細川氏一門の守護支配と京兆家
第2章第2節2

第二章  細川氏一門の同族連合体制の展開


第二節 京兆家と庶流家の紐帯


  2 備中守護家

 次に備中守護家についてみる。備中守護家の祖は細川満之(頼之の末弟)で、頼重、氏久、勝久とその子孫が守護職を継承した。その備中守護家内衆で、京兆家内衆と同姓者が確認できるのは管見のところ(1)庄氏・(2)前田氏・(3)有岡氏・(4)薬師寺氏・(5)上野氏・(6)斎藤氏である。以下、それぞれの氏族についてみていく。

   (1)庄氏

 庄氏の出自は武蔵七党の1つ児玉党とされ、鎌倉時代初期に西遷した御家人と伝えられている(18)。南北朝期には既に備中国を本拠とする有力な国人に成長していたと考えられ(19)、幕府の両使として庄又四郎や庄駿河入道ほかが備中及び山城国内で活動しているのを確認できる(20)。幕府は現地の有力者を両使とするのが一般的なので、備中国内で庄氏が両使遵行に携わるのは意外ではないが、山城国内においてもそれに携わっていたことは注目に値し、これよりおそらく庄氏の一族には幕府の奉公衆になった者もいたのではないかと推定される。官途・通称からして、この南北朝期に両使を務めた庄氏の系譜をひく者と考えられるのが、京兆家被官の庄氏として最初に確認できる人物たる荘駿河四郎頼資である(21)。そして、この荘駿河四郎頼資以外にも庄十郎三郎(22)、庄四郎次郎(史料《21》)、庄伊豆守元資(23)、庄四郎次郎春資(24)(史料《22》)ほかを京兆家被官の庄氏として確認できるのである。

 《21》『康富記』応永二十五年八月七日条

  (前略)夕方自庄四郎次郎許<當管領内者云々、>有使節、予辭退、指合之由令申之了、(後略)

 《22》『蔭凉軒日録』長享元年十二月十一日条

  去七日京兆参鈞之御陳、一家衆皆被参、民部少輔一人不参、以前不白御暇在国之故如此、(前略)右京兆伴衆十五騎也、於鈞皆與宴云々、香河備中守、安富新兵衛尉、(中略)香西五郎左衛門尉、庄次郎四郎、方賀部兵庫助、以上十五員、(後略)

 一方、備中守護家被官の庄氏としては庄甲斐入道(史料《23》)・庄信濃守(史料《24》)・庄出雲守(25)・庄藤右衛門尉(26)・庄右京亮経郷(史料《25》)ほかの守護代在職の徴証を、そして庄道賀(27)の在京奉行人在職の徴証を確認できる。彼らについては第3章第1節第2項で改めて検討を加えたいと思うが、ここでは庄氏が、少なくとも応永6(1399)年(28)から寛正5(1464)年(史料《25》)にかけて、多くの備中守護家被官を継続的に輩出していることを確認しておきたい。

 《23》『南禅寺文書』上 一二一号

  南禅寺領備中國三成庄公文・田所両職、并休耕寺等事、早可沙汰付下地於寺家雑掌状、如件

應永廿六年十二月廿日治部少輔(花押)
庄甲斐入道殿
高橋駿河入道殿(29)

 《24》『長福寺文書の研究』文書編八三四号

  長福寺領備中国薗庄壱分事、先度使者不入之段、被申定訖、然間於自今以後者、就所職名田等可被止□之状如件

永享六年三月廿日治部少輔(花押)
庄信濃守殿
石川豊前入道殿(30)

 《25》「百合」サ一四〇(『岡山』家三九五)

  禅仏寺領備中国新見庄地頭職御譲位段銭事、為直進上者、早任今月五日御奉書之旨、可被停止国催促由候也、仍執達如件

七月七日<寛正五>基敦 在判
石河左近将監殿<資次>
庄 右京亮 殿<経郷>
有岡左近将監殿<経資>

 以上より、庄氏は京兆家・備中守護家双方に内衆を輩出していた氏族で、その期間も重複していることから、両家の紐帯となりえた氏族といえる。また、庄氏が最初に被官化した細川氏は備中守護家ではなく京兆家の方であり、明徳3(1392)年頃に守護代として細川満之が備中国に入部し、まもなく守護になったのに伴って(31)、備中守護家にも並行して被官を輩出するようになったと考えられる。そして、備中守護家内衆の庄右京亮と京兆家内衆の庄元資が菩提寺を同じくしていることからして、主家が異なることによる断絶はなく、庄氏一門としての一体性は強かったと推定される。

   (2)前田氏

 備中守護家内衆として確認できる前田氏としては前田美作入道永浄(32)がいる。その徴証が次の史料である。

 《26》『九条家』一七一九

  「石川豊前入道 
        前田美作入道
  石川備前入道殿    道寿」
  東福寺領上原之郷之内公文職、今度被押置候分事、今月九日寄進状被出上者、国可止□之由候也、恐々謹言
     二月九日   道寿(花押)
            永浄(花押)
      石川備前入道殿

 上記文書は年欠であるが、文中の「今月九日寄進状」にあたる東福寺宛寄進状と考えられる文書が『九条家文書』に残っており(『九条家』一七〇三)、その日付が文安元(1444)年となっていることより、上記文書も文安元年発給のものと断定できる。また、上記文書は東福寺宛寄進状と同日付で発給されていることより、発給者の前田永浄らは在京と考えられ、発給者の立場は次の2点より奉行人であったと考えられる。

  1. 背景に幕府の遵行命令がない、守護自身の命令を下達する奉書で、連署形式になっていること。
  2. 前田永浄とともに署名している石川豊前入道道寿は応永312(1426)年(33)から永享8(1436)年閏5月(34)まで守護代としての徴証を残しているが、遅くとも文安元年までには守護代職を石川備前入道(昌秀)と同一人物と考えられる石川備前(守)に譲り(35)、そして備中守護家奉行人在職の徴証を残す庄道賀とともに、年未詳ではあるが、連署書状(『九条家』一七四〇)を出していること。
 尚、備中国では既に挙げた史料(例えば《23》《24》)からも窺えるように、守護の遵行状等が庄・石川両氏宛になっている場合が多いことから、地域分割ではない共同管轄方式の守護代二人制が採用されていた可能性が高い。とすると、石川豊前入道道寿・前田美作入道永浄の両在京奉行人から、守護代たる石川備前入道(昌秀)一名に命令が下達されるのは一般的ではないということになる。しかし、小川信氏が前掲『足利一門守護発展史の研究』320頁で、地域分割によらない守護二人制が採用されていた和泉国の大伝法院領信達庄で起きた半済分の守護方押領の停止にあたって、和泉下守護の細川基之がイニシアチブを握っていた事例などを挙げて指摘しているように、共同管轄方式とはいえ問題によっては一方の守護・守護代が主導的に処置するケースもあったと考えられる(36)。よって石川備前入道(昌秀)の立場はやはり守護代と推定する。

 備中守護家内衆として確認できる前田氏としては、もう一人前田某(史料《27》)がいる。彼と前田美作入道永浄との関係については明らかではない。

 《27》『山科家礼記』長禄元年十二月十三日条

  (前略)備中□守護へあさへ年貢さいそく予罷向候、るす候て前田に申置候也、(後略)

 一方、京兆家内衆の中にも、実名・官途等は不明であるが前田氏は存在する(史料《28》《29》《30》)。また、京兆家内衆の可能性が高い人物として前田次郎右衛門尉(37)もいる。

 《28》『兼宣公記』応永二十二年十月二十五日条

  (前略)早旦自管領以使者前田被申送云、今日貢馬何程可引進哉、将又内裏・仙洞之間□進何御所哉云々、(後略)

 《29》『建内記』文安元年六月十日条

  (前略)傳聞、細川九郎<惣領也、十三歳> 去月廿六日覧囲碁、香西子与前田子<十五歳>也、香西子碁手九郎助言、仍前田子出怨□□□□追立之畢、其後九郎□□之、□□子立帰、抜刀乱入平臥之席、□□□、九郎学兵法、□背其刀及両度、□起揚奪取彼刀、押付其身項、□□人来告子細、即時雖可切害、有所思可預□親類之由、九郎加下知了、□□父在四国、仍預置親類、為一□□沙汰令切腹了、(後略)

 《30》『師郷記』文安四年閏二月十八日条

  (前略)今朝管領被官号前田者、殺害座主坊侍法師女方、嫉妬之儀云々、(後略)

 上記史料の《29》は、前田の子と香西の子との囲碁対局中に、勝元が香西の子に助言したことに対し、前田の子が抗議したが、逆に対局の場から勝元によって追い払われてしまい、これを怨みに思った前田の子が勝元に切りかかった事件について記している。これをみると、前田氏が文安元年当時、京兆家の有力被官であったことを窺わせる点が3点ある。

  1. 前田氏は若年の京兆家惣領、細川勝元の(おそらく幼時からの)近習を輩出している。
  2. 主人に切りかかったという事実だけで、前田の子はその場で斬刑になってしかるべきなのに、勝元は彼を親類に預け、前田氏一族として沙汰するように命じている。
  3. 切腹させられた前田の子の父は、当時四国に滞在していたとされているが、おそらく前田氏の本貫地がある京兆家分国の讃岐の領国経営に関与していたと考えられる。
 このうち特に(2)の事実は、前田氏が京兆家によって被官として重視されていたことを示していると思う。

 以上より、備中守護家内衆としての前田氏の活動時期の特定は、困難ではあるけれども、京兆家内衆としての前田氏の活動が史料的に確認される時期と重なることは確かである。また、備中守護家内衆の前田氏も京兆家内衆の前田氏も、ともに在京していたが故に、同族としてのまとまりを維持しやすい状況にあったと考えられる。よって、前田氏も備中守護家と京兆家の紐帯としての役割を、少なくとも文安の頃には果たしえたと考える。

   (3)有岡氏

 備中守護家・京兆家双方に被官を輩出していた氏族のうち、これ以降挙げる氏族は、両家との被官関係が史料的に確認される時期に、管見のところ隔たりがあるが故に、両家の紐帯としての役割を果たしえたと明言できない氏族である。しかし、紐帯となった可能性がある氏族として挙げておきたい。

 細川氏被官の有岡氏としては、京兆家の被官と化していた人物が史料的には先に確認され、次に掲げる史料より正長2(1429)年の時点で有岡某(38)が在京被官であったことがわかる。

 《31》『満済准后日記』正長二年七月二十八日条

  (前略)自細川中務少輔方、以久世入道并有岡等、篠原殿へ自私細川、御返事案可令一見由、申賜之間一見了、無相違間其旨申遣了、(後略)

 また、この有岡某と同一人物の可能性もあるが、文安4(1447)年当時の京兆家の在京被官として有岡入道堅有(39)という人物も確認できる。

 一方、備中守護家被官たる有岡氏としては、寛正5(1464)年の後花園天皇から後土御門天皇への譲位に際して賦課された段銭の徴集に、備中国内で庄右京亮経郷・石川左近将監資次とともにあたっていた人物たる有岡左近将監経資が確認される(40)。この有岡経資らに関する史料としては、本節に史料《25》として引用した奉書案のほか、寛正5年6月14日付斎藤基敦奉書案(「百合」サ一三九〈『岡山』家三九四〉)、寛正5年「最勝光院方評定引付」8月18日条(「百合」け一六〈『岡山』家八二五〉)にみられる同年9月17日付斎藤基敦・経朝連署奉書案が挙げられる。まず、いずれの奉書案にも発給者としてその名が見られる斎藤基敦(41)の立場であるが、守護の意を受けた奉書を単独発給していることから、一見彼は守護代のようにも思えるが、寛正5年9月17日付の奉書案では、経朝とともに連署奉書を発給していることより在京奉行人と考えるのが妥当である。次に、いずれの奉書案でも宛人となっている3名の立場であるが、そのうち庄経郷・石川資次は備中守護代職を継承した一族の出身なので、彼らは守護代である可能性が高い(42)。そして、残る本題の有岡経資の立場は、守護代と考えられる両者と同格に扱われていることより、彼も守護代であった可能性がある。しかし、この有岡経資を含めて有岡氏で備中守護代在職の徴証を残す人物はおらず、また有岡経資の備中国内における活動も、管見のところ寛正5年の譲位段銭徴集に関わる活動しか確認できないことからして、彼は譲位段銭徴集のためだけに現地に送りこまれた在京奉行人、即ち段銭奉行と考える方が妥当性が高いのではなかろうか。

 以上より、有岡氏は京兆家・備中守護家双方に在京被官を輩出していた氏族である可能性が高い。今後、京兆家・備中守護家両家の被官としての活動時期の一致が確認されれば、先に挙げた庄氏や前田氏と同様に、両家の紐帯になりえた氏族とすることができよう。

   (4)薬師寺氏

 小川信氏前掲『足利一門守護発展史の研究』352頁によると、下野大掾小山氏の支族である薬師寺氏は、鎌倉末期に薬師寺左衛門三郎貞義が摂津国輪田庄地頭職を保有していたことが確認される西遷御家人であるが(『九条家』三四一〈9〉)、観応の頃には武蔵国守護代(守護高師直)を薬師寺二郎左衛門尉が務めている(43)。この人物は『太平記』に度々登場する薬師寺次郎左衛門尉公義(法名元可)と同一人物と考えられ、その実名からすると摂津薬師寺氏の血縁の可能性もある。次に掲げる史料が細川氏被官たる薬師寺氏に関する初見史料である。

 《32》『長福寺文書の研究』文書編六五一号

  備後國地□庄内河北村領家職之事、蓮華王院ト梅尾北坊相論之所ニ、九月六日任奉書之旨、下地北坊御代官方ヘ可被沙汰付状如件

應永元年七月八日永可(花押)
上野殿
御内へ(44)

 ここに登場する備後半国守護家(守護細川基之)被官の薬師寺五郎左衛門入道永可(45)は、官途・法名からすると薬師寺公義の子孫である可能性が高く、よって摂津の薬師寺氏が一旦高氏に属し、高氏没落後細川氏に属したことに細川氏被官の薬師寺氏は始まると推定される。尚、薬師寺氏が細川氏に被官化した経緯・時期については不明である(46)。

 右の薬師寺永可の備後半国守護家における立場は、奉書を単独発給していることより、一見守護代の如くである。しかし、翌応永2(1395)年の日付で守護細川基之の遵行状が上野氏宛に発給されている(47)ことより、上野氏が守護代であったと考えられ、薬師寺永可は在京奉行人であったと考えられる。あるいは上野氏が在国守護代(小守護代)で永可は在京守護代だった可能性もないことはないが、いずれにせよ薬師寺永可が在京被官であったことは間違いなさそうである。

 この薬師寺永可は備後半国守護家の在京被官としての活動が確認されてから5年後の応永6年には、備中守護家被官として活動が確認されるようになる。次に掲げる史料がその徴証である。

 《33》『長福寺文書の研究』文書編六八四号

    「應永六年 守護代方エ被遣之状也、備中国薗庄自寺家庄主ヲ被下、可打渡下地之事」
  梅津寺領備中国薗東庄之事、寺家より庄主被下申候、早々下地打渡可申候由、依仰状如件

   七月廿三日<応永六>永可(花押)
庄六郎左衛門尉殿
石川殿

 端裏書より右の奉書の宛人庄六郎左衛門尉・石川某は守護代であることがわかり、永可の立場は備中守護家においても在京奉行人であったと類推される。応永14年12月日付東寺雑掌重申状案(「百合」さ九六〈『岡山』家一〇三二〉)の本文中に「守護内奉行薬師寺五郎左衛門入道状明白也」にという一節があることからしても、永可は守護代ではなく在京奉行人であった可能性が高い。

 さて、この薬師寺永可について、備後半国守護家の在京被官としての活動と備中守護家の在京被官としての活動をわずか5年のタイム・ラグで確認できることに対する解釈として、末柄豊氏は前掲「細川氏の同族連合体制の解体と畿内領国化」の中で、備後半国守護の細川基之は、隣国たる備中の守護細川満之の実子であり、基之は応永2年当時はまだ官途を称していない年少者であったので(48)、満之が基之を後見していた結果であるとしている。末柄氏のこの論調は、元々は備中守護家被官たる薬師寺永可が備後半国守護家に出向していたかの如くである。確かに実の親子であることからして満之の基之に対するサポートがあった可能性は高いが、かといって満之が自らの被官まで備後半国に派遣していたというような捉え方は、備後半国守護家の家臣団を過小評価していると思う。細川基之は京兆家当主頼之の猶子でもあり、備後半国守護家の家臣団も京兆家被官をベースに構築されたであろうから、基之は領国経営にあたり満之の被官にまで頼る必要性はなかったのではないかと考えられる。よって私は、本節の冒頭で触れた庄出雲入道や飯尾備中入道のように、細川氏一門の中で主家を流動的に変更した内衆の事例があることからしても、薬師寺永可は備後半国守護家の内衆であったが、満之の基之の後見役としての活動を通じて、のちに備中守護家被官に転じたと解釈する。
 一方、薬師寺氏が京兆家被官であることを示す明徴で、管見のところ初見と考えられるのが次の史料である。

 《34》『大乗院寺社雑事記』長祿二年十一月十四日条
   (前略)
  一、摂津國濱郷當門跡領分守護方反銭事、色々御代官柚留木令申間、守護免状到来了、摂津國濱郷内御要脚反銭事、於春日社領分者、可被止催促之由候也、仍執達如件

十一月十二日常 進
薬師寺安芸守殿
奈良備後守殿

 右記奉書の本文中に見られる「濱郷」は河辺郡南部に位置するが(49)、河辺郡南部は摂津本郡とともに細川頼元以来、京兆家当主が守護職権を有していたので(50)、宛名に見られる薬師寺安芸守は奈良備後守とともに京兆家被官に間違いない。彼らの立場は共同管轄だったことからすると、おそらく在国守護代(小守護代)もしくは段銭奉行と考えられる。この薬師寺安芸守以前には薬師寺氏が京兆家家臣団の中にいたことを示す明徴はないけれども、応永初年の頃、いわば京兆家より分かれ出たばかりの庶流家たる備後半国守護家に、薬師寺氏(永可)が被官として存在したことからすると、或いは当時より薬師寺氏は京兆家被官を輩出していた可能性はある。しかし、少なくとも薬師寺備後守元長(51)が文明期に出るまでは、薬師寺氏は京兆家の有力内衆には列せられていなかったと史料的には考えられ、薬師寺永可以降、備中守護家被官としての薬師寺氏の活動を確認できないこととあわせると、京兆家・備中守護家の紐帯の役割を果たしたとは管見のところ断定できず、その可能性を指摘できるのみである。

   (5)上野氏

 上野氏も前述の薬師寺氏と同様に、備中守護家被官としての活動が確認される以前に、まず上野八郎(氏時)及び上野與一の備後半国守護家被官としての活動が確認できる(52)。その後応永6年に至って、備中守護家被官としての上野氏が確認され、その翌年にも備中守護家被官としての活動が見られるのである。

 《35》『九条家』一六八七

   「上原反銭請取」
  東福寺御領上原郷反銭之事、先度五十文宛分於国落居候了、今度之分自寺家被歎申候之間、京済候て、納所候也、請取別帋在之、国可止催促之由、依仰状如件
 
九月一日<應永六> 薬師寺 判
上野殿 進候

 《36》『九条家』一六八九

   「上原反銭事正文為中下応永七分」
  東福寺領備中国上原郷段銭事、可為京済由候、国可被止催促由、仍仰状如件
 
七月廿日<應永七>永可 判
上野殿

 上記史料の宛名に見られる上野某が、上野八郎(氏時)や上野與一と同一人物か否かを判断する決め手はないが、発給者の薬師寺永可が備後半国守護家被官から備中守護家被官に転じた存在と考えられることを勘案すると、上野某も薬師寺永可と同様に、細川満之による細川基之の後見役としての活動を通じて、備後半国守護家被官から転じてきた人物である可能性はある。さて、備中守護家における上野某の立場であるが、既に薬師寺氏に関する考察で述べたように、薬師寺永可は在京奉行人と考えられ、また応永6年当時の守護代は庄六郎左衛門尉・石川某両名であること(53)、そして右記史料《35》《36》の内容がいずれも段銭の国催促停止を命令するものであることより、段銭奉行であったと判断して間違いなかろう。

 この上野氏は細川氏庶流である。『尊卑分脈』『系図纂要』より関係部分を抜粋すると次のようになり、庶流のなかでも末流の家柄といえる。

 『尊卑分脈』によると與一という通称は、氏世以下4代にわたって使用されている。よ って前掲の細川基之の被官、上野與一はこの血統の近親者である可能性が高い。また同じ く上野八郎も『大日本古文書』が傍注として打っている実名の「氏時」が正しいとすれば、 「氏」という文字は氏世の血統の通字となっている傾向が見てとれるので、この血統の近親 者である可能性が高い。

 この上野氏は細川氏庶流ということもあり、京兆家と深い関わりを持つ一族である(54)。 まず頼益は応永8年から同19年頃にかけて京兆家分国丹波の守護代在職が推定されてい る人物である(55)。頼益流の満益・持益・勝益については『尊卑分脈』『系図纂要』にそれぞれ次のような記事が付けられている。

満益持益勝益
『系図纂要』住土佐国土佐守護土佐守護
『尊卑分脈』土佐国守護代土佐守護(代まか)土佐国守護代

 このうち持益については、京兆家分国土佐の守護代在職の明徴があり(56)、勝益の子である政益も永正14(1517)年当時、土佐守護代であったらしい(57)。即ち、頼益流の上野氏からは京兆家内衆と化した者が多く出ていたといえる。
 一方、氏世流に目を移すと、この血統からも京兆家当主との被官関係までは確認できないものの、京兆家との深い関係を窺うことのできる人物が輩出されている。

 《37》『親元日記』寛正六年四月二十八日条

  管領畠山殿御犬追物始於細川殿馬場、二百疋在之、初射手小手也
   管領 細川殿 同讃岐殿 畠山左衛門佐殿 上野美濃殿 貴殿 備州 小笠原民部少輔殿 細川淡路殿 遊佐新右衛門尉 安富又三郎 寺町三郎左衛門尉(後略)(58)

 上記史料に登場する「上野美濃殿」は、『尊卑分脈』『系図纂要』が氏世の子たる氏益の官途を「美乃守」としていることより氏益自身もしくはその子孫である可能性が高い。彼の立場であるが、阿波守護細川成之・淡路守護(細川成春ヵ)とともに「殿」が付けられている点からして、京兆家被官としての立場からの犬追物参加ではなく、細川庶流という立場からの参加であったと考えられる。彼以外にも、氏世流からは京兆家との深い関係を窺わせる人物が出ている。それが氏益の子たる賢氏である。

 《38》「三島家文書」(『愛媛県史』資料編古代・中世、一四〇四号)

   禁制
  右於三嶋大祝在所、軍勢可停止濫妨狼籍乱入者也、仍制札如件

寛正六年五月廿六日 細川賢氏(花押)
三嶋大祝信濃守殿

 上記史料より細川(上野)賢氏は寛正6(1465)年5月、大三島の三島大祝氏の在所に禁制を掲げているのがわかる(59)。この史料《38》をもって賢氏の伊予守護在職の徴証とする向きもあるが、明徴とは言えない。確かなことは、当時伊予国では河野通春の追討が進められていたことである。『愛媛県史』通史編古代U・中世によると、河野通春はそもそも細川勝元の支持を受けて事実上の河野家惣領・伊予守護となっていたが、寛正3年に阿波守護細川成之や南予喜多郡を領有する宇都宮氏と対立するに至り、そのため勝元と河野通春との関係も悪化したらしい。管領畠山政長が発給した寛正6年6月25日付幕府御教書(『吉川家文書』一ノ四七号)の中に「河野伊豫守通春退治事、(中略)合力細川右京大夫代、可被致忠節之由」という一節があることから、河野通春の追討は細川勝元の意向で進められていたと考えてよかろう。河野通春追討には、京兆家分国土佐の守護代である新開遠江守も出張っていたので(60)、「細川右京大夫代」が直ちに賢氏を指すかどうかは不明であるが、史料《38》のように賢氏が伊予国内で禁制を掲げていることから、賢氏が勝元の代理として伊予現地における軍事指揮権を握っていた可能性は高い。また、仮に賢氏が伊予守護であったとしても、補任は勝元の支持によるものに違いなく、いずれにせよ賢氏は勝元の強い信頼を得ていたと推測される。細川一門の中では末流の上野氏の、しかもその嫡流から外れる賢氏が、勝元の信頼を得た経緯は不明であるが、勝元・賢氏の間には単なる惣庶の絆を越えた深い結び付きがあったことは確かであろう。

 以上、上野氏についてまとめると、上野氏は細川氏庶流としての待遇を受ける一方で、当初より一族の中からは備後半国守護家、備中守護家や京兆家の被官と化す者が出ていたと思われる。また分国・分郡を持たない上野氏は京兆家に慢性的に依存せざるを得なかったと思われ、京兆家・上野氏の惣庶の結び付きは強かったと考えられる。上野氏と京兆家との密接な関係は、史料的には前述の薬師寺氏より早くから継続的に確認できるが、備中守護との被官関係を示す徴証は薬師寺氏同様に応永年間の早い段階で途切れている。故に、上野氏が京兆家と備中守護家の紐帯としての役割を、一時的に果たした可能性はあるが、庄氏のように継続的に紐帯になっていたとは明言できない。


   (6)斎藤氏

 斎藤氏は室町時代初頭より多くの幕府奉行人を輩出している氏族である(61)。畠山氏の重臣にもこの姓の者がみられることから(62)、おそらく阿波守護家の項で触れた飯尾氏同様、細川氏や畠山氏の幕府重臣としての活動を通して、被官に取り込まれていったと考えられる。京兆家被官として明徴を残す斎藤氏としては斎藤大和守元右(63)が知られている。
次に掲げる史料が、元右が京兆家被官であることを示す徴証である。管見のところ、この元右以外には京兆家内衆としての斎藤氏は確認できていない。

 《39》「実相寺文書」(『史料』八−一一、六四四頁)

  実相院御門跡領摂津国岸辺村内正木庄事、一乱以来有押領族云々、甚無謂、早退彼妨如元可被沙汰付御門跡雑掌之由候也、仍執達如件

九月三日 <文明十一> 元右(花押)
薬師寺備後守殿

 斎藤元右は守護(京兆家当主)の意を受けた奉書を単独で発給していることから、一見摂津守護代とも思われるが、宛人の薬師寺備後守元長が文明3(1471)年10月から文亀元(1501)年12月まで摂津守護代在職の徴証を残している人物であるので(64)、斎藤元右の立場は在京の京兆家奉行人とするのが妥当である(65)。
 一方、備中守護家被官としての斎藤氏も多くを確認できない。本項の(1)庄氏に関する考察で、庄右京亮が備中守護代であることを示す徴証として挙げた奉書(史料《25》)の発給者たる斎藤基敦(注41参照)が、管見のところ備中守護家被官として確認できる斎藤氏としては唯一の人物である。立場については本項の(3)有岡氏に関する考察で既に触れたが、在京奉行人であろう。

 以上より、斎藤氏は備中守護家・京兆家双方に在京の有力被官を輩出した氏族といえるが、それが継続的であったかどうかは不明である。史料的に確認される細川氏被官は斎藤基敦と斎藤元右の両名であり、彼らの活動時期には年代的に軽視できないずれがあるため、かつ彼らが血縁的に近いか否かも不明であるため、この斎藤氏が両家の紐帯になりえたとは現時点では明言できない。ここでは、その可能性を指摘するにとどめる。


第2章第2節−注