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9.『青年の書』

谷口雅春著 日本教文社)

 

 

谷口雅春先生の著作数は膨大だ。一冊に絞るとなると、「生命の実相」の第一巻とか第七巻を薦めるのが普通だが、僕の場合は、「青年の書」を薦めたいですね。これはすごくいい本だと思う。内容もいいのですが、文体の力強さがハンパじゃない。40年以上前の本なので、若い人には、最初は近寄りがたい感じがするかもしれない。しかし、慣れてくると、もう、この文体でなければダメ!っといった感じになってくる。

 

この本は、「光明思想」と「自助努力の精神」が、ちょうどいい感じにブレンドされている。こういうのが本物の成功哲学だ。おそらく、これを上回るような青年へのメッセージは、今後は出てこないと思う。内村鑑三や谷口雅春が書くような文章は、修辞法を学んだからといって書けるようなものではない。偉大な人格と救世の情熱が相まって、それが文章という形で大噴火しているのですね。

 

もちろん、文章の天才は、彼ら以外にもたくさんいたけれど、彼らに匹敵するような人格の偉大さと情熱を兼ね備えている人はいなかった。今もいないと思います。今後もしばらくは出ないのではないかと思う。

 

付録:『青年の書』第十七章

 

 

魔術的な書物の話 その1 20080114 00290

 

 

僕が「青年の書」(←クリック)と出会ったのは、社会に出たその年だった。仕事の先輩たちが、「確かに良い本だ。本の通りに生きたほうが良いと思う。でも、あまりにも高尚過ぎて、とても自分たちにはマネができない」といった感じで話し合っていたので、興味をそそられた。どんな本なのだろうか・・・・・・?

 

実は、その数年前から「正法」の書物に学び始めていて、その当時は、「正法のみが真理である」という思い込みがあった。「どうせ、偽ものだろうが、どれ、僕も読んで、比較して、高橋信次先生の偉大さを確認して、彼らに正法を伝えることができたらいいなあ」・・・・・・みたいなことを考えていたような気がする(^^;。

 

で、とにかく、先輩に「青年の書」かりて、読み始めた。文体が文語調なので、最初はとっつきにくい感じだった。反発もあった。でも、読み進んでいくうちに、「この人は、僕なんかがどうこう言えるような人ではないな」と、自覚し始め、最後には、「真理とは何なのか?」と、わけが分からなくなっていました(^^;。

 

それまでは、高橋先生の「教え」こそ、最高のものだと思っていたから、それと趣きの違う光明思想に触れて、何が何なのか分からなくなってしまった。谷口雅春先生にも強烈な権威を感じたということです。これは本物だと思ってしまった。でも「正法の教え」と違う感じがしたから、いったいどちらが正しいのか?分からなくなってしまった。

 

当時は、「神の光は七色に分光している」(←クリック)ことを理解していませんから、「Aが真理なら、Aと違うBは真理ではない」という思い込みがあったのです。「儒教が真理なら、儒教と対立している老荘思想は偽物だ」といった感じの狭い視野だったのですね(^^;。でも結局、谷口雅春先生の文章には、あまりにも権威があったから、どうしても否定できなくて、「これはきっと、どちらも正しいのだろう・・・・・・」と、矛盾する部分の解決をあきらめて、そのまま両方受け入れることにしました(^^;。

 

ま、「青年の書」は、そういう思い出深い本であります。で、「光明思想に学ぶ」ということで、今回から数回に分けて、「青年の書」の第十七章を紹介して行きたいと思います。この第十七章だけが物語風になっていて、非常に印象深いのです。残念ながら僕の人生は、この教訓を活かすことができませんでしたが(※若い頃、清富を目指した時期がありました(^^;)、若い人たちがこの章を読んで、真の成功のきっかけをつかんでくれたらいいなと思います。

 

なお、読みやすいように、色をつけたり、線を引いたり、改行したりしていますので、その点ご了承ください。

 

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「青年の書」

第十七章 内在無限力を発揮する自覚(パート1)

 

 

 私は最近一冊の神秘な魔術的な力をもった書物を手に入れたのである。その書物の魔術的力はどこから来るかというと善のみ実在であるという真理から来るのである。その真理の書物はいかにしたらその唯一の実在である善の力をわがものとすることができるかということが書いてあるのである。

その書物は第一部と第二部とに分かれている。第一部の書出しは、グレン・クラーク教授の『牝鹿の脚の話』(大和注1)に極めてよく似た書出しである。ある日ハルヨット・D氏があるコーヒー店で一人椅子に凭(よ)って折から運んでこられたコーヒーのカップに砂糖をほりこもうとして手を伸ばしたというのが書出しである。牝鹿の脚の話はあるレストランになっている。そしてそれははげしく雨の降っている風のつよい日になっていたが、この物語はやはり風のはげしいみぞれ雪の降りしきるひどい嵐の日になっているのである。

戸ががたがたいう、戸の隙間から冷たい風がぴゅうぴゅうはいってくる。しかしD氏は何となく心が楽しい。外の降りしきる雪も吹きまくる風も、心の中に、ただ楽しい感謝の念にみたされているD氏にはなんら影響を与えることはなかった。D氏は何か楽しいことを夢みながらあついコーヒーをすすっていた、と扉(ドア)が開いた。そしてドアがしまる。入ってきたのはS氏である。

【大和注1】 『牝鹿の脚の話』

新版 善と福との実現」(初版は昭和23年刊行)という本の中で紹介されている不思議な話。

 

 S氏は前からD氏の知合いであるが、常に運の悪い、何をしても絶対成功せぬ男で、それにもかかわらず、普通以上に美術家としての才能のある男なのである。しかしどういうものか運の悪い続きでいつも生活に困っているのであった。

 

 D氏は目を上げてS氏を見た時に、D氏が驚いたことには、S氏の容貌がすっかり変わっているということである。何となく光り輝いているのである。――こういう表現はグレン・クラーク教授がダン・マッカーサーという旧友にあのレストランで遇(あ)った時の印象の表現にも極めて似ているので、この書物はグレン・クラーク教授のあの書物のやき直しであると思ったくらいである。しかしこの魔術の書の出版の方がずっと古いのであるから、焼直しでも何でもないといわなければならない。

ともかく今まで貧しくて弱っていたS氏が輝くような容貌でやってきたというのが不思議なのである。しかしS氏はやはりまだ前々どおりみすぼらしい服装をしていた。いつも着ているその外套の襟の折り目はささくれて生地の糸目が見えていた。そしてそのよごれた帽子も前とは変わらなかった。しかし容貌が生き生きして希望にみちている。S氏はその鳶色の帽子を脱いで、はたはた帽子についている雪をはらったがその身振りもどこか悠々としたどこか新しい雰囲気が感じられるのだった。

今までD氏はS氏と一緒に飲食などしたことはなかったが、ふとS氏の容貌が輝いて態度身振りのどこかに引きつけるところがあるので、思わず知らず手真似で「ここへやって来たまえ」と招待した。S氏はD氏の顔を見てうなずいたがやがてD氏の前の席に席を占めた。

 

 S氏は食卓の上にあるメニューに目を通してのんびりとコーヒーを二人前注文した。

 

 D氏はあっけにとられてS氏を見つめていたのである。D氏もそんなに金があるというわけではない。自分がS氏にここへ来いといって招待した責任から、支払いは自分がしなければならない。さっきのんでしまったコーヒーと、これから二人前のコーヒーの代とは自分が支払わなければならない。しかしD氏はそれだけの現金を持ちあわせていないのである。そこであっけにとられて、S氏のいつもは濁っているのに今日は特別に輝いている瞳と健康に輝いている頬とを見つめながら、

「君の金持の叔父さんが死んで遺産でももらったのかい」ときいてみた。

 

 「いやいや、しかし僕はマスコットを見つけたよ」と、S氏は答えた。

 

 「マスコットってなんだい? 何かあのぶちのある牛か、それともテリヤのお守りか。」

 

 「うんにゃ」とS氏は首をふって口元までもっていったコーヒーをのまずにいいだした。「君のおどろくのも無理はないさ、僕は自分自身にすら不思議なんだからね。僕は生まれ変わったんだよ。僕は別人になったんだよ。しかもこの生まれ変わりが最近一、二時間前に起こったんだからね。僕は前にたびたびここへ見すぼらしい風(ふう)をしてやってきたんだが、その時は君は僕を尻目にもかけなかったよ。

僕は君が見て見ぬふりをしているんだと知っていたよ。なぜ君がそんなことをするか、僕も気がついていたよ。それは君が僕と一緒に食事する金を払いたくなかったんじゃあないと知っているよ、君がその持合せがなかったからなんだろう。そこに書きつけがあるが、今日は僕が支払うよ、ありがとう、もっとも僕は今晩一文(もん)もないんだがね、しかしこれは僕のおごりにしておこう。」

 

 こういうかと思うとSはウェーターを呼んだ。そして悠々とした態度で食卓の上においてある二枚の勘定書の裏側にサインして彼に渡した。D氏はS氏のすることをおどろいて眺めている。S氏は一瞬間だまってD氏の目をみつめていたが、

「僕よりも立派な個性をもった美術家があると思うかね。いやいや僕が何でもやろうと思ったら何でもやれないことがあるなんて君思うかね。君はいろいろ新聞の通信員などやっていたが、もう七、八年になるね。その間に君、僕が今晩まで勘定書にサインするだけでそれでいいなんてみたことがあるかね、ないだろう。僕が名前をかけばどこでも通るんだよ。君はその目で僕を見たんだ。明日から僕の新しい歴史が始まる。一カ月のうちに銀行には僕の預金がたっぷりできるよ。なぜってかい。それはね、僕は成功の秘訣って奴を発見したんだ。」

 

 D氏はまるで狐につままれたようで、あっけにとられてS氏を見つめていた。Dが返事をしないのでSは再び話をしだした。――

 

 「そうだよ、運命というものは自分が造るのさ。僕は今しがた不思議な話を読んだのだ。そしてそれを読んだ時に僕の幸福はすでに確定的なものになったのだ。その本は君の幸福も作るよ。君がしなければならないということは何よりもまずその本を読むことだ。君はその本のことを何もしらないらしいが、その本を君が読んだら何事も不可能なことはないということになるんだがね。それはむつかしく見えていたものをすこぶる簡単なABCDにしてくれるよ。

その真の意味を君がつかんだ時に成功は確定的なものになるのだ。僕だって、今朝目が覚めたときには焼け跡の灰の中にある建物のかけらのように何の希望も目的もないがらくたにすぎなかったのだ。しかし今晩はもうすっかり位置が転倒して僕は百万長者になったんだ。ばかな冗談を僕がいうと思うか、しかしそれが本当なんだよ。百万長者はもう仕事に対する情熱が消えてしまっているが、僕のは今ここにすべてがあるんだ。」

 

 「本当にびっくりしたよ」とD氏はS氏がアブサンでも飲んでよっぱらってしゃべっているんじゃないかと疑いながら「その君の読んだ本というのはどんな話なんだ、僕にきかせてくれ給え」といった。

 

 「きかせてやろうとも、僕はこの話を全世界にばらまいてやりたいんだ。この本が書かれてそして随分長く印刷されたままで今まで誰もその真価を知るものがなかったということは実に驚くべきことだ。僕には何の信用もなかったし、飯をくわせてくれるところもない、僕は真面目に自殺しようと思っていたくらいなんだ。

僕は今まで仕事したことがある。三つの新聞社に行って仕事を求めたがみんな断られてしまった。僕は自殺で立ちどころに生命(いのち)の根をとどめてしまうか飢餓によって死んでしまうかどちらかを選ばねばならなかったんだ。ところが今朝その話を読んだのだ。そしたら僕はすっかり変わってしまったのだ、君はおそらく信ずることができまい。だが万事は一瞬のうちに変化した、それこのとおり。」

 

 「その話というのはS君。」

 

 「それがさ、僕のことの続きだが、今までどこでも断わられたその同じ挿絵をだね、その話をよんでから後、ほかの編集長のところへもって行くとどれもこれもよろこんでひきうけてくれたんだよ。」

 

 「その話はね、君に効果があったように他の人にも効果(ききめ)があるもんだろうかね。たとえば僕にそれが助けになりそうかね」とD氏は尋ねた。

 

 「君のために? 君のためにならんという法はない。まあききたまえ、その話をきかしてあげよう。しかし本当は読む方がいいね。しかしともかく話せるだけ話してあげよう、こういう話なんだがね。」

 

 ここまで氏がいった時、ウェーターがやってきてその話を遮った。そしてS氏に「電話がかかっていますからきて下さい」といった。Sはちょっと言訳(いいわけ)をしてテーブルから立って行った。それから五分後にSは霙(みぞれ)の降る町の中へとびだして行って姿が見えなくなってしまった。

今までこのカフェーでたびたびSの姿をDは見たのであったが一度だって電話でよび出されるなんてなかったのである。そのこと自身がすでに彼の境遇が変わっているという証拠だったのである。――この話もグレン・クラーク教授の『牝鹿の脚の話』の中でダン・マッカーサーがその話をしようと思っているときに給仕がやって来て「レヴェレンド・ダン・マッカーサー・・・・・・」とよびだして行ったのと構造を全く同じにしているのである。

(パート2へ続く)

 

 

魔術的な書物の話 その2 20080119 00291

 

 

S氏の「魔術の話」を聞いた人は皆、その後、不思議なことに、なぜか運命が好転していきます。なぜでしょうか? ランプの魔人ジーニーが現れて、願いを叶えてくれるとでもいうのでしょうか? いいえ。決してそういう他力的な理由ではないのです。

 

この「魔術の話」は、人々の心に希望を生み出す不思議な力が秘められているからなのです。「善のみ実在」という「光一元の真理」が、巧みに、かつ力強く語られるのを聞いているうちに、人々の心に希望が芽生えてくるのです。「わたしだってできる!」という勇気が生まれてくる。それが、積極的な行動へとつながっていく。

 

こうなった時、守護・指導霊の「救いの念波」と同通することができるのであります。つまり、守護・指導霊の援助を受けることができるようになるということなのです。これが正しい開運のあり方です。「天は自ら助くる者を助く」という格言がありますが、まさにその通りだということです。

 

間違った開運のやり方ならば、欲望まみれの心で神仏に祈っていればよい。その祈りは、神仏ではなく、地獄の亡者たちに通じるだろう。そして、地獄の亡者たちの援助を受けて、欲望が叶えられたりすることもあるだろう。しかし、それで「運命が好転してきた」などと勘違いしてはならないのであります。

 

この「魔術の話」は、黒魔術とか白魔術といった類の他力的な「話し」ではありません。
「自助努力の精神」を大いに鼓舞する強壮剤的な力を秘めているという意味で、「魔術的な力を持つ話」ということなのです。
だから、「呪文の唱え方」とか、「儀式のやり方」などを期待している人はガッカリします(^^;。

 

では、続きをどうぞ。

 

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「青年の書」

第十七章 内在無限力を発揮する自覚(パート2)

 

 それから後のある晩D氏は以前大学の学友であって、今はある夕刊新聞の通信員をやっているA氏に往来で逢ったのである。それは彼がSに遇ってから約一カ月後のことであったが、Sのことはもうほとんど忘れてしまっていたのである。

 

 「やあ君、世界はどういうふうに運転しているかね、君はこの空間にまだいたのか」
とAは冗談まじりに心易い挨拶をした。

 

 「やっぱり地球の上にいるよ、しばらくはなおこの町の上に住まいをしていると思うんだが、しかし君の様子では何事も軌道にのっているらしいね。その話を僕にきかさないか」とDはいった。

 

 「何物もすべて軌道にのっているよ。それがね。こういうことなんだよ。君あのS君を知っているだろう。僕の仕事が軌道にのり始めたのはすべてあのS君のおかげなんだ。今まで僕は運が悪くて何をやっても旨く行かなかった。僕がSにあった時には実は君にね、僕の部屋の部屋代を払ってもらおうと思って君を探していたくらいだったんだ。

ところが君、君に会えずSに遇ったのだ。ところがSはいい話をしてくれたよ。それは今まできいた中で一番すばらしい話だ。その話をきいてから二十四時間以内のうちに僕は自分の足で立ち上がった。もう誰のやっかいにもならない。絶対苦労もしらない身分になったんだ」とAは全く静かな落ち着いた調子でまるで格言でも暗誦するような調子で話すのだった。

そのときDの心の中にはあの嵐の晩にコーヒー店でSが話したあの対話を思い出したのである。ぜひともその話がききたかった。

 

 「それはすばらしい話に違いない」と思わずDは叫んだ、「S君にはこないだ会ったんだがね、それ以来どうしているのか、あの人は今どこにいるのか。」

 

 「一週間二〇〇ドルの約束でキューバで戦争のスケッチを描いていたよ。そしてちょうど帰ったところだ。誰でもあの話をきいた人はそれから皆よくなっているのは事実だ。C君にP君に――僕の友達だが知っているだろう。Cは不動産の仲買いをしているし、Pはあるブローカーの書記をしていたがね。ところがS君からあの話を聞いたんだ。そしたらその話の効果といったら僕に効果があったと同じ効果が誰にでもあるのだ。」

 

 「君その話を知っている? 僕にその話をしてみて、やっぱり同じ効果があるか、一つきかせてくれないか」とDはいった。

 

 「話そうとも話そうとも。これを話すぐらい世界で愉快なことはない。僕はこの話をね一番大きな太い活字で印刷してニューヨークの高架鉄道のあらゆる停車場の上にポスターにして掲示しておきたいくらいなんだ。それはきっと多くの人を救うよ。それはごく簡単な真理なんだよ。百姓が農園で生活するように至極簡単なABCてなところだね。しかしちょっとあそこにC君がいる。Cにちょっと話さなければならないことがあるんだ、ちょっと一分間待ってくれ給え。」こういうかと思うとAは自分でうなずいて微笑して行ってしまった。Cとよばれる人の所でAはちょっと話しているのであったが、Dはちょっとよそみをして、今度みると二人はその場所からいなくなっていた。

 

 本当のことをいうとDは腹がすいていたのである。その時彼のポケットの中にはただ五セントぽっきりしかなかった。それは山の手まで行く電車賃には間にあったが、腹をふくらせるには足らなかった。その山の手行きの電車の中でDは一人の友人にあったのである。

 

 その友人は最近、第八アヴェニューに地所を買ってそこに料理店を開業して随分はやっている男である。そしてDが電車にのろうとする時におりかけていたのであるが、Dを見つけて引き返して次の停留場へ行く間に、こんなに自分が何でも都合がよく行くようになったのは最近、君の友人であるS君に逢ってS君からふしぎな話をきいたからである、と教えてくれた。そして彼は次の停車場でおりてしまった。

 

 D氏はだんだんSの話した魔術の話というのが本当に一種の魔術的力をもっているものと考え始めた。彼はポケットの中に残っている僅かばかりの釣銭を数えながら、自分の運命が、もうちょっとのところで自分につかめないようなもどかしさを感じるのであった。ぜひともあの誰もが運のよくなる不思議な話を自分もきかなければならないと思うのだった。

彼はポケットをまさぐって、手帳を開いて見た。どこかにS君の住所が書いてあるかもしれないと思ったからである。しかし、手帳にはS君の住所は見出すことはできなかった。彼は最初あの話をきいたカフェーのことを思い出した。もう時間が大分おそかったがSはあのコーヒー店にいるかもしれない。彼はコーヒー店に入って行った。

 

 彼はいた、コーヒー店の広いホールのはるかな隅の所に一群の友人たちにとりかこまれながら彼は何か話しているのだ。DはSの顔をみた。Sもその瞬間Dを見つけたらしかった。「さあやってきたまえ」という様子をした、しかしもう話をきく機会はなかったのである。テーブルをとりかこんで六人の人が話をきいていた。

 

 DはS君から一ばん遠い位置に腰かけた。SはDの目をじっと見つめた。Sは起ち上がってもう帰ろうとしているところだった。DはSと一緒に行きたいと思った。何となしものものしい沈黙がつづき、緊張が一座の上に漂うた。一座の人々はその目をSの上にそそいでいた。その原因は明らかであった。彼はあの話をしていたのであった。Dはおそすぎてここへ来たのでその話をきくことができなかったのである。Sのとなりには一人の医者がかけていた。左側には弁護士がかけていた。向こう側にはちょっと前から知合いである小説家がいるのであった。そのほかに美術家や新聞記者等が集まっているのであった。

 

 「お気の毒だがD君」といったのは医者である。「君の来るのがほんの少しおそすぎたよ。S君はある話を吾々に話してくれてたところなんだ。それは全くすばらしい。S君あの話をD君のためにもう一度してやってくれないか。」

 

 「えーそりゃあ、君があの魔術の話をききそこなったのは気の毒なことだ。実はD君がこの話のことを僕から最初にきいた人なんだもの。しかもそれはこのカフェーで、このテーブルで話したんだ。君随分あの晩は荒れたね。何だったけか、あの晩電話だったね。そうそう思い出した。君にあの話を始めようとしてた時にちょうど電話がかかって来ていたんだ。それからあとで三、四人の人にその話をしたんだよ。その結果皆勇気が出たよ、僕と同じにね、単に話というものがあんなすばらしい精神的刺激を多くの人々に与えることができるということは全くふしぎなくらいだ。

しかしそれはほんとなんだからね、たとえばここにこういう人があるね。その人はブローカーだ。どうも一カ月間商売が思うように行かなかった、そしてまさに破滅に瀕しようとしていた。その時僕はあの人に遇ったんだ。あの人は悲観のどん底におちていたんだが、僕があの人に例の魔術の話をしてやった。するとその効果てきめんというわけさ。

それは全く心の外科手術をやるようなもんだね、もっともその話し方がそこに”こつ”があるんだよ。その話はすこぶる平々凡々たるものだが、その話し方だね。――いやその書き方にあるんだよ。その本の著者がふしぎな筆致をもって読者を催眠状態にひき入れるというもんなんだ。すると読者が精神的に興奮する、それは全く言葉でつくられた精神的強壮剤みないなもんだね。その科学的説明はここにいられるドクター君にまかしておくとして。」

 

 話はそれで終わって一座はその学理の究明に議論が移って行った。その話の中にときどき魔術の話の一部が引用されたが、それがまたDの心をとらえて放さなかった。全くD氏にとってはもどかしくってたまらないのである。

 

 遂にD氏はたち上がった。そしてS君の片腕をつかむようにして皆の中からS君をひっぱりだした。そしていった。

 

 「僕はいつでもあの話をききそうになってきけないんだが、そのため心がもどかしくって気が狂いそうな心持だ。この一人の親友のことを思ってくれるなら今あの話をしてくれないか。」

 

 「よろしい、ほんのしばらくの間、君に話すのを他の人は赦してくれるだろう。実はあの話は僕がある町で買った古い切抜き帳にはりつけてあったんだ。何という本にその話があったんだか原本の名前はない。著者の名前もないんだ。その切抜き帳をたった三セントで僕が買って偶然にそれを読み始めたときに僕は非常に面白く感じた。僕はくりかえしくりかえしそれを読んだ。だからその話をほとんど一字一字まちがえないで話せるくらいだ。

それはふしぎに僕を感動させた。全くその文章を読むのはある強い人格にふれると同じような効果をもっているんだ。僕がそれを数回よんだあとで僕がそれに書いてある真理のことを考えてみた。するともう家にじっとしておれなくなった。そして外套を着、帽子をかぶると外へ跳びだしたんだ。僕は愉快で愉快で、きっと数マイルも歩いたかもしれない。ほんの少し前までは失望のどん底におった私が、もう嬉しくて嬉しくてたまらないで町中歩いたあげく、夜になって君に遇ったのがこのカフェーだったのだ。」

 

 ここまでS君が話したとき突然ユニホームを着た使いの者が一通の電報をS君に手渡した。それはS君が仕事している社の社長からの電報であって、すぐ事務所へ来るように書いてあった。その電報はSの居所がわからないで一時間ももちまわったあげくであったので、もう一刻も猶余できなかったのであった。

(パート3に続く)

 

 

魔術的な書物の話 その3 20080128 00294

 

 

D氏は、いつもあと少しというところで、思わぬ邪魔が入って、「魔術の話」をどうしても聞くことができない。それは私たち読者も同じであって、D氏の歯がゆい気持ちがよく分かるのであります(^^;。ま、これは小説の手法であります。

 

今回のパート3で、とうとう、「魔術の話」に突入していきます。「魔術の話」には幾つかの教訓が書かれていて、パート3では、第四の教訓まで紹介します。残りは最後のパート4で紹介します。わたしが、分割して紹介しているのは、「小説の手法」でも何でもありません。本を見ながら打ち込んでいますので、一度に打ち込むのが面倒なだけです。すみませんね(^^;。

 

では、続きをどうぞ。

 

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「青年の書」

第十七章 内在無限力を発揮する自覚(パート3)

 

 「こいつは困った」とS君はいった。「もう一刻も猶余ができないのだ。君にどうしてあげようか、ここに僕の鍵がある。僕の部屋へ行ってこれで開けて僕の部屋で待っていてくれ給え。窓に近い側の洋箪笥(ようだんす)の中に革表紙の古いスクラップ・ブックが入っているからそれを見てくれ給え。僕はその魔術の話の著者が自分で装幀(そうてい)したと思うんだ。それを読みながら僕が帰ってくるまで待っていてくれたまえ。」

 

 こういって彼は出て行った。DはSが与えてくれた機会を見逃してはならないと、早速Sの住んでいる住居へ行ってそのドアを開けた。部屋の中へ入って行くといわれたとおりの洋箪笥に古色蒼然たる手製の革表紙だと思われるスクラップ・ブックが見つかったのである。

詳しい装幀などはここに書く必要はない。珍しい書体の活字でそのスクラップ・ブックの付録みたいなところにその「魔術の話」が印刷してとじてあるのであった。その話の文章は十七世紀と十八世紀の文体をまぜ合わしたような書き方がしてあって、ところどころにイタリックやキャピタルで原著者が書き入れたに相違ないと思われる註釈が書き入れてある、これから諸君に対して紹介しようと思うのはこのふしぎな話の概略である。諸君もまたこの不思議な話を読んで幸福になり、健康になり、運がよくなってもらいたいものである。これからがこの物語の第二部に移るのである。


 

 話の主人公というのはナスマッチという人である。――

「余(よ)、ナスマッチはわが生活の体験よりして、処世上のあらゆる問題に対して成功の一大秘訣を発見したのである。わが余命すでにいくばくもないと思われるが故に、吾がもてるその知識のあらゆる恵福を次の時代に分かたんがために、これをここに書き遺すことを賢策であると信ずる。

余はわが表現の、しかしてその文学的価値の結果を弁解しようとは思わない。しかしかくいうことが後者についてはそれ自ら弁解になっているかもしれない。わが生涯の業務がペンよりも重いところの工具であったのと、すでにわが肉体は年古(としふ)りてわが手も頭脳も幾分麻痺してしまっているために、余の文章の拙劣なのは止むを得ない。

しかし、余の語るところのものは胡桃(くるみ)の皮の中にある滋味のようなものである。その殻のわられようがいかなる形でわられようともその滋味がとり出されて有効に使われれば、それで満足すべきである」というような調子で幾分古めかしく書いてあるのであるが、私はここに翻訳しようというのではない。もっとやさしく皆さんに紹介したいと思うのである。まず簡単にナスマッチ氏の伝記を述べることにする。――

 

 彼の父は船乗り業を営んでいたのである。ところが所有しているその船を売ってしまってヴァージニアにある新しき植民地に、ある天国的な空想を描いて入植したのであった。ナスマッチの生まれたのはその年すなわち一六四二年のことであった。「それはもう百年も前のことである」と彼は書いてある。だから筆者は百歳以上の長寿を保っていたものと思われる。彼の父は母のすすめるにもかかわらず、今もっていたところの船乗り業という足場を捨てて、海のものとも山のものとも知れない新しき植民地の移民となって生活を転換したのであった。

 

 ナスマッチはそれについてイタリックの如き文字で次の如き教訓を挿入している。――

 

「人は彼が今手にもてる機会の中に存在するいかなる価値をも見逃してはならないのである。未来に於ける一千の約束も、今手の中に一個の銅貨に比べれば、無きに等しき価値しかないのである。今、今もてるものを充分に使いきれ。」

 

 ナスマッチが十歳になった時に母が昇天した。その後二年後に父もまたその後を追ったのである。ナスマッチは唯一人孤児として残されたが、しばらくの間父母の深切な友人がいて彼の世話をしてくれた。父の残した遺産はその後いつのまにかなくなっていた。年がいってからナスマッチが考えてみれば、その友人は父を欺(あざむ)いてしたがってナスマッチをも欺いてその財産を横領してしまったらしいのである。

十二、三歳から二十三歳までの中(うち)には何が起こったということはその記録にはかかれていないのである。その後ナスマッチはボストンに行き、そこで桶屋(おけや)職人になったと書いている。船のつく時には木造船の修理大工となって働いたものらしい。

 

 ナスマッチの生活の上に幸運がその頃ほほえみかけて来た。だんだん栄えて二十七歳の時には自分が雇われていたその木造船工場の持主になったのである。しかし幸運というものは痩馬(やせうま)のようなものであって、鞭でひっぱたいてやらなければ走らないものである。甘やかしておいてはならないのである。そこでナスマッチは第二の教訓をイタリックで次の如く書いている。――

 

「幸運は常にはかなく消え易いものである。ただそれをとどめておくのは力によってのみである。もし彼女をやさしくとりあつかうならば彼女はもっと強い性格の男を求めて逃げてしまうであろう。(それは私の考えでは私の知っている限りの御婦人と反対である)」

 

 ちょうどそのころのこと、おそらくナスマッチが自分自身の幸運を甘やかしすぎたためであろう、突如として幸運が逃げさったのである。火災が起こって造船所は悉く灰燼(かいじん)にきし、やけ残ったものといっては黒こげになった道路と借金ばかりとなった。ナスマッチは知人たちを尋ねて新しき出発のために援助をこうたが、すべての資金を焼いてしまった彼は、何人(なんぴと)の信用をも得ることができなかった。

しばらくの中(うち)に一切のものを失ったばかりでなくてとうてい回復の見込みのない債務を背負ってしまったのである。おまけに、債務不履行ということで監獄にほりこまれたのである。ナスマッチがもし癇癪持ちでなかったら彼は何とかその損失をかきあつめてやりくりができたかも知れなかったが、彼の短気さがとうとう彼の運命を獄舎にまで引きずって行ったのである。獄舎で一年過ごして彼は出て来た。その時には彼はもう以前のような明るい希望にみちた幸福そうなこの世界に自信をもった人間ではなかったのである。この時のことについてナスマッチは自分で書いている。――

 

「人生にはたくさんの道がある。しかしその大多数は下へ下へと降(くだ)って行く道である。その角度はあるいは急であったりあるいはゆるやかであったりするけれども、その傾斜にかかわらずきまって行くところは失敗である。失敗はどこから来るかというと生命の弛緩(しかん)から来るのである。失敗はただ墓の世界にのみある。生き生きと生きているものには失敗はないのである。

方向を一転すれば登ることができる道を、その同じ道をつたわって降りることもできるのである。そして、そこにはゆるやかな傾斜の道がある。それはまわり道であるけれどもある人にとってはいっそう確実で適当している。」

 

 彼が一文なしになって、獄から出てきたときに彼はただぼろぼろの着物と何も役にたたないのでもつことをゆるしてくれたただ一本のステッキが彼のすべての持ちものであった。しかしながら彼には熟練した技術があったのである。そこで彼は出獄すると高賃金をもらって木工職として雇われることができた。

しかしそれくらいの収入では一ぺん物質的に成功してきた彼を満足せしめることはできなかった。そこでナスマッチは心がどうもおもしろくないのである。その心をひきたてるために、そして今まで受けた損害を忘れるために晩になると居酒屋へ飲みに行くのが習慣になった。彼は大酒家ではなかった。しかし酔っぱらった気持で笑ったり歌ったり冗談やウイットをとばしたりして、「決していいことはしない」連中どもと遊ぶのがせめてもの楽しみであったのである。それがナスマッチにどういう影響を与えたかは、彼が次の如く第四の教訓を書いているのでわかる。――

 

「努力精進する人々の中に自己の仲間を求めよ。しからざれば、なまけものの群は汝から汝の精神的エネルギーを吸いとってしまうであろう。」

 

 ナスマッチは居酒屋に出入りして、毎日その雇主(やといぬし)の目をかすめて遊んでいたのである。それはむしろ喜びであり雇主をうらぎってやることに興味を感じているのであった。そしてとうとう彼はその職業を失ってしまったのである。その当時の彼はけわしい山を惰性の力でかけおりるような状態で、とまろうと思ってもとまることはできない。行けば行くほど下向(げこう)の速力はだんだん速くなるのであった。そして全く彼は浮浪者のような状態にまで堕落したのである。そこで彼はまた次の教訓を書いている。

 

「浮浪者と癩病(らいびょう ※ハンセン病のこと)患者とは、人から嫌われる点で全く同一のものである。しかしながら浮浪者は完全なる健康をもっているのであって、彼の状態はただ想像の結果にすぎないのである。しかし癩病患者はその血液が汚れているのである。」

 

 こうして浮浪者にまで堕落してしまったナスマッチはその収入もほとんどなくなり、毎日食うや食わずで肉体はやせるし、魂は骸骨のようになってしまった。彼は全世界から追放せられたような気がした。だんだん深い所へ落ちこんで行くような気がするのだった。しかしその時彼に第五の教訓が与えられたのである。

(パート4に続く)

 

 

魔術的な書物の話 その4 20080205 00295

 

 

今回で「魔術的な書物の話」の紹介は終了です。

 

これを読んで、ただそれだけで運が良くなるというわけではない。現に僕は、十回以上読んでいるのですが、「運が良くなった」なんて、とても思えませんでした(^^;。

 

何度も言うようですが、大切なのは「真理を実践すること」であります。僕の場合、それができていないから、運が良くなるはずがなかったのですね・・・・・・(^^;。

 

でも、昔の僕は、ものすごく悲観的な人間、取り越し苦労、持ち越し苦労の塊のような人間でしたが、「光明思想」に出会い、学ぶようになってから、普通の人間にかなり近づいてきたと思います。そう考えると、やはり、読んだだけでも、精神面でかなり効果があったのではないかなぁ・・・・・・と思うのです。

 

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「青年の書」

第十七章 内在無限力を発揮する自覚(パート4)

 

 第五のその教訓はとても文字をもって表わすことはできない、それは実際の出来事によって表わすほかはないのである。それは寒い晩であった。彼はかつてはそこで雇われておったところの樽製造工場の裏庭の鉋屑(かんなくず)の中で寝ていたのであった。彼が目を覚まして見ると彼の前に健康で生き生きした男が木の切り屑を燃やしながら顔を炎に赤々とほてらせてあたっているのであった。

ナスマッチは目が覚めるとその火にあたりたいと思って近づいて行った。その男は椅子にかけていたが一脚の椅子を指して掛けろというような態度をした。しかし一語もいわなかった。ナスマッチは自分の体があたたまってきた時に何ともいえない恥ずかしさを覚えてきた。そして今度は本当に目が覚めたのである。しかしそれからというもの、いつでもあの夢の中で見た男が自分と一緒にいるのである。他の人には気がつかないらしい。しかしナスマッチにはそれが実在の人物であるとしか思えないのだ。

 

 その人物はナスマッチによく似ていた。しかしまた非常に似ていなかった。その額(ひたい)はナスマッチのそれよりも高くはなかったが、丸みを帯びてふっくらと充実していた。かれの目は明るく無邪気で希望に満たされており決心と熱情との輝きを示していた。その口唇(くちびる)、頬すべての顔の表情は決意そのもののようであり断乎とした支配力を示していた。その前にナスマッチは何か恐怖に似た暗いものにみたされて神経的に顫(ふる)えている自分であった。

その人物の行くところへナスマッチはついて行かずにはおれなかった。その人物は今までナスマッチが行きたいと思っていたある建物の中へずんずん入って行った。しかしナスマッチはそのドアをくぐることができなかった。それは彼がかつて取引きしていたある会社の事務所であった。今まで仕事を求めて幾度かそのドアの前をうろついた所であるが入ることができなかったのである。その人物はその事務所から出てくるとやがてまたどこかの事務所へずんずん入って行く。ナスマッチは外で待っているのだ。

そしてとうとう夕方になる、その人物はある有名はホテルの玄関の所で消えてしまった。夜が来た。ナスマッチは例のとおり樽製造工場の裏庭の古樽桶や鉋屑(かんなくず)の中で寝る。それから目がさめるとまた例の人物が出てくる。そしてその人物に引きずり廻されるようにそのあとをついて行くナスマッチであった。数日の後にナスマッチはその人物に話しかける勇気が出た。

 

 「あなたはどなたですか。」

 

 「私は私というものだ。ここに生きているものだ」と彼は答えた。「私はおまえがかつてあったところのものだ。何のためにおまえは躊躇するのか。私はおまえが昔おまえであったところの彼なのだ。しかしおまえは彼を見すてて他の仲間に入って行ったのだ。わたしはお前が見すてたところの彼である。神の姿に造られた人間そのものだ。そして私は一度お前の肉体を所有していた。私はお前の肉体の中にお前と一緒に住んでいたのだ。しかし調和した状態ではなかった。完全に一つにはなりきれなかった。

お前は小さいものであった。そしてだんだんいっそう利己主義になって行った。とうとう私はお前と一緒に生活するに堪えられなくなったのだ。そして私はお前の体からとびだした。人間の中には誰にでも(プラス)の人間と(マイナス)の人間とが一緒に同居しているのだ。そしてどちらを尊重するかということによって一方がその人間の支配権を得るのだ。

私はお前の(プラス)の人間である。お前はお前の(マイナス)の人間である。私は凡(すべ)てのものを有(も)っている。しかしお前は一切をもっていないのだ。吾々二人が住んでいた肉体は私のものである。しかしそれはあまりにも見苦しい。私には住むに堪えない。それを浄めなければならぬ。そうすれば私はお前の肉体に再び入るだろう。」

 

 「あなたはなぜ私につきまとって来るんですか」とナスマッチはその人物に尋ねた。

 

 「つきまとうのは私ではない、お前が私についてくるのだ。おまえはしばらく私なしに生きることができた。しかしお前の行く道はだんだん下へ降りる道だ。最後にどん底の死が来る。もうお前はその道のほとんどぎりぎりの所へ近づいている。いよいよぎりぎりが近づいてきたのでお前は是が非でも私が入るようにお前の家を浄めねばならないのだ。お前のいる所を浄めよ。頭の先から心の中まで綺麗にするのだ。するとわたしはいつもどおりにお前の中に入るであろう。

 

 「私の頭はもう力を失ってしまったのです」とナスマッチはよろめくようにいった。「心もすでに弱りはてているのです。あなたに修繕はできませんか。」

 

 「きけ」とその人物はナスマッチの上にのしかかるようにして言った。ナスマッチはその人物の前に倒れて死んだようになった。その人物の声は厳(おごそ)かに続くのだ。

 

 (プラス)の人間にとってはすべてのことは可能である。全世界は彼に属しているのである。彼は何ものをも恐れない、何ものの前にも停止しない。なんら特権を求めない。彼は命ずるものである。彼は支配者なんだ。彼の言葉は命令そのものである。彼が近づくと反対は逃げてしまう。彼は山を移して谷をうずめる力をもっている。彼の行くところ、到るところその道はたいらかになる。」

 

 おごそかにきこえてくる彼の声をナスマッチははっきり目が覚めてきいていた。たしかにそれは夢ではない、そう思いながらナスマッチはまたうとうとと鉋屑(かんなくず)の中で眠ったのである。そして今度目がさめてみると彼の見る世界は完全に別世界のように見えるのであった。太陽が生き生きと輝いていた。小鳥が囀(さえず)っていることがいつになくはっきりと意識に上るのだった。昨日までふるえていた不確かな弱々しい身体に今朝(けさ)は活気にみち満ちた健康さが感じられるのである。

彼は自分が眠っているところのうず高い鉋屑を見つめた。そして、夢の中で起こった出来事を心に思い浮かべたのである。彼は起き上がった。そしていつもの習慣のように毎あさ朝飯をたべる居酒屋の方へ歩き出した。するとどうしたものか今までこちらが挨拶しても応答もしなかった居酒屋の人たちが愉快そうにうなずくのだ。数ヶ月間ナスマッチを軽蔑してきた人たちが丁寧にお辞儀をして彼を迎えた。

彼は洗面所へ行って口をすすぐと朝飯のところへ出掛けて行った。それが終わると酒保(しゅほ)へ行った。そしてその主人公に、「前に私が借りていた同じ部屋を借りたいんですが、もしふさがっておりましたらその部屋があくまで外(ほか)の部屋でもいいんです。」こういっておいて彼は大急ぎで樽の製造工場に入って行った。

工場の広場には大きな荷揚(にあげ)馬車があって、そこの人たちは樽を荷馬車につんで港へ運ぶところだった。ナスマッチは何もいわなかった。そこにつんである酒樽を手にとると、荷馬車の上にいて取り次いでいる人夫の手許へ酒樽を次から次へと投げてやった。それが終わると彼は勝手知った樽製造工場へ入って行った。そこには一脚のベンチがあった。長い間使わないと見えて藁ぼこりが一ぱいたまっていた。それは、かつてナスマッチがこの工場で働いていた時に使ったところの仕事の足場になるもので、そこにかけるとヴァイスのレヴァーに足をかけて桶板をけずり始めた。

 

 それから一時間ほどすると工場主任が工場へ入ってきた。ナスマッチが働いている姿を見て驚いた様子であった。そこにはすでに新しくけずったかんなくずが相当つまれてあった。工場主任はじっと彼をみつめていた。ナスマッチはなにも口ではいわなかったが仕事の態度で、「僕はまた仕事に帰ってきたんです」というように見えた。工場主任はだまって自分の頭をうなずかせて過ぎ去って行った。

 

 これでナスマッチの第五のそして最後の教えは終わるのである。ともかくそれ以来ナスマッチはすることなすこと都合がよく行くようになり、まもなく他に木造船の造船所を設立してその所有主となって成功したというのである。そして彼は最後に次のことを書き加えている。

 

 「何にてもあれ善について汝が欲すれば必ずそれは汝のものとなる、汝はただ手をのばしてとるだけで可(い)いのである。汝の中にあるところのすべてのものを支配するところの力を自覚せよ、すべてのものが汝の所有である。」

 

 「いかなる種類のいかなる形の恐怖をも持ってはならない。恐怖心は−(マイナス)の人間と兄弟分である。」

 

 「諸君が何か熟練した能力があるならばそれをもって世界に奉仕せよ。世界はそれによって利益を得る。したがって汝もまた利益を得る。」

 

 「日夜努めて汝の+(プラス)の人間と交通せよ、+(プラス)の人間の忠言にしたがえば失敗するということはない。」

 

 「哲学はただの屁理屈である。世界は屁理屈ではないのである。事実の集積であることを記憶せよ。」

 

 「汝の手の中にあるところのすべてのことをなせ。横合いから誘惑する手まねきに従うな。何人も許可はいらない、自らなせ。」

 

 「−(マイナス)の人間は人から赦しを求めるのだ。+(プラス)の人間は人に赦しを与えるのだ。幸運というものは自ら歩むところの一歩一歩の中にある。それをつかめ。それをわがものとせよ。それは諸君のものであり、諸君に属する。」

 

 「今直ちに始めよ。上記の教えを忘るるな。手を伸ばして+(プラス)をとれ。人生は今が最も厳粛なる+(プラス)の時である。」

 

 「諸君の+(プラス)の人間は今あなたのそばにいるのである。あなたの頭を浄めよ。あなたの心を強めよ、それは入ってくるであろう。+(プラス)の人間は今あなたを待っている。」

 

 「今晩始めよ。今人生の新しき旅を始めよ。」

 

 「+(プラス)の人間か−(マイナス)の人間かどちらの人間が汝を支配しているか注意せよ。一分間たりとも−(マイナス)の人間を汝の中に入らしむること勿(なか)れ。」

 

 ナスマッチはこういう教訓を書いてそしてその文章は終わっているのである。私はこれらの教訓が、前途に多望な未来を有(も)つ有為なる青年たちに、その幸福なる人生航路への指標として役立つことを祈りつつ、この書に加えることにしたのである。

(「青年の書」第十七章 終わり)