浮世絵 葛飾北斎
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 葛飾北斎

 俄仕込みの浮世絵知識しか持ち合わせない私には「北斎」と聞いて頭に浮かぶのは大判浮世絵シリーズの富嶽三十六景と奇人とも称された破天荒な絵師としての生きざまであった。しかし実際の北斎の評価は勿論それだけではない。富嶽三十六景は素晴らしい浮世絵であることは間違いないが北斎の残した偉業は他にも数多くある。生きざまも決して破天荒なだけではない絵師としての生命力を感じる。北斎に関する評論や画集は国内ばかりでなく海外においてもこれまでに数多く出版されており、また小説や映画にもなっている。世界が認めた日本を代表する画家である。

 北斎は宝暦10年(1760)9月、江戸本所で生まれた。父は徳川幕府の鏡師で中島伊勢、母は吉良上野介の家臣・小林平八郎の孫娘であるとの説があるが確証はない。貧しい農家の子として生まれ4歳の頃に中島家の養子となったというのが現在の通説のようだ。実家は河(川)村姓であったという。幼名を時太郎、後に鉄藏と名乗る。天保5年(1834)に刊行された「絵本・富嶽百景」に北斎が自ら記した跋文に「おのれ六歳の頃より物の形状を写す癖あり・・・」とあるように幼少の頃より絵心があったと自ら語る。北斎が生まれた宝暦10年は鈴木春信34歳、歌川豊春25歳、勝川春章34歳と浮世絵版画が黎明期から華々しく花開く時を迎えようとしていた時期。このとき喜多川歌麿は7歳、鳥居清長は8歳であった。
 安永3年(1774)14歳の時、木版彫刻師(彫師)のもとで修業を始める。しかし安永6年の頃(北斎が17,8歳のころ)に彫師のもとを去り、勝川春章の門人となっている。おそらく予てからの望みを叶えるための行動であったと思われる。このとき歌麿は26歳頃、清長28歳頃でそれぞれ絵師として活躍しすでに十分な評価を得ていた。
 安永8年(1779)に勝川春朗と名乗ることが許され、瀬川菊之丞、四代目岩井半四郎、市川門之助の3枚の細絵を出版する。これが現在確認できる製作年代のもっとも古い作品の記録とされている。
 安永9年(1780)には黄表紙「驪山(めくろ)比翼塚」「一生徳兵衛三の傳」の挿絵を描く。この後天明年間にかけて多くの黄表紙の挿絵を描く。また自作自画本も出す。
 絵師として順調な滑り出しであったが春朗(北斎)は春章の画風に飽き足らなくなったのか、狩野融川について狩野派の絵を学ぶ。後にこのことが知れて勝川春章から破門をされたという。また同時期に兄弟子の勝川春好から叱責されたことが原因となり勝川の門から離れたとの説もある。春好の叱責は、春朗が両国の絵草紙屋から看板絵の依頼を受け、その絵について春好から絵草紙屋の店頭で出来の悪さを罵られ絵を破り捨てられたというもの。北斎は晩年このことについて「春好が自分を辱めたことがその後の自分の絵の技量の向上の動機になった」と語ったという逸話がある。もっともこれは後世の小説的創造とも思われ本当かどうかはわからない。
 春朗が破門された時期については諸説ある。天明5年(1785)に出版された黄表紙「親譲鼻高名」の絵師名が”春朗改群馬亭”となっていることからこの時とする説。ただし春朗の号は寛政6年(1794)頃まで使用され、以後使用されなくなったのでこの時期を破門の時とする説が通説のようだ。もっとも破門というそのことが事実であったかどうかの疑念もあるようだ。師である勝川春章は寛政4年(1792)に他界し派を後継したのは春好。当時は一大勢力であった勝川派が春好を中心として版元や関係者に圧力をかければ春朗が役者絵や黄表紙を描くことは不可能に近いはず。とはいえ、この時期に春朗は経済的に困窮していたとの逸話も残っている。それによれば春朗は版元を通さない狂歌の摺物を多く制作していたが、それだけでは生計が保てず、江戸市中を歩き回り七味唐辛や柱暦を売り歩いていたという。
 いずれにせよ北斎は勝川春章から浮世絵、狩野融川から狩野派の絵を学んだばかりでなく俵屋宗理から琳派の絵を、司馬江漢から洋画を、住吉内記から土佐派の絵を学んだとされる。北斎が目指したものは単に浮世絵師として大成することではなかったようだ。破門という事実があるなしにかかわらず北斎は一つの浮世絵流派に留まっていられる性格ではなかったに違いない。画号を何度も変え、90回以上に及ぶという転居、奇行とも思える生活態度の逸話、これらは全て画家としての人生を全うした北斎ならではの計算に基づく行動と考えられる。以下下段へ⇒ 

作品のタイトルに付した「浮世絵」「絵本」は分類のために便宜上つけた符号です。「浮世絵」は主として一枚物の摺りもので、連続絵、シリーズものを含みます。「絵本」は絵入本、狂歌本、狂言本、その他 book形式のものすべてを含みます。  

 浮世絵 浮絵  

 絵:勝春朗・北斎
 出版年 天明期 他  版元 西村屋 他 
 浮絵は西洋画の透視法の技法を用いた絵。北斎がはじめて浮絵を描いたのは天明の末ごろとされる。掲載の浮絵5図のうち最初の2図は西村屋版で署名は「勝春朗」、天明期の作と思われます。

 浮世絵 美人画  

 絵:葛飾北斎
 出版年 寛政期  版元
 歌麿風の美人画で製作年代は寛政期(1789〜1801)と思われます。 

 浮世絵 仮名手本忠臣蔵 

 絵:
 出版年 文化3年(1806)  版元  
 文化3年に出版された大判横絵11図の他、天保期のものと思われる画帖形式の仮名手本忠臣蔵も掲載。

 浮世絵 諸国瀧巡  

 絵:前北斎為一
 出版年 文政10年(1827)〜  版元 西村屋与八
 諸国瀧巡8図のうち6図を掲載 

 浮世絵 諸国名橋奇覧  

 絵:前北斎為一
 出版年 文政10年(1827)〜  版元 西村屋与八
 諸国名橋奇覧11図のうち2図を掲載 
 他に文政6年(1823)永寿堂刊の「諸国名橋一覧」を掲載 

 浮世絵 富嶽三十六景

 絵:葛飾北斎
 
 出版年 天保2年(1831)〜  版元 西村屋与八
 風景画浮世絵として最も有名な作品。「凱風快晴」や「神奈川沖浪浦」といった代表作品はありませんが富嶽三十六景(46図)のうち2図を掲載。 

 浮世絵百人一首うばが絵とき

 絵:前北斎卍
 出版年 天保10年(1839)  版元  
 前27図のうち16図を掲載。北斎は百人一首すべてを描くつもりであったというが、27図で打ち切りとなった。



 絵本 驪山比翼塚

 絵:勝川春朗
 作:  
 出版年 安永9年(1780)  版元 西村屋与八
 自作本との説もある  

 絵本 咸陽宮通約束

 絵:勝川春朗
 作:  
 出版年 天明4年(1784)  版元  

 絵本 流行謡混雑唱舞

 絵:勝川春朗
 作:美足斎象睡  
 出版年  版元  

 絵本 親譲鼻高名

 絵:春朗改群馬亭
 作:  
 出版年 天明5年(1785)  版 元  

 絵本 東遊

 絵:北斎
 作(編):浅草市人  
 出版年 寛政11年(1799)  版元 蔦屋重三郎
 北斎の狂歌絵本として有名な一冊。色刷りではない墨摺りの挿絵が却って落ち着いた旅の情景を思い起こさせる。

 絵本 東都名所一覧 

 絵:北斎辰政
 作:
 出版年 寛政12年(1800)  版元  蔦屋重三郎

 絵本 狂歌三十六歌仙  

 絵:
 作(編):千秋庵三陀羅法師
 出版年 寛政12年(1800)  版元  

 絵本 東都遊 

 絵:北斎
 
 出版年 享和2年(1802)  版元
 寛政11年(1799)に出版された「東遊」の挿絵だけを色刷りにして出版したもの。 

 絵本 五十鈴川狂歌車 

 絵:北斎辰政
 作:
 出版年 享和2年(1802)  版元  

 絵本 小倉百句  

 絵:北斎辰政
 作:反古庵白猿
 出版年 享和3年(1803)  版  元 今福屋勇助 他  

 絵本 小説比翼文

 絵:葛飾北斎
 作:曲亭馬琴  
 「曲亭馬琴」のページに掲載
 出版年 享和4年(1804)  版元 鶴屋喜右衛門  

 絵本 狂歌山満多山

 絵:北斎
 作: 
 出版年 享和4年(1804)  版元  蔦屋重三郎

 絵本 長生殿  

 絵:
 作:
 出版年  版元  

 絵本 東海道五三次    出版年  版元  

 絵本 隅田川両岸一覧 

 絵:
 作: 
 出版年 文化3年(1806)  版元  

 絵本 忠臣蔵  

 絵:
 作:
 出版年  版元  

 絵本 椿説弓張月

 絵:葛飾北斎
 作:曲亭馬琴  
 「椿説弓張月」のページに掲載
 出版年 文化4年(1807)〜  版元 平林堂  

 絵本 総角物語

 絵:葛飾北斎
 作:柳川種彦  
 「柳亭種彦」のページに掲載
 出版年文化5年〜6年(1808〜1809)  版元 越前屋長右衛門
 全編後編各2冊のうち前編を北斎の弟子の優遊斎桃川が、後編を北斎が描く。  

 絵本 北畠女教訓

 絵:葛飾北斎
 作:十返舎一九 
 「十返舎一九」のページに掲載 
 出版年 文化5年(1808)  版元 岩戸屋

 絵本 略画早指南

 絵:葛飾北斎 

 出版年 文化9年(1812)  版元 蔦屋重三郎  
 掲載本は現存書の写しではなく明治25年に富山堂より出版された複製本の写しです。複製本は漫画早指南となっていますが正式表題は「略画早指南」と思われます。いわゆる絵手本です。

 絵本 踊独稽古  

 絵:葛飾北斎
 作(編集補正):藤間新三郎
 出版年 文化12年(1815)  版元 鶴屋金助
 歌舞伎劇中の踊の指南書の体裁であるが、同時に絵を志す人向けに動きのある人物像を描く絵手本でもある。  

 絵本 萍水奇画

 絵:北斎戴斗・浪花立好斎
 作(編):暮雨巷帯梅   
 出版年 文化15年(1818)  版 元  永楽屋東四郎
 全2巻
 浪花立好斎の背景に北斎が人物を描いたもの。

 絵本 画本両筆  

 絵:(人物鳥獣)北斎戴斗 
   (山水草木)浪花立好斎
 出版年  版元
 「萍水奇画」の俳句を削り絵だけにしたもの 

 絵本 道中画譜  

 絵:前北斎為一
 出版年 天保1年(1830)  版元 東壁堂   

 絵本 富嶽百景

 絵:
  
 出版年 天保5年(1834)  版元 永楽屋東四郎
 絵本とはいえ大判浮世絵の富嶽三十六景に劣らず、北斎らしい構図の富士が百景描かれている。
 全3冊   

 画帖 山水画帖  

 絵:
 作:  
 出版年 天保6年(1835)  版元  皓月堂文助

 絵本 今様キセル雛形

 絵:前北斎為一
 出版年 天保12年(1841) 版元 藤尾宗兵衛
 絵手本。初版は文政6年(1823)西村屋与八から刊行されている。掲載本はそれを一部縮小して再版したものと思われる。



 双六 鎌倉江嶋大山往来

 絵:前北斎為一
 作:柳亭種彦  
 出版年  版元 西村屋与八 他 

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 北斎の作品は多岐にわたっている。しかし色々なジャンルの作品を同時並行的に制作していたわけではない。作品の変化に伴い作画活動・環境も変化している。これは画号の変遷、頻繁な転居にも関係している。また残された作品を見れば北斎の業績を年代別に分類することができる。現在の北斎研究者の多くはおおむね次のように北斎の業績を区分しているようだ。
1.習作の時代(春朗の時代)
  安永8年(1779)頃から寛政6年(1794)頃まで。勝川派の絵師としてデビュー。役者絵や黄表紙の挿絵を中心として描い    ていた時期。
2.宗理の時代(独立の時代)
  寛政6年頃から享和4年=文化元年(1804)頃までの10年間。狂歌の世界と結びつき多くの摺物や狂歌絵本の挿絵を描て   いた。この時期にどの画派にも属さない独立した絵師として出発する。 
3.読本(よみほん)挿絵と肉筆画の時代
   文化元年頃から文化8年(1811)頃まで。曲亭馬琴の読本の挿絵を描くなど独自の境地を開く。肉筆画も多く描く。
4.絵手本の時代
  文化9年(1812)頃から文政12年(1829)頃。「北斎漫画」をはじめとする多くの絵手本を出版する。ただし絵手本の製作は  晩年まで続く。
5.浮世絵(錦絵)の時代
  天保元年(1830)頃から天保4年頃。「富嶽三十六景」など著名な名所絵・風景画を描く。また花鳥画や武者絵などの作品も   多い。
6.最晩年期(肉筆画の時代)
  天保5年(1834)頃から嘉永2年(1849)まで。挿絵を除いて浮世絵版画から遠ざかり、肉筆画を中心とした作品を制作。
   
1.習作の時代(春朗の時代)
  この時代は次の4つに区分される。
(1) 安永8年(1779)〜天明4年(1784)
 画界へのデビューを果たしてから約5年間。最初の作品は師匠の勝川春章の模倣から始まるが、役者絵だけでな美人画も描くようになる。美人画には当時の人気絵師鳥居清長の影響をうけたふくよかな女性像も見られる。絵師として実力・経験を蓄えていた時代といえる。
(2)天明5年(1785)〜天明6年(1786)
 天明5年に刊行された黄表紙に「春朗改群馬亭」と署名したように、勝川派のなかで春朗に何らかの変化があったあったと思われる時代。絵師としての活動は継続しているが残された作品は多くない。想像でしかないがおそらく他の流派の絵を研鑽していたのではないか。経済的に困窮して七味唐辛子や柱絵を売り歩いていたとの逸話も残る。
(3)天明7年(1787)〜寛政4年(1792)
 この5年間は春朗の時代としては最も充実した時期。作品の数も増え、浮絵や山東京伝などの高名な戯作者の黄表紙の挿絵を描くようになる。春朗の画号も使用しており、問題は解決して(?)勝川派一門の中で中堅絵師として知名度も高まった。
(4)寛政5年(1793)〜寛政6年(1794)
 師の勝川春章は寛政4年に没する。寛政5年正月にちなんだ絵暦に春朗は画姓を変えて「叢(くさむら)春朗」と署名している。天明4年の「春朗改め群馬亭」は画号の変更で個人名の変更は多々ある。しかし「勝川」あるいは「勝」の変更は姓の変更ととらえられ流派からの離反を意味するという。自ら離脱したか破門されたかわわからないが、当時「故あって破門させられる」という風評は浮世絵師業界には広く伝わっていたようだ。

2.宗理の時代(独立の時代) 寛政6年(1794)〜文化元年(1804)
 北斎は寛政7年(1795)正月の絵暦および狂歌絵本の挿絵に「宗理」という画号で署名している。宗理の画号は琳派(俵屋宗理を祖とする江戸琳派)の頭領が用いた画号であり、これを使用することは完全に浮世絵師勝川派から離脱したことがうかがえる。勝川派を破門された北斎の浮世絵界からの離脱とも読める。北斎が江戸琳派の頭領の画号を引継いだ理由はわからないが、北斎が宗理を継承した以降にこの派の画風は変容したという。光琳風の肉筆画から美人画をはじめとする風俗画が多くなり、俳諧との結びつきが強かったが代わって当時隆盛を誇った狂歌界との結びつきが強くなってゆく。金銭には無頓着なのが北斎の特質とされるが、狂歌界と結びついたのは絵師の活躍の場を増やすためだけでない経済的理由もあったに違いない。寛政期になって狂歌本が最盛期を迎える。同時期に松平定信が老中に就任し所謂寛政の改革が始まるのと軌を一としている。風景画を中心とする狂歌本の挿絵は美人画などの風俗画と違って改革規制の対象外となったことも狂歌本興隆の理由ともいえる 。北斎もこの時期に多くの狂歌本の挿絵を描いている。北斎の描く美人画は瓜実顔で楚々とした美人様式で当時「宗理型」と形容され一世を風靡する。寛政8年(1796)には「北斎宗理」の画号を用いて、初めて北斎の名を使用する。北斎はこの時期に錦絵(浮世絵)や黄表紙の挿絵を描いていない。宗理(北斎)が描いたと推測される黄表紙もあるがそれらは無款であり無署名であるという。これは勝川派に遠慮してのこととも推測され、版元を経由しない摺物や狂歌絵本の製作が多くなった理由ともいえる。
 寛政10年(1798)になり北斎は宗理の号を門人の宗二に譲り「宗理改め北斎」と署名した摺物を出す。また肉筆画に「北斎辰政」の落款を押す。名実ともにどの派にも属さない独立した絵師として出発することになる。
 北斎ファンならだれでも知っていることだが、「北斎」「辰政」は妙見信仰によるもの。北斎は熱心な日蓮宗の信者であるという。妙見信仰の本尊妙見菩薩は北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。これ以後に雷斗、戴斗、などの号を使用するが、これも妙見信仰によるもの。
 独立後の北斎は寛政12年(1800)に黄表紙を「時太郎可候」の名で自画作している。享和元年(1801)および享和3年(1803)にも自画作した黄表紙を刊行しているがそれ以後はない。あまり良い評判ではなかったようだ。なお安永9年(1780)の「驪山比翼塚」が北斎の自画作本の最初との説があるが、確定はしていない。
 この時期の北斎の最も評価されている作品は狂歌絵本の類で寛政11年(1799)「東遊」これは墨摺りであったが享和2年(1802)に「東都遊」に改題して色摺りで出版されている。寛政12年(1800)には「東都名所一覧」「狂歌三十六歌仙」享和2年(1802)には「五十鈴川狂歌車」「美やこ登里」享和3年(1803)に「隅田川両岸一覧」文化元年(1804)に朱楽菅江の七回忌追善として刊行されたという「山満多山」などなど。これらは富嶽三十六景に劣らぬ北斎の最高傑作として評価されている。そのいくつかはこのサイトにも掲載しているが残念ながら色合いがあまりよくなく、どうやら落丁もあるらしい。
 なお、この時期の作品の大半には「画狂人北斎」の署名が用いられている。これは享和3年(1803)頃まで集中的に使用されたが、以降は「北斎」「葛飾北斎」の号が使用されるようになる。この時代は正式に北斎の名を掲げる前の「我慢」の時代だった。

3.読本挿絵と肉筆賀の時代 文化元年(1804)頃〜文化8年(1811)頃
 文化元年江戸護国寺観世音開帳で北斎は120畳敷きの継紙に半身の達磨絵を描いたことが伝えられている。こうしたパフォーマンスぱ情報伝達手段の少ない時代には格好の宣伝行為になる。経済的理由からか名誉欲からか、北斎は積極的に参加しているようだ。
 この時代北斎は数多くの肉筆画を描いている。このいくつかは各地の美術館で見ることができる。なかでも大阪市立美術館が所蔵する「潮干狩図」は北斎作品の中で唯一重要文化財の指定を受けている。私は印刷物でしか見ていないが浮世絵にはない西洋画の陰陽が感じられ透視画法を用いたスケールの大きなおおらかな絵である。もちろん西洋画ではない浮世絵としての風合いを感じさせる絵でもある。印刷物ですら素晴らしいと感じるので現物を見ればもっと感動するに違いない。ヨーロッパの画家が北斎の絵を称賛したのは誇張でもなんでもなく事実であったに相違ない。北斎は木版画を主流とする浮世絵界に限界を感じていたのかもしれない。
 この時期の北斎作品で注目されるのは前記の肉筆画に加えて「東海道」を題材とした浮世絵(錦絵)の揃いものと読本の挿絵を描くようになったことである。
 北斎が東海道五十三次をテーマとした多くの作品を残していることは意外に思う。東海道は広重の専売特許かと思っていたが、北斎も劣らぬ力を入れている。狂歌の摺物の連作として「春興五十三次駄之内」と題して現在確認できるだけで59図の絵を描いているという。その他「横小判東海道(54図)」「東海道彩色摺五十三次(56図)」「五十三次江都往かい(56図)」「縦中判東海道(56図)」などである。約30年後に広重が保永堂から出版した五十三次が景観描写を中心としたのに対して、北斎のはこの時代の要求もあって旅の風俗描写が中心であった。
 文化3年(1807)からの数年間はほとんど読本の挿絵に没頭している。文化4年に刊行された曲亭馬琴の「椿説弓張月(前編6冊)」「敵討裏見葛葉(5冊)」「新累解脱物語(5冊)」「隅田川梅柳新書(6冊)」「そのゆき(前編5冊)」「苅萱後伝玉櫛笥(3冊)」「新編水滸伝(初編5冊)」の挿絵を描いている。これらの挿絵は全て葛飾北斎と署名されている。文化3年の春から夏にかけて北斎は馬琴の家に寄宿して挿絵を制作していたという。文化5年刊行の読本では馬琴の他に柳亭種彦の読本の挿絵も描くようになる。種彦作の読本として「近世会談・霜夜星(5冊)」「阿波之鳴門(5冊)」、馬琴の読本として「椿説弓張月(後編6冊続編6冊)」「頼豪阿闍梨怪鼠伝(全編5冊後編5冊)」「三七全伝南可夢(6冊)」その他馬琴・種彦以外の読本「春宵奇談(5冊)」「国字鵺物語(5冊)」「由利稚野居鷹(5冊)」。これら読本は全て葛飾北斎の署名。文化6年になると読本挿絵の量は減るが、それでも種彦作の「総角物語(2冊)」の他「山椒大夫栄枯物語(5冊)」「忠孝潮来府志(5冊)」「飛騨匠物語(6冊)」「仮名手本後日之文章(5冊)」「於陸幸助恋夢はし(3冊)」の挿絵を描いている。これらも全て葛飾北斎の署名。なお文化6年刊行の読本の中に馬琴作のものは見当たらない。文化7年刊行の読本に挿絵を描いたのはさらに減って3種のみ。「双蝶々白糸冊子(5冊・葛飾北斎辰政)」「おんよう妹背山(6冊・江戸本荘両国橋辺隠士葛飾北斎)」「椿説弓張月(拾遺5冊・葛飾北斎)」文化8年は僅か2種となる。柳亭種彦作「瀬田橋竜女本地(3冊・葛飾北斎)」曲亭馬琴作「椿説弓張月(残編6冊・葛飾北斎)」。椿説弓張月は残編6冊で完結したが、北斎と馬琴はこの年絶交に至ったという。両者の確執は文化4年からあったとされ、文化8年に至って決定的になったという。ただしこれは事実ではないという説もある。

 
この時代に特質される事項で、北斎が初めて自宅を所有したことがあげられる。文化5年(1808)8月に本所亀沢町に自宅を構えた。新築祝いの書画会が開催されたという記録がある。しかし理由はわからないが翌年には本所両国あたりに借家住まいをしている。以後自宅を持つことはなかったという。新築した自宅がその後どうなったかの記録もない。

4.絵手本の時代 文化9年(1812)頃から文政12年(1829)頃
 絵手本とは辞書によれば「絵を習うのに用いる本」とある。この時代師匠が自派の絵を弟子に伝承する場合教材として自筆で描いた絵を与えるのが普通であったようだ。もっとも、不特定多数を対象とした絵手本もすでに存在はしていた。中国の明時代に出版された画譜が日本に伝来し、これの翻刻本が出版されている。日本独自のものとしても寛政6年(1794)鍬形寫ヨ(北尾正美)によって「来禽図彙」、次いで寛政7年「諸職画鏡」「略画式」が刊行され、略画式は好評を得て「人物略画式」「鳥獣略画式」「山水略画式」「草花略画式」と類似本を次々と刊行している。
 北斎が絵手本として最初に刊行したのは文化7年(1810)に「己痴羣夢多字画尽く(おのがばかむらむたじえづくし)」であり、その後文化9年(1812)に「略画早指南(りゃくがはやおしえ)」を出している。本格的な絵手本として文化11年(1814)に「北斎漫画」初編を刊行した。この後続編を次々と刊行し文政2年(1819)には10編を刊行している。以後北斎没後も続編が刊行され最後の15編は明治になってから刊行された。北斎漫画は根強い人気があったようだ。
 北斎が絵手本を描いたのは@門人の増加に伴い、その都度肉筆画の絵手本を描き与えることが難しくなった。A門人以外にも全国各地に北斎を私淑するものが多く、北斎としても自分の画風を広めたいとの思いがあった。B江戸をはじめ各地の職人たちが北斎の挿絵のデザインを利用していた。図案集のニーズがあった。などによるものと思われますが、特徴的なのは北斎の門人の内容にある。北斎には門人が230名以上いたとされる。当時の浮世絵界で最大の勢力は歌川派であったが、門人の数は歌川派に拮抗するほどになっていた。しかし歌川派が職業的な絵師の集団であったのに対して、北斎の門人の多くは作画を職業としない者たちが多かった。門人は全国に分布し肉筆画を描き与えることはおろか日常的な指導もできなかった。まさに今でいう通信教育の先駆け的な発想で絵手本を刊行したのではないか。北斎漫画に収録された図の数はは3500を超える。それも質の高い図であり北斎の画風そのものと評価も高い。また収録された図は漫画というタイトルと同じように漫然と描いたものだが、版元や注文者の意向に左右されることもなく、北斎自身の自由な発想、思いが詰まっているといえる。
 北斎は文化9年(1812)頃に関西方面を旅行した。その途中名古屋を訪問し、名古屋在住の門人「牧墨僊(まきぼくせん)」の家に長期逗留して300点以上の小さな絵柄の版下絵を描いた。旅の目的はこれが目的であったともいわれている。この版下絵が絵手本のもとになるのだが、その出版は名古屋の版元永楽堂東四郎が請け負うことになっていた。しかし出版は文化11年と遅れた。絵手本が採算に合うか躊躇していたからという。名古屋は私の出身地であるが「石橋をたたいても渡らない」という名古屋商人の優柔不断さは今も昔も変わらない。北斎漫画の第2編から10編までは江戸の角丸屋甚助との相合版(共同出版)で進められた。相合版といっても角丸屋が積極的に推し進めて出版していったという。なお、10篇以降は角丸屋の経営状況が悪化したので再び永楽堂が単独で出版することになる。最後は名古屋商人が勝つか。北斎は文化14年(1817)にも名古屋を訪れている。
 文政(1818〜)に入り北斎の動静はあまり聞かれなくなる。文政6年(1823)以降は柳亭種彦の誘いで参加したという川柳の会合以外に北斎の動静を伝える資料があまりない。文政4年(1821)に四女の「阿猶」が亡くなり文政11(1828)年には後妻の「こと」がなくなっている。また文政10年(1827)〜文政11年にかけて北斎は中風を患う。これは自家製の薬で回復したという。また娘お美与の孫(離縁した柳川重信の子)が放蕩・悪事を尽くして、その後始末に追われた。この時代は絵手本を積極的に描いていた前半はともかく後半は北斎にとって悩ましい時期だったようだ。

5.浮世絵(錦絵)の時代 天保元年(1830)頃から天保4年(1833)頃
 北斎の最も有名な作品である「富嶽三十六景」は天保2年(1831)から順次刊行された。(出版年は文政6年(1823)という異説もあるが現在の大方の説は天保2年のようだ)
 このほかに「諸国名橋奇覧(11図)」「諸国瀧廻り(8図)」「江戸八景(8図)」「勝景雪月花(9図)」などの揃いもの加え、古典画。花鳥画も積極的に描いている。これらは4年という短い時間に刊行されたもので、北斎の代表作が壮年の時期でなく70歳の年に達する時期に描かれた(刊行された)ことは驚くばかりである。
 一般に浮世絵では風景を描いたものを「名所絵」と呼ぶ。これは題材を有名な名所地としていることによる。広重の描いた各地の名所絵は、まさしく各地の名所を題材としている。しかし北斎の描く風景は名所地もあることはあるが、それにこだわることなく無名の地、無名の場所を数多く描いている。富嶽三十六景にしても、富士そのものは名所であっても、その富士を眺める場所は一般的に富士を眺める名所ばかりでない。構図も富士が溶け込む風景でしかない(凱風快晴のような富士そのものの絵も勿論あるが、、、最高傑作とされるこの絵は北斎が望んで描いたのではない気がする。北斎はこのシリーズで富士そのものを描くつもりはなかったと思う。おそらく版元の営業政策上の指示で描いたのではないか)。諸国名橋奇覧にしても日本橋のような名所ばかりでなく、一般には知られない辺鄙な場所の橋も描いている。諸国瀧廻りもしかり。名所を描くのでなく瀧の演出する水の動き、それを包む風景が絵の中心となっている。浮世絵の枠を超えた自由闊達な絵画を目指した北斎の面目がこれらの名所絵、風景画に現れている気がする

6.最晩年記(肉筆画の時代) 天保5年(1834)から嘉永2年(1849)
 天保5年(1834)北斎は絵本「富嶽百景」の初編を出す。巻末に記載された北斎自身による跋文に「おのれ6歳より物の形状を写す癖ありて半百の頃よりしばしば画図を顕わすといえども七十年前描く所は実に取り足るるものなし七十三歳にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十六歳にしてはますます進み九十歳にして猶その奥意を極め一百歳にして正に神妙ならんか百有十歳にしては一点一格にして生きるがごとくならん願わくば長寿の君子予が言の妄ならざるをみたまうべし」と記している。この跋文で北斎の示した気概は何なのだろうか。北斎の望むべき絵の方向は胸の奥にしまったままである。北斎はこれを境に木版画の世界からは絵本・絵手本を除いて遠ざかっていく。以後肉筆画では数々の傑作を残すも、木版画では後世に残る作品は見られない。
 嘉永2年(1849)数え90歳を迎えた北斎はその年に何作かの肉筆画を描き残して4月に永眠する。辞世の句「飛と魂(ひとだま)でゆくきさんじゃの夏の原」
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春興摺物 勝川春朗 寛政年間  北斎仮宅之図 

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