってね。言うこと聞かなかったら殴ってもいいからね。」といわれたので厳しくやらせてもらうわね。わかったわね。」

 

高顕を睨み付けるようにして、張りのある大きな声で挨拶したさおりを見て高顕は一瞬、身体をすくめた。

 

「あわわ、はい、よろしくお願いします。」

 

そんな高顕にさおりは、今度は、笑顔を見せた。

 

「私、足立先生より、空手の段が上なの。本気で殴ったらアバラ折れるから気をつけてね。」

 

美人の後輩ができたと思ったら、純恵よりも厳しそうな鬼娘がやって来て、また沈み込む高顕であった。その場から、逃げるようにしてこっそりとトイレに入った高顕は、小さな声で、アメリカの方に向かって、「ちぇ、純恵のヤツ。ばかやろ〜!」といった。

 

その後、12月に一度、純恵は帰国し、学を連れて、事務所に挨拶にきたのであるが、高顕は外回り中であったので会えず、披露宴にも高顕は出席しなかった。

 

33.エピローグ

 

純恵との最後の夜から5年後、高顕は独立して、「行政書士法人ナンバラボ」という事務所を大阪ナンバに構えた。

 

独立してから数年経ち、36歳になった現在、高顕は、行政書士事務所だけではなく、関連企業も多く持ち、関西の若手有望実業家として、全国からも注目されている。ナンバラボの共同経営者社員は、妻のさおりであった。イマニジアで一緒に仕事をしだした当初は純恵ばりに高顕にきつく当たっていたさおりであったが、一緒になってみると高顕の後ろをいつもついて回るような可愛いところのある女性であり、また高顕をよくサポートしている優秀な共同経営者になっていた。高顕の事業がここまでになったのは、さおりのおかげによるところが大きい。

 

全国に名を轟かすことになった高顕であるが、妻であるさおりを心から愛しながら、また現在の生活に何の不満もないながら、しかし心の隙間はなぜか埋まっていない。どこかに何かを置き忘れてきたような気が常にしているのである。

 

純恵や満智子とも一切連絡は取れておらず、お互いどこで何をしているのかも全くわからない。そのことがより一層、高顕の心の隙間を広げる要因にもなっている。

 

ナンバの高層ビルに事務所を構える高顕であるが、夏も終りに近づいたある日、事務所内でふと、自分の机の上を見るとあの日の夢のようにたまむしが光り輝きながら佇んでいた。

 

そのたまむしが、「あんた、一人で立派になったわね。いや、さおりと2人でかなあ。褒めてあげるわ。もう、キモヲタニートじゃあないわね。だからもう、私のことは忘れていいからね。あっ、そうそう、トリートメントは私じゃあなくて、さおりにしてあげてね。ところで、トリートメントのやり方覚えたのかなあ?いつまでもさおりと仲良くするのよ。今度が本当のさようならだからね。」といっているような気がした。いや、確かにたまむしがそう言ったのを高顕は聞いた。そのたまむしは、しばらくしてから、夜風を感じるために高顕が開けていた窓から大空高く飛んでいった。飛び立つたまむしの姿を見ながら高顕は、財布の中から、いつもお守りのように持ち歩いていた古い小さな紙切れを取り出した。最後の晩に純恵が高顕にあてた手紙である。しばらく名残惜しそうにその手紙を見ていたが、大きくうなずいて、決心するような仕草をした後、灰皿の上にその手紙を置き、そっとライターで火をつけた。燃え尽きて、灰になった手紙を見て、高顕はやっと何かがふっきれたような気がした。

 

Last updated on 2006 /05/16

 

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