細川氏一門の守護支配と京兆家
第2章第2節

第二章  細川氏一門の同族連合体制の展開


第二節 京兆家と庶流家の紐帯

 同族連合体制は一門の結合を維持するための装置が存在しなければ、やがて結合は弛緩し解体することになる。細川氏の場合、京兆家が同族連合体制の構築・維持に成功したのは、各庶流家分国において京兆家の統制システムが機能していたからであろう。次にそのシステムについて考察する。まず、守護の領国支配にとって重要な権力基盤となっていたものとして次の3つを挙げることができる。

  1. 権限的基盤として、幕府より公認された守護職権(段銭徴集権・使節遵行権等)
  2. 経済的基盤・領域的支配の根拠地としての広義の守護領
  3. 政務を補佐する人的基盤・軍事的基盤としての内衆(近臣団)
 これらはいずれも守護領国制を維持するためには重要だったといえるが、このうち、京兆家の関与する余地が最もあるのは、3.の内衆であると考えられる。内衆には在京の奉行人クラスの被官及び守護代クラスの被官が含まれる。本稿では各庶流家の内衆を通じて京兆家が庶流守護家を統制していたのではないかという仮説に立ち、これ以後各庶流家の内衆について、個々に検討していきたいと思う。

 実際、各庶流守護家の内衆について検討すると、京兆家内衆と確認される人物と同姓者が多いことに気付かされる。かといって、同姓であっても京兆家にはその氏族の嫡流家が被官を輩出し、庶流守護家にはその氏族の庶流家が被官を輩出するというように完全に分離し、庶流守護家内衆と京兆家内衆の間に同姓でも同族意識がないとすれば、紐帯(京兆家の庶流統制のためのパイプ)の役割は果たせないだろう。そこでまず次の史料を提示したい。

 《1》『蔭凉軒日録』長享三年八月十二日条

  (前略)又香西党太多衆也、相傳云、藤家七千人、自余諸侍不及之、牟礼鴨井行吉等、亦皆香西一姓者也、只今亦於京都相集、則三百人許有之乎云々、(後略)

 上記史料に登場する香西氏は、京兆家分国丹波の在京守護代となった香西豊前入道常建をはじめ京兆家内衆を多数輩出する一方で、並行して和泉下守護家にも庶流の香西藤井将監を内衆(在京守護代)として輩出していた氏族であり、京兆家と和泉下守護家の紐帯となりえた氏族として捉えられる( 1)。この香西氏一門が、翌日に京兆家主催の犬追物を控えた長享3(1489)年8月12日時点で、京都に参集していることを上記史料は示している。実際、犬追物に射手として参加したのは香西又六・牟礼次郎・香西五郎左衛門尉の3名だけであるが( 2)、香西氏が京兆家主催の犬追物を一門全体の同族意識確認の機会としていたのではないかと推察される。また『蔭凉軒日録』の筆者亀泉集証が、「香西党」として認識するほどの一体性が香西氏一門にはあったこともこの史料より窺える。おそらく他氏でもこのような同族意識の確認の場はあったのではないかと考える。

 次に、下記の2つの史料に登場する飯尾備中入道の立場について注目したい。

 《2》『満済准后日記』応永三十四年十一月六日条

  (前略)今日可入寺處、自細河典厩陣使者飯尾備中入道上洛、今夜可来由内々申入間罷留了、飯尾備中入道及夜陰来申、自典厩書状在之、御旗可申出由細河讃岐守方へ申入也、内内可得其意、次ニ播州事以外猛勢、(後略)

 《3》同書、正長二年七月十三日条

  (前略)自細川右京大夫方飯尾備中入道為使者、風気體以外散々體候也、(後略)

 応永34(1427)年、赤松満祐の所領を将軍義持が赤松持貞に付与したことに満祐は怒り、邸宅に放火して本国播磨に下国した。幕府は満祐の追討を細川典厩(持賢)らに命令したが、その細川持賢の陣より満済の元に使者として派遣されたのが、飯尾備中入道であることが史料《2》よりわかる。ところが史料《3》をみると、正長2(1429)年7月13日に飯尾備中入道は、今度は細川右京大夫(持元、翌日死亡)方の使者として、持元の病状を満済に告げているのがわかる。史料《2》と《3》の間のタイム・ラグはわずかに2年足らずであり、これらの史料に登場する「飯尾備中入道」は同一人物とみてよかろう。管領など幕府の要職に就いている場合には、幕府奉行人を使者等に使用することもあるので( 3)、直ちに使者=被官とすることはできないが、細川持賢も細川持元も当時幕府奉行人を私的に使用できるような立場にはなく、飯尾備中入道は応永34年の時点では細川庶流の典厩家被官、その2年後には京兆家被官に転じたと解釈するのが妥当であると考える。この飯尾備中入道のように細川氏一門の中で主家を途中で変更した被官は他にもある。次に挙げる庄出雲入道貞光( 4)もその例とできるのではないか。

 《4》『康富記』文安四年十二月二日条

  (前略)又参典厩屋形、此事可被御意得之由令申之處、返答云、可意得申云々、奏者庄出雲入道也、即帰参此由申、退出了、(後略)

 《5》『九条家』一七〇九(8)

  東福寺領上原庄内闕所分名田等事、被預置石川豊前入道候、早下地ぉ可被渡付彼代之由候也、仍而執達如件

二月十六日  宝徳弐道賀 在判
 氏性 在判

   庄出雲入道殿

   石川備前入道殿

 上記の史料《4》より、庄出雲入道は文安4(1447)年の時点では典厩家被官であった可能性が高い。一方、史料《5》は守護自身の命令を下達している点及び連署形式になっている点より、宝徳2(1450)年の時点で庄道賀・氏性は備中守護家奉行人であり、庄出雲入道は石川備前入道昌秀( 4)とともに備中守護代であると考えられる。史料《4》と史料《5》の間のタイム・ラグも2年余りであり、これらの史料に登場する「庄出雲入道」は同一人物の可能性が高い。とすると、庄出雲入道は典厩家被官から備中守護代に転じたことになる。

 以上、飯尾備中入道・庄出雲入道の事例より、細川氏一門の内衆は京兆家・庶流家の間で被官関係を流動的に変更するケースがあり、彼らのような存在によって京兆家内衆と庶流家内衆の同姓者の同族的結合は強化されたと考えられる。


  1 阿波守護家

 これ以後は、細川氏一門のうち分国もしくは分郡を有する主要な庶流家の在京被官もしくは守護代級の被官について注目し、京兆家内衆にも同姓者のある氏族を、京兆家・庶流家の紐帯になりえた氏族として挙げていきたいと思う。特に、同姓の庶流家内衆と京兆家内衆がほぼ同時期にともに在京している場合、両者は緊密な同族的結合が維持できる状況にあったといえ、紐帯としての役割を果たしやすかったと考えられるので特に注意する。

 まずは阿波守護家(讃州家)である。第1章第2節第2項(今回は載せない)で述べたように阿波守護家は細川義之(頼之の甥)に始まる。阿波守護家当主は幕府の重臣会議にも度々列席し、文安年間には細川持常が庶流としては唯一御相伴衆に列せられる( 6)など幕政にも関与した有力守護大名家である。細川庶流家の中では第一の家格を有していたといってよい。その阿波守護家内衆で、京兆家内衆と同姓者が確認できるのは、(1)飯尾氏と(2)清氏である。両氏はともに幕府奉行人を多く輩出している、いわば伝統的な官僚氏族であり、とくに前者は斯波氏の内衆にも見られることより(後掲史料《8》参照)、京兆家当主の管領としての活動を通じて、京兆家に被官化した可能性が高い。

   (1)飯尾氏

 京兆家内衆の飯尾氏として最初に確認できるのは、明徳3(1392)年8月28日の相国寺慶讃供養に頼元「郎党二十三騎」の一人として随った飯尾善六長尚である( 7)。彼以外にも、先に触れた飯尾備中入道・飯尾善左衛門(史料《6》)・飯尾彦左衛門尉( 8)(史料《7》)・飯尾備前入道常勇( 9)(史料《8》)・飯尾六郎左衛門尉(史料《9》)・飯尾備前入道常暹(10)(史料《10》)・飯尾六郎右衛門(尉)家兼(11)らが京兆家内衆として確認される。

 《6》『満済准后日記』正長二年七月十四日条

  (前略)細川右京大夫今日申終他界、<生年三十一歳也、>天下重人也、(中略)今朝自右京大夫方、飯尾善左衛門為使者参申入、祈祷供料五千疋持参、尤可返遣處、(後略)

 《7》「東寺百合文書」ハ函(『兵庫県史』史料編中世六ノ五二四号)−以下、「百合」ハ(『兵庫』中世六−五二四)の如く略記−

  東寺領丹波国大山庄造 内宮役夫工米事、先々被免許之上者、可被止催促之由、所被仰下也、仍執達如件

永享二年十一月日肥前守(花押)
 加賀守(花押)
 摂津頭(花押)

     飯尾彦左衛門尉殿

 《8》『満済准后日記』永享四年正月二十五日条

  (前略)将軍渡御壇所、九州事大名意見、各可被注進之由申付了、今日申初悉到来、両奉行<飯尾肥前守・同大和守、>参壇所、諸大名申詞請取之、肥前加銘、管領使者両人<甲斐美濃守飯尾美作、>(中略)細河右京兆使二人<安富筑後守・飯尾備前入道、>(中略)以上大名七人意見御尋分、両奉行自壇所直参御前披露了、(後略)

 《9》『建内記』嘉吉元年十一月二十七日条

  (前略)今夜向管領、對面、御厨子所率分御教書拝領祝着之子細謝之、太刀<金覆輪 >・折帋<千疋、追可送之 >出之、申次<飯尾六郎左衛門尉>置彼前了、(後略)

 《10》同書、文安四年九月二十七日条

  (前略)今夜向管領宿所、先向典厩許、就南都事談合之由通案内之処、只今在管領方、罷帰可懸御目之処、公事篇於于今者管領直可承之由申了、仍密々御出管領許、可目出候、申次者可仰含候云々、仍向管領許了、飯尾備前入道・有岡入道出逢云、御出畏入候何様可懸御目候、先可蒙仰云々、(後略)

 一方、阿波守護家内衆として最初に確認される飯尾氏としては、飯尾六郎左衛門尉頼連(12)(史料《11》)がいる。彼以外にも飯尾因幡守久連(因幡入道真覚)(13)(史料《12》)や彼の子である飯尾彦六(14)(史料《13》)、及び飯尾善次郎(史料《14》)、飯尾次郎左衛門尉(史料《15》)らが阿波守護家内衆として確認される。

 《11》『石清水文書』一ノ二〇二号

  八幡宮雑掌申阿波國櫛淵庄領家職内、公文田所両職事、任被仰之旨、不日可被沙汰社家雑掌之由候也、仍執達如件

應永七年十一月三日左衛門尉頼連(花押)
佐々木壹岐入道殿
武田近江入道殿

 《12》「地蔵院文書」(大山喬平編『細川頼之と西山地蔵院文書』恩文閣出版 昭和63年)

   □申料石事
   合参拾貫文者
  右料足者、為公方様御一献並御礼物等、自屋形所被借申候也、但毎月貫別加参拾文宛利分、当院領段銭以当年内分、本利悉可有返弁由、被成奉書之上者、不可有無沙汰之儀候、仍借状如件

嘉吉元年五月三日 清孫右衛門尉
常連(花押)
飯尾因幡守
久連(花押)

      地蔵院 納所禅師

 《13》『建内記』嘉吉元年十月二十九日条

  (前略)細川讃岐守持常送使、<飯尾彦六云々、因幡子也、>先日罷向礼云々、給太刀、謁使者謝了、國衙年貢成就院無沙汰事、以次示之、堅仰遣云々、(後略)

 《14》『親元日記』寛正六年正月十日条

  (前略)細川讃岐殿海月一桶<大 >千疋<折紙 >御使<飯尾善次郎>(後略)

 《15》同書、文明十三年四月二十五日条

   一細川兵卩少輔殿より
    鯛十 かさめ一折<廿五>くらけ一桶 飯尾次郎左衛門尉
     但此三種ハ廿六日ニ被納之

 以上の検討より、飯尾氏は京兆家・阿波守護家双方に内衆を輩出し、その活動が確認できる期間も重なっていることから、両家の紐帯となりえた氏族として位置付けることができる。京兆家は被官である飯尾氏を通じて、直接的には被官ではない阿波守護家内衆の飯尾氏に影響力を及ぼし、阿波守護家の統制に一役買わせることも可能だったのである。


   (2)清氏

 小川信氏の前掲『足利一門守護発展史の研究』353頁によると、清氏は清原氏の流れをくみ、その一族は鎌倉幕府の奉行人・評定衆・引付衆としての所見がある。室町時代に入ってからも飯尾氏ほど頻繁ではないものの、幕府奉行人を輩出する。よって清氏も飯尾氏同様、細川氏の管領としての活動を契機に、幕府奉行人の清氏の一族から京兆家内衆となる者が出た可能性は高いと考えられる。清氏は「相国寺供養記」の頼元「郎党二十三騎」の中にはその名がなく、幕府奉行人から京兆家内衆に転じた可能性のある氏族の中では、比較的被官化が遅かった可能性もあるが、翌明徳4(1393)年には次の史料《16》のように清具知の京兆家内衆としての活動が見られるようになるので(15)、「頼元郎党二十三騎」の中に清氏がいないことは重要視する必要はないと思われる。清具知以外では清七郎入道(史料《17》)・清備前守為久(史料《18》)・清孫左衛門尉(16)(史料《19》)らを京兆家内衆として確認できる。

 《16》「百合」ノ(『兵庫』中世六−三二二)

  守護書下□<案>
  東寺領丹波国大山庄領家方段銭事、可被閣之由候也、恐□謹言

明徳四せい
六月十二日具知  判
小笠原備後守殿

 《17》応永十五年「最勝光院方評定引付」六月十九日条(「百合」る二三〈『岡山』家七〇二〉)

   (前略)
  一、新見代官職事
   左京大夫入道内奉行清□□入道望申之由、高井法眼執申之間、披露候処、先立既令治定之上者条之上者、於于今不可契之由、可返事云々、

 《18》『東寺文書』六ノ二七二号

  「細川右京大夫殿奉書案」
  寒川出羽守申山城國上久世庄公文職事、為本領之上者、任支證之旨、被成補任候者、可令悦喜之由候、恐々謹言

享徳参清備前守
九月三十日 為久 判

    東寺雑掌御坊

 《19》『蔭凉軒日録』文明十八年十一月二十七日条

  (前略)就八條遍昭院堯光訴訟之事、自細川九郎殿以香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉両使云、早々可預披露云々、愚在茂叔寮不對面、(後略)

 清氏は阿波守護家内衆としての初見は飯尾氏に比べて遅い。阿波守護が義之・満久の時代には清氏の活動は確認できず、次の持常の代に阿波守護家被官としての清孫右衛門尉常連の活動が見られる(17)。即ち飯尾氏と異なり、清氏は京兆家内衆としての登場と阿波守護家内衆としての登場にタイム・ラグがある。加えて飯尾氏とは異なり、清氏は阿波を本拠地とする氏族ではなく、阿波守護家と清氏の直接的な接点が見当らない。よって清氏の転化は「幕府奉行人→京兆家の内衆→阿波守護家の内衆」という流れを辿った可能性がある。尚、清孫右衛門尉常連以外では、清三郎左衛門尉を阿波守護家内衆として確認できる(史料《20》)。

 《20》「細川三好両家消息」(小杉榲邨氏編前掲『阿波国徴古雑抄』308頁)   阿州三郡御風呂銭事、本員数令承了、細々可懃其役之旨、清三郎左衛門尉被仰付訖、其分所々可被相触之由也、仍執達如件

      二月廿四日<寛正六>   真覚(花押)

        三好式部少輔殿

 以上より清氏も、京兆家内衆・阿波守護家内衆を並行して輩出していた可能性が高く、概ね在京したと考えられる彼らは、日頃より同族としての結びつきを維持していたと推察される。そしてその事が、京兆家にとっては阿波守護家内衆に直結するパイプを有することにつながり、このパイプを利用して、阿波の領国支配に頭越しの影響力を及ぼし得たと考える。


第2章第2節−注